最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●意識の共有性(1)

2009-10-12 12:00:33 | 日記
●意識の連続性(改)091012版

+++++++++++++++++

ちょうど1か月前、「意識の連続性」について書いた。
その原稿が、ずっと気になっていた。
殴り書きしたような原稿で、電子マガジンの
ほうで、そのまま、発表してしまった。
もう一度、それを読み直し、推敲してみたい。

+++++++++++++++++

【生命から生命へ】(From Life to Life)
We live and die and repeat it again and again, conveying out Life to other all living
creatures and things together with our consciousness.(後日、要推敲)

++++++++++++++

あなたの生命は、ほかのありと
あらゆる生命とつながっている。
過去から未来へと、つながっている。
生物、無生物を問わず、ありとあらゆるものと
つながっている。
それがわかれば、あなたは
もう孤独ではない。

もしあなたに「死」というものが
あるとするなら、それはあなたの
「意識」の死に、過ぎない。
もっと言えば、意識の連続性が、
一度、そこで途切れるに過ぎない。

だから、もしあなたが意識の連続性を、
あなたの肉体を超えて感ずることが
できたら、あなたは、もう「死」を
恐れることはない。

++++++++++++++

●生物の連続性

人は日々に死に、日々に生まれ変わる。
細胞の生死を考えれば、それがわかる。
死んだ細胞は、体外へ排出され、ときに
分子レベルにまでばらばらになり、また
別の生物や無生物の中へと、取りこまれていく。
と、同時に、私たちは日々に、ほかの生物や
無生物から、新しい肉体を作り、生きている。

こうして私たちの肉体はありとあらゆる生物と
つながり、「今」というときを生きている。
これを「生物の連続性」という。

●命

では、死んだらどうなるか。
が、基本的には、「死」は存在しない。
その人個人の意識は途絶えるが、生命は、
姿や形を変え、別の生物の中に取りこまれて
生きていく。

虫かもしれない。
花や木かもしれない。
動物や、魚かもしれない。
ともかくも、生きていく。

この連続性を総称して、「生命の連続性」という。

●意識

個人は、その人の意識によって特定される。
「私は・・・」というときの「私」である。
しかしその私にしても、肉体活動の一部で
しかない。
もっと言えば、脳の中を走り回る、電気的
信号のようなもの。
それを私たちは「私」と自覚する。

だからといって、「私」に意味がないというのでは
ない。
私が書きたいのは、その逆。
この「私」があるから、そこから無数の
ドラマが生まれ、人間の生活を、潤い豊かなものに
する。
もし「私」がなかったら、私たち人間は、そこらに
生える雑草のような存在になってしまう。

●死

では、「死」とは何か?
言うまでもなく、意識の途切れをいう。
その人の意識が途切れたとき、「私」は消える。
言うなれば、パソコンの電源を切るようなもの。
そのときから、見ることも、聞くことも、
感ずることもできなくなる。

しかし先にも書いたように、それで生命が
途切れるわけではない。
生物の連続性の中で、つぎつぎとあなたの生命は、
別の生命へとつながっていく。

●再生

そんなわけで、「生命」を、あなたという個人の
中だけに閉じこめておくのは、正しくない。
またそういう視点で、あなたという「私」を見ては
いけない。

もっと具体的に話してみよう。

脳も含めて、上は髪の毛から、下は、足の爪まで、
私たちの肉体は長くて1年足らずで、すべてが作り替えられる。
古い肉体は、つねに便となったりして、外に排出される。
が、それらは自然界でつねにリサイクルされ、無数の
生物の、一部となって再生されていく。
もちろんあなた自身の一部として戻ってくることもある。

●「私」という意識

こうした破壊と再生の中で、連続性をもつものが
あるとすれば、それが意識ということになる。
その意識が、「私」という意識を、もちつづける。

私の肉体、私の財産、私の名誉、私の地位、と。
こうして私という意識が、「私」をつくりあげていく。

●瞬間移動(転送)

映画『スタートレック』の中に、よく「転送」という
言葉が出てくる。
これはある一定の場所から、別の場所に、瞬時に
移動することをいう。
SF映画の世界でのことだから、まともに考えるのも
どうかと思うが、その転送について、こんな議論がある。

「転送されてきた人間は、もとの人間と言えるかどうか」
という議論である。

原理は、こうだ。

まずあなたという人間を、分子レベルにまで、バラバラに
する。
そのバラバラになったあなたを、電磁波か何かの(波)に
乗せて、別の場所に転送する。
そしてその別の場所で、もとどおりに、組み立てなおす。

そこであなたはこう考える。
見た目には、もとの人間と同じだが、しかしもとの人間は
一度死んだはず、と。
新しく再生された人間は、あくまでもまったく別の人間。

つまり転送を10回繰りかえせば、あなたは10回
死に、10回再生されたことになる。

●破壊と再生

人間の肉体は、転送という劇的な変化ではないにしても、
1年単位という時間の流れの中で、映画『スタートレック』の
中の転送と同じことを、繰りかえしている。

「劇的」というのは、映画『スタートレック』の中では、
すべてを瞬時にすることをいう。
一方、肉体のほうは、それぞれがバラバラに、長い時間をかけて、
徐々にする。

そこでもし、映画『スタートレック』の中の転送について、
あれは、「破壊」と「再生」を繰り返したもの、つまり
「一度死んで、再び、生きかえったもの」と考えるなら、
私たち自身も、同じことを繰りかえしていることになる。

「瞬時」にそれをするか、「1年」をかけてそれをするかの、
ちがいだけである。

●伝えられる意識

さらに……。
科学が進めば、(あなた)のコピー人間を作ることも、
可能になるだろう。
すでにクローン牛なども誕生している。

しかし意識は、どうか。
あなたのコピーは、あなたと同じ意識をもつだろうか。
あるいはあなたのもつ意識を、そのままそのコピー人間に
移植できるだろうか。
その答は、NO。

あなたのコピー人間は、ただのコピー人間。
たとえば私のコピーを作ったとしても、そのコピー人間が、
今の私と同じ意識をもつことはありえない。
肉体が別になれば、意識も別になる。
私のワイフを見て、私は逃げ回るかもしれない。

●コピー人間の意識

私が「私」と言えるのは、「意識の連続性」があるからにほかならない。
もし意識の連続性がなかったら、「私」はそのつど分断されてしまう。

たとえばクローン技術を使って、あなたのコピー人間を作ったとしよう。
見た目はもちろん、何から何まであなたと同じ人間である。
しかしそのクローン人間は、ここにも書いたように、「あなた」ではない。
意識の連続性がないからである。

(これに対して、左脳と右脳をつなぐ脳梁のような太い配線で、脳どうし
をつなぐことができれば、意識を共有することも可能になるかもしれない。)

同じように、先にも書いたが、あなたは日々に生まれ変わる。
古い細胞は死に、新しい細胞が生まれる。
1年前のあなたは、どこにも残っていない。
言い換えると、今のあなたは、1年前のクローン人間といっても、
さしつかえない。

が、あなたはあなた。
そういうあなたは、「私は私」と言うだろう。
それが意識の連続性ということになる。

●親子

さらに言えば、親子の関係も、それに似ている。
親子のばあいは、1世代、つまり約30年をかけて、
親は自分のクローン人間を作る。

自分の子どもは、約30年をかけて作る、自分
自身のクローン人間とも考えられる。
顔や姿は、配偶者のそれと半々するということになるが、
それは大きな問題ではない。

それに意識、……このばあい、ものの考え方も、
あなたのそれに似てくる。
ただ親子のばあいは、クローン人間とはちがい、
個人差はあるだろうが、ある程度は、意識の共有が
できるかもしれない。

