最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●10月12日(2)

2009-10-12 08:09:02 | 日記


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【家という、監獄】

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私の兄は、生涯、「家」という監獄に
閉じ込められた。
みなは、兄のことを、バカだと思っていた。
またそういう前提で、兄を見ていた。
「だから、しかたなかった」と。
しかしこれはまったくの誤解。

兄の感受性は私のそれよりも、鋭かった。
知的能力にしても、少なくとも姉よりは、
ずっと高かった。
そんな兄が、「家」という監獄に閉じ込められた
まま、昨年(08年)、他界した。

そう、兄にとっては、たしかに「家」は
監獄だった。
私にとっても、そうだった。
だから兄の苦しみが、私には、痛いほど、
今、よくわかる。

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●兄

 みなさんは、「家制度」というものを、知っているだろうか?
知っているといっても、その中身を知っているだろうか?
「家」に縛られる、あの苦しみを知っているだろうか?

恐らく、今の若い人たちは、それを知らないだろう。
理解することもできないだろう。
自由であることが当たり前だし、自由というのは、自分が自由でなく
なったときはじめて、わかる。
それは空気のようなもの。
空気がなくなって、はじめて、そのありがたさがわかる。
自由も、また同じ。

●家制度

 「家」に縛られる。
「家」あっての、「私」と考える。
江戸時代の昔には、「家」あっての「私」ということになる。
「家」から離れれば、無宿者(むしゅくもの)と呼ばれた。
街角で見つかれば、そのまま佐渡の金山送りとなった時代もある。
あるいは無頼(ぶらい)とか、風来坊(ふうらいぼう)という言葉もある。
少し意味はちがうが、「家」がなければ、定職につくのも、むずかしかった。

そのため(私)は、「家」を守ることを、何よりも大切にした。
「家」のために(私)が犠牲になることは、当然のことのように考えた。

 ずいぶんと乱暴な書き方をしたが、大筋では、まちがっていない。
そういう前置きをした上で、私は、私の兄について書く。

●江戸時代

 こう書くからといって、母を責めているのではない。
というのも、母が生きた時代には、まだすぐそこに江戸時代が残っていた。
私はそのことを、満60歳になったときに知った。

 大政奉還によって江戸時代は終わったが、今から130年前のこと。
「130年」というと、若い人たちは、遠い昔に思うかもしれないが、
60歳になった私には、そうではなかった。
私の年齢の約2倍。
「2倍」と言えば、たったの2倍。
私の年齢のたった2倍昔には、そこにはまだ江戸時代が残っていた!

 去年(08年)、私の母は、92歳で他界したが、母にしてみれば、
母が子どものころは、江戸時代はいたるところに残っていた!
江戸時代、そのものといってもよい。

●実家意識

 そのため母がもつ、実家意識と、私たちがもつ、実家意識には、
大きなちがいがあった。
実家意識イコール、先祖意識と考えてよい。

 母は容赦なく、私からお金を奪っていったが、母にすれば、
それは当然の行為ということになる。
あるとき私が、あることで泣きながら抗議すると母は、ためらうことなく
こう言った。

 「親が実家を守るため、子(=私)の金(=マネー)を使って
何が悪い!」と。

 母は、私から言葉巧みに土地の権利書を取り上げると、その土地を
転売してしまった。
土地を母名義のままにしておいたのが、悪かった。

●栄養不足

 兄は、母の言葉を借りるなら、「生まれながらにして体が弱かった」。
母がそう思った背景には、母なりの理由がある。
長男の健一は、生まれるとまもなく、小児麻痺になった。
そして私が3歳のとき、日本脳炎で、死んでしまった。
そのあと、もう1人、兄がいたが、死産だった。
そのあと、もう一人の兄、準二が生まれた。
戦時中の貧しい時代のことで、栄養失調などというものは、あたりまえ。
国民病のようにもなっていた。

