constructive monologue

エゴイストの言説遊戯

間主観未満の主観

2005年04月18日 | knihovna
桐野夏生『グロテスク』(文藝春秋, 2003年)

数年前にメディアを賑わした「東電OL殺人事件」を素材とした小説。

ストーリーは、主人公である「わたし」による語りによって展開する。そのため、読者は最初この「わたし」の語りあるいは眼差しを通して、彼女の妹ユリコと、高校時代の同級生和恵が相次いで娼婦とて生き、絞殺されたのか、そのプロセスを追うことになる。つまり「わたし」は、完璧なまでの美貌を持つユリコや、滑稽なまでに高校生活に「同化」しようとする和恵の姿に「グロテスク」を見出し、その印象を読者と共有する方法として、彼女たちの「声」によって語らせる。いわば、「わたし」が抱く主観が作りあげた世界に客観性を付与する行為として、別の主観を織り込みながら、間主観性という名の客観性を構築するプロセスと捉えることができる。

しかし、「わたし」の語りの合間に挿入される、ユリコの「手記」、「犯人」チャンの「上申書」、和恵の「日記」、関係者の手紙などは、「わたし」の語りの客観性を担保するよいうよりもむしろ、それに対して疑念を抱かせる役割を担っている。「わたし」が、ユリコや和恵の「グロテスク」さを強調すればするほど、別言すれば、「異常性」を際立たせることによって、得られるはずの「普通さ」や「正常性」という装いは、「わたし」から剥ぎ取られていく。

間主観性を成立させるべき主観、あるいは事実を補強するための「証言」は、「わたし」の存立基盤そのものを掘り崩してしまい、最終的に、「わたし」もユリコや和恵が立った場所に居場所を見出すことになるエンディングが用意される。ここにおいて、「グロテスク」という形容が「わたし」という語り手をも包摂するものであること、それ以上に「わたし」自身の語りによって構成される小説自体が一種の「グロテスク」性を醸し出していると見ることができるのではないだろうか。

・余談
作中にある「リズミカル体操」の場面を読んでいたとき、そのアンバランスで整合性のない動きという記述から、メロディーとして頭の中に流れてきたのは、安室奈美恵「WANT ME WANT ME」。
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