自分の子どもを、別個の人間と区別できない母親というのは、
たしかにいる。

●意識があるから私

こうして考えていくと、「意識」の重要性が、ますます
理解してもらえると思う。
もっと正確には、「意識の連続性」ということになる。

言うなれば、「意識の連続性があるから、私」ということになる。
「私」イコール、「意識」。
「意識の連続性」。
「意識の連続性」イコール、「私」と考えてよい。

●あやふやな意識

が、その一方で、その「意識」ほど、あてにならない
ものもない。
「私は私」と思っている意識にしても、そのほとんどが、
意識できない「私」、つまり無意識の世界で作られた
私でしかない。

意識している私は、無意識の世界で作られている私に、
操られているにすぎない。
その反対の例が、催眠術ということになる。
「あなたはキツネだ」という強力な暗示をかけられた
被験者は、目が覚めたあとも、キツネのように、
そのあたりをピョンピョンと、とび跳ねたりする。

つまり脳の中には、無数の暗示が詰めこまれていて、
それが私たちを裏から操る。
それを私たちは、「私の意識」と思いこんでいる。

意識には、そういう問題も隠されている。

●私の死

そこで再び、「死」について考える。

「私」という意識は、脳細胞の中を走り回る電気的信号の
集合でしかない。
人間が霊的(スピリチュアル)な存在でないことは、認知症
か何かになった老人を見れば、わかる。
脳の機能が低下すれば、思考力も低下し、ついで、
意識の力も弱体化する。
「私」すら、わからなくなる老人も多い。

人間が霊的な存在であるなら、脳、つまり肉体の一部
としての脳の機能に左右されるということは、ありえない。

で、その電気的信号が止まったら、どうなるか。
それが「意識の途絶え」ということになる。

●すべてが消える

「死」についての説明は、これでじゅうぶんかも
しれない。
結論的を先に言えば、私たちは死によって、意識を失う。
意識の連続性を失う。
見ることもちろん、それを自覚することもない。
「見えない」ということすら、自覚することもない。

この大宇宙を意識している「私」すら、消滅する。
つまりこの大宇宙もろとも、消えてなくなる。
あなたが深い眠りの、そのまた数万倍、深い眠りに
陥った状態を想像してみればよい。
夢を見ることもない、深い眠りである。

(それでも、微量の意識は残るが・・・。)

それが「死」に近い状態ということになる。 

では、「私」とは何か。
つまりそれが「意識」ということになる。
「意識の連続性」ということになる。

●意識

結論は、もう出ている。
「意識」イコール、「私」。
「私」イコール、「意識」ということになる。

が、「意識」だけでは足りない。
「私」を意識するためには、繰り返すが、そこに
「連続性」がなければならない。
意識だけなら、空を舞う蚊にすら、ある。
あの蚊に、「私」という意識があるとは、とても
思えない。

しかしその「私」は、努力によっていくらでも
大きくすることができる一方、ばあいによっては、
犬やネコどころか、虫のそれのように小さく
してしまうこともありえる。

人間は平等とはいうが、こと意識に関しては、
平等ということはありえない。
深い、浅い、の差はある。
またその(差)は大きい。
その(差)は努力によって決まる。

そうした努力を、釈迦は、「精進(しょうじん)」
という言葉を使って説明した。


●意識の共有性(2)

2009-10-12 12:00:05 | 日記
●生命の伝達

そこで生きている人間の最後の使命はといえば、
「生命の伝達」ということになる。
「意識の伝達」と言い換えてもよい。

再び映画『スタートレック』の話に戻る。
もし肉体の転送だけだったら、別の肉体をもう一個、
作っただけということになる。
あなたのコピー人間を作っただけということになる。

そこで当然、意識の伝達が、重要な要素となる。
そうでないと、転送先で、それぞれが、何をしてよいか
わからず、混乱することになる。
本人も、どうして転送されたのか、わからなくなって
しまうだろう。
与えられた使命すら、忘れてしまうかもしれない。
あなたに接する、相手も困るだろう。

(映画『スタートレック』の中では、この問題は
解決されているように見える。
しかしどういう方法を使って意識の連続性を保っているのか?
たいへん興味がある。)

そこで私たちは、生きると同時に、つねに意識の
伝達に心がけなければならない。
その意識の伝達があってはじめて、私たちは、
生命を、つぎの世代に伝えることができる。

●意識の消滅

個人の意識が途切れることは、こうした生命の
流れの中では、何でもないこと。
今、あなたが感じている意識しにしても、
あなたのほんの一部でしかない。

あなたの数10万分の1、あるいはそれ以下かも
しれない。
そんな意識が途切れることを恐れる必要はない。

●意識の伝達

それよりもすばらしいことは、あなたの生命が、
日々に、ほかの生物へと伝わっていること。
あなたの子どもに、でもよい。
ほかの生物が、日々にあなたを作りあげていくこと。
そうした生物ぜんたいの一部として、私がここにいて、
あなたがそこにいること。

つまりあなた自身も、無数の意識の連続性の中で
今を生き、そして無数の連続性を、かぎりなく
他人に与えながら、今を生きている。

が、それにはひとつの条件がある。

●無私

「私」という意識があるかぎり、またそれにとらわれているかぎり、
私たちは、「死」を恐れる。
「死」は、「喪失」以外の何物でもない。

そこで「私」という意識から、「私」をどんどんと取り除いていく。
言うなれば、丸裸にする。
なぜ、私たちが「死」を恐れるかと言えば、「私」があるから。
私の肉体、私の財産、私の名誉、私の地位、と。

そこで先に、その「私」を取り除いてしまう。
失うものが、何もない状態にする。
理論的には、それによって、私たちは、「死」がもたらす
喪失感、つまり恐怖から解放される。

●肉体の死

死ぬことを恐れる必要はない。
たとえばあなたはトイレで便を出すことを恐れるだろうか。
そんなことはだれも恐れない。
しかしあの便だって、ほんの1週間、あるいは1か月前には、
あなたの(命)だった。
その命が、便となり、あなたから去っていく。
また別の命を構成していく。

●意識の死

繰り返すが、肉体は、1年程度で、すべて入れ替わる。
では、意識はどうか?
意識と言うより、意識の連続性を支える「記憶」はどうか?

このことは、1年とか、2年前、さらには10年前に書いた自分の文章を
読んでみればわかる。
ときに「1年前には、こんなことを書いていたのか?」と驚くことがある。
あるいは自分の書いた文章であることはわかるが、まるで他人が書いた文章の
ように感ずることもある。

さらに最近に至っては、まるでザルで水をすくうように、知識や知恵が、
脳みその中から、ざらざらとこぼれ落ちていくのがわかる。
それを知るたびに、ぞっとすることもある。

若い人たちには理解できないことかもしれないが、現在、あなたがもっている
知識や知恵にしても、しばらく使わないでいると、どんどんと消えてなくなって
いく。
ついでに、意識も、それに並行して、どんどんと変化していく。
何も、肉体の死だけが死ではない。
意識、つまり精神ですら、つねに生まれ、そしてつねに死んでいる。
「私」という意識はそのままかもしれないが、その中身は、
映画のフィルムのコマのように、つねに作られ、つねに消されるを
繰り返しているにすぎない。

●死とは

もし「死」が何であるかと問われれば、それは
意識の連続性の(途切れ)をいう。
(途切れた)状態が、そのままつづくことをいう。
もう一度、映画のフィルムにたとえるなら、コマが切れた
とき、つぎのコマがなくなった状態をいう。

しかし心配無用!
あなたの意識は、(思想)として、残すことができる。
たとえば今、あなたは私の書いたこの文章を読んでいる。
その瞬間、私の意識とあなたの意識はつながる。
私はあなたと、同じ意識を共有する。
たとえそのとき、私という肉体はなくても、意識は
残り、あなたに伝えられる。

私の肉体は、「私」を意識しないかもしれないが、
別の肉体が、「私」を意識する。

もちろんその反対もある。
私があなたの書いた(思想)を読んだとき、私の肉体が、
「あなた」を意識する。

これを「意識の共有性」という。

●重要なのは、意識の共有性

反対に、こうも考えられる。
仮に肉体は別々でも、そこに意識の共有性があれば、「私」ということに
なる。

では、その意識の共有性は、どうすれば可能なのか?

