踊るアホゥに見るアホゥ。
同じ見るなら踊らにゃ損損♪
阿波踊りでおなじみの節ですが、
栗原康 著の「死してなお踊れ」を読んでいるところで
「踊り念仏」ってものは今も残っている宗派にある踊りよりも
阿波踊りのような熱狂の方に近かったのだろうな
なんてことを思ったりしていたsachiakiです。
この本、だいぶ前に誕生日のウィッシュリストから
もらった本だったのですが、
積ん読しているものが多かったので
棚の中に鎮座し続けていたんですよね。
昨日唐突に読みたくなってパラパラめくっていたら
なんだこれは!!今の私にぴったりな読み物じゃないか!と。
もともと割と「本は読むタイミングがある」
って思っているタイプなんですけれど、
今回は神がかったタイミングで読み始めたなぁと。
文体はリズム重視でとことん軽く書かれているのに
一遍上人の重視されたと思われる勘所が
ビシィッと収まっていて
無宗教をぶっていたけれど、
この宗派には帰依してみたい!って思わせる
そんな迫力に満ちていました。
この本のキャッチコピーが秀逸で
「現世におちろ。下にとべ。われわれは圧倒的にまちがえる」
ってあって、どういうことなのかな?
って思っていたんだけど、
私たちは高貴なことをしているつもりでも
どんだけ雑念を振り払おうとしても
結局いい線までいった!と思ったら現世に戻されてしまう。
ならば現世を極楽だと思って下に飛び込め。
私たちはたいてい間違えるのだから。
この圧倒的な救われ感がハンパないなと……。
また、「臨終の喜び」って言葉が出てきた時に
私が合宿が好きだっていう理由とちょっと似てて
苦しい、体に負担をかけて圧倒的に苦しい
でも使い切った体力の先に「フッ」と軽くなること
自分の意思とは関係無しに
体が動くようになるような、あの独特の感覚。
自転車で長距離乗っていて、
もう頭の中で考えていたことも全部出尽くして
ただ辛い辛い、早くこの道の先、たどり着くところにたどり着いてほしい。
そう思いながらも、その辛いって言葉まで出てこなくなり、
ただ前に続いていく道を視界に入れ
体の動くままに動かしている時の
あの無我の状態のことなどを思うと
あぁあれって気持ち良いよねぇ。辛いんだけど。
ってことなんかを思い出したりです。
そしてこの一遍上人が一番大事にされていたと思われる
身をすつるすつる心をすてつれば
ー身を捨てる、捨てる心さえも捨ててしまえば
おもひなき世にすみぞめの袖
ー黒染めの袖のように何も見えない、
何にもとらわれない絶対自由の世界が現れるでしょう
という心境にもなるのかなと。
そうそう、順序が逆なんですけれど
この一遍上人が「踊り念仏」を始める前に
彼が感銘を受けた阿弥陀仏の話があって
十劫正覚衆生界(十劫の正覚は衆生のため)
一年往生弥陀国(一念で弥陀の国に往生する)
十一不二証無生(十と一は不二であり、無生を証している)
国界平等坐大会(国と界は平等であり、大会に坐している)
こんな漢詩を一遍上人が残しているんですけれど
意味は「法蔵菩薩はもう十劫もむかしに悟りを得て、
阿弥陀仏になっている。ということは
私たちはすでに救われている
(法蔵は衆生を全員救うまで仏にならないと誓っていたが
阿弥陀仏になっているということは、その誓いが守られたということ。
ならば私たちはもう救われているのだ)
だからひとたび「南無阿弥陀仏」と唱えれば
それだけで阿弥陀仏のいる国にいける。
