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constructive monologue

エゴイストの言説遊戯

去り行く「改革の季節」

2005年09月18日 | nazor
先の総選挙惨敗という結果を受けて、「若手」の前原誠司をトップに再起を図ろうとする民主党にとっては、「覚せい剤:愛知7区の元衆院議員、小林容疑者と秘書ら逮捕」(『毎日新聞』)はタイミングが悪いニュースで、今後の行末を暗示しているかのようだ。

ところで、自民党の圧勝に終わった今回の総選挙を、同じく300議席を獲得した1986年の衆参同日選と比較参照する論調が見られる(選挙結果とは別の文脈だが、吉崎達彦『1985年』新潮社, 2005年の問題関心も同じだろう)。当時の中曽根の言葉に倣えば、今回自民党は「無党派層にウィングを広げてみた」ことで、今回の圧勝を手に入れたといえる。

その小泉政権が進める構造改革路線の源流を辿れば、1980年代前半の鈴木・中曽根政権期の行革、いわゆる臨調路線に行き着く。その当時の状況を考察した大嶽秀夫『自由主義的改革の時代――1980年代前期の日本政治』(中央公論社, 1994年)を一読すれば、国鉄の民営化や、教育改革など多くの分野で、また中曽根のテレビを利用した世論対策、官僚や労組を既得権益層と位置づける対立軸の設定など、現在と通底する議論に遭遇する。換言すれば、ここ20年近くほとんど同じ争点をめぐって、歴代政権が改革を叫んできたわけである。

この背景には、また大嶽秀夫が別の著書で指摘するように、戦後日本政治の対立軸であった防衛問題をめぐって、自民党と民主党の政策距離がほとんど無きに等しいまでに縮小したことがある(『日本政治の対立軸――93年以降の政界再編の中で』中央公論新社, 1999年。9条改正論者の前原の代表就任によってこの傾向はさらに加速するのはあきらかだろう)。その結果、政策上の争点は、経済政策の手法に移り、それが1980年代以降の日本政治の基調となっている。そこでは、行き詰まりを見せていた戦後のケインズ型福祉国家を、いかにして世界標準となった市場の論理に依拠した新自由主義に沿った形に変えていくかが重要な政策課題となり、そのために、官僚の汚職問題の浮上も作用して、従来の国家-社会関係を規定してきた「鉄の三角形」の解体が叫ばれた。

しかしこうした「改革」の季節は、山口二郎の表現を借りれば「改革のせり上がり現象」に嵌り、政治改革は選挙制度改革へ、行政改革は省庁再編へというように、その内実は矮小化され、その時々の国民の不満に対するガス抜きとして機能してきたにすぎない側面がある(『戦後政治の崩壊――デモクラシーはどこへゆくか』岩波書店, 2004年)。官僚や労組など既得権益層を批判する政治家が国民の期待と支持を集めつつも、その多くは一過性に終わり、改革という課題だけが残されるというパターンが繰り返されてきた。この状況下で、政治手法はメディアを意識したポピュリズム的色彩を強めていき、それが「風」や「ブーム」と呼ばれる投票行動を反照的に引き起こしていった(大嶽秀夫『日本型ポピュリズム――政治への期待と幻滅』中央公論新社, 2003年)。

小泉首相にしても、総裁選から2001年参院選にかけてのブームを経て、道路公団の民営化問題に見られるように、多くの政策課題を「丸投げ」する対応から、支持率を下げていき、このパターンに陥りかけていた。それまでの経験則から言えば、そのまま退場する道筋に対して、郵政という既得権益の打破を旗印に掲げることで、再び「改革」気運を高めることに成功した。すなわち一種のパターン破りによって、20年近く日本政治を規定してきた「改革の季節」が転換する萌芽が生じてきたともいえる。

しかも民主党代表となった前原も労組脱却を掲げていることを考えたとき、今後、自民党と民主党の二大政党制による政策論争において、これまでのように戦後日本社会の基盤であった官僚組織や労組を「抵抗勢力」として批判することによって、自らの支持を獲得するという「劇場型」手法が後景に退いていくことが期待されるところである。

おそらく小泉首相が、総裁任期の延長や消費税の引き上げに否定的な態度を見せているのは、86年後の中曽根政権が辿った道を意識していると思われる。無党派層に拡大したウィングをどの程度まで自民党の支持層としてつなぎ止めることができるかがポスト小泉後の自民党政権にとっての課題であり、そのためにこれまでのような改革ポーズのみに終始し、その内実は「丸投げ」に近いようでは期待と幻滅のサイクルを断ち切ることにはならないだろう。いわば一度、国民の改革への期待を裏切っている小泉首相が「改革者」として歴史に名を残すか、それともポピュリスト政治家にすぎなかったと悪しき例となるのかという点で、「9.11」は、同時多発テロとは別に(日本)史的な意味が刻まれる可能性を秘めた日付でもある。

国民投票の味

2005年09月12日 | nazor
小泉自民党圧勝 「改革」選挙の弾みと怖さ(『朝日新聞』)
自民圧勝 極めて重い首相の責務 官邸主導で構造改革を貫け(『産経新聞』)
圧勝・小泉自民党は日本を変えられるか(『日本経済新聞』)
自民圧勝 国民の期待は「郵政」だけでない(『毎日新聞』)
自民圧勝 郵政以外の課題にも取り組め(『読売新聞』)