ひとつの方法としては、SF的な方法だが、他人の意識を、自分の脳の
中に注入するという方法がある。
先にも書いたように、他人の脳と、電線のようなものでつなぐという方法もある。
もっと簡単な方法としては、どこかのカルト教団がしているように、たがいに洗脳
しあうという方法もある。

が、自分の肉体にさえこだわらなければ、今、こうして私が自分の意識を
文章にする方法だって、有効である。
この文章を読んだ人は、肉体的には別であっても、またほんの一部の意識かも
しれないが、そこで意識を共有することができる。
それが意識の共有性につながる。

つまりこうして「私」は、無数の人と、意識の共有性を作り上げることに
よって、自分の「生命」を、そうした人たちに残すことができる。
もちろんそうした人たちも、また別の人たちと共有性を作り上げることに
よって、自分の「生命」を、そうした人たちに残すことができる。

人間は、こうして有機的につながりながら、たがいの生命を共有する形で、
永遠に生きる。
つまり「死」などは、存在しない。
繰りかえすが、個体として肉体の「死」は、死ではない。

●時空を超えて

さらに言えば、私という肉体はそのとき、ないかもしれない。
しかし時の流れというのは、そういうもの。
一瞬を数万年に感ずることもできる。
数万年を一瞬に感ずることもできる。
長い、短いという判断は、主観的なもの。
もともと時の流れに、絶対的な尺度など、ない。

寿命があと1年と宣告されても、あわてる必要はない。
生き方によっては、その1年を100年にすることもできる。
(年数)という(数字)には、まったく意味がない。

●大切なこと

大切なのは、今、この瞬間に、私がここにいて、
あなたがそこにいるという、その事実。

あなたの意識は、あなたの肉体の死とともに途切れる。
しかしその意識は、かならず、別のだれかに伝えられる。
こうしてあなたは、べつのだれかの中で、生き返る。
それを繰り返す。

そこで大切なことは、本当に大切なことは、よい意識を残すこと。
伝えること。
それが私たちが今、ここ生きている、最大の目的ということになる。

●もう恐れない

さあ、もう死を恐れるのをやめよう。
死なんて、どこにもない。
私たちはこれからも、永遠に生きていく。
姿、形は変わるかもしれないが、もともと
この世のものに、定型などない。
人間の形だけが、「形」ではない。
また私たちの姿、形が、ミミズに変わったとしても、
ミミズはミミズで、土の中で、結構楽しく暮らしている。
人間だけの判断基準で、ほかの生物を見てはいけない。

そうそう犬のハナのした糞にさえ、ハエたちは
楽しそうに群がっている。
それが生命。

●日々に死に、日々に生まれる

私たちが日々に生き、日々に死ぬことさえわかれば、
最後の死にしても、その一部にすぎない。
何もこわがらなくてもよい。
あなたは静かに目を閉じるだけ。
眠るだけ。
それだけで、すべてがすむ。

あなたはありとあらゆる生物の(輪)の中で生きている。
あなたが死んでも、その輪は残る。
そしてあなたはその輪の中で、この地球上に生命が
あるかぎり、永遠に生きる。

しかしそれとて何でもないこと。
なぜならあなたはすでに、毎日、日々の生活の
中で、それをしている。
繰りかえしている。

あとはその日まで、思う存分、生きること。
あなたという意識を、深めること。
つぎにつづく人や生物たちが、よりよく生きやすくするために……。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
 BW はやし浩司 生命論 意識論 生命の連続性 はやし浩司 意識の共有性 死について 090907)

(補記)
一気に書き上げた文章なので、随所に稚拙な部分、わかりにくい部分があるかもしれない。
今はこのままにし、しばらく時間をおいてから、推敲してみたい。
(文章の一部からでも、何かを感じとってもらえれば、うれしい。)

要するに私は、この原稿の中で、「死」を(肉体の死)と(意識の途切れ)に
分けて考えてみた。
肉体の死については、何も「死」だけが死ではない。
私たちは、毎日、死に、そして生まれ変わっている。
意識にしても、そうだ。

そこで重要なのは、(意識の共有性)ということになる。
たしかに死によって、私たちの意識はそこで途切れるが、
だからといって、それで(意識)が死ぬわけではない。

現に今、あなたはこの文章を読んでいる。
読んだとたん、私の意識は、あなたの中に伝達されることになる。
あなたの中で生きることになる。
そして今度は、あなたは私の意識を土台に、さらに自分の意識を発展させる。
こうして意識もまた、永遠に、生き残っていく。

そこで「死など、恐れる必要はない」と書いたが、それにはひとつの
重要な条件がある。
それは「今を、懸命に生きること」。
とことん懸命に生きること。
過去にしばられるのも、よくない。
明日に、今日すべきことを回すのも、よくない。
要するに、「死」に未練を残さないこと。
とことん燃やしつくして、悔いを明日に残さないこと。
あなたが今、健康であっても、またそうでなくても、だ。
それをしないでいると、死は、恐ろしく孤独なものになる。
人間は、基本的には、その孤独に単独で耐える力はない。

……と書きつつ、これは私の努力目標である。
いろいろ迷いや不安はあるが、とにかくその目標に
向かって進んでいくしかない。

●満62歳

2009-10-12 09:06:55 | 日記
【満62歳の懺悔】

+++++++++++++++++++++

10月2x日(2009)、私は満62歳になる。
ちょうど満60歳のとき、「これからの人生は儲けもの」
(友人のS君の言葉)と考えていたので、私は2年、
儲けたことになる。

この2年間、健康で、楽しく過ごせた。
息子たちも健康で、それぞれ、大きな問題もなく、現在も、
元気で暮らしている。
孫たちも元気のようだ。

で、満62歳を迎えるにあたって、この1年間を、
振り返ってみたい。

+++++++++++++++++++++

●BW公開教室

 仕事では、教室(=BW教室)の様子を、ほとんど毎日、ビデオカメラに収めている。
それをYOUTUBEにアプロードして、公開している。
視聴者の反応はあまりないが、これはだれのためでもない。
私自身のため。

 当初、ビデオに収め始めたときには、心のどこかで、「この先、1年間、無事、仕事ができるだろうか?」と、不安に思った。
過去の1年は、短いが、未来の1年は、長い。
で、今月は、10月。
1月から収録を始めたので、あと数か月分を収録すればよい。
(実際には、来年3月までの、5か月分あるが……。)

 今は、先のことはあまり考えず、淡々と、ルーティーン(=日常スケジュール)をこなすだけ。


●古里との決別

 私は満62歳にして、はじめて古里と、決別できた。
そういう意味では、この1年……というよりは、2009年は、私の人生においても、特筆すべき1年ということになった。
肩の荷がおりた。
足腰が軽快になった。

 実家の古家も売却したので、気も軽くなった。
今までは、台風や大雨のたびに、実家の心配をしなければならなかった。
今は、それがない。
先週も、超大型台風18号が、実家の近くを通過したが、その夜は、何も考えず、ぐっすりと眠ることができた。

 やれやれ!


