最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●占星術

2009-10-28 08:24:33 | 日記
●満62歳の誕生日に

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明日、私は満62歳になる。
62歳?
62歳ねエ~?

「62歳」と言って、
最初に思い浮かんだ言葉が、これ。
「もう2年も、たったのかア」と。

つい先日、「還暦」という言葉に踊らされたばかり。
そんな感じがする。

つまり加齢とともに、脳のクロック数が
落ちるため(はやし浩司説)、
すべての活動のテンポが遅くなる。
そのため、時間が早く進むように感ずるように
なる(これも、はやし浩司説)。

たとえば若いころの脳のクロック数を、
毎秒100ヘルツとする。
現在は、半分の毎秒50ヘルツとする。
すると見かけは同じ状態でも、実感時間は、
若いころの半分になる。
つまり2倍、早く時間が過ぎることになる。

しかし脳全体の機能が速度的に落ちるため、それを
自分で実感することはできない。
(どこか、アインシュタインの相対性理論に似ている?)
このことは、幼児を教えてみると、よくわかる。

もし幼児を、私のもつテンポで教えたら、幼児は、
あっという間に、私のレッスンに飽きてしまうだろう。
そこで私は、幼児のもつクロック数で、教える。

幼児のもつクロック数は、おとなのそれよりも、
はるかに速い。
教える側が、もたもたしていると、すぐ、「つまんナ~イ」
という言葉がはね返ってくる。
(こうした様子は、HP(BW公開教室)で、公開中!)

一方、高齢者のクロック数は、低い。
50どころか、20とか、10にまで下がる。
見た目には、ゆったりと時間が流れるが、
その分だけ、高齢者にとっては、早く時間が過ぎる。

……というわけで、もう2年も過ぎた。
あっという間だった。

この2年間で、私は何をしたか?
何ができたか?
中身を見ていくと、結構いろいろあったような気がする。
母の介護と死去。
その間に、兄の死去。
先月は実家を売却して、故郷とは縁を切った。
精神的には、激動の2年間だった。
(少しおおげさかな?)
が、それでもあっという間に過ぎた。
そんな感じがする。

が、過去は過去。
私には、つぎの1年間が待っている。
いろいろ計画がある。
したいこともある。
すべきこともある。
しかし1年といっても、日々の積み重ねで決まる。
その日々は、今という、一瞬、一瞬の積み重ねで決まる。

大切なことは、クロック数を落とさないこと。
鋭敏さを失わないこと。
それは何度も書くが、健康論と同じ。
日々の体力づくりのみが、明日の健康を約束する。
立ち止まったとたん、そのときから、
健康は、下り坂に向かって、まっしぐら!

新聞を読もう。
本を読もう。
音楽を聴こう。
映画を見よう。
旅をしよう。
人に会おう。
新しいものに興味をもとう。
仕事をしよう。
体を動かそう。

それでクロック数があがるとは思わない。
が、しかし維持することはできる。
50ヘルツなら、50ヘルツでもよい。
その50ヘルツを、できるだけ長く維持する。
つまり長生きするといっても、クロック数が
5ヘルツや10ヘルツでは、しかたない。

で、今日、小学5年生の子どもたちに会うから、
つぎのような問題を出してみよう。

【問】

 脳のクロック数が、毎秒100ヘルツの人が、
10年、生きたとする。
一方、脳のクロック数が、毎秒50ヘルツの人が、
20年、生きたとする。
どちらの人が、長生きをしたことになるか。

 きっと子どもたちは、「20年、生きた人」と
答えるだろう。
そこで私は、コンピュータを例にあげて説明したあと、
おもむろに、こう教える。
 
100x10=1000
 50x20=1000で、
「実は中身は、同じだよ」と。

平たく言えば、人生の長さは、年数の長さでは
決まらない。
大切なのは、密度。
密度で決まる。

それがわからなければ、あなたも一度でよいから、
あの特別擁護老人ホームにいる老人たちを
のぞいて見てみたらよい。

ホームのテレビの前に座っている老人たちは、
ぼんやりとしたまま、その日、その日を、
過ごしているだけ。
あとは食事をしているか、眠っているだけ。
毎日、同じことしか言わない老人もいる。
1年を1日のようにして、生きている。

やがて私たちも、ああなる。
まちがいなく、ああなる。
が、その時期は、できるだけ先に延ばしたい。
先に延ばして、自分の人生を、2倍にしたい。
3倍にしたい。
どうせ、たった1回しかない人生だから。

……というのが、満62歳の私の抱負と
いうことになる。
けっして立ち止まらない。
ただひたすら前に向かって進む。

そう、あのスティーブンソン(「宝島」の著者)も
こう書いている。

『我らが目的は、成功することではない。
失敗にめげず、前に進むことである』と。

この言葉をもじると、こうなる。

『我らが目的は、年齢に応じた生き方をすることではない。
年齢を無視して、前に進むことである』と。

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Hiroshi Hayashi++++++++OCT.09+++++++++はやし浩司

●2012年

2012年に、なにやら、とんでもないことが起こるらしい。
それをテーマにした映画が、ローランド・エメリッヒ監督の、『2012』。
11月21日に、劇場で公開されるという。
楽しみ。
ぜったい、見に行く。

 で、つぎからつぎへとこういう映画ができる。
ハリウッドに集まる映画マンには、本当に感心する。
まとめて、「ハルマゲドン映画」という。

迫り来る、危機。
人類滅亡の危機。
みなが恐怖におびえ、逃げまどう。
「もうだめだ」と思ったところに、勇敢なヒーローが現れる。
そのヒーローが地球を救う。

基本的には、ウルトラマン映画と変わらない。
月光仮面でもよい。
筋書きとしては、そういうもの。
あとはどう、それをおもしろおかしく演出するかということ。
で、今回は、真実味をつけるために、マヤの暦を利用した。
が、私はこういう映画が好き。
「2012年に、マヤの予言通り、世界は終わる」と。

 映画案内には、こうある。

 「高度な天文学、数学の知識をもち、栄えていたマヤ人。
彼らが残した暦には、ある時を境に、それ以降の記述がない。
昔から「世界終末の日」と言われてきた、その暦最後の日は……
2012年12月21日。
あと3年に迫った現在、マヤの予言だけではなく、現代科学も、「2012年
終末説」を裏づけるデータをつぎつぎと、発表している。

 太陽の黒点問題。
 地球温暖化。
 度重なる、自然大災害……。

 占星術師は星の中にその兆候を発見し、
数秘術師はそれを予言するパターンを見つけ、
地質学者は、それがいつ起きても不思議でないと言い、
政府関係者や科学者さえも、それを言及している。
もはや、このことを否定できる者はいない」と。

 マヤの暦は、2012年12月21日」で終わっているという。
私の家のカレンダーは、2009年12月31日で終わっている。
……というような冗談はさておき、こうした予言は、当たったためしがない。
(当たってもらっては、困るが……。)
10年前には、ノストラダムスの大予言というのが、話題になった。
あれも、完全に、ハズレ!

