最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●マガジン過去版(3)

2011-05-08 12:27:23 | 日記
件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆10-20-1

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How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
  Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
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★ ★★★★★★★★★★★★★
02-10-20号(126)
★ ★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワードです!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
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● 愛知県尾張旭市にて、講演会をもちます。よろしかったらおいでください。
   11月14日(木)スカイワードアサヒ 午前10時~12時
        主催  尾張旭市教育委員会
● 静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時~12時
        主催  静岡市文化振興課  
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      ___ \____/ ___  一緒に、心の鍋物を食べましょう!
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Hiroshi Hayashi, Japan
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今日のテーマ、「子育て格言」(新シリーズ)

【1】欧米人のジョーク(Jokes for laughs)
【2】子育て格言―新シリーズ(Words of Wisdom for Young Mothers
【3】燃え尽きる子ども(Burnt Out)
【4】随筆(Essays)
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【1】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
日本人とユーモア
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ユーモアと意識

●全英でグランプリを獲得したユーモア
 世界で、ナンバーワンのグランプリをとった、ユーモアは、つぎのようなものであった(〇二年・全英ユーモア大賞)。

 二人のハンターが、狩に行った。
 一人が木に登って、落ちて意識を失った。
 そこでもう一人のハンターがみると、
 木から落ちたハンターが、息をしていないのがわかった。
 そこでそのハンターは携帯電話で救急隊に電話した。
 すると救急隊の女性が、
 「死んでいるかどうか確かめてくれ」と言った。
 そこでそのハンターは、銃で倒れた男を撃った。
 そしてこう言った。「確かめました」と。

 このユーモアはテレビの昼のワイドショーでも紹介された(〇二年一〇月)。そしてレポーターが街で、このユーモアを幾人かの人や大学生にこのユーモアを読んできかせ、「おもしろいですか」と聞いた。結果、日本人は、全員、「別におもしろくない」と。が、一方、英語のわかる欧米人にこのユーモアを読ませると、全員、「おもしろい」と。多分あなたも、このユーモアを読んで、「どこが……?」と首をかしげたことと思う。

 この結果をふまえて、ワイドショーの司会者は、「日本人は、欧米人とユーモアのセンスが違いますね」と、結論づけていた。しかしこれほど、日本人の無知をさらけだしたコメントもないだろう。このユーモアには、掛け言葉が隠されている。それを知らないというか、訳に訳しだせなかったところが、誤解のもと。

 英文では、「確かめてくれ」という部分が、「make sure」になっている。「メイク・シュア」には、「確認する」という意味と、もうひとつ、「確かなものにせよ(とどめを刺せ)」という、二つの意味がある。そこでそのハンターは、銃で撃つことによって、木から落ちたハンターの死を確かなものにした。実にハンターらしい「確認のし方、イコール、確かなものにした(とどめを刺した)」というところが、このユーモアの柱になっている。(ハンターは、とどめの一発を撃って、動物の死を確実なものにすることが多い。)

 数人のコメンテイターも、さかんにクビをかしげていたが、私は「このテレビ局には、英語のわかる人はいないのか」と思った。わかればこうした誤解はないはずである。こんな話もある。

 もう二〇年ほど前だが、オーストラリアに「トークバック」というラジオ番組があった。その中で、年間の最優秀賞をとったジョークにこんなのがある。

司会者「あなたは、あなたの今の夫とはじめて会ったとき、何と言いましたか」
女性(五〇歳くらい)「……うむん、……それはむずかしい問題だわね」と。

 これだけの会話が、年間の最優秀賞に選ばれた。その理由があなたには、わかるだろうか。実はこれも掛け言葉である。その女性は、英語でこう言ったのだ。

 「It’s a hard one.」と。その女性は、「それはむずかしい問題だね」という意味で、「イッツ・ア・ハード・ワン」と言ったのだが、「ハード」には「かたい」という意味がある。それでそれを聞いた人は、「それ(あなたのペニス)はかたいわね」という意味にとった。まじめそうな女性が、さりげなく堂々と言ったところがおもしろい。オーストラリア中の人たちが笑った理由は、そこにある。

●こんなジョークも……
 最近、オーストラリアの友人から、こんなジョークが送られてきた。おもしろいので紹介する。日本人にもわかるジョークなので、安心して読んでほしい。

 九〇歳の老人が病院へ行くと、ドクターがこう言った。
 「精子の数を検査しますから、明日までに精子をとって、このビンの中に入れてきてください」と。

 が、その翌日、その老人がカラのビンをもって病院へやってきた。
 そこでそのドクターが「どうしたのですか?」と聞いた。
 すると、その老人はこう言った。

 「いえね、先生……
 右手でやってもだめでした。
 左手でやってもだめでした。
 それでワイフのイーボンに頼んで
 手伝ってもらったのですが、だめでした。
 イーボンが右手でやってもだめでした。
 左手でやってもだめでした。
 そこでイーボンは、入れ歯を全部はずして
 口でやってくれましたが、それでもだめでした。
 しかたないので、隣のメアリーに頼んでやってもらいました」

 ドクターは驚いて、「隣の家のメアリーに!」と聞いた。

 するとその老人は、

 「はい、そうです。メアリーも最初は右手でやってくれましたが、
 だめでした。
 左手でやってくれましたが、それでもだめでした。
 メアリーも口でやってくれましたが、だめでした。
 最後に、足の間にはさんでやってくれましたが、それでもだめでした」と。

 ドクターが目を白黒させて驚いていると、老人はこう言った。

 「でね、先生、どうやっても、このビンのフタをあけることができませんでした。
 イーボンにも、メアリーにもやってもらいましたが、
 フタをあけることができませんでした。
 それで精子をとることができませんでした」と。

((((⌒((  ヽ
   ヽ│6 6 ρ )
    人 ▽ 人′ ~♪
   ( _) (_ )
    /′ V (ヽ       秋が深まってきました。
   /│田│ 田│ヽ        外出には、とてもすばらしい季節ですね!
   / │ │  │ ヽ

【2】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
子育て格言③

●成熟した社会

 年長児でみても、上位一〇%の子どもと、下位一〇%の子どもとでは、約一年近い能力の差がある。さらに四月生まれの子どもと、三月生まれの子どもとでは、約一年近い能力の差がある。そんなわけで、同じ年長児といっても、ばあいによっては、約二年近い能力の差が生まれることがある……ということだが、さてさて?

 しかし日本の教育の大義名分は、「平等教育」。親もこの時期、子どもの能力には、過剰なまでに反応する。ほんのわずかでも自分の子どもの遅れを感じたりすると、それだけで大騒ぎする。以前、こんなことがあった。ある日突然、一人の母親から電話がかかってきた。そしてこう怒鳴った。

 「先生は、できる子とできない子を差別しているというではありませんか。できる子だけ集めて、別の問題をさせたそうですね。どうしてうちの子は、その仲間に入れてもらえないのですか」と。私が何かの調査をしたのを、その母親は誤解したらしい。そこでその内容を説明したのだが、最後までその母親には、私の目的を理解してもらえなかった。が、私はそのとき、ふとこう考えた。「どうして、それが悪いことなのか」と。

 仮に私ができる子だけを集めて、何か別のことをしたところで、それは当然のことではないか。日本の教育は平等といいながら、頂上には東大があり、その下に六〇〇以上もの大学がひしめきあっている。それこそピンからキリまである。高校にも中学にも序列がある。もともとできる子と、できない子を、同じように教えろというほうがムリなのだ。……と思ったが、やはりこの考え方はまちがっていた。

 できる子はできない子を知り、できない子はできる子を知り、それぞれがそれぞれを認めあい、助けあうことこそ大切なのだ。そういう社会を成熟した社会という。「力のあるものがいい生活をするのは当然だ」「力のないものは、それなりの生活をすればいい」というのは、一見正論に見えるが、正論ではない。暴論以外の何ものでもない。たとえあなたの子どもが、今はできがよくても、その孫はどうなのか。さらにそのひ孫はどうなのか……ということを考えていくと、自ずとその理由はわかるはず。

 その社会が成熟した社会かどうかは、どこまで弱者にやさしい社会かで決まる。経済活動には競争はつきものだが、しかし強者が弱者をふみにじるようになったら、その社会はおしまい。そういう社会だけは作ってはいけない。そのためにも、私たちは子どもを、能力によって、差別してはいけない。そしてそのためにも、できる子とできない子を分けてはいけない。子どもたちを温かい環境で包んであげることによって、子どもたちは、そこで思いやりや同情、やさしさや協調性を学ぶ。それこそが教育であって、知識や知恵というのは、あくまでもその副産物に過ぎない。

 日本では「受験」、つまり人間選別が教育の柱になっている。こうした非人間的なことを、組織的に、しかも堂々としながら、それをみじんも恥じない。そこに日本の教育の最大の欠陥が隠されている。冒頭に、私は「上位一〇%」とか、「下位一〇%」とか書いたが、こうした考え方そのものが、まちがっている。私はそのまちがいを、その母親に教えられた。


●のどは心のバロメーター
  
 大声を出す。大声で笑う。大声で言いたいことを言う。大声で歌う。大声で騒ぐ。何でもないようなことだが、今、それができない子どもがふえている。年中児(満五歳児)で、約二〇%はいる。

 この「大声で……」というのは、幼児教育においては、たいへん大切なテーマである。この時期、大声を出させるだけで、軽い情緒障害くらいなら、なおってしまう。(「治る」という言い方は、教育の世界ではタブーなので、あえてここでは、「なおる」とする。)私も幼児を教えて三〇年以上になるが、この「大声で……」を大切にしている。言いかえると、「大声で……」ができる子どもに、心のゆがんだ子どもは、まずいない。そういう意味で、私は、『のどは、心のバロメーター』という格言を考えた。

 が、反対に「大声で……」ができない子どもがいる。笑うときも、顔をそむけて苦しそうにクックッと笑うなど。「大声を出してくれたら、それほど気が楽になるだろう」と思うのだが、大声で笑わない。原因は、母親にあるとみてよい。威圧的な過干渉や過関心、神経質な子育て、暴力、暴言が日常化すると、子どもの心は内閉する。ひどいばあいには、萎縮する。意味のないことをボソボソと言いつづけるなど。が、そういう子どもの親にかぎって、自分のことがわからない。「うちの子は生まれつきそうです」とか言う。中には、かえってそういう静かな(?)子どもを、できのよい子と思い込んでいるケースもある。こうした誤解が、ますます教育をむずかしくする。

 ともかくもあなたの子どもが、「大声で……」を日常的にしているなら、あなたの子どもは、それだけですばらしい子どもということになる。


●のびたバネは、必ず縮む
 
 ムリをすれば、子どもはある程度は、伸びる(?)。しかしそのあと、必ず縮む。とくに勉強はそうで、親がガンガン指導すれば、それなりの効果はある。しかし決してそれは長つづきしない。やがて伸び悩み、停滞し、そしてそのあと、今度はかえって以前よりできなくなってしまう。これを私は「教育のリバウンド」と呼んでいる。

 K君(中一)という男の子がいた。この静岡県では、高校入試が、人間選別の関門になっている。そのため中学二年から三年にかけて、子どもの受験勉強はもっともはげしくなる。実際には、親の教育の関心度は、そのころピークに達する。

 そのK君は、進学塾へ週三回通うほか、個人の家庭教師に週一回、勉強をみてもらっていた。が、母親はそれでは足りないと、私にもう一日みてほしいと相談をもちかけてきた。私はとりあえず三か月だけ様子をみると言った。が、そのK君、おだやかでやさしい表情はしていたが、まるでハキがない。私のところへきても、私が指示するまで、それこそ教科書すら自分では開こうとしない。明らかに過負担が、K君のやる気を奪っていた。このままの状態がつづけば、何とかそれなりの高校には入るのだろうが、しかしやがてバーントアウト(燃え尽き)。へたをすれば、もっと深刻な心の問題をかかえるようになるかもしれない。

 が、こういうケースでは、親にそれを言うべきかどうかで迷う。親のほうから質問でもあれば別だが、私のほうからは言うべきではない。親に与える衝撃は、はかり知れない。それに私のほうにも、「もしまちがっていたら」という迷いもある。だから私のほうでは、「指導する」というよりは、「息を抜かせる」という教え方になってしまった。雑談をしたり、趣味の話をしたりするなど。で、約束の三か月が終わろうとしたときのこと。今度は父親と母親がやってきた。そしてこう言った。「うちの子は、何としてもS高校(静岡県でもナンバーワンの進学高校)に入ってもらわねば困る。どうしても入れてほしい。だからこのままめんどうをみてほしい」と。

 これには驚いた。すでに一学期、二学期と、成績が出ていた。結果は、クラスでも中位。その成績でS高校というのは、奇跡でも起きないかぎりムリ。その前にK君はバーントアウトしてしまうかもしれない。「あとで返事をします」とその場は逃げたが、親の希望が高すぎるときは、受験指導など、引き受けてはならない。とくに子どもの実力がわかっていない親のばあいは、なおさらである。

 親というのは、皮肉なものだ。どんな親でも、自分で失敗するまで、自分が失敗するなどとは思ってもいない。「まさか……」「うちの子にかぎって……」と、その前兆症状すら見落としてしまう。そして失敗して、はじめてそれが失敗だったと気づく。が、この段階で失敗と気づいたからといって、それで問題が解決するわけではない。その下には、さらに大きな谷底が隠れている。それに気づかない。だからあれこれムリをするうち、今度はそのつぎの谷底へと落ちていく。K君はその一歩、手前にいた。

 数日後、私はFAXで、断りの手紙を送った。私では指導できないというようなことを書いた。が、その直後、父親から、猛烈な抗議の電話が入った。父親は電話口でこう怒鳴った。「あんたはうちの子には、S高校はムリだと言うのか! ムリならムリとはっきり言ったらどうだ。失敬ではないか! いいか、私はちゃんと息子をS高校へ入れてみせる。覚えておけ!」と。

