最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

1/3 マガジン過去版(2003年10月より)

2011-05-14 10:10:04 | 日記
彡彡人ミミ     (λハハλ ヽ    ♪♪♪……  
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m  皆さん、お元気ですか!
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M ″ v ゛)/ ̄)    このマガジンを購読してくださり、
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /       ありがとうございます!
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄    
 ===○=======○====KW(8)
★ ★★★★★★★★★★★★★
03-10-21号(305)
★ ★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
ホームページの中の、キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワードです! 
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
●マガジンの購読申し込みは……
http://www.emaga.com/info/hhayashi2.html
●マガジンのバックナンバーは、
http://www.emaga.com/bn/list.cgi?code=hhayashi2
(横に長すぎて読みにくいときは、一度ワードにコピーしてからお読みください。)
●また、本文がつまっていて読みにくいときは、やはり一度ワードにコピーしていただくと、ぐんと読みやすくなります。お試しください。
●今日のメニュー●

★子育てポイント
★心に触れる
★特集
★フォーラム

      Z  MMMMM
       Z ⌒    |
         し  p |    このマガジンを、ご購読くださり、
        (。″  _)     ありがとうございます!
          ┌厂\
  / ̄○○○ ̄√\|│r\
 / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ξ匚ヽ」 )
/  #   #   /( ̄ ̄乃
\____#_____/ ̄ ̄

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞upto715

それ以上、何を望むか

 法句経(ほっくぎょう)にこんな説話がある。あるとき一人の男が釈迦のところへ来て、こう言う。

「釈迦よ、私は死ぬのがこわい。どうしたらこの恐怖から逃れることができるか」と。それに答えて釈迦はこう言う。「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。

 これまで多くの親たちが、こう言った。「私は子育てで失敗しました。どうしたらいいか」と。そういう親に出会うたびに、私は心の中でこう思う。「今まで子育てをじゅうぶん楽しんだではないか。それ以上、何を望むのか」と。

 子育てはたいへんだ。こんな報告もある。東京都精神医学総合研究所の妹尾栄一氏に調査によると、自分の子どもを「気が合わない」と感じている母親は、七%。そしてその大半が何らかの形で虐待しているという。

「愛情面で自分の母親とのきずなが弱かった母親ほど、虐待に走る傾向があり、虐待の世代連鎖もうかがえる」とも。

七%という数字が大きいか小さいか、評価の分かれるところだが、しかし子育てというのは、それ自体大きな苦労をともなうものであることには違いない。言いかえると楽な子育てというのは、そもそもない。またそういう前提で考えるほうが正しい。いや、中には子どものできがよく、「子育てがこんなに楽でいいものか」と思っている人もいる。しかしそういう人は、きわめて稀だ。

 ……と書きながら、一方で、私はこう思う。もし私に子どもがいなければ、私の人生は何とつまらないものであったか、と。人生はドラマであり、そのドラマに価値があるとするなら、子どもは私という親に、まさにそのドラマを提供してくれた。

たとえば子どものほしそうなものを手に入れたとき、私は子どもたちの喜ぶ顔が早く見たくて、家路を急いだことが何度かある。もちろん悲しいことも苦しいこともあったが、それはそれとして、子どもたちは私に生きる目標を与えてくれた。

もし私の家族が私と女房だけだったら、私はこうまでがんばらなかっただろう。その証拠に、息子たちがほとんど巣立ってしまった今、人生そのものが終わってしまったかのような感じがする。あるいはそれまで考えたこともなかった「老後」が、どんとやってくる。今でもいろいろ問題はあるが、しかしさらに別の心で、子どもたちに感謝しているのも事実だ。「お前たちのおかげで、私の人生は楽しかったよ」と。

 ……だから、子育てに失敗などない。絶対にない。今まで楽しかったことだけを考えて、前に進めばよい。
 
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司 

己こそ、己のよるべ

 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。法句経というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。釈迦は、「自分こそが、自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。つまり「自分のことは自分でせよ」と教えている。

 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、もともと「自らに由る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。子育ての基本は、この「自由」にある。

 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれるタイプの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。

私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」と。

 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を変えて、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。ある母親は今の夫といやいや結婚した。だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになったら、あなたは、ちゃんとできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。

 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるいは自分で行動させない。いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面での過保護。「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護(ひご)のもとだけで子育てをするなど。子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室育ち」というタイプの子どもになる。外へ出すと、すぐ風邪をひく。

 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がない。自分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親はこう言った。「子ども同士が喧嘩をしているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを殴り飛ばしたい衝動にかられます」と。

また別の母親は、自分の息子(中二)が傷害事件をひき起こし補導されたときのこと。警察で最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。たまたまその場に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机を叩いたりして、手がつけられなかった」と話してくれた。

 己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。

    ミ ( ⌒⌒ ) 彡
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
    ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
     ○  ヽ ABC ○
   ̄ ̄ ̄ヽ  ヽ    ヽ ̄ ̄ ̄    何か、テーマがあれば、
       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄        掲示板にお書き込みください。
【2】心に触れる(Touch your Heart)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞691

山荘にて……

やわらかに時は流れ、
窓から差し込む、白い光は、
ゆるやかにカーテンを、揺らす。

ここちよい眠けが、体を溶かし、
目を閉じれば、そのまま夢の世界。
無数の面影が、まぶたを横切る。

時は、今は、モーツアルト。
ピアノ協奏曲二一番ハ長調が終わり、
つづいて、二三番イ長調……。

おだやかなひととき、
ふと、思うのは、あなたのこと、
あなたは、今、どこで何を思う。

あのとき、ぼくは、あなたの、
最後の願いを振り切って、ドアを閉めた。
理由にもならないような言い訳を口にして……。

人生は、切なさのかたまり。
その切なさを、ひとつずつかみしめながら、
何度も、ため息まじりに、過去をながめる。

ふと気がつくと、そこには秋の冷気。
椅子にかかったタオルを引き寄せる。
その中に、さらに深く身を沈める。

遠くで小鳥が鳴いた。カラスも鳴いた。
それを心のどこかで聞きながら、意識が遠のく。
やがてぼくは、深い、深い夢の中……。
(031012)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

離婚の危機

 私たち夫婦も、何度か、離婚の危機を迎えたことがある。決して、安穏(あんのん)な結婚生活ではなかった。

 しかしそのとき、最後の最後まで、どちらかが意地を張っていたら、私たちは本当にそのまま、離婚していただろう。しかし一度は、その一歩手前で、私が意地を捨てた。プライド(自尊心)も捨てた。捨てて、「離婚するのはいやだ」と、今のワイフに、泣いて懇願した。