 興味深いのは、こうした予言をもとにして、デタラメな本を書いた人が、
1人とて、責任を取ったことがないこと。
世の中を不安にするだけ不安にしておいて、かつ莫大な印税を手にしておいて、
あとは「知らない」は、ない。
儲けた分くらいは、社会に還元してほしい。

 もっとも、本気でそれを信ずる人は、いなかったが……(?)。

 で、2012年。
マヤ文明は宇宙人とつながっているという。
私も若いころ、デニケンの本は、何冊か、読んだ。
おもしろかった。
人間だけが、宇宙の、ゆいいつの知的生物という考え方は、おかしい。
人間以外にも、知的生物は、いる。
しかもその知的生物は、私たちの想像をはるかに超えるほど、知的と
考えるのが、正しい。

 人間と、庭に遊ぶ山鳩くらいの差は、あるかも。
そういう知的生物なら、かなり正確に、地球の未来を予測することができるはず。
(予言ではなく、予測。)
その予測を、宇宙人は、マヤの人々に伝えた。
デニケンなら、そう判断するだろう。
それが2012年ということになる。

 しかしおかしなことに、「2012」という数字がどこから出てきたかというと、
それがよくわからない。
「マヤの暦によれば……」ということらしい。
しかし私が知るかぎり、彼らの文字は、いまだに解読されていないはず。
で、あちこちを調べてみたが、よくわからない。
仮に2012年で暦が終わっているからといって、それが「終末」を意味すると
考えるのは、おかしい。
カレンダーにも限界があるように、マヤの暦にも限界がある。
あったところで、おかしくない。
ひょっとしたら、その程度のことではないのか。

 ……とは言っても、楽しみ。
私は学生時代から、SF小説が大好き。
その類の本ばかり、読んでいた。
当時は、地球人と木星人との戦争とか、そういう単純なものばかりだった。
が、それでもおもしろかった。

 脳みそを刺激するには、この種の映画が、いちばんよい。

 なお占星術という言葉が出てきたので、一言。
以前、それについて書いた原稿をさがしてみた。

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●占星術

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今、静かに、かつ密かに、
占星術なるものが、流行している。

街中の片隅で、あるいは、
どこか陰湿なビルの一室で、
あやしげな儀式がが、まこと、
しやかに、行われている。

占星術で占ってもらっているのは、
大半が、若い女性だが、男性もいる。
もちろんそれなりの年配者もいる。

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 占星術としてよく知られているのが、ギリシャで発達した、「黄道十二宮(ホロスコープ)占星術」である。今、日本でいうところの占星術は、この流れをくんだものと考えてよい。しかし占星術は、何も、それだけではない。星が見えるところ、すべての世界に、それがある。興味深いのは、イスラムの世界にも、それがあるということ。

 で、占星術では、「万物は、神によって創造された。ならば、その万物の構成要素から、神の意思を推し量ることができるはず」というのが、その基本になっている。わかりやすく言えば、太陽も、星も、そして人間も、すべて神が創造したものである。だからそれら万物は、一体となって、統一性と連続性をもって運行している、と。

 そこで天体の星の位置や動きを知ることで、神の意思を知る。ついで、それらと一体として連動している、人間の運命を知る、と。

 しかし常識で考えても、いろいろ矛盾がある。

 たとえば黄道十二宮占星術では、その人の生年月日を基準にするが、母体から離れ出て誕生した日を生年月日というのも、よくよく考えてみれば、おかしなこと。原理的には、男の精子が、母親の子宮に着床したときをもって、生年月日と言うべきではないのか。例がないわけではない。

 中国では、年齢をいうとき、(数え年)で数える。つまり生まれたとき、すでに1歳とするのは、生まれる前の1年間を、母親の母体内で過ごしていると考えるからである。イスラムの世界でも、その人の星位は、受胎時の星位によって決まると考えられている。

 ならば私やあなたの誕生年月日は、母体から切り離されたときではなく、ここにも書いたように、受胎したそのときをもって、決まると考えるのが正しい。少なくとも、占星術では、出産日ではなく、受胎日を基準にして、その人個人の運勢を占うべきである。

 年齢だけではない。占星術といっても、ここに書いた出生によって、その人の運命を判断する、「出生占星術」、太陽、月、星などの動きから、世界や国の動きを判断する、「全体占星術」、いつどのような形で行動を始めるかを占う、「開始行動占星術」、そのつど天体の動きを参考に、質問者の質問に答える、「質問占星術」などがある。

 が、何といっても多いのが、ここに書いた、個人の運勢や運命を占う、「運命占星術」。

 しかし仮に、万物が神の創造物であるにしても、それは人間という単位。あるいは生物という単位で、ものを考えるべきではないのか。たとえば公園の広場に住む、アリを考えてみればよい。もしそこにすむアリたちに、何かの異変が起きるとしたら、公園の工事や、清掃作業によるもの。しかしこのばあいでも、一匹、一匹のアリがどうこうなるというわけではない。公園に住むアリ全体が、その影響を受ける……。

 ……という話を書くことすら、バカげている。

 星の位置といっても、宇宙という3次元の空間にある星々を、地球という一点から、二次元、つまり天空という平面で見ているにすぎない。星々までの距離は、計算に入れていない。

 つまり星の位置といっても、実に自己中心的な視点で、それを見て言っているにすぎない。サソリ座だの、何のと、真顔で、口にすること自体、バカげている。宇宙船で、100光年も先へ行けば、星座の位置、形、すべてが変わる。1000光年も先に行けば、もっと、変わる。星位という概念すら、消えてなくなる。

もうひとつつけ加えるなら、占星術は、つねに数学と結びついて発達してきた。占星術イコール、数学と考えてよい。

 その「数学」が何であるかもわからないような、そこらのオバチャンが、口八丁、手八丁で、占星術をするから、話がおかしくなる。

 こうした占いは、人々の心のスキマをついて、これからもなくなることはないだろう。しかしこれだけは言える。

 「生きることとは考えること」という人にとっては、占いを認めることは、その生きることを放棄することに等しい。占いに頼るということは、考えることを、自ら放棄するようなもの。それでもよいと言うのなら、それはそれでかまわない。そのあとの判断は、それぞれの人の勝手。私の知ったことではない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 占星術 占い 黄道十二宮占星術 ホロスコープ占星術)


【追記】

●占星術(2)