 私が子どものころでさえ、砂糖水がミルクの代わりに使われていた。
私もよく飲まされた。
兄は、恐らくもっと多量に飲まされていたにちがいない。
それだけが原因だったとは言えないが、たしかに兄は、弱かった。
今で言う脳水腫のようなものを起こしたのではなかったか。
背も低かった。
おとなになってからも、身長は、150センチ前後しかなかった。

●長子相続

 「家制度」は、「長子相続」が基本。
「長男が家を継ぐ」というのが、原則だった。
そのため父母はもちろんのこと、祖父母も、兄に大きな期待を寄せた。
同時に、兄に、スパルタ教育を試みた。

 アルバムを見るかぎり、中学を卒業するころまでは、兄は、どこにでも
いるような、ごくふつうの子どもだった。
明るい笑顔も残っていた。
その兄がおかしくなり始めたのは、兄が17、8歳くらいからのこと
ではなかったか。

 兄は、(跡取り息子)というよりは、(奴隷)に近かった。
もともと静かで、穏やかな性質だったが、それが父や母には気に入らなかった。
毎日のように兄は、父や母に叱られた。
怒鳴られた。
加えてやがて、家族からも孤立し始めた。
私とは9歳、年が離れていたこともある。
私は、兄といっしょに遊んだ記憶が、まったく、ない。
私は、父や母の関心が兄に集中する一方で、放任された。
私にとっては、それがよかった。
兄とは正反対の立場で、毎日、父や母の目を感ずることなく、遊んでばかりいた。

●心の監獄

 今になって江戸時代の、あの封建主義時代を美化する人は多い。
悪い面ばかりではなかったかもしれないが、しかし封建主義時代がもつ(負の遺産)に
目を向けることなく、一方的に、あの時代を礼賛してはいけない。

 家制度のもつ重圧感は、それを経験したものでないとわからない。
説明のしようがないというか、それは10年単位、20年単位でつづく。
いつ晴れるともわからない、悶々とした重圧感。

が、あえて言うなら、本能に近い部分にまで刷り込まれた、監獄意識に近い。
良好な家族関係、人間関係があるならまだしも、それすらないと、そこは
まさに監獄。
心の内側から、肉体を束縛する監獄意識。

 この私ですら、そうだったのだから、兄が感じたであろう重圧感には、
相当なものがあるはず。
監獄から逃げる勇気もなかった。
その能力もなかった。
それ以上に、兄の精神は、20歳になるころには、すでに萎縮していた。
父は、親絶対教の信者。
母は、口答えすら許さない権威主義者。
そういう環境の中で、兄は、なるべくして、あのような兄になっていった。

●意識

 が、意識というのは、おかしなもの。
私自身は戦後の生まれで、戦後の教育を受けた。
にもかかわらず、はじめてオーストラリアへ渡ったとき、そこで受けたのは、
ショックの連続だった。

 日本でいう上下意識がなかった。
 日本でいう家父長意識がなかった。
 日本でいう男尊女卑思想がなかった。
 もちろん長子存続意識もなかった。
 さらにこんなことにも驚いた。

 友人の家族だったが、年に2度も引っ越した。
オーストラリア人は今でもそうだが、収入が増えると、それに見合った
家に移り住んでいく。
「家を売り買いする」という意識そのものが、私の理解を超えていた。
「家」を売り買いするという意識そのものが、私には理解できなかった。
今から思うと、あのとき、その話を聞いて驚いたということは、それだけ
私の意識が、オーストラリア人のそれと、ズレていたことを示す。

●兄

 兄は、自分で考える力すら、失っていた。
してよいことと、悪いことの判断すら、できなかった。
そのため常識はずれな行動が目立った。
こんなことがあった。

 私が30歳のときのこと。
高校の同窓会があった。
私は恩師へのみやげということで、ジョニ黒(ウィスキー)を
用意して、もっていた。
が、その日の朝、見ると、フタが開けられ、上から3~4センチくらい、
ウィスキーが減っていた。

