件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司●H. Hayashi■■6-21-1
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03-6-21号(245)
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by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
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● 6月24日(火) アイセル21 午前10時~12時
主催 静岡市文化振興課 定員(330人)になりましたので、
外部の方の参加は、していただけないそうです。ごめんなさい!
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今日のメニュー
【1】子育てポイント
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【3】子育てエッセー
【4】フォーラム
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【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
何でも聞きかえす子ども
ある母親(鳥取県Y町のTNさん)より、こんな相談があった。
「うちの子(小三男児)は、何でも聞きかえすクセがあります。たとえば算数の問題でも、『5かける5は……?』と聞くと、すかさず、『何だって? ……5かける5?』とです。掛け算の九九などは、即座の答が出てこなければならないはずですが、万事がこの調子なのです。学校の参観日でも、先生が何かを聞くたびに、そのつど、聞きかえしています。どうしたらなおるでしょうか」と。
これはクセではない。わかりやすく言えば、言語の発達が遅滞することによる症状(言語発達遅滞)で、それだけに簡単にはなおらない。つまり大脳皮質部などの高次神経系の働きに問題があるとみる。さらに詳しく言えば、こうなる。外から与えられた情報は、一度脳のあちこちに格納されたあと、その脳の中で、あちこちに受け渡しされる。その受け渡しがうまくできないとき、ここでいうような症状が現れる。言葉を覚え始めたころの幼児には、よく見られる現象だが、小学校の低学年児についてみれば、二〇~三〇人の一人くらいの割合で出現する(筆者推計)。
脳障害の一つに考える学者もいる。が、「障害」といっても、脳のばあい、ひとつのところがおかしくても、ほかの部分がそれを補完するようになるので、それほど大げさに考える必要はない。年齢が大きくなるにつれて、それがやがてわからなくなる。中学生になっても、それまでの習慣が、残像的なクセとして残ることはあるが、そのときは、あくまでもクセ。学習に影響を与えるということは少ない。ただ全体としてみると、脳の機能が不全である分だけ、とくに小学生のころには、学習面での遅れが目立つことが多い。
このタイプの子どものばあい、指導で注意しなければならないのは、何かを口頭で指示しても、即座に反応できないこと。そのため注意力が散漫に見えたり、話を聞いていないのではないかと誤解されやすい。しかし実際には、(音として入った情報)→(言葉として理解する)→(理解したことを、分析判断し、行動に移す)という、それぞれの段階で、情報の受け渡しができないために、そうなる。本人を責めても、意味はない。
こうした子どもの指導法としては、数度、繰りかえしてやるのもよいが、情報そのものは、脳の一部に残っているので、それが理解できるまで、一呼吸、間をおくようにするとよい。さらに気になったら、算数の問題などは、一度、ノートなどに、書き写させるとよい。そしてあとは、時期を待つ。その時期は、ここにも書いたように、中学に入学する前後ということになる。それまでにあせって、なおそうとしたり、無理をすると、かえって逆効果になるので注意する。
【Y君、小四男児の例】
最初気になったのは、Y君独特の会話法であった。私が何を話しかけても、「何?」「えっ!」「ふん」と、一度は、言いかえしてくる。算数の勉強のときも、そうだ。たとえば「二番の問題を読んでください」と話しかけると、「えっ? 問題? 二番?」と。いきなり指したときなどは、とくにそうで、何も聞いていなかったような反応を示す。
【Hさん、小五の例】
物語を読んであげても、どこかポカンとした表情を示す。あとで内容を聞いても、ほとんど理解していない。ほかに「この本を、Bさんに渡してください」と指示すると、一度、自分の心の中で、それを復唱しているのがわかる。「この本ね、Bさんにね、渡すのね」と。このHさんも、私が何か話しかけても、一瞬とまどった様子を見せ、いちいちそれを聞きかえしてくる。