 私が生まれ育った環境は、ふつうではなかった。父が母に暴力を振るう姿は、何度か、見ている。父が暴れて、食卓を足で蹴って、ひっくり返している姿は、ごく日常的な光景だった。

 さらにある夜のこと。祖父が、父の首をつかみ、水道の蛇口の下で、父の頭に水をかけたこともある。そのとき、父は狂人のように暴れ、祖父は、それ以上にものすごい声で、父を罵倒していた。

 私の少年期は、そういう意味で、悲惨なものだった。

 だから私は、当然のことながら、心に深いキズを負うことになった。正直に告白する。結婚してから、妻に暴力を振るったことも、たびたびある。しかしそれは私自身がしたというよりは、(決して、弁解するわけではないが……)、私自身が宿命的にもつ、心のキズが、そうさせた。

 これを心理学の世界では、世代連鎖とか、世代伝播(でんぱ)とかいう。

 今でも、そうした邪悪な部分が、私には残っている。完全に消えたわけではない。私が自分をみつめながら、もっとも、警戒するのは、自分自身の中の、二重人格性である。私はふとしたことがきっかけで、もう一人の自分になってしまうことがある。

 ふだんの私は、やさしく、穏やかで、さみしがり屋。しかしもう一人の自分になると、破滅的になり、孤独に強くなる。「家族なんか、いなくても、平気」という状態になる。

 一度、そういう自分になると、どちらが本当の私なのか、わからなくなる。ただよく言われる人格障害と違う点は、それぞれのとき、別の「私」がちゃんと横にいて、自分をコントロール、しているということ。

 「今のお前は、本当のお前ではないぞ」と。

 そういうこともあって、私は、結婚してからも、「暖かい家庭」を恋こがれる一方、どこかいつも、ぎこちなかった。だいたいにおいて、私の中には、しっかりとした父親像すらなかった。

 離婚の危機を迎えたのは、そういう私に原因があった。加えて、私は、昔からの男尊女卑思想の強い土地柄で生まれ育っている。はじめのころは、ワイフの反論や、反抗を許さなかった。いや、ワイフも必死だった。だから、いつも喧嘩は、「なんだ、その言い方は!」で始まった。

 もし反対の立場なら、私はとっくの昔に離婚していただろう。が、ワイフは、人一倍、辛抱強い女性だった。それに私の、将来の生真面目さと、それに家族への、人一倍強い、熱望を理解していた。

 かろうじて、本当にかろうじて、私たちが離婚しなかったのは、そういう理由による。いや、それでも、そういう危機を迎えたことがある。

 ワイフが、おかしな新興宗教団体に通い始めたからである。私たちの間には、喧嘩が絶えなくなった。離婚の危機というのは、そういうとき起きた。そして最終的には、離婚か、さもなくば、私も入信かという状況まで、追いこまれた。

 そのときのこと。私は、最後の最後のところで、プライドを捨てた。捨てて、「離婚はいやだ」と泣いた。ワイフは、それで思いとどまってくれた。……と思う。今でも、かろうじて「夫婦をしている」ということが、その結果である。

 実は、今日、ある男性からメールをもらった。その内容については、了解をもらっていないので、ここに掲載することはできない。しかし以前、私が迎えたと同じような危機的な状態にいる。

 その男性は、子どもの親権を男性(夫)のものにすることで、離婚に同意したという。(まだ正式には離婚していない。)私は、そのメールをもらって、いあたたまれない気持ちになった。だから、返事には、こう書いた。

「昔、宝島という本を書いた、スティーブンソンという
人は、こう言っています。

『我等が目的は、成功することではない。失敗に
めげず、前に進むことである』と。

スティーブンソンは、ほかに、『ジキル博士とハイド氏』
という本も書き、そのあと放浪の旅に出ます。

実のところ、私も、この言葉に、何度も励まされ
ました。「失敗にめげず、前に進むことだ」と。

どんな夫婦も、そのつど離婚の危機を
乗り越えています。同窓会などで会っても
みな、そう言っています。

で、そのとき、最後の最後で、ふんばるかどうか、
その違いが、運命を大きく変えます。

だからといってYT様が、ふんばっていないと
いうのではありません。それでもふんばりきれない
ときも、あるのです。

しかしいただいたメールから判断すると、
奥様のほうが、もう少し自分を見つめる機会が
あれば、今の危機的状況を回避できるような
気がします。

つまり奥様が、自分自身のトラウマに気づいて
おられないように思います。そしてそれに奥様
が気づけば、このまま離婚に至らなくても
すむように思うのです。

みながみな善良な人達なのですが、どこかで
たがいにキズつけあってしまう……。そんなこと
は、よくあります。

つらいですね。多分、その気持ちはYT様の
ほうが強いのではないかと思います。

そこに幸福があるのに、そしてみなが、ほんの
少しだけ心を開けば、その幸福が、向こうから飛び込んで
くるのに、みなが、どこかで意地を張って、わざと
背を向けてしまう……。

そんな印象をもちました。

どうでしょうか?

一度、あなたのほうから、心を開き、敗北を
認め、頭を地面にこすりつけてみては……。

『お前が好きだ。お前ないでは生きて行かれない』と
です。

まだ夫婦なのですから……。

いらぬお節介かもしれませんが、日本語には
すばらしい格言があります。

『負けるが、勝ち』と。

負けて負けて、負けつづけるのです。
自尊心も、プライドも捨て、裸になって、
自分をさらけだすのです。

その純粋さが、相手の心を溶かします。

……で、仮に、それでも、離婚ということに
なっても、あなたは必ず、すがすがしいものを
感じます。

負けるのです。負けを認めるのです。
それは勝つことより、ずっと勇気がいることですが、
それが夫婦の絆を取り戻します。太くします。

もっとも、あなたのほうが、『愛』を感じないようで
あれば、おしまいですが……。

もしたがいの愛が少しでも残っているなら、
そうしなさい。

女性というのは、勝たせておけばいいのです。
男というのは、負けたフリをしながら、妻(女性)を
自分の支配下におけばよいのです。

まだ最後のチャンスがありますので、あきらめない
でください。

頭を地面にこすりつける。相手がその状態で
足で蹴っても、ただひたすら、懇願する。
プライドなんか、クソ食らえ(尾崎豊)です。

こう書くのは、あなたのためです。

それでも、破綻するなら、それはもうあなたの
責任ではない。あなたの運命です。

やるだけのことをやったという思いが、
そのあと、あなたの立ち直りを早くします。
あなたは過去を振りきって、前に向かって
進むことができます。そのためにも、
負けを認めます。無理にがんばらないで、です。

本当にいらぬ節介をしていますが、
どうか気分を悪くしないでください。

私も、何度か、離婚の危機に立たされた
ことがあります。

一度は、最悪の状態になったこともあります。
しかし私は最後の最後のところで、
頭をさげました。負けを認めました。
いつか機会があれば、別のところで
それについて書いてみます。

みんなそんな危機など、一度や二度は
経験します。どうでしょうか?

