最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●ぼくの少年時代

2009-10-07 13:18:13 | 日記
【走馬灯】(ぼくの少年時代)(My Boyhood Days)

●ゴム靴

 ぼくの少年時代は、あのゴム靴で始まる。
黒いゴム靴で、歩くとキュッキュッという音がした。
子どもながらに安物ということが、よくわかった。
しばらく歩いていると、足の皮がこすれて、むけた。

 ぼくが小学2年生か、3年生ころのことではなかったか。
やがてその靴ははかなくなったが、どういうわけか、「少年時代」という言葉を聞くと、あのゴム靴を思い出す。

当時は、靴下をはいている子どもは、ほとんどいなかった。
それでよけいに、はきにくかったのではなかったか。

●蛍光灯

 そのゴム靴をはいて、近くの先生の家に遊びに行った。
当時としてはハイカラな家で、引き戸を開けて中へ入ると、そこにソファが置いてあった。
白い布製のカバーが、かかっていたように思う。

 で、そのときは蛍光灯を見に行った。
「熱くない電気がある」と言うから、みなで、それを確かめに行った。
当時は、「電気」つまり、「電灯」というと、裸電球が当たり前で、そのときぼくは、はじめて蛍光灯というのを見た。

 その蛍光灯は、家の一番奥にあった。
記憶はそこでやや途絶えるが、ぼくは触っても熱くない電気に驚いた。
それに明るく、色も白かった。

 そのときゴム靴をはいていったから、ゴム靴をはいたのは、小学2年生のときということになる。
その先生というのが、ぼくが小学1年生と2年生のときの担任の先生だった。
名前を高井先生と言った。

●遊び場

 あのころの町の様子は、よく覚えている。
目を閉じただけで、あのころの街並みが、走馬灯のように見えてくる。
 
ぼくたちの遊び場は、近くにある円通寺という寺だった。
当時のぼくには、広い境内に見えた。
その境内を出ると、角にお好み焼き屋があった。
靴屋もあった。
その横が菓子屋で、つづいて床屋・・・。

 ぼくの家は、1ブロック離れた角にあった。
見る角度のよって、立派に見えたり、反対にみすぼらしく見える、不思議な家だった。
しかし寺の境内から帰る道から見るぼくの家は、それなりに立派に見えた。

●女たらし

 当時のぼくたちは、女の子とは遊ばなかった。
女の子と遊ぶヤツは、「女たらし」と呼ばれて、仲間に軽蔑された。
ぼくも軽蔑した。
だから、女の子と遊ぶときは、内緒で遊ぶか、ずっと年上の女の子と、ということになる。

 その年上の女の子というか、女の人に、「けいちゃん」という人がいた。
当時、高校生くらいではなかったか。
けいちゃんは、いつもぼくを自転車に乗せて、あちこちへ連れていってくれた。
ぼくの家のはす向かいにあった、薬屋の女の子だった。
今でもアルバムの中には、けいちゃんの写真は、何枚か、残っている。

●喧嘩

 ぼくは、外では、明るく朗らかな子というイメージで通っていた。
よくしゃべり、よくはしゃぎ、よく笑った。
そうそう喧嘩もよくした。
気が小さく、弱いくせに、そのときになると、肝っ玉がすわる。
今でもそうだが、何か気になることがあると、即、解決しないと気がすまない。
それでよく喧嘩をした。

 どんな形であれ、決着は早くつける。
それが今でも処世術として、ぼくの身についている。
だからみな、こう言った。
「林の浩ちゃん(=ぼく)と喧嘩すると、こわい」と。

 ぼくは一度喧嘩を始めると、とことん、した。
相手を、相手の家の奥まで追いつめて、した。

●さみしがり屋

 それだけぼくの心は荒れていたことになる。
ぼくに対して好意的な人に対しては、明るく、朗らかに・・・。
しかしそうでない人に対しては、容赦しなかった。

 どこか独裁者的な子どもを想像する人もいるかもしれないが、事実は反対。
ぼくは、さみしがり屋だった。
自分でもそれがはっきりとわかるほど、さみしがり屋だった。

 寝るときも、母のふとんの中にもぐりこんだり、祖父のふとんの中にもぐりこんで寝ていた。
あるいはいつもだれかそばにいないと、不安だった。
だからだれに対しても、シッポを振った。
相手に合わせて、その場で、自分を変えた。

●集団教育

 そういうぼくだから、その分だけ、気疲れをよく起こした。
多分、そのころのぼくを知る人には信じられないかもしれないが、ぼくは集団教育が苦手だった。
運動会にしても、遠足にしても、集団で同じように行動するということが、苦手だった。
嫌いではなかったが、居心地はいつも悪かった。

 が、先にも書いたように、だからといって、ひとりでいることもできなかった。
心理学の世界には、「基本的信頼関係」という言葉がある。
その基本的信頼関係の構築ができなかった子どもということになる。

わかりやすく言えば、人に対して、心を開くことができなかった。
もっと言えば、人を信ずることができなかった。
いつも相手の心の裏を見た。
やさしい人がいたとしても、それを素直に受け入れる前に、その下心を疑った。

●粗製濫造 

 原因は、「母子関係の不全」ということになる。
しかしこんな言葉は、ずっとあとになってから知ったことで、当時のぼくに、それがわかるはずもなかった。
またそれが原因で、当時のぼくがそうなったなどとは、知る由もなかった。
ぼくはぼくだったし、母は、母だった。

 あえて言うなら、当時は、そういう時代だった。
戦後の混乱期で、家庭教育の「か」の字もなかった。
あるにはあったのだろうが、今とは比較にならなかった。
たとえば家族旅行にしても、ぼくの家族のばあい、家族旅行などといったものは、ただの1度しかなかった。
小学6年生のときで、みなで伊勢参りをしたのが、最初で最後。

 粗製濫造というか、ぼくたちは、戦後のあの時代に、濫造された。
ひらたく言えば、ほったらかし。
それがよかったのか、それとも悪かったのか・・・?
ぼくも含めて、当時の子どもは、みな、そうだった。

●父の酒

 つぎに少年時、代というと、「酒」の話になる。
父は、酒癖が悪く、酒を飲むと、人が変わった。
これについては、もう何度も書いた。

 が、おかしなもので、当時のぼくを知る従兄弟たちはこう言う。
「浩君(=ぼく)の家庭は、たいへん幸福そうに見えた」と。

 そう言われるたびに、ぼくは、「フ~ン?」とか、「そうかなあ?」とか、思う。
まわりの人たちには、そう見えたかもしれない。
しかしあの時代をいくら思い起こしても、明るく楽しい思い出は、ほとんど浮かんでこない。

