かつて早稲田大学の講演会で核保有に言及した安倍晋三の首相就任に前後して、そのブレーンの一人と噂される中西輝政が編者となった『「日本核武装」の論点――国家存立の危機を生き抜く道』(PHP研究所, 2006年)が出版され、北朝鮮の核実験を奇貨とする中川政調会長や麻生外相による一連の「核保有(の検討)」発言が続き、日本の安全保障政策における核武装論が公に論じられる素地が生まれつつある。
アメリカの原爆投下を触媒として「核アレルギー」を慢性的に患い、やもすると核兵器に対して感傷的に反撥する世論を作り出してきたために、国家利益あるいは国家理性に沿った政策立案および遂行におけるひとつの手段としての核兵器の保有という戦略的観点が蔑ろにされてきたのではないかという認識、すなわち日本人の多くにとって核兵器が忌避されるべきものであると同時に、「あの戦争を終わらせてくれた」神聖なる「天佑」でもあったことが、戦後日本において今日まで核武装論を密教化させてきたといえる。したがって安倍首相周辺から聞こえる核武装論およびその議論・検討を主張する声は、首相が標榜する「戦後レジームからの脱却」の延長線上に位置づけられる。
核武装論を積極的に打ち出す論者に共通する認識は、日本を取り巻く国際環境を一瞥したとき、既存の核保有国であるアメリカ、中国、ロシアに加えて、新たに核実験を行い、事実上の核保有国となった北朝鮮に囲まれている地政学的な条件に基づいている。東アジア地域で偶発的であれ何らかの危機が生じたとき、核を保有する周辺諸国に比べて、日本の安全保障を確保する手段が限定されることに対する懸念から、その脆弱性を補う方策として核武装が現実味を帯びた形で認識される。
しかしながら、日本が核武装することによって得られるはずの安全を担保する抑止に信頼を寄せる論者が一方では、抑止の対象とされる北朝鮮(あるいは中国)に対するオリエンタリズム剥き出しの議論を躊躇いもなく展開していることは奇妙な点である。つまり核による抑止が機能するためには、抑止対象も自分たちと同じく「合理的」であることが前提となるにもかかわらず、メディアに流布している金正日および彼の体制は、日本に住む「われわれ」の常識が通用しない、言い換えれば「非合理的」な存在として描き出される。このようなイメージに基づいているために、北朝鮮との「交渉」や「対話」を促す動きに対して「弱腰」と非難を浴びせ、制裁を柱とする「圧力」が好んで叫ばれるわけだが、核抑止、あるいはそれに基づく核の平和が、ヘドリー・ブルが指摘するように「人間は『合理的に』行動するものだという仮定に途方もない責任を負わしている」(『国際社会論――アナーキカル・ソサイエティ』岩波書店, 2000年: 153頁)とすれば、北朝鮮を対象にした核武装論は、そもそも根底において破綻をきたしている。
「われわれ」にとって「全き他者」として北朝鮮が表象される限り、あるいはカール・シュミットに従えば(『政治的なものの概念』未来社, 1970年: 19頁)、抗争している「公敵」ではなく、単なる「私仇」に留まる限りにおいて、そこに核抑止が機能する上で必要な前提が共有される余地はない。さらに北朝鮮を「合理的」な主体、すなわち「交渉」や「対話」が可能な主体と認識するならば、偶発的な出来事による抑止の機能不全を内在的に有している核武装を選択するよりも、外交手段を十分に活用するほうがはるかにコストパフォーマンスにも優れている。
さらに核武装を選択することは、NPT体制の否定を意味し、これまでの北朝鮮の主張に正当性を与えるという結果をもたらす。核保有国と非保有国に不平等性を認める欠陥を抱えているNPT体制が根本的な改革を必要としていることは明らかだが、核の不拡散というNPT体制の掲げる大義名分、つまり理念として持っている権威を活用することもまた「抑止力」になりえる可能性を追求せず、北朝鮮と同じ土俵に上がって、無意味な軍拡競争を繰り広げることになってしまう。同じ土俵に上がるならば、北朝鮮をNPT体制という土俵に引き上げる試みが求められる。と同時に、明らかな不平等性を抱えたNPT体制の改革に取り組む姿勢も必要とされる。このことは、アメリカの核の傘からの離脱を意味し、それこそアメリカの従属国家という劣位からの「自立」につながる動きであり、核武装によってではない「戦後レジームからの脱却」のあり方ともなりえるだろう。
それゆえ安倍首相周辺から聞こえてくる核武装論は、日本を取り巻く地政学的状況を考慮していながら、その論理展開においてきわめて「国内向け」の色彩が強い。アメリカによって「去勢」されてしまったファルスを取り戻すことに「戦後レジームからの脱却」を重ね合わせ、それに執着することは、独り善がりの「癒し」行為の一種であり、結局のところ安全保障のジレンマを解消するどころか、固定化してしまうような「愚策」でしかない。