もうだめでしょうか。
『子どものため』ということは、この際、あまり
考える必要はないと思います。

あくまでも、あなた自身を見据えて、結論を
出してください。

このつづきは、また今夜、考えてみます。
こうした気持ちが、YT様や、奥様に
伝わればうれしいです。

では、今夜は、これで失礼します」と。

 一〇年も、夫婦をしていれば、一度や二度、離婚の危機はやってくる。二〇年もしていれば、もっときびしい危機がやってくる。しかし三〇年もしていると、やがてあきらめる。人生の終わりが近づいてくるからだ。

 そのとき、二つの考え方が生まれる。一つは、「まあ、こんなもの」と、それまでの人生を受け入れる考え方。もう一つは、「最後の最後だから」と、それまでの人生を清算する考え方。熟年離婚する人の考え方は、後者の考え方に基づく。

 離婚することが悪いというのではない。あくまでも本人たちの問題だから、本人たちが納得すれば、それはそれで構わない。ただ世の中には、暖かい家庭を恋焦がれるあまり、それが原因で失敗していく人も多い。私はこういう人を、「悲しきピエロ」と呼んでいる。

 人を笑わせようとするのだが、少しも、おもしろくない。楽しくない。その人自身が、おもしろいと思っているだけ。だから演技すればするほど、まわりの人がしらけてしまい、やがて観客はだれもいなくなる……。

 あなたや私に、何がある? ごく平凡な生活に、ごく平凡な人生。それ以外に、何がある? そんな庶民が、身を支えあいながら、懸命に生きている。大きな幸福なんてものは、ない。噴水があるような、ガーデンに咲く花など、望むべくもない。道端に咲く、小さな花を、「美しい」と思いながら、またそう思いこみながら、生きている。

 そんな庶民が、あえて自ら、小さな、小さな幸福に、背を向けてしまう……。

 よく誤解されるが、離婚が離婚になるのは、たがいの関係が、破局するからではない。最後の最後まで、どちらかが、がんばってしまうからだ。心を開かず、意地を張るからだ。そしてそこにある小さな、小さな幸福に、背を向けてしまうからだ。

 愛がなければ話は別だが、まだ愛が残っているなら、勇気を出して、心を開く。空に向って、心を解き放つ。あとの結果は、自然とついてくる。意地なんて、クソ食らえ! プライドなんて、クソ食らえ!

 もちろん、それでも離婚する人は、離婚する。運命というのは、いつも、結果として、あとからついてやってくるもの。しかしそのときは、そのときで、その運命を受け入れることができる。まずいのは、「こんなはずではない」「こんなはずではなかった」と、ズルズルと、悔恨の地獄の中に、身や心を、引きずりこまれること。

 そうならないためにも、一度、裸になる。素っ裸になる。そして自分の心と体を、相手にさらけ出す。白日のもとに、さらけ出す。

 あとのことは、相手に任せばよい。そういうあなたを理解せず、また理解できないで、去っていくというのなら、それも、人生。それも運命。相手にだって、その人生や、運命がある。離婚といっても、ただの紙切れ。ただの制度。あとは、たがいに、前向きに生きていけばよい。
(031014)

2/3

2011-05-14 10:09:35 | 日記








件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司■■子どものやる気(2)

【3】特集∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

子どものやる気

●静岡県K市のMT氏(父親)から、こんな質問をもらった。それについて、考えてみる。

+++++++++++++++

……2才の娘がいます。

「自発性」は人生を前向きに、また、何かを成し遂げる際に必要な素養として重要であると思います。

今日のお話では幼稚園児の「お花屋さん」と、御自身の高校時代の進路の話をされておりましたが、小さい頃に形成されるものと大人になるまでをひとつの話として理解して良いのでしょうか?

つまり、小さい頃に「自発性」はある程度形成、定着されるものなのか、あるいは大人になるまでにゆっくりと形成されるものなのでしょうか?

個人的には自発性は自信とともに、ちょっとした事で(たとえ大人になってからでも)失いがちなので、長い時間をかけて「育てていく」必要があるかも知れないという思いもあります。

金銭観は思いのほか小さい頃に形成されるという事でびっくりしましたが、本来労働の対価として得られるお金の価値は子どもには理解できないでしょうし、健全な金銭価値を教えるのは大変難しいと思いました。

お金の大切さを教えると言っても小さいこどもがお菓子を目の前にした時の欲求に対しては難しいと思いますし、欲求を常に否定するのもどうかと思います。

「金銭感覚」を「欲求コントロール」と捉えると、お小遣いが管理でき計画的に使える(今これを買うとあれを我慢しないといけないとか)様になるまでお金をあまり意識させない様にしたら(親がお金の事由でいい/悪いを決めない。高いから/安いからと言わない)などとも考えてしまいました。

(最近娘は2才にしてお金の存在に気付き、執着している風なので…)

以上、アドバイス等何かいただけたら嬉しいです。よろしくお願いします……。

++++++++++++++++

 こうした質問をもらうたびに、正直言って、講演がもつ限界を、いつも感ずる。「言い足りなかった」「説明不足だった」という思いである。

 講演というのは、たとえて言うなら、映画で言えば、あらすじだけを話すようなもの。いつも、結論だけを話し、それで終わってしまう。

 しかしその点、インターネットができて、本当に便利になった。道端で会話をするように、ごく気軽に、こうして膨大な情報を、簡単に交換できる。……と、考えながら、①子どものやる気と、②金銭感覚について、考えてみたい。

++++++++++++++++

①子どものやる気

子どもの「やる気」は、かなりはやい時期に、決定される。新生児から、乳児期にかけて、決定されるというのが、通説である。年齢的には、〇歳から一、二歳前後ではないか。

 この時期、子どもの主体性が育つ。「主体性」というのは、「求めること」。そして「求めて満足させられること」。この二つで、決まる。

 たとえば空腹になる。そこで新生児は、泣く。その泣いたとき、母親がそれに答え、その空腹感を満足させる。……子どもは、それで満足する。

 これが主体性のはじまりである。

 この時期に、親が拒否的な姿勢や、態度を示すと、子どもの心には、大きなキズがつく。たとえばこの時期、もとめてもじゅうぶんな乳が与えられないとすると、子どもの中に、基底的な不安感が増大すると言われている。そしてその不安感が、生涯にわたって、その人の心のあり方に、大きな影響を与えると言われている。