 ついでに言うと、子どもの受験指導には、こうした修羅場はつきもの。教育といいながら、教育的な要素はどこにもない。こういう教育的でないものを、教育と思い込んでいるところに、日本の教育の悲劇がある。それはともかくも、三〇年以上もこの世界で生きていると、そのあと家庭がどうなり、親子関係がどうなり、さらに子ども自身がどうなるか、手に取るようにわかるようになる。が、この事件は、そのあと、意外な結末を迎えた。私も予想さえしていなかったことが起きた。それから数か月後、父親が脳内出血で倒れ、死んでしまったのだ。こういう言い方は不謹慎になるかもしれないが、私は「なるほどなあ……」と思ってしまった。

 子どもの勉強をみていて、「うちの子はやればできる」と思ったら、「やってここまで」と思いなおす。(やる・やらない)も力のうち。そして子どもの力から一歩退いたところで、子どもを励まし、「よくがんばっているよ」と子どもを支える。そういう姿勢が、子どもを最大限、伸ばす。たとえば日本で「がんばれ」と言いそうなとき、英語では、「テイク・イッツ・イージィ」(気を楽にしなさい)と言う。そういう姿勢が子どもを伸ばす。

ともかくも、のびたバネは、遅かれ早かれ、必ず縮む。それだけのことかもしれない。


●谷底の下の谷底

 子どもの成績がさがったりすると、たいていの親は、「さがった」ことだけをみて、そこを問題にする。その谷底が、最後の谷底と思う。しかし実際には、その谷底の下には、さらに別の谷底がある。そしてその下には、さらに別の谷底がある。こわいのは、子育ての悪循環。一度その悪循環の輪の中に入ると、「まだ以前のほうがよかった」ということを繰り返しながら、つぎつぎと谷底へ落ち、最後はそれこそ奈落の底へと落ちていく。

 ひとつの典型的なケースを考えてみる。

 わりとできのよい子どもがいる。学校でも先生の評価は高い。家でも、よい子といったふう。問題はない。成績も悪くないし、宿題もきちんとしている。が、受験が近づいてきた。そこで親は進学塾へ入れ、あれこれ指導を始めた。

 最初のころは、子どももその期待にこたえ、そこそこの成果を示す。親はそれに気をよくして、ますます子どもに勉強を強いるようになる。「うちの子はやればできるはず」という、信仰に近い期待が、親を狂わす。が、あるところまでくると、限界へくる。が、このころになると、親のほうが自分でブレーキをかけることができない。何とかB中学へ入れそうだとわかると、「せめてA中学へ。あわよくばS中学へ」と思う。しかしこうしたムリが、子どものリズムを狂わす。

 そのリズムが崩れると、子どもにしても勉強が手につかなくなる。いわゆる「空回り」が始まる。フリ勉(いかにも勉強していますというフリだけがうまくなる)、ダラ勉(ダラダラと時間ばかりつぶす)、ムダ勉(やらなくてもよいような勉強ばかりする)、時間ツブシ(たった数問を、一時間かけてする。マンガを隠れて読む)などがうまくなる。一度、こういう症状を示したら、親は子どもの指導から手を引いたほうがよいが、親にはそれがわからない。子どもを叱ったり、説教したりする。が、それが子どもをつぎの谷底へつき落とす。

 子どもは慢性的な抑うつ感から、神経症によるいろいろな症状を示す。腹痛、頭痛、脚痛、朝寝坊などなど。神経症には定型がない※。が、親はそれを「気のせい」「わがまま」と決めつけてしまう。あるいは「この時期だけの一過性のもの」と誤解する。「受験さえ終われば、すべて解決する」と。

 子どもはときには涙をこぼしながら、親に従う。選別されるという恐怖もある。将来に対する不安もある。そうした思いが、子どもの心をますますふさぐ。そしてその抑うつ感が頂点に達したとき、それはある日突然やってくるが、それが爆発する。不登校だけではない。バーントアウト、家庭内暴力、非行などなど。親は「このままでは進学競争に遅れてしまう」と嘆くが、その程度ですめばまだよいほうだ。その下にある谷底、さらにその下にある谷底を知らない。

 今、成人になってから、精神を病む子どもは、たいへん多い。一説によると、二〇人に一人とも、あるいはそれ以上とも言われている。回避性障害(人に会うのを避ける)や摂食障害(過食症や拒食症)などになる子どもも含めると、もっと多い。子どもがそうなる原因の第一は、家庭にある。が、親というのは身勝手なもの。この段階になっても、自分に原因があると認める親はまず、いない。「中学時代のいじめが原因だ」「先生の指導が悪かった」などと、自分以外に原因を求め、その責任を追及する。もちろんそういうケースもないわけではないが、しかし仮にそうではあっても、もし家庭が「心を休め、心をいやし、たがいに慰めあう」という機能を果たしているなら、ほとんどの問題は、深刻な結果を招く前に、その家庭の中で解決するはずである。

 大切なことは、谷底という崖っぷちで、必死で身を支えている子どもを、つぎの谷底へ落とさないこと。子育てをしていて、こうした悪循環を心のどこかで感じたら、「今の状態をより悪くしないことだけ」を考えて、一年単位で様子をみる。あせって何かをすればするほど、逆効果。(だから悪循環というが……。)『親のあせり、百害あって一利なし』と覚えておくとよい。つぎの谷底へ落とさないことだけを考えて、対処する。
(02-10-13)

    ⌒⌒    Ω
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   §§σσ§ {←・ }
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  〈〈/ ̄ ̄ ̄/ │∥┌⊃    遠慮なく、お申しつけください。
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【3】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
※ (参考)以前書いた原稿を、添付しておきます。(中日新聞で発表済み)
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子どもの心が燃え尽きるとき

●「助けてほしい」   
 ある夜遅く、突然、電話がかかってきた。受話器を取ると、相手の母親はこう言った。「先生、助けてほしい。うちの息子(高二)が、勉強しなくなってしまった。家庭教師でも何でもいいから、してほしい」と。浜松市内でも一番と目されている進学校のA高校のばあい、一年生で、一クラス中、二~三人。二年生で、五~六人が、燃え尽き症候群に襲われているという(B教師談)。一クラス四〇名だから、一〇%以上の子どもが、燃え尽きているということになる。この数を多いとみるか、少ないとみるか?

●燃え尽きる子ども
 原因の第一は、家庭教育の失敗。「勉強しろ、勉強しろ」と追いたてられた子どもが、やっとのことで目的を果たしたとたん、燃え尽きることが多い。気が弱くなる、ふさぎ込む、意欲の減退、朝起きられない、自責の念が強くなる、自信がなくなるなどの症状のほか、それが進むと、強い虚脱感と疲労感を訴えるようになる。概してまじめで、従順な子どもほど、そうなりやすい。で、一度そうなると、その症状は数年単位で推移する。脳の機能そのものが変調する。ほとんどの親は、ことの深刻さに気づかない。気づかないまま、次の無理をする。これが悪循環となって、症状はさらに悪化する。その母親は、「このままではうちの子は、大学へ進学できなくなってしまう」と泣き崩れていたが、その程度ですめば、まだよいほうだ。

●原因は家庭、そして親
 親の過関心と過干渉がその背景にあるが、さらにその原因はと言えば、親自身の不安神経症などがある。親が自分で不安になるのは、親の勝手だが、その不安をそのまま子どもにぶつけてしまう。「今、勉強しなければ、うちの子はダメになってしまう!」と。そして子どもに対して、しすぎるほどしてしまう。ある母親は、毎晩、子ども(中三男子)に、つきっきりで勉強を教えた。いや、教えるというよりは、ガミガミ、キリキリと、子どもを叱り続けた。子どもは子どもで、高校へ行けなくなるという恐怖から、それに従った。が、それにも限界がある。言われたことはしたが、効果はゼロ。だから母親は、ますますあせった。あとでその母親は、こう述懐する。「無理をしているという思いはありました。が、すべて子どものためだと信じ、目的の高校へ入れば、それで万事解決すると思っていました。子どもも私に感謝してくれると思っていました」と。

●休養を大切に
 教育は失敗してみて、はじめて失敗だったと気づく。その前の段階で、私のような立場の者が、あれこれとアドバイスをしてもムダ。中には、「他人の子どものことだから、何とでも言えますよ」と、怒ってしまった親もいる。私が、「進学はあきらめたほうがよい」と言ったときのことだ。そして無理に無理を重ねる。が、さらに親というのは、身勝手なものだ。子どもがそういう状態になっても、たいていの親は自分の非を認めない。「先生の指導が悪い」とか、「学校が合っていない」とか言いだす。「わかっていたら、どうしてもっとしっかりと、アドバイスしてくれなかったのだ」と、私に食ってかかってきた父親もいた。

 一度こうした症状を示したら、休息と休養に心がける。「高校ぐらい出ておかないと」式の脅しや、「がんばればできる」式の励ましは禁物。今よりも症状を悪化させないことだけを考えながら、一にがまん、二にがまん。あとは静かに「子どものやる気」が回復するのを待つ。


   ξ《《》》
   ξξσσξ
   ξξ~▽~ノξ
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   l/  (・・)     お友だちに記事を転送していただいても構いませんが、
   /  ⊂▼▼⊃      「はやし浩司」のクレジット(署名)だけは
  /    │ ∈         どうか、忘れないでくださいね!
 **********∪ ̄∪          

【4】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
子育て随筆byはやし浩司(173)

悪のドミノ倒し

 このところ浜松市内の交差点の様子が変わってきた。四つ角でも、赤信号に変わってからも交差点につっこんでくる車がふえた。赤信号になって、一呼吸おいてからつっこんでくる車も、少なくない。おかげで、横断歩道を渡るのも命がけ。先月は、歩行者用信号が青になったので渡ろうとして、私が半分ほど渡ったところに、赤信号を無視して飛び出してきた車があった。思わず「あぶない!」と叫んだが、そういうドライバー(二〇歳代の女性)にかぎって、こちらを見向きもせず、走り去っていった。

 二〇年前には、こういうことはなかった。ただ地域性があるというか、名古屋市のドライバーは、マナーが悪いということは、当時から感じていた。しかしこの浜松までそうなるとは! こうしたマナーは、だれか一人が破ると、ちょうどドミノ倒しのように、つぎからつぎへと破られ、あっという間に、総倒れになる。これを「悪のドミノ倒し」という。たとえば交差点で、黄色信号になったからと車を止めたりすると、うしろの車が、「早く行け」と、クラクションを鳴らす。あるいはこれはワイフが経験したことだが、わざと追突寸前まで、車をこすりつけられたりする。

 こうした「悪のドミノ倒し」は、経済状況が悪化し、社会情勢が不安になると、あちこちで、しかもあらゆる場面で、起こる。そしてそれがきっかけで、あっという間に、社会秩序は崩壊する。敗戦直後の日本でも、起きた。あの旧ソ連が崩壊するときも起きた。そして最悪のばあには、略奪や強奪にまで発展する。店や役所を、焼き討ちするということもある。悪のドミノ倒しを甘くみてはいけない。

 このドミノ倒しは、いかにその前兆段階でとらえ、そしてその段階で抑えるかが大切。つまりそのために警察という組織があるが、その警察がこのところアテにならない。決められたことを、必要最低限しかしていないという感じ。「法の番人」というよりは、親切でやさしい公務員といった感じ。目の前で赤信号になってから飛び出した車を見かけても、見て見ぬフリ。(実際、そういう場面を見かけたぞ!)正義を守るという気迫が、どこにもない?

 こうしたドミノ倒しは、ここにも書いたように、あらゆる場面で起きる。騒音やゴミ問題。インチキやゴマカシなど。もちろん家庭の中でも起きる。家庭が崩壊するときも、同じようにいろいろな場面でこの「悪のドミノ倒し」が始まる。電気がつけっぱなしになる。ゴミが散らかったままになる。食事の時間が乱れる。たがいに約束が守れなくなるなど。一度こういう状態になると、崩壊するまでに、それほど時間はかからない。

 私は交差点で、赤信号になってからもつっこんでくる車を見かけるたびに、(今でもどこの交差点でも、当たり前の光景になってきたが)、「日本も、あぶない段階に入った」とみる。この大不況の中で、人々の心がどこか殺伐(さつばつ)としてきた。しかしこういう時代に、いかに「自分」を保ちつづけるか。それで、その人の価値が決まる。私も、実のところ、自信はないが、できるだけ自分を保ちたいと思う。これから先、この日本や世界は、たいへんな時代を迎えるだろう。……だろうというより、そうなるという前提で考えたほうがよい。たまたま今日、アイルランドから帰ってきた女性に聞いたが、そのヨーロッパでは、急速に極右勢力が力をもちだし、各国の政情が不安定になりつつあるという。この極東も、例外ではない。何がどうなるかということは、ここでのテーマではないので、書かないが、日本の国家経済は、今、完全に破綻(はたん)している。日本だけ無事にすむという保証は、もうない。が、ただひとつ、願わくば、子どもたちの世界だけは、そのワクの外に置きたい。その努力だけは、忘れてはならない。
(02-10-11)

(教訓)正直に生きるのがバカらしいとか、まじめに生きると損という社会をつくってはいけない。しかしこの私も、実のところ、そう感ずることが多くなった。ときどき、自分のまじめさが、バカらしく思えることがある。みなさんは、どうですか? (本当の私は、決してまじめ人間ではない。必死になって、まじめなフリをしているだけ。あるいはまじめでいようと思っているだけ。)

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子育て随筆byはやし浩司(174) 
 
本当の私

 私はもともと小ズルイ男で、今も、それが自分の中にしっかりと残っている。すべてをあの戦争の責任にするわけではないが、私が過ごした幼児期というのは、戦後の混乱期。まさにドサクサのころで、秩序があるようで、なかった。そういう時代だった。親たちも食べていくだけで精一杯。家庭教育といっても、その「キョ」の字もなかった。

 その私が一見、まじめそうな顔をして生きているのは、そういう自分を必死になって押し殺しているからにほかならない。一度幼児期にできた「自分」を消すことは、私の経験からしても不可能だと思う。ふと油断をすると、すぐ表面に出てきてしまう。ただ私のばあい、それが「盗み」とか、「暴力」とか、そういう反社会的な面で出てこないだけ、ラッキーだった。出てくるとするなら、「お金」と「女性」についてだ。

 まず、「お金」。たとえば道路でサイフを拾ったりすると、それをどうするかでいまだに、悩んだり苦しんだりする。しかしそういう自分がいやだから、つまりあとで、あと味の悪い思いをするのがいやだから、何も考えず、交番に届けたり、近くの店に届けたりしている。自分の行動パターンを決めて、それに従っている。

 つぎに「女性」。私の青春時代は、まさに「女に飢えた時代」だった。高校生のときも、デートをしただけで先生に叱られた。そうした欲求不満が、私の女性観をゆがめた。イギリスの格言にも、『抑圧は悪魔をつくる』というのがあるが、まあ、それに似た状態になった。結婚前は、女性を「おもちゃ」ぐらいにしか考えていなかった。女性の気持ちなどまったく無視。セックスの対象でしかなかった。が、ある事件を契機に、そういう「女遊び」をまったくやめたが、今でも、そういう思いはたしかに残っている。ふと油断すると、女性が「おもちゃ」に見えるときがある。(しかしこれは本能によるものなのか、自分の意識によるものなのかは、よくわからない。たとえば男というのは、射精する前と、射精したあとでは、女性に対する関心が、一八〇度変わる。射精する前には、ワイフでもたしかにおもちゃに見える。しかし射精すると、その思いは完全に消える。なぜか?)