 理由は、やはり「酒」ということになる。
父は、数日おきくらいに酒を飲み、家の中で大声を出したり、暴れたりした。
それがぼくが、5、6歳のころから、中学3年生くらいまでつづいた。

●兄弟

 ぼくには、当時、1人の兄と、1人の姉がいた。
もう1人、兄がいたが、ぼくが3歳くらいのときに死んだ。
日本脳炎が原因だった。

 母が言うには、暑い夏の日に、父が荷台に兄を乗せ、自転車で数時間もかけて母の在所へ行ったのが原因ということだった。
ぼくが覚えているのは、その日、つまり葬式の日、土間に無数の下駄や靴が、散乱していたということだけ。
兄との思い出は、まったくといってよいほど、ない。
歳が離れていたこともある。

 だから今でも兄弟と言えば、兄と姉ということになる。

●家族

 兄弟との接触も少なかったが、父や母との接触は、もっと少なかった。
こんな話をしても、だれも信じないかもしれないが、生涯において、ぼくはただの一度も父に抱かれたことがない。
手を握ってもらったこともない。
結核を患ったこともあるが、ほかにも深刻な理由があった。
しかしそれをここに書くことは、できない。

 その代わり、祖父がぼくの父がわりなってくれた。
祭りに行っても、祖父は、最初から最後まで、ずっと、一度もぼくの手を放さなかった。
 
・・・ということで、何からなにまで、おかしな家族だった。
しかしそれがぼくの家族であり、ぼくは、ほかに家族を知らなかった。 
家族というのは、そういうものと思っていた・・・というよりは、(それ)を、ぼくは受け入れるしかなかった。
それがぼくの家族だった。

●子ども時代

 今でもときどき、不思議に思うことがある。
とくに10歳とか、12歳の子どもを見ると、そう思う。
「ぼくにも、同じような時代があったはずだが・・・」と。

 当時のぼくは、当然のことながら、(子ども)だった。
しかし記憶のどこをさがしても、(子どもとしてのぼく)が、浮かび上がってこない。
子どもらしく、父や母に甘えたという記憶も、ほとんどない。
父や母が、ぼくを子どもとして、扱ってくれたという記憶も、ほとんどない。
あるのは、ぼくをいつも子ども扱いしたこと。
(子ども扱い)というのは、ぼくを人間としてではなく、言うなればペットのようにしか扱ってくれなかったこと。
あるいはモノ?
道具?

 ぼくの意思や人格など、父や母の前では、腸から出るガスのようなものだった。
父や母が、ぼくの話に静かに耳を傾けてくれたことは、ほとんどなかった。
家族の談話など、そういうものがあることさえ知らなかった。

だからぼくにとって父や母は、一方的に命令するだけの存在だった。
口答えすれば、・・・というより、当時のぼくの家庭では、子どもが親に口答えするなどということは、考えられなかった。

 親は、いつも絶対だった。
とくにぼくの父と母は、G県に本拠を置く、M教という、(親絶対教団)の熱心な信者だった。
母ですら、ぼくが何かを口答えをすると、「親に向かって、何てことを言う!」などといって、叱った。
「親に歯向かうと、地獄へ落ちる」と、よく脅された。

 ぼくにとって、親というのは、そういう存在だった。

●恩着せ

 父や母の子育ての基本は、(恩着せ)だった。
ことあるごとに、父や母は、ぼくにこう言った。
「産んでやった」「育ててやった」「言葉を教えてやった」と。

 ぼくはそういう言葉を、耳にタコができるほど聞かされた。
が、何よりも恐ろしい言葉は、「~~をしなければ、自転車屋を継げ」というものだった。
ぼくは兄を見て育っているから、自転車屋というのは、恐怖以外の何ものでもなかった。
兄は、まるで奴隷のように、家の中では扱われていた。
「自転車屋になる」ということは、ぼくも、その奴隷になることを意味した。

●ぼくの夢

 ぼくにもいくつかの夢があった。
「夢」と実感したというわけではなかったが、ぼくは、パイロットになりたかった。
いつも模型の飛行機を作って遊んでいた。
もう少し幼いころには、ゼロ戦のパイロットになりたかった。

 が、中学校へ入学するころから近視が始まり、断念。
「近視の者はパイロットにはなれない」というのが、当時の常識(?)だった。

 つぎにぼくはいつしか、大工になることを考えるようになった。
ものづくりは好きだったし、木工には、かなりの自信があった。
学校から帰ってくると、店の中で、木材を切ったり、金槌で叩いたりして、いろいろなものを作った。

 小学5年生か、6年生のときには、組み立て式ボートというのを、作ったことがある。
手先も器用だった。
中学生になるころには、そこらの大工よりも、のこぎりや、かんなを、うまく使いこなすようになっていた。
だからぼくの身のまわりには、大工道具が、いつも一式そろっていた。

●ドラマ

 こうした断片的な記憶は、無数にある。
しかしそれをつなげるドラマというのが、ない。
ドラマらしきものはあるが、どれも中途半端。
映画でいうような結末がない。
ないまま、終わっている。
子ども時代の思い出というのは、そういうものか。

 いや、そのつど小さなドラマはあったのかもしれない。

クラス一の乱暴者グループと、ひとりで対決した話。
円通寺という小さな山をはさんで、山向こうの子どもたちと戦争ごっこをした話。
ほとんど毎日、学校から帰るときは、寄り道をして遊んだ話、などなど。

 書き出したらキリがない。
しかしドラマはない。
こま切れになった映画のフィルムのよう。
言い換えると、ぼくは、あの当時、街角のどこにでもいるような、1人の子どもに過ぎなかった。
よごれた下着を着て、当て布をした半ズボンをはいて、ジャイアンツのマークの入った野球帽をかぶった、1人の子ども。

 何か特別なことをしたわけでもない。
そんな子どもに過ぎなかった。

●母の在所

 そんなぼくにも、楽しみはあった。
夏や冬、春などの休みのときは、母の在所(=実家)に行った。
そこはぼくにとっては、別天地だった。
従兄弟たちと山の中を歩き、川で泳いだ。
夜は、伯父たちの話す昔話に耳を傾けた。

 今でもそんなわけで、「故郷」というと、自分が生まれ育ったあのM町ではなく、母の在所のあった、I村のほうを先に思い出す。

 川のせせらぎの音、近くの水車が、粉をつく音、それに風の音。
つんとした木々が放つ芳香も、好きだった。
夕方になると、ご飯を炊くにおいがする。
魚の缶詰を切る音がする。
ぼくたちは、いつも腹をすかしていた。
だから、何を食べてもおいしかった。

 もちろん最高のぜいたくは、川でとれた鮎(あゆ)。
ときどきウナギもとれた。
当時は、アマゴ(=やまめ)や、ウグイには、目もくれなかった。
川魚といえば、鮎。
鮎の塩焼き!