 この主体性が原動力となって、子どもは、自分の潜在的能力を、前に引き出すことができる。この潜在的能力を、R・W・ホワイトという学者は、「コンピテンス」と名づけた。

 つまり主体性のある子どもは、そのつど、要求し、そしてそれを満足させることによって、自分の潜在的能力を、自ら、引き出していくというわけである。

 たとえば目の前に、きれいに輝く三つのビンがあったとする。それらのビンは、窓から差しこむ日光によって、明るくキラキラと輝いている。

 そのとき、主体性のある子どもは、そのビンを手に取ろうとする。これが空腹なとき、泣いて乳を求める行為である。

 そこでその子どもは、そのビンを手に取り、いろいろな方向から、ながめたり、光の変化を楽しむようになる。そしてある程度、一連の行動を繰りかえしたあと、満足して、それを手放す。これが母親から、乳を与えられ、満足した状態である。

 このとき、子どもの中から、ビンを通して見た、美しいものへの感性、つまり潜在的能力が引き出される。

 こうした行為を繰りかえしながら、子どもは、その主体性を、「やる気」へと、育てることができる。つまり自分で達成感を、楽しむことができる。

 これをチャート化すると、こうなる。

 (主体的行動)→(満足する)→(達成感を覚える)→(さらなる主体的行動を求める)→……、と。こうした一連の行為を繰りかえしながら、子どもは、自分の潜在的能力を、自ら引き出していく。

 どんな子どもにも、この主体性がある。そしてその主体性は、ちょうど、ループを描いて増大するように、年齢とともに、増大し、加速する。少年少女期にしても、またおとなにしても、やる気のある人と、そうでない人は、結局は、この時期の方向性によって決まるということになる。

 言いかえると、この時期に、主体性をつぶしてしまうと、やる気を引き出すのは、(不可能とは言わないが)、そののち、たいへん困難になる。私は、講演では、それを説明した。

 私が言う、「主体性」と、そののちの、子どもの心理の発達は、別のもの。だからといって、子どもの自主性が、すべて乳幼児期までに決まってしまうというのではない。つまりそこに「教育」が介在する余地があるということになる。

 それについては、また機会があれば、説明したい。

++++++++++++++++

②子どもの金銭感覚

子どもの金銭感覚については、以前書いた原稿(中日新聞掲載済み)を、ここに掲載しておきます。参考にしてください。

++++++++++++++++

子どもに与えるお金は、一〇〇倍せよ!

●年長から小学二、三年にできる金銭感覚

 子どもの金銭感覚は、年長から小学二、三年にかけて完成する。この時期できる金銭感覚は、おとなのそれとほぼ同じとみてよい。が、それだけではない。子どもはお金で自分の欲望を満足させる、その満足のさせ方まで覚えてしまう。これがこわい。

●一〇〇倍論

 そこでこの時期は、子どもに買い与えるものは、一〇〇倍にして考えるとよい。一〇〇円のものなら、一〇〇倍して、一万円。一〇〇〇円のものなら、一〇〇倍して、一〇万円と。つまりこの時期、一〇〇円のものから得る満足感は、おとなが一万円のものを買ったときの満足感と同じということ。そういう満足感になれた子どもは、やがて一〇〇円や一〇〇〇円のものでは満足しなくなる。中学生になれば、一万円、一〇万円。さらに高校生や大学生になれば、一〇万円、一〇〇万円となる。あなたにそれだけの財力があれば話は別だが、そうでなければ子どもに安易にものを買い与えることは、やめたほうがよい。

●やがてあなたの手に負えなくなる

子どもに手をかければかけるほど、それは親の愛のあかしと考える人がいる。あるいは高価であればあるほど、子どもは感謝するはずと考える人がいる。しかしこれはまったくの誤解。あるいは実際には、逆効果。一時的には感謝するかもしれないが、それはあくまでも一時的。子どもはさらに高価なものを求めるようになる。そうなればなったで、やがてあなたの子どもはあなたの手に負えなくなる。

先日もテレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた。何でもその朝発売になるゲームソフトを手に入れるために、六〇歳前後の女性がゲームソフト屋の前に並んでいるというのだ。しかも徹夜で! そこでレポーターが、「どうしてですか」と聞くと、その女性はこう答えた。「かわいい孫のためです」と。その番組の中は、その女性(祖母)と、子ども(孫)がいる家庭を同時に中継していたが、子ども(孫)は、こう言っていた。「おばあちゃん、がんばって。ありがとう」と。

●この話はどこかおかしい

 一見、何でもないほほえましい光景に見えるが、この話はどこかおかしい。つまり一人の祖母が、孫(小学五年生くらい)のゲームを買うために、前の晩から毛布持参でゲーム屋の前に並んでいるというのだ。その女性にしてみれば、孫の歓心を買うために、寒空のもと、毛布持参で並んでいるのだろうが、そうした苦労を小学生の子どもが理解できるかどうか疑わしい。感謝するかどうかということになると、さらに疑わしい。苦労などというものは、同じような苦労した人だけに理解できる。その孫にすれば、その女性は、「ただのやさしい、お人よしのおばあちゃん」にすぎないのではないのか。

●釣竿を買ってあげるより、魚を釣りに行け

 イギリスの教育格言に、『釣竿を買ってあげるより、一緒に魚を釣りに行け』というのがある。子どもの心をつかみたかったら、釣竿を買ってあげるより、子どもと魚釣りに行けという意味だが、これはまさに子育ての核心をついた格言である。少し前、どこかの自動車のコマーシャルにもあったが、子どもにとって大切なのは、「モノより思い出」。この思い出が親子のきずなを太くする。

●モノに固執する国民性

日本人ほど、モノに執着する国民も、これまた少ない。アメリカ人でもイギリス人でも、そしてオーストラリア人も、彼らは驚くほど生活は質素である。少し前、オーストラリアへ行ったとき、友人がくれたみやげは、石にペインティングしたものだった。それには、「友情の一里塚(マイル・ストーン)」と書いてあった。日本人がもっているモノ意識と、彼らがもっているモノ意識は、本質的な部分で違う。そしてそれが親子関係にそのまま反映される。

 さてクリスマス。さて誕生日。あなたは親として、あるいは祖父母として、子どもや孫にどんなプレゼントを買い与えているだろうか。ここでちょっとだけ自分の姿勢を振りかってみてほしい。

++++++++++++++++++++++

参考までに、子どもを伸ばす方法について
考えた原稿を、二作、添付しておきます。

++++++++++++++++++++++

好子(こうし)と嫌子(けんし)

 何か新しいことをしてみる。そのとき、その新しいことが、自分にとってつごうのよいことや、気分のよいものであったりすると、人は、そのつぎにも、同じようなことを繰りかえすようになる。こうして人間は、自らを進化させる。その進化させる要素を、「好子(こうし)」という。

