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【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞upto715
それ以上、何を望むか
法句経(ほっくぎょう)にこんな説話がある。あるとき一人の男が釈迦のところへ来て、こう言う。
「釈迦よ、私は死ぬのがこわい。どうしたらこの恐怖から逃れることができるか」と。それに答えて釈迦はこう言う。「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。
これまで多くの親たちが、こう言った。「私は子育てで失敗しました。どうしたらいいか」と。そういう親に出会うたびに、私は心の中でこう思う。「今まで子育てをじゅうぶん楽しんだではないか。それ以上、何を望むのか」と。
子育てはたいへんだ。こんな報告もある。東京都精神医学総合研究所の妹尾栄一氏に調査によると、自分の子どもを「気が合わない」と感じている母親は、七%。そしてその大半が何らかの形で虐待しているという。
「愛情面で自分の母親とのきずなが弱かった母親ほど、虐待に走る傾向があり、虐待の世代連鎖もうかがえる」とも。
七%という数字が大きいか小さいか、評価の分かれるところだが、しかし子育てというのは、それ自体大きな苦労をともなうものであることには違いない。言いかえると楽な子育てというのは、そもそもない。またそういう前提で考えるほうが正しい。いや、中には子どものできがよく、「子育てがこんなに楽でいいものか」と思っている人もいる。しかしそういう人は、きわめて稀だ。
……と書きながら、一方で、私はこう思う。もし私に子どもがいなければ、私の人生は何とつまらないものであったか、と。人生はドラマであり、そのドラマに価値があるとするなら、子どもは私という親に、まさにそのドラマを提供してくれた。
たとえば子どものほしそうなものを手に入れたとき、私は子どもたちの喜ぶ顔が早く見たくて、家路を急いだことが何度かある。もちろん悲しいことも苦しいこともあったが、それはそれとして、子どもたちは私に生きる目標を与えてくれた。
もし私の家族が私と女房だけだったら、私はこうまでがんばらなかっただろう。その証拠に、息子たちがほとんど巣立ってしまった今、人生そのものが終わってしまったかのような感じがする。あるいはそれまで考えたこともなかった「老後」が、どんとやってくる。今でもいろいろ問題はあるが、しかしさらに別の心で、子どもたちに感謝しているのも事実だ。「お前たちのおかげで、私の人生は楽しかったよ」と。
……だから、子育てに失敗などない。絶対にない。今まで楽しかったことだけを考えて、前に進めばよい。
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己こそ、己のよるべ
法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。法句経というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。釈迦は、「自分こそが、自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。つまり「自分のことは自分でせよ」と教えている。
この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、もともと「自らに由る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。子育ての基本は、この「自由」にある。
子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれるタイプの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。
私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」と。
このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を変えて、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。ある母親は今の夫といやいや結婚した。だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになったら、あなたは、ちゃんとできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。
次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるいは自分で行動させない。いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面での過保護。「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護(ひご)のもとだけで子育てをするなど。子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室育ち」というタイプの子どもになる。外へ出すと、すぐ風邪をひく。
さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がない。自分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親はこう言った。「子ども同士が喧嘩をしているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを殴り飛ばしたい衝動にかられます」と。
また別の母親は、自分の息子(中二)が傷害事件をひき起こし補導されたときのこと。警察で最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。たまたまその場に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机を叩いたりして、手がつけられなかった」と話してくれた。
己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。
ミ ( ⌒⌒ ) 彡
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【2】心に触れる(Touch your Heart)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞691
山荘にて……
やわらかに時は流れ、
窓から差し込む、白い光は、
ゆるやかにカーテンを、揺らす。
ここちよい眠けが、体を溶かし、
目を閉じれば、そのまま夢の世界。
無数の面影が、まぶたを横切る。
時は、今は、モーツアルト。
ピアノ協奏曲二一番ハ長調が終わり、
つづいて、二三番イ長調……。
おだやかなひととき、
ふと、思うのは、あなたのこと、
あなたは、今、どこで何を思う。
あのとき、ぼくは、あなたの、
最後の願いを振り切って、ドアを閉めた。
理由にもならないような言い訳を口にして……。
人生は、切なさのかたまり。
その切なさを、ひとつずつかみしめながら、
何度も、ため息まじりに、過去をながめる。
ふと気がつくと、そこには秋の冷気。
椅子にかかったタオルを引き寄せる。
その中に、さらに深く身を沈める。
遠くで小鳥が鳴いた。カラスも鳴いた。
それを心のどこかで聞きながら、意識が遠のく。
やがてぼくは、深い、深い夢の中……。
(031012)
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
離婚の危機
私たち夫婦も、何度か、離婚の危機を迎えたことがある。決して、安穏(あんのん)な結婚生活ではなかった。
しかしそのとき、最後の最後まで、どちらかが意地を張っていたら、私たちは本当にそのまま、離婚していただろう。しかし一度は、その一歩手前で、私が意地を捨てた。プライド(自尊心)も捨てた。捨てて、「離婚するのはいやだ」と、今のワイフに、泣いて懇願した。
私が生まれ育った環境は、ふつうではなかった。父が母に暴力を振るう姿は、何度か、見ている。父が暴れて、食卓を足で蹴って、ひっくり返している姿は、ごく日常的な光景だった。
さらにある夜のこと。祖父が、父の首をつかみ、水道の蛇口の下で、父の頭に水をかけたこともある。そのとき、父は狂人のように暴れ、祖父は、それ以上にものすごい声で、父を罵倒していた。
私の少年期は、そういう意味で、悲惨なものだった。
だから私は、当然のことながら、心に深いキズを負うことになった。正直に告白する。結婚してから、妻に暴力を振るったことも、たびたびある。しかしそれは私自身がしたというよりは、(決して、弁解するわけではないが……)、私自身が宿命的にもつ、心のキズが、そうさせた。
これを心理学の世界では、世代連鎖とか、世代伝播(でんぱ)とかいう。
今でも、そうした邪悪な部分が、私には残っている。完全に消えたわけではない。私が自分をみつめながら、もっとも、警戒するのは、自分自身の中の、二重人格性である。私はふとしたことがきっかけで、もう一人の自分になってしまうことがある。
ふだんの私は、やさしく、穏やかで、さみしがり屋。しかしもう一人の自分になると、破滅的になり、孤独に強くなる。「家族なんか、いなくても、平気」という状態になる。
一度、そういう自分になると、どちらが本当の私なのか、わからなくなる。ただよく言われる人格障害と違う点は、それぞれのとき、別の「私」がちゃんと横にいて、自分をコントロール、しているということ。
「今のお前は、本当のお前ではないぞ」と。
そういうこともあって、私は、結婚してからも、「暖かい家庭」を恋こがれる一方、どこかいつも、ぎこちなかった。だいたいにおいて、私の中には、しっかりとした父親像すらなかった。
