constructive monologue

エゴイストの言説遊戯

「国家の逆機能」による男らしさの危機

2008年03月04日 | nazor
沖縄駐留米兵による暴行事件、そして海上自衛隊イージス艦「あたご」の衝突事故は、安全保障の対象であるはずの民間人が安全を提供するはずの軍隊(人)によって安全を剥奪されるという「国家の逆機能」の典型的な例であることは論を俟たない(土佐弘之『安全保障という逆説』青土社, 2003年: はじめに)。言い換えれば、これら二つの事件は国家が依拠し、その正当性を担保する国家安全保障の擬制を露にする意味で国家の存在を自明視している政策担当者や言論人にとってきわめて重大な問題を提起する。

それゆえ「国家の逆機能」の顕在化によって国家安全保障に対する根本的な疑念が喚起される事態を憂慮して、「国家の安全のために仕方のないこと」ないし「甘受しなくてはならない犠牲」などの言説を用いて、「国家の逆機能」を付随的な問題として再措定する動きが生まれてくる。このような国家の戦略は、「国家の逆機能」と日常的に向き合っている人々や地域から空間的に離れている場所では、当事者性が希薄なことも手伝って一定の妥当性を持って受容される傾向が時間の経過とともに強まっていく。すなわち地域エゴあるいは事件の政治利用といった批判によって事件は一部の利害に基づいた私的な事案に矮小化される。その極北的な例が、兵士による性暴力事件が起こるたびに聞かれる「被害者にも非がある」といったセカンドレイプ的言説であろう(たとえば「花岡信昭の政論探求:『反基地』勢力が叫ぶいかがわしさ」『産経新聞』2月12日)。被害者の所作を問題化したり、「親のしつけ」などの教育論に論点をすり替えることによって、批判の矛先を国家安全保障をめぐる問題圏から逸らし、その正当性や崇高さが傷つくことを回避しようとする。

さらにセカンドレイプ的言説に内在する潜在的な欲望は、軍隊(人)と売買春/レイプをめぐる問題に目を向けることによってより明確となる。シンシア・エンローによれば、軍隊(人)にとって売買春とレイプは対照的な意味合いを持っている。つまり売買春は一種の娯楽として軍隊の日常に組み込まれた伝統となっている面が大きい一方、レイプは恐怖を与えるショッキングな事件として把握されている(『策略――女性を軍事化する国際政治』岩波書店, 2006年: 第3章)。しかしこの対照性は社会的に構成されたものであり、個別具体的な文脈に応じてレイプと売買春の区別は変化する。つまり「政策決定者は、しばしば、軍事化されたレイプと軍事化された売買春を、まるで文化的マジノ線で隔てられているかのように扱う。その際、この分割線は、文化的現実というよりもむしろ、レイプに神経をとがらせる政策決定者たち自身がつくりだした考えや実践の防御壁によって引かれている。…そのおかげで、彼らは、レイプと売買春ではあたかも、その加害者と被害者がまったく異なるかのように議論することができるのである。実際には、軍隊の政策決定者の世界において、軍当局者たちはレイプと売買春をまとめて考えている」(66頁、強調原文)。

この可視化された対照性と深層意識における一体性というレイプと売買春をめぐる両義性は、セカンドレイプ的言説を展開する人々の思考において重要な役割を果たしていると思われる。加害者が被害者との合意のない状況で一方的な性的暴行に及ぶレイプは、彼らの抱く(平時における)規範的な男らしさとは相容れず(反対に戦時であればレイプが男らしさの証左に転換される)、それゆえに国家やその安全保障を担う軍隊、そしてそれらに同一化させてきた彼ら自身の存在理由に対する疑念を抱かせる。このアイデンティティー危機状況を克服するために、自身の立ち位置や思想を内省する困難な道よりも、危機状況の原因となった事件を規範的な男らしさの枠組みに合わせる形で再解釈する苦しみの少ない方法を選択する。すなわち彼らの枠組みに従えば、加害者と被害者の間に何らかの合意とみなすべきものが存在し、あるいは被害に遭った場所や時間の「非常識さ」に注意を向けることで、レイプにおける非対称性を緩和し、売買春における対称的な(と考える)合意/契約関係として事件を再構成する。またレイプではなく売買春の位相に事件を転移させることは、規範的な男らしさを救済するとともに、規範的男らしさから派生する女性像から逸脱した存在として被害者=他者を描き出す。こうして感情移入できない被害者に対してセカンドレイプ的言説を投げつけることに何の違和感も覚えない、むしろ危機に瀕している国家を助けているという満足感を覚える構図が出来上がる。

「国家安全保障とは、たんに国家と市民を外敵から守るというだけでなく、というより、おそらく何よりもまず、社会秩序の維持を意味するようになる。そしてさらに、その社会秩序には、軍事主義のイデオロギー的側面を強化するようなジェンダーの定義が含まれる」(エンロー: 56頁)点を考慮に入れたとき、国家利益や国家安全保障を掲げ、「政争の具にするな」という掛け声で事件の政治利用を牽制する動きは、その主張の普遍主義的・公共的な体裁にもかかわらず、きわめて私的な利害・感情に基づいている点で著しい政治性を帯びている。性暴力の問題を私的領域に押し込め、非政治化することは、国家安全保障を公的/政治的な領域において特権化することと表裏一体の関係にある。「個人的なことは政治的である」に象徴されるフェミニズム/ジェンダーの視座が国家安全保障を論じるときに意義を持つのは性暴力をめぐる言説政治のレベルにおいてであり、いわば国家安全保障の問題点がもっとも顕著な形で現れてくるからである。

再び土佐の議論を引くならば、「『我々は国民の安全のため全力を尽くしているのだ』といった反論が当然予想されるが、そこには、国民の代表として語る過程で生じるズレ、つまり代表-表象過程におけるズレについて重大な見落としがある。一言で言えば、いつのまにか国民の利益、国益という用語で自己の利益を語っていることに自ら気がつかなくなっているということである」(10頁)。国家が過度に人格化される一方でその国家を構成する人々を非人格化する論理は、主体と客体が一致しているはずの国家安全保障の空洞化を推し進める。守るべき客体を喪失した主体(=国家)に自己を盲目的なまでに同一化し、他方で自らもまた他者化される可能性が常に孕まれていることをまったく想像できない心性はグロテスクなまでに倒錯的である。
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