最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●海水55分間注入中断問題

2011-05-27 06:32:57 | 日記
【福島原発事故・5月27日】

●「私はいったいなんだったのか」

 今は、責任問題を論じているばあいではない!
1号機だけならまだしも、2号機、3号機、4号機、すべてがメルトダウンしている。
とくに3号機があぶない。
MOX燃料を使っている。
にもかかわらず、1号機の55分間の海水中断がどうのこうの、
それがだれの命令によるものかどうのこうの、
首相はウソを言っているかどうのこうの、と、
そんなレベルで、政治家たちは大騒ぎしている!

火事はまだ延焼中。
ボーボーと燃えさかっている。
その最中に、放水を中断したのはだれかと騒ぐようなもの。
まず火を消せ! 
責任問題は、そのあと!

が、だれも中断など、していなかった。
結局は自民党と原子力安全委員会のHH委員長の、ひとり芝居だった
日本経済新聞は、つぎのように伝える(5月26日)。

「『私はいったいなんだったのか』……福島第1原発1号機への海水注入をめぐる問題で、東京電力が実際は注入を続けていたと一転して発表したことを受け、原子力安全委員会のHH委員長は26日、「中断がなかったのなら、私はいったい何だったのか」などと不信感をあらわにした」(日本経済新聞)と。

 「私はいったいなんだったのか」って? 
答は簡単。
「ただのバカだった」。

●現実検証能力

 今、私たちは、いったいどういう状況に置かれているか。
それを知る能力が、現実検証能力。
が、ただ客観的に知るだけでは足りない。
ことの大小が、的確に判断できなければならない。
ことの軽重が、的確に判断できなければならない。
そういうことが総合的に判断できて、はじめて、現実検証能力があるということになる。

 が、今回の「中断騒動」には、それがなかった。
55分間の海水中断があったにせよ、あるいはなかったにせよ、今は、全力を投じて
事故処理に専念すべきとき。
被災者の人たちの救援に全力を尽くすべきとき。
先にも書いたように、火事は目下、延焼中。
東京電力や原子力安全保安院は、さかんに「安定(stable)」という言葉を使って、私たち
を煙に巻こうとしている。
「原発は安定しています」と。

しかし新聞記事を読んだだけでも、それがウソとわかる。
問題は、何も解決していない。
むしろ日々に新たな問題が生まれ、日々に状況は悪化している(5月27日現在)。

 たとえばその近辺の学校では、表土を取り除き、すでに「除染?」を始めている。
気持ちはわかるが、まだ早い。
今の今も、放射性物質は、放出されたまま。
放射性物質は、この先も、どんどんと降り積もっていく。
雪かきの「雪」とは、訳がちがう。

●55分間の中断

 何も「55分間の中断」が、ささいな問題だったと言っているのではない。
それはそれで大きな問題かもしれない。
が、現在、起こりつつある問題は、それをはるかにしのぐほど、深刻かつ重大な問題。
仮に1号機について、55分間の中断があったにせよ、そのときすでに1号機とは
関係なく、2号機、3号機、それに4号機すべてが同時におかしくなり始めていた。
自民党やHH委員長は、「55分間の中断があったこと」が、あたかもすべての原因
であるかのような論陣を張り、管首相を追い落とそうとしていた。
が、繰り返すが、今は、そんな時ではない。

 仮に3号機が爆発でもしたら、そのとき、この日本はどうなるか。
それを少しでも頭の中で、想像してみればよい。
燃えたプルトニウムの微細粉末が、全国に散らばる。
「プルトニウムは比重が重いから(比重=19)、飛び散らない」と説く人もいる。
しかし1ミクロン(大腸菌とほぼ同じ)の微細粉末である。
地球の重力が、そこらの金属棒と同じように働くと考えるほうがおかしい。