 超自然的な絶対性。それが占いの基盤になっている。占星術についても、例外ではない。占星術も、もとはといえば、万物の創造主たる神の存在を、大前提にしている。つまり占星術の世界では、この大宇宙も、そして地球上に住む、ありとあらゆる生物も、すべてが一体として、統一化され、かつ連動しているという考えを、基本とする。

 大宇宙は、そのまま私たちが住む小宇宙と、照応関係にあるとみる。

 これは何も占星術にかぎらないことだが、占星術も含めて、あらゆる占いには、宗教性がある。事実、イスラム教の世界では、イスラム教は常に、占星術とともに、歩んできた。とくに占星術については、占星術イコール、イスラム教と考えてよい。

 イスラム教の寺院の天井が、ドーム状になっているのも、そうした教えに基づく。つまり、そのドームの形そのものが、大宇宙と連動する小宇宙を表現している。

 反対に、仮に、占いから、その宗教性を消してしまえば、占いは、占いとしての意味をなくす。たとえばだれかがあなたの生年月日を聞いたあと、何やら意味のわからない計算盤を見つめながら、こう言ったとする。

 「あなたの寿命は、あと5年です。それを避けるためには、毎晩、床の北東の位置に、ローソクを立てて眠りなさい」と言ったとする。

 信ずるか、信じないかは、あなたの勝手。……というより、それはあなたの宗教性による。意識的であるにせよ、あるいは、ないにせよ、もしあなたが、不可思議なものにたいして、それを超えた(何か)を、感ずれば、あなたには、その宗教性があるということになる。笑って無視すれば、あなたには、その宗教性がないということになる。

 その宗教性は、ふとしたきっかけで、信仰心に変身する。信仰心といっても、おおざっぱに言えば、2種類ある。ひとつは、教えを重要視するもの。もうひとつは、超自然的なパワーを盲信するもの。前者を、哲学主義というなら、後者は、神秘主義ということになる。

 もちろん、その中間もある。色の濃さも、それぞれの宗教によって、ちがう。宗派によっても、ちがう。しかしたいていのばあい、宗教は、信者を問答無用式に黙らせるために、絶対的な存在を、信仰の中心に置く。「イワシの頭も信心から」とは言うが、イワシの頭では、信者を黙らせることはできない。

 神や仏がよい。あるいは太陽がよい、月がよい。さらには、星がよい、と。

 よく誤解されるが、宗教があるから、信者がいるのではない。宗教を求める信者がいるから、宗教が生まれる。そしてその宗教も、ビジネスの世界と同じように、需要と供給のバランス関係によって、発展したり、衰退したりする。

 たとえば、私が子どものころには、占星術なるものは、日本には、存在しなかった。どこかには、あったのかもしれないが、少なくとも、私たちの目の届くところには、なかった。ただ歴史的には、天空の異変を見ながら、その国の吉凶を占うということは、日本でも、中国でもあったようだ。

 中国における古代天文学は、そうした視点から発達した。

 しかしそれが個人レベルの占星術、つまり運勢占星術として、日本で定着し始めたのは、私の記憶によれば、1970年代以後のことではなかったか。こと「星」について言えば、日本人は、元来、無頓着な民族と言える。星座、それにつづく天文学については、それについて研究したという史料は、ほとんどといってよいほど、残っていない。(これは多分に、私の認識不足によるものかもしれないが……。)

 占星術も、その後、需要と供給のバランスの中で、発展した。(発達したのではなく、発展した。誤解のないように。)もっと端的に言えば、心にスキマのある人たちが、より、もっともらしい(占い)に飛びついた。占星術は、そういう意味で、日本人の需要に、うまく答えたということになる。

 それ以前には、手相、姓名判断、八卦(はっけ)などが、占いとして、日本人の心のスキマを埋めていた。私の実家では、毎年正月に、近くの神社から配られる、運勢判断を見ながら、その年の計画を立てる慣わしになっていた。

一方、占星術は、こうした旧来型の占いとちがい、どこか数学的であるという点と、「星」そのものがもつロマンチックな雰囲気が、若者の心をとらえた。そして今に見る、占星術、全盛期を迎えるにいたった。

 書店でもコンビニでも、その種の本がズラリと並ぶ。占星術師なる人物が、テレビに顔を出さない日は、ない。

 しかしこうした現象が、子どもにとって望ましい現象かどうかということになると、それは疑わしい。占いそのものがもつ非論理性もさることながら、ここにも書いたように、占いは、神秘主義と結びつきやすく、それがそのまま宗教性へとつながっていく可能性が高い。あの忌まわしいO真理教による、地下鉄サリン事件以来、カルトと呼ばれる狂信的宗教団体は、表向きは、なりを潜めている。が、しかし今の今も、社会の水面下で、その勢力を拡大していることを忘れてはならない。

 こうした子どものもつ宗教性が、いつなんどき、そうしたカルトによって利用されるか、わかったものではない。忘れてならないのは、占いは、立派な、信仰である。しかもその信仰は、神秘主義そのものである。

 何の批判もなく、何の制約もなく、占星術なるものが、大手を振ってこの日本を闊歩(かっぽ)している。それは子どもたちの未来にとっては、たいへん危険なことと考えてよい。

 ペルシャの散文家、ニザーミイー・アルーズィーは、こう書いている。

 「占星術師は、魂も性格も清く、人に好かれる人物でなければならない。また外見上、いくらかの精神錯乱、狂気、預言めいたことを言うのが、この術の必須条件である」と。つまり「異常な霊感こそが重要」(学研「イスラム教の本」)と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 占星
術 子供の世界 占い 神秘主義 神秘主義的傾向)


Hiroshi Hayashi++++++++OCT.09+++++++++はやし浩司

●10月28日(1)

2009-10-28 06:55:36 | 日記
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 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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q 0―0 MMMMM ∩ ∩ MM m
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄偶
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      10月   28日号
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HAPPY BIRTHDAY TO ME, Hiroshi!    I am 62 years old now!