 反対に、何か新しいことをしてみる。そのとき、その新しいことが、自分にとってつごうの悪いことや、気分の悪いものであったりすると、人は、そのつぎのとき、同じようなことをするのを避けようとする。こうして人間は、自らを進化させる。その進化させる要素を、「嫌子(けんし)」という。

 もともと好子にせよ、嫌子にせよ、こういった言葉は、進化論を説明するために使われた。たとえば人間は太古の昔には、四足歩行をしていた。が、ある日、何らかのきっかけで、二足歩行をするようになった。そのとき、人間を二足歩行にしたのは、そこに何らかの好子があったからである。たとえば(多分)、二足に歩行にすると、高いところにある食べ物が、とりやすかったとか、走るのに、便利だったとか、など。あるいはもっとほかの理由があったのかもしれない。

 これは人間というより、人類全体についての話だが、個人についても、同じことが言える。私たちの日常生活の中には、この好子と嫌子が、無数に存在し、それらが複雑にからみあっている。子どもの世界とて、例外ではない。が、問題は、その中身である。

 たとえば喫煙を考えてみよう。たいていの子どもは、最初は、軽い好奇心で、喫煙を始める。この日本では、喫煙は、おとなのシンボルと考える子どもは多い。(そういうまちがった、かっこよさを印象づけた、JTの責任は重い!)が、そのうち、喫煙が、どこか気持ちのよいものであることを知る。そしてそのまま喫煙が、習慣化する。

 このとき喫煙は、好子なのか。それとも嫌子なのか。たとえば出産予定がある若い女性がいる。そういう女性が喫煙しているとするなら、その女性は、本物のバカである。大バカという言葉を使っても、さしつかえない。昔、日本を代表する京都大学のN教授が、私に、こっそりとこう教えてくれた。「奇形出産の原因の多くに、喫煙がからんでいることには、疑いようがない」と。

 体が気持ちよく感ずるなら、好子ということになる。しかし遺伝子や胎児に影響を与えることを考えるなら、嫌子ということになる。……と、今まで、私はそう考えてきたが、この考え方はまちがっている。

 そもそも好子にせよ、嫌子にせよ、それは「心」の問題であって、「モノに対する反応」の問題ではない。この二つの言葉は、よく心理学の本などに出てくるが、どうもすっきりしない。そのすっきりしない理由が、実は、この混同にあるのではないか?

 たとえば人に親切にしてみよう。仲よくしたり、やさしくするのもよい。すると、心の中がポーツと暖かくなるのがわかる。実は、これが好子である。

 反対に、人に意地悪をしてみよう。ウソをついたり、ごまかしたりするのもよい。すると、心の中が、どこか重くなり、憂うつになる。これが嫌子である。
 
 こうして人間は、体型や体の機能ばかりではなく、心も進化させてきた。そのことは、昔、オーストラリアのアボリジニーの生活をかいま見たとき知った。彼らの生活は、まさに平和と友愛にあふれていた。つまりそういう「心」があるから、彼らは何万年もの間、あの過酷な大地の中で生き延びることができた。

 言いかえると、現代人の生活が、どこか邪悪になっているのは、それは人間がもつ本来の姿というよりは、欲得の追求という文明生活がもたらした結果ともいえる。そのことは、子どもの世界を総じてみればわかる。

 私は今でも、数は少ないが、年中児から高校三年生まで、教えている。そういう流れの中でみると、子どもたちが小学三、四年生くらいまでは、和気あいあいとした人間関係を結ぶことができる。しかしこの時期を境に、先生との関係だけではなく、友だちどうしの人間関係は、急速に悪化する。ちょうどこの時期は、親たちが子どもの受験勉強に関心をもち、私の教室を去っていく年齢でもある。子どもどうしの世界ですら、どこかトゲトゲしく、殺伐としたものになる。

 ひょっとしたら、親自身もそういう世界を経験しているためか、子どもがそのように変化しても気づかないし、またそうあるべきと考えている親も少なくない。一方で、「友だちと仲よくしなさいよ」と教えながら、「勉強していい中学校に入りなさい」と教える。親自身が、その矛盾に気づいていない。

 結果、この日本がどうなったか? 平和でのどかで、心暖かい国になったか。実はそうではなく、みながみな、毎日、何かに追いたてられるように生きている。立ち止まって、休むことすら許されない。さらにこの日本には、コースのようなものがあって、このコースからはずれたら、あとは負け犬。親たちもそれを知っているから、自分の子どもが、そのコースからはずれないようにするだけで精一杯。が、そうした意識が、一方で、またそのコースを補強してしまうことになる。恐らく世界広しといえども、日本ほど、弱者に冷たい国はないのではないか。それもそのはず。受験勉強をバリバリやりこなし、無数の他人を蹴落としてきたような人でないと、この日本では、リーダーになれない?

 ……と、また大きく話が脱線してしまったが、私たちの心も、この好子と嫌子によって、進化してきた。だからこそ、この地球上で、何十万年もの間、生き延びることができた。そしてその片鱗(へんりん)は、今も、私たちの心の中に残っている。

 ためしに、今日一日だけ、自分にすなおに、他人に正直に、そして誠実に生きてみよう。他人に親切に、やさしく、家族を暖かく包んでみよう。そしてそのあと、たとえば眠る前に、あなたの心がどんなふうに変化しているか、静かに観察してみよう。それが「好子」である。その好子を大切にすれば、人間は、これから先、いつまでも、みな、仲よく生きられる。

+++++++++++++++++++

3/3

2011-05-14 10:08:55 | 日記

自己嫌悪

 ある母親から、こんなメールが届いた。「中学二年生になる娘が、いつも自分をいやだとか、嫌いだとか言います。母親として、どう接したらよいでしょうか」と。神奈川県に住む、Dさんからのものだった。

 自我意識の否定を、自己嫌悪という。自己矛盾、劣等感、自己否定、自信喪失、挫折感、絶望感、不安心理など。そういうものが、複雑にからみ、総合されて、自己嫌悪につながる。青春期には、よく見られる現象である。

 しかしこういった現象が、一過性のものであり、また現れては消えるというような、反復性があるものであれば、(それはだれにでもある現象という意味で)、それほど、心配しなくてもよい。が、その程度を超えて、心身症もしくは気うつ症としての症状を見せるときは、かなり警戒したほうがよい。はげしい自己嫌悪が自己否定につながるケースも、ないとは言えない。さらにその状態に、虚脱感、空疎感、無力感が加わると、自殺ということにもなりかねない。とくに、それが原因で、子どもがうつ状態になったら、「うつ症」に応じた対処をする。