 そのたった一個(ホット・パーティクル)でも体内に入れば、そこで内部被爆。
確実にがんを引き起こす。
「毒性がきわめて強い」というのは、そういう意味。

 そういう判断も的確にできないから、ここで「バカ」という言葉を使った。

●イタチごっこ

 このところこの浜松市へ、福島県のみならず、東京や千葉県から疎開してくる人が、
目立ってきた。
昨日も、「福島県から転校してきた子がいる」と話してくれた子ども(小2)がいた。
あるいは一度は福島県から千葉県へ疎開したものの、さらにその千葉県から浜松市へ
再疎開してきた人もいるという。
たまたま参観に来ていたSさんが、そう話してくれた。

 いくら「安定」という言葉を使っても、だれも安定しているとは思っていない。
現に放射性物質は、垂れ流し状態。
「貯蔵タンクが満杯になってしまった」と言っていたら、今度は「そのタンクに穴が
空いていた」と。
毎日がこの繰り返し。
つまりイタチごっこ。
私が現場で働いている作業員なら、とっくの昔にサジを投げてしまっていただろう。
つまり原子力発電所事故の恐ろしさは、ここにある。

 一度事故が発生すると、ドミノ倒しのドミノのように、つぎつぎと問題が発生していく。
が、問題はそのとき起こる。
それぞれのばあいに応じて、対策が用意されていれば、まだよい。
が、その対策が用意されていない。
用意されていないから、また別の新たな問題が発生していく。

 3号機についても、格納容器は鋼鉄製というが、配管などはゴム製のパッキングで
つながれているという。
格納容器そのものが熱に強くても、ゴムはそうでない。
そのゴムが溶けて、そこから高濃度の放射性物質が飛び出る。
が、そうなったら、もう打つ手はない。
(すでに溶け始めているが……。)

相手は超高濃度の放射性物質である。
現在2シーベルト前後の放射線が観測されているというが、10シーベルトの
放射線に当たれば、人間は即死状態になるという。

●敦賀原発

 選挙のとき政治家たちは、みなこう言う。
「命をかけて……します」と。
ならば今がそのとき。
地元の政治家たちは、どうか命をかけて、福島の事故現場へ駆けつけてほしい。
……というのは、言い過ぎと言うことは、よくわかっている。
政治家たちは、言葉のアヤとして、選挙のときだけ、そう言っているに過ぎない。

 しかし驚いたのは、こういう状況を目の当たりに見ながらも、まだ原発を擁護している
政治家がいるということ。
昨日(5月26日)見た、NHKの報道の中でも、そう言っている政治家がいた。
「原発は必要です」(敦賀市長)と。
ならば今、一筆、書いておいてほしい。
「事故にあっても、私たちは『国が……』『国が……』などと泣き言を言いません」と。
ずいぶんと辛らつな言い方に聞こえるかもしれない。
しかし実際、福島の事故現場で働いている作業員の方たちは、仕事に就く前に、こんな
念書を書かされているという。
「将来、放射線障害が現れても、(東電に対して)、責任を追及いたしません」と。

 番組の中では、鍵職人の男性も紹介されていた。
その男性も、「もし原発がなくなったら、私たちは別の県へ引っ越すしかありません」
(以上、記憶によるものなので、内容は不正確)と言っていた。
が、私にはその言葉が、こう聞こえた。
「原発事故が起き、強制避難が命じられても、私は文句を言いません」と。

●石棺化

 最終的には、チェルノブイリ事故のように、石棺化するしかないのか。
今の状況を見るかぎり、そういう心配は、ぬぐえない。
もちろん石棺化したからといって、それで問題が解決するというわけではない。
25年たった今ですら、チェルノブイリでは、その問題で苦しんでいる。 

 ……だったらというわけでもないが、つまりそういう可能性もあるなら、今すぐ、
何十万トン、あるいは何百万トンというコンクリートを用意しておくべきではないのか。
ブルドーザーにしても、何百台も並べておいたらよい。
つまりそこまでしてはじめて、「対策」ということになる。
それもしないで、その場しのぎのことばかりしているから、事故は拡大する。
今の今が、そうだ。

