最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●子どもの叱り方

2009-10-01 08:47:17 | 日記
【子どもを叱る】

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総論

(1) 親子(母子)の密着度が強すぎる。
(2) 子どもを、1人の人格者として認めていない。
(3) 1人の人間(親であれ)、別の人間を叱るということは、
たいへんなことだという、自覚が乏しい。
(叱る側に、哲学、倫理、道徳観がなければならない。)

各論
(1) 威圧、恐怖感を与えない。
(2) 言うだけ言って、あとは時間を待つ
(3) 自分で考えさせる。

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●叱る

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子どもであれ、相手を「叱る」ということは、
たいへんなこと。
叱る側に、それなりの道徳、倫理、哲学が
なければならない。
しかもその道徳、倫理、哲学は、相手をはるかに
超えたものでなければならない。

自分の価値観を押し付けるため、あるいは自分の
思い通りに、相手を動かすために、相手を叱るというのは、
そもそも(叱る)範疇(はんちゅう)に入らない。
いわんや自分が感ずる不安や心配を解消するために、
相手を叱ってはいけない。

そういうのは、自分勝手という。
わがままという。

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●私のばあい

 簡単に言えば、私は忘れ物をしてきた生徒を、叱ったことがない。
ときどきはあるが、それでもめったにない。
理由は、簡単。
私自身がいつも忘れ物をするからである。

 同じようなことだが、こんなことがある。
よく子どもに向かって、「サイフを拾ったら、おうちの人か、交番に届けましょう」と
教える。
しかし私はそのたびに、どうも居心地が悪い。

 私は団塊の世代、第一号。
戦後のあのドサクサの中で生まれ育った。
家庭教育の「か」の字もないような時代だったといえる。
そういう時代だったから、たとえば道路にお金やサイフが落ちていたとしたら、
それは見つけた者のものだった。
走り寄っていって、「もら~い」と声をかければ、それで自分のものになった。

 そういう習慣が今でも、心のどこかに残っている。
一度身についた(悪)を、自分から消すのは容易なことではない。

 だから居心地が悪い。
実際、今でも、サイフを道路で拾ったりすると、かなり迷う。
迷いながら、近くの店か、交番に届ける。
この(迷い)は、60歳を過ぎた今も、消えない。
そんな私がどうして、子どもたちに向かって、堂々と、「拾ったサイフは、
交番へ届けましょう」と言うことができるだろうか。

●親の身勝手

 ほとんどの親は、ほとんどのばあい、自分の身勝手で、子どもを叱る。
たとえば自分では、信号無視、携帯電話をかけながら運転、駐車場でないところへ
駐車しておきながら、子どもに向かって、「ルールを守りなさい」は、ない。

 自分では一冊も本を読んだことさえないのに、子どもに向かって、「勉強しなさい」は、ない。

 ……となると、「しつけとは何か」と疑問に思う人も多いかと思う。
しかし(しつけ)は、叱って身につけさせるものではない。
(しつけ)は、子どもに親がその見本を見せるもの。
見せるだけでは足りない。
子どもの心や体の中に、しみこませておくもの。
その結果として、子どもは、(しつけられる)。

 親がぐうたらと、寝そべり、センベイを食べながら、「机に向かって、
姿勢を正しくして勉強しなさい」は、ない。

●子どもの人格

 私が子どものころでさえ、女性と子どもは、社会の外に置かれた。
「女・子ども」という言い方が、今でも、耳に残っている。
つまり「女や子どもは、相手にするな」と。

 戦後、女性の地位は確立したが、(それでも不十分だが……)、子どもだけは、
そのまま残された。
今でも、子どもは、(家族のモノ)、あるいは、(親のモノ)と考えている人は
少なくない。
子どもに向かって、「産んでやった」「育ててやった」という言葉をよく使う人は、
たいていこのタイプの親と考えてよい。
だから叱るときも、モノ扱い(?)。

 子どもの人格を認める前に、頭ごなしにガミガミと叱る親は、いくらでもいる。
人が見ている前で、ガミガミと叱る親は、いくらでもいる。
子どもの意見を聞くこともなく、ガミガミと叱る親は、いくらでもいる。
『ほめるのは公に、叱るのは密やかに』と言ったのは、シルスだが、子どもの
人格を平気で無視しながら、無視しているという意識さえない。

●日本人の民族性

 一般論として、日本人は、子どもを叱るのが、へた。
その原因の第一として、日本人がもつ民族性があげられる。

 先にも書いたように、この日本では、伝統的に、子どもは、家のモノ、
あるいは親のモノと考える。
つまりその分だけ、親子、とくに母子関係において、親子の密着度が強い。

たとえば私が教師という立場で、子どもを叱ったとする。
私は子どもを叱ったのだが、親は、自分が叱られたように感じてしまう。
さらには、自分の子育てそのものが、否定されたかのように感じてしまう。
この一体性が強いため、自分の子どもでありながら、自分の子どもを
客観的にながめて、子どもを叱ることができない。