 兄の仕業ということはすぐわかった。
で、兄にそれを叱ると、悪びれた様子もなく、兄は、こう言った。
「ちょっと飲んでみたかっただけや」と。

 一事が万事、万事が一事だった。

●マザコン

 それで母の過干渉が終わったわけではない。
今にして思うと、ほかに類をみない、異常なまでの過干渉だった。
たとえば兄を、自転車屋という店に縛りつけたまま、一歩も、外に出さなかった。
友人も作らせなかった。
「おかしな連中とつきあうと、だまされるから」というのが、母の言い分だった。

 兄は、そんなわけで生涯にわたって、給料なるものを手にしたことはない。
ときどき小遣いという名目の小銭をもらい、そのお金でパチンコをしたり、
レコードを買ったりしていた。

 そんな母だったが、兄は、母の言いなりだった。
嫌われても、嫌われても、兄は母の言いなりだった。
何かあるたびに、兄は、こう言った。
「(そんなことをすれば)、母ちゃんが怒るで……」と。
母の機嫌をそこねるのを、何よりも、こわがっていた。

●母との確執

 私が30歳を過ぎたころ。
兄は40歳になりかけていた。
そのころ、私は兄を、浜松へ呼びつける覚悟をした。
祖父が他界し、父も他界していた。
「母と兄を切り離さなくてはいけない」と、私は決心した。

 すでに兄は、うつ病を繰り返していたし、持病の胃潰瘍も悪化していた。
内科の医師はこう言った。
「潰瘍の上に潰瘍ができ、胃全体が、まるでサルノコシカケのように、
なっています」と。

 血を吐いたことも、たびたびある。
そういう兄を知っていたから、私は母と言い争った。
「兄を浜松へ、よこせ!」
「やらない!」と。

 母は、兄を自分の支配化に置き、自分の奴隷として使うことしか考えていなかった。
心理学で言う、「代償的過保護」というのである。
「過保護」というときは、その裏に、親の愛情がある。
その過保護に似ているが、代償的過保護というときには、その愛情がない。

 一時は、1週間にわたって、母と怒鳴りあいの喧嘩をしたこともある。
はげしい喧嘩だった。
が、母には勝てなかった。
兄は兄で、母の呪縛を解くことができなかった。
私は引き下がるしかなかった。

●母の愛

 「愛」という言葉がある。
しかしこと私の母に関して言うかぎり、「愛」という言葉ほど、白々しい
言葉はない。

 もっとも母は、「愛」という言葉は使わなかった。
「かわいい」という言葉を使った。
「準ちゃん(=兄)は、かわいい」
「私は準ちゃんを、かわいがっている」というような言い方をした。

 母は、自分に従順で、口答えしない子どもが、「かわいい子」と言った。
そういう観点から見れば、私は、「鬼っ子」ということになる。
私は、ことあるごとに母に逆らった。
私のほうが生活の主導権を握っていたということもある。
母にはもちろん、兄にも、生活能力は、ほとんどなかった。
生活費は、すべて私が出した。
税金はもちろん、近親の人の香典まで……。

●泣き落とし

 そこで母が私に使った手は、泣き落としだった。
母は、いつも貧しく、弱々しい母を演じた。
そういう話になると、いつも涙声だった。
(涙は、ほんとうは一滴も出ていなかったと思うが……。)

 「母ちゃんは、近所の人が分けてくれる野菜で、生きていくから
心配しなくていい」というのが、母の口癖だった。
が、そう言われて、「はい、わかりました」と言う息子はいない。

 私はこうして母に、お金を貢いだ。
実家へ帰るたびに、20万円とか30万円(当時の金額)という現金を、母に渡した。

●家族自我群

 それでも私は自由だった。
浜松という土地で、好き勝手なことができた。
結婚し、3人の子どもをもうけることもできた。
そんな私でも、心が晴れたことは、一日もなかった。
本当になかった。