アメリカの原爆投下を触媒として「核アレルギー」を慢性的に患い、やもすると核兵器に対して感傷的に反撥する世論を作り出してきたために、国家利益あるいは国家理性に沿った政策立案および遂行におけるひとつの手段としての核兵器の保有という戦略的観点が蔑ろにされてきたのではないかという認識、すなわち日本人の多くにとって核兵器が忌避されるべきものであると同時に、「あの戦争を終わらせてくれた」神聖なる「天佑」でもあったことが、戦後日本において今日まで核武装論を密教化させてきたといえる。したがって安倍首相周辺から聞こえる核武装論およびその議論・検討を主張する声は、首相が標榜する「戦後レジームからの脱却」の延長線上に位置づけられる。
核武装論を積極的に打ち出す論者に共通する認識は、日本を取り巻く国際環境を一瞥したとき、既存の核保有国であるアメリカ、中国、ロシアに加えて、新たに核実験を行い、事実上の核保有国となった北朝鮮に囲まれている地政学的な条件に基づいている。東アジア地域で偶発的であれ何らかの危機が生じたとき、核を保有する周辺諸国に比べて、日本の安全保障を確保する手段が限定されることに対する懸念から、その脆弱性を補う方策として核武装が現実味を帯びた形で認識される。
しかしながら、日本が核武装することによって得られるはずの安全を担保する抑止に信頼を寄せる論者が一方では、抑止の対象とされる北朝鮮(あるいは中国)に対するオリエンタリズム剥き出しの議論を躊躇いもなく展開していることは奇妙な点である。つまり核による抑止が機能するためには、抑止対象も自分たちと同じく「合理的」であることが前提となるにもかかわらず、メディアに流布している金正日および彼の体制は、日本に住む「われわれ」の常識が通用しない、言い換えれば「非合理的」な存在として描き出される。このようなイメージに基づいているために、北朝鮮との「交渉」や「対話」を促す動きに対して「弱腰」と非難を浴びせ、制裁を柱とする「圧力」が好んで叫ばれるわけだが、核抑止、あるいはそれに基づく核の平和が、ヘドリー・ブルが指摘するように「人間は『合理的に』行動するものだという仮定に途方もない責任を負わしている」(『国際社会論――アナーキカル・ソサイエティ』岩波書店, 2000年: 153頁)とすれば、北朝鮮を対象にした核武装論は、そもそも根底において破綻をきたしている。
「われわれ」にとって「全き他者」として北朝鮮が表象される限り、あるいはカール・シュミットに従えば(『政治的なものの概念』未来社, 1970年: 19頁)、抗争している「公敵」ではなく、単なる「私仇」に留まる限りにおいて、そこに核抑止が機能する上で必要な前提が共有される余地はない。さらに北朝鮮を「合理的」な主体、すなわち「交渉」や「対話」が可能な主体と認識するならば、偶発的な出来事による抑止の機能不全を内在的に有している核武装を選択するよりも、外交手段を十分に活用するほうがはるかにコストパフォーマンスにも優れている。
さらに核武装を選択することは、NPT体制の否定を意味し、これまでの北朝鮮の主張に正当性を与えるという結果をもたらす。核保有国と非保有国に不平等性を認める欠陥を抱えているNPT体制が根本的な改革を必要としていることは明らかだが、核の不拡散というNPT体制の掲げる大義名分、つまり理念として持っている権威を活用することもまた「抑止力」になりえる可能性を追求せず、北朝鮮と同じ土俵に上がって、無意味な軍拡競争を繰り広げることになってしまう。同じ土俵に上がるならば、北朝鮮をNPT体制という土俵に引き上げる試みが求められる。と同時に、明らかな不平等性を抱えたNPT体制の改革に取り組む姿勢も必要とされる。このことは、アメリカの核の傘からの離脱を意味し、それこそアメリカの従属国家という劣位からの「自立」につながる動きであり、核武装によってではない「戦後レジームからの脱却」のあり方ともなりえるだろう。
それゆえ安倍首相周辺から聞こえてくる核武装論は、日本を取り巻く地政学的状況を考慮していながら、その論理展開においてきわめて「国内向け」の色彩が強い。アメリカによって「去勢」されてしまったファルスを取り戻すことに「戦後レジームからの脱却」を重ね合わせ、それに執着することは、独り善がりの「癒し」行為の一種であり、結局のところ安全保障のジレンマを解消するどころか、固定化してしまうような「愚策」でしかない。