●父

 父の酒乱は、ぼくが高校生に入るころまでつづいた。
そのころ父は肝臓を悪くし、思うように酒を飲めなくなった。
たぶん悪酔いをするようになったのだと思う。
酒の量が減った。
家で暴れることも、少なくなった。
しかし父は、もともと体の細い人だったが、ますますやせていった。

 一度だが、そんな父と殴り合いの喧嘩をしたことがある。
ぼくが中学3年生のときのことである。
体は、すでにぼくのほうが大きかった。

 家の中で暴れる父に向かって、無我夢中で頭から体当たりをしていった。
そのあとのことは、よく覚えていない。
どこをどうしたという記憶はないが、あとで聞いたら、父はそのため肋骨を何本か、追ったということだった。

 もちろんぼくには、罪の意識はなかった。
が、その日を境に、父は、ぼくの前ではおとなしくなった。
ぼくを恐れるようになった。

●みな、同じ

 おとなになって、いろいろ話を聞くと、ぼくの家庭だけが、特別だったということでもないようだ。
当時は、その程度の話は、どこの家庭にもあった。

 たとえばぼくの祖父母は、今で言う、「できちゃった婚」で、結婚した。
祖父には、たがいに結婚を約束した女性がいた。
が、ある日、祖父は別の女性と遊び、子どもができてしまった。
それがぼくの祖母であり、そのときできたのが、ぼくの父だった。

 それがぼくの家の原点だったかもしれない。
祖父母の夫婦喧嘩は絶えなかった。
父は父で、不幸な家庭で生まれ育った。
そしてあの戦争。
終戦。
その2年後の昭和22年、ぼくは生まれた。

●ふつうでない家系

 「林家」と「家」をつけるのも、おこがましい。
が、ぼくの家は、それでも、ふつうではなかった。

 それから62年。
振り返ってみると、父方の「林家」にしても、母方の「N家」にしても、それぞれが例外なく、深刻な不幸を背負っている。

 ぼくの家も、長男が日本脳炎で死去。
つづいて兄、Jが生まれ、姉、Mが生まれた。
そのあともう一人兄が生まれたが、(流産)ということで、処理されてしまった。

 ぼくはそのあと生まれた。

 この程度の話なら、どこの家系にもある話だが、ぼくの家系はちがう。
例外なく、どの親族も、みな、深刻な不幸を背負っている。
が、それについてはここには詳しく書けない。
それぞれがそれぞれの不幸を懸命に隠しながら、あるいはその苦しみと闘いながら、今でもがんばっている。

●少年時代

ときは今、ちょうど秋。
稲刈りのシーズン。
郊外を車で走ると、すずめの集団が、ザザーッと空を飛ぶ。
言うなれば、あの集団。
あの集団こそが、ぼくの少年時代ということになる。

 個性があったのか、なかったのか。
どこに(ぼく)がいたかと聞かれても、その(形)すら、よく見えてこない。
近所の人たちにしても、そうだろう。
学校の先生にしても、そうだろう。
ひょっとしたら、父や母にしても、そうだったかもしれない。

 ぼくは、すずめの集団の、その中の一羽に過ぎなかった。
当時は、そういう時代だったかもしれない。
町のどこを歩いても、子どもの姿があった。
通りでは、どこでも子どもたちが遊んでいた。
子どもの声が聞こえていた。

 ……一度、ここで走馬灯の電源を切る。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 「ぼくの少年時代」 少年時代 はやし浩司の少年時代)


●10月7日(1)マガジン

2009-10-07 11:59:30 | 日記
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      10月   7日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●英語のジョーク

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オーストラリアの友人のBob君が、こんなおもしろい
ジョークを集めてくれました。

(Thank you Bob!)

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先生「マリア、地図のところへ行って、北アメリカがどこにあるか、見つけてきなさい」
マリア「(指をさしながら)、ここです」
先生「そうです。では、みなさん、だれが北アメリカを発見したか、知っていますか」
生徒たち「マリア!!」

KIDS ARE QUICK:

TEACHER: Maria, go to the map and find North America.
MARIA: Here it is.
TEACHER: Correct. Now class, who discovered America?
CLASS: Maria.

先生「どうしてあなたはかけざんを、床の上でしているの?」
ジョン「だって先生が、テーブル(机、掛け算表)を使ってしてはいけないと
言ったから」

TEACHER: John, why are you doing your math multiplication on the
floor?
JOHN: You told me to do it without using tables.

先生「グレン、あなたはワニは、どういうふうに綴るのですか」
グレン「KROKODIAL」
先生「あなたはまちがっている」
グレン「わかっている。でも、先生は、ぼくがどう綴るかを聞いたでしょ」

TEACHER: Glenn, how do you spell 'crocodile?'
GLENN: K-R-O-K-O-D-I-A-L'
TEACHER: No, that's wrong
GLENN: Maybe it is wrong, but you asked me how I spell it.
(I Love this kid)

先生「ドナルド、水の分子式を言いなさい」
ドナルド「HIJLLMNOです」
先生「何を言っているの?
ドナルド「だって、先生、先生は昨日、水は「H to O(HからOまで)と
言ったじゃない」

TEACHER: Donald, what is the chemical formula for water?
DONALD: H I J K L M N O.
TEACHER: What are you talking about?
DONALD: Yesterday you said it's H to O.

先生「ウィニー、私たちが10年前にもっていなかった、重要なものを言いなさい」
ウィニー「私!」

TEACHER: Winnie, name one important thing we have today that we
didn't have ten years ago.
WINNIE: Me!

先生「グレン、どうしてあなたはいつも、そんなに汚れているの?」
グレン「先生より、ぼくのほうが地面に近いからです」

TEACHER: Glen, why do you always get so dirty?
GLEN: Well, I'm a lot closer to the ground than you are.