●原稿書き

 緊張感が薄れたのか、それとも脳みその働きが悪くなったのか、このところあまり原稿を書いていない。
子育てについて書くのも、疲れた……というより、飽きた。
……というより、書きつくした。

 返事を書かなければならない、読者からの相談もいくつかたまっている。
講演用のレジュメも、今夜中に、2組、仕上げなければならない。
が、その緊迫感がわいてこない。

パソコンのカタログをぼんやりとながめて、時間をつぶす。
ときどきウォーキング・マシンで、運動する。
雑誌をパラパラとめくって、テーブルの上の果物をかじる。

 ホームページ(メイン)の更新もしたいが、心の方が先に引いてしまう。
つまりめんどう。


●認知症

 何と言っても気になるのが、認知症。
昨年亡くなった兄は、晩年、うつ病から、認知症的な症状を示していた。
もうひとり姉がいるが、この姉も、このところおかしな言動が目立つ。
順番からいけば、つぎは私ということになる。

 認知症になれば、私が私でなくなってしまう。
そうなれば、私はものを考えられなくなる。
ものを書けなくなる。
それがこわい。

 だから毎日のように、ワイフと何かの脳トレをしている。
教室でも生徒を相手に、脳トレをしている。
もう少し若いころには、(遊び)として、それをしていたが、今は、真剣勝負。
中学生や高校生を相手に、数学の問題を解きあっている。

 ……で、今のところは、だいじょうぶなようだ。
ホッ!


●遊ぶ

 とくにスケジュールを決めているわけではないが、ワイフとつぎのようにしている。

(1) 週に1度は映画を、劇場で観る。
(2) 週に1度は近くの温泉(舘山寺温泉)の大浴場へ行く。
(3) 月に2、3度は、軽い旅行をする。

 あとは自宅と山荘を行ったり、来たり……。

できるだけ運動を兼ねるようにしている。
今日(10月11日)も、ウォーキング・マシンで40分。
プラス、2キロほど先にある、大型ショッピングセンターまで、歩いて往復してきた。

 気になるのは、今の生活に、「だから、それがどうしたの?」という部分がないこと。
現状維持が精いっぱい。
「明日は、ひょっとしたら、何かいいことがあるかもしれない」という淡い期待だけで生きている。
目標が、生活の中に浮かび上がってこない。


●目標

 「目標」という言葉が出てきたので、一言。
10月2x日に、私は満62歳になる。
62年間、生きてきたことになる。
で、その翌日から、「3年目」。

 このままダラダラと生きていくのも、1年。
しかしそれでは、ただの(儲けもの)で終わってしまう。
何か、目標をもたなければならない。
作らなければならない。
が、それが浮かび上がってこない。

 どうしてだろう?

 やはり現状維持が精いっぱいということか。
健康で、それなりの生活ができれば、御の字。
それで感謝しなければならない。
今、何か目標をもてと言われても、ひょっとしたら、それはぜいたくな悩みかもしれない。
今、ここにこうして生きているだけでも、ありがたいこと。
あとは、それをどう、みなに還元していくか。
つまりそれが、今の私の目標ということになる。


●楽しみ

 近くWINDOW7(=パソコンのOS)が、発売になる。
しばらく様子をみたあと、新型の最先端のデスクトップを購入する。
「しばらく様子をみる」というのは、発売直後は、値段も高いということ。
それに周辺機器との相性も気になる。
プリンターについては、新しく買い換えようと考えている。
ほかに、今使っているソフトは、どうなのか。
そのまま使えるのか。
いろいろ心配な点も、多い。

 が、1~2か月もすると、その様子もわかってくる。
値段もさがってくる。
そのころ、デスクトップを購入する。
どの機種にするかは、ほぼ決まっている。
が、今は、TOP・SECRET。


●最後に

 ……ということで、もうすぐ満62歳。
今年もワイフと長男と私だけの誕生パーティになりそう。

 本当のところ、歳を取るというのは、いやなこと。
何もめでたくない。
祝うとしたら、今まで無事に生きてきたこと。

 来年の今日、満63歳の誕生日に、今と同じようなことを書けたら、いい。
それを目標に、(目標ができたぞ!)、これからの1年をがんばってみる。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司

●テレビ電話

++++++++++++++++++++

昨日、アメリカに住む息子たちと、SKYPEを
利用して、2度ほど、テレビ電話を楽しんだ。

孫たちも元気そうだった。
で、そのテレビ電話をしながら、ふと、こんな
ことを考えた。

「あの世とこの世の間で、霊界通信をしているみたい」と。

+++++++++++++++++++++

●あの世vsこの世

 どちらが(あの世)で、どちらが(この世)か。
どちらでも構わない。
日本のこちらが(あの世)かもしれない。
息子の住んでいるアメリカが、(あの世)かもしれない。
しかし私たちは小さなパソコンの画面を通して、話をした。
あるいは小さなカガミ(鏡)でもよい。
小さなカガミを通して、話をした。

 画面の向こうは、アメリカ。
画面の手前は、日本。
私は画面を通して、孫たちの様子をながめる。
元気そうな様子を見て、安心する。
たぶん、アメリカに住んでいる息子たちもそうだろう。

 物理的な距離は、数万キロ。
その数万キロを隔てて、息子たちが、そこに見える。
テレビ電話といっても、性能はまだ不十分。
ときどき音声が途絶えたり、画面がフリーズしてしまったりする。
画像も、荒い。
だからこそよけいに、私は、(あの世)から息子たちの世界をのぞいているような気分になる。
「あの世から、この世を見たら、こんな気分かな」と。

●少ない会話

 しかしテレビ電話もそこまで。
ワイフと私だったら、一日中でも、ペチャペチャとしゃべりあっている。
しかしテレビ電話では、ある程度の話をすると、そこで会話が止まってしまう。
共通の話題がない。
相互の相談もない。
それよりも、たがいに生活が疎遠になってしまった。
「息子」「孫」「嫁」とはいいながら、今は、細い糸でつながっているだけ。

「元気か?」「元気だよ」で終わってしまう。
が、それではいけない。
いけないと思いつつ、あれこれ話すが、長つづきしない。
どこかに(無理)を感ずる。
(疲れ)を感ずる。

 ……と言いながらも、合計で、30~40分ほど、話した。
孫たちが、いろいろなおもちゃを並べて見せてくれた。
英語でいろいろ説明してくれるが、あのフニャフニャ英語は、本当に聞きづらい。
半分も理解できない。
が、理解できたような顔をして、その場をとりつくろう。

 やはり、向うが、(この世)ということか。
私の住んでいる世界の方が、(あの世)。

「これからパンプキン畑へ遊びに行く」と息子たちは言っていた。
ダイナミズムがちがう。
私たちのほうは、たまたま就寝時刻ということもあって、のんびりとお茶を飲む。
「天国」という雰囲気ではないが、それに近い。
だから、こちらが(あの世)。

 私とワイフは、(あの世)にいる。
(あの世)にいて、(この世)にいる息子たちの生活を、のぞいている。
のぞきながら、安心している。

テレビ電話をしながら、そんなことを考えた。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司


●10月12日電子マガジン

2009-10-12 08:09:25 | 日記
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      10月   12日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●柔軟性(理性vs欲望)