 もし政府に責められるべき点があるとするなら、まさしくこの点ということになる。
「だれかが何とかするだろう」と、責任を押しつけあっている。
おかしな楽観論が蔓延している。
あるいは「まだ、何とかなる」と、あえてそこにある事実から、目をそらそうとしている。
たとえば敦賀市長は、たしかこう言っていた。

「日本には原発は必要です」と。

 記憶によるものなので、言葉は不正確。
しかし私には、敦賀市長がそこまで高邁な国家論をもっているようには、見えなかった。
「日本には……」ではなく、「敦賀には……」ではないのか。
それとも「私には……」ではないのか。
「敦賀が、日本国の発展のために犠牲になってもいい」というような、そんな高邁な
精神は、私にはとても感じられなかった。

 が、もし敦賀市長に、ほんの少しでも現実検証能力があったら、とてもこんな言葉は
出てこなかったはず。
さらに一言。
NHKの報道では、飛行機事故を想定していた。
飛行機が原発に衝突したら、そうなるか、と。
が、それよりも心配なのは、テロ。
武力攻撃。

 もし敦賀にたった一発でも、K国のミサイルが撃ち込まれたら、それこそこの日本は
万事休す。
全滅。
そういう国際感覚はあるのか?
つまりそのあたりまで検証する能力があってはじめて、現実検証能力あり、という
ことになる。

 ともかくも今は、国家の存亡をかけた、一大危急時。
些細な問題はさておき、今そこにある危機と闘うしかない。
「現実」を原点として、つぎの対策を考えるしかない。
責任問題、原因追及は、つぎのつぎ。

あろうことか、民主党内部では、政権抗争が激化しているという。
バカげているというか、開いた口が塞がらない。
日本の政治のレベルがここまで低いとは、正直に告白するが、私は思っていなかった。
その一例が、今回の「55分間の海水注水中断劇」ということになる。
2011/05/27朝記


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【小学1年生と2年生に、「形」を教える】

●同じ教材を使って、小学1年生と2年生に「形」を教えてみました。
 反応のちがいなど、比較してくださると、この時期の子どもの発達の様子が
 わかっていただけるのではないでしょうか。

(小1クラス)


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●ケチンボウ

2011-05-27 03:53:59 | 日記
●おかしな日本語



 最近、子どもたちの日本語が、おかしい。本当に、おかしい。昨日も、小4のクラスで、

こう言った子どもがいた。



 「先生、終わったら、どうするのですか?」と。



 その子ども(女の子、Oさん)は、「先生、今やっている問題が終わったら、私は何をし

たらいいですか?」という意味で、私にそう言った。それはわかる。しかし、何という、

日本語!