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【名言集】

I CAN:

When I offend, I prefer it to be intentional.--Scott Adams
私は怒ったとき、よりい国際的になることを好む。

The last time I had a 36-inch waist was in the 8th grade.--John Madden
ぼくのウエストが、最後の36インチになったのは、中学2年生のときだ。

Drug misuse is not a disease; it is a decision, like the decision to move
out in front of a moving car.--Philip K Dick
ドラグの使用は病気ではない。それは心の決意の問題だ。
動いている車の前に飛び出すような決意だ。

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FUNNY FORWARDS:

An invisible man marries an invisible woman. The kids were nothing to look
at either.
透明人間の夫が透明人間の妻と結婚した。
その子供たちは、何も見えなかった。

Two cannibals are eating a clown. One says to the other: 'Does this taste
funny to you?'
2人の人食い人種が、道化師を食べた。
1人がもう1人に言った。
「おもしろい味がしたかい?」

P.S. what do you call a fish with no eyes? A fsh!
目(アイ)のない魚(FISH)は、何と呼ぶか、知っているか?
答え……「FSH」


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●本音と建前

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学生時代、オーストラリアの人たちはみな、
私に親切だった。
あの人口300万人と言われたメルボルン市でさえ、
日本人の留学生は、私、1人だけ。
もの珍しさもあったのかもしれない。

が、あるとき、どういうきっかけかは覚えていないが、
こう感じたことがある。
「友人としてつきあう分については、そうかもしれないが、
一線を越えたらそうではないだろうな」と。

++++++++++++++++++++++

●社会的距離尺度(ボガーダス)

 たとえば(結婚)。
(友人)としての範囲なら、親しく接してくれるオーストラリアの人たち。
しかしその範囲を越えて、たとえば(結婚)となったら、どうだろうか。
当時の状況からして、それはありえないことだった。

 1970年当時、白豪主義は、残っていた。
日本人は、まだ第二級人種と位置づけられていた。 
仮に相手がオーストラリア人であっても、第二級人種と結婚したばあい、
そのオーストラリア人も、第二級人種に格下げされた。

 こうした距離感を、「社会的距離尺度」(ボガーダス)という。
つまり表面的には受容的であっても、内面では、否定的。
その距離感のことをいう。
日本的に考えれば、(本音)と(建前)ということになる。

●心の遊び

 日本人には、うつ病の人は少ないと言われている。
その理由のひとつに、日本人の心がダブル構造になっていることが
あげられる。
(本音)と(建前)というのが、それ。
表と裏を、うまく使い分ける。
それが心に穴をあける。

 一方、それに比較して、欧米人は、なにごとにつけ、ストレート。
日本的に本音と建前を使い分けると、「うそつき」というレッテルを
張られる。
その分だけ、心の(遊び)がない。
だからうつ病になりやすい。

●本音で生きる

 が、できれば、日本人の私たちも、できるだけ本音で生きるように
したい。
本音と建前を分ければ分けるほど、外から見ると、訳の分からない民族
ということになる。
その典型的な例というわけでもないが、よく話題になるのが、日本人の
(笑い)。

 よく電車に乗り遅れたような人が、プラットフォームで苦笑いするような
ことがある。
ああした(笑い)は、欧米人には理解できないもの。
最近ではぐんと少なくなったが、デッドボールを当てたピッチャーが苦笑いを
するのもそれ。

 内心と表情が、別々の反応を示す。
いやなヤツと思っていても、ニコニコと笑いながら接する。
そういう場面は多い。
しかしそういう生き様は、時分自身を見苦しくする。
あとで振り返っても、後味が悪い。

●「自分の心を偽るな!」

 平たく言えば、「どうすれば社会的距離尺度を、短くすることが
できるか」ということ。
で、私はここ1年ほど、子どもたちを指導しながら、こんなことに
注意している。

 幼稚園の年中児でも、「君たちは、おっぱいが好きか?」と聞くと、
みな、恥ずかしそうな顔をして、こう言う。
「嫌いだよ~」「いやだよ~」と。

 そこですかさず私は、真顔で、子どもたちを叱る。

「ウソをつくな!」「好きだったら、好きと言え!」
「自分の心を偽るな!」と。

 2、3度、真剣にそう叱ると、子どもたちはみな、
「好きだよ~」と、小さな声で答える。
つまり日本人独特の、本音と建前は、こうして生まれ、
子どもたちの心に根付く。
(少し大げさかな?)

●本音で生きよう

 本音で生きるということは、勇気がいる。
しかしその分だけ、人生がわかりやすくなる。
すがすがしくなる。

 自分を飾ったり、ごまかしても、後味が悪いだけ。
どうせ一回しかない人生。
だったら、思う存分、本音で生きてみる。
ものを書く立場で言うなら、ありのままをありのままに書く。
こう書くからといって、誤解しないでほしい。
読者あっての(文章)だが、私は、読者など、もうどうでもよい
とさえ思っている。
読んでくれる人がいるなら、それでよし。
読んでくれなくても、どうということはない、と。

 どう判断されようが、私の知ったことではない。
大切なことは、こうして懸命に生きている人間がいること、
……過去にいたことを、何らかの形で、だれかに伝えること。
それができれば、御の字。
それ以上、何を望むことができるか?

 話はそれたが、本音で生きるということには、そういう意味も
含まれる。
余計なことかもしれないが……。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●伊豆・熱川(あたがわ)温泉にて

+++++++++++++++++

今日は、講演のつづきで、伊豆の熱川温泉に泊まった。
きびしい海岸線にへばりついたような温泉街で、いたるところから白い蒸気が立ち上って
いるのがわかった。
ホテルに着くと私たちはすぐ、海岸へ出てみた。
やや荒い波が、黒っぽい砂浜に絶え間なく、打ち寄せていた。
何組のかの若い男女が、波と戯れていた。
私は、DVDカメラを回しつづけた。

泊まったホテルは、「ホテル・セタスロイヤル」。
「セタス」というのは、「クジラ座」という意味だそうだ。
駅からホテルまで運んでくれた運転手が、そう教えてくれた。
この地域は、何かのことでクジラと縁があるらしい。
9階の私たちの部屋から、そのまま太平洋が一望できた。
すばらしい!
ワイフは、「私は海が好き」と、子どものようにはしゃいでいた。

+++++++++++++++++++++

●セタスロイヤル
 
 実名を出してしまったので、評価することはできない。
しかし熱川温泉では、海に面した、見晴らしのよさでは、最高のホテル。
各部屋から、太平洋が、視界が届く限り、端から端まで、一望できる。
加えて6階にある露天風呂がすばらしい。
広くて、美しい。

ただ露天風呂までの通路が長いのが、やや気になる。
寒い冬などは、それだけで体が冷えてしまうだろう。
が、長い通路を通りぬけて行くだけの価値はじゅうぶん、ある。
私たちはそのホテルの最上階、つまり9階に部屋にあてがわれた。

 で、このところ私たちは、ほかにホテルがあっても、その土地へ行ったら、
できるだけ同じホテルに泊まるようにしている。
新しいところで冒険するより、勝手がよくわかったホテルのほうが、落ち着く。
2度目より3度目。
3度目より4度目のほうが、落ち着く。
次回、何かの機会で熱川温泉へ来るようなことがあれば、まちがいなくセタスロイヤルに
泊まるだろう。