●欧米では……

 一方、欧米では、もちろんイスラム教国でも、伝統的に子どもは神の子
として考える。
それが長い歴史の中で熟成され、独特の子ども観をつくりあげている。

つまりあくまでも比較論だが、欧米では、親と子どもの間に、まだ距離感がある。
そのひとつの例というわけではないが、私が子どものころには、たとえば家族の
中に障害をもった子どもが生まれたとすると、親は、それを「家の恥」と
考えた。
そういう障害をもった子どもを、世間から隠そうとした。

 今では、そんな愚かな親はいないが、しかしまったくそういう考え方が
なくなったというわけではない。
今も、日本は、その延長線上にある。

 つまりこうした日本人独特の民族性が、子どもの叱り方の中にも現れる。
それが、ぎこちなさとなって現れる。
子どもだけを見て、子どものために、子どもの人格を認めてしかるのではない。
ときとして、自分のために叱っているのか、子どものために叱っているのか、わからなくなる。
わかりやすく言えば、自信をもって、子どものために、子どもを叱ることができない。

●子どもを叱れない親

 実際、子どもが、小学校の高学年くらいになると、子どもを叱れない親が
続出する。
「子どもがこわい」という親がいる。
「子どもに嫌われたくない」という親もいる。
親が、子どもに依存性をもつと、さらに叱れなくなる。

 こうなってくると、子どもの問題というよりは、親の問題ということになる。
親自身の精神的な未熟さが原因ということになる。
子どもというのは、ある一定の年齢に達すると、(小学3、4年生前後)、親離れ
を始める。
その親離れを、うまく助けるのも、親の務めということになる。
が、このタイプの親は、それができない。
そればかりか、自分自身も、子離れできない。
そんな状態で、では、どうして親は、子どもを叱ることができるのかということに
なる。

●モンスターママ

 数日前、インターネット・サーフィンをしていたら、こんな記事が目についた。

 何でも自分の息子(中学生)が、万引きをして、店の責任者から、警察に通報された
ときのこと。
母親がその責任者に向かって、こう言ったという。
「いきなり警察に通報しなくてもいいではないか。まず子どもを諭すのが先だろ」と。
つまりその母親は、自分の子どもが万引きしたことよりも、店側が警察にそれを
通報したことを、怒った。

 何かがおかしい。
どこかが狂っている。
だから日本人は、子どもの叱り方がへたということになる。

●では、どうするか

(1) 自分の子どもといえども、1人の人間、もしくは、「友」として叱ること。
(2) 叱る側が、それなりの哲学や倫理感、道徳を確立すること。
(3) 親のエゴイズムに基づいて、子どもを叱らないこと。

 ……こう書くと、「それでは子どもを叱れない」と思う親もいるかもしれない。
そう、(叱る)ということは、それほどまでに、むずかしいことである。
その自覚こそが、子どもを叱るとき、何よりも重要ということになる。

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(補記)

●叱り方・ほめ方は、家庭教育の要(かなめ)

 子どもを叱るときの、最大のコツは、恐怖心を与えないこと。「威圧で閉じる子どもの耳」と考える。中に親に叱られながら、しおらしい様子をしている子どもがいるが、反省しているから、そうしているのではない。怖いからそうしているだけ。親が叱るほどには、効果は、ない。叱るときは、次のことを守る。

 (1)人がいうところでは、叱らない(子どもの自尊心を守るため)、(2)大声で怒鳴らない。そのかわり言うべきことは、繰り返し、しつこく言う。「子どもの脳は耳から遠い」と考える。聞いた説教が、脳に届くには、時間がかかる。(3)相手が幼児のばあいは、幼児の視線にまで、おとなの体を低くすること(威圧感を与えないため)。視線をはずさない(真剣であることを、子どもに伝えるため)。子どもの体を、しっかりと親の両手で、制止して、きちんとした言い方で話すこと。

にらむのはよいが、体罰は避ける。特に頭部への体罰は、タブー。体罰は与えるとしても、「お尻」と決めておく。実際、約50%の親が、何らかの形で、子どもに体罰を与えている。

 次に子どものほめ方。古代ローマの劇作家のシルスも、「忠告は秘かに、賞賛は公(おおやけ)に」と書いている。子どもをほめるときは、人前で、大声で、少しおおげさにほめること。そのとき頭をなでる、抱くなどのスキンシップを併用するとよい。そしてあとは繰り返しほめる。

特に子どもの、やさしさ、努力については、遠慮なくほめる。顔やスタイルについては、ほめないほうがよい。幼児期に一度、そちらのほうに関心が向くと、見てくれや、かっこうばかりを気にするようになる。実際、休み時間になると、化粧ばかりしていた女子中学生がいた。また「頭」については、ほめてよいときと、そうでないときがあるので、慎重にする。頭をほめすぎて、子どもがうぬぼれてしまったケースは、いくらでもある。

 叱り方、ほめ方と並んで重要なのが、「励まし」。すでに悩んだり、苦しんだり、さらにはがんばっている子どもに向かって、「がんばれ!」はタブー。ムダであるばかりか、かえって子どもからやる気を奪ってしまう。「やればできる」式の励まし、「こんなことでは!」式の、脅しもタブー。結果が悪くて、子どもが落ち込んでいるときはなおさら、そっと「あなたはよくがんばった」式の前向きの理解を示してあげる。