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子どもの世界では、よく柔軟性が問題になる。
「頭のやわらかい子」「頭のかたい子」というような表現の仕方をする。
頭のやわらかい子どもは、融通性があり、機転がきく。
一方、頭のかたい子どもは、融通性がなく、機転がきかない。
「カタブツ人間」(「心理学用語がわかる本」渋谷昌三)
になると言われている。

頭のやわらかい子どものほうが、よいように思える。
が、柔軟性が強すぎてもよくない。
行動が衝動的になったり、ときに人格そのものが
支離滅裂になる。

+++++++++++++++++++++

●柔軟性

 人は常に無意識の世界に支配されながら、考え、行動する。
その無意識の世界を分類すると、(イド)(自我)(超自我)ということに
なる(フロイト学説)。

 「イドとは、無意識的、衝動的な側面で、心のエネルギーの貯蔵庫」(同書)。
「自我とは、パーソナリティの中の意識的な側面」(同書)という(以上、フロイト学説)。

 つまり人は、イドと自我の間で、バランスを取りながら、自分をコントロールする。
イドが強すぎると、欲望に支配され、享楽的な生き方になる。
自我が強すぎると、融通がきかなくなる。
さらに「超自我」(「一般的に道徳心とか良心とよばれるもの」(同書))が強すぎると、
「柔軟性の欠けたカタブツ人間」(同書)になる。

●思考の柔軟性

 子どもの柔軟性(=思考の柔軟性)は、2つに分けられる。

(1)思考の柔軟性
(2)行動の柔軟性

 思考の柔軟性は、たとえば、ジョークを話したときなどに判断できる。
思考が柔軟な分だけ、おとなのジョークもよく理解する。
思考が柔軟でない子どもは、「カタブツ」という言葉で表現される。
言葉を額面通り、受け取ってしまう。
たとえばアスペルガー児などは、この思考の柔軟性が極端に失われた状態の
子どもと考えるとわかりやすい。

 また行動の柔軟性は、たとえば、「がんこ」という言葉で表現される。
「青いズボンでないと、幼稚園へ行かない」とがんばったりする。
一方、行動に柔軟性のある子どもは、その場、その場で、臨機応変に行動を変える。
「これがだめなら、あれが、だめ。あれもだめなら、それにする」と。

 一般的には、思考にせよ、行動にせよ、柔軟性のある子どものほうが、あとあと伸びる。

●自律期

 3~4歳の「自律期」(エリクソン)においては、一時期、子どもは、柔軟性に欠ける
ようになる。
おとなや先生が言ったことを、かたくなに守ろうとする。
この時期をうまくとらえて指導をすると、しつけがうまくいく。
またこの時期の子育てに失敗すると、子どもは、いわゆるドラ息子、ドラ娘になる。
わがままで自分勝手。
享楽的で、ルールを守れないなど。

 で、その時期を過ぎると、今度は、「自立期」(エリクソン)へと入ってくる。
この時期に、思考が柔軟な子どもほど、あとあと伸びる。
好奇心が旺盛で、触角が四方八方に向いている。
天衣無縫というか、遊びにしても、自分でつぎからつぎへと発明していく。

 反対に、いつも遊びは同じとか、遊び友だちは同じという生活は、子どもには、
好ましくない。
とくに変化の少ない、単調な生活は、子どもの知育の発育の大敵と思うこと。
ほどよい刺激を子どもの周辺に用意するのは、親の務めと考えてよい。

●「超自我」

 超自我・・・いわゆる「理性」ということになる。
脳科学の世界では、人間の理性をコントロールするのは、大脳の中でも前頭前野という
ことになっている。
部位的には、額の部分。
額の奥に、前頭前野がある。
この部分が、人の心や行動をコントロールする。

 しかし万能かというと、そうでもない。
たとえば思春期になると、子どものもつ性的エネルギー(フロイト)は、きわめて
強力になる。
大脳生理学的には、視床下部あたりの働きが活発になり、ドーパミンの分泌が旺盛に
なる。
ドーパミンというのは、欲望と快楽をつかさどる脳内ホルモンをいう。

 こうした働きを、前頭前野だけで、コントロールするのはむずかしい。
むずかしいというより、不可能。
似たような反応に、アルコール中毒症やニコチン中毒症がある。
酒のにおいをかいだり、タバコのコマーシャルを見ただけで、酒を飲みたく
なったり、タバコを吸いたくなったりする。
これは条件反射反応といわれるものだが、意思の力で、それをコントロール
するのは、むずかしい。

●では、どうするか

 要するに、(理性=善)と、(欲望=悪)との戦いということになる。
(ただし欲望イコール、悪ではない。念のため。)
こうした戦いは、何も子どもの世界だけの話ではない。
おとなになってからも、つづく。
老齢期になってからも、つづく。

 だから子どもの問題として考えるのではなく、あなた自身の問題として考えるのがよい。
その結果、つまり「では自分はどうすればいいか」を考えながら、それを子どもの世界
へと、延長していく。
 あるいはあなた自身の青春時代はどうであったかを、みるのもよい。

●精進(しょうじん)

 結局は、「精進(しょうじん)」ということになる。
欲望という悪と戦うためには、日々に研鑚あるのみ。
これは健康論と似ている。

 健康を維持するためには、日々に運動し、体を鍛錬するしかない。
それを怠ったとたん、健康は下り坂へと向かう。
同じように、日々の研鑚を怠ったとたん、心は欲望の虜(とりこ)となる。

 私たちが生きているかぎり、健康に完成論がないのと同じように、理性や道徳に
完成論はない。
ただ幸いなことに、こと性欲に関しては、加齢とともに、弱体化する。
まったくなくなるわけではないが、若いときのように、四六時中・・・ということはない。
また時折泉から湧いてくるメタンガスのようなもので、湧いても、すぐ消える。
あるいは長つづきしない。

 私もある時期、性欲から解放されてはじめて、性欲が何であったかを知った。
同時に、あのすがすがしい解放感を、今でも忘れることができない。

●限界

 ということで、親として、あるいはおとなとして、子どもに対してできることにも
限界があるということ。
自分という親(=おとな)ですらできないことを、どうして子どもに求めることが
できるのか。

 ・・・と書くと、何のためのエッセーかということになってしまう。
そこで重要なのが、子どもの「自我の同一性」ということになる。
これについては、もう何度も書いてきた。
要するに、(自分のしたいこと)を、(生き生きと前向きにしている)子どもは、
それだけ心の抵抗力が強いということ。
心にスキがない。
ないから、悪をはねのけてしまう。
つまりそういう方法で、子どもの心を守る。

●私たちの問題

 私たち親(おとな)も、また同じ。
理性や道徳の力に限界があるなら、それを補うためにも、(自分のしたいこと)を見つけ、
それに向かって(生き生きとする)。
もしあなたが老齢期にさしかかっているなら、(満40歳以後は老齢期だぞ!)、(自分の
すべきこと)を見つけ、それに向かって(生き生きとする)。
(自分のしたいこと)ではない。
(すべきこと)である。
しかもその(すべきこと)は、無私無欲でなければならない。
これを「統合性の確立」というが、打算や功利が混入したとたん、その統合性は霧散する。