 話を戻す。こうした小ズルさがあるから、反対に、他人の小ズルさが、よくわかる。相手が、自分でもしそうなことをすると、それがすぐわかる。先手をとったり、それから身を守ったりする。そういう意味では役にたっている。が、それがよいのか悪いのか? 人を疑うのは、あまり気持ちのよいものではない。しかしこういうことは言える。私のワイフは、同じ団塊の世代だが、人を疑うことを知らない。純朴と言えば聞こえはよいが、実際には無知。そのため今まで悪徳商法の餌食(えじき)にされかかったことが、何度となくある。おかしな料理器具や、アワ風呂発生器や、あやしげな生協活動や、はたまた新興宗教などなど。私が「やめろ」と言わなければ、今ごろはかなりの損をしていたと思う。

 そんなわけで私が今、一番恐れているのは、やがて気力が弱くなり、自分の本性がそのままモロに外に出てくること。そうなったとき、私は実に醜い人間性をさらけ出すことになる。すでに今、その兆候が現れ始めている?
 
 そこで私は今、つぎのことに心がけている。どんなささいなルールも守る。ワイフが、「そんなこといいのに……」とあきれるときもあるが、とにかく守る。そのルールが正しいとか正しくないとか、そういうことは判断しない。一応社会のルールになっているときは、それを守る。

 あるいはどんな少額でも、お金はごまかさない。レジなどで相手がまちがえたときは、おつりが多くても少なくても、(少ないときは当然だが……)、即、申告する。お金は借りない。貸さない。もちろん交通ルールは守る。黄色になったら、どんなばあいでも、止まる。自転車に乗っていても、それは守る。そういうことを自然にしている人から見れば、「そんなこと当然のことではないか」と笑われるかもしれないが、私はそうしている。そうしながら、つまり、自分の行動パターンを、できるだけわかりやすくしながら、自分の邪悪な部分を目覚めさせないようにしている。
(02-10-11)

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子育て随筆byはやし浩司(175)

満五五歳になるについて

 私はもうすぐ満五五歳になる。年齢などというのは、ただの数字だから、それにこだわらねばならない理由など、ない。はっきり言って、どうでもよい。しかし無視するわけにはいかない。人間が社会的動物であるなら、その社会には、そのつど無数の尺度がある。年齢は、その第一の尺度ということになる。

 私がN氏にはじめて会ったのは、N氏が五五歳になる少し前だった。雪の降り積もった昼のことで、すれ違いざま、「このあたりに下宿はありませんか」と聞いたのが、きっかけだった。そのとき私は金沢大学の学生で、下宿をさがしていた。そのあと、私はN氏には、N氏がなくなるまで、ずっと何かにつけて世話になった。今、自分がその五五歳になるとき、どういうわけだか、N氏の名前と、顔が一番最初に頭の中に浮かんだ。

 つぎに隣人のR氏のことが頭に浮かんだ。私が今住んでいる場所に引っ越してくるとまもなく、R氏も引っ越してきた。そのときR氏が、「満五五歳です」と言ったのを、はっきりと覚えている。R氏は、旧国鉄を退職する直前だった。「もうすぐ定年退職でね」と言った言葉もよく覚えている。

 ほかにもあるが、昔は、満五五歳というのは、定年退職の年で、その年齢には特別の意味があった。中学のときの先生も、高校のときの先生も、みんな満五五歳で退職していった。そういう人たちを頭の中に思い浮かべながら、「ああ、私もその五五歳か」と思う。「早い」というより、不思議なことに、私には、自分が満五五歳であるという実感がほとんど、ない。少なくとも私には定年というものがないし、いわんや退職ということもない。しかし、私は五五歳!

 その五五歳になって、私は今、あがいているのか? 何かができそうで、結局は何もできなかった。何かをするにも、もう年齢制限は超えている。これから先、今まで以上に何かをできるということは、ありえない。しかしまだ何かができそうな気がする。何かをしなければならないような気もする。が、一方では、心のどこかでは、こんな声も聞こえる。「あきらめろ。あがいてもムダだ」と。しかし私は自分を止めることができない。行くしかない。前に進むしかない。

 その五五歳になっても、私のまわりには、わからないことだらけ。ときどき講演などで演壇に立ったとたん、「どうしてこの私がこんなところに立っているのだろう」と思うときがある。何もわかっていない私が、さもしたり顔で、みなの前に立つ。何かを教えてもらいたいのは、むしろ私のほうなのだ。が、そこで壇をおりるわけにはいかない。そういうときは、「ええい、なるようになれ!」と心の中で叫びながら、ものをしゃべり始める。つまりそれがそのまま今の私の心境ということになる。私は「ええい、なるようになれ!」と、生きている。

 さて、これから先、私はどのように自分の人生を組み立てたらよいのか。計画はあるのか、ないのか。目標はあるのか、ないのか。そんなことを自分に問いかけていると、結局は自分が無限ループの輪の中に入ってしまうのがわかる。つまり堂々巡り。同じことを考えて、また同じ結論に達してしまう。そしてそれは恐ろしいことだが、「計画はない。目標もない。ただこのまま死ぬまでがんばるしかないだろうな」と。

 で、タイトルを「満五五歳になるについて」としたので、何か気のきいたことを書きたいのだが、それがまったく書けない。昨日は昨日。今日は今日。明日は明日。やはり満五五歳などといっても、それは私とは関係のないただの数字でしかない。だから何か特別のことを書けと言われても、何も書けない。今日は今日で、明日は明日で、私は私なりに懸命に生きていくしかない。年齢や日にちに関係なく、だ。

 ただこういうことは思う。N氏にしても、R氏にしても、そして私が知っている先生たちにしても、そのあと静かに余生を送り、そのほとんどは、もうこの世にいない。「私もあっという間にそうなるだろうな」という思いだけは、どうしてもぬぐい去ることができない。だからその分、「急がねば」という思いだけは、今、やたらと強い。
(02-10-11)

(追記)多分、ほとんどの読者の方は、私より若いと思う。だからいつか、あなたも満五五歳になったら、この文を読み返してみてほしい。あるいはあなたが満五五歳になったとき、どのように考えるようになるか、それを今から想像してみるのもよいかもしれない。私と同じように考えるだろうか。それとも違うだろうか。それは私にもわからないが、しかし少しだけ未来に自分の時間を置き、「そのときになったら、自分はどうなるのだろう」と想像することはムダではない。そうすることで、あなたはあなたの人生を、仮に私を通してでもよいが、二度生きることができるようになるのではと思う。

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子育て随筆byはやし浩司(176)

持病との闘い

 私には、二つの持病があった。ひとつは花粉症。もうひとつは偏頭痛。しかし今は、この二つを克服した。が、それには長い物語がある。

 まず、花粉症。私が最初に花粉症による症状を自覚したのは、浜松に移り住むようになってからしばらくのことだった。私が二四歳くらいのことではなかったか。春先になって、ひどい鼻水とくしゃみが出た。その前に喘息に似た症状も出た。しかしそのときは花粉症という言葉もまだ一般的ではなく、私は風邪と思い、風邪薬ばかりのんでいた。

 が、年々症状はひどくなった。やがて花粉症という言葉が耳に届くようになり、私は毎年、春先になると、その花粉症に苦しむようになった。その苦しさは、花粉症になったものでないとわからないだろう。杉の木のない沖縄へ移住しようかと本気で考えたこともある。

 もうひとつは偏頭痛。これは三〇歳をすぎるころから現れた。が、それも最初は偏頭痛とはわからなかった。大病院でも、「脳腫瘍」と誤診されるような時代だった。私はそのころ、年数回、大発作に襲われ、そのたびにふとんの上で、四転八転の激痛に苦しんだ。「頭を切ってくれ」と叫んだこともある。

 春が近づくと、私は毎年、ゆううつになった。たいてい二月の下旬からそれは始まり、五月の連休になって、暖かい南風が吹くまで、つづいた。毎晩巨大なマスクをして眠ったが、それでもあまり効果はなかった。睡眠不足と不快感で、顔中まっかにはらしながら、それでも何とか、その時期をしのいだ。そして花粉の季節が終わると、「終わった!」と、毎年とびあがって、それを喜んだ。

 偏頭痛はやがて、強力な薬が開発されて、それをのめば、ウソのように症状は消えるようになった。しかし副作用というか、そのため胃がやられ、そのあと、ゲーゲーとものを吐くこともあった。で、ドクターに相談すると、効力の弱い薬にかえてくれ、ついでに胃の薬ものむようにと指導された。しかしその偏頭痛は、四〇歳を過ぎるころまでつづいた。

 花粉症がなおったわけは、一度、浴びるようにその花粉をかぶったことがある。どうしても山の中で作業しなければならないようなできごとがあり、それでそうした。結果、多分、体のほうがあきらめたのだと思う。それ以後は、毎年、その季節のはじめに少し症状が出るだけで、それ以後は症状は出なくなった。人に言わせると、「ショック療法」というのだそうだ。本当にそういう療法があるのかどうかは知らないが……。

 偏頭痛のほうは、今でも油断すると、出てくるときがある。しかしこちらとは、共存関係というか、じょうずにつきあうことで対処している。このところは、その前ぶれ症状がわかるようになった。どこか頭が重くなってきたら、要注意。「あぶないぞ」と自分に言い聞かせて、回避するようにしている。そういう技術も身につけた。だから大きな発作はないが、しかしそれでもときどき、偏頭痛は起きる。たとえばチョコレートがダメ。おかしなことだが、チョコレートを一、二個食べると、偏頭痛が起きる。だからこの一〇年、チョコレートは、ほとんど食べていない。いや、食べては、そのあと偏頭痛にみまわれ、後悔している。

 だれしも、ひとつやふたつ、持病があるもの。そういう持病とうまくつきあうのも、健康法のひとつかもしれない。
(02-10-12)

      ミ ( ⌒⌒ ) 彡♪♪♪♪
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Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞


●マガジン過去版(2002)(2)

2011-05-08 12:18:09 | 日記
件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆10-18

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How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
  Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
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02-10-18号(125)
★ ★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワードです!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
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● 愛知県尾張旭市にて、講演会をもちます。よろしかったらおいでください。
   11月14日(木)スカイワードアサヒ 午前10時~12時
        主催  尾張旭市教育委員会
● 静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時~12時
        主催  静岡市文化振興課  
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「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しました。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
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ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
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Hiroshi Hayashi, Japan
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今日のテーマ、「子育て格言」(新シリーズ)

【1】子育て格言―新シリーズ(Words of Wisdom for Young Mothers)
【2】溺愛ママ……ファミリスより
【3】評論(Hiroshi’s Forum)
【4】随筆(Essays)
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子育て格言②

●何でも握らせる
 
 人類の約五%が、左利きといわれている(日本人は三~四%)。原因は、どちらか一方の大脳が優位にたっているという大脳半球優位説。親からの遺伝という遺伝説。生活習慣によって決まるという生活習慣説などがある。一般的には乳幼児には左利きが多く、三~四歳までに決まるとされる。
 
 それはともかくも、幼児を観察してみると、何か新しいものをさしだしたとき、すぐ手でさわりたがる子どもと、そうでない子どもがいるのがわかる。さわるから知的好奇心が刺激されるのか、あるいは知的好奇心が旺盛だから、さわりたがるのかはわからないが、概して言えば、さわりたがる子どもは、それだけ知的な意味ですぐれている。これについて、こんな話を聞いた。

 先日、タイを旅したときのこと。夜店を見ながら歩いていたら、中国製だったが、石でできた球を売っていた。二個ずつ箱に入っていた。そこで私が「これは何?」と聞くと、「老人が使う、ボケ防止の球だ」と。それを手のひらの中で器用にクルクルと回しながら使うのだそうだ。そしてそれが「ボケ防止になる」と。指先に刺激を与えるということは、脳に刺激を与え、それが知的な意味でもよい方向に作用するということは前から知られている。

 もしあなたの子どもが乳幼児なら、何でも手の中に握らせるとよい。手のマッサージも効果的。生活習慣説によれば、左利きも防げる。(左利きが悪いというのではないが……。)そして「何でもさわってみる」という習慣が、ここにも書いたように好奇心を刺激し、「握る」「遊ぶ」「作る」「調べる」「こわす」「ハサミなどの道具を使う」という習慣へと発達する。もちろん指先も器用になる。