 叱り方、ほめ方は、家庭教育の要であることはまちがいない。

【コツ】

★子どもに恐怖心を与えないこと。
そのためには、

子どもの視線の位置に体を落とす。(おとなの姿勢を低くする。)
大声でどならない。そのかわり、言うべきことを繰り返し、しつこく言う。
体をしっかりと抱きながら叱る。
視線をはずさない。にらむのはよい。
息をふきかけながら叱る。
体罰は与えるとしても、「お尻」と決める。
叱っても、子どもの脳に届くのは、数日後と思うこと。
他人の前では、決して、叱らない。(自尊心を守るため。)
興奮状態になったら、手をひく。あきらめる。(叱ってもムダ。)

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子どもを叱るときは、

(1) 目線を子どもの高さにおく。
(2)子どもの体を、両手で固定する。
(3)子どもから視線をはずさない。
(4)繰り返し、言うべきことを言う。

また、
(1)子どもが興奮したら、中止する。
(2)子どもを威圧して、恐怖心を与えてはいけない。
(3)体罰は、最小限に。できればやめる。
(4)子どもが逃げ場へ逃げたら、追いかけてはいけない。
(5)人の前、兄弟、家族がいるところでは、叱らない。
(6)あとは、時間を待つ。
(7)しばらくして、子どもが叱った内容を守ったら、
「ほら、できるわね」と、必ずほめてしあげる。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct.09+++++++++はやし浩司

●TK先生

2009-10-01 08:16:16 | 日記
●9月30日(水曜日)

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今日で、9月もおしまい。
昨夕、G町の従兄弟が送ってくれた、鮎(あゆ)を、
塩焼きにして食べた。
「少し、塩をつけつぎたかな?」ということで、
今朝は、胃の中が、どうもすっきりしない。

いつもならご飯を1杯ですますところを、昨夕は、
2杯も食べてしまった。
で、その直後体重計を見たら、何と、61・5キロ!

たった1日で、1・5キロもふえてしまった。
怖しいことだ!
木曽川のタタリじゃア!

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●明日から10月

 明日から10月。
とくに大きな予定は、ない。
いくつか講演の仕事が入っている。
そのレジュメ(概要)を、今日中に作成しよう。

 それから秋田県のほうから講演依頼があった。
実のところ先月までは、遠方のは、すべて断ってきた。
が、今月から、心境が大きく変化した。

講演先で温泉に入る楽しみを、覚えてしまった。
それで変化した。
秋田といえば、湯沢温泉。
片道、7時間半の長旅になるが、かえってそれが楽しみ。
「講演をして、お金を稼ごう」という意識が、ほとんどなくなったせいもある。
かわって、「元気なうちに、できることをやっておこう」という意識が生まれた。

 だから秋田県へ行く。
最高の講演をしてくる。
浜松人の心意気を、見せてやる。
「やらまいか」ということで、喜んで引き受けた。


●ニッポン放送

 明日、ニッポン放送で、話す機会をもらった。
電話による応答番組だが、肝心のスタジオがない!
時間的に、市内の事務所を使うことになるが、目下、隣地は工事中。
終日、ユンボ類が、ガーガー、ゴーゴーと音を出している。

 雑音が入ってはいけない……ということで、昨日、炊事室を急きょ、スタジオに改造。
電話線を延長して、電話機を炊事室へ。
マットをドアにあてる。
昨日テストしてみたが、「これならいけるわ」とワイフ。

 全国放送。
あまり気負わないで、気楽に話そう。


●指が痛い!

 右手中指の先端がパンパンに腫れている。
ささくれを指でちぎったのが、悪かった。
中で化膿した。

 何とかこうしてごまかしてキーボードを叩いているが、痛い。
となりの薬指が軽くあたっただけで、キリキリと痛む。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.09+++++++++はやし浩司

●TK先生より

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4月に人工関節の手術を受けた。
そのTK先生から、メールが
届いていた。

今は、ニンジンジュースがよいとか。
さっそく我が家でも、昨日から、
ニンジン料理をふやした。

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林様:

膝の方は出来るだけ街まで歩くようにしています。往復して四、五千歩で一日に七,八千歩になっています。手術のお蔭で、歩く時の痛さはなくなりましたが、未だヨタヨタ歩きで、普段片道15分のところを23分ぐらいかかって、歩いています。普通になるまで一年はかかるそうです。しかし手術以前は歩くのが辛くて、歩かないと全身が老化しますので、先が短いのを承知でも、手術をしてよかったと思っています。

 この二ヶ月間始めたのは野菜の生ジュースです。夜ベッドに入るとしばらくして胃が痛くなり、睡眠剤を服用しても眠り難かったのですが、ある本に胃が良くない時はキャベツのジュースを飲めと書いてありましたので、(市販にキャベジンもありますが)、飲み始めましたら悪くないようです。