●旅のよさ

 人生を旅に例える人は、多い。
たしかに旅だ。
もう少し詳しく表現すれば、人生は、(時の旅)。
旅は、(位置の旅)。
時間と空間のちがいということになるが、今では、時間と空間は、物理学の世界では、
「同じ」と考える。
たとえば時間が止まれば、物体の移動も止まる。
時間が動き出せば、物体もまた動き出す。
見た目には静止していても、分子レベルでは、猛烈な勢いで動き出す。

 私たちは位置を移動することによって、そこに時間の動きを感ずることができる。
わかりやすく言えば、(変化)を感ずることができる。
(時間の変化)を感ずることができる。
その時間の変化を感ずるために、旅をする。

●時間の変化

 わかりにくいことを書いた。
理屈っぽくすぎて、「?」と思った人も多いことだろう。
つまり旅をすることによって、それまで止まっていた時計が、
再び動き出す。
時間の変化を感ずることができる。
もし旅をしなかったら、今日は昨日のまま過ぎ、明日は今日のまま過ぎる。
「マンネリ」という言葉も、そういうときの状態を表現するためにある。
わかりやすく言えば、そういうこと。

 が、旅は、その時の流れに、ひとつの区切りを入れてくれる。
今日と昨日の間に、区切りを入れてくれる。
今日と明日の間に、区切りを入れてくれる。
今度の旅は、確実に、その区切りを入れてくれた。

●朝、5時に起床

 朝、5時に目が覚めた。
昨夜は、午後9時半ごろ、それまでの疲れがどっと出たのか、そのまま眠ってしまった。
それで5時。

 静かにカーテンをあけると、そこに再び、太平洋が現れた。
窓を開けると、潮騒の音が、部屋中に響いた。
空はほんのりと、ピンク色。
紫色の雲が、左から右へと、ゆっくりと流れているのがわかる。
その下を細いひだになった波が、手前へと流れている。
壮大な景色である。
水平線だけの、壮大な景色である。

 私はDVDを回し、つづいてカメラのシャッターを切る。
午前5時26分。
日の出。
真っ赤な、小さな光点が、水平線から顔を出す。


●10月7日(2)

2009-10-07 11:59:05 | 日記
●リバウンド?

 伊東もよい。
稲取もよい。
しかしここ熱川もよい。
伊豆半島の東岸には、すばらしい温泉地が並ぶ。
近く、下田の市民文化会館で、講演をすることになっている。
そのときは、下田市に一泊するつもり。
楽しみ。

 そうそう昨夜は料理で、一夜にして、3日分を食べた。
量的には、それくらいあった。
あとで体重計に乗るのがこわい。
おそらく63キロ台に戻っているはず。
私は食べたら、食べた分だけ太る。
今日は、がまんして、絶食。

(浴場にあった体重計に乗ってみたら、意外や意外!
体重は、60キロを切っていた!
「?」と思いながら、数回、量りなおしてみる。
私は講演期間中は、食事の量を極端に減らしている。
講演中に眠くなってしまう。
今日も、口にしたのは、稲荷寿司、数個だけだった。
リバウンドしていなかったことを、喜んだ。)

●心の整理

 ワイフが楽しそうなのが、うれしい。
家の中で見るワイフと、旅先で見るワイフは、別人のよう。
昔から、「電車に乗っているだけで、楽しい」と、口癖のように言う。

 一方、私は実家の問題が、解決した。
実家から解放された。
ついでに姉夫婦とも、xxした。
いろいろあった。
ありすぎて、ここには書けない。
それに書けば、いろいろと問題になる。
姉の娘が、ときどき私のHPをのぞいている。
のぞいては、内容を、あちこちに知らせている。

ただできるなら、もう私たちのことは、放っておいてほしい。
気になるのはわかるが、あなたがたはあなたがたの人生を生きればよい。
私の家の心配をするよりも、あなたがたの家の心配をしたほうがよいのでは・・・?
このままでは・・・?
この先のことは、あなたがたが、いちばん、よく知っているはず。
私が何も知らないと思っているのは、あなたたちだけ。
(わかりましたか、SRさん、それにMSさん!)

 ともかくも、今は病気に例えるなら、病後の養生期。
ゆっくりと静養して、つぎの人生に備える。

●新しい人生

 こうして私の新しい人生は、始まった。
太平洋に昇る朝日を見ながら、それを感じた。
老後なんて、私には関係ない。
これからが私の人生。
今まで苦しんだ分だけ、自由に、この大空をはばたいてみたい。
今日が、その第一歩。

 2009年9月6日、日曜日。

Hiroshi Hayashi++++++++Sep.09+++++++++はやし浩司

●運命(Destiny)

++++++++++++++++++++

無数の(糸)がからんで、ときにその人の
進む道を決めてしまう。
社会の糸、家族の糸、生い立ちの糸などなど。
それを「運命」という。

が、「運命」は、自分で作っていくもの。
一見矛盾した考えに思う人もいるかもしれない。
自分の力では、どうにもならない力を運命という。
「しかしその運命は、自分で作るものとは、どういうことか」と。
しかしそのときは、こう考えたらよい。

その「糸」は、ふつうは見えない。
見えないが、自分のことがわかればわかるほど、
それが見えてくる。
それが見えるか見えないかは、その人自身の(視野の広さ)による。
視野さえ広めれば、そこにある(糸)が見えてくる。
糸さえ見えれば、自分で自分の運命をコントロールすることができる。
自分の運命を、自分で作ることもできる。
作り変えることもできる。

++++++++++++++++++++

●たとえば

 たとえばこんな例で考えてみよう。
もちろんここに登場する母親は、架空の女性である。
いろいろなケースを、ひとつにまとめた。

●子どもの非行

 最初に断っておく。
子どもが非行に走ったからといって、子育てに失敗したということではない。
今どき、非行など、珍しくも何ともない。
もう少しマクロな見方をすれば、まじめで(?)、何ごともなく青春期を過ごした
子どもほど、あとあと何かと問題を起こすことがわかっている。
あれこれと非行を経験した子どものほうが、のちのち常識豊かな子どもになる。
教育の世界では常識。
「教育がしにくい」というだけで、ほかに問題があるわけではない。
(だからといって、非行を奨励するわけでもないが……。)

●母親の視野

 が、視野の狭い母親ほど、自分の子どもが何かの事件を起こしたりすると、
あわてふためく。
ギャーギャーと泣き叫んで、大騒ぎをする。
そして本来なら、軽く乗り越えられるような問題まで、より深刻にしてしまう。
こんな例で考えてみよう。