 そういう姿を、あなたの子どもが見て、またあなたをまねる。
結局は、それがあなたの子どもを伸ばすということになる。

●柔軟性とは

 話が大きく脱線した。
柔軟性について書きたいと思っていた。
が、こんな話になってしまった。

 しかし思考の柔軟性には、こんな問題も含まれている。
いくら柔軟性があっても、欲望のおもむくまま振り回されていたのでは、
どうしようもない。
一方、人は、自らが不完全であることを恥じることはない。
その(不完全さ)が、無数のドラマを生み、人生を潤い豊かに、楽しいものにする。
要はバランスの問題ということになる。
あるいはときに応じて、カタブツになったり、反対にハメをはずして遊ぶ。
その限度をわきまえる力が、「柔軟性」ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW イド 自我 超自我 はやし浩司 融通性 子どもの柔軟性 思考
の柔軟性 理性 カタブツ)


Hiroshi Hayashi++++++++SEP.09+++++++++はやし浩司

●山荘

++++++++++++++++++

今夜は、夜中に山荘にやってきた。
日時は、9月11日。
午後11時45分。
あと少しで、9月12日。

少し前、ワイフはチューハイを一缶飲んだ。
そしてそのまま床の中へ。

私は眠いが、こうしてパソコンを相手に、
文章を書いている。
真新しいパソコンで、キーを叩いているだけで、
気持よい。
TOSHIBAのTX66という機種である。
(パソコンのことを、「機種」と言うのかどうか
知らないが・・・。あるいは「型番」というのが、正しいのか?)

画面は16インチもある。
そのため持ち運びには不便だが、ひとたびデスクに
置けば、あとは楽。
ふつうのデスクトップのようにして、使える。

++++++++++++++++++++

●子どものやる気

++++++++++++++++

J君(小4)という、興味深い
子どもがいる。

毎週1時間30分、その子どもの学習を
みている。
が、1時間30分、勉強するわけではない。
最初の10~20分は、コミック本を
読んで、時間をつぶす。
それから20~30分は、だらだらと
勉強らしい勉強もせず、無駄話をして
すごす。

こうしてときに1時間あまり、時間を
無駄にしたあと、何かの拍子にふと
気が向くと、突然、勉強を始める。
が、一度始めると、猛烈な勢いで、
今度は「量」をこなす。
もともと頭の切れる子どもである。
あっという間に、計算問題だと、
40~50問くらいは解いてしまう。

時間にすれば、20~30分前後だが、
それでふつうの子どもなら、1時間
30分くらいはかかるような量を、
終えてしまう。

そしてそれが終わると、またいつもの
ように、だらだらし始める。
無駄話を始めて、時間をつぶす。

++++++++++++++++

●内発的か、外発的か?

 子どものやる気をみるとき、それが内発的(自ら進んでやろうとしている)か、
外発的(親や先生に言われてやろうとしている)かを、みる。
内発的であれば、よし。
そうでなければ、そうでない。

 たとえば子どもの学習の3悪に、(1)条件、(2)比較、(3)無理、強制がある。
条件というのは、「~~したら、~~を買ってやる」式の条件をつけること。
比較というのは、「~~さんは、もうカタカナが書けるのよ」と、子どもをほかの子ども
と比較すること。
無理、強制というのは、能力を超えた学習を子どもに押しつけたり、強制的に子どもを
勉強させることをいう。

 こうした方法は、一時的には効果があっても、長つづきしない。
しないばかりか、それが日常化すると、子どもは、やる気そのものをなくす。

 たとえば冒頭に書いたJ君の例で考えてみよう。
J君は、私の教室(BW教室)へは、小学1年生のときから来ている。
今年で、4年目になる。
当初は、そういうJ君の特性(?)に、戸惑った。
ときには条件をつけたり、あるいは無理に学習に向かわせようとした。
しかし効果はいつも、一時的。

 そこである日から、(というのも、ガミガミ言うのは私のやり方ではないので)、
本人のやりたいようにさせることにした。
その結果が、冒頭に書いたようなやり方ということになる。

●特性

 それぞれの子どもには、それぞれの特性がある。
勉強という(作業)をこなすときには、その特性が、大きくその子どもを左右する。
たとえば集中力についても、持続的に長時間保てる子どももいれば、そうでない
子どももいる。
極端なまでに集中力の欠ける子どもを、「集中力欠如型~~」とかというが、しかし
だからといって、それが問題というわけではない。

 最近の調査によれば、チャーチルもモーツアルトも、そしてあのエジソンも、
アインシュタインも、その「集中力欠如型~~」(AD・HD児)だったと言われている。
とくにエジソンなどは、ここに書いた、J君とそっくりの特性を示していた。

●天才型

 そういうJ君を指導しながら、よく「この子には、これでいいのだ」と、自分に言って
聞かせる。
あるいはときどき、もし父親が、そういうJ君を、この教室で見たら、どのような
判断をするだろうかと考えるときがある。
「怒って、やめてしまうだろうな」と。

 幸い母親が理解のある人で、また愛情豊かな人のため、J君をおおらかに見ている。
会うたびに、「迷惑ばかりかけて、すみません」と言ってくれる。
本当は、迷惑と感じたことはない。
ただ私流の指導が思うようにできないため、私流にいらいらしているだけなのかも
しれない。

 しかし考えてみれば、私自身にだって、私流の特性がある。
たった今も、この原稿を書いている途中で、ラジコンのヘリコプターの調整のため、
庭へ出て、それを飛ばしてきた。
集中力があるかないかということになれば、・・・というより、特性という点では、
私とJ君は、よく似ている。

 若いときから、そうだった。
だらだらと一定の時間を過ごしたあと、仕事をするときは、一気にする。
それが私のやり方だった。

 反対に、持続的にコツコツと勉強に取り組む子どもも、多い。
しかし期待するほど、効果はあがらない。
そこそこに勉強はできるようにはなるが、そこで止まってしまう。
「天才型」、あるいは、「才能発揮型」の子どもというのは、多くはJ君のような
特性を示す。
指導する側としては、(指導しにくいタイプ)ということになるが、長い目で見れば、
むしろこのタイプの子どものほうが、好ましいということになる。

●避けたい外発的動機づけ

 内発的に子どものやる気を引き出すことを、「内発的動機づけ」という。
(これに対して、条件、比較、無理、強制などにより、外発的に子どものやる気を
引き出すことを、「外発的動機づけ」という。)

 外発的動機づけが日常化すると、子どもは、ものごとに対して依存的になりやすい。
言われたことはするが、それ以上のことはしない。
あるいは言われないと、行動できない、など。
とくに条件が日常化すると、条件なしでは勉強しなくなる。
さらにこの条件は、年齢とともに、エスカレートしやすい。

 幼児のころは、「30分、勉強したら、お菓子一個」ですむかもしれない。
しかし中学生や、高校生ともなると、そうはいかない。
「学年順位が10番あがったら、10万円」となる。

 だから内発的動機ということになる。
子どものやる気を、子どもの内側から自然に引き出す。
そのための方法は、いくらでもある。
またそれを実践していくのが、教育、なかんずく幼児教育ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW やる気 はやし浩司 動機づけ 内発型 外発型 動機づけの3悪
4悪 達成動機)

●10月12日(2)

2009-10-12 08:09:02 | 日記


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【家という、監獄】

+++++++++++++++

私の兄は、生涯、「家」という監獄に
閉じ込められた。
みなは、兄のことを、バカだと思っていた。
またそういう前提で、兄を見ていた。
「だから、しかたなかった」と。
しかしこれはまったくの誤解。

兄の感受性は私のそれよりも、鋭かった。
知的能力にしても、少なくとも姉よりは、
ずっと高かった。
そんな兄が、「家」という監獄に閉じ込められた
まま、昨年(08年)、他界した。

そう、兄にとっては、たしかに「家」は
監獄だった。
私にとっても、そうだった。
だから兄の苦しみが、私には、痛いほど、
今、よくわかる。

+++++++++++++++

●兄

 みなさんは、「家制度」というものを、知っているだろうか?
知っているといっても、その中身を知っているだろうか?
「家」に縛られる、あの苦しみを知っているだろうか?

