ある理念や価値に基づいた外交について、ハンス・モーゲンソーやジョージ・ケナンといった現実主義者が常に懸念を表明してきたが、彼らが模範とした19世紀ヨーロッパで展開された古典外交の成立する素地が取り払われ、価値や理念を掲げる「新外交」が国家の行動準則として一般化している現代世界において、自由、民主主義、法の支配に基づく外交、「価値観外交」を表明した安倍首相の判断は時代の要請に沿ったものであるといえるだろう。
しかしながら、価値観や理念を前面に押し出す外交、すなわち「価値観外交」は、それが過剰になるとき、外交という行為そのものを無意味化してしまう。それは、ブッシュ政権のイラク政策において典型的に現出したように、正しいと自らが信じる理念や価値自体を相対化してみる視点がなくしたとき、「価値観外交」は、他者の存在を不可視化し、自国の理念を押し付ける偽善的な色彩を帯び始める。その意味で、村田晃嗣が論じるように、「価値観外交」はその扱いにおいてかなりの慎慮が求められる高度な国政術(statecraft)でもある(「正論:諸刃の剣としての『価値観外交』」『産経新聞』9月25日)。
「価値観外交」に懐疑的な現実主義者が念頭に置くのは、「じっさい国際社会について考えるとき、まずなによりも重要な事実は、そこにいくつもの常識がある」点である(高坂正堯『国際政治――恐怖と希望』中央公論社, 1966年: 19頁、強調原文)。国内領域における中央政府に類するような権威が存在しない国際領域では、理念や価値に基づく正義よりも、まず秩序の維持が優先される。言い換えれば、「価値観外交」は秩序破壊的であり、それこそ17世紀の30年戦争の惨禍から学んだ教訓、つまり単一の常識/正義ではなく、複数の常識/正義の並存を是認する主権国家体系の存在理由を覆してしまう可能性を孕んでいる。
複数の常識あるいは正義という事実を前にしたとき、互いの常識や正義を実現することだけでは、国家間の関係は「戦争状態」から一歩も抜け出せない状態が続く。したがって戦争状態、つまり複数の常識/正義の並存状態を解消するために、単一の常識/正義、あるいは世界政府や世界連邦といった平和構想が提起されてきた。しかし、現実の歴史は、英国学派の論者が主張するように、完全な戦争状態でもなく、また世界政府を樹立することもなく、複数の常識/正義の並存状況下での規則や制度を整えていったのである。こうした制度のひとつが、対立する国家間の利害を調整し、均衡させる術として発達した外交であり、それゆえ外交には国家間で交わされる対話の過程としての側面がある。
外交を執り行う主体であるところの主権国家がいかなる基準に沿って対外政策の方針を定めるのかという点に関して、国家とは「力の体系であり、利益の体系であり、価値の体系である」という高坂正堯の言葉を手がかりにするならば(『国際政治』: 19頁)、力と利益と価値を相互均衡的に混交させる形で、対外政策を作り上げることが求められる。別言すれば、この3つの要素のいずれかが突出したり、欠けた場合、つまり力に全面的に依存したり、利益追求に終始したり、自国の価値を他国に強要するような場合、その外交は対話でなく、独話となってしまう。力と利益と価値の均衡が重要であることは、近年のアメリカ外交を考えてみても明らかだろう。世界の半分を占める圧倒的な軍事力を有し、また市場経済や民主主義という崇高な理念を掲げながらも、世界各地で反米的機運を払拭できない理由の一端は、力と価値が突出する一方で、冷徹な計算を要する利益の側面が軽視されている点にあるともいえる。
さらに「力・利益・価値」の観点を敷衍すれば、現実主義者たちが描写する、3要素の絶妙なバランスの上に成立する(古典)外交の世界が、近代的人間(男性)に基づくものである意味で、現実主義とは「男の国際政治」を体現するものであることが見えてくる。それは、ダナ・ハラウェイの著書『猿と女とサイボーグ――自然の再発明』(青土社, 2000年)が示唆するように、力に頼る外交は、猿/動物の行動論理と変わらず、利益だけを追求する姿勢は、人間的な感情に欠けたサイボーグ/機械のような冷たさを感じさせ、そして過剰に価値を振りかざすことは情緒不安定という女の特質を想起させる。したがって、(古典)外交を行うために求められる資質を備えているのは「男=人間」であるというジェンダー秩序が確立される。