 そこですかさず、私はこう言ってやった。



 「あのね、先生が死んだら、葬式でもしてくれれば、先生は、うれしいよ。でも、まだ

ぼくは、終わらないよ。元気で、ピンピンしているからね」と。



 すると、このところやや反抗的な様子を見せ始めているKさんが、こう言った。「先生は、

ふざけてばかりいる」と。



私「何も、ふざけていないよ。君たちの話す日本語がおかしいから、そう言っているだけ

だよ。もう少し、きちんとした日本語を話してほしいからね」と。



 そこで私は、いくつかの例を出してやった。



 「たとえば、『今日、学校、ある』と言うだろ。それだって、『今日は、学校は、休みで

はありません。授業があります』と言うべきだ。学校が、消えたり、現われたりするわけ

ないからね。



 ほかに、夏になると、『今日、プールがあった』と言う子どもがいる。しかしそのばあい

でも、『今日は、水泳の授業があった』というべきだ。プールが、消えたり、現われたりす

るわけではないからね」と。



 さらにこんな例も出して説明してやった。



 「よく、『先生、オシッコ!』という子どもがいる。そういうときは、ぼくは、『先生は、

オシッコではない。人間だ』と言ってやるよ。いいかな、そういうときは、『私は、トイレ

に行きたいです』と言わなくてはいけない」と。



 すると、最初の女の子が、ムキになった。「そんな言い方、いちいちしないわよ。それに

今は、国語の時間ではない! 私は算数が勉強したいの。よけいなこと、教えないでよ!」

と。



私「国語の時間ではない、だって? 算数だって、国語の一部だよ。計算問題だけが、算

数ではない。文章で書かれた問題を解くのが、算数だよ。それは君のまちがいだよ」と。

Oさん「だって、意味が通ずれば、いいじゃん」

私「しかしそんな話し方ばかりしていると、文章が書けなくなるよ。たとえば、『これは私

の学校』などと、外国の人に言ってごらん。その外国の人は、びっくりするよ。『これは、

君の学校か』ってね。そういうときでも、『これは、私が通っている学校です』と言う。正

しくはね」と。



 英語の世界では、日本語の世界とは反対に、単語だけの会話を、たいへん、嫌う。たと

えば、「何、食べる?」「うん、ラーメン」という言い方は、英語では、しない。英語では、

「あなたは、何を食べたいですか?」「私は、ラーメンを食べたいです」と言う。きちんと

した文章で会話をするのが、ふつう。ふつうというより、当たり前。



 単語だけ並べて会話をすると、大学教育の場では、すかさず、注意される。「あなたは、

文章(センテンス)で、会話をしなさい!」と。ふつうの世界でも、単語だけで応答した

りすると、「学のない人」と、判断される。



 日本語は日本語と、居なおるのもよいが、少なくとも、正しい言い方とは、ほど遠い。

その(ほど遠い)状態で、日本語そのものが、ますます、おかしくなってきている。よい

例が、バラエティ番組に出てくる若者たちの会話である。



 「ドヒャー、ヤルー!」

 「スゲエ~。オレもイッチョ、ヤッカ~」

 「アホッ、オマエ、アホカ?」と。



 そしてKさんには、こう言った。



 「君は、小説を書いているね。小説を書く人は、日ごろから、正しい言い方を身につけ

ておかなくてはいけない。でないとね、意味のわからない日本語を書くことになるよ。自

分だけわかればいいという文章は、文章ではないよ」と。



 そして最後に、こう言った。「今、ぼくが言っていることが、まちがっていると思う人は、

即刻、この教室から出て行きなさい!」と。



 とたん、クラスは、シーンとした。そして、いつものレッスンがまた、始まった。



【追記】



 その翌日のこと。またまた、こんなハプニングがあった。



 このあたりでは、「ケチ」のことを、「ケチンボウ」という。おかしな日本語だ。どうや

ら方言のようなものらしい。



 しかし、それにしても……!



 その言葉を、今日、小5のOさんが、使った。何かの拍子に、Oさんが、「先生は、ケチ

ンボウね」と。



 あまりの言葉に、瞬間、息が止まった。そしてこう言った。「もちろん、毛・チン棒だよ」

と。



 とたん、クラス中が、爆笑のウズで埋まった。私も、「ますい」「まずい」と思いながら

も、そのウズに巻きこまれてしまった。



私「あのねえ、若い、君のような女性が、口に出して使うような言葉じゃ、ないよ」

O「どうして、だめなの?」

私「その言葉は、セクハラ言葉だよ」

O「ケチンボウがア……?」

私「ほら、また、使ったア!」と。



 ワハハハ、ゲラゲラ、ワハハハ……。



O「でもね、ママに、ケチンボウと言っても、ママは、笑わないわよ」

私「もういいから、その言葉を使ってはだめ!」

O「どうしてダメなの?」

私「もう、いいから、その言葉を忘れて勉強しなさい!」

O「先生は、考えすぎよ」と。



 あとで家に帰ってから、そのことをワイフに話すと、ワイフも、こう言った。「あら、浜

松の人なら、みな、その言葉を使うわよ」と。



 それにしても、ギョッとする言葉ではないか。浜松の人には、それがわからないかもし

れないが……。