この二つ(俗世と阿弥陀仏のいる国)は生と死を超えて分かち難い。
俗世と阿弥陀仏のいる国の境などなく、どちらにいても
座ったままで仏の教えを受けることができる」
こんな感じに訳されるみたい。
他にもなんていうか、こう「今を生きろ」っていうのって
すごく色んな啓蒙書とかにもあるんだけど、
結局その言葉に尽きるんだよなぁと。
「死にたい」とか言ってる場合じゃなくて
死んでるのも生きてるのも同じで
死ぬ!って思うほど体を使い切ると
何度だって「生まれ変われる」んだと。
だから「今ここ」を圧倒的に感じるためにも
子供の頃のように時間も場所も忘れて遊んだり無我の境地になれと。
電気グルーヴの曲で「KARATEKA」って曲にもこんな言葉があって
精神集中こそ最大の自己鍛錬なり。
下校途中に笹舟を流し ランドセルをなくすべし。
これは自己鍛錬の話として、自己を超える方法として
バカバカしい言葉で解説しているんだけど、
このぐらいの集中度があると「現世」のことなんて
すっかり忘れて生き直すことができるのよなぁと。
まぁさすがにちょっとアレな話だと思うので
「わ、sachiakiとうとうおかしくなりよった」
とか思っちゃうのかもだけど、
別にもとから人と同じことするのが嫌いだったり、
ズレ続けてきた結果がこうなので
遅かれ早かれ、こういうことは言いだしたんじゃないかな〜と思います。
今が辛いなら躍り狂え!圧倒的熱狂の向こう側に
再起のチャンスはある。知らんけど。って感じ。
色んなことに立ち止まるし
色んなことで煩わされるけれど
「知らねぇ!!!」って振りほどいてみれば
見えてくる世界もあるよね〜って感じなのかな。
四十過ぎてコスプレっぽいことして遊んだりもそうだし。
自分が「できない」って思っていることは
案外自分でそう思っているだけで
なんとかなるもんかもしんないねってことかな。
さすがにいきなり億万長者になりたい!っていうのは無理だけど、
億万長者になってやりたかったことっていうのを絞ってみれば
射程の範囲に入るんじゃないかなーとか。
とりあえず私は今夏もまたなにもしないってことになりそうなので
なんか夏っぽいことの爪痕を残してやろうと考え中です。
海行きたいよ〜。
てこてとで行ける方法を模索しますかね。
そんじゃまた。モイモイ。
同じ見るなら踊らにゃ損損♪
阿波踊りでおなじみの節ですが、
栗原康 著の「死してなお踊れ」を読んでいるところで
「踊り念仏」ってものは今も残っている宗派にある踊りよりも
阿波踊りのような熱狂の方に近かったのだろうな
なんてことを思ったりしていたsachiakiです。
この本、だいぶ前に誕生日のウィッシュリストから
もらった本だったのですが、
積ん読しているものが多かったので
棚の中に鎮座し続けていたんですよね。
昨日唐突に読みたくなってパラパラめくっていたら
なんだこれは!!今の私にぴったりな読み物じゃないか!と。
もともと割と「本は読むタイミングがある」
って思っているタイプなんですけれど、
今回は神がかったタイミングで読み始めたなぁと。
文体はリズム重視でとことん軽く書かれているのに
一遍上人の重視されたと思われる勘所が
ビシィッと収まっていて
無宗教をぶっていたけれど、
この宗派には帰依してみたい!って思わせる
そんな迫力に満ちていました。
この本のキャッチコピーが秀逸で
「現世におちろ。下にとべ。われわれは圧倒的にまちがえる」
ってあって、どういうことなのかな?