離婚の危機を迎えたのは、そういう私に原因があった。加えて、私は、昔からの男尊女卑思想の強い土地柄で生まれ育っている。はじめのころは、ワイフの反論や、反抗を許さなかった。いや、ワイフも必死だった。だから、いつも喧嘩は、「なんだ、その言い方は!」で始まった。
もし反対の立場なら、私はとっくの昔に離婚していただろう。が、ワイフは、人一倍、辛抱強い女性だった。それに私の、将来の生真面目さと、それに家族への、人一倍強い、熱望を理解していた。
かろうじて、本当にかろうじて、私たちが離婚しなかったのは、そういう理由による。いや、それでも、そういう危機を迎えたことがある。
ワイフが、おかしな新興宗教団体に通い始めたからである。私たちの間には、喧嘩が絶えなくなった。離婚の危機というのは、そういうとき起きた。そして最終的には、離婚か、さもなくば、私も入信かという状況まで、追いこまれた。
そのときのこと。私は、最後の最後のところで、プライドを捨てた。捨てて、「離婚はいやだ」と泣いた。ワイフは、それで思いとどまってくれた。……と思う。今でも、かろうじて「夫婦をしている」ということが、その結果である。
実は、今日、ある男性からメールをもらった。その内容については、了解をもらっていないので、ここに掲載することはできない。しかし以前、私が迎えたと同じような危機的な状態にいる。
その男性は、子どもの親権を男性(夫)のものにすることで、離婚に同意したという。(まだ正式には離婚していない。)私は、そのメールをもらって、いあたたまれない気持ちになった。だから、返事には、こう書いた。
「昔、宝島という本を書いた、スティーブンソンという
人は、こう言っています。
『我等が目的は、成功することではない。失敗に
めげず、前に進むことである』と。
スティーブンソンは、ほかに、『ジキル博士とハイド氏』
という本も書き、そのあと放浪の旅に出ます。
実のところ、私も、この言葉に、何度も励まされ
ました。「失敗にめげず、前に進むことだ」と。
どんな夫婦も、そのつど離婚の危機を
乗り越えています。同窓会などで会っても
みな、そう言っています。
で、そのとき、最後の最後で、ふんばるかどうか、
その違いが、運命を大きく変えます。
だからといってYT様が、ふんばっていないと
いうのではありません。それでもふんばりきれない
ときも、あるのです。
しかしいただいたメールから判断すると、
奥様のほうが、もう少し自分を見つめる機会が
あれば、今の危機的状況を回避できるような
気がします。
つまり奥様が、自分自身のトラウマに気づいて
おられないように思います。そしてそれに奥様
が気づけば、このまま離婚に至らなくても
すむように思うのです。
みながみな善良な人達なのですが、どこかで
たがいにキズつけあってしまう……。そんなこと
は、よくあります。
つらいですね。多分、その気持ちはYT様の
ほうが強いのではないかと思います。
そこに幸福があるのに、そしてみなが、ほんの
少しだけ心を開けば、その幸福が、向こうから飛び込んで
くるのに、みなが、どこかで意地を張って、わざと
背を向けてしまう……。
そんな印象をもちました。
どうでしょうか?
一度、あなたのほうから、心を開き、敗北を
認め、頭を地面にこすりつけてみては……。
『お前が好きだ。お前ないでは生きて行かれない』と
です。
まだ夫婦なのですから……。
いらぬお節介かもしれませんが、日本語には
すばらしい格言があります。
『負けるが、勝ち』と。
負けて負けて、負けつづけるのです。
自尊心も、プライドも捨て、裸になって、
自分をさらけだすのです。
その純粋さが、相手の心を溶かします。
……で、仮に、それでも、離婚ということに
なっても、あなたは必ず、すがすがしいものを
感じます。
負けるのです。負けを認めるのです。
それは勝つことより、ずっと勇気がいることですが、
それが夫婦の絆を取り戻します。太くします。
もっとも、あなたのほうが、『愛』を感じないようで
あれば、おしまいですが……。
もしたがいの愛が少しでも残っているなら、
そうしなさい。
女性というのは、勝たせておけばいいのです。
男というのは、負けたフリをしながら、妻(女性)を
自分の支配下におけばよいのです。
まだ最後のチャンスがありますので、あきらめない
でください。
頭を地面にこすりつける。相手がその状態で
足で蹴っても、ただひたすら、懇願する。
プライドなんか、クソ食らえ(尾崎豊)です。
こう書くのは、あなたのためです。
それでも、破綻するなら、それはもうあなたの
責任ではない。あなたの運命です。
やるだけのことをやったという思いが、
そのあと、あなたの立ち直りを早くします。
あなたは過去を振りきって、前に向かって
進むことができます。そのためにも、
負けを認めます。無理にがんばらないで、です。
本当にいらぬ節介をしていますが、
どうか気分を悪くしないでください。
私も、何度か、離婚の危機に立たされた
ことがあります。
一度は、最悪の状態になったこともあります。
しかし私は最後の最後のところで、
頭をさげました。負けを認めました。
いつか機会があれば、別のところで
それについて書いてみます。
みんなそんな危機など、一度や二度は
経験します。どうでしょうか?