(補足)子どもの器用さを調べるためには、紙を指でちぎらせてみるとよい。器用な子どもは、線にそって、髪をうまくちぎることができる。そうでない子どもは、ちぎることができない。


●難破した人の意見を聞く 

 『航海のしかたは、難破した者の意見を聞け』というのは、イギリスの格言。人の話を聞くときも、成功した人の話よりも、失敗した人の意見のほうが、役にたつという意味。子育ても、そう。

 何ごともなく、順調で、「子育てがこんなに楽でよいものか」と思っている親も、実際にはいる。しかしそういう人の話は、ほとんど参考にならない。それはちょうど、スポーツ選手の健康論が、あまり役にたたないのに似ている。が、親というのは、そういう人の意見のほうに耳を傾ける。「何か秘訣を聞きだそう」というわけである。

 私のばあいも、いろいろ振り返ってみると、私の教育論について、血や肉となったのは、幼児を実際、教えたことがない学者の意見ではなく、現場の先生たちの、何気ない言葉だった。とくに現場で一〇年、二〇年と、たたきあげた人の意見には、「輝き」がある。そういう輝きは、時間とともに、「重み」をます。

 ……ということだが、もしあなたの子どもで何か問題が起きたら、やや年齢が上の子どもをもつ親に相談してみるとよい。たいてい「うちもこんなことがありましたよ」というような話を聞いて、それで解決する。


●入試は淡々と

 入試は受かることを考えて準備するのではなく、すべることを考えて準備する。とくに幼児のばあいは、そうする。

 入試でこわいのは、そのときの合否ではなく、仮に失敗したとき、その失敗が、子どもの心に大きなキズを残すということ。こんな中学生(中二女子)がいた。「ここ一番」というときになると、必ず決まって、腰くだけになってしまう。そこで私が「どうして?」と理由を聞くと、こう言った。「どうせ私はS小学校の入試で失敗いたもんね」と。その女の子は、もうとっくの昔に忘れてよいはずの、小学校の入試で失敗したことを気にしていた。

 こうしたキズ、つまり子ども自らが自分にダメ人間のレッテルを張ってしまうということは、本来、あってはならないこと。そのためにも、子どもの入試は、すべることを考えて準備する。もっとわかりやすく言えば、淡々と迎え、淡々とすます。(もちろん合格すれば、話は別だが……。)

実際、子どもの心にキズをつけるのは、子ども自身ではなく、親である。中には、子どもが受験に失敗したあと、数日間寝込んでしまった母親がいる。あるいはあまり協力的でなかった夫と、喧嘩もんかになってしまい、夫婦関係そのものがおかしくなってしまった母親もいる。さらに、長男が高校受験で失敗したとき、自殺をはかった母親もいる。子どもの受験には、親を狂わせる、恐ろしいほどの魔力があるようだ。

 それはさておき、子どもの入試には、つぎのことに注意するとよい。「受験」「受かる」「すべる」という言葉は、子どもの前では使わない。「選別される」という意識を子どもにもたせてはいけない。ある程度の準備はしても、当日は、「遊びに行こう」程度ですます。あとはあるがままの子どもをみてもらい、それでダメなら、こちらからその学校を蹴飛ばすような気持ちですます。そういう思いが子どもに伝わったとき、そのときから子どもはその時点から、また、前向きに伸び始める。


●寝起きのよい子どもは安心

 子ども情緒は、寝起きをみて判断する。毎朝、すがすがしい表情で起きてくるようであれば、よし。そうでなければ、就眠習慣のどこかに問題がないかをさぐってみる。とくに何らかの心の問題があると、この寝起きの様子が、極端に乱れることが知られている。たとえば学校恐怖症による不登校は、その前兆として、この寝起きの様子が乱れる。不自然にぐずる、熟睡できず眠気がとれない、起きられないなど。

 子どもの睡眠で大切なのは、いわゆる「ベッド・タイム・ゲーム」である。日本では「就眠儀式」ともいう。子どもには眠りにつく前、毎晩同じことを繰り返すという習慣がある。それをベッド・タイム・ゲームという。このベッド・タイム・ゲームのしつけが悪いと、子どもは眠ることに恐怖心をいだいたりする。まずいのは、子どもをベッドに追いやり、「寝なさい」と言って、無理やり電気を消してしまうような行為。こういう乱暴な行為が日常化すると、ばあいによっては、情緒そのものが不安定になることもある。

 コツは、就寝時刻をしっかりと守り、毎晩同じことを繰り返すようにすること。ぬいぐるみを置いてあげたり、本を読んであげるのもよい。スキンシップを大切にし、軽く抱いてあげたり、手でたたいてあげる、歌を歌ってあげるのもよい。時間的に無理なら、カセットに声を録音して聞かせるという方法もある。

また幼児のばあいは、夕食後から眠るまでの間、興奮性の強い遊びを避ける。できれば刺激性の強いテレビ番組などは見せない。アニメのように動きの速い番組は、子どもの脳を覚醒させる。そしてそれが子どもの熟睡を妨げる。ちなみに平均的な熟視時間(眠ってから起きるまで)は、年中児で一〇時間一五分。年長児で一〇時間である。最低でもその睡眠時間は確保する。

 日本人は、この「睡眠」を、安易に考えやすい。しかし『静かな眠りは、心の安定剤』と覚えておく。とくに乳幼児のばあいは、静かに眠って、静かに目覚めるという習慣を大切にする。今、年中児でも、慢性的な睡眠不足の症状を示す子どもは、二〇~三〇%はいる。日中、生彩のない顔つきで、あくびを繰り返すなど。興奮性と、愚鈍性が交互に現れ、キャッキャッと騒いだかと思うと、今度は突然ぼんやりとしてしまうなど。(これに対して昼寝グセのある子どもは、スーッと眠ってしまうので、区別できる。)


●指示は具体的に

 子どもに与える指示は、具体的に。たとえば「先生の話をよく聞くのですよ」「友だちと仲よくするのですよ」と子どもに言うのは、親の気休め程度の意味しかない。そういうときは、こう言いかえる。「幼稚園(学校)から帰ってきたら、先生がどんな話をしたか、あとでママに話してね」「この○○(小さなプレゼント)を、A君にもっていってあげてね。きっとA君は喜ぶわよ」と。

「交通事故に気をつけるのよ」と言うのもそうだ。具体性がないから、子どもには説得力がない。子どもに「気をつけろ」と言っても、子どもは何にどう気をつけたらよいのかわからない。そういうときは今度は、寸劇法をつかう。子どもの前で、簡単な寸劇をしてみせる。私のばあい、年に一度くらい、子ども(生徒)たちの前で、交通事故の様子をしてみせる。ダンボール箱で車をつくり、その車にはねられ、もがき苦しむ子どもの様子をしてみせる。コツは決して手を抜かないこと。茶化さないこと。子どもによっては、「こわい」と言って泣き出す子どももいるが、それでも「子どもの命を守るため」と思い、手を抜かない。

 ほかに、たとえば、「あと片づけをしなさい」と言っても、子どもにはそれがわからない。そういうときは、「おもちゃは一つ」と言う。またそれを子どもに守らせる。子どもはつぎのおもちゃで遊びたいため、前のおもちゃを片づけるようになる。(ただし、日本人ほど、あと片づけにうるさい民族はいない。欧米では、「あと始末」にはうるさいが、「あと片づけ」については、ほとんど何も言わない。念のため。)

 これは私の教室でのことだが、私はつぎのように応用している。

 勉強中フラフラ歩いている子どもには、「パンツにウンチがついているなら歩いていていい」「オシリにウンチがついているのか? ふいてあげようか?」と言う。

 なかなか手をあげようとしない子どもには、「ママのおっぱいを飲んでいる人は、手をあげなくていいよ」と言う。

 こうした言い方をするには、もちろんそれなりの雰囲気が大切である。言い方をまちがえると、セクハラ的になる。「それなりの雰囲気」というのは、教師と親の信頼関係と、そうしたユーモアが理解されるようななごやかな雰囲気をいう。それがないと、とんでもない誤解を招くことがある。私もこんな失敗をしたことがある。

 ある日、一人の男の子(小三男児)が、勉強中、フラフラと席を離れて遊んでいた。そこで私が、「おしりにウンチがついているなら、歩いていていいよ」と声をかけた。ふつうならそこでその男に子はあわてて席につくのだが、そこでハプニングが起きた。横にいた別の男の子が、その立っている男の子のおしりに顔をあてて、こう叫んだ。「先生、本当にこいつのおしり、ウンチ臭い!」と。

 そのときはそれで終わったが、つまりその言われた子どもも、それなりに笑って終わったが、その夜、父親から猛烈な抗議の電話が入った。「息子のウンチのことで、息子に恥をかかせるとは、どういうことだ!」と。

((((⌒((  ヽ
   ヽ│6 6 ρ )
    人 ▽ 人′ ~♪
   ( _) (_ )
    /′ V (ヽ
   /│田│ 田│ヽ
   / │ │  │ ヽ

【2】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
ママ診断⑥
あなたは溺愛ママ?
(「ファミリス」11月号より、転載)

●三種類の愛
 親が子どもに感ずる愛には、三種類ある。本能的な愛、代償的な愛、それに真の愛である。本能的な愛というのは、若い男性が女性の裸を見たときに感ずるような愛をいう。たとえば母親は赤ん坊の泣き声を聞くと、いたたまれないほどのいとおしさを感ずる。それが本能的な愛で、その愛があるからこそ親は子どもを育てる。もしその愛がなければ、人類はとっくの昔に滅亡していたことになる。

つぎに代償的な愛というのは、自分の心のすき間を埋めるために子どもを愛することをいう。一方的な思い込みで、相手を追いかけまわすような、ストーカー的な愛を思い浮かべればよい。相手のことは考えない、もともとは身勝手な愛。子どもの受験競争に狂奔する親も、同じように考えてよい。「子どものため」と言いながら、結局は親のエゴを子どもに押しつけているだけ。

●子どもは許して忘れる
三つ目に真の愛というのは、子どもを子どもとしてではなく、一人の人格をもった人間と意識したとき感ずる愛をいう。その愛の深さは子どもをどこまで許し、そして忘れるかで決まる。英語では『Forgive & Forget(許して忘れる)』という。つまりどんなに子どものできが悪くても、また子どもに問題があっても、自分のこととして受け入れてしまう。その度量の広さこそが、まさに真の愛ということになる。

それはさておき、このうち本能的な愛や代償的な愛に溺れた状態を、溺愛という。たいていは親側に情緒的な未熟性や精神的な問題があって、そこへ夫への満たされない愛、家庭不和、騒動、家庭への不満、あるいは子どもの事故や病気などが引き金となって、親は子どもを溺愛するようになる。

●溺愛児の特徴
 溺愛児は親の愛だけはたっぷりと受けているため、過保護児に似た症状を示す。①幼児性の持続(年齢に比して幼い感じがする)、②人格形成の遅れ(「この子はこういう子だ」というつかみどころがはっきりしない)、③服従的になりやすい(依存心が強いわりに、わがままで自分勝手)、④退行的な生活態度(約束や目標が守れず、生活習慣がだらしなくなる)など。全体にちょうどひざに抱かれておとなしくしているペットのような感じがするので、私は「ペット児」(失礼!)と呼んでいる。柔和で、やさしい表情をしているが、生活力やたくましさに欠ける。

●子どもはカラを脱ぎながら成長する
 子どもというのはその年齢ごとに、ちょうど昆虫がカラを脱ぐようにして成長していく。たとえば幼児だと、満四・五歳から五・五歳にかけて、たいへん生意気になる時期がある。この時期を中間反抗期と呼ぶ人もいる。幼児期から少年少女期への移行期と考えるとわかりやすい。しかし溺愛児にはそれがなく、そのためちょうど問題を先送りする形で、体だけは大きくなる。そしていつかそれまでのツケを払う形で、一挙にそのカラを脱ごうとする。しかしふつうの脱ぎ方ではない。たいていはげしい家庭内騒動、あるいは暴力をともなう。が、子どもの成長ということを考えるなら、むしろこちらのほうが望ましい。カラを脱げない子どもは、そのまま溺愛児として、たとえば超マザコンタイプの子どもになったりする。結婚してからも実家へ帰ると母親と一緒に風呂へ入ったり、母親のふとんの中で寝るなど。昔、冬彦さん(テレビドラマ『ずっとあなたが好きだった』の主人公)という男性がいたが、そうなる。

●じょうずな子離れを!
 溺愛ママは、それを親の深い愛と誤解しやすい。中には溺愛していることを誇る人もいる。が、溺愛は愛ではない。このテストで高得点だった人は、まずそのことをはっきりと自分で確認すること。そしてつぎに、その上で、子どもに生きがいを求めない。子育てを生きがいにしない。子どもに手間、ヒマ、時間をかけないの三原則を守り、子育てから離れる。 

(テストは、ファミリス本誌で!)
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子育て随筆byはやし浩司(170)

「勉強しろ」とは言うけれど……

 こんなショッキングな調査報告がある。総務省の「社会生活基本調査」でわかった。大学生や大学院生の、一日の勉強時間は、大学での講義も含めて、たったの二時間五九分(約三時間!)だというのだ。この時間数は、小学生や中学生、高校生や短大生より少ない!