って思っていたんだけど、
私たちは高貴なことをしているつもりでも
どんだけ雑念を振り払おうとしても
結局いい線までいった!と思ったら現世に戻されてしまう。
ならば現世を極楽だと思って下に飛び込め。
私たちはたいてい間違えるのだから。
この圧倒的な救われ感がハンパないなと……。
また、「臨終の喜び」って言葉が出てきた時に
私が合宿が好きだっていう理由とちょっと似てて
苦しい、体に負担をかけて圧倒的に苦しい
でも使い切った体力の先に「フッ」と軽くなること
自分の意思とは関係無しに
体が動くようになるような、あの独特の感覚。
自転車で長距離乗っていて、
もう頭の中で考えていたことも全部出尽くして
ただ辛い辛い、早くこの道の先、たどり着くところにたどり着いてほしい。
そう思いながらも、その辛いって言葉まで出てこなくなり、
ただ前に続いていく道を視界に入れ
体の動くままに動かしている時の
あの無我の状態のことなどを思うと
あぁあれって気持ち良いよねぇ。辛いんだけど。
ってことなんかを思い出したりです。
そしてこの一遍上人が一番大事にされていたと思われる
身をすつるすつる心をすてつれば
ー身を捨てる、捨てる心さえも捨ててしまえば
おもひなき世にすみぞめの袖
ー黒染めの袖のように何も見えない、
何にもとらわれない絶対自由の世界が現れるでしょう
という心境にもなるのかなと。
そうそう、順序が逆なんですけれど
この一遍上人が「踊り念仏」を始める前に
彼が感銘を受けた阿弥陀仏の話があって
十劫正覚衆生界(十劫の正覚は衆生のため)
一年往生弥陀国(一念で弥陀の国に往生する)
十一不二証無生(十と一は不二であり、無生を証している)
国界平等坐大会(国と界は平等であり、大会に坐している)
こんな漢詩を一遍上人が残しているんですけれど
意味は「法蔵菩薩はもう十劫もむかしに悟りを得て、
阿弥陀仏になっている。ということは
私たちはすでに救われている
(法蔵は衆生を全員救うまで仏にならないと誓っていたが
阿弥陀仏になっているということは、その誓いが守られたということ。
ならば私たちはもう救われているのだ)
だからひとたび「南無阿弥陀仏」と唱えれば
それだけで阿弥陀仏のいる国にいける。
この二つ(俗世と阿弥陀仏のいる国)は生と死を超えて分かち難い。
俗世と阿弥陀仏のいる国の境などなく、どちらにいても
座ったままで仏の教えを受けることができる」
こんな感じに訳されるみたい。
他にもなんていうか、こう「今を生きろ」っていうのって
すごく色んな啓蒙書とかにもあるんだけど、
結局その言葉に尽きるんだよなぁと。
「死にたい」とか言ってる場合じゃなくて
死んでるのも生きてるのも同じで
死ぬ!って思うほど体を使い切ると
何度だって「生まれ変われる」んだと。
だから「今ここ」を圧倒的に感じるためにも
子供の頃のように時間も場所も忘れて遊んだり無我の境地になれと。
電気グルーヴの曲で「KARATEKA」って曲にもこんな言葉があって
精神集中こそ最大の自己鍛錬なり。
下校途中に笹舟を流し ランドセルをなくすべし。
これは自己鍛錬の話として、自己を超える方法として
バカバカしい言葉で解説しているんだけど、
このぐらいの集中度があると「現世」のことなんて
すっかり忘れて生き直すことができるのよなぁと。
まぁさすがにちょっとアレな話だと思うので
「わ、sachiakiとうとうおかしくなりよった」
とか思っちゃうのかもだけど、
別にもとから人と同じことするのが嫌いだったり、
ズレ続けてきた結果がこうなので
遅かれ早かれ、こういうことは言いだしたんじゃないかな〜と思います。
今が辛いなら躍り狂え!圧倒的熱狂の向こう側に
再起のチャンスはある。知らんけど。って感じ。
色んなことに立ち止まるし
色んなことで煩わされるけれど
「知らねぇ!!!」って振りほどいてみれば
見えてくる世界もあるよね〜って感じなのかな。
四十過ぎてコスプレっぽいことして遊んだりもそうだし。
自分が「できない」って思っていることは
案外自分でそう思っているだけで
なんとかなるもんかもしんないねってことかな。
さすがにいきなり億万長者になりたい!っていうのは無理だけど、
億万長者になってやりたかったことっていうのを絞ってみれば
射程の範囲に入るんじゃないかなーとか。
とりあえず私は今夏もまたなにもしないってことになりそうなので
なんか夏っぽいことの爪痕を残してやろうと考え中です。
海行きたいよ〜。
てこてとで行ける方法を模索しますかね。
そんじゃまた。モイモイ。
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