恐らく、今の若い人たちは、それを知らないだろう。
理解することもできないだろう。
自由であることが当たり前だし、自由というのは、自分が自由でなく
なったときはじめて、わかる。
それは空気のようなもの。
空気がなくなって、はじめて、そのありがたさがわかる。
自由も、また同じ。

●家制度

 「家」に縛られる。
「家」あっての、「私」と考える。
江戸時代の昔には、「家」あっての「私」ということになる。
「家」から離れれば、無宿者(むしゅくもの)と呼ばれた。
街角で見つかれば、そのまま佐渡の金山送りとなった時代もある。
あるいは無頼(ぶらい)とか、風来坊(ふうらいぼう)という言葉もある。
少し意味はちがうが、「家」がなければ、定職につくのも、むずかしかった。

そのため(私)は、「家」を守ることを、何よりも大切にした。
「家」のために(私)が犠牲になることは、当然のことのように考えた。

 ずいぶんと乱暴な書き方をしたが、大筋では、まちがっていない。
そういう前置きをした上で、私は、私の兄について書く。

●江戸時代

 こう書くからといって、母を責めているのではない。
というのも、母が生きた時代には、まだすぐそこに江戸時代が残っていた。
私はそのことを、満60歳になったときに知った。

 大政奉還によって江戸時代は終わったが、今から130年前のこと。
「130年」というと、若い人たちは、遠い昔に思うかもしれないが、
60歳になった私には、そうではなかった。
私の年齢の約2倍。
「2倍」と言えば、たったの2倍。
私の年齢のたった2倍昔には、そこにはまだ江戸時代が残っていた!

 去年(08年)、私の母は、92歳で他界したが、母にしてみれば、
母が子どものころは、江戸時代はいたるところに残っていた!
江戸時代、そのものといってもよい。

●実家意識

 そのため母がもつ、実家意識と、私たちがもつ、実家意識には、
大きなちがいがあった。
実家意識イコール、先祖意識と考えてよい。

 母は容赦なく、私からお金を奪っていったが、母にすれば、
それは当然の行為ということになる。
あるとき私が、あることで泣きながら抗議すると母は、ためらうことなく
こう言った。

 「親が実家を守るため、子(=私)の金(=マネー)を使って
何が悪い!」と。

 母は、私から言葉巧みに土地の権利書を取り上げると、その土地を
転売してしまった。
土地を母名義のままにしておいたのが、悪かった。

●栄養不足

 兄は、母の言葉を借りるなら、「生まれながらにして体が弱かった」。
母がそう思った背景には、母なりの理由がある。
長男の健一は、生まれるとまもなく、小児麻痺になった。
そして私が3歳のとき、日本脳炎で、死んでしまった。
そのあと、もう1人、兄がいたが、死産だった。
そのあと、もう一人の兄、準二が生まれた。
戦時中の貧しい時代のことで、栄養失調などというものは、あたりまえ。
国民病のようにもなっていた。

 私が子どものころでさえ、砂糖水がミルクの代わりに使われていた。
私もよく飲まされた。
兄は、恐らくもっと多量に飲まされていたにちがいない。
それだけが原因だったとは言えないが、たしかに兄は、弱かった。
今で言う脳水腫のようなものを起こしたのではなかったか。
背も低かった。
おとなになってからも、身長は、150センチ前後しかなかった。

●長子相続

 「家制度」は、「長子相続」が基本。
「長男が家を継ぐ」というのが、原則だった。
そのため父母はもちろんのこと、祖父母も、兄に大きな期待を寄せた。
同時に、兄に、スパルタ教育を試みた。

 アルバムを見るかぎり、中学を卒業するころまでは、兄は、どこにでも
いるような、ごくふつうの子どもだった。
明るい笑顔も残っていた。
その兄がおかしくなり始めたのは、兄が17、8歳くらいからのこと
ではなかったか。

 兄は、(跡取り息子)というよりは、(奴隷)に近かった。
もともと静かで、穏やかな性質だったが、それが父や母には気に入らなかった。
毎日のように兄は、父や母に叱られた。
怒鳴られた。
加えてやがて、家族からも孤立し始めた。
私とは9歳、年が離れていたこともある。
私は、兄といっしょに遊んだ記憶が、まったく、ない。
私は、父や母の関心が兄に集中する一方で、放任された。
私にとっては、それがよかった。
兄とは正反対の立場で、毎日、父や母の目を感ずることなく、遊んでばかりいた。

●心の監獄

 今になって江戸時代の、あの封建主義時代を美化する人は多い。
悪い面ばかりではなかったかもしれないが、しかし封建主義時代がもつ(負の遺産)に
目を向けることなく、一方的に、あの時代を礼賛してはいけない。

 家制度のもつ重圧感は、それを経験したものでないとわからない。
説明のしようがないというか、それは10年単位、20年単位でつづく。
いつ晴れるともわからない、悶々とした重圧感。

が、あえて言うなら、本能に近い部分にまで刷り込まれた、監獄意識に近い。
良好な家族関係、人間関係があるならまだしも、それすらないと、そこは
まさに監獄。
心の内側から、肉体を束縛する監獄意識。

 この私ですら、そうだったのだから、兄が感じたであろう重圧感には、
相当なものがあるはず。
監獄から逃げる勇気もなかった。
その能力もなかった。
それ以上に、兄の精神は、20歳になるころには、すでに萎縮していた。
父は、親絶対教の信者。
母は、口答えすら許さない権威主義者。
そういう環境の中で、兄は、なるべくして、あのような兄になっていった。

●意識

 が、意識というのは、おかしなもの。
私自身は戦後の生まれで、戦後の教育を受けた。
にもかかわらず、はじめてオーストラリアへ渡ったとき、そこで受けたのは、
ショックの連続だった。

 日本でいう上下意識がなかった。
 日本でいう家父長意識がなかった。
 日本でいう男尊女卑思想がなかった。
 もちろん長子存続意識もなかった。
 さらにこんなことにも驚いた。

 友人の家族だったが、年に2度も引っ越した。
オーストラリア人は今でもそうだが、収入が増えると、それに見合った
家に移り住んでいく。
「家を売り買いする」という意識そのものが、私の理解を超えていた。
「家」を売り買いするという意識そのものが、私には理解できなかった。
今から思うと、あのとき、その話を聞いて驚いたということは、それだけ
私の意識が、オーストラリア人のそれと、ズレていたことを示す。

●兄

 兄は、自分で考える力すら、失っていた。
してよいことと、悪いことの判断すら、できなかった。
そのため常識はずれな行動が目立った。
こんなことがあった。

 私が30歳のときのこと。
高校の同窓会があった。
私は恩師へのみやげということで、ジョニ黒(ウィスキー)を
用意して、もっていた。
が、その日の朝、見ると、フタが開けられ、上から3~4センチくらい、
ウィスキーが減っていた。

 兄の仕業ということはすぐわかった。
で、兄にそれを叱ると、悪びれた様子もなく、兄は、こう言った。
「ちょっと飲んでみたかっただけや」と。

 一事が万事、万事が一事だった。

●マザコン

 それで母の過干渉が終わったわけではない。
今にして思うと、ほかに類をみない、異常なまでの過干渉だった。
たとえば兄を、自転車屋という店に縛りつけたまま、一歩も、外に出さなかった。
友人も作らせなかった。
「おかしな連中とつきあうと、だまされるから」というのが、母の言い分だった。