外交のジェンダー的位相を考慮したとき、「外交における『男らしさ』は美徳なのか――アメリカで沸き起こるブッシュ礼賛と懐疑」と題する記事で古森義久が取り上げているハービー・マンスフィールドの著書『男らしさ』をめぐる論争は、男の領分として外交を位置づけ、その権威を再主張する動きとみることができる。しかし、論争自体が「戦う男/平和な女」という旧態依然のジェンダー秩序に基づく構図から抜け出していないことや、回帰すべき(古典)外交という理想が成り立たない歴史的趨勢に対して鈍感であることは、古森のバイアスのかかった整理に起因する可能性があるとしても、ブッシュ政権に「男らしさ」を見出す過ちを犯すことになる。シンシア・ウェーバーが指摘するように、ポスト・ファルス時代にある現代世界では、マンスフィールドが掲げる「男らしさ」の特徴は、ファルスを取り戻すための力への傾斜をもたらす(Faking It: U.S. Hegemony in a "Post-Phallic" Era, University of Minnesota Press, 1999)。ブッシュ政権、あるいは安倍政権が「毅然」というマッチョな態度をアピールしようとすればするほど、その「男らしさ」は、現実主義者たちが描く(古典)外交を担う指導者像からかけ離れたものになる。
ファルスあるいは力への執着がポスト・ファルス時代の外交の特質であるとすれば、そこで想定される「男らしさ」は、「人間」ではなく、「動物=オス」に特有の野蛮さを肯定するものであり、さらにその野蛮さを隠すために、価値観を声高に主張することで、本来忌避すべき「女らしさ」を内面化してしまうパラドクスに陥る。力と価値観(情念)からなる「男らしい」外交は、近代的産物である国家、そして外交の基準となる国家利益や国家理性とは原理的にそぐわない粗野な観念だといえるだろう。
しかしながら、価値観や理念を前面に押し出す外交、すなわち「価値観外交」は、それが過剰になるとき、外交という行為そのものを無意味化してしまう。それは、ブッシュ政権のイラク政策において典型的に現出したように、正しいと自らが信じる理念や価値自体を相対化してみる視点がなくしたとき、「価値観外交」は、他者の存在を不可視化し、自国の理念を押し付ける偽善的な色彩を帯び始める。その意味で、村田晃嗣が論じるように、「価値観外交」はその扱いにおいてかなりの慎慮が求められる高度な国政術(statecraft)でもある(「正論:諸刃の剣としての『価値観外交』」『産経新聞』9月25日)。
「価値観外交」に懐疑的な現実主義者が念頭に置くのは、「じっさい国際社会について考えるとき、まずなによりも重要な事実は、そこにいくつもの常識がある」点である(高坂正堯『国際政治――恐怖と希望』中央公論社, 1966年: 19頁、強調原文)。国内領域における中央政府に類するような権威が存在しない国際領域では、理念や価値に基づく正義よりも、まず秩序の維持が優先される。言い換えれば、「価値観外交」は秩序破壊的であり、それこそ17世紀の30年戦争の惨禍から学んだ教訓、つまり単一の常識/正義ではなく、複数の常識/正義の並存を是認する主権国家体系の存在理由を覆してしまう可能性を孕んでいる。
複数の常識あるいは正義という事実を前にしたとき、互いの常識や正義を実現することだけでは、国家間の関係は「戦争状態」から一歩も抜け出せない状態が続く。したがって戦争状態、つまり複数の常識/正義の並存状態を解消するために、単一の常識/正義、あるいは世界政府や世界連邦といった平和構想が提起されてきた。しかし、現実の歴史は、英国学派の論者が主張するように、完全な戦争状態でもなく、また世界政府を樹立することもなく、複数の常識/正義の並存状況下での規則や制度を整えていったのである。こうした制度のひとつが、対立する国家間の利害を調整し、均衡させる術として発達した外交であり、それゆえ外交には国家間で交わされる対話の過程としての側面がある。