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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【人間の多様性について】

●人間の弱さ

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欲望と理性が真正面からぶつかったら、どうなるか。
ふつう、理性に、勝ち目はない。
欲望はそれほどまでに強力で、根が深い。
とくに性欲においては、そうである。

どんな高徳な聖職者でも、あるいは高邁な
哲学者でも、たとえば性欲の前では、ひとたまりもない。
それなりの仮面をかぶることはできても、
仮面は仮面。
他人の目を気にした、仮面。
「私はそういうことには興味はありません」というような
顔をしているだけ。

……こう断言するのは、たいへん危険なことかもしれない。
中には、「私はそうでない」と反論する人もいるかも
しれない。

しかしそういう人は、まず、自分の肉体と精神の健康を
疑ってみたほうがよい。
あなたの肉体と精神が健康であるなら、もう一度、改めて、ここに
断言する。

欲望と理性が真正面からぶつかったら、どうなるか。
ふつう、理性に、勝ち目はない。

++++++++++++++++++++++++++++

●脳の構造

もし前頭連合野の働きが、脳全体をコントロールできるとするなら、
うつ病も含めて、もろもろの精神病は、そのまま解決する。
アルコール中毒も、ニコチン中毒も、そのまま解決する。
依存症もなければ、うまくいけば、人と人との争いもなくなる。

 逆説的に考えるなら、そうでないから、そうでない。
前頭連合野のもつ力は、それほど強くない。
アルコール中毒ひとつとっても、それから抜け出るのは容易なことではない。
それがそのまま人間の精神力の限界ということになる。
前頭連合野の限界ということになる。
が、それにもし、性欲が理性でコントロールできるようなものであるとするなら、
人類は、とっくの昔に絶滅していたということになる。

 人間がもつ臓器の中で、あれほどまでに不潔で、悪臭の漂う場所はない。
いくらその異性が好きになったとしても、もし理性のコントロールが働いているなら、
あの部分だけは、手で触れるとしても、最後の最後。
できるなら、見るのも避けたい。
そんな場所に、何と、種族存続のための、最重要器官が集まっている。
快楽の中心点になっている。

●「魔が差す」

 少し前、手鏡を使って、女性のスカートの中をのぞいていた、どこかの教授が
いた。
それで有罪になったと思っていたら、今度は、電車の中で痴漢行為を働いたという。
その前にも、何かの事件で、一度、逮捕されている。

 何もその教授の行為を弁護するつもりはない。
ないが、しかしどこのだれが、そういう教授を、「石をもって、打てるか」?
またそういうことをしたからといって、その教授がもつ、ほかのすぐれた部分
まで、否定しまうのも、どうかと思う。

 その教授にしても、99・99%の時間は、教授として、師弟の指導に
尽力していたにちがいない。
すばらしい才能と能力に、恵まれていた。
彼が説いていた経済理論は、一級のものであった。
が、残りの0.01%の部分で、「魔が差した」。

●私だって……

 「私だって……」という言い方をすると、誤解があるかもしれない。
しかし私は、けっして聖人ではない。
ふつうにスケベだし、スケベなこともたくさんしている。
頭の中は、この年齢になっても、スケベでいっぱい。
むしろ私は、生まれも育ちも、よくない。
動物的で、野蛮。

 「魔が差す」という言葉からもわかるように、ほんの一瞬のスキが、私の
人生を狂わすということも、私のばあい、ありえないことではない。
たとえば私は、よくこんなことを考える。

●もし政治家だったら……

 私が政治家だったとする。
その私のところへ、1人の土建業者がやってきた。
そして机の上に、1000万円の現金を積んだとする。
そしてこう言った。
「X町の土木部長に、よろしく」と。

 そのときのこと。
だまってうなずけば、そのお金は自分のものになる。
土建業者は、何も言わず、その場を去る。

 私なら……?
この先のことは書かないが、多分、みなさんと同じような行動を取ると思う。

●欲望

 人間が本来的にもつ弱さというのは、人間自身がもつ、欠陥と考えてよい。
あるいは、本来、人間というのは、そういう(動物)であるという前提で、考えたらよい。

 つまり人間は知的な意味で、格段の進化を遂げたが、その一方で、それ以前の
動物的な部分を残してもっている。
それが悪いというのではない。
それがあるからこそ、人間は、子孫を後世に残すことができる。
誤解してはいけない。
性欲といっても、もろもろの(欲望)のひとつにすぎない。
が、そうした欲望を、すべて否定してしまったら、残された道はただひとつ。
人類は、そのまま絶滅する。

●欲望のない世界

 子どもは人工授精によって生まれ、それ以後は人工飼育器の中で育てられる。
欲望は否定される。
もちろん人間は、去勢され、性欲そのものを失う。

 ……話が少し極端になってきたが、欲望を否定した世界では、そうした形で、
子孫を残すしかない。
すべての人間は平等で、競争もなければ、もちろん争いもない。
手鏡で、女性のスカートの下をのぞく人もいなくなるが、同時に、経済の研究を
する学者もいなくなる。

 話が入り組んできたが、平たく言えば、善があるから悪があり、悪があるから善が
あるということ。
その2つがつねにぶつかりあうから、そこからドラマが生まれる。
人間がなぜ生きているかといえば、そこにすべての目的が集約される。

●人間の中味

 犯罪にもいろいろある。
それによって起こる事件にも、いろいろある。
しかし私は、最近、こんな経験をした。

 故郷のM町の民芸館の中を見て回っているときのこと。
そこにどこか顔なじみに男がいた。
中学時代の同級生である。

 彼のことは、よく知っている。
親しくはなかったが、よく知っている。
彼は中学を卒業するとしばらくして、どこかの暴力団に入り、そのあと、
10年近く、刑務所で暮らしている。
同窓会に出るたびに、彼の話がよく出た。

 が、である。
私はその男の温厚さに驚いた。
ふつうの温厚さではない。
体の芯からにじみ出るような、温厚さである。
人間的な深い暖かみも感じた。
私のことはよく覚えていて、たがいに話がはずんだ。
そのあと、ボランティアの案内人として、町の中を、観光客を案内するということだった。

 別れてからワイフに、その男の過去を話すと、ワイフはたいへん驚いていた。
「そんな人には、ぜんぜん、見えないわね」と。

●罪を憎んで、人を憎まず

 法律の世界には、『罪を憎んで、人を憎まず』という言葉がある。
そこに犯罪者がいたとしても、悪いのは、その「罪」であって、「人」ではないという
考え方である。

 まさにそのとおりで、手鏡でスカートの下をのぞいたことは悪いとしても、だからと
いって、その人のすべてを否定してはいけない。

 同じように、若いころ、刑務所にいたからといって、その後の彼の人生のすべてを
否定してはいけない。
その区別というか、境界をしっかりと引く。
それが『罪を憎んで、人を憎まず』の意味ということになる。

●魔が差す

 考えてみれば、人間は、社会的動物である以上、いつも「悪」にさらされて生きている。
今、「私はだいじょうぶ」と考えている人にしても、明日のことはわからない。
それは事故のようなもの。
ふと油断したようなとき、悪の餌食になる。
『魔が差す』というのは、それをいう。

 言い換えると、だれしも、そういうときはある。
私にもあるし、あなたにもある。
冒頭にあげた(欲望)というのは、そういうもの。
(理性)の緊張感がゆるんだ、その一瞬をついて、その人を狂わす。
だからといって、そういう人を擁護するつもりはない。
が、一方的にそういう人を、否定してしまってはいけない。