大切なことは、それがその子どものもって生まれた宿命と思い、あきらめて受け入れること。脳の機能の問題とからんでいるため、本人の自意識や指導でなおる問題ではない。ただ私のばあい、できるだけ情報をビジュアル化させることで、指導するようにしている。たとえば「3+4」の問題でも、即座に、頭の中に、三個の丸と、四個の丸を思い浮かばせ、それを数えさせるようにするなど。しかしそれとて、一年単位の根気が必要である。
(030613)
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/)氷)
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くし∨≫ゞ
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【2】心に触れて(Touch your Heart)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
以前、書いた原稿を、再度、送ります。(635まで)
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自己中心ママ
自己中心性の強い母親は、「私が正しい」と信ずるあまり、何でも子どものことを決めてしまう。もともとはわがままな性格のもち主で、自分の思いどおりにならないと気がすまない。
このタイプの母親は、思い込みであるにせよ何であるにせよ、自分の考えを一方的に子どもに押しつけようとする。本屋へ行っても、子どもに「好きな本を買ってあげる」と言っておきながら、子どもが何か本をもってくると、「それはダメ、こちらの本にしなさい」と、勝手にかえたりする。子どもの意見はもちろんのこと、他人の話にも耳を傾けない。
こうした自己中心的な子育てが日常化すると、子どもから「考える力」そのものが消える。依存心が強くなり、善悪のバランス感覚が消える。「バランス感覚」というのは、善悪の判断を静かにして、その判断に従って行動する感覚のことをいう。そのため言動がどこか常識ハズレになりやすい。たとえばコンセントに粘土を詰めて遊んでいた子ども(小一男児)や、友だちの誕生日のプレゼントに、虫の死骸を箱に入れて送った子ども(小三男児)がいた。さらに「核兵器か何かで世界の人口が半分になればいい」と言った男子高校生や、「私は結婚して、早く未亡人になって黒いドレスを着てみたい」と言った女子高校生がいた。
ところで母親にも、大きく分けて二種類ある。ひとつは、子育てをしながらも、外の世界に向かってどんどんと積極的に伸びていく母親。もう一つは自分の世界の中だけで、さらにものの考え方を先鋭化する母親である。外の世界に向かって伸びていくのはよいことだが、反対に自分のカラを厚くするのは、たいへん危険なことでもある。こうした現象を「カプセル化」と呼ぶ人もいる。一度こうなると、いろいろな弊害があらわれてくる。
たとえば同じ過保護でも、異常な過保護になったり、あるいは同じ過干渉でも、異常な過干渉になったりする。当然、子どもにも大きな影響が出てくる。五〇歳をすぎた男性だが、八〇歳の母親の指示がないと、自分の寝起きすらできない人がいる。その母親はことあるごとに、「生まれつきそうだ」と言っているが、そういう男性にしたのは、その母親自身にほかならない。
子育てでこわいのが、悪循環。子どもに何か問題が起きると、親はその問題を解決しようと何かをする。しかしそれが悪循環となって、子どもはますます悪い方向に進む。とくに子どもの心がからむ問題はそうで、「以前のほうが症状が軽かった」ということを繰り返しながら、症状はさらに悪くなる。
自己中心的なママは、この悪循環におちいりやすいので注意する。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
見栄、メンツ、世間体
見栄、メンツ、世間体。どれも同じようなものだが、この三つから解放されたら、子育てにまつわるほとんどの問題は解決する。言いかえると、多かれ少なかれ、ほとんどの親はこの三つのしがらみの中で、悩み、苦しむ。が、日本人ほど、世間体を気にする民族は少ない。長く続いた封建時代の結果、そうなったと考えられる。「皆と同じことをしていれば安心だが、そうでなければそうでない」と。
世間体を気にすればするほど、親もそして子どもも、他人の目の中で生きるようになる。子どもの見方も相対的なものになり、「うちの子は、A高校だから優秀だ」「隣の子はB高校だから、うちの子より劣っている」と。が、それだけではすまない。ある母親は息子(中三)の進学高校別の懇談会には、一度も出席しなかった。「(そんな高校では)恥ずかしい」というのが理由だったが、こうしたものの考え方は、親子のきずなを決定的なほどまでに粉々にする。こんな例もある。