 総務省の調査によると、つぎのような結果になったという(〇一年一〇月、全国の一〇歳以上の男女、二〇万人を対象)。

【学校での授業を含めた学習時間】

   一〇歳以上の小学生……4時間41分(4時間40分)
   中学生      ……5時間26分(5時間29分)
   高校生      ……5時間21分(5時間23分)
   短大・高専    ……3時間 5分(3時間 6分)
   大学・大学院生  ……2時間59分(2時間57分)
(かっこ内は、前回九六年の調査結果)

 
 この数字で恐ろしい(?)ところは、「授業時間も含めて」という点にある。仮に大学生が、九〇分の講義に、二回でれば、それだけで、三時間になる。さらにこれはあくまでも「平均して……」という話。一方に五時間勉強する大学生がいれば、一方に一時間しか勉強しない大学生がいることになる。となると、一体、「大学生とは何か」ということになってしまう。

 そこで大学生に話を聞くと……と、言っても、聞くまでもないし、聞いたこともない。しかし常識論として、彼らの気持ちは、こうだ。

 「大学に入るまで、さんざん勉強させられた。だから大学に入ったからには、遊ぶ」と。あるいは本当にこう言った大学生がいた。私が、「親に感謝しているか」と聞いたときのこと。いわく、「どうして?」と。中には、「親がうるさいから、大学へ入ってやる」と豪語する高校生すらいる。こういう状況だから、もとから「勉強しよう」という意欲など、起こるはずもない。

 子どもに「勉強しろ」と言うのは親の勝手だが、しかしそう言えば言ったで。責任をとらされるのは、親。それだけではない。子どもの勉学意欲すら破壊してしまう。何とか「学歴」だけは身につくが、しかしそれにしても、金がかかる!

ちなみに、親から大学生への支出額は、平均で年、三一九万円。月平均になおすと、約二六・六万円。毎月の仕送り額が、平均約一二万円。そのうち生活費が六万五〇〇〇円。大学生をかかえる親の平均年収は一〇〇五万円。自宅外通学のばあい、親の二七%が借金をし、平均借金額は、一八二万円(九九年、東京地区私立大学教職員組合連合調査)。

 大学へ通う子どもを二人もつと、ほとんどの家の家計はパンクする。
(02-10-9)※

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子育て随筆byはやし浩司(171)

構造的な欠陥

 この浜松市でも、土木建設費は、予算の中でも二〇~二五%を占める。たいへんな額である。そのため作らなくてもよいような、建物や道路ばかり作っている。それはそれとして、教育予算のお粗末なことと言ったら、ない。いや、私が言う教育予算というのは、その分、親たちの負担が大きすぎるということ。

 アメリカでもオーストラリアでも、そしてヨーロッパでも、親のスネをかじって大学へ通っている学生など、さがさなければいないほど、少ない。たいていは奨学金を得たり、あるいは自分の責任で借金をしたりして、大学へ通っている。そういうしくみができあがっている。だから、親の負担も少ないし、一方、大学生にとっては、「自ら学ぶ」という意欲もそこから生まれる。「日本の大学生は、アルバイトばかりして、あとは遊んでいる」という話を聞いた、アメリカの大学生は、「信じられない」と笑っていた。なぜそうなのかというところに、日本の教育システムがかかえる、構造的な欠陥がある。

 しかし問題は、だれもこうした欠陥を改めようとしないこと。親たちは、「この時期だけだから」とあきらめてしまう。仮に運動を起こしても、成果が出るのが五年先、一〇年先ということになる。それを知ると、運動をするという熱意も消えてしまう。それに日本人は、明治の昔から、「こういうのが教育」と、徹底的に洗脳されている。だから私は、今、小学生や中学生の子どもをもつ親に訴えたい。「これでいいのか」と。みんながそれぞれの立場で、「おかしい」と言い出せば、世の中は確実に変わる。私はそういう力を信じている。

 少し政治的な話になったので、この話はここでやめるが、今、行政改革(官僚主導政治の改革)が、一番必要なのが、実は、教育の世界である。しかしそのためには、まず親たちの意識が変わらなければならない。「子どもの教育は私たちがするのだ」という意識が、親たちになければ、行政改革など、まさに絵に描いたモチ。今のように、「教育はもちろん、子育てからしつけ、さらには家庭教育から心の問題までと、何でもかんでも、学校が……」という意識があるかぎり、教育改革など進むわけがない。もっとも、私たちはそこまで骨を抜かれているということだが……。

 さあて、どうする? これでいいのか、日本!
(02-10-11)※

   ξ《《》》
   ξξσσξ
   ξξ~▽~ノξ
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子育て随筆byはやし浩司(168)

子離れ

●子どもが親離れするとき
 子どもは、小学三~四年を境に、友だちとの世界を、急速にふくらませる。交友関係が広くなり、友だちの数もふえる。この変化とともに、子どもは、急速に親離れを始める。それまでは学校でのできごとを話していた子どもも、話さなくなったり、父親と一緒に風呂に入っていた子どもも、それをいやがるようになる。

 子どもはそういう過程を経て、少年少女期から、おとなになるための準備を始める。しかしたいていの親は、子離れの時期と方法がわからず、その段階で戸惑う。日本のばあい、親が子離れする時期は、外国とくらべても、遅い。平均して子どもが中学生くらいになってからとみてよい。しかしこの時期のズレが、多くの、実に日本型の悲喜劇を生みだす。そのひとつが、子どもの受験戦争。子どもはとっくの昔に親離れを始めているのに、親は、それが理解できず、子どもの受験戦争に巻き込まれ、それに奔走する。(巻き込まれるというより、自ら飛び込んでいく?)その意識のズレが、親子の間に深くて大きなキレツを入れることもある。親は子どものためと思って、子どもの受験勉強に奔走するが、子どもから見れば、ありがた迷惑。この「迷惑」が、親には理解できない。

●子離れのふたつの面
 そこでここではもう一歩、話を進める。その子離れには、二つの面がある。ひとつは、親自身の自立。もうひとつは、子どもへの依存性からの脱却。この二つのうち、どちらが欠けても、親は子離れに失敗する。

(1)親自身の自立……親自身が、社会的、あるいは経済的に自立する。母親のばあいは、精神的にも自立する。そのため情緒的な未熟性(不安定)や、精神的な欠陥(うつ病気質など)があれば、当然、それと戦う。精神的な自立性がないと、溺愛や育児ノイローゼに陥(おちい)りやすく、子離れができなくなってしまう。親自身が自分の目標に向かって、前向きに生きていく。そういうたくましさを身につける。 

(2)依存性からの脱却……子どもへの依存性は、多かれ少なかれ、だれしももっている。しかしその依存性が強くなると、子どもの自立を無意識のうちにも、さまたげようとする。「産んでやった」「育ててやった」と、親の恩を押し売りすることもある。安易な孝行論を美化し、それを子どもに求めることもある。「私は私で生きていく。あなたはあなたで生きていきなさい」という割りきりが、子育てには必要である。

●Yさん(六〇歳)のケース
(ケースA)
 Yさん(六〇歳)は、小さな雑貨店を経営していた。しかし一五年前に夫が死ぬ前から、家計は火の車。長男が同居していたが、その長男は体が弱く、ほとんど仕事ができなかった。そこでYさんは、隣町に住む二男から、毎月、一定の金額の援助を受けていた。が、このところの不況で、それもままならなくなってきた。
 そんなある日、二男夫婦が、中国での合弁事業のため、二年半ほど、中国に行くことになった。そのとき、二男夫婦は、貯金通帳や土地の権利書などを、Yさんに預けて中国に旅立った。が、半年後に帰ってみると、通帳からは一〇〇万円単位のお金が引き出され、土地は他人に転売されていた。そのことを二男がYさんに迫ると、Yさんは、こう言ったという。「親が、先祖を守るために、子どもの財産を使って、何が悪い」「子どもなら先祖を守るのは当たり前」と。さらに二男が、「生活費として渡した一〇〇万円はどうした?」と聞くと、「そんなものもらった覚えはない」と。最後までとぼけたという。二男は、中国へ旅立つ前、Yさんに一〇〇万円を渡していた。

 Yさんの精神構造を、まず考えてみよう。このタイプの人は、独特の価値観をもっている。信仰といってもよい。こうした独特の価値観をもっている人を相手にするときは、ふつうの論理をぶつけても、意味がない。さらにYさんのように、六〇歳にもなると、説得してどうのこうのということは、不可能と考えてよい。傷口に盛りあがったカサブタのように、脳そのものが硬直している。

 で、こうした「先祖信仰」というのは、原始民族が共通してもつ思想で、日本民族とて例外ではない。あるいはその一環? アイヌ民族、アメリカインディアン、南米のインディオなど、ちょうど太平洋を取り巻く環太平洋の民族に、その意識が強い? こうした先祖信仰では、「先祖あっての私」と考える。だから私も先祖の僕(しもべ)なら、そのまた子どもは、そのまた僕となる。「先祖を守るために、子どもの財産を使って、何が悪い」という発想は、そういうところから生まれる。が、Yさんのケースでは、もう一つ考えなければならないことがある。それがここでいう「依存性」である。

●日本人が民族性としてもつ依存性
 今でも、精神的に自立できない親は多い。「今でも」というのは、私の年代より古い世代では、親子でもたがいに依存しあうのが、ごく自然な形であった。そのため親は無意識のうちにも、子どもに恩を着せ、一方、子どもは、親を美化することで、自分の依存性を正当化する。「私の親はすばらしい人だ(った)」と公然と言う人は、たいていこのタイプの人とみてよい。

先日もテレビを見ていたら、一人のタレント(五五歳)の様子が紹介されていた。その中で、そのタレントは、こう言っていた。「私の母はいつも、『上見てキリなし、下見てキリなし』と言っていました。私はその母の言葉を思い出すことで、どんな苦しいときも乗り切ることができました」と。しかしこの言葉自体は、戦前の国語の教科書に載っていた言葉で、彼の母親が考え出したものではない。(彼は、彼の母親が考えた言葉だと思っているようだったが……。)こうした美化は、とくにマザコンタイプの男性が、好んでよく用いる手法である。つまり美化することで、自分のマザコン性を正当化する。結婚してからも、妻に、「私がこうであるのは、それだけ母がすばらしいからだ」と言う男は珍しくない。

 で、こうした依存性は相互的なもので、どちらか一方が一方に対して、一方的ということは、まず、ない。親自身が依存性が強く、そういう依存性が、子どもが依存性をもつことを容認してしまうたとえば依存心の強い子どもがいる。よくそういう子どもよく調べてみると、親自身も依存性が強いのがわかる。このことは、子どもを判断するとき、重要な指針となる。印象に残った事件にこんなのがあった。

●D君(年中児)のケース
 D君(年中児)という男の子がいた。柔和でやさしい表情をしていたが、ハキがない。で、ある日のこと。片づけの時間になっても、D君は、いっこうに片づけようとしない。「片づける」という意味すらわからないようであった。そこで私があれこれ、ジェスチャで片づける様子をしてみせ、片づけるように促した。が、そのうちD君はメソメソと泣き出してしまった。多分、家でそうすれば、みなが助けてくれるのだろう。しかしこういうとき、その涙にだまされてはいけない。そういうときは今度は、「泣いてもムダ」ということを教えるしかない。

 しかしその日にかぎって、運の悪いことに(?)、D君の母親が直接、迎えにきていた。母親はD君の泣き声を聞きつけ、教室へ飛び込んできた。そしてていねいだが、すご味のある声でこう言った。「どうしてうちの子を泣かすのですか」と。

 このD君のケースでは、D君がきわめて依存性の強い子どもであることがわかる。自立心のあるなしでみれば、同年齢の子どもとくらべても、きわめて弱い。そこで私はそれを母親に相談しようと思ったが、母親の意識そのものがズレている。「どうしてうちの子を泣かすのですか」という言葉が、それを表している。つまり相談どころか、説明のしようがない。間に、どうしようもないほど遠い距離を感ずる。長い間、母親に接していると、そういうことが直感的にわかるようになる。

 つまりD君の依存心が強いのは、母親側にそれを容認する姿勢がある。つまり母親自身が依存性の強い人とみる。そしてこの相互作用が、D君をD君のような子どもにした。

●悪玉親意識
 さて先のYさん(六〇歳)に話を戻す。このタイプの人は、「私は親だ」という親意識が強い反面、その返す刀で、子どもには隷属性を求める。子どもをモノ、さらには財産と考える人もいる。その親意識が、自分に向かうならまだよい。「私は親だから、親としての責任を果たす」というのがそれ。私はこれを善玉親意識と呼んでいる。しかしその親意識が子どもに向かったとき、それは親風となる。「親風を吹かす」という言葉の「親風」。私はこれを悪玉親意識と呼んでいる。

子どもに隷属性を求めるということは、子どもの中に、自分の居場所をつくることを意味する。つまりそれがここでいう依存性である。だからこのタイプは、無意識のうちにも、子どもに親孝行を求め、また親の立場で、孝行する子どもを高く評価する。「うちのセガレは、孝行息子でねえ」と。まさにYさんが、そのタイプの女性だった。私にもある日、街で会うと、こう言った。「先生、息子なんて育てるものじゃないですねえ。息子は嫁に取られてしまいましたよ。親なんて、さみしいものですわ」と。

●伝播する親子意識
 簡単に「子離れ」というが、その中身は深く、大きい。人によっては、子離れは、そんな簡単なことではない。「人によっては」というのは、子離れがじょうずな人は、本当にじょうずに子離れしていく。しかしできない人はできない。どこにその違いがあるかといえば、結局はその人が生まれ育った環境による。その人自身が、子離れのじょうずな親に育てられたら、じょうずに子離れできる。そうでなければそうでない。つまり子離れも、世代伝播(でんぱ)する。

 そこで最後にこういうことが言える。ここであなたの親はどうであったかということを思い起こしてみてほしい。あなたの親はあなたに対して、じょうずに子離れしたであろうか。もしそうであるなら、それでよい。しかしそうでないなら、今度はあなたが子離れで、ギクシャクする可能性がある。またそういう前提で、あなた自身の子離れを考えてみるとよい。
(02-10-8)

      ミ ( ⌒⌒ ) 彡♪♪♪♪
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
    ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
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Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/→「ニュース」です。
6・24  ……静岡市アイセル21
2・20  ……内野小学校
1・23  ……上島小学校
1・19  ……浜松市医療センター
11・29 ……砂丘小学校
11・21 ……北浜南小学校
11・14 ……愛知県尾張旭市教育委員会・スカイワードアサヒ(10時~12時)
11・6  ……富塚学園・湖東幼稚園
10・30 ……五島小学校
10・17 ……島田市立第四保育園
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●マガジン過去版(2002)