 私は、それを書きたかった。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司

●多様性について

+++++++++++++++++++++++++++

知人、友人が、健康を害していくのを見るのは、つらい。
見た目には同じようでも、「今、○○病と闘っているよ」と
言われると、そのつど、ドキッとする。

同じように、知人、友人が、ボケていくのを見るのは、つらい。
明らかに頭の回転が鈍くなっている。
話し方も、かったるい。
会話から繊細さが消え、ぶっきらぼうな言い方をする。

たいていは、血栓性の脳障害(脳血管性認知症)によるもの。
独特の話し方をする。
それが最近は、素人の私にも、判断できるようになった。

+++++++++++++++++++++++++++

●意識

 私たちがもっている(意識)ほど、あてにならないものはない。
「私は私」と思っている部分についても、では、脳の中で、どの部分がそう思っているか
となると、それがどうもよくわからないらしい。

 たとえば理性の中枢部として、前頭連合野がある。
額の裏側にある脳である。
しかしその「前頭」と言われている部分についても、左脳と右脳に分かれている。
仕事を分担している。
(最近、とくに注目されている部分が、第46野と言われている部分だが、それについて
は、最後のところで書く。)
が、もちろん別々の仕事をしているわけではない。
「脳梁(のうりょう)」と呼ばれる、太い配線で結ばれている。

 が、全体として、(1つ)ということではない。
脳は、そのときどきにおいて、いろいろな組み合わせを繰り返しながら、別人格を作りあ
げる。
一説によれば、8人格。
私の計算によれば、9人格。
さらには32人格まであると説く人もいる。
それぞれがそれぞれの人格のとき、別の意識をもつ。
今、「私は私」と思っている部分は、その中のひとつにすぎない。

●脳の奥で作られる無意識

たとえば「ジュース」という言葉を見たとする。
左脳の言語中枢は、それを「ジュース」と読み、読んだ言葉を、右脳に伝える。
右脳はその信号をとらえて、コップに入った黄色い飲み物を具体的に映像化する。

 このとき、右脳は、すでに脳の中に格納された情報から、ジュースの情報を引き出し、「冷
蔵庫の中に、昨日買ってきた、オレンジジュースが残っているはず」と判断する。

 が、もしここで、「マイロ」という言葉を見たとしたら、どうだろうか。
オーストラリアの飲み物である。
日本では、N社から、「ミロ」という商品名で、売りに出されている。

 しかしオーストラリアに住んだことのない人は、「マイロ」と読んでも、意味がわからな
い。
右脳に情報を送っても、それがどんなものであるか、具体的に頭の中に浮かんでこない。
言葉だけは脳のあちこちをかけめぐるが、そのつど脳の壁に当たって、はね返されてしま
う。

 「ジュース」という言葉を見たときには、それが具体的な映像となって、意識を動かす。
「飲みたい」という意識につながる。
が、「マイロ」という言葉を見たときには、具体的な映像は浮かんでこない。「飲みたい」
という意識は、当然、生まれない。

●操られる意識

 ところが、「マイロ」について、だれかがこう説明したとする。
「ココアに似た味の、おいしい飲み物」と。

 すると好奇心がわいてくる。
その好奇心が、「飲みたい」という意識を引き出す。
しかもそのとき、同時に、脳の別の部分では、別の意識が活発に動き出す。

「どこへ行けば手に入るか」
「値段は、いくらくらいか」
「どうやって飲むのか」などなど。

 このときほとんどの意識は、意識されない世界、つまり無意識の世界で動き出す。
さらに脳の頭頂部あたりでは、「どんなカップに、どのようにして溶かして飲むか」まで考
えるかもしれない。

 そこであなたは、「マイロ」について、調べる。
人に聞く。
最終的には、日本でも、N社から、「ミロ」という名前で売りに出されていることを知る。

 で、あなたは近くの店に行き、それを手に入れる……。

●意識は、氷山の一角

 こうした一連の意識活動で重要なことは、私たちが(意識している意識)というのは、
海に浮かんだ氷山の一角のようなものにすぎないということ。
一角どころか、「一微」と書いた方が、正確かもしれない。

 で、そのあと、あなたは店へ行く。
店員に、「ミロはありますか?」と聞く。
それを見つけて、カートに入れる。
お金を払う。
家に帰って、飲む……。

 そのつどあなたは、「私は、自分の意思で、そうしている」と思うかもしれない。
しかし実際には、それ以前、つまりあなたが「マイロ」という名前を読んだとき、脳の別
の部分が決めた行動に従って、そうしているにすぎない。
「意識」としては、意識できなかっただけ、ということになる。

 これはほんの一例だが、私たちがもっている意識というのは、そういうものと考えてよ
い。
つまりアテにならない。

●多様人格

 こうして考えていくと、どこからどこまでが「私」なのか、わからなくなってくる。
さらにその「私」にしても、冒頭に書いたように、脳の組み合わせによって、いくつもの
パターンに分かれる。

 すばらしい映画を観たあとなどは、神々(こうごう)しい気持ちになる。
反対に殺伐とした暴力映画を観たあとなどは、イライラしたり、怒りっぽくなったりする。
どちらも「私」なのだが、どちらが本物の私で、どちらがそうでないかという判断をくだ
すのは、正しくない。
「神々しい私の方が、私」と思いたい気持ちはわかるが、それがすべてではない。
ときには、サスペンス映画、戦争映画、スリラー映画も、観たくなる。
SF映画も楽しい。

 ……となると、ますます訳が分からなくなる。
が、こうなったときの鉄則は、ひとつ。
ここは居直るしかない。
つまり私たちは、「常に(1人の私)ではない」と、考える。
1人の私に限定するから、話に無理が生じてくる。
自己矛盾に悩む。

 脳の構造についていうなら、前頭前野の第46野が、「私」を作っている中枢部らしいと
いうことまでわかってきた。
その第46野は、簡単に言えば、3層(カラム)になっている。
それが左右の両方に、ひとつずつあるわけだから、組み合わせの数で言えば、3×3=9の、9通りということになる。

 つまり私たちは、単純に計算すれば、いつも9通りの「私」をもっていることになる。
(もちろんどれが優勢か、劣勢かということはあるが……。
とくに優勢なのを、「主人格」という。)
ひとつにこだわらなければならない理由は、ない。
つまり多重人格であるのが、当たり前。
「多重人格」という言葉に抵抗があるなら、「多様人格」という言葉を使ってもよい。

 私たちは、そのつど、時と場合に応じて、多様な意識をもって、ものを考えたり、行動
したりする。

 学者のときは、学者。
父親のときは、父親。
酒が入ったときには、友人。
妻と裸で接するときは、スケベ人間……。

 つまり「意識はアテにならない」と考えるのではなく、「どれも意識」と考える。
「どれも私」と考える。
さらに言えば、この多様性があるからこそ、その人のもつ(おもしろさ)が生まれる。

 少し前、手鏡で女性のスカートの中をのぞいた大学教授の話を書いた。
が、それも人間が本来的にもつ、多様性のひとつとも考えられなくもない。
(だからといって、そういう行為を容認しているのではない。
ただ、ほかのすぐれた部分まで、いっしょくたに否定してしまってはいけないと書いてい
る。
誤解のないように!)