「私は私」「うちの子はうちの子」「他人がどう思うとも、私は自分の子どもを信ずる」という割りきりが、子育てをわかりやすくする。子どもの心を守る。そしてそういうものの考え方が、一方で親子のきずなを深める。こんなことがあった。
ある男性が彼の母親に、それまでの会社勤めをやめ、幼稚園の教師になると告げたとき、彼の母親は電話口の向こうで、オイオイと泣き崩れてしまった。「恥ずかしいから、それだけはやめてくれ!」と。その男性はこう言う。「私は母だけは私を信じ、私を支えてくれると思いました。が、母は『あんたは道を誤ったア!』と。それまでは母を疑ったことはないのですが、その事件以来、母とは一線を引くようになりました」と。
ここでいう「ある男性」というのは、私自身のことだが、だからといって私は母を責めているのではない。母は母として、当時の常識の中でそう言っただけだ。
生きる美しさは、いかにその人らしく生きるかで決まる。また生きる実感もそこから生まれる。言いかえると、他人の目の中で生きれば生きるほど、結局は自分の人生をムダにすることになる。
何かにつけ世間体が気になる人は、一度自分の人生観を洗いなおしてみたらよい。世間体というのはそういうもので、一度気にし始めると、それがその人の生き方の基本になってしまう。私の母も八五歳をすぎたというのに、いまだに「世間」という言葉をよく使う。「世間が笑う」「世間体が悪い」と。その年齢になったら、もう他人の目などは気にせず、「私は私」という人生を貫けばよいと思うが、母にはそれができない。が、はた(世間)から見ても、それほど見苦しい人生ほない。皮肉といえば、これほど皮肉なことはない。
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【3】子育てエッセー∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
混乱から受容へ
子どもの将来を決定的に左右する……というよりは、親自身の処理能力を超えた問題が起きると、親は、当然のことながら、パニック状態になる。しかしこうしたパニック状態は、長つづきしない。人間の心理は、不安定な状態に弱い。そこで人間は、自分の心を守るため、自らを調整しようとする。これを防衛機制という。そしてつぎのような段階を経て、自分の心を整理する。
子どもの不登校を例にとって、考えてみる。
【混乱期】
たとえばある朝、突然、自分の子どもが「学校へ行かない」と言い出したとする。それまでは心のどこかに不安を感じていたものの、たいていの親は、「まさか!」と思い、ついで、「どうしてうちの子が!」と思う。
そして「このままではうちの子は、だめになってしまう」「落ちこぼれてしまう」と、妄想が妄想を呼び、パニック状態になる。それはそれまで順当(?)に進んできた、レールからの脱線、もしくは、組み立ててきた教育観の崩壊を意味する。ある母親は、自分の子どもがそうなったとき、高いビルにのぼり、突然、ハシゴをはずされたような感じだったと言った。また別の母親は、崖から落とされたような感じだったと言った。
が、それだけではない。子どもが不登校を起こすと、たいていの親は、親として否定されたかのように思ったり、親として失格という烙印を押されたかのように感ずる。それはおそろしいほどの衝撃である。
さらにそれまで、他人の子どもの不登校を見ながら、それを批判してきた人ほど、その衝撃は大きい。そういう自分に天罰がくだったかのように感ずる人もいる。
ともかくも、こうした混乱が突発的に起こる。そしてそれが突発的であるため、不安の連鎖が始まり、親は、限りなくパニック状態に陥る。この時期に共通した症状としては、つぎのようなものがある。
●無理をしてでも、学校へ行かせようとする。
【抵抗期から激怒期】
こうしたパニック状態が一巡すると、親は、自分の置かれた立場、子どもに現れた症状を否認するようになる。「そんなはずはない」「うちの子にかぎって」と。そして「悪いのは、自分や子どもではなく、原因は外の世界にある」と思いこむ。
たいていの親は、「いじめが原因だ」「学校の先生が悪い」と、原因さがしを始める。子どもは子どもで、親に聞かれるまま、あれこれ理由らしきことを口にする。もちろん理由がないわけではない。しかしそれはいわば引き金となった理由であって、本当に理由ではない。問題の「根」は、もっと深いところにある。
この段階で、相手の子どもの家に、「お宅の子どもが原因で、うちの子が、学校へ行けなくなってしまった。どうしてくれる!」と、怒鳴り込んでいった親がいる。学校の校長に、「担任の先生をかえてくれ」と、要求していった親もいる。さらに朝の四時(朝の四時!)に、相手の子どもの親に、抗議の電話を入れた親もいる。この時期に共通した症状としては、つぎのようなものがある。
●子どもが口にするターゲット(理由づけ)に振りまわされ、先生や相手を攻撃したり、ときには転校したりする。