●3人も強制退学

 その母親には、3人の子どもがいた。
上から、(男)(女)(男)である。
が、3人とも、高校生のとき、強制退学。
それぞれが傷害事件を起こした。

 こういうケースのばあい、まず疑ってみるべきは、母親の育児姿勢。
1例とか2例なら、同じようなことがつづくことはある。
しかし3例ともなったら、原因は、環境にあるとみる。
なかんずく母親の育児姿勢にあるとみる。
が、残念なことに、その母親には、それを理解するだけの知的能力がなかった。
いや、自分では、「賢い、頭のいい女性」と思い込んでいた。

 繰り返すが、子どもが強制退学になったからといって、「失敗」という
ことではない。
子どもたちに問題があったということでもない。

●夫の責任

 子育てで何がこわいかといって、親の独善と独断ほど、こわいものはない。
その母親のばあいも、住んでいる世界そのものが、小さかった。
それに自分と同じレベルの人だけの世界で住んでいた。
が、それでいて、先にも書いたように、「私は賢い、頭のいい女性」と思い込んでいた。

 で、こういうケースのばあい、そばにいる夫が妻を指導しなければならない。
しかしその夫も、趣味は、パチンコ。
これではたがいに、向上しあうことなど、夢のまた夢。

 その女性は、いつもこう言っていた。
「子どもに教育をつけると、遠くへ行ってしまう。だから、損」と。

●レベルの高い人

 母親は、つねに視野を広くする。
「視野を広くする」というのは、内面世界を豊かにすることをいう。
外面的な虚勢を張りあうことではない。
そのためには、つねに自分よりレベルの高い人と交際する。
これは恩師のTK先生が教えてくれたことである。

 そしてできれば、……というより、同時に、自分の周囲からレベルの
低い人を遠ざけることも忘れてはいけない。

 私もある時期、たいへん小ずるい男性と交際したことがある。
気がついてみると、私自身も、たいへん小ずるいものの考え方をしていることを知った。
人間というのは、こうしてたがいに感化しあう。

●長女、二男

 長男が傷害事件を起こしたとき、その母親は、ガミガミというより、ギャンギャンと
子どもを叱った。
来る日も来る日も、子どもを叱った。
「私は苦労してあんたを育てた」「塾の送り迎えで苦労した」「親の恩を忘れたのか」
「世間に顔向けができない」と。

 長女はと二男は、同時期に暴走族に加わった。
暴走族同士の抗争事件を引き起こし、警察に逮捕。
そのまま高校は強制退学。

 再びその母親は、ガミガミというより、ギャンギャンと子どもを叱った。
来る日も来る日も、子どもを叱った。

●子どもは家族の代表

 こういう話を見聞きすると、私はすぐこう思う。
「責められるべきは母親のほうであって、子どもたちではない」と。
子どもは家族の(代表)にすぎない。
それがわかるか、わからないかは、親の視野の広さによる。

 が、たいへん悲しいことに、その母親には、その視野の広さがなかった。
ウソと虚栄のかたまり。
ひとつのウソをごまかすために、つぎのウソをついた。
あとは、その繰り返し。

 子どもたちが強制退学になったことについても、「学校が正しい判断をしなかった」
「相手の子どもが悪い」「うちの子は、たまたま事件に巻き込まれただけ」と主張した。

 その結果、子どもたち自身も、ますます自分を見失っていった。

●不幸の連鎖

 長男と長女は、そのまま家出。
二男はしばらく家を出入りしていたが、母親は、「近所に恥ずかしい」という理由で、
それを許さなかった。

 で、それから10年。
現在、長男と二男は、離婚。
これについても、「離婚したから、子育てで失敗した」と書いているのではない。
問題は、そのあと。
それぞれ2人の子ども(その女性の孫)がいるが、養育費すら満足に払えない状態が
つづいている。

これについても、その女性は、「(孫を)相手の嫁に取られたのだから、養育費など
払う必要はない」とがんばっている。
調停員が、「あなたは連帯保証人になっている」と、いくら説明しても、その女性には
それを理解する能力さえない。

●失敗

 もしこういうケースで、「失敗」という言葉を使うとしたら、子どもたちが退学
させられたり、良好な家庭を築けなかったことではない。
離婚にしても、いまどき、何でもない。

「失敗」という言葉を使うとしたら、子どもたちの能力を、じゅうぶん、
引き出せなかったこと。
よき家庭人として、自立させられなかったこと。
ついでに言えば、孫たちの養育費すら払わず、責任逃れをしていること。
そういう無責任な人間になってしまったこと。

 で、こうした一連の(流れ)を、外から見ると、そこに一本の(糸)があることが
わかる。
その糸が順につながって、その女性の現在の状況を作りあげている。

●自分で作る運命

 その女性は、たぶん心のどこかで、自分の運命をのろっているかもしれない。
最初の話にもどるが、その女性が現在の状況になったのは、(なった)というよりは、
(作り出した)のは、その女性自身の育児姿勢にある。
自ら(糸)を作り、自らその(糸)に巻き込まれていった。

 が、自分を見つめる視野そのものが狭い。
だからそういう(糸)があることにさえ、気づいていない。

 私が知るかぎり、その女性は、口がうまく、不誠実だった。
言っていることのうち、10に1つも、本当のことがない。
そういう女性だった。

 しかしその女性がそういう女性になったのは、その女性の生まれ育った家庭環境に
あった。
視野を広めていくと、そういうことまでわかるようになる。

●運命と闘う

 そこにある運命と闘うためには、まず自分の視野を広くすること。
視野が広くなればなるほど、そこに(糸)が見えてくる。
その糸さえわかれば、自分でその糸をほぐすことができる。
運命の糸を、ほぐすことができる。

 ではどうしたらよいか……ということをわかってもらいたかったから、
架空の女性だが、1人の女性を例にあげて、考えてみた。
私たちは、その反対のことをすればよい。
それが運命と闘う方法のひとつということになる。

(今日の教訓)

そこに運命があるなら、視野を広くせよ。
文化に親しみ、教養を深くせよ。
運命は、それを恐れれば、キバをむいてあなたに襲いかかってくる。
しかし一度受け入れてしまえば、向うからシッポを巻いて逃げていく。

不誠実、愚かさは、視野を狭くする。
その視野の狭さが、やがてあなたを袋小路に追いつめる。
あなたは運命に翻弄され、暗闇の中で、もがき、苦しむ。
あとは、あなたの勇気だけ。
それさえあれば、霧に包まれた原野の向うに、一本の道が見えてくる。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.09+++++++++はやし浩司

●10月7日(3)