この考え方は、今後、変わるかもしれない。
しかし今は、これが私の意識についての結論ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 意識論 多様人格 人間の多様性 多重人格 はやし浩司の意識論)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今日も終わった……(改)

●人を愛する

ぼくは、子どものころから、人を愛することができなかった。
愛することで、自分が傷つくのが、こわかった。
今も、そうで、人を愛しそうになると、その一歩手前で、立ち止まってしまう。

ぼくは、臆病者。
気が小さく、心が狭い。
いつも自分の殻(から)に閉じこもり、小さな穴から、外をのぞいている。

もちろん人を愛することのすばらしさは、知っている。
しかし同時に、人を愛することのきびしさも、つらさも知っている。
だから人を愛しそうになると、自分から先に逃げてしまう。

結婚してからもそうだった。
ぼくは心を開けなかった。
すべてをさらけ出して、妻に、「愛している」とは言えなかった。

そんなぼくを、妻は、いつもさみしく思っていたにちがいない。
この年齢になっても、また40年も連れ添っていても、
ぼくは自分が、こわい。

そう、ぼくはすべてをさらけ出すことができない。
いつも仮面をかぶって、自分の心をごまかしている。
裏切られるのがこわくて、先に、相手を裏切ってしまう。

つまらない人間ということも、よく知っている。
なさけない人間ということも、よく知っている。
しかしそんな自分を、どうすることもできない。


●徘徊

ぼくは、いやなことやつらいことがあると、よく徘徊する。
あてどもなく、ただひたすら、道に沿って歩く。
だれも通らない、細い道を選んで歩く。

そんなとき、妻はぼくを心配して、ぼくをさがす。
が、妻の運転する車を見ると、ぼくは、隠れてしまう。
助けてほしいのに、体は、別のほうを向いてしまう。

いじけた心。
ゆがんだ心。
すなおになりたくても、もう1人のぼくがいて、それをじゃまする。

もう残りの人生のほうが、はるかに短い。
ぼくは、ぼくらしく生きたい。
しかしそれができない、そのもどかしさ。

ときどき妻は、こう言う。
「あなたって、かわいそうな人ね」と。
自分で孤独を作って、その孤独の中で、もがき苦しんでいる。

「その人はどこにいるの?」と、1人の少女が、そう歌う。
昔、キングスクロスの劇場で観た、「ヘアー」の中でのことだった。
「私を導き、私を教えてくれる人は、どこにいるの?」と。

その少女は、つづけて、こう歌う。
「なぜ、私たちは生まれ、なぜ死ぬのか」
「私たちは、それを知るために、どこへ行けばいいの?」と。

話がそれたが、ぼくはなぜ歩くか。
理由は、簡単。
歩いているときだけ、ぼくは自分を忘れることができる。

●10月3日

静かな夜。
満月の夜。
心地よい、夜の冷気が、つんとぼくの乾いた心を包む。

洗い物をする妻のうしろ姿。
テーブルにころがった、もうひとつのメガネ。
その横には、小さな薬箱。

何でもない光景だが、それが今夜は、ひときわ動きを止めている。
息をひそめて、ぼくが何をするか、それを待っている。
が、ぼくは、ただそれをぼんやりとながめているだけ。

「時」だけが、こうして流れてきた。
今も、流れている。
これからも、流れていく。

人を愛することのできない、もどかしさ。
自分らしく生きられない、もどかしさ。
今のときを、自分の手でつかむことができない、もどかしさ。

みんなそうなのだろうか?
それともぼくだけが、そうなのだろうか?
あるいは、みんなは、こういうとき、どうしているのだろうか?

10月3日は、もうそろそろ終わる。
時刻は、午後10時30分。
ああ、今日も、何もできなかった……。


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 09++++++はやし浩司

●10月28日(2)

2009-10-28 06:54:58 | 日記


●自殺論

++++++++++++++++++++++

自殺というのは、それを考えない人には、
遠くにある。
「自殺するヤツは、バカ」と、平気で言う。
しかしそれを考える人には、手をのばせば
すぐそこにある。
その気になれば、いつでも死ねる。

自殺というのは、それを考えない人には、
恐怖かもしれない。
しかしそれを考える人には、最後の救い。
「死ぬことによって、自分の魂を解放させることができる」と。
死に向かって、迷わず、歩いていく。

+++++++++++++++++++++++

●絶望

 絶望の恐ろしさは、絶望を味わったものでないとわからない。
すべての光が消えて、すべての目的が形を失う。
すべてのものが動きを止め、時間さえも、そのまま止まってしまう。

自分の人生の無意味さを思い知らされることくらい、恐ろしいことはない。
すべてのものが、色あせ、すべての人から、見放される。
そのとき「死」が、薄い氷の下で、手招きをして、ぼくを呼ぶ。

絶望こそが、死の魔手。
それがこわくて、人は、それがどんなに小さなものであっても、
希望に明日への命をつなぐ。

庭の芝生?
栗の木の上に造った、ハトの巣。
それとも明日の天気?

今、妻が、衣服を着替えながら、ぼくに微笑みかけた。
洗面所でいつものように顔を洗い、やがてこの居間にもどってきて、血圧を測る。
床につく時刻がやってきた。

明日こそは、妻を暖かい陽だまりで包んでやろう。
明日こそは、「今日はいい一日だった」と言えるようにしよう。
明日こそは……。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 詩 はやし浩司の詩)


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 09++++++はやし浩司

●10月4日(日曜日)

++++++++++++++++

遅い朝食をとっていると、ワイフが、こう言った。
「どこかへ行かない?」と。

で、「お前が決めろ」と言うと、ワイフは、
「浜名湖電車に乗りたい」と。
そこで急きょ、外出することにした。

++++++++++++++++

●浜名湖鉄道(天竜浜名湖鉄道)

 ネットで時刻表を調べると、金指(かなさし)発、1時6分というのがあった。
それに乗ることにした。
言い忘れたが、「浜名湖鉄道」というのは、浜名湖の北を、掛川から、新所原(しんじょは
ら)まで、浜名湖を取り囲むようにして走っている電車である。

 折しもフラワーパークでは、「モザイカルチャー博覧会」というのをやっていた。
が、日曜日ということもあって、やめた。
人が混雑したところを歩くのは、好きではない。

●1時6分発

 途中、市内のパソコンショップに寄ったのが、まずかった。
時計を見ると、12時45分。
いくら急いでも、金指駅までは、20分はかかる。
とても間に合いそうにない。
が、こういうときは、(運命)に、身をゆだねる。
間に合うときには、間にあう。
間に合わないときには、間に合わない。
ジタバタしても、仕方ない。