もうだめでしょうか。
『子どものため』ということは、この際、あまり
考える必要はないと思います。
あくまでも、あなた自身を見据えて、結論を
出してください。
このつづきは、また今夜、考えてみます。
こうした気持ちが、YT様や、奥様に
伝わればうれしいです。
では、今夜は、これで失礼します」と。
一〇年も、夫婦をしていれば、一度や二度、離婚の危機はやってくる。二〇年もしていれば、もっときびしい危機がやってくる。しかし三〇年もしていると、やがてあきらめる。人生の終わりが近づいてくるからだ。
そのとき、二つの考え方が生まれる。一つは、「まあ、こんなもの」と、それまでの人生を受け入れる考え方。もう一つは、「最後の最後だから」と、それまでの人生を清算する考え方。熟年離婚する人の考え方は、後者の考え方に基づく。
離婚することが悪いというのではない。あくまでも本人たちの問題だから、本人たちが納得すれば、それはそれで構わない。ただ世の中には、暖かい家庭を恋焦がれるあまり、それが原因で失敗していく人も多い。私はこういう人を、「悲しきピエロ」と呼んでいる。
人を笑わせようとするのだが、少しも、おもしろくない。楽しくない。その人自身が、おもしろいと思っているだけ。だから演技すればするほど、まわりの人がしらけてしまい、やがて観客はだれもいなくなる……。
あなたや私に、何がある? ごく平凡な生活に、ごく平凡な人生。それ以外に、何がある? そんな庶民が、身を支えあいながら、懸命に生きている。大きな幸福なんてものは、ない。噴水があるような、ガーデンに咲く花など、望むべくもない。道端に咲く、小さな花を、「美しい」と思いながら、またそう思いこみながら、生きている。
そんな庶民が、あえて自ら、小さな、小さな幸福に、背を向けてしまう……。
よく誤解されるが、離婚が離婚になるのは、たがいの関係が、破局するからではない。最後の最後まで、どちらかが、がんばってしまうからだ。心を開かず、意地を張るからだ。そしてそこにある小さな、小さな幸福に、背を向けてしまうからだ。
愛がなければ話は別だが、まだ愛が残っているなら、勇気を出して、心を開く。空に向って、心を解き放つ。あとの結果は、自然とついてくる。意地なんて、クソ食らえ! プライドなんて、クソ食らえ!
もちろん、それでも離婚する人は、離婚する。運命というのは、いつも、結果として、あとからついてやってくるもの。しかしそのときは、そのときで、その運命を受け入れることができる。まずいのは、「こんなはずではない」「こんなはずではなかった」と、ズルズルと、悔恨の地獄の中に、身や心を、引きずりこまれること。
そうならないためにも、一度、裸になる。素っ裸になる。そして自分の心と体を、相手にさらけ出す。白日のもとに、さらけ出す。
あとのことは、相手に任せばよい。そういうあなたを理解せず、また理解できないで、去っていくというのなら、それも、人生。それも運命。相手にだって、その人生や、運命がある。離婚といっても、ただの紙切れ。ただの制度。あとは、たがいに、前向きに生きていけばよい。
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それ以上、何を望むか
法句経(ほっくぎょう)にこんな説話がある。あるとき一人の男が釈迦のところへ来て、こう言う。
「釈迦よ、私は死ぬのがこわい。どうしたらこの恐怖から逃れることができるか」と。それに答えて釈迦はこう言う。「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。
これまで多くの親たちが、こう言った。「私は子育てで失敗しました。どうしたらいいか」と。そういう親に出会うたびに、私は心の中でこう思う。「今まで子育てをじゅうぶん楽しんだではないか。それ以上、何を望むのか」と。
子育てはたいへんだ。こんな報告もある。東京都精神医学総合研究所の妹尾栄一氏に調査によると、自分の子どもを「気が合わない」と感じている母親は、七%。そしてその大半が何らかの形で虐待しているという。
「愛情面で自分の母親とのきずなが弱かった母親ほど、虐待に走る傾向があり、虐待の世代連鎖もうかがえる」とも。
七%という数字が大きいか小さいか、評価の分かれるところだが、しかし子育てというのは、それ自体大きな苦労をともなうものであることには違いない。言いかえると楽な子育てというのは、そもそもない。またそういう前提で考えるほうが正しい。いや、中には子どものできがよく、「子育てがこんなに楽でいいものか」と思っている人もいる。しかしそういう人は、きわめて稀だ。
……と書きながら、一方で、私はこう思う。もし私に子どもがいなければ、私の人生は何とつまらないものであったか、と。人生はドラマであり、そのドラマに価値があるとするなら、子どもは私という親に、まさにそのドラマを提供してくれた。
たとえば子どものほしそうなものを手に入れたとき、私は子どもたちの喜ぶ顔が早く見たくて、家路を急いだことが何度かある。もちろん悲しいことも苦しいこともあったが、それはそれとして、子どもたちは私に生きる目標を与えてくれた。