2011-05-08 12:14:05 | 日記
件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆10-16-1

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子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 477人
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最前線の育児論byはやし浩司(メルマガ)  ……読者数(Nr. of Readers)  77人
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はやし浩司の世界(Eマガ)         ……読者数(Nr. of Readers)  50人 
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How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
  Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
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★ ★★★★★★★★★★★★★
02-10-14号(124)
★ ★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワードです!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
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● 愛知県尾張旭市にて、講演会をもちます。よろしかったらおいでください。
   11月14日(木)スカイワードアサヒ 午前10時~12時
        主催  尾張旭市教育委員会
● 静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
   03年6月24日(火) アイセル21 午前10時~12時
        主催  静岡市文化振興課  
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「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しました。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
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      ___ \____/ ___  鍋物がおいしい季節になりましたね!
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みなさんへ、いつも、このマガジンを購読してくださり
ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
From this edition on, my magazine is translated into English
for your convenience. I hope you may enjoy this magazine
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Hiroshi Hayashi, Japan
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メニュー
今日のテーマ、「子育て格言」(新シリーズ)

【1】四割の善と、四割の悪(40% Righteousness & 40% Wrongness)
【2】この三〇年を振りかえって(My days of these passed 30 years)
【3】子育て格言―新シリーズ(Words of Wisdom for Young Mothers)
【4】随筆(Essays)
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  / / F| 彡 `─´
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【1】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
■濱人【連載:子育て、ワンポイントアドバイス by はやし浩司】
メールマガジン「週刊E'news浜松」に掲載した記事より転載
+++++++++++++++++++++++++++++

●No.35「子どもは社会の縮図」

 おとなの世界に四割の善と四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の
 善と四割の悪がある。子どもの世界はまさにおとなの社会の縮図。おとなの
 世界をよくしないで、子どもの世界だけをよくしようとしても、それはおと
 なの身勝手。もっと言えば、ムダ。子どもの世界をよくしようと考えたら、
 おとなの世界をよくする。たとえばいじめにしても、非行にしても、おとな
 たちの世界にもそれがあるのに、どうして子どもに向かって、それをやめろ
 と言えるのか。子どもしてもはじめて読んだカタカナが、「ソープ」であっ
 たり「ホテル」であったりする(「クレヨンしんちゃん」)。

 ただ悪があるから、悪いというのでもない。もし人間がすべて、天使のよう
 になってしまったら、この世界、何とつまらないものになってしまうことか。
 善と悪のハバがあるから、この世界はおもしろい。無数のドラマもそこから
 生まれる。旧約聖書の中にも、こんな説話が残っている。ノアが、神にこう
 聞いたときのこと。「神よ、どうして人間を滅ぼそうとしているのか。(滅
 ぼすくらいなら)、最初から完全な人間をつくればよかった」と。それに対
 して神は、「(人間に)希望を与えるため」と。つまり人間は悪いこともす
 るが、一方努力によって、神のような人間にもなれる。「それが希望だ」と。

 私も若いころは、子どもの世界をよくしようとがんばったこともある。しか
 し四〇歳になり、五〇歳になると、どんどんそういう気持ちは薄れた。薄れ
 て、その反対に、結局は問題の根源はおとなの世界にあることを知った。「
 犠牲」という言い方はあまり好きではないが、子どもたちこそ、その犠牲者
 に過ぎない。我欲と貪欲のウズに巻き込まれ、子どもたちにしっかりとした
 ビジョンを示せない私たちおとなのほうにこそ、その責任がある。たとえば
 援助交際にしても、子どもたちにそれをやめろという前に、どうしておとな
 たちが、おとなに向かって、それをやめろと言わないのか。あなたの友人や
 仲間が若い女の子と援助交際していても、みんな、見て見ぬフリをしている!

 子どもの世界を見るときは、まずおとなの世界を見る。何か問題が起きたら、
 「自分ならできるか」「自分はどうか」と自問してみる。そしてここが重要
 だが、自分にできないことは、子どもに求めないこと。期待しないこと。「
 子どもの世界は社会の縮図」というのは、そういう意味である。
 
++++++++++++++++++++++++++++++
メールマガジン「週刊E'news浜松」2002/10/7 No.002-035/2322
 毎週月曜日発行/まぐまぐID:0000002344
 編集発行:E'news編集部

((((⌒((  ヽ
   ヽ│6 6 ρ )
    人 ▽ 人′ ~♪
   ( _) (_ )
    /′ V (ヽ
   /│田│ 田│ヽ
   / │ │  │ ヽ

【2】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
今回から、新しい視点で、子育て格言を送ります。
この原稿は、「子育て格言・ママ100賢」を、最近
書きなおしたものです。みなさんのご家庭でお役に
たてば、うれしいです。
+++++++++++++++++++++++

子育て格言集(新シリーズ①)

●仲のよいのは、見せつける

 子どもに、子育てのし方を教えるのが子育て。「あなたが親になったら、こういうふうに、子育てをするのですよ」と、その見本を見せる。見せるだけでは足りない。子どもの体にしみこませておく。もっとわかりやすく言えば、環境で、包む。

 子育てのし方だけではない。「夫婦とはこういうものですよ」「家族とはこういうものですよ」と。とくに家族が助けあい、いたわりあい、なぐさめあい、教えあい、励ましあう姿は、子どもにはどんどんと見せておく。子どもは、そういう経験があって、今度は自分が親になったとき、自然な形で、子育てができるようになる。

 その中の一つ。それがここでいう「仲のよいのは、見せつける」。夫婦が仲がよいのは、遠慮せず、子どもにはどんどん見せつけておく。手をつないで一緒に歩く。夫が仕事から帰ってきたら、たがいに抱きあう。一緒に風呂に入ったり、同じ床で寝るなど。夫婦というのは、そういうものであることを、遠慮せず、見せておく。またそのための努力を怠ってはいけない。

 中には、「子どもの前で、夫婦がベタベタするものではない」と言う人もいる。しかしそれこそ世界の非常識。あるいは「子どもが嫉妬(しっと)するから、やめたほうがよい」と言う人もいる。しかし子どもにしてみれば、生まれながらにそういう環境であれば、嫉妬するということはありえない。「嫉妬する」と考えるのは、そういう習慣のなかった人が、頭の中で勝手に想像して、そう思うだけ。が、それだけではない。

 子どもの側から見て、「絶対的な安心感」が、子どもを自立させる。「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という意味。堅固な夫婦関係は、その必要条件である。またそういう環境があって、子どもははじめて安心して巣立ちをすることができる。そしてその巣立ちが終わったとき、結局は、あとに残されるのは、夫婦だけ。そういうときのことも考えながら、親自身も、子どもへの依存性と戦う。

家庭生活の基盤は、「夫婦」と考える。もちろんいくらがんばっても、夫婦関係もこわれるときは、こわれる。それはそれとして、まず、家庭生活の基盤に夫婦をおく。子どもの前では、夫婦が仲がよいのを見せつけるのは、その第一歩ということになる。


●流れには従う

 世の中には「流れ」というものがある。この流れをどう見極めるか、それも子育てのうちということになる。

 たとえば私が高校生のときは、「赤い夕日が校舎を染めてエ~」(舟木一夫の「高校三年」)と歌った。しかし今の親たちは、「夜の校舎、窓ガラス、壊して回ったア」(尾崎豊の「卒業」)と歌った。この違いは大きい。

 そして今、さらにこの流れが加速され、子どもたちの世界は、大きく変化しつつある。それがよいのか悪いのかという議論もあるが、中学生にしても、約六〇%の子どもが、「勉強で苦労するから、進学校には行きたくない」などと言っている(浜松市内のH中学校長談話)。また日本労働研究機構の調査(二〇〇〇年)によれば、高校三年生のうちフリーター志望が、一二%もいるという(ほかに就職が三四%、大学、専門学校が四〇%)。職業意識も変わってきた。「いろいろな仕事をしたい」「自分に合わない仕事はしない」「有名になりたい」など。三〇年前のように、「都会で大企業に就職したい」と答えた子どもは、ほとんどいない。これはまさに「サイレント革命」と言うにふさわしい。フランス革命のような派手な革命ではないが、日本人そのものが、今、着実に変わろうとしている。

 ところで親子を断絶させる三要素に、①親子のリズムの乱れ、②信頼感の喪失、③価値観の衝突がある。このうち③価値観の衝突というのは、結局は、子どもの流れについていけない親に原因がある。どうしても親は、自分を基準にして考える傾向があり、自分の価値観を子どもに押しつけようとする。この「押しつけ」が、親子の間にキレツを入れる。

親「何としてもS高校へ入れ」
子「いやだ。ぼくは普通の高校でいい」
親「いい高校に入って、出世しろ。何といってもこの日本では、学歴がモノを言う」
子「勉強は嫌いだ」
親「お前には、名誉欲というものがないのか」
子「そんなもの、ない」と。

 どこの家庭にでもあるような衝突だが、こうした衝突を繰り返しながら、親子の間は断絶していく。今、中高校生でも、「父親を尊敬していない」と答えた子どもは五五%もいる(「青少年白書」平成一〇年)。「父親のようになりたくない」と答えた子どもは八〇%弱もいる。この時期、「勉強せよ」と子どもを追い立てるほど、子どもの心は親から離れると考えてよい。


●なくしてわかる生きる価値

 賢明な人は、そのものの価値をなくす前に気づき、愚かな人は、なくしてから気づく。健康しかし、人生しかり、そして子どものよさも、またしかり。

 子どものよさには、二つの意味がある。ひとつは、外に目立つ「よさ」。もうひとつは、中に隠れた、見えない「よさ」。外に目立つ「よさ」は、ともかく、問題は中に隠れた「よさ」。それに親がいつ気がつくかということ。

 たとえば子どもが何か問題をかかえたとすると、親はその状態を最悪と思い込み、「どうしてうちの子だけが」とか、「なんとかなおそう」と考える。しかしそういうときでも、もし子どもの中に、隠れた「よさ」を見出せば、問題のほとんどは解決する。たとえばこんな母親がいた。

 その娘(中三)は、受験期だというのに、家では、ほとんど勉強しなかった。そこで母親は毎日ヤキモキしながら、娘を叱りつづけた。しかしこういう状態が半年、一年もつづくと、母親の精神状態そのものがおかしくなる。母親はそのつど青白い顔をして、私のところに相談にきた。「どうしてうちの娘は……?」と。

 しかしその子どもは、私が見るところ、すなおで、明るく、頭の回転も速く、それに性格もおだやかだった。ものの考え方も常識的で、非行に走る様子も見られなかった。学校でもリーダーで、バトミントン部に属していたが、結構活躍していた。もちろん健康で、それにこういう言い方は適切ではないかもしれないが、容姿も整っていた。私は「そういう子どもでも、親は、健康を悪くするほど悩むのかなあ」と。それがむしろ不思議でならなかった。

 昔の人は、『上見て、キリなし。下見て、キリなし』と言った。上ばかり見ていると、人間の欲望や希望には際限がなく、苦労は尽きないもの。しかし一方、自分が最低だと思っても、まだまだ苦しくて、がんばっている人もいるから、くじけてはいけないという意味だが、子育てで行きづまりを覚えたら、子どもは、「下」から見る。下(欠点)を見ろというのではない。「今、ここに子どもが生きている」という原点から見る。そういう視点から見ると、ほとんどの問題は解決する。

 あなたの子どもにもすばらしい点は山のようにある。それに気づくかどうかは、結局は、あなたの視野の広さと高さによる。子どもを見るときは、その視野を広く、そして高くもつ。


●名前は呼び捨て

 よく誤解されるが、子どもをていねいに扱うから、子どもを大切にしていることにはならない。先日も埼玉県のU市の、ある私立幼稚園で講演をしたら、その園長がこっそりとこう話してくれた。「今では昼の給食でも、レストラン感覚で出さないと、親は満足しないのですよ」と。そこで私が「子どもに給仕をさせないのですか」と聞くと、「とんでもない。それでやけどでもしたら、たいへんなことになります」と。

 子どもを大切にするということは、「してあげる」ことではなく、「心を尊重する」ということ。中には、「子どもを楽しませること」「子どもに楽をさせること」を、親の愛と誤解している人もいる。しかし誤解は、誤解。まったくの誤解。子どもというのは、皮肉なもので、楽しませたり、楽をさせればさせるほど、ドラ息子(娘)化する。しかし苦労をさせたり、がまんをさせればさせるほど、生活力も身につき、忍耐力も養われる。そしてその分、親子の絆(きずな)も太くなる。言うまでもなく、子どもは(おとなも)、自分で苦労してはじめて、他人の苦労がわかるようになる。

 そういう流れの中で、私は、自分の子どもを、「~~さん」とか、「~~ちゃん」づけで呼ぶ親を見ると、「それでいいのかなあ」と思ってしまう。一見、子どもを大切にしているように見えるが、どこか違うような気がする。それで子どもに問題がなければよいが、たいていは、そういう子どもにかぎって、わがままで、自分勝手。態度も大きく、親に向かっても、好き勝手なことをしている。子どもが小さいうちならまだしも、やがて親の手に負えなくなる。

 子どもを大切にするということは、子どもの心を大切にするということ。英語国では、親子でも、「おまえは今日、パパに何をしてほしい?」「パパは、ぼくに何をしてほしい?」と聞きあっている。そういう謙虚さが、たがいの心を開く。命令や、威圧は、それに親が勝手に決めた規則は、子どもを指導するには便利な方法だが、しかしこれらが日常化すると、子どもは自ら心を閉ざす。閉ざした分だけ、親子の心は離れる。

 ともかくも、親が子どもを呼ぶとき、「しんちゃん」で、子どもが親を呼ぶとき、「みさえ!」では、いくら親子平等の時代とはいえ、これでは本末転倒である。それほど深刻な問題ではないかもしれないが、子どもを呼ぶときは、呼び捨てでじゅうぶん。また呼び捨てでよい。