尤も眠くならないので睡眠薬を続けていますが。出来るだけ種類を違えて取り換えながらしていますが。その本の著者は毎日朝ニンジンのジュースを飲んで結構元気だと言っています。その人がスイスの病院に留学している時、その病院では世界中からの難病、奇病の患者がやって来るのに、毎朝ニンジンのジュースを飲ませていると言います。

何故ニンジンかと院長さんに聞きましたら、ニンジンにはすべての必要なビタミンとミネラルが含まれているから、との答えでした。リンゴ一つのコマ切れに野菜ジュースを加えてジューサーでジュウスを作り、それに、ニンジン二本のコマ切れを加えてジュースを作るのです。一つの例でしかありませんからあまり誇張することはいけないと思うのですが、生野菜ですから悪くはなさそうです。

ご招待のものもう少し待ってから、様子次第で決めます。差し当たり別に困っていませんから、面倒くさそうなのは億劫です。   お元気で。

TK

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●TK先生

 先生は、もう85歳になるのでは?
いまだに文科省や日本化学会の仕事で、あちこちを飛び回っている。
その間に原稿も書き、講演もしている。
その前向きな生き方は、いつも私に新鮮な驚きと喜びを与える。
そう、先生が後ろ向きになるのは、若くして亡くなった奥様の話と、やはり若くして亡くなった、三女のお嬢さんの話のときだけ。

 いつも日本の未来と日本の教育の心配ばかりしている。
その前向きのエネルギーのものすごさというか、生き方のすばらしさというか、世の老人たちは、みな、見習ったらよい。
もちろん私も見習っている。
若い時から、ずっと、見習っている。

 研究の分野では、すでに神の領域に入った人である。
先日も、水を光分解して、水素と酸素を取りだすニュースが世界中を駆け巡った。
かけた熱量よりも多くのエネルギーの水素と酸素に分離することができた。
その偉業を成し遂げたのが、先生の一番弟子と言われる、DI教授である。
先生は、いつもDI教授の自慢をしている。

 そのときもらったメールには、こうあった。

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林様:

太陽光を使って水を水素と酸素に分解する反応の世界のトップ研究者の一人は、私のインタビューの最後に載っている写真の中のDI君です。私の研究室にいたころからいわゆる「光触媒」の研究に打ち込んでいました。インチキ記事よりも私のホームページにDI君との共著があります。取り敢えずお知らせまで。

TK

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そこでその原稿をさがしてみた。
TK先生のHPに公開されているので、そのまま紹介させてもらう。

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【太陽エネルギーを用いる水からの水素製造】

DI  TK先生

化石資源の消費、枯渇からもたらされるエネルギー問題と二酸化炭素発生などによる地球環境問題は、我々が直面する深刻な課題である。これらの問題は、放っておけばいつか解決するという類のものではない。我々の生活に直結しており、我々自身で積極的に取りくんでいかねば決して解決しない問題である。この問題の本質は、現代の人類の生活が多量のエネルギーを消費する事によって維持されているという点である。しかも現在そのエネルギーを主に担っている化石資源は、有限な資源であり必ず枯渇するだけでなく、それを使い続ける事は地球環境を破壊する危険性が高い。

  もともと石油や石炭などの化石資源は、光合成によって固定された太陽エネルギーを何億年もかけて地球が蓄えてきたものであり、それとともにわれわれの住みやすい地球環境が形成されてきたはずである。我々はそのような地球が気の遠くなるような時間をかけてしまいこんできたエネルギーを「かってに」掘り出し、その大半を20世紀と21世紀のたった200年程度で使い切ってしまおうとしている。したがって現在の時代を後世になって振り返れば、人類史上あるいは地球史上極めて特異な浪費の時代と映っても不思議ではない。かけがえのない資源を使い切ってしまいつつある時代に生きる我々は、それについて微塵も罪の意識を持っていないが、少なくともわれわれにとっては地球環境を破壊しない永続的なエネルギー源を開発することは、後世の人々に対する重大な義務である。その為には、核融合反応や風力などいくつかの選択肢があろう。なかでも太陽エネルギーをベースにしたエネルギー供給システムは、枯渇の心配のない半永久的でクリーンな理想的なエネルギー源であろう。

  太陽光を利用する方法もいくつかの選択肢がある。例えば最も身近な例は太陽熱を利用した温水器である。また太陽電池を用いて電気エネルギーを得る方法も既に実用化している。しかし、これですぐにエネルギー問題が解決するわけでない事は誰でも実感している事であろう。

ここで太陽エネルギーの規模と問題点について少し考えてみる。太陽は、水素からヘリウムを合成する巨大な核融合反応炉であり、常時莫大なエネルギー(1.2 x 1034 J/年)を宇宙空間に放出している。その中の約百億分の一のエネルギーが地球に到達し、さらにその約半分(3.0 x 1024 J/年)が地上や海面に到達する。一方、人間が文明活動のために消費しているエネルギーは約3.0 x 1020 J/年であり、地球上に供給される太陽エネルギーの約0.01 %である。ちなみにそのうちの約0.1 %、3.0 x 1021 J/年、が光合成によって化学物質、食料などの化学エネルギーに変換されている。また、地球上にこれまで蓄えられた石油や石炭などの化石資源がもつエネルギー量は、もし地球上に降り注ぐ太陽エネルギーを全て固定したとすれば約10日分にすぎない。このように考えれば太陽エネルギーは我々の文明活動を維持するには十分な量であることがわかる。