もし私の家族が私と女房だけだったら、私はこうまでがんばらなかっただろう。その証拠に、息子たちがほとんど巣立ってしまった今、人生そのものが終わってしまったかのような感じがする。あるいはそれまで考えたこともなかった「老後」が、どんとやってくる。今でもいろいろ問題はあるが、しかしさらに別の心で、子どもたちに感謝しているのも事実だ。「お前たちのおかげで、私の人生は楽しかったよ」と。
……だから、子育てに失敗などない。絶対にない。今まで楽しかったことだけを考えて、前に進めばよい。
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己こそ、己のよるべ
法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。法句経というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。釈迦は、「自分こそが、自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。つまり「自分のことは自分でせよ」と教えている。
この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、もともと「自らに由る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。子育ての基本は、この「自由」にある。
子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれるタイプの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。
私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」と。
このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を変えて、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。ある母親は今の夫といやいや結婚した。だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになったら、あなたは、ちゃんとできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。
次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるいは自分で行動させない。いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面での過保護。「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護(ひご)のもとだけで子育てをするなど。子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室育ち」というタイプの子どもになる。外へ出すと、すぐ風邪をひく。
さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がない。自分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親はこう言った。「子ども同士が喧嘩をしているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを殴り飛ばしたい衝動にかられます」と。
また別の母親は、自分の息子(中二)が傷害事件をひき起こし補導されたときのこと。警察で最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。たまたまその場に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机を叩いたりして、手がつけられなかった」と話してくれた。
己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。
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目を閉じれば、そのまま夢の世界。
無数の面影が、まぶたを横切る。
時は、今は、モーツアルト。
ピアノ協奏曲二一番ハ長調が終わり、
つづいて、二三番イ長調……。
おだやかなひととき、
ふと、思うのは、あなたのこと、
あなたは、今、どこで何を思う。
あのとき、ぼくは、あなたの、
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理由にもならないような言い訳を口にして……。
人生は、切なさのかたまり。
その切なさを、ひとつずつかみしめながら、
何度も、ため息まじりに、過去をながめる。
ふと気がつくと、そこには秋の冷気。
椅子にかかったタオルを引き寄せる。
その中に、さらに深く身を沈める。
遠くで小鳥が鳴いた。カラスも鳴いた。
それを心のどこかで聞きながら、意識が遠のく。
やがてぼくは、深い、深い夢の中……。
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離婚の危機
私たち夫婦も、何度か、離婚の危機を迎えたことがある。決して、安穏(あんのん)な結婚生活ではなかった。