【取り引き期】
少し冷静になったところで、「どうすれば学校へ行くようになるか」を考える。あるいは「学校で勉強できない分を、どうやって補うか」を考える。
子どもに対しては、激励、説得、懇願、ときには、機嫌取りや叱咤を繰り返す。「このままでは、○○中学へ行けなくなる」と、脅すこともある。しかしこうした一連の行為は、風邪をひいて、熱を出している子どもに向かって、水をかけるようなもの。効果がないばかりか、かえって症状を悪化させる。
しかし親は、取り引きをやめない。家庭教師を雇ってみたり、学校へ頻繁に相談に行ったりする。そして子どもに、「一時間でもよいから」「給食だけでもよいから」と、あれこれ働きかける。そして週に一度でも、そして一時間でも学校へ行ったりすると、それを喜んだり、「せめて二日」「せめて二時間」と願ったりする。
この段階で子どもの症状は、一進一退する。親はそのつど、はかない希望をいだいたり、あるいは反対に絶望したりする。この振幅が、親を、さらに不安にする。「この問題は、半年単位で考えなさい」と言っても、親には理解できない。親にしてもれば、一か月どころか、一週間でも長い。
【トンネル期】
やがて親は、長くて暗いトンネルに入る。精神状態そのものが、抑うつ状態になる人も多い。元気で登校する子どもをみると、「どうしてうちの子だけが」「どうして私だけが」と悩む。
あちこちの相談会に行ったり、本を読んだりするのが、この時期。しかし同時に、自分の心を整理するという作用も生まれる。「学校とは何か」「教育とは何か」と。さらに「希望とは何か」「絶望とは何か」、「子どもを愛するということは、どういうことか」というレベルまで考える人もいる。
そしてやがて、その人なりに、何が本当に大切で、何がそうでないかを考えるようになる。そしてそうした思いが優勢になってくると、トンネルの先に、光見るようになる。なおこの時期は、その親ががんばればがんばるほど、また学歴信仰度が高ければ高いほど、長くつづく。共通した症状としては、つぎのようなものがある。
●心に張りついた抑うつ感、子どもへの怒りといとおしさが混在する。
【受容期】
現状を受け入れ、あきらめるようになる。学校や他人からの働きかけを、うるさく感ずるようになる。しかしトンネル期が、それで終わるわけではない。ときどき思い出したように、トンネルに入ったり、出たりする。しかしその回数が減り、やがて親はここでいう受容期に入る。
最初は、「あなたの好きなようにしなさい」と言ってみる。どこか勇気のいる言葉である。しかしそれがだんだんと自然な言葉で言えるようになる。世間の目や他人の目が、それほど気にならなくなる。また家の中でも、子どもの存在感が小さくなり、相対的に、親のほうに心の余裕ができてくる。この時期、こう言った母親がいた。「いろいろやってはみましたが、結局は、うちの子も、ふつうの子だとわかりました。そのふつうに気がつくまでに、親は遠い回り道をするのですね」と。
子どもといっしょに散歩に行ったり、旅行したりするようになる。「将来はどうなるのか」という不安より、「今、できることを一生懸命しておこう。結果はあとからやってくる」というような考え方になってくる。共通した症状としては、つぎのようなものがある。
●おおらかで、豊かな親子関係。友だち的な親子になる。
以上、四期に分けて考えてみた。もちろんこれはどちらかというと理想的な形(?)。中には、トンネルへ入ったまま、そこから抜け出ることができない親もいる。また短期間で、最後のステージまでたどりつく親もいれば、反対に、最初の段階で、つまずいてしまう親もいる。
しかし忘れてならないのは、これらは親の問題であって、子どもの問題ではないということ。ここに例としてあげた不登校にしても、子ども自身にとっては、「学校に行きたくない」「行くことができない」というだけのことで、何ら問題ではない。わかりやすく言えば、親が勝手に騒いでいるだけ。そしてその心配や不安を、子どもにぶつけているだけ。
こうした子どもの問題をかかえたら、できるだけ良質な情報をたくさん集めて、その問題を理解することも大切なことだが、それ以前に、こうした問題があることを知り、ある程度の予備知識を頭の中に入れておくことも大切である。こうした予備知識は、いわば道に迷ったときの地図の役割をはたしてくれる。
(030613)
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
病院で
やせこけた頬
かわいた茶色の皮膚
それをおおう、白い、不精ひげ
鼻には、透明の細いホースがつけられ
ぼんやりと、その老人は、ぼんやりと空をみつめる。
白いパイプのベッド
それをおおう、さらに白いシーツ
消毒薬のにおいと、あたりにただよう病臭
水色の服を着たヘルパーさんが
表情も変えず、ただ黙々と、行き来する。
それは私の未来か?
はたまた、あなたの未来か?