 ワイフの時計は、2、3分、進んでいた。
私の時計は、電波時計に合わせておいたから、正確。
「もうだめだね」と言いながら、駅に着くと、電車はそこで待っていた!
駅員さんに、車から降りながら、ちょっとだけ待ってくださいと声をかけると、「いいです
よオ!」と。
こういうところが、ローカル線。
人間の暖か味がちがう。
ワイフは、空き地に車を止め、ハーハーと息を切らしながら、駅へ走ってきた。

●森町でおりる

 1日周遊券というのを買うと、1500円で乗り放題。
私たちはそれを買った。

しばらく、窓の外の景色を見る。
見慣れた景色だが、それだけに、ほっとする。

私はミニパソコンを取りだして、文を書き始める。
ワイフは、途中の駅で買った駅弁を開いて、それを食べる。
のどかな1日。

 で、私たちは森町でおりることにした。
「森の石松」で有名な、森町である。

 駅を出たところに案内所があって、そこの男性が、ていねいにいろいろと教えてくれた。
私たちは、蓮華寺と、その隣の民俗資料館を目指すことにした。
時間的に余裕があれば、その近くの町営浴場にも入ることにした。

●民俗資料館

 もともとは役所だったという。
木造の二階家だった。
中にぎっしりと、農機具などが展示されていた。
私が子どものころ、どこかで見たようなものばかりだった。
なつかしいというより、どれも、小さいのに驚いた。

「ぼくが子どものころには、これはぼくの背丈より大きかった……」と話しながら、案内
人の案内を受けながら、館内を回った。
楽しかった。

 で、そのあと、蓮華寺へ。
小さな寺だったが、住職がちょうど勤行(ごんぎょう)を始めるところだった。
私たちはその後ろ姿を見ながら、小銭を賽銭箱に入れた。
天井からつりさげられた鐘を鳴らした。

●町営浴場

 このところ毎週のように、大きな浴場で風呂に入っている。
それもあって、帰りに、町営浴場へ入ることにした。
が、玄関を入ったとたん、Uターン。

 ここから先は、森町の悪口になるから、慎重に書きたい。
私たちは、どうしてUターンをしたか?
入浴しないで、どうしてそのまま外へ出たか?

 実は、玄関を入ると、通路をはさんで、左側が、デイサービスセンターになっていた。
独特の老臭と消毒臭。
右側が大浴場。
その右側には、広いロビーが、昼下がりの日光をさんさんと受けて明るく輝いていた。
が、見ると、80~90歳の老人たちが、椅子に座って、そこで休んでいた。
車椅子に座っている老人もいた。
よたよたと杖をついて歩いている老人もいた。

 みな、腰の部分が不自然にふくらんでいる。
だから、Uターン。

 老人を介護したことのある人なら、その理由を、みな、知っているはず。

●掛川へ

 森町から、今度は掛川へ。
のどかな田園風景が、ゆっくりと流れるようにつづく。
私はパソコンのバッテリーを気にしながら、思いついたことを書きとめる。

こういうときというのは、書きたいことがつぎつぎと思い浮かんできて、頭の中がパニック状態になる。

 で、掛川へ。
あちこちを歩いて、通りのそば屋に入った。
ほかの店は、どこも休息中だった。

 味は、ふつう。
が、値段は高かった。
ざるそばが、850円!

 店を出ると、そのまま駅へ。
みやげは、葛(くず)湯。
掛川名物。

 そのときワイフが万歩計を見ると、9000歩近くを示していた。
つまり目的は達した。

 家に着くころには、とっぷりと日が暮れていた。
私はネットで、新しいミニパソコンを注文した。
ワイフは、DVDを見始めた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 天竜浜名湖鉄道 浜名湖鉄道 浜名湖 浜松市 浜名湖)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司

●文章

 「文」というのは、生き物。
しばらく時間をおいて読み直してみると、まったく別の文になっている。
そんなことは、よくある。

 そこで私のばあいは、文を一度書くと、しばらくそのままにしておく。
そのあと時間をおいて、再び、読み直す。
そのとき、できるだけ、声を出して読むようにしている。

 たとえば昨日、私は、「人を愛する」というのと、「絶望論」というのを、書いた。
それを今朝、読み直してみた。
が、どこかヘン?
ぎこちない?
リズムが乱れている。
書いているときは気がつかなかったが、意味不明のところさえある。
だから改めて、書き直す。

 だから楽しい。
だからおもしろい。
文を書くと言うのは、文という生き物を相手にすること。

 ……ということで、今週も始まった。
がんばろう!

10月5日、月曜日!


Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司

●満62歳

++++++++++++++++++++

もうすぐ満62歳になる。
62歳だア!
その62歳が近づいて、うれしい報告がひとつある。

私は、ずっとこう考えていた。
「健康というのは、維持するもの」
「不可逆的に悪化するもの」と。
だから「現状維持ができるだけも、御の字」と。

ところが、である。
これがどうも、そうでないということがわかった。

まず体重を、68キロから60キロに減らした。
3か月ほどかけて、少しずつ減らした。
しばらくは、それまでに経験したことのない体の不調に
悩まされた。

体重が減ったのだから、その分、体は軽くなったはず。
が、それはなかった。
かえって、体を重く感ずるようになった。

抵抗力が落ちたせいか、皮膚病(とくに結膜炎)も含めて、風邪をひきやすく
なった。
ショックだったのは、いつもなら自転車でスイスイと登れる
坂が、登れなくなったこと。
筋肉そのものまで、萎(な)えてしまった。

で、それからさらに2か月あまり。
体重を60キロに維持したまま、運動量を多くした。
それに加えて、3週間ほど前から、ウォーキング・マシンを
購入し、暇を見つけてはそれを使い始めた。

1日、40~50分を目標にしている。
速度も時速6キロ前後に設定し、できるだけ、つま先で
歩くようにしている。
こうすると、軽いジョギングをしているような格好になる。
10~20分も使っていると、全身から汗が噴き出してくる。

こうした努力が功を奏したのか、最近では、自分の健康を、
はっきりと自覚できるようになった。

体も軽い。
睡眠も深くなった。
もちろんあの坂も、再び、スイスイと登れるようになった。
さらにうれしいことに、頭がサクサクと動くようになった。
朝起きたとき、それがよくわかる。
文章を書いていても、思ったことを、そのまま表現できる。
人と話していても、言葉が、なめらかに出てくる。

だから、こう書きたい。

「みなさん、還暦と言われて、あきらめてはいけない」
「60歳を過ぎても、健康は、じゅうぶん、増進できる」
「健康は維持するものではない。努力によって造るもの」と。

少し前、私の友人がこう言った。

「男がね、いちばん仕事ができるのは、60代だよ」と。
その友人は、日本でも最大手のペンキ会社の監査役をしていた。
私は、その友人の言った言葉を、信ずる!