2009-10-07 11:58:33 | 日記


●9月4日

+++++++++++++++++++++++
古里と決別した。
実家を売り払い、家財を処分した。
かなりのモノが残ったが、それはそのままにしておいた。
つぎに入居する人のための、置き土産。
+++++++++++++++++++++++

●損論

 わずかな財産だった。
モノは山のようにあったが、お金にはならなかった。
数十枚もあった着物が、全部で、たったの2万円。
漆(ウルシ)塗りの食器も、10数箱もあったが、一部を除いて、近所の人に
分けてやった。
「ほしい方はどうぞ!」と書いたら、みなが、もち帰っていった。
中には、大きな袋に入れて、もち帰っていった人もいた。
 損?
損といえば、損。
が、私がした損は、そんなものではない。
たとえて言うなら、数千万円も損をした人が、10万円や20万円の損に
こだわるようなもの。
それよりも私は、実家のことで、自分の人生そのものを、犠牲にしてしまった。
失われた時間は、戻ってこない。
その「損」と比べたら、10万円や20万円の損など、なんでもない。
それよりも私は、こうして実家から解放された。
その解放感のほうが、うれしい。

金銭的な価値で計算することはできないが、今から20年も前だったら、
1億円でも高くない。
つまりあのとき、だれかが、「1億円出してくれたら、お前の重荷を代わりに担いで
やる」と言ったら、私は1億円を出しただろう。
そのときすでに私は、合計すれば、それ以上のお金を、実家に貢いでいた。

●財産

 私はそうした財産を処分しながら、何度もこう思った。
祖父の時代から、父の時代。
そして兄の時代へと、3代つづいた自転車店だったが、その「3代」で、残ったものは、
何だったのか?、と。
ときどき、祖父や父や兄たちが、必死になって守ろうとしてきたものは、
何だったのか?、と。

35坪足らずの土地に、古い家屋。
私はその家で生まれ育ったが、その私だって、何だったのか?、と。
わかりきったことだが、モノ、つまり財産のもつ虚しさを、改めて感じた。

●未練

 ワイフも、私の意見とまったく同じだった。
故郷を自分の中から消すということは、一度、自分自身を、(無)に
しなければならない。
未練が残ったら、故郷を消すことはできない。
そのときもし、実家に残っているモノを見ながら、そこに自分の過去を
重ねるようなことをすれば、故郷を去ることはできない。
何もかも棄てるというのは、そういう意味。

「惜しい」と思ったとたん、それは未練に変わる。
未練が残れば、前に向かって歩けない。
未練は、心を、うしろ向きに引っ張る。
だから心の中を、一度、無にする。

ある女性は、漆の食器を、大きな袋に詰めながら、私にこう聞いた。
「本当にいいのですか?」と。
つまり「本当に、もらってもいいのですか?」と。
私はそのつど、笑みを浮かべながら、「どうぞ」「どうぞ」を、繰り返した。
買えば、一個、1万円はくだらない。
お椀の模様にしても、手彫りで、その溝に、金箔が埋め込んである。
それがつぎつぎと消えていくのを見ながら、私はある種の快感を覚えていた。
言うなれば、古里を蹴飛ばすような快感だった。

●夢

 その翌朝。
つまり今日、私は兄の夢を見た。
私は実家のあるゆるい坂道を、実家に向かって歩いていた。
そのときふと横を見ると、兄がいっしょに歩いていた。
ニコニコと笑っていた。
うれしそうな顔だった。
黄色いTシャツを着ていた。
私は、兄を、右手で抱いた。
兄といっても、いつからか、私の弟のようになっていた。
小さな体に、頼りない顔をしていた。

 私は兄に、こう言った。
「仇(かたき)は、取ってやったぞ」と。
それを聞いて、兄は、さらにうれしそうに笑った。
私は夢の中だったが、涙で目がうるんだ。

●家の奴隷
 
 兄は、一家の主人というよりは、家の奴隷だった。
母にしばられ、家にしばられ、社会を知ることもなく、この世を去った。
生涯において、母は、兄を、内科以外の病院へは連れていかなかった。
無知というよりは、兄を「家の恥」と考えていた。

 晩年、母の認知症が進んだこともあり、(実際には、老人性のうつ病だったかも
しれない)、兄は母の虐待を受けるようになった。
一度、ワイフと2人で実家を見舞うと、兄は、何が悲しかったのか、
私の顔を見るやいなや、ポロポロと、大粒の涙をこぼした。
私はその涙を、私のハンカチで拭いてやった。

 今にしてみれば、唯一の、それが、心残りということになる。
どうしてあのとき、私は兄を浜松へ連れてこなかったのか。
その気になれば、それができたはず。
あのときを思い出すたびに、胸が痛くなる。

が、迷ったのには、それなりの理由がある。
兄には、おかしな性癖があった。
私の目を盗んでワイフに抱きついたり、ワイフの入浴中に、風呂の中に、
勝手に入ってきたりした。
その性癖を、兄は、自分ではコントロールできなかった。

●総決算

 その兄の夢が、私の人生の総決算かもしれない。
実家への思いを、それで断ち切ることができた。
兄も、それで断ち切ることができた。
一抹のさみしさがないと言えば、ウソになる。
しかしそれ以上に、実家から解放されたという(ゆるみ)のほうが、
大きい。
長い旅が終わって、気が抜けたような状態。
緊張感そのものが、消えた。
私はその陶酔感に浸りながら、何度も何度も、肩の力が抜けていくのを覚えた。

●世間体

 母は母で苦しんだ。
それはわかる。
しかし母の人生観が、ほんの少しちがっていたら、その(苦しみ)の
中身もちがっていたことだろう。
私たちの人生も、大きく変わっていたことだろう。
母が悪いというよりは、母はあまりにも通俗的だった。
自分の人生というよりは、「世間体」の中で生きていた。
いつもそこに他人の目を気にしていた。
その通俗性の中で、母は、自分を見失ってしまっていた。

 通俗的になればなるほど、何が大切で、何がそうでないか、それがわからなくなる。
晩年の母は、仏具ばかり磨いていたが、私はそこに、哀れさというよりは、
もの悲しさを感じていた。

●「まんじゅう……1個、80円」

 実家を整理しているとき、兄の残したノートが出てきた。
その1ページに、「まんじゅう……1個、80円」とあった。
その日、どこかでまんじゅうを1個買って、食べたらしい。
それが80円、と。

 それを見たとき、ぐいと胸がふさがれるのを感じた。
貧しい生活。
慎ましやかな生活。
1個80円のまんじゅうまで、ノートに書きとめていた。

 それをワイフに話しながら、ふと、こう漏らした。
「ぼくたちのしたことは、まちがっていなかったね」と。

 母は、そのつど、私から、お金を(まきあげていった)。
額は計算できないが、相当な額である。
そういったお金は、実家の生活費だけではなく、母の実家へと流れていった。
もう一か所、別のところへ流れていき、残ったお金は、母の通帳の中へと消えた。
10数年ほど前だが、現金だけで、母は、3000~4000万円程度は
もっていたはず。
 