では、なぜ太陽エネルギーの利用が未だに不十分なのであろうか。理由は太陽光が地球全体に降り注ぐエネルギーであることである。したがって太陽光から文明活動を維持するための十分なエネルギーを取り出すためには数十万km2(日本の面積程度)に展開できる光エネルギーの変換方法を開発しなければならない。ただしこの面積は地球上に存在する砂漠の面積のほんの数%程度であることを考えれば我々は十分な広さの候補地を持っていることになる。その様な広大な面積に対応できる可能性をもつ方法の一つが人工光合成型の水分解による水素製造である。もし太陽光と水から水素を大規模に生産できれば人類は太陽エネルギーを一次エネルギー源とする真にクリーンで再生可能なエネルギーシステムを手にすることができる。水素の重要性は、最近の燃料電池の活発な開発競争にも見られる様に今後ますます大きくなってくることは間違いない。しかしながら現在用いられている水素は化石資源(石油や天然ガス)の改質によって得られるものがほとんどである。これは水素生成時に二酸化炭素を発生するのみでなく、明らかに有限な資源であり環境問題やエネルギー問題の本質的な解決にはならない。

もし、太陽光の中の波長が600nmより短い部分(可視光、紫外光)を用いて、量子収率30%で、1年程度安定に水を分解できる光触媒系が実現すると、わが国の標準的な日照条件下1km2当たり1時間に約15,000 m3(標準状態)の水素が発生する。この時の太陽エネルギー全体の中で水素発生に用いられる変換効率は約3%程度であるが、この水素生成速度は現在工業的にメタンから水素を生成する標準的なリフォーマーの能力に匹敵する。したがってこの目標が達成されれば研究室段階の基礎研究から太陽光による水からの水素製造が実用化に向けた開発研究の段階に移行すると考えられる。

現在、水を水素と酸素に分解するための光触媒系として実現しているのは、固体光触媒を用いた反応系だけである。他にも人工光合成の研究は数多く行われているが、以下、不均一系光触媒系に話を限定する。水を水素と酸素に分解する為に必要な熱力学的条件は、光触媒として用いる半導体あるいは絶縁体の伝導帯の下端と価電子帯の上端がH+/HおよびO2/OH-の二つの酸化還元電位をはさむような状況にあればよい。個々の電子のエネルギーに換算すると、1.23 eVのエネルギーを化学エネルギーに変換すればよい。また、光のエネルギーで1.23 eVは波長に換算するとほぼ1000 nmであり、近赤外光の領域である。つまり、全ての可視光領域(400nm ~ 800nm)の光が原理的には水分解反応に利用できる。ただしこれらの条件はあくまで熱力学的な平衡の議論から導かれるものであるから、実際に反応を十分な速さで進行させるためには活性化エネルギー(電気化学的な言葉でいえば過電圧)を考慮する必要があるので、光のエネルギーとして2 eV程度(光の波長で600nm程度)が現実的には必要であろう。

固体酸化物を用いた水の光分解は、1970年頃光電気化学的な方法によって世界に先駆けて我が国で初めて報告され、本多―藤嶋効果と呼ばれている。この実験では二酸化チタン(ルチル型)の電極に光をあて、生成した正孔を用いて水を酸化し酸素を生成し、電子は外部回路を通して白金電極に導き水素イオンを還元し水素を発生させた。このような水の光分解の研究は、その後粒径がミクロンオーダー以下の微粒子の光触媒を用いた研究に発展した。微粒子光触媒の場合、励起した電子と正孔が再結合などにより失活する前に表面あるいは反応場に到達できるだけの寿命があればよい。さらに微粒子光触媒の場合、通常電極としては用いることが困難な材料群でも使用できるメリットがあるため、多くの新しい物質の研究が進んでいる。現在では紫外光を用いる水の分解反応は50%を超える量子収率で実現できる。

しかしながら太陽光は550nm付近に極大波長をもち、可視光から赤外光領域に広がる幅広い分布をもっているが、紫外光領域にはほんの数%しかエネルギー分布がない。つまり太陽光を用いて水を分解するためには可視光領域の光を十分に利用できる光触媒を開発することが必要である。しかしながら、これまでに開発された水を効率よく分解できる光触媒は全て紫外光領域の光あるいはほんの少しの可視光領域で働くものである。