 兄は、そんなわけで生涯にわたって、給料なるものを手にしたことはない。
ときどき小遣いという名目の小銭をもらい、そのお金でパチンコをしたり、
レコードを買ったりしていた。

 そんな母だったが、兄は、母の言いなりだった。
嫌われても、嫌われても、兄は母の言いなりだった。
何かあるたびに、兄は、こう言った。
「(そんなことをすれば)、母ちゃんが怒るで……」と。
母の機嫌をそこねるのを、何よりも、こわがっていた。

●母との確執

 私が30歳を過ぎたころ。
兄は40歳になりかけていた。
そのころ、私は兄を、浜松へ呼びつける覚悟をした。
祖父が他界し、父も他界していた。
「母と兄を切り離さなくてはいけない」と、私は決心した。

 すでに兄は、うつ病を繰り返していたし、持病の胃潰瘍も悪化していた。
内科の医師はこう言った。
「潰瘍の上に潰瘍ができ、胃全体が、まるでサルノコシカケのように、
なっています」と。

 血を吐いたことも、たびたびある。
そういう兄を知っていたから、私は母と言い争った。
「兄を浜松へ、よこせ!」
「やらない!」と。

 母は、兄を自分の支配化に置き、自分の奴隷として使うことしか考えていなかった。
心理学で言う、「代償的過保護」というのである。
「過保護」というときは、その裏に、親の愛情がある。
その過保護に似ているが、代償的過保護というときには、その愛情がない。

 一時は、1週間にわたって、母と怒鳴りあいの喧嘩をしたこともある。
はげしい喧嘩だった。
が、母には勝てなかった。
兄は兄で、母の呪縛を解くことができなかった。
私は引き下がるしかなかった。

●母の愛

 「愛」という言葉がある。
しかしこと私の母に関して言うかぎり、「愛」という言葉ほど、白々しい
言葉はない。

 もっとも母は、「愛」という言葉は使わなかった。
「かわいい」という言葉を使った。
「準ちゃん(=兄)は、かわいい」
「私は準ちゃんを、かわいがっている」というような言い方をした。

 母は、自分に従順で、口答えしない子どもが、「かわいい子」と言った。
そういう観点から見れば、私は、「鬼っ子」ということになる。
私は、ことあるごとに母に逆らった。
私のほうが生活の主導権を握っていたということもある。
母にはもちろん、兄にも、生活能力は、ほとんどなかった。
生活費は、すべて私が出した。
税金はもちろん、近親の人の香典まで……。

●泣き落とし

 そこで母が私に使った手は、泣き落としだった。
母は、いつも貧しく、弱々しい母を演じた。
そういう話になると、いつも涙声だった。
(涙は、ほんとうは一滴も出ていなかったと思うが……。)

 「母ちゃんは、近所の人が分けてくれる野菜で、生きていくから
心配しなくていい」というのが、母の口癖だった。
が、そう言われて、「はい、わかりました」と言う息子はいない。

 私はこうして母に、お金を貢いだ。
実家へ帰るたびに、20万円とか30万円(当時の金額)という現金を、母に渡した。

●家族自我群

 それでも私は自由だった。
浜松という土地で、好き勝手なことができた。
結婚し、3人の子どもをもうけることもできた。
そんな私でも、心が晴れたことは、一日もなかった。
本当になかった。

 心理学の世界には、「家族自我群」という言葉がある。
無数の「私」が、家族という束縛の中で、がんじがらめになっている状態をさす。
それから生まれる呪縛感には、相当なものがある。
「幻惑」という言葉を使って、それを説明する学者もいる。

 切るに切れない。
無視することもできない。
「私は知らない」と、放り出すこともできない。
それは悶々と、真綿で首を絞めるような苦しみと表現してもよい。
そんな中、母が私をだますという事件が起きた。
それについては、先にも書いた。

●家の犠牲

 私は「家」の犠牲になった。
兄は、さらに犠牲になった。
生涯、「女」も知らず、結婚もせず、一生を終えた。
一度だけだが、兄にも結婚の話があった。
しかし母がそれを許さなかった。
「結婚すれば、嫁に財産を奪われてしまう」と。

 で、ある日、私は兄を、浜松へ遊びに来たついでに、トルコ風呂へ連れて
いったことがある。
兄に「女」を経験させてやりたかった。
しかし入り口のところで兄は、固まってしまった。
「さあ、いいから、中へ入れ」と何度も促したが、兄は入らなかった。
そこがどういうところかも理解できなかった。

 そう、そのころから、兄は、私の兄というよりは、私の弟という
存在になった。
さらに私の息子という存在になった。

●兄の死

 こうして兄は、2008年の8月、持病を悪化させ、最後は胃に穴をあけられ、
肺炎で他界した。
作った財産は、何もない。
残した財産も、何もない。
あの「林家」という「家」に縛れられたまま、そこで生涯を終えた。

 冒頭の話に戻るが、だからといって、母にすべての責任があるわけではない。
母は母として、当時……というより、自分が生まれ育った時代の常識に従った。
ここでいう「家制度」というのも、そのひとつ。

 今でも、この「家制度」は、あちこちに残っている。
地方の田舎へ行けば行くほど、色濃く残っている。
そういう意識のない人たちからみれば、おかしな制度だが、そういう意識を
かたくなに守っている人も少なくない。

●家に縛られる人たち

 私の知人に、D氏(50歳)という男性がいる。
父親との折り合いが悪く、同居しながらも、子どものころから、たがいに口を
きいたこともない。

 父親は、きわめて封建的な人で、家父長意識がその村の中でも、特異とも
言えるほど、強い。
母親は、穏やかでやさしい人である。
そのため、一歩退いた世界から見ると、母親は、父親の奴隷そのものといった
感じがする。

 が、D氏は、その「家」を離れることができない。
なぜか?
ここに(意識)の問題がある。
D氏をその家に縛っているのは、もちろんD氏の意識ではない。
D氏自身は、一日でもよいから、父親のもとを離れたいと願っている。
が、それができない。

 それが家族自我群ということになる。
深層心理の奥深くから、その人を操る。
理性や知性の範囲を超えているから、自分でそれをコントロールすることは、
ほぼ不可能と考えてよい。

 私も何度か、「親と別れて住んだらいい」とアドバイスしたことがあるが、
そういう発想というか、意識そのものがない。
ないというより、もてない。
「何十代もつづいた家だから」というのが、その理由である。

 しかしはっきり言おう。
そういうくだらない考えは、私たちの時代で終わりにしたい。
「家」が大切か、「私」が大切かということになれば、「私」に決まっている。
「家を継ぐ」とか、「継がない」という発想そのものが、時代錯誤。
バカげている。
が、それがわからない人には、それがわからない。

 D氏は死ぬまで、結局は、「家」に縛られるのだろう。
しかし先日、古里と決別した、私から一言。

 「家意識なんて、棄ててしまえ!」。
「『私』を、鎖から解き放て!」。

 そこは自由で、どこまでもおおらかな世界。
D氏よ、何を恐れているのか?
何を失うことを、心配しているのか?

 あなたが自由になったところで、あなたは何も失わない。
あれこれと言う連中はいるだろうが、そういうバカな連中は相手にしなくてもよい。
相手にしてはいけない。
どうせ化石となって、消えていく運命にある連中なのだから……。