花の60代!
我ら、ヤング・オールド・マンなのだア!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 健康論 健康増進)


+++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●エピソード記憶

++++++++++++++++

●もの忘れ

昨日の昼に、何を食べたか。
おととい観た映画の題名は何だったか。
隣の息子の名前は何だったか。
そういうことを忘れるということは、よくある。
俗に言う、「ど忘れ」というのが、それ。

しかしその程度の(もの忘れ)は、むしろ正常なのだそうだ。
脳には、そういう機能がある。
それによって、脳はいつも脳への負担を軽くし、つぎの記憶に備える。
パソコンにたとえるなら、「クリーンアップ」ということか。
無駄な情報を消去して、メモリーを軽くする。

が、食べたことそのものを忘れてしまうのは、よくない。
映画を観たという事実を忘れてしまうのは、よくない。
自分の家の住所を忘れてしまうのは、よくない。

アルツハイマー型の痴呆症になると、記憶といっても、エピソード
(物語)そのものが記憶から抜けてしまい、それを忘れてしまうという。

実は、私の知人(現在60歳)も、この問題で、困っている。
6歳年上の姉がいるのだが、その姉が、最近、「私は相続放棄をした覚えは
ない」と言って、騒ぎ出したという。
ことのいきさつは、こうだ。

●知人のケース

知人の父親は、5年ほど前に他界した。
そのとき家を継いでいた知人が、何百万円かの現金を渡して、姉に相続を
放棄してもらった。
それに基づいて、知人は、土地、家屋の名義を、その知人のものに書き換えた。

で、それから5年。
変化が生じた。
知人の家の近くが、土地整理区画に指定された。
とたん、土地の価格が大暴騰。
どうしようもない荒地と思っていた土地が、住宅地になった。
姉が「相続放棄をした覚えはない」と言い出したのは、そのときのことだった。

で、知人は、当時の書類を姉に見せた。
それには、「協議により、全財産を兄、○○に譲ります」とある。
もちろん姉自身の実印による押印、直筆による署名もある。
「全財産」という箇所の上にも、実印による押印してある。

これについて、知人は、「とくに重要な箇所だから、あえて押印してもらった」
と言っている。

しかしその「協議書」を、姉は、「そんなものを書いた覚えはない」と。

で、知人が私に相談してきた。
一応、私は、元法学部の学生。
成績も悪くなかった。
それに専門は、民事訴訟法。
念のため、M市で弁護士をしている友人に、電話で確かめた上で、
知人にこう言った。

私「やりたいようにさせ、あとは無視したらいいですよ」
知「無視ですか?」
私「何か言うと、そういう人ですから、言葉尻をつかまれますよ」
知「姉というより、姉の娘が騒いでいるのですね。今年、40歳になるかな」
私「最近、そういうケースがたいへん多いですよ。弁護士をしている友人も
そう言っていました」と。

 つまり当の本人(=相続権をもった相続権者)ではなく、その子ども
(=相続権をもたない息子や娘)が、「親の取り分が少ない」と言って騒ぐ。

●エピソード記憶

 が、知人の姉のケースは、もう少し深刻である。
法務局でコピーを見せつけられたにもかかわらず、「私は書いてない」
「印鑑を押してない」と、がんばっているという。
さらには、「その協議書は、偽造されたもの」とまで、言い出した。

 しかし偽造ということはありえない。
印鑑証明書にしても、本人以外は、取り寄せることさえできない。
実印にしても、そうだ。
筆跡をまねるとしても、限界がある。

 さらに協議書の「全財産」という箇所の上に、実印が押印してある。
(実印の上に、「全財産」という文字が上書きしてあるなら、偽造という
こともありえるが……。)

 ……などなど。

が、知人の姉は、知人の話によれば、とぼけているとか、ウソをついているとか、
そういう雰囲気は、まるでないという。
まったく、シラフというか、本気で、そう信じこんでいるといったふう、と。
あるいは騒いだ分だけ、引っ込みがつかなくなってしまったのかもしれない(?)。

 どうであるにせよ、話は、アルツハイマー病へと進んだ。

●アルツハイマー型認知症

 知人の姉がその病気というわけではない。
しかし話の内容を総合すると、その心配は、ある。
あるいは私がその女性の夫なら、まずそれを疑う。
現在、満65歳をすぎると、アルツハイマー病の有病率は急激にふえることがわかってい
る(新潟大学脳研究所※)。
他の認知症も含めると、約10%の人が、そうなる。

で、アルツハイマー型の認知症のこわいところは、ここにある。
記憶の一部だけではなく、ある部分の記憶が、スッポリと抜けたかのように、
消えてしまう。
部分的に覚えているということもない。
たとえば夕食を食べたあと、しばらくすると、「私は夕食を食べていない」とか
言って騒ぎ出す。

 さらに知人が困っているのは、電話。
数日おきに、姉から電話がかかってくるという。
(知人は、ナンバーディスプレイ装置を使って、姉からの電話には
出ないようにしているというが……。)
その電話というのが、高姿勢。
高慢。
留守番電話に向かって、言いたい放題。
妙に慇懃無礼な言い方をしたかと思うと、つぎの電話では、ギャンギャンと
怒鳴り散らす、など。

私「やはり、無視するしかないですね」
知「そうですね」
私「どうせ、あなたの姉さんは、何もできませんから」
知「しかし残念なのは、夫や娘も含めて、まわりの人たちがみな、姉を
たきつけていることです」
私「相続がからむと、そうみたいですよ」と。

 認知症というと、とかく当の本人だけの問題と考えられがちである。
しかしそういう病気であると、まわりの人たちがわかっていればよい。
わからないから、その人に、振り回される。
予期せぬトラブルに巻き込まれていく。
不愉快な思いをする。

(教訓)

 今ではこの病気も、早期発見が、第一。
治るということはないそうだが、進行を遅らせるという方法はある。
それに家族のだれかがそうなったら、できるだけ早く、周囲の人にそれを
伝えたほうがよい。

 知人の姉のばあいは、かなりの電話魔らしく、夫の目を盗んでは、あちこちに
電話をかけまくっている。
そういう事実を、夫は知らない。
また「おかしい?」と気づいても、たいていのばあい、夫は、それを自ら
否定しようとする。
それを認めることは、夫にとっても、つらい。
が、こうした姿勢が、友人関係、近隣関係、親戚関係を破壊する。

 アルツハイマー型痴呆症には、そういう問題も隠されている。

(注※)「65歳以上の認知症平均有病率は約10%である」

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 アルツハイマー 認知症 もの忘れ)


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