constructive monologue

エゴイストの言説遊戯

冷戦のアジア的位相

2006年10月19日 | knihovna
下斗米伸夫『モスクワと金日成――冷戦の中の北朝鮮 1945-1961年』(岩波書店, 2006年)

北朝鮮の核実験をめぐる情勢がメディアを賑わせている昨今、共和制を布いている国家では、(アゼルバイジャンを除けば)異例の世襲国家という特異な体制を有する北朝鮮の来歴を改めて省みておく必要があるだろう。「アジアでは冷戦は続いている」という言説が一定の説得力を持って流通していることを考慮すれば、そして北朝鮮の国家建設過程が冷戦構造の定着過程とパラレルな関係にあったことに注意を向けたとき、現代東アジアの国際関係を規定してきた/している冷戦とは何かという問いを発することは重要な意味を持つ。

近年、米ソ冷戦およびヨーロッパ冷戦構造が瓦解したことを受けて、冷戦史研究は活況を呈している。いわゆる「新しい冷戦史」と呼ばれる潮流である。その特色を整理すれば、第1に、旧ソ連圏の公文書が解禁されたことによって、鉄のカーテンの向こう側からみた冷戦、そしてその内部で繰り広げられてきた同盟内政治の考察が可能になった点が指摘できる。第2に、冷戦の多層性あるいは多元性が認識されるようになり、米ソ冷戦の従属変数として、各地域の冷戦を捉えるのではなく、その相互作用を射程に含めるようになっている。第3に、冷戦を政治や軍事戦略領域に収まりきらない、言い換えれば社会生活、あるいは人々の観念や信条に強い影響を与えた複合事象と見る視点が登場してきた。

前著『アジア冷戦史』(中央公論新社, 2004年)と同様に、本書も、以上のような「新しい冷戦史」という潮流を背景にしていることは明らかであり、先の「新しい冷戦史」研究の特色に当てはめるならば、第1と第2の特色を持った研究といえる。つまり、主に解禁されたロシア語史料に基づいて、北朝鮮の建国から、朝鮮戦争を経て、金日成の権力基盤が確立されるまでを、とくにソ連および中国との愛憎半ばの複雑な外交関係を中心に考察している点は、東側同盟内部の政治過程に関するひとつの事例研究となっている。また、北朝鮮が第二次大戦後に建国されたポスト植民地国家であることが示すように、すでに国民国家建設が完了したヨーロッパを舞台にした冷戦とはまったく様相が異なる対立構図、つまり植民地からの独立およびその後の国家/国民建設という内政が容易に国際環境と結びつき、冷戦が熱戦に転化する可能性をつねに孕んだ戦後アジアの「冷戦」を考察対象にしていることである。そしてこの点は、アジアの戦後史を「冷戦」の視座だけで捉えることはどれくらい妥当性を持っているのかという問いにつながっていく。

本書の内容から抽出される興味深い論点をいくつか指摘するならば、第1に、冷戦の起源およびその展開をめぐる通説に対する修正が提起されている点である。すなわち解放ヨーロッパにいかなる秩序を築き上げるかという点をめぐる米ソの戦後構想認識のズレに端を発している点で、あくまで冷戦の主戦場はヨーロッパであり、そのヨーロッパの分断状況が固定化していくに伴い、戦線がグローバルに拡大していったとする従来の説に基づくならば、アジア地域における冷戦は、ヨーロッパ冷戦に先行するものではなく、典型的には1950年の朝鮮戦争勃発によって、冷戦構造が波及したとされる。しかし、本書「はじめに」および『アジア冷戦史』では、「アジアでこそ冷戦の対立が先駆的に生じ…、中でも朝鮮半島はその中心であった」(viii頁)という見解が提示される。そこには、米ソ中心あるいはヨーロッパ中心史観が支配的な既存の冷戦史研究に対する批判という意味合いが込められ、冷戦対立の客体としてではなく、むしろ冷戦を積極的・主体的に構成していた点を強調する。

アジア地域が冷戦の客体ではないという視点を敷衍すれば、米ソの同盟諸国もまた冷戦の客体ではなく、反対に冷戦の拡大・深化・長期化をもたらしていたのではないかというトニー・スミスの周辺国中心主義(pericentrism)の議論と通底する("New Bottles for New Wine: A Pericentric Framework for the Study of the Cold War", Diplomatic History, vol. 24, no. 4, 2000)。 なかなか同意を示さないスターリンに対し、金日成が再三にわたり勝算の見込みを伝え、説得を試みた朝鮮戦争の開戦過程に見られるように、アジア地域の対立において、客体にとどまろうとしていたソ連を北朝鮮が引きずり込んだともいえる。ジョン・ルイス・ギャディスが指摘するように(『歴史としての冷戦――力と平和の追求』慶応義塾大学出版会, 2004年)、ヨーロッパ地域でのアメリカのように、アジア地域においてはソ連が「招かれた帝国 Empire by Invitation」の役割を演じたのである。