老齢は、だれにも平等にやってくる。
「私は違う!」と、いくら払いのけても
あの老人の顔が、脳裏に焼きついて離れない。
あの老人は、何を考えていたのか。
うつろな目で何を見ていたのか。
なつかしく、若々しいころの自分か。
それとも、やがてやってくる死の恐怖か。
あるいは、心を無にしているだけなのか。
いつか私も、逆の立場で、ベッドに横たわり、
通路に立ち止まる男を見るだろう。
そのとき私は、きっとその男に
こうつぶやくに違いない。
「これがお前の、つぎの姿だ」と。
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
乳幼児の記憶
新生児や、乳幼児にも、記憶はある。科学的にそれを証明したのは、ワシントン大学のメルツォフ(発達心理学)たちである。しかもその記憶の量と質は、私たちが想像するよりも、はるかに濃密なものであると考えてよい。
その一例として、野生児がいる。生後直後から、人間の手を離れ、野生の世界で育てられた人間をいう。よく知られた野生児に、フランスのアヴェロンで見つかった、ヴィクトールという少年。それにインドで見つかった、アマラ、カマラという二人の少女がいる。
アヴェロンの野生児についていえば、発見されたときは、推定一二歳ほどであったが、死ぬまでの四〇歳の間に覚えた単語は、たった三つだけだったという。またインドの二人の少女は、完全なまでに動物の本性と生活条件を身につけていたという。感情表現もなく、おなかがすいたときに怒りの表情。肉を食べたとき、満足そうな表情を見せた以外、生涯、ほほえむこともなかったという。
この野生児からわかることは、乳幼児期の記憶、なかんずく、生活環境が、きわめて濃密な形で、その人間の人格形成に影響を与えているということ。またその時期にできた、いわゆる人格の「核」というのは、その後、生涯にわたって、その人のまさに「核」となって、その人の生きザマに影響を与えるということ。
私たちは新生児や乳幼児を見ると、そのあどけなさから、「こういう幼児には記憶などあるはずがない」とか、あるいは、自分自身の記憶と重ねあわせて、「人間の記憶が始まるのは、四、五歳の幼児期から」と考えやすい。しかしこれは誤解というより、まちがいである。
子どもは生まれたときから、そして乳幼児期にかけて、ここにも書いたように、きわめて濃密な記憶を、脳の中にためこんでいく。しかも重要なことに、人間は、自分の子育てをしながら、自分が受けた子育てを、再現していく。これを私は、勝手に「人格の再現性」と呼んでいる。子育てを再現するというよりは、その人自身の人格を再現するからである。
わかりやすい例でいえば、たとえば自分の子どもが中学生になると、ほとんどの親は、言いようのない不安や心配を覚える。しかしそれは自分の子どもの将来についての不安や心配というよりは、自分自身が中学時代に覚えた不安や心配である。将来に対する不安、人間が選別されるという恐怖。それを自分の子どもを通して、親は再現する。
私も、最近、こんな経験をしている。
昨年、孫が生まれた。二男の子どもである。二男は、インターネットで、子育ての様子を伝えてくれるが、その育て方を見ていると、二男は恐らく、自分では、自分は自分の子育てをしているつもりかもしれないが、どこかしこというより、全体としてみると、私が二男にした子育てと同じことを繰りかえしているのがわかる。
こうしたことからも、つまり現象面から見ても、新生児や乳幼児にも、記憶がしっかりと残っていることがわかる。そういう意味では、ワシントン大学のメルツォフたちの研究は、それを追認しただけということになる。
さてここが重要である。
あなたはあなたの子どもの記憶を、決して安易に考えてはいけない。子どもが泣いているとき、あるいはひょっとしたら眠っているといでさえ、子どもの脳は、想像を超える濃密さで、そのときの状況を、記憶として蓄積している。そしてそれがそのまま、その子どもの人格の核となっていく。
これに対して、「私は自分の記憶を、四、五歳くらいまでしか、たどることができない。だからそれ以前は、記憶はないのではないか」という意見もある。しかしこれについては、もう一度、はっきりと否定しておく。
記憶は、記銘(脳の中に記録する)、保持(その記憶を保つ)、そして想起(思い出す)という操作を経て、人間の記憶となる。ここで重要なことは、想起できなからといって、記憶がないということではないということ。事実、脳の中心部に辺縁系と呼ばれる組織があり、その中に海馬(かいば)という組織がある。
この海馬には、ぼうだいな量の記憶が保持されている。が、その記憶のほとんどは、私たちの意識としては、想起できないことがわかっている。いわば担保に取られた貯金のようなもので、取り出すことはもちろん、使うこともできない。しかしそしてそうした記憶は、無意識の世界で、その子どもを、そして現在のあなたを、裏から操る……。
繰りかえすが、新生児や乳幼児の記憶を、決して、安易に考えてはいけない。
(030614)
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これに関連して書いた原稿が、つぎの原稿(中日新聞発表済み)である。