  最近になって新しく可能性のある物質群が見出され始めている。それらは、d0型の遷移金属カチオンを含み、アニオンにO2-だけでなくS2-イオンやN3-イオンをもつ材料群である。例えばSm2Ti2O5S2やTa3N5、LaTiO2Nなどのようなものであり、オキシサルファイド、ナイトライド、オキシナイトライドと呼ばれる物質群である。これらの材料では価電子帯の上端はO2p軌道よりも高いポテンシャルエネルギーを持ったS3p軌道やN2p軌道でできている。しかし、このような物質はまだ調製が容易ではないが、酸化剤や還元剤の存在下では水素や酸素を安定に生成することが確認されており、これまで見出されていなかった、600nm付近までの可視光を用いて水を分解できるポテンシャルを持った安定な物質群であることがわかってきた。したがって、このような物質の調製法の開発および類似化合物の探索によって、太陽光を用いる水からの水素生成が、近い将来実現する可能性も十分にある状況になっている。安価で安定な光触媒を広い面積にわたって水と接触させて太陽光を受けることにより、充分の量の水素を得るのも夢ではない。 このような触媒の開発に成功し、大規模な応用が可能となれば、21世紀の人類が直面する大きな課題であるエネルギー問題と環境問題に化学の力で本質的な解決を与える可能性がある。

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●水を分解

 水を酸素と水素に分解すれば、人類は、無尽蔵かつクリーンなエネルギーを手にすることができるようになる。
夢のような話だが、今、その実現に向けて、研究が一歩ずつ進んでいる。
「20~30人規模の大がかりな研究チームを作ってがんばっているので、成果が出るのは時間の問題です」と、TK先生が話してくれたのを、覚えている。

 もしそれが成功し、実用化されたら、ノーベル賞ですら、ダース単位で与えられる。
同時に、世界の政治地図も一変するだろう。
「産油国」という言葉すら、消える。
少なくとも排気ガスによる地球温暖化の問題も解決される。
クリーンな光エネルギーによって、深夜の野菜栽培も可能になる、などなど。
私たちの生活環境は、劇的に変化する。
「太陽光を使って、水を分解する」という話は、そういう話である。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.09+++++++++はやし浩司

●酒乱

2009-10-01 08:15:49 | 日記


●酒乱

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私の父がそうだったが、酒が入ると、人が変わった。
ふだんは静かなおとなしい人だった。
が、今から思うと、それがよくなかった。
つまりその分だけ、心の中に別室を作ってしまった。

心理学の世界には、「抑圧」という言葉がある。
防衛機制のひとつにもなっている。
つまり人は何か、不愉快なことが慢性的につづくと、
心の中に別室を作り、その中に、それを押し込んでしまう。
そうして心の平和を保とうとする。
「心の別室」という言葉は、私が考えた言葉だが、
「抑圧」という現象を説明するのには、たいへん便利な
言葉である。

こうして人は、自分の心が崩壊したり、傷ついたりするのを防ぐ。
だから「防衛機制」という。

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●心の別室

 できるなら、心の別室は作らない方がよい。
そのつど、自分を、素直に外へ吐き出すのがよい。
いやだったら、はっきりと「いや」と言うなど。
が、それができないと、心の中に別室を作り、その中に、不愉快なことや、不平、不満を押し込んでしまう。

 そのため、見た目には、心は落ち着く。
しかしそれで問題が解決するわけではない。
折に触れて、「お前は、あのとき!」と、心の別室にあったものが、外に向かって爆発する。
この爆発がこわい。

●上書きのない世界

 抑圧され、心の別室に入った、不平や不満は、いわば心の世界から隔離された状態になる。
だからワープロの世界でいうような、(上書き)という現象が起きない。
その間に、いくら楽しい思い出があったとしても、一度爆発すると、そのまま過去へと戻ってしまう。

 それこそ10年前、20年前にあったできごとを、つい先頃のことのように思い出して、爆発する。
子どもの世界でも、よく見られる現象である。

 たとえば高校3年生の男子が、母親に向かってこう叫ぶ。

「お前は、あのとき、オレに、こう言って、みなの前で恥をかかせた!」と。

 母親が恥をかかせたのが、10年前であっても、またそれ以後、いくら楽しい思い出があったとしても、心の別室に入った思い出は、影響を受けない。
そのまま(時)を超えて、外に出てくる。

●時間のない世界

 そういう点では、心の別室では、時間は止まったままになる。
止まったまま、時間が、そこで固定される。
だからふつうなら、とっくの昔に忘れてしまってよいようなことを蒸し返して、爆発させる。
「お前は、あのとき!」と。

 私の父がそうだった。
酒が入ると別人のようになり、暴れ、大声で叫んだ。
そして10年前、20年前の話を思い出して、母を責めた。
こんなことがあった。

●父の心

 母がはじめて父と、母の実家へ行ったときのこと。
道の向こうから、母の友人が数人、並んでやってきた。
そのとき母は、何を考え、何を感じたかは知らないが、父に向かってこう言ったという。

 「ちょっと隠れていて!」と。
母は父を、橋のたもとにある竹やぶに、父を押し倒した。
父は言われるまま、(多分、訳も分からず)、竹やぶの中に身を潜めた。

 が、それが父には、よほど、くやしかったのだろう。
それ以後、5年とか、10年を経て、父は酒を飲むたびに、それを怒った。

「お前は、あのとき、オレを竹やぶに突き倒した!」と。

 母は母で、気位の高い人だったから、やせて細い父を、恥ずかしく思ったのかもしれない。
母は、よく「かっぷく」という言葉を使った。
太り気味で、腹の出た人を、「かっぷくのいい人」と言った。
母は、また、そういう人を好んだ。