●名前は大切に

 子どもの名誉、人格、人権、自尊心、それに名前(書かれた文字)は、大切にあつかう。

①名誉……「さすがだね」「やっぱり、あなたはすごい子ね」「すばらしい」と、そのつど、子どもはほめる。ただしほめるのは、努力ややさしさ。顔やスタイルは、ほめない。「頭」については、ほめてよいときと、そうでないときがあるので、慎重にする。

②人格……要するに子どもあつかいしないこと。コツは、「友」として迎え入れること。命令や威圧はタブー。するとしても最小限に。「あなたはダメな子」式の人格の「核」に触れるような「核」攻撃は、タブー中のタブー。

③人権……人として生きる権利を認める。家族の愛に包まれ、心豊かに生きる権利を守る。子どもにもプライバシーはあり、自由はある。抑圧され、管理された家庭環境は、決して好ましいものではない。

④自尊心……屈辱的な作業や、屈辱的な言葉を言ってはいけない。『ほめるときはおおやけに、叱るときは内密に』という原則を守る。みなの前で「土下座しなさい」式の叱り方はタブー。もちろんみなの前で恥をかかせるようなことは、してはいけない。

⑤名前……子どもの名前の載っている新聞や雑誌は、最大限尊重する。「あなたの名前はすばらしい」「あなたの名前はいい名前」を口グセにする。子どもは名前を大切にすることから、自尊心を学ぶ。ある母親は、子どもの名前が新聞に出たようなときは、それを切り抜いて、高いところにはったり、アルバムにしまったりしていた。そういう姿勢を見て、子どもは、自分を大切にすることを学ぶ。


●涙にほだされない

 心の緊張感がとれない状態を、情緒不安という。この緊張した状態の中に、不安が入ると、その不安を解消しようと、一挙にその不安が高まる。このタイプの子どもは、気を許さない。気を抜かない。他人の目を気にする。よい子ぶる。その不安に対する反応は、子どものばあい、大きく分けて、①攻撃型と、②内閉型がある。
 
 攻撃型というのは、言動が暴力的になり、ワーワーと泣き叫んだり、暴れたりするタイプ。私はプラス型と呼んでいる。また内閉型というのは、周囲に向かって反応することができず、引きこもったり、性格そのものが内閉したりする。慢性的な下痢、腹痛、体の不調を訴えることが多い。私はマイナス型と呼んでいる。(ほかにモノに固執する、固執型というのもある。)

 こうした反応は、自分の情緒を安定させようとする、いわば自己防衛的なものであり、そうした反応だけを責めたり、叱っても、意味はない。原因としては、乳幼児期の何らかの異常な体験が引き金になることが多い。家庭騒動や家庭不和、恐怖体験、暴力、虐待、神経質な子育て、親の拒否的な態度など。一度不安定になった情緒は、簡単にはなおらない。

そこで子どもによっては、この時期、すぐ泣く、よく泣くといった症状を見せることがある。少しいじめられても、すぐ泣く。ちょっとしたことで、すぐ泣くなど。こうした背景には、子ども自身の情緒不安があるが、さらにその背景には、たとえば恐怖症や神経症が潜んでいることが多い。たとえば子どもの世界でよく知られた現象に、対人恐怖症がある。反応はさまざまだが、そうした恐怖症が背景にあって、情緒が不安定になるということは珍しくない。親は、「友だちを遊んでいても、ちょっと何かをされるとよく泣くので困ります」と言うが、子どもは泣くことで、自分の情緒を安定させようとする。

 もちろん子どもが泣くときには、原因をさがして、対処しなければならないが、「泣く」ということを、あまりおおげさに考えてもいけない。コツは、泣きたいだけ泣かせる。泣いてもムダということをわからせる、という方法で対処する。ぐずりについてもそうで、定期的に、また決まった状況で同じようにぐずるということであれば、ぐずりたいだけぐずらせるのがコツ。泣き方やぐずり方があまりひどいようであれば、スキンシップを濃厚にして、カルシウム、マグネシウム分の多い食生活にこころがける。

 こうした心の問題は、「より悪くしないこと」だけを考えて、一年単位で様子をみる。「去年よりよくなった」というのであれば、心配ない。あせってなおそうとして症状をこじらせると、その分、立ちなおりがむずかしくなる。


●波間に漂(ただよ)わない

 子どものことで、波間に漂うようにして、フラフラする人がいる。「右脳教育がいい」と聞くと、右脳教育。隣の子どもが英会話に通い始めたときくと、英語教室。いつも他人や外からの情報に操(あやつ)られるまま操れられる。私の印象に残っている母親に、こういう母親がいた。

 ある日、私のところにやってきて、こう言った。「今、通っている絵画教室へこのまま、通わせようか、どうかと迷っている」と。話を聞くとこうだ。「色彩感覚は、三歳までに決まるというから、あわてて絵画教室に入れた。しかし最近、個人の絵の先生に習うと、その先生の個性が子どもに移ってしまうから、よくないという話を聞いた。今の絵の先生は、どこか変人ぽいところがあるので心配です。だから迷っている」と。

 こうしたケースで、まず問題としなければならないのは、子どもの視点がどこにもないということ。「子どもはどう思っているか」ということは、まったく考えない。そこで私が「お子さんは、どう思っているのですか」と聞くと、「子どもは楽しんで通っています」と。だったら、それで結論は出たようなもの。迷うほうが、おかしい。

 「優柔不断」という言葉があるが、この言葉をもじると、「優柔混迷」となる。自分というものがないから、迷う。迷うだけならまだしも、子どもがそれに振り回される。そして身につくはずの「力」も、身につかなくなってしまう。こういうケースは、今、本当に多い。では、どうするか。

 親自身が一本スジのとおった方針をもつのがよいが、これがむずかしい。だからもしあなたがこのタイプの母親なら、こうする。何ごとにつけ、結論は、三日置いて出す。このタイプの母親ほど、せっかちで短気。自分の心に問題を秘めて、じっくりと考えることができない。だから三日、待つ。とくに子どもに関することは、そうする。この言葉を念仏のように心の中で唱えるとよい。……といっても、簡単なことではない。私のアドバイスが効力をもつのは、せいぜい一週間程度。それを過ぎると、またもとに戻ってしまう。もともと子育てというのは、そういうものか。その親自身の全人格がそこに反映される。

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子育て随筆byはやし浩司
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子育て随筆byはやし浩司(162)

この三〇年を振りかえって……

 幼児教育にかかわるようになって、今年で、満三〇年になる。早いものだ。その間、楽しいことも山のようにあったが、悲しいこともあった。しかし不思議なもので、楽しかった思い出というのは、記憶の中に埋(うず)もれてしまっていて、なかなか引き出せない。考えてみれば、私の仕事は毎日、楽しいことばかりだった。で、その分、つまりほとんどが楽しい思い出ばかりだから、悲しかった思い出や、つらかった思い出が目立つのかもしれない。

 悲しかった思い出といえば、一磨君という少年が、小児がんでなくなったこと。そのとき書いた、エッセーが、つぎのエッセーである。このエッセーは、「子育て最前線のあなたへ」(中日新聞出版局)にも収録したが、あとで一磨君のお母さんが、二〇冊近く、その本を買ってくれた。うれしかった。

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●脳腫瘍で死んだ一磨君

 一磨(かずま)君という一人の少年が、一九九八年の夏、脳腫瘍で死んだ。三年近い闘病生活のあとに、である。その彼をある日見舞うと、彼はこう言った。「先生は、魔法が使えるか」と。そこで私がいくつかの手品を即興でしてみせると、「その魔法で、ぼくをここから出してほしい」と。私は手品をしてみせたことを後悔した。

 いや、私は彼が死ぬとは思っていなかった。たいへんな病気だとは感じていたが、あの近代的な医療設備を見たとき、「死ぬはずはない」と思った。だから子どもたちに千羽鶴を折らせたときも、山のような手紙を書かせたときも、どこか祭り気分のようなところがあった。皆でワイワイやれば、それで彼も気がまぎれるのではないか、と。しかしそれが一年たち、手術、再発を繰り返すようになり、さらに二年たつうちに、徐々に絶望感をもつようになった。彼の苦痛でゆがんだ顔を見るたびに、当初の自分の気持ちを恥じた。実際には申しわけなくて、彼の顔を見ることができなかった。私が彼の病気を悪くしてしまったかのように感じた。

 葬式のとき、一磨君の父は、こう言った。「私が一磨に、今度生まれ変わるときは、何になりたいかと聞くと、一磨は、『生まれ変わっても、パパの子で生まれたい。好きなサッカーもできるし、友だちもたくさんできる。もしパパの子どもでなかったら、それができなくなる』と言いました」と。そんな不幸な病気になりながらも、一磨君は、「楽しかった」と言うのだ。その話を聞いて、私だけではなく、皆が目頭を押さえた。

 ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』の冒頭は、こんな詩で始まる。「誰の死なれど、人の死に我が胸、痛む。我もまた人の子にありせば、それ故に問うことなかれ」と。

私は一磨君の遺体を見送りながら、「次の瞬間には、私もそちらへ行くから」と、心の奥で念じた。この年齢になると、新しい友や親類を迎える数よりも、死別する友や親類の数のほうが多くなる。人生の折り返し点はもう過ぎている。今まで以上に、これからの人生があっと言う間に終わったとしても、私は驚かない。だからその詩は、こう続ける。「誰がために(あの弔いの)鐘は鳴るなりや。汝がために鳴るなり」と。

 私は今、生きていて、この文を書いている。そして皆さんは今、生きていて、この文を読んでいる。つまりこの文を通して、私とあなたがつながり、そして一磨君のことを知り、一磨君の両親と心がつながる。もちろん私がこの文を書いたのは、過去のことだ。しかもあなたがこの文を読むとき、ひょっとしたら、私はもうこの世にいないかもしれない。しかし心がつながったとき、私はあなたの心の中で生きることができるし、一磨君も、皆さんの心の中で生きることができる。それが重要なのだ。

 一磨君は、今のこの世にはいない。無念だっただろうと思う。激しい恋も、結婚も、そして仕事もできなかった。自分の足跡すら、満足に残すことができなかった。瞬間と言いながら、その瞬間はあまりにも短かった。そういう一磨君の心を思いやりながら、今ここで、私たちは生きていることを確かめたい。それが一磨君への何よりの供養になる。

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 私の仕事とは関係ないが、私がこの三〇年間でもっともうれしかったのは、三一年ぶりに、学生時代の友人たちと再会したとき。そのとき書いたのがつぎのエッセー。このエッセーは、金沢学生新聞にも発表したが、反響は大きかった。学生新聞の編集長が、編集部に届いた読者からの手紙やメールを、回送してくれた。中には、涙をこぼしながら読んでくれた人もいたという。うれしかった。

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●三一年ぶりの約束

 ちょうど三一年前の卒業アルバムに、私はこう書いた。「二〇〇一年一月二日、午後一時二分に、(金沢の)石川門の前で君を待つ」と。それを書いたとき、私は半ば冗談のつもりだった。当時の私は二二歳。ちょうどアーサー・クラーク原作の『二〇〇一年宇宙の旅』という映画が話題になっていたころでもある。私にとっては、三一年後の自分というのは、宇宙の旅と同じくらい、「ありえない未来」だった。

 しかしその三一年がたった。一月一日に金沢駅におりたつと、体を突き刺すような冷たい雨が降っていた。「冬の金沢はいつもこうだ」と言うと、女房が体を震わせた。とたん、無数の思い出がどっと頭の中を襲った。話したいことはいっぱいあるはずなのに、言葉にならない。細い路地をいくつか抜けて、やがて近江町市場のアーケード通りに出た。いつもなら海産物を売るおやじの声で、にぎやかなところだ。が、その日は休み。「初売りは五日から」という張り紙が、うらめしい。カニの臭いだけが、強く鼻をついた。

 自分の書いたメモが、気になり始めたのは数年前からだった。それまで、アルバムを見ることも、ほとんどなかった。研究室の本棚の前で、精一杯、かっこうをつけて、学者然として写真におさまっている自分が、どこかいやだった。しかし二〇〇一年が近づくにつれて、その日が私の心をふさぐようになった。アルバムにメモを書いた日が「入り口」とするなら、その日は「出口」ということか。しかし振り返ってみると、その入り口と出口が、一つのドアでしかない。その間に無数の思い出があるはずなのに、それがない。人生という部屋に入ってみたら、そこがそのまま出口だった。そんな感じで三一年が過ぎてしまった。

 「どうしてあなたは金沢へ来たの?」と女房が聞いた。「……自分に対する責任のようなものだ」と私。あのメモを書いたとき、心のどこかで、「二〇〇一年まで私は生きているだろうか」と思ったのを覚えている。が、その私が生きている。生きてきた。時の流れは、時に美しく、そして時に物悲しい。フランスの詩人、ジャン・ダルジーは、かつてこう歌った。「♪人来たりて、また去る……」と。部分的にしか覚えていないが、続く一節はこうだった。「♪かくして私の、あなたの、彼の、彼女の、そして彼らの人生が流れる。あたかも何ごともなかったかのように……」と。何かをしたようで、結局は、私は何もできなかった。時の流れは風のようなものだ。どこからともなく吹いてきて、またどこかへと去っていく。つかむこともできない。握ったと思っても、そのまま指の間から漏れていく。

 翌一月二日も、朝からみぞれまじりの激しい雨が降っていた。私たちは兼六園の通りにある茶屋で昼食をとり、そして一時少し前にそこを出た。が、茶屋を出ると、雨がやんでいた。そこから石川門までは、歩いて数分もない。歩いて、私たちは石川門の下に立った。「今、何時だ」と聞くと、女房が時計を見ながら、「一時よ……」と。私はもう一度石川門の下で足をふんばってみた。「ここに立っている」という実感がほしかった。学生時代、四年間通り抜けた石川門だ。と、そのとき、橋の中ほどから二人の男が笑いながらやってくるのに気がついた。同時にうしろから声をかける男がいた。それにもう一人……! そのとたん、私の目から、とめどもなく涙があふれ出した。

