ソクラテスの命日なんだそうです。
自分は何も知らないのだ、ということを知っているからこそ、最も知恵のあるものなのである(とアポロンの託宣により言われた)
知らないということを知っている・・・・
から、最も知恵があるんだって。
解るような、解らないような・・・・
なにを知っていれば「知っている」事になるんだろう???
何も解ってないのだということを自覚する・・・
そんなの、わざわざ考えてみるまでもなく、ワタシは何にも解ってないですよ、・・・と、
一瞬思ったけど、これは、ワタシのような「心配しなくても凡人」な人間のための言葉じゃないのか・・な・・・?(笑)
当時のアテナイで「知者」と言われていた人々の無自覚を・・・「知者である」と自尊している人々に対して
「知っている」ということに謙虚であれ、と、
「自分はまだなにも知らない」と知るところから、さらなる向上が得られるんですよ、と
伝えたかった・・・・・ということでいいのかな???(←適当だなぁ)
・・・で、なにを「知れば」、「知っている」という事が出来るようになるんでしょう?
それとも、ひとは永遠に「何を知ることもできない」のでしょうか。
結局「なにを知ることも出来ない」ということを知る、というか気付く、ことが、ひとの究極の目的なんでしょうか。
自分はもともと何にも分かっちゃいないよ、と言っている今のつゆだくも、当然「何も知らない」ことに「気づいてない」状態なんだろうか。
「知らない」ということを知る、というのは、そのことばそのものをそのまま解釈するほどには簡単なことではないんでしょうね・・・???
「知らない」と言っているワタシの「知らない」はうわべだけの「知らない」で、
本当に「知らないのだ」ということには気づいてない、なーーんにも。ずうずうしいくらい。
ってことなのかなー。 難しいこと考えるよね。
紀元前400年なんて大昔から人は悩んでたのね・・・と思ったら
さらに100年も前に孔子が。
「論語」もいわば、ひとのありように悩んだ果ての「こうあってほしい」という希望を記したものでしょう?
ほぼ同じころ、釈迦があらわれ、やっぱり悩んでます。
このあたりから中国にはスゴクたくさんの書が現れてますよね。
論語、春秋、春秋左氏伝、国語、老子道徳経、考経、大学、中庸・・・・・・・・・・・
どんだけ考えまくってたんですか
易経・詩経・書経に至っては紀元前800~700ですよ?
その頃日本人は何してたろう・・・、と思うと、果てしなくて気が遠くなりそうですよ
どんだけ勉強好きなの・・・・・・・この人たち
易経あたりは、ひとのありようというよりは、記録要素のほうが強いようですが・・・。
(未来においてはそれを読むことで自身のありようとかを考えたのでしょうか)
人としていかに生きるか的な件について
ちょうどソクラテスが悩んでいたと同じころに、中国でもおなじようなことで (←雑なくくり方だなー。笑)
色々と考え込んでいた人たちがいたんだなぁ、と思うと、
ちょっと面白いと思いませんか?偶然ではあるのでしょうが、
でも、今も強く残る(精神性に関わるような)思想が、この時期にぶわっとでたというのはとても不思議です。
この時期、世界的に「考え込むのがブーム」だったんでしょうか(笑)
テンパり過ぎてちょっと頭が紀元前まで飛んでってます・・・・
いっぱいいっぱいだよー!もう!
(あ、ちなみにまだ良いご報告はできそうにないです・・・・・orz)
さて、紀元前はいいから現実に帰らないと(笑)
自分は何も知らないのだ、ということを知っているからこそ、最も知恵のあるものなのである(とアポロンの託宣により言われた)
知らないということを知っている・・・・
から、最も知恵があるんだって。
解るような、解らないような・・・・
なにを知っていれば「知っている」事になるんだろう???
何も解ってないのだということを自覚する・・・
そんなの、わざわざ考えてみるまでもなく、ワタシは何にも解ってないですよ、・・・と、
一瞬思ったけど、これは、ワタシのような「心配しなくても凡人」な人間のための言葉じゃないのか・・な・・・?(笑)
当時のアテナイで「知者」と言われていた人々の無自覚を・・・「知者である」と自尊している人々に対して
「知っている」ということに謙虚であれ、と、
「自分はまだなにも知らない」と知るところから、さらなる向上が得られるんですよ、と
伝えたかった・・・・・ということでいいのかな???(←適当だなぁ)
・・・で、なにを「知れば」、「知っている」という事が出来るようになるんでしょう?
それとも、ひとは永遠に「何を知ることもできない」のでしょうか。
結局「なにを知ることも出来ない」ということを知る、というか気付く、ことが、ひとの究極の目的なんでしょうか。
自分はもともと何にも分かっちゃいないよ、と言っている今のつゆだくも、当然「何も知らない」ことに「気づいてない」状態なんだろうか。
「知らない」ということを知る、というのは、そのことばそのものをそのまま解釈するほどには簡単なことではないんでしょうね・・・???