外交を執り行う主体であるところの主権国家がいかなる基準に沿って対外政策の方針を定めるのかという点に関して、国家とは「力の体系であり、利益の体系であり、価値の体系である」という高坂正堯の言葉を手がかりにするならば(『国際政治』: 19頁)、力と利益と価値を相互均衡的に混交させる形で、対外政策を作り上げることが求められる。別言すれば、この3つの要素のいずれかが突出したり、欠けた場合、つまり力に全面的に依存したり、利益追求に終始したり、自国の価値を他国に強要するような場合、その外交は対話でなく、独話となってしまう。力と利益と価値の均衡が重要であることは、近年のアメリカ外交を考えてみても明らかだろう。世界の半分を占める圧倒的な軍事力を有し、また市場経済や民主主義という崇高な理念を掲げながらも、世界各地で反米的機運を払拭できない理由の一端は、力と価値が突出する一方で、冷徹な計算を要する利益の側面が軽視されている点にあるともいえる。
さらに「力・利益・価値」の観点を敷衍すれば、現実主義者たちが描写する、3要素の絶妙なバランスの上に成立する(古典)外交の世界が、近代的人間(男性)に基づくものである意味で、現実主義とは「男の国際政治」を体現するものであることが見えてくる。それは、ダナ・ハラウェイの著書『猿と女とサイボーグ――自然の再発明』(青土社, 2000年)が示唆するように、力に頼る外交は、猿/動物の行動論理と変わらず、利益だけを追求する姿勢は、人間的な感情に欠けたサイボーグ/機械のような冷たさを感じさせ、そして過剰に価値を振りかざすことは情緒不安定という女の特質を想起させる。したがって、(古典)外交を行うために求められる資質を備えているのは「男=人間」であるというジェンダー秩序が確立される。
外交のジェンダー的位相を考慮したとき、「外交における『男らしさ』は美徳なのか――アメリカで沸き起こるブッシュ礼賛と懐疑」と題する記事で古森義久が取り上げているハービー・マンスフィールドの著書『男らしさ』をめぐる論争は、男の領分として外交を位置づけ、その権威を再主張する動きとみることができる。しかし、論争自体が「戦う男/平和な女」という旧態依然のジェンダー秩序に基づく構図から抜け出していないことや、回帰すべき(古典)外交という理想が成り立たない歴史的趨勢に対して鈍感であることは、古森のバイアスのかかった整理に起因する可能性があるとしても、ブッシュ政権に「男らしさ」を見出す過ちを犯すことになる。シンシア・ウェーバーが指摘するように、ポスト・ファルス時代にある現代世界では、マンスフィールドが掲げる「男らしさ」の特徴は、ファルスを取り戻すための力への傾斜をもたらす(Faking It: U.S. Hegemony in a "Post-Phallic" Era, University of Minnesota Press, 1999)。ブッシュ政権、あるいは安倍政権が「毅然」というマッチョな態度をアピールしようとすればするほど、その「男らしさ」は、現実主義者たちが描く(古典)外交を担う指導者像からかけ離れたものになる。
ファルスあるいは力への執着がポスト・ファルス時代の外交の特質であるとすれば、そこで想定される「男らしさ」は、「人間」ではなく、「動物=オス」に特有の野蛮さを肯定するものであり、さらにその野蛮さを隠すために、価値観を声高に主張することで、本来忌避すべき「女らしさ」を内面化してしまうパラドクスに陥る。力と価値観(情念)からなる「男らしい」外交は、近代的産物である国家、そして外交の基準となる国家利益や国家理性とは原理的にそぐわない粗野な観念だといえるだろう。