 その一部を、兄は母からもらいうけ、それでまんじゅうを買って食べていた。
兄は生涯にわたって、給料らしい給料を手にしたことはなかった。
いつも「小遣い」と称して、小額のお金を、母から受け取っていた。
それだけ。

 兄は、自閉傾向(自閉症ではない)はあったかもしれないが、頭はよかった。
65歳で私の家に来たときも、小学3~4年生の算数の問題を、スラスラと
解いてみせた。

●のろわれた家系

 母が守ったものは、何だったのか。
守ろうとしたものは、何だったのか。
よくわからないというより、あまり考えたくない。
母は母で、自分の人生を懸命に生きた。
それが正しいとか、正しくないとか、そういう判断をくだすこと自体、まちがっている。
母は母でよい。

 が、全体としてみれば、「林家」は、(「家(け)」と家付けで呼ぶのも、
おこがましいが)、(のろわれた家系)である。
ひとつの例外もなく、どの家族も、深い不幸を背負っている。
みな、それぞれ、必死にそれを隠し、ごまかしている。
が、人の口には戸は立てられない。
他人は気づいていないと思っているのは、本人たちだけ。
みな、知っている。
知って、知らぬフリをしている。

●象徴

私には、その象徴が、兄だったように思う。
いつしか兄が、そうした不幸を、一身に背負っているように感じるようになった。
だから兄が死んだときも、その通夜のときも、私はうれしかった。
兄が死んだことを喜んだのではない。
私以上に、重い苦しみを背負い、兄は、もがいた。
健康でそれなりの仕事をしている私だって、苦しんだ。
兄の感じた苦しみは、私のそれとは比較にならなかっただろう。
「家」という呪縛感。
重圧感。
母の異常なまでの過干渉と過関心。
それでいて、それに抵抗する力さえなかった。
つまり兄は、死ぬことで、その苦しみから解放された。
自分の運命に翻弄されるまま、またその運命と闘う力もないまま、この
世を去っていった。

最後は、やらなくてもよいような治療を受け、体中がズタズタにされていた。
食道や胃に穴をあけ、そこから流動食を流し込まれていた。
動くといけないからと、体は、ベッドに固定されたままだった。

 一度、見舞いに行くと、私の声とわかったのか、目だけをギョロギョロと
左右に振った。
三角形の小さな目だった。

 兄は死ぬことで、その苦しみからも解放された。
私はそれがうれしかった。

が、それだけではない。

●犠牲になった兄

兄は、林家にまつわる(のろい)を、一身に背負っていた。
いや、私が兄だったとしても、何も不思議ではない。
兄が、私であったとしても、何も不思議ではない。
たまたま生まれた順序がちがっていただけ。

で、もし反対の立場になっていたら……。
あの兄なら、私のめんどうをみてくれたことだろう。
収入の半分を、私に分け与えてくれただろう。
兄は、私より、ずっと心の温かい、やさしい人間だった。
その兄が(のろい)のすべて背負って、あの世へ旅立ってくれた。
私はそれがうれしかった。
だから祭壇に手を合わせながら、私はこうつぶやいた。
「準ちゃん(=兄名)、ありがとう」と。

●礼の言葉

 葬儀が終わったとき、私は参列者にこう言った。
「今ごろ、兄は、鼻歌でも歌いながら、金の橋を、軽やかに渡っているはずです」と。
それについて、その直後に、寺の住職が、「そういうことはまだです。
四九日の法要が終わってから決まることです」と言った。
つまり「まだ、極楽へ渡ってはいない」と。

 もともと『地蔵十王経』という偽経を根拠にした意見だが、何が四九日だ!
私の人生は61年。
兄の人生は69年。
アホな「十王」どもに、人生の重みがわかってたまるか!

 兄は、あの夜、まちがいなく、金の橋を渡って、極楽へと旅立った。

●終焉

 こうしてあの「林家」は、終わった。
が、すべてがハッピーエンドというわけではない。
問題は残っている。
残っているが、これからはそのつど、蹴飛ばしていけばよい。
私の知ったことではない。
いまさら誤解を解きたいなどとは思わない。

●運命

最後に、これだけは、ここで自信をもって言える。
もしあなたが運命に逆らえば、運命は、キバをむいてあなたに
襲いかかってくる。
しかし運命というのは、一度受け入れてしまえば、向こうから尻尾を
巻いて逃げていく。
もともと気が小さくて、臆病。
そこに運命を感じても、おびえてはいけない。
逃げてはいけない。
受け入れる。
そしてあとはやるべきことをやりながら、時の流れに身を任す。
あとは必ず、時間が解決してくれる。

 つまりこうして今まで、おびただしい数の人の人生が流れた。
あたかも何ごともなかったかのように……。

 準ちゃん、ぼくももうすぐそちらへ行くからな。
またそこで会おう!

(補記)(のろい論)

 私はここで(のろい)という言葉を使った。
しかしスピリチュアル(=霊的)な、のろいをいうのではない。
ひとつの大きな運命が、つぎつぎと別の運命の糸を引き、ときとして
それぞれの家族を、翻弄する。
それを私は、(のろい)という。
ふつうの不幸ではない。
ふつうの不幸ではないから、(のろい)という。
が、それは偶然によるものかもしれない。
たまたまそうなっただけかもしれない。
しかし私はそうした(不幸)に間に、一本の糸でつながれた、
運命を感ずる。

 それについて書くのは、ここではさしひかえたい。
まだ生きている人も多いし、みな、それぞれの運命を引きずりながら、
懸命に生きている。
私とて例外ではない。
ある時期、私は、心底、そっとしてほしいと願ったときもあった。
けっして、問題から逃げようとしたわけではない。
どうにもならない袋小路に入ってしまい、身動きできなくなってしまった
ときのことだった。

 しかしそういうときにかぎって、事情も知らないノー天気な人たちが、
あれこれと世話を焼いてくる。
わずか数歳、年上というだけで、年長風を吹かしてくる。
その苦痛には、相当なものがある。
私はそれを身をみって、体験した。

 だから、……というわけでもないが、もしその人が、今、苦しんで
いるなら、そっとしておいてやることこそ、重要ではないか。
もちろん相手が求めてくれば、話は別。
そうでないなら、そっとしておいてやる。
それも気配りのひとつ。
思いやりのひとつ、ということになる。


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