「知らない」と言っているワタシの「知らない」はうわべだけの「知らない」で、
本当に「知らないのだ」ということには気づいてない、なーーんにも。ずうずうしいくらい。
ってことなのかなー。 難しいこと考えるよね。
紀元前400年なんて大昔から人は悩んでたのね・・・と思ったら
さらに100年も前に孔子が。
「論語」もいわば、ひとのありように悩んだ果ての「こうあってほしい」という希望を記したものでしょう?
ほぼ同じころ、釈迦があらわれ、やっぱり悩んでます。
このあたりから中国にはスゴクたくさんの書が現れてますよね。
論語、春秋、春秋左氏伝、国語、老子道徳経、考経、大学、中庸・・・・・・・・・・・
どんだけ考えまくってたんですか
易経・詩経・書経に至っては紀元前800~700ですよ?
その頃日本人は何してたろう・・・、と思うと、果てしなくて気が遠くなりそうですよ
どんだけ勉強好きなの・・・・・・・この人たち
易経あたりは、ひとのありようというよりは、記録要素のほうが強いようですが・・・。
(未来においてはそれを読むことで自身のありようとかを考えたのでしょうか)
人としていかに生きるか的な件について
ちょうどソクラテスが悩んでいたと同じころに、中国でもおなじようなことで (←雑なくくり方だなー。笑)
色々と考え込んでいた人たちがいたんだなぁ、と思うと、
ちょっと面白いと思いませんか?偶然ではあるのでしょうが、
でも、今も強く残る(精神性に関わるような)思想が、この時期にぶわっとでたというのはとても不思議です。
この時期、世界的に「考え込むのがブーム」だったんでしょうか(笑)
テンパり過ぎてちょっと頭が紀元前まで飛んでってます・・・・
いっぱいいっぱいだよー!もう!
(あ、ちなみにまだ良いご報告はできそうにないです・・・・・orz)
さて、紀元前はいいから現実に帰らないと(笑)
いい報告、気長に待っていま~す
こういうの何って言うんでしたっけ?
「シンクロニシティ」だったかな?
因果性の無い事象の同時発生とかいう。
まあなんにしろ、現実に戻りましょうw
そろそろ紀元前から三国時代の末期までは戻ってこれたでしょうか?
(でもずっとその辺に居座っちゃいそうかな?w)
実はきのう、ハローワーク(笑)の前で、知らないおばさん(60代?)にいきなり声を掛けられて
「おくさん、まああせったらダメだわ。まだ若いんだから、今に見つかるわよ~」
と、言われました・・・
その後一時間以上も捕まってしまいました。おばさんに。(苦笑)
因果関係にない事柄が同時発生・・・「偶然」でいいんじゃ?(それを言っては)
っていうか、「意味を伴う偶然」と「意味のないただの偶然」の違いをドコでわけるんでしょうか。
≪非因果的な複数の事象の「同時発生」か、あるいは普遍的な事象を作り出す力の連続性によるもの
これらの力により、直観的な意識と行動が調和する過程を、ユングは「個体化」と名付けた。
集合的無意識による、個体化された人間の意識のコミュニケーションを通じて、
現実の出来事が形成される・・・≫
…難しい言い方しないでわかりやすく説明して!!(笑)
光武帝の辺りまで戻ってきてます。(だめじゃん)
ネガティブ思考おばさんなので、小さな事でクヨクヨ悩んでます。
魯粛さんの強さの欠片が、欲しいです。
しかし、中国史好きになってから考えてみると、
中国の人たちって本当に早熟(違う)ですね。
前399年なんて、もう戦国時代に入ってますもんね。
戦争が多くて辛い時代からこそ、勉強に思考を傾けようという気持ちは
分かる気がします……でも老子レベルのことを言われると
具体的に何をすればいいのかまったく分かりませんよね。さすが無為(笑)
「現実」すなわち200年代のことですね!
それを、書物にしてあらわさねばならない、読んで、自分を戒めねばならない、と、紀元前から(!!)言い続けていて、なのに歴史はそれを全くなす事もなく人同士争い続けちゃってる、というところに
人間が「よく生きる」ということのムツカシサがうかがえますよね。
ソクラテスも孔子も、今を見たらどう思いますかねー。
精神的に成熟した層がいたって事ですよね。でも、
中国はあまりにも早期に成熟して、その後成長を止めたように思いませんか?
二千年以上同じことを繰り返してるようにみえるんですけど・・・
現代も、経済大国となった!って自信満々ですが
「格差を放置して、その結果蜂起が起きて、国を転換する争いが起きて、人がたくさん死ぬ」
という轍をまた踏んでるように見えるんですが。