 一般には、自己嫌悪におちいると、人は、その状態から抜けでようと、さまざまなな心理的葛藤を繰りかえすようになる。ふつうは(「ふつう」という言い方は適切ではないかもしれないが……)、自己鍛錬や努力によって、そういう自分を克服しようとする。これを心理学では、「昇華」という。つまりは自分を高め、その結果として、不愉快な状態を克服しようとする。

 が、それもままならないことがある。そういうとき子どもは、ものごとから逃避的になったら、あるいは回避したり、さらには、自分自身を別の世界に隔離したりするようになる。そして結果として、自分にとって居心地のよい世界を、自らつくろうとする。よくあるのは、暴力的、攻撃的になること。自分の周囲に、物理的に優位な立場をつくるケース。たとえば暴走族の集団非行などがある。

 だからたとえば暴走行為を繰りかえす子どもに向かって、「みんなの迷惑になる」「嫌われる」などと説得しても、意味がない。彼らにしてみれば、「嫌われること」が、自分自身を守るための、ステータスになっている。また嫌われることから生まれる不快感など、自己嫌悪(否定)から受ける苦痛とくらべれば、何でもない。

 問題は、自己嫌悪におちいった子どもに、どう対処するかだが、それは程度による。「私は自分がいや」と、軽口程度に言うケースもあれば、落ちこみがひどく、うつ病的になるケースもある。印象に残っている中学生に、Bさん(中三女子)がいた。

 Bさんは、もともとがんばり屋の子どもだった。それで夏休みに入るころから、一日、五、六時間の勉強をするようになった。が、ここで家庭問題。父親に愛人がいたのがわかり、別居、離婚の騒動になってしまった。Bさんは、進学塾の夏期講習に通ったが、これも裏目に出てしまった。それまで自分がつくってきた学習リズムが、大きく乱れてしまった。が、何とか、Bさんは、それなりに勉強したが、結果は、よくなかった。夏休み明けの模擬テストでは、それまでのテストの中でも、最悪の結果となってしまった。

 Bさんに無気力症状が現れたのは、その直後からだった。話しかければそのときは、柔和な表情をしてみせたが、まったくの上の空。教室にきても、ただぼんやりと空をみつめているだけ。あとはため息ばかり。このタイプの子どもには、「がんばれ」式の励ましや、「こんなことでは○○高校に入れない」式の、脅しは禁物。それは常識だが、Bさんの母親には、その常識がなかった。くる日もくる日も、Bさんを、あれこれ責めた。そしてそれがますますBさんを、絶壁へと追いこんだ。

 やがて冬がくるころになると、Bさんは、何も言わなくなってしまった。それまでは、「私は、ダメだ」とか、「勉強がおもしろくない」とか言っていたが、それも口にしなくなってしまった。「高校へ入って、何かしたいことがないのか。高校では、自分のしたいことをしればいい」と、私が言っても、「何もない」「何もしたくない」と。そしてそのころ、両親は、離婚した。

 このBさんのケースでは、自己嫌悪は、気うつ症による症状の一つということになる。言いかえると、自己嫌悪にはじまる、自己矛盾、劣等感、自己否定、自信喪失、挫折感、絶望感、不安心理などの一連の心理状態は、気うつ症の初期症状、もしくは気うつ症による症状そのものということになる。あるいは、気うつ症に準じて考える。

 軽いばあいなら、休息と息抜き。家庭の中で、だれにも干渉されない時間と場所を用意する。しかし重いばあいなら、それなりの覚悟をする。「覚悟」というのは、安易になおそうと考えないことをいう。

心の問題は、外から見えないだけに、親は安易に考える傾向がある。が、そんな簡単な問題ではない。症状も、一進一退を繰りかえしながら、一年単位の時間的スパンで、推移する。ふつうは(これも適切ではないかもしれないが……)、こうした心の問題については、①今の状態を、今より悪くしないことだけを考えて対処する。②今の状態が最悪ではなく、さらに二番底、三番底があることを警戒する。そしてここにも書いたように、③一年単位で様子をみる。「去年の今ごろと比べて……」というような考え方をするとよい。つまりそのときどきの症状に応じて、親は一喜一憂してはいけない。

 また自己嫌悪のはげしい子どもは、自我の発達が未熟な分だけ、依存性が強いとみる。満たされない自己意識が、自分を嫌悪するという方向に向けられる。たとえば鉄棒にせよ、みなはスイスイとできるのに、自分は、いくら練習してもできないというようなときである。本来なら、さらに練習を重ねて、失敗を克服するが、そこへ身体的限界、精神的限界が加わり、それも思うようにできない。さらにみなに、笑われた。バカにされたという「嫌子(けんし)」(自分をマイナス方向にひっぱる要素)が、その子どもをして、自己嫌悪に陥れる。

 以上のように自己嫌悪の中身は、複雑で、またその程度によっても、対処法は決して一様ではない。原因をさぐりながら、その原因に応じた対処法をする。一般論からすれば、「子どもを前向きにほめる(プラスのストロークをかける)」という方法が好ましいが、中学二年生という年齢は、第二反抗期に入っていて、かつ自己意識が完成する時期でもある。見えすいた励ましなどは、かえって逆効果となりやすい。たとえば学習面でつまずいている子どもに向かって、「勉強なんて大切ではないよ。好きなことをすればいいのよ」と言っても、本人はそれに納得しない。

 こうしたケースで、親がせいぜいできることと言えば、子どもに、絶対的な安心を得られる家庭環境を用意することでしかない。そして何があっても、あとは、「許して忘れる」。その度量の深さの追求でしかない。こういうタイプの子どもには、一芸論(何か得意な一芸をもたせる)、環境の変化(思い切って転校を考える)などが有効である。で、これは最悪のケースで、めったにないことだが、はげしい自己嫌悪から、自暴自棄的な行動を繰りかえすようになり、「死」を口にするようになったら、かなり警戒したほうがよい。とくに身辺や近辺で、自殺者が出たようなときには、警戒する。

 しかし本当の原因は、母親自身の育児姿勢にあったとみる。母親が、子どもが乳幼児のころ、どこかで心配先行型、不安先行型の子育てをし、子どもに対して押しつけがましく接したことなど。否定的な態度、拒否的な態度もあったかもしれない。子どもの成長を喜ぶというよりは、「こんなことでは!」式のおどしも、日常化していたのかもしれない。神奈川県のDさんがそうであるとは断言できないが、一方で、そういうことをも考える。えてしてほとんどの親は、子どもに何か問題があると、自分の問題は棚にあげて、「子どもをなおそう」とする。しかしこういう姿勢がつづく限り、子どもは、心を開かない。親がいくらプラスのストロークをかけても、それがムダになってしまう。