しかしそのとき、最後の最後まで、どちらかが意地を張っていたら、私たちは本当にそのまま、離婚していただろう。しかし一度は、その一歩手前で、私が意地を捨てた。プライド(自尊心)も捨てた。捨てて、「離婚するのはいやだ」と、今のワイフに、泣いて懇願した。
私が生まれ育った環境は、ふつうではなかった。父が母に暴力を振るう姿は、何度か、見ている。父が暴れて、食卓を足で蹴って、ひっくり返している姿は、ごく日常的な光景だった。
さらにある夜のこと。祖父が、父の首をつかみ、水道の蛇口の下で、父の頭に水をかけたこともある。そのとき、父は狂人のように暴れ、祖父は、それ以上にものすごい声で、父を罵倒していた。
私の少年期は、そういう意味で、悲惨なものだった。
だから私は、当然のことながら、心に深いキズを負うことになった。正直に告白する。結婚してから、妻に暴力を振るったことも、たびたびある。しかしそれは私自身がしたというよりは、(決して、弁解するわけではないが……)、私自身が宿命的にもつ、心のキズが、そうさせた。
これを心理学の世界では、世代連鎖とか、世代伝播(でんぱ)とかいう。
今でも、そうした邪悪な部分が、私には残っている。完全に消えたわけではない。私が自分をみつめながら、もっとも、警戒するのは、自分自身の中の、二重人格性である。私はふとしたことがきっかけで、もう一人の自分になってしまうことがある。
ふだんの私は、やさしく、穏やかで、さみしがり屋。しかしもう一人の自分になると、破滅的になり、孤独に強くなる。「家族なんか、いなくても、平気」という状態になる。
一度、そういう自分になると、どちらが本当の私なのか、わからなくなる。ただよく言われる人格障害と違う点は、それぞれのとき、別の「私」がちゃんと横にいて、自分をコントロール、しているということ。
「今のお前は、本当のお前ではないぞ」と。
そういうこともあって、私は、結婚してからも、「暖かい家庭」を恋こがれる一方、どこかいつも、ぎこちなかった。だいたいにおいて、私の中には、しっかりとした父親像すらなかった。
離婚の危機を迎えたのは、そういう私に原因があった。加えて、私は、昔からの男尊女卑思想の強い土地柄で生まれ育っている。はじめのころは、ワイフの反論や、反抗を許さなかった。いや、ワイフも必死だった。だから、いつも喧嘩は、「なんだ、その言い方は!」で始まった。
もし反対の立場なら、私はとっくの昔に離婚していただろう。が、ワイフは、人一倍、辛抱強い女性だった。それに私の、将来の生真面目さと、それに家族への、人一倍強い、熱望を理解していた。
かろうじて、本当にかろうじて、私たちが離婚しなかったのは、そういう理由による。いや、それでも、そういう危機を迎えたことがある。
ワイフが、おかしな新興宗教団体に通い始めたからである。私たちの間には、喧嘩が絶えなくなった。離婚の危機というのは、そういうとき起きた。そして最終的には、離婚か、さもなくば、私も入信かという状況まで、追いこまれた。
そのときのこと。私は、最後の最後のところで、プライドを捨てた。捨てて、「離婚はいやだ」と泣いた。ワイフは、それで思いとどまってくれた。……と思う。今でも、かろうじて「夫婦をしている」ということが、その結果である。
実は、今日、ある男性からメールをもらった。その内容については、了解をもらっていないので、ここに掲載することはできない。しかし以前、私が迎えたと同じような危機的な状態にいる。
その男性は、子どもの親権を男性(夫)のものにすることで、離婚に同意したという。(まだ正式には離婚していない。)私は、そのメールをもらって、いあたたまれない気持ちになった。だから、返事には、こう書いた。
「昔、宝島という本を書いた、スティーブンソンという
人は、こう言っています。
『我等が目的は、成功することではない。失敗に
めげず、前に進むことである』と。
スティーブンソンは、ほかに、『ジキル博士とハイド氏』
という本も書き、そのあと放浪の旅に出ます。
実のところ、私も、この言葉に、何度も励まされ
ました。「失敗にめげず、前に進むことだ」と。
どんな夫婦も、そのつど離婚の危機を
乗り越えています。同窓会などで会っても
みな、そう言っています。
で、そのとき、最後の最後で、ふんばるかどうか、
その違いが、運命を大きく変えます。
だからといってYT様が、ふんばっていないと
いうのではありません。それでもふんばりきれない
ときも、あるのです。
しかしいただいたメールから判断すると、
奥様のほうが、もう少し自分を見つめる機会が
あれば、今の危機的状況を回避できるような
気がします。
つまり奥様が、自分自身のトラウマに気づいて
おられないように思います。そしてそれに奥様
が気づけば、このまま離婚に至らなくても
すむように思うのです。
みながみな善良な人達なのですが、どこかで
たがいにキズつけあってしまう……。そんなこと
は、よくあります。
つらいですね。多分、その気持ちはYT様の
ほうが強いのではないかと思います。
そこに幸福があるのに、そしてみなが、ほんの
少しだけ心を開けば、その幸福が、向こうから飛び込んで
くるのに、みなが、どこかで意地を張って、わざと
背を向けてしまう……。
そんな印象をもちました。
どうでしょうか?