●うつ病

 酒乱とうつ(鬱)は、たがいに深くからみあっている。
そのことは、うつ病の人が、緊張状態を爆発させる状態を見ると、よくわかる。
そのときも、(もちろん酒は入っていなくても)、心の別室にたまった、不平や不満が、同じような形で爆発する。

 うつ病も初期の段階では、心の緊張感が取れず、ささいなことにこだわり、悶々と悩んだりする。
そこへ不安や心配が入り込んでくると、心の状態は、一気に不安定になり、爆発する。
「爆発」というより、錯乱状態になる。

 大声で叫び、ものを投げつける。
ものを壊す。

 私の父も、ひどいときには、食卓に並んだ食事類を、食卓ごとすべて土間に投げ捨ててしまった。
ガラスを割ったり、障子やふすまを破ったりするようなことは、毎度のことだった。

 そういう父を、当時は理解できず、私はうらんだが、父は父で、大きな心の傷をもっていた。
父は、戦時中、出征先の台湾で、アメリカ軍と遭遇し、貫通銃創を受けている。
今にして思えば、その傷が、父をして、そうさせたのだと理解できる。

●子どもへの影響

 家庭騒動は、親の酒乱にかぎらず、子どもの心に大きな傷をつける。
恐怖、不安、心配……。
そんなどんな傷であるかは、私自身が、いちばんよく知っている。
子ども自身の心が、二重構造になる。

 いじけやすく、ひがみやすくなる。
何かいやなことがあると、やはり心の別室に入り、その中に閉じこもってしまう。
そして自分では望まない方向に自分を追いやってしまう。
ときとして、それが自虐行為につながることもある。
わざと罪のない人に、つらく当たったり、身近な人に冷たくしたりする。

 わかりやすく言えば、子どもの心から、すなおさが消える。
心の動きと、行動、表情が、不一致を起こすようになる。

 私のばあいも、子ども時代の私をよく知る人は、みな、こう言う。
「浩司は、明るくて、朗らかな子だった」と。

 しかしそれはウソ。
そう見せかけていただけ。
私は、そういう形で、いつも自分をごまかして生きていた。

●アルコール中毒

 そんなわけで、アルコール中毒と酒乱は分けて考える。
アルコール中毒イコール、酒乱というわけではない。
酒を飲んで、かえって明るく朗らかになる人は、いくらでもいる。

 しかしその中の一部の人が、(これはあくまでも私の推測だが)、うつ、もしくはうつ病と結びついて、酒乱になる。
だから治療となると、この2つは分けて考えたほうがよい。
さらに、私の父のケースのように、その背景に、何らかのトラウマが潜んでいることもある。
異常な恐怖体験が原因で、酒に溺れるようになることだってある。

●みんな十字架を背負っている

 先にも書いたが、私は、そういう父を、ある時期恨んだ。
父が死んだときも、涙は、一滴も出なかった。
しかし私自身が、40代、50代になると、父に対する考え方が変わった。
父が感じたであろう孤独、さみしさがよく理解できるようになった。
と、同時に、父に対する恨みも消えた。

 そんな私の心情を書いたのが、つぎの原稿。
54歳、つまり8年前に書いた原稿である。

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●心のキズ

 私の父はふだんは、学者肌の、もの静かな人だった。しかし酒を飲むと、人が変わった。今でいう、アルコール依存症だったのか? 3~4日ごとに酒を飲んでは、家の中で暴れた。大声を出して母を殴ったり、蹴ったりしたこともある。あるいは用意してあった食事をすべて、ひっくり返したこともある。

私と六歳年上の姉は、そのたびに2階の奥にある物干し台に身を潜め、私は「姉ちゃん、こわいよオ、姉ちゃん、こわいよオ」と泣いた。

 何らかの恐怖体験が、心のキズとなる。そしてそのキズは、皮膚についた切りキズのように、一度つくと、消えることはない。そしてそのキズは、何らかの形で、その人に影響を与える。が、問題は、キズがあるということではなく、そのキズに気づかないまま、そのキズに振り回されることである。

たとえば私は子どものころから、夜がこわかった。今でも精神状態が不安定になると、夜がこわくて、ひとりで寝られない。あるいは岐阜の実家へ帰るのが、今でも苦痛でならない。帰ると決めると、その数日前から何とも言えない憂うつ感に襲われる。しかしそういう自分の理由が、長い間わからなかった。

もう少し若いころは、そういう自分を心のどこかで感じながらも、気力でカバーしてしまった。
が、50歳も過ぎるころになると、自分の姿がよく見えてくる。見えてくると同時に、「なぜ、自分がそうなのか」ということがわかってくる。

 私は子どものころ、夜がくるのがこわかった。「今夜も父は酒を飲んでくるのだろうか」と、そんなことを心配していた。また私の家庭はそんなわけで、「家庭」としての機能を果たしていな
かった。家族がいっしょにお茶を飲むなどという雰囲気は、どこにもなかった。だから私はいつも、さみしい気持ちを紛らわすため、祖父のふとんの中や、母のふとんの中で寝た。それに私は中学生のとき、猛烈に勉強したが、勉強が好きだからしたわけではない。母に、「勉強しなければ、自転車屋を継げ」といつも、おどされていたからだ。つまりそういう「過去」が、今の私をつくった。