 ずいぶんときびしいことを書いたが、一つの参考意見として、考えてみてほしい。なお、繰りかえすが、全体としては、自己嫌悪は、多かれ少なかれ、思春期のこの時期の子どもに、広く見られる症状であって、決して珍しいものではない。ひょっとしたらあなた自身も、どこかで経験しているはずである。もしどうしても子どもの心がつかめなかったら、子どもには、こう言ってみるとよい。「実はね、お母さんも、あなたの年齢のときにね……」と。こうしたやさしい語りかけ(自己開示)が、子どもの心を開く。

++++++++++++++++

 たった今、MT氏に、これだけの回答を、メールで送った。時間にすれば、(返信)(コピー)(送信)で、一〇秒足らずでできたのでは……。改めて、インターネットのすごさに驚く。昔なら、つまりこんなことを手紙などでしていたら、数日はかかったかもしれない。
(031014)

     ミ ( ⌒⌒ ) 彡
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
    ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
     ○  ヽ ABC ○        このマガジンが、お役に立てそうな
   ̄ ̄ ̄ヽ  ヽ    ヽ ̄ ̄ ̄     方が、いらっしゃいませんか?
       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄         よろしくお伝えください!
【4】フォーラム∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

孫論

 孫の世話が、かくも大変とは、思ってもみなかった。まさに一瞬たりとも、気が抜けない。自分の子なら、まだ無責任になれる。しかし孫だと、そうはいかない。今日も、息子夫婦は、孫を私たちに預け、買い物に出かけた。

 「孫はかわいい」と、世間一般の人は言う。たしかに「かわいい」。しかし「かわいいはず」と押しつけられるのも、困る。どうして、こんなにも、疲れるのか。

 そこで私は、なぜそうなのかを、考えた。

 理由の第一。生活のリズムが、完全に狂う。若いときならともかくも、四〇歳、五〇歳ともなると、自分の生活のリズムができてくる。たとえば私のばあい、朝五時ごろ起きて、原稿を書く。七~八時ごろ、朝食をとって、それから一、二時間、眠る。あるいは昼過ぎに、仮眠をとることもある。

 そういったリズムが、完全に狂う。おかげで、この一〇日間、生活のリズムは、狂いぱなし。これがどうやら、疲れる原因らしい。

 つぎに、若い人たちは、自分のリズムで、子育てを考える。そしてその延長線上で、「孫」を、勝手に位置づけてしまう。「おじいちゃん、おばあちゃんなら、孫の世話をしていれば、幸福のはず」「孫の世話なら、喜んでするはず」と。

それは、祖父母の立場で、たとえて言うなら、夕食に、ピザを押しつけられたような感じ。お茶漬けを食べたいと思っていたら、食卓にピザが並んだ! さあ、あなたなら、どうする?

 「おいしい」「おいしい」と笑いながら、ピザを食べるか? それとも自分たちだけ、お茶漬けを食べるか?

 ……というようなグチを言っても始まらない。しかし、おかしなものだ。自分の子どもを育てるときは、それほど重労働だとは、思わなかった。そういう点では、無我夢中だった。しかし孫の世話は、本当に、たいへん! 体力、気力の勝負。

ワイフは、こう言った。「やっと子育てから解放されたと思ったら、今度は、孫の世話。これじゃあ、体がいくつあっても、足りないわね」と。もっとも、ワイフのばあい、むしろそれを楽しんでいる様子?

 今、私は、自分の生活の中で、新しいドラマを展開しつつある。どんなドラマになるかわからないが、こうした苦労が、また別の新しい喜びを生み出す。それがわかっているから、私は、じっと、耐えるしかない。

 さあ、来い! 孫でも、何でも、来い!、と。

 この先、私は、どうなるか。それは私にも、わからない。どんなふうに考えるようになるかも、わからない。近所のMさん(六〇歳、女性)は、こう言った。

 「孫が遊びにくるのは、楽しみだが、一週間もいられると、ヘトヘトに疲れる。帰るとき、孫が、『おばあちゃん、また来るからね』と言う。私は、一応、『また、おいでね』と答えるが、本当のところ、もうたくさん」と。

 そのMさんの気持が、よくわかる。が、ひとつの参考にはなるが、私はMさんのようには思いたくない。ヘトヘトに疲れることの中から、新しい何かを見つけたい。しかし、それができるかどうか……? 私は、今、かつて経験したことのない、未知の世界にいる。(少し、大げさかな……。)このつづきは、また報告する。
(031012)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

無文化の国

 恐らく、アメリカ人自身は、そうは思っていないだろう。しかし日本人の私たちから見ると、それがよくわかる。

 アメリカ人の嫁さん(二五歳)を見ていると、日本人とは違う、何かを感ずる。その一つが、伝統や文化に対する考え方が、まったく違うということ。「違う」というより、そういうものを理解する素養が、まったく、ない?

 その嫁さんは、アメリカでも中南部の、牧場で育っている。昔見た、映画「ローハイド」の世界である。カウボーイが行きかう、「荒野の決闘」の世界である。あのあたりは広いだけで、何もない?

 逆の立場なら、日本の古い神社や寺を回りたいと思うが、そういうものには、興味を示さない。フラワーパーク(浜松の西にある、花園公園)や、動物園へは行く。大きなショッピングセンターにも行く。

 昨日も、ワイフが、「今度のパーティに着物を着たいの?」と聞くと、「ママ(=ワイフ)が、そうしてほしいなら、そうする」と。日本の着物(和服)にも、あまり興味を示さない?

 そこでワイフと、こんな会話をした。

 「アメリカ人には、文化や伝統を理解する、その素養すらないのでは?」と私。
 「それは感ずるわ……」と私。
 「あるいは、日本の文化や伝統は、文化や伝統ではないと思っているのかもしれない」
 「アメリカ式の合理主義かもしれないわね。すべてを合理的に考える」
 「それもある」と。

 もっとも、いろいろなアメリカ人がいる。数か月前、私の家にホームステイしたオーストラリア人夫妻は、時間を惜しんで、あちこちを回っていた。だから嫁さんだけを見て、「アメリカ人は……」と論ずるのは、危険なこと。それはわかっている。

 「だったら、日本のよさを、教えてあげなければならない」と私。
 「日本のよさって?」とワイフ。
 「どこかの寺に連れていき、そこで、静寂な心を楽しんでもらうとか……」
 「でも、押しつけであってはいけないわ」と。

 いろいろ気を使う。改めて言うが、日本人の嫁さんなら、こういう気を使うこともないのだが……。あああ。

 しかし反対に、日本の小さな祭を見たりすると、インディアンの儀式のように思うかもしれない。そういう気持も、何だかわかるような気がする。

 それにアメリカ人というのは、心の動きが、まったくストレート。日本人なら、相手に合わせて、自分をごまかしたりするが、そういう習慣そのものがない。それだけにわかりやすいと言えば、わかりやすい。しかしその分だけ、奥ゆかしさがない?