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このときとった写真(石川門の前での記念写真)は、
サイト、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/の
「トップページ」→「動画」→「インターディスク」
→「中日新聞記事」の冒頭に載せておきます。興味
のある人は、ご覧ください。
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 私がこの仕事をしていて、もっともつらかったのは、一時期勤めていたある幼稚園をリストラされたこと。しかもリストラを宣告されたのは、立ち話で、だった。私がある朝、庭で園児を指導していると、いきなり園長がやってきて、こう言った。「林君、もう来週から来なくていい」と。その園長が、園長に就任にして、数年目のことだった。

 が、リストラされたからといって、その園長をうらむことはできなかった。それまで、その前任の園長には、じゅうぶんすぎるほど、世話になっていた。それに園長の様子がかなりおかしいということは、私もそれ以前から感じていた。感情が平坦になり、動作も鈍くなっていた。会話もかみあわなかった。加えてそのときまでに同じようなリストラのし方で、何人もの年配の先生たちがリストラされていた。順にそれが進んで、私のところにやってきた。「つぎは私だろうな」と思っていた。そう、園長は、たしかにおかしかった。これ以上のことは、ここには書けないが、そのとき前任の園長も、かなり深刻に、その園長のことを悩んでいた。私にも、相談があった。

 しかしショックはショックだった。私はその言葉で、プライドはズタズタにされた。実際、その夜は、体中が熱でほてり、ほとんど一睡もできなかった。朝になってワイフが「どうしたの?」と聞いたときはじめて、「幼稚園はクビになった」と告白した。以来、その幼稚園には二度と足を踏み入れていない。また私の書いたものの中に、その幼稚園の名前を書いたことは一度もない。しかしそのときのリストラが、私を発奮させる原動力になった。私は以後、がむしゃらに幼児教育に没頭した。

 人生にはいろいろある。しかしこれから先は、今までのような濃密な経験はできないだろうと思う。この五年間だけを見ても、それ以前の密度の半分くらいになったような気がする。変化よりも、安定を求めるようになった。航海にたとえていうなら、もう嵐はこりごり。その嵐に耐える体力もないのでは。そのかわりこれからはもっと、心の旅をしてみたい。外ではなく、自分の心の内側に向かう。そういう生き方をしてみたい。まとまりのない回顧録になってしまったが、このつづきは、また何年かあとに書いてみる。 
(02-10-7)

   ξ《《》》
   ξξσσξ
   ξξ~▽~ノξ
   「 ∞∞∩∩
   l/  (・・)
   /  ⊂▼▼⊃
  /    │ ∈
 **********∪ ̄∪

【4】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
考えることが好きな子ども、きらいな子ども

 その子どもが考えることが好きな子どもかどうかは、小学一年のころには、すでにはっきりとする。この時期、考えることが好きな子どもは、好き。考えることの楽しさを知っている。そうでない子どもは、そうでない。表面的な様子にだまされてはいけない。たとえばペラペラとよくしゃべるから頭がよいとか、反応がはやいから、頭がよいということにはならない。

 私は今日小学二年生で、こんな実験をしてみた。つぎのような数列を見せ、□の中には、どんな数字が入るかという問題である。

問、□の中には、どんな数(かず)が入るか。
    1、2、4、7、11、□

 この問題は、小学二年生にはムリ。それはわかっているが、私は子どもたちの反応をみたかった。そこでしばらく様子をみると、何とか考えようとする子どもが、一〇人中、四人。考えているフリはするが、深く考えようとしない子どもが、三人前後。残りの三人は、あれこれ思いついた数字を口にするだけで、ほとんど考えようとしない。「5かな、7かな……?」と勝手なことを言っているだけ。一人の子どもは、「これ、足し算? それとも引き算?」と聞いた。

 たいていの親は、ペラペラと調子よくしゃべる子どもを、頭のよい子と誤解する。しかしこのタイプの子どもは、脳に飛来する情報を、適当に言葉にしてしゃべっているだけ。もっと言えば、頭の中はカラッポ。よい例が、夜のバラエティ番組に出てくるお笑いタレントたち。一見反応がすばやく、頭がよいように見えるが、その実、何も考えていない。たまに気のきいたことを言うが、それとて、どこかで仕入れた情報の受け売りにすぎない。

 考えることには、ある種の苦痛がともなう。そのためほとんどの人は、考えることを無意識のうちにも避けようとする。よい例が、数学の証明問題である。もし今、あなたが数学の証明問題を解けと言われたら、あなたはどうするだろうか。あれこれ理由をつけて、その問題から逃げるに違いない。あるいは近くに答があるなら、それを写して、それですますかもしれない。

 当然のことながら、考える子どもとそうでない子どもは、やがて大きな差となって表れる。この時期に分かれる。考える子どもは、思考することの楽しさを覚え、自ら脳を鍛えるようになる。そうでない子どもは、そうでない。そしてこの違いが、一年たち、二年たち、さらに一〇年もつづくと、大きな差となる。考える子どもは、あらゆる方向に触覚を延ばし、そしてあらゆる場面で考える。そうでない子どもは、そうでない。どちらがよいかということは、もう明白。聞くだけヤボ。子どもは、そのはじめの分かれ道に入る前に、考える子どもにする。その方向づけをする。つまりそれが幼児教育ということになる。では、どうするか。

(パズルの応用)
 特別の理由がないかぎり、子どもというのは、考えることが好きとみる。それはちょうど、広い庭を見ると、思わず走りたくなるという、あの衝動に似ている。そういう意味では、子どもは知的な刺激に飢えている。そこでひとつの方法として、私は知的パズルを与えることを提案する。私も勉強が嫌いという子どもに対しては、パズルを積極的に与えることによって、まず「考えることを好きにさせる」という指導をする。少し回り道になるかもしれないが、長い目で見て、そのほうが効果的である。たとえばアメリカの小学校では、国語(米語)の授業でも、パズルから子どもを導入する。「この中で、Aで始まる動物はどれ?」「Eで終わる動物はどれ?」(小学一年生)と。こうしたパズル的な教え方が、アメリカの小学校の教育の基本にもなっている。「教え育てる」が基本になっている日本の教育と、「種をまいて引き出す(エデュース)」が基本になっている欧米の教育の違いと言ってもよい。アメリカの教育法がよいばかりではないが、ひとつの参考にはなる。
(02-10-7)

【追記】
 子どもの考える力は、親の影響が大きい。子どもは、親の考える様子を見ながら、自分の中に考えるという習慣を養う。が、それだけでは足りない。子どもを考える子どもにするには、それなりの指導が必要である。子どもに向かっては、いつも、「どう思う?」「どうしたらいいの?」「どうして?」と問いかけながら、一緒に考えるようにするとよい。しかもこうした考える力は、長い時間をかけて熟成されるもので、根気と努力が必要である。子どものばあい、考えの深い子どもは、何かテーマを与えたりすると、目つきがそのつど静かに沈むので、わかる。
 
 このところ、世間では右脳教育なるものが、もてはやされ、どこかカルト化しているような感じがする。が、論理や分析をつかさどるのは左脳である。ペラペラと軽いことを言い、頭の中にひらめたまま、奇想天外なことを言うから、頭がよいということにはならない。この種の教育法には、じゅうぶん注意してほしい。

 そこでおとなの問題。これはあるアメリカで発行された、大人用の「知能テスト」の問題集に載っている問題である。一度、童心に返って(?)、考えてみてほしい。

 4・5・7・11・19・□

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子育て随筆byはやし浩司(164)

ブルセラ? 生脱ぎ?

 朝のワイドショーを見ていたら、こんな言葉が飛び出してきた。「ブルセラ」「生脱ぎ」と。女子中学生や高校生の汚れた下着を売買することを、ブルセラ。そして客(?)の目の前で脱いで販売するのを、生脱ぎというのだそうだ。インタビューに答えていたのは、女子高校生(一年生)。そういう子どもが、そういう言葉を平気で口にしているのには、心底、驚いた。それだけではない。こうも言った。「映画館の中で(生脱ぎ)することもある」「そのままホテルへ行ったり、援助交際することもある」と。

 私も男だし、性欲も、ふつうにはある。……あった。しかし汚れた下着をほしいと思ったことはない。しかも、だ。自分の高校時代を思い出しても、そういう発想は、まったくなかった。考えもおよばなかった。が、今、それが堂々と、白昼になされている! テレビでインタビューに答えていたのは、顔はぼかしてあったが、見るからに清楚(せいそ)な感じのする女子高校生だった。

 こういう現実を目(ま)の当たりにすると、私が毎日こうして書いている原稿は、いったい、何かということになってしまう。レベルが高いとか低いとかいう問題ではない。あまりにもかけ離れていて、何だか、自分がとんでもないほどムダなことをしているようにすら思われてくる。ほかの分野のことならともかく、私が相手にしなければならないのは、そういう子どもたちなのだ。いや、ここで「ほかの分野」というのは、たとえば電子工学などの分野では、その専門的な研究だけをしていればよい。その果てに携帯電話があり、パソコンがあったとしても、電子工学の研究をしている人は、携帯電話やパソコンがユーザーにどう使われるかは、関係ない。恐らく関心もないだろう。しかし私は違う。こうして教育論を考えることは、つまるところ、そういう子どもが対象なのだ。

 実のところ、私も、こうした子どもたちの「性」の問題には、さんざん翻弄(ほんろう)されてきた。その結果、というよりも今は、「我、関せず」を貫いている。この問題だけは、知性のワクを超え、本能の世界と深くかかわっている。もっともそれがあるから、人類は、限りなく生殖を繰り返し、今日まで生き延びることができた。しかしそれだけに知性で戦って、戦えるものではない。道理や理屈が、まったく通じない。しかしこれだけは覚えておくとよい。もしあなたが「うちの子にかぎって……」とか、「うちには関係ない問題」と思っているなら、それは幻想。一〇〇%、幻想。これからは、そういう前提で、あなたの子どもを考え、あなたの社会を考える必要がある。つまり……、たいへん言いにくいが、あなたの子どもが何か問題を起こしてから、あわてても遅いということ。その覚悟だけはしておいたほうがよい。
(02-10-8)

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子育て随筆byはやし浩司(165)

「もう一人の子ども」論

 たいていの親は、「うちの子にかぎって……」とか、「私は子どもとうまくいっている」、あるいは、「私は子どもの心をしっかりとつかんでいる」と考えている。しかし実のところ、そういう親ほど、あぶない。あるいはあなたは、自分の子どもが、あなたの前で、まったく仮面をかぶっていないと、自信をもって、断言できるだろうか。

 そう、何がこわいかといって、この「仮面」ほど、こわいものはない。あなたの前で、よい子ぶる、心を隠す、無理をする。そういう不自然さが、長い時間をかけて心のカベにアカのようにたまり、やがてあなたからみても、子どもの心がつかめなくなる。が、それですめばまだよいほうだ。子どもはその仮面の下で、もう一人の自分をつくる。

 子どもの非行は、ある日、突然、始まる。本当に、突然だ。ばあいによっては、一週間単位、あるいは一か月単位で、子どもが急変する。ある男の子(小五)は、ある日、突然、母親に服をねだり始めた。それまではほとんどの服は、母親が選んで買っていた。そこで子どもと一緒に、店へ行くと、その子どもの選んだ服は、キラキラと輝く金文字の入った、紫色のコートだった。いわゆる暴走族カラーというので、母親はそれを見てはじめて、子どもの心の変化に気づいた。

 そこで自己診断テスト。あなたの子どもは、今、あるがままの自分の姿をあなたに見せているだろうか。それを一度、テストしてみてほしい。

○子どもはあなたに向かって、平気で悪態をつくことができる。「ババア」とか、汚い言葉を使うことも多い。
○あなたがいてもいなくても、態度は大きく、ふてぶてしい。いつもあなたの前で、好き勝手なことをしている。 
○何か仕事を任せても、あなたは安心して任せることができる。何でもひとりで、自分でやってしまう子どもなので、ほとんど心配していない。
 
●ときどき何を考えているかわからないときがあるが、あなたの前ではがまんして、よい子ぶることが多い。親の命令には、割とすなおに従ってくれる。
●あなたが近くにいると、あなたを避けるように自分の部屋に行ったり、別の場所に行き、そこで心や体を休めることが多い。
●いつも心配先行型の子育てをしてきたように思う。何かにつけ、心配で、そういう意味では、手間のかかる子どもだったように思う。

 このテストで、白丸(○)より、黒丸(●)が多いようであれば、あなたの子どもは、もう一人の自分をつくりつつあるとみてよい。もちろん、もう一人の自分をもつことが悪いとはかぎらない。中には親を反面教師として、前向きに伸びていく子どももいる。しかしたいていは、悪い方向に進む。

 なお、子どものすなおさを見るときは、「心(情意)と表情が一致しているかどうか」をみて判断する。このテストは、そのすなおさをみるためにも、利用できる。
(02-10-8)

      ミ ( ⌒⌒ ) 彡♪♪♪♪
      ∞((((( )∞
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      (" 。 "人
    ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
     ○  ヽ ABC ○
   ̄ ̄ ̄ヽ  ヽ    ヽ ̄ ̄ ̄読書の秋です! はやし浩司の本を読みましょう!
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Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/→「ニュース」です。
6・24  ……静岡市アイセル21
2・20  ……内野小学校
1・23  ……上島小学校
1・19  ……浜松市医療センター
11・29 ……砂丘小学校
11・21 ……北浜南小学校
11・14 ……愛知県尾張旭市教育委員会・スカイワードアサヒ(10時~12時)
11・6  ……富塚学園・湖東幼稚園
10・30 ……五島小学校
10・17 ……島田市立第四保育園
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