 心理学の世界には、「家族自我群」という言葉がある。
無数の「私」が、家族という束縛の中で、がんじがらめになっている状態をさす。
それから生まれる呪縛感には、相当なものがある。
「幻惑」という言葉を使って、それを説明する学者もいる。

 切るに切れない。
無視することもできない。
「私は知らない」と、放り出すこともできない。
それは悶々と、真綿で首を絞めるような苦しみと表現してもよい。
そんな中、母が私をだますという事件が起きた。
それについては、先にも書いた。

●家の犠牲

 私は「家」の犠牲になった。
兄は、さらに犠牲になった。
生涯、「女」も知らず、結婚もせず、一生を終えた。
一度だけだが、兄にも結婚の話があった。
しかし母がそれを許さなかった。
「結婚すれば、嫁に財産を奪われてしまう」と。

 で、ある日、私は兄を、浜松へ遊びに来たついでに、トルコ風呂へ連れて
いったことがある。
兄に「女」を経験させてやりたかった。
しかし入り口のところで兄は、固まってしまった。
「さあ、いいから、中へ入れ」と何度も促したが、兄は入らなかった。
そこがどういうところかも理解できなかった。

 そう、そのころから、兄は、私の兄というよりは、私の弟という
存在になった。
さらに私の息子という存在になった。

●兄の死

 こうして兄は、2008年の8月、持病を悪化させ、最後は胃に穴をあけられ、
肺炎で他界した。
作った財産は、何もない。
残した財産も、何もない。
あの「林家」という「家」に縛れられたまま、そこで生涯を終えた。

 冒頭の話に戻るが、だからといって、母にすべての責任があるわけではない。
母は母として、当時……というより、自分が生まれ育った時代の常識に従った。
ここでいう「家制度」というのも、そのひとつ。

 今でも、この「家制度」は、あちこちに残っている。
地方の田舎へ行けば行くほど、色濃く残っている。
そういう意識のない人たちからみれば、おかしな制度だが、そういう意識を
かたくなに守っている人も少なくない。

●家に縛られる人たち

 私の知人に、D氏(50歳)という男性がいる。
父親との折り合いが悪く、同居しながらも、子どものころから、たがいに口を
きいたこともない。

 父親は、きわめて封建的な人で、家父長意識がその村の中でも、特異とも
言えるほど、強い。
母親は、穏やかでやさしい人である。
そのため、一歩退いた世界から見ると、母親は、父親の奴隷そのものといった
感じがする。

 が、D氏は、その「家」を離れることができない。
なぜか?
ここに(意識)の問題がある。
D氏をその家に縛っているのは、もちろんD氏の意識ではない。
D氏自身は、一日でもよいから、父親のもとを離れたいと願っている。
が、それができない。

 それが家族自我群ということになる。
深層心理の奥深くから、その人を操る。
理性や知性の範囲を超えているから、自分でそれをコントロールすることは、
ほぼ不可能と考えてよい。

 私も何度か、「親と別れて住んだらいい」とアドバイスしたことがあるが、
そういう発想というか、意識そのものがない。
ないというより、もてない。
「何十代もつづいた家だから」というのが、その理由である。

 しかしはっきり言おう。
そういうくだらない考えは、私たちの時代で終わりにしたい。
「家」が大切か、「私」が大切かということになれば、「私」に決まっている。
「家を継ぐ」とか、「継がない」という発想そのものが、時代錯誤。
バカげている。
が、それがわからない人には、それがわからない。

 D氏は死ぬまで、結局は、「家」に縛られるのだろう。
しかし先日、古里と決別した、私から一言。

 「家意識なんて、棄ててしまえ!」。
「『私』を、鎖から解き放て!」。

 そこは自由で、どこまでもおおらかな世界。
D氏よ、何を恐れているのか?
何を失うことを、心配しているのか?

 あなたが自由になったところで、あなたは何も失わない。
あれこれと言う連中はいるだろうが、そういうバカな連中は相手にしなくてもよい。
相手にしてはいけない。
どうせ化石となって、消えていく運命にある連中なのだから……。

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