 先日も、「どこかで焼きそばを食べようか?」と声をかけると、「ノー。私は、焼きそばは、嫌いです」と。

 日本から送った、インスタントの焼きそばの印象が悪かったらしい。しかしそう、はっきりと断られると、返す言葉がなくなってしまう。日本人の嫁さんなら、こうまではっきりとは言わないだろうなと思いつつ、こちらも黙ってしまう。比較しては、いけないのだが、つい比較してしまう……。

 さてさて、本当に、いろいろある。毎日、頭の中で、バチバチと脳細胞が、ショートしている感じ。

 さて、今日は、結婚記念日とか。孫の誠司を預かってほしいとか。二人でどこかで食事をしたいとか。

 またまた、はやし浩司は、孫の世話でござ~る。
(031014)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

先祖思想

 少し前だが、抗議のメールをもらった。しかしこうした抗議は、もううんざり。その人(女性)は、こう言った。

 「ご先祖様を大切にするのは、日本人の心です。あなたは、どうしてそれを否定するのですか?」(埼玉県K市)と。

 私は、一度だって、先祖を否定したことはないのだが……?!

 しかしここで冷静に考えてみてほしい。

 仮にA家という「家」があったとする。そのA家は、代々つづく、名家だったとする。それはそれでかまわない。で、その家に、B家という家から、一人の女性が嫁いできたとする。問題は、このとき、起こる。

 A家の祖先は、もとからそこに住んでいた人にとっては、先祖かもしれない。が、その女性にとっては、先祖ではない。その女性にとっては、B家の祖先が先祖ということになる。

 が、その女性は、A家に嫁いできたとたん、A家の祖先を、自分の先祖と思わなければならない。そして夫の祖先を、「ご先祖様」「ご先祖様」と言わなければならない。

 ……となると、その女性の「人権」は、どうなるのか? あるいは女性というのは、ただの財産(家の付属物)に過ぎないのか。抗議をしてきた人が、男性なら、まだ話はわかる。そのときは、その人が女性だっただけに、たいへん気になった。

 話をもどす。つまりその女性は、A家に嫁いできたとたん、それまでの過去を断ち切られ、A家のモノとなる。事実、少し前まで、日本には、そういう風習が、まだ色濃く、残っていた。「嫁にくれてやる」「嫁をもらう」という言い方も、ごく一般的になされていた。

 昔は、女性は、「夫」と結婚するのではなく、その「家」と結婚した。「嫁」という漢字にしても、「家の女」と書く。

 私は、そういう風習はおかしいと言っている。それだけのことである。結果として、先祖思想を否定することになるかもしれないが、それは私の知ったことではない。

 結婚は、あくまでも一組の男女の合意と、納得の上でなされるもの。そこに「家」が介在する余地など、まったく、ない。いわんや、女性を、モノに考えてはいけない。またそういう思想を許してはならない。

 そのメールをもらったとき、即座に、そのメールは、削除した。こうした抗議は、反論するのも疲れる。しかしそれからしばらく時間が過ぎた。多分、その人は、もう私のことなど、忘れているだろう。だから、一応、こうして反論の記事を書いておくことにした。

 どうぞ、ご勝手に。私は私。あなたは、あなた。
(031012)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

基底不安

 乳幼児期に、母子との関係で、基本的信頼関係の構築に失敗した子どもは、そののち、「不安」を基底とした、生き方になってしまう。つまり、どこにいても、何をしていても、不安の影から逃れることができなくなる。こうした不安感を、「基底不安」という。

 この状態は、子育てをしていても、解放されることはない。「この子は、無事、おとなになれるのかしら?」と思ったとたん、言いようのない、不安が心をふさぐ。あとは、不安の連鎖。

 しかし問題は、この先。

 親が不安になるのはし方ないとしても、その不安を、子どもにぶつけてしまう人がいる。「こんなことでは、A中学に行けないわよ」「こんなことで、どうするの!」と。

 このタイプの親は、子どもの将来を心配しているようで、その実、自分の不安を子どもにぶつけているだけ。それはそれだが、しかしこの基底不安と戦うのは、容易ではない。「根」が深い分だけ、自分の意思では、どうにもならない。

 ただ、自分が、そういう人間であることに気がつくことにより、その不安を、自分の中だけで、とどめておくことができるようになる。不安になっても、「ああ、これは本当の私ではないぞ」と。

 どんな人にも、それぞれ心の問題がある。ない人は、いない。基底不安もその一つ。だから大切なことは、そういう心の問題を発見したら、それと戦って、どうこうしようとすることではなく、うまくつきあうこと。

 基底不安についても、それを感じたら、そのテーマから、逃げるとか。あるいは別のテーマに、自分の頭を切りかえるとか。

 私も、無数の、心の問題をかかえている。で、長い間の経験から、自分で自分がおかしいと感じたら、そのときは、穴の中に入ることにしている。

 その問題は考えない。結論を出さない。口を閉じて、静かにしている。行動をしない、など。それを私は、「穴の中に入る」と言っている。以前は、そういう自分がいやで、何とかしようと考えた。一時は、禅道場に通ったこともある。しかし根気がつづかなかった。

 で、結局、あきらめた。心の問題は、顔のキズと同じで、消そうと思っても、消えるものではない。そう結論を出すのは危険なことだが、私は、そう思った。そう思って、自分を納得させた。居なおった。

 総じてみれば、日本中の親たちが、その基底不安なのかもしれない。その基底不安の中で、子育てをしている。いや、日本の社会そのものが、基底不安の上にある? まさにどこを向いても、不安だらけ? そして皮肉なことに、その不安が、日本の原動力となった?

 私たちの年代の男たちは、働いていないと、落ちつかないという。休みになっても、考えるのは、仕事のことばかり。話が、ぐんと脱線した感じだが、基底不安というのは、そういうもの。さてさて、あなたはだいじょうぶ?
(031012)

Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。
12・11 ……入野小学校
11・18 ……三重県紀伊長島町(紀伊長島町PTA連絡協議会)
11・16 ……愛知県立田村・教育委員会
11・ 8 ……江西中学校区健全育成会(浅間小学校にて)
10・23 ……北浜東小学校区小中学校合同
10・23 ……奥山小学校
10・18 ……天竜中学校区健全育成会(天竜中、中ノ島小、和田東小、和田小合同)
詳しい講演日時は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page042.html
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