また米ソによるグローバルな冷戦の終焉、および米中によるアジア地域冷戦構造が変容したにもかかわらず、「アジアでは冷戦は終わっていない」という言説が説得力を持って繰り返されるのは、冷戦の力学が一方向の単純なものではなく、外来のものであった冷戦が土着化することによって、独自の展開を辿っていった複合現象であることを示している。それは、1956年のスターリン批判が北朝鮮に及ぼした影響からも明らかであり、本書5章で論じられているとおりである。また米中和解、そして米ソ間のデタントが成立した1970年代によってアジア地域の冷戦の(部分的)終焉が、即座に共産党体制の体制転換をもたらさなかったことは、冷戦構造の解体と体制転換がセットになって進んだヨーロッパとの差異を浮かび上がらせる。

第2に、北朝鮮とソ連および中国の同盟関係を「偽りの同盟」と把握する視点である。たしかに北朝鮮の建国過程においてソ連系および中国系朝鮮人が主導的な立場にあり、彼らを通してモスクワあるいは北京の意思が反映されていたとみれば、「傀儡国家」と形容することもできる。しかし、その後の展開が示すように、金日成は、全面的に中ソに従属するというよりむしろ、両国の対立状況を巧みに利用して、自らの権力基盤を固めていった。こうした自律性を確保することができた要因には、ソ連の戦後構想において具体的なアジア、とりわけ朝鮮半島政策が欠けていたことが指摘できる。地政学的重要性があったといえ、それほど死活的ではなかったことから、長期的な視野に基づかない、ある意味で場当たり的な朝鮮半島政策が、金日成をはじめとする国内勢力に「通訳政治」を通してソ連の政策意図を換骨奪胎するだけの空間を与えたといえるかもしれない。そして、それは、1956年のスターリン批判の衝撃を回避し、逆に八月宗派事件によって中国派やソ連派を一掃し、金日成体制を確実なものにすることを可能にした。

また「偽りの同盟」という視座は今日的意味合いも持っている。現在の北朝鮮をめぐる国際関係における主要アクターである六カ国協議参加国のなかで、中国とロシアはともに北朝鮮の「友好国」としての立場から一定の影響力を持っているとみなされているが、冷戦期の中ソと北朝鮮の関係を考慮に入れれば、両国の影響力には大きな限界があることになる。換言すれば、現在の北朝鮮の瀬戸際外交を考える上で、その外交論理が、中ソという大国を相手にした非対称的関係の中で培われ、展開されてきた点を念頭におく必要があることを意味している。この点は、なぜ北朝鮮がアメリカとの二国間交渉を執拗に要求するのかという疑問に対して、まさに圧倒的なまでに非対称的な米朝関係こそが北朝鮮にとって外交を展開する慣れ親しんできたフィールドであるというひとつの糸口を提供する。

第3に、アジアにおける冷戦が、国民国家間の権力政治およびイデオロギー対立に加えて、帝国の解体および共産化、そして脱植民地化の趨勢の中で、展開していったことは、戦後史を冷戦という概念で把握することがどこまで可能なのかという問いを提起する。つまり冷戦の多層性や多元性を強調することは、戦後史における冷戦の比重低下をもたらす。これは、戦後史と冷戦史がどの程度一致し、どの部分で乖離しているのか、あるいは「終わった/終わっていない」とされるのは冷戦なのか、戦後なのかという問題である。「交渉不可能性の相互認識に立った単独行動の応酬」という永井陽之助の定義に基づけば、「交渉の時代」を掲げたニクソン大統領の登場と訪中によって、冷戦を構成する要件が取り払われたとみなすことができる。その後に残ったのは、第二次大戦の帰結あるいはその置き土産であるポスト植民地主義の問題である。いわばアジアにおいて戦後は未完のまま残されている。奇しくも安倍首相が政権の主要課題として掲げた「戦後レジームからの脱却」が日本国内のそれ、占領体制を念頭に置いている点で内向きの言説であることは明らかだが、アジア地域に目を転じてみれば、脱却すべき戦後自体が形成途上にあり、目標として掲げられるべきは「戦後レジームの完成」となる。こうした「戦後」認識の乖離が、昨今の外交不在とされる日中韓の関係の背後に横たわっているのではないだろうか。
コメント (3)
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