 よく「子どもの心にキズをつけてしまったようだ。心のキズは消えるか」という質問を受ける。が、キズなどというのは、消えない。消えるものではない。恐らく死ぬまで残る。ただこういうことは言える。心のキズは、なおそうと思わないこと。忘れること。それに触れないようにすること。
さらに同じようなキズは、繰り返しつくらないこと。つくればつくるほど、かさぶたをめくるようにして、キズ口は深くなる。

私のばあいも、あの恐怖体験が一度だけだったら、こうまで苦しまなかっただろうと思う。しかし父は、先にも書いたように、3~4日ごとに酒を飲んで暴れた。だから54歳になった今でも、そのときの体験が、フラッシュバックとなって私を襲うことがある。「姉ちゃん、こわいよオ、姉ちゃん、こわいよオ」と体を震わせて、ふとんの中で泣くことがある。54歳になった今でも、だ。心のキズというのは、そういうものだ。決して安易に考えてはいけない。

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●父のうしろ姿(中日新聞に書いたコラムより)

 私の実家は、昔からの自転車屋とはいえ、私が中学生になるころには、斜陽の一途。私の父は、ふだんは静かな人だったが、酒を飲むと人が変わった。二、三日おきに近所の酒屋で酒を飲み、そして暴れた。大声をあげて、ものを投げつけた。そんなわけで私には、つらい毎日だった。プライドはズタズタにされた。友人と一緒に学校から帰ってくるときも、家が近づくと、あれこれと口実を作っては、その友人と別れた。父はよく酒を飲んでフラフラと通りを歩いていた。それを友人に見せることは、私にはできなかった。

 その私も五二歳。一人、二人と息子を送り出し、今は三男が、高校三年生になった。のんきな子どもだ。受験も押し迫っているというのに、友だちを二〇人も呼んで、パーティを開くという。「がんばろう会だ」という。土曜日の午後で、私と女房は、三男のために台所を片づけた。
片づけながら、ふと三男にこう聞いた。「お前は、このうちに友だちを呼んでも、恥ずかしくないか」と。すると三男は、「どうして?」と聞いた。理由など言っても、三男には理解できないだろう。私には私なりのわだかまりがある。私は高校生のとき、そういうことをしたくても、できなかった。友だちの家に行っても、いつも肩身の狭い思いをしていた。「今度、はやしの家で集まろう」と言われたら、私は何と答えればよいのだ。父が壊した障子のさんや、ふすまの戸を、どうやって隠せばよいのだ。

 私は父をうらんだ。父は私が三〇歳になる少し前に死んだが、涙は出なかった。母ですら、どこか生き生きとして見えた。ただ姉だけは、さめざめと泣いていた。私にはそれが奇異な感じがした。が、その思いは、私の年齢とともに変わってきた。四〇歳を過ぎるころになると、その当時の父の悲しみや苦しみが、理解できるようになった。

商売べたの父。いや、父だって必死だった。近くに大型スーパーができたときも、父は「Jストアよりも安いものもあります」と、どこか的はずれな広告を、店先のガラス戸に張りつけていた。「よそで買った自転車でも、パンクの修理をさせていただきます」という広告を張りつけたこともある。しかもそのJストアに自転車を並べていたのが、父の実弟、つまり私の叔父だった※。叔父は父とは違って、商売がうまかった。父は口にこそ出さなかったが、よほどくやしかったのだろう。戦争の後遺症もあった。父はますます酒に溺れていった。

 同じ親でありながら、父親は孤独な存在だ。前を向いて走ることだけを求められる。だからうしろが見えない。見えないから、子どもたちの心がわからない。ある日気がついてみたら、うしろには誰もいない。そんなことも多い。ただ私のばあい、孤独の耐え方を知っている。父がそれを教えてくれた。客がいない日は、いつも父は丸い火鉢に身をかがめて、暖をとっていた。あるいは油で汚れた作業台に向かって、黙々と何かを書いていた。そのときの父の気持ちを思いやると、今、私が感じている孤独など、何でもない。

 私と女房は、その夜は家を離れることにした。私たちがいないほうが、三男も気が楽だろう。いそいそと身じたくを整えていると、三男がうしろから、ふとこう言った。「パパ、ありがとう」と。そのとき私はどこかで、死んだ父が、ニコッと笑ったような気がした。

(注※)この部分について、その実弟の長男、つまり私の従兄から、「事実と違う」という電話をもらった。「その店に自転車を並べたのは、父ではなく、私だ」と。しかし私はその叔父が好きだったし、ここにこう書いたからといって、叔父や従兄弟をどうこう思っているのではない。別のところでも書いたが、そういう宿命は、商売をする人にはいつもついて回る。だれがよい人で、だれが悪い人と書いているのではない。ただしその従兄に関しては、以後、印象は、180度変わった。以後、断絶した。誤解のないように。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.09+++++++++はやし浩司