一度、あなたのほうから、心を開き、敗北を
認め、頭を地面にこすりつけてみては……。
『お前が好きだ。お前ないでは生きて行かれない』と
です。
まだ夫婦なのですから……。
いらぬお節介かもしれませんが、日本語には
すばらしい格言があります。
『負けるが、勝ち』と。
負けて負けて、負けつづけるのです。
自尊心も、プライドも捨て、裸になって、
自分をさらけだすのです。
その純粋さが、相手の心を溶かします。
……で、仮に、それでも、離婚ということに
なっても、あなたは必ず、すがすがしいものを
感じます。
負けるのです。負けを認めるのです。
それは勝つことより、ずっと勇気がいることですが、
それが夫婦の絆を取り戻します。太くします。
もっとも、あなたのほうが、『愛』を感じないようで
あれば、おしまいですが……。
もしたがいの愛が少しでも残っているなら、
そうしなさい。
女性というのは、勝たせておけばいいのです。
男というのは、負けたフリをしながら、妻(女性)を
自分の支配下におけばよいのです。
まだ最後のチャンスがありますので、あきらめない
でください。
頭を地面にこすりつける。相手がその状態で
足で蹴っても、ただひたすら、懇願する。
プライドなんか、クソ食らえ(尾崎豊)です。
こう書くのは、あなたのためです。
それでも、破綻するなら、それはもうあなたの
責任ではない。あなたの運命です。
やるだけのことをやったという思いが、
そのあと、あなたの立ち直りを早くします。
あなたは過去を振りきって、前に向かって
進むことができます。そのためにも、
負けを認めます。無理にがんばらないで、です。
本当にいらぬ節介をしていますが、
どうか気分を悪くしないでください。
私も、何度か、離婚の危機に立たされた
ことがあります。
一度は、最悪の状態になったこともあります。
しかし私は最後の最後のところで、
頭をさげました。負けを認めました。
いつか機会があれば、別のところで
それについて書いてみます。
みんなそんな危機など、一度や二度は
経験します。どうでしょうか?
もうだめでしょうか。
『子どものため』ということは、この際、あまり
考える必要はないと思います。
あくまでも、あなた自身を見据えて、結論を
出してください。
このつづきは、また今夜、考えてみます。
こうした気持ちが、YT様や、奥様に
伝わればうれしいです。
では、今夜は、これで失礼します」と。
一〇年も、夫婦をしていれば、一度や二度、離婚の危機はやってくる。二〇年もしていれば、もっときびしい危機がやってくる。しかし三〇年もしていると、やがてあきらめる。人生の終わりが近づいてくるからだ。
そのとき、二つの考え方が生まれる。一つは、「まあ、こんなもの」と、それまでの人生を受け入れる考え方。もう一つは、「最後の最後だから」と、それまでの人生を清算する考え方。熟年離婚する人の考え方は、後者の考え方に基づく。
離婚することが悪いというのではない。あくまでも本人たちの問題だから、本人たちが納得すれば、それはそれで構わない。ただ世の中には、暖かい家庭を恋焦がれるあまり、それが原因で失敗していく人も多い。私はこういう人を、「悲しきピエロ」と呼んでいる。
人を笑わせようとするのだが、少しも、おもしろくない。楽しくない。その人自身が、おもしろいと思っているだけ。だから演技すればするほど、まわりの人がしらけてしまい、やがて観客はだれもいなくなる……。
あなたや私に、何がある? ごく平凡な生活に、ごく平凡な人生。それ以外に、何がある? そんな庶民が、身を支えあいながら、懸命に生きている。大きな幸福なんてものは、ない。噴水があるような、ガーデンに咲く花など、望むべくもない。道端に咲く、小さな花を、「美しい」と思いながら、またそう思いこみながら、生きている。
そんな庶民が、あえて自ら、小さな、小さな幸福に、背を向けてしまう……。
よく誤解されるが、離婚が離婚になるのは、たがいの関係が、破局するからではない。最後の最後まで、どちらかが、がんばってしまうからだ。心を開かず、意地を張るからだ。そしてそこにある小さな、小さな幸福に、背を向けてしまうからだ。
愛がなければ話は別だが、まだ愛が残っているなら、勇気を出して、心を開く。空に向って、心を解き放つ。あとの結果は、自然とついてくる。意地なんて、クソ食らえ! プライドなんて、クソ食らえ!
もちろん、それでも離婚する人は、離婚する。運命というのは、いつも、結果として、あとからついてやってくるもの。しかしそのときは、そのときで、その運命を受け入れることができる。まずいのは、「こんなはずではない」「こんなはずではなかった」と、ズルズルと、悔恨の地獄の中に、身や心を、引きずりこまれること。
そうならないためにも、一度、裸になる。素っ裸になる。そして自分の心と体を、相手にさらけ出す。白日のもとに、さらけ出す。
あとのことは、相手に任せばよい。そういうあなたを理解せず、また理解できないで、去っていくというのなら、それも、人生。それも運命。相手にだって、その人生や、運命がある。離婚といっても、ただの紙切れ。ただの制度。あとは、たがいに、前向きに生きていけばよい。
(031014)