現在の選挙制度では、「『判官』より『勝ち馬』心理」(『毎日新聞』9月10日)が作用することが典型的に示された自民党の圧勝。主要全国紙の社説は、一様に「圧勝」が小泉政権に対する「白紙委任」ではないことを指摘し、特別国会での郵政民営化法案成立後の動向に視点を定めている。

小泉首相のライフワークである郵政民営化が達成された後、総裁任期が切れる来年9月までレームダック状態に嵌まってしまわれては困るという心理がその背景に見出させるわけだが、今回の総選挙が郵政民営化の是非に一元化した「国民投票」的性格の強いことを考えたとき、郵政民営化法案成立後に改めて解散総選挙を行い、「ポスト郵政政治」の方向性に対する国民の声を聞くという選択肢もありえるだろう。

とはいえ、短期間に総選挙を行うという経済的事情を無視したこの選択肢は先験的に議論の対象外であり、それよりもむしろ小泉首相の自制心に期待をかけることが「大人の対応」なのだろう。しかし、今回当選を果たした自民党議員に対して期待されることは郵政民営化法案の成立、その一点だけであるといっても過言ではない。そうであれば、特別国会後の政治日程における彼らの行動に正当性を付与する意味合いを持つとともに、国民投票的性格を脱色した「政権選択」という本来的に期待されている役割を帯びた総選挙を経ることによって、「白紙委任ではない」という留保を取り除くことができることにもなる。

今回の選挙自体に視点を移せば、総選挙を単一争点に特化した擬似国民投票として利用する政治手法の有効性が図らずも証明されたことは、今後国民投票制度の導入を含めた直接民主主義的要素を代議制議会政治とどのように接合していくかという近代民主主義に内在するディレンマの存在を明らかにした。すでに地方政治レベルでは、原発立地問題などに見られる住民投票で顕在化している問題であるが、政治空間の最終審級である国家レベルという外部の存在によって、地方におけるディレンマは根本的に解決されなくとも、当該地域の政治空間から取り除かれるが、国家を超えた地球/世界というもうひとつ上の審級を設定することが実態的に困難である現在の政治空間の在り様に目を向けたとき、国民投票的性格の選挙は、問題の解決になるよりも、対立軸の先鋭化をもたらす可能性を孕んでいる。それは合意/妥協を基調とする政治から差異を際立たせる「対決の政治」へと政治の変容を意味することにもなるだろう。

カトリーナの活用法

2005年09月12日 | nazor
米ハリケーン:ブッシュ政権の関係会社、復興事業を受注(『毎日新聞』)
「カトリーナ」復興事業、ブッシュ政権関係企業の受注進む(ロイター通信)

選挙報道一色の紙面において、『毎日』国際面で「災害資本主義」の実情が報じられている。カトリーナは、ブッシュ政権への非難と支持率低下を呼び起こす一方で、その懐を潤す効果をもたらしたようだ。復興ビジネスのため、あえて治水関連予算を削減したのではないかという陰謀論めいた邪推を掻き立てるのに十分なニュースでもある。

名誉白人の眼差し

2005年09月06日 | nazor
カトリーナの襲来から1週間が経ち、天災よりも人災の側面が色濃くなりつつある。とくに、アフリカ系を中心とする貧困層に集中する被害と略奪行為によって、アメリカ社会の古層ともいうべき人種問題が注目を集めている。

政権は、今回のハリケーン被害を「人種をめぐる政治」として捉える見方を強く牽制している(「黒人差別批判にライス長官反論 米ハリケーン被害」『産経新聞』)わけだが、そこに、いわゆる「ポリティカル・コレクトネス(PC)」という「配慮の政治」が介在している。

こうした報道がなされる状況下で、『産経新聞』論説委員である古森義久は、署名記事「緯度経度:被災で露呈する人種の違い」(『産経』9月4日朝刊/全文はSAFETY JAPAN 2005連載コラムに転載)で、保守系米国紙の論評を引用する形で、この封印しておきたい人種問題を取り上げている。古森の「本音」を論じる姿勢は評価すべきだが、しかし、その論理展開は、きわめてオリエンタリズムとレイシズムが入り混じったものである。

略奪行為を行っているのは、アフリカ系である点に着目し、「はたして白人やアジア系だったら、略奪が起こっただろうか」という問いを提起しているが、ここには「アフリカ系は、緊急時に自制心を亡くしてしまう思慮に欠けた人種である」という先験的な前提を看取することは容易い。しかし、ニューオーリンズにおけるアフリカ系住民および貧困層の割合を考えれば、テレビ報道を通じて伝えられる「アフリカ系住民による略奪行為」は、相関関係として成り立つとしても、そこに因果関係を求めることは不可能であり、それを見出すためには、かつての優生学あるいはアパルトヘイトに見られるような人種を本質主義的に理解する思考が必要となる。すなわち古森の言説は、古典的とも言えるこうした思考パターンに忠実に従った「天然記念物」級といえるだろう。

普段から共和党系の『ウォールストリート・ジャーナル』の論説を引用して、アメリカとの一体性および中国脅威論の「伝達ベルト」あるいは「拡声器」の役割を果たしている古森の目に映る世界は、限りなくキリスト教右派のそれと同化し、したがってアフリカ系住民に対する眼差しは、植民地主義的な色彩に染められている。そしてこうした眼差しは、容易に中国や朝鮮に向けられることは、これまでの古森の議論からも明らかである。

アメリカ社会が躊躇する争点に踏み込むことで、図らずも自らのレイシズムを公言してしまうという逆説的帰結をもたらしたのが今回の古森の署名記事であり、それを堂々と掲載する『産経新聞』は、ある意味で社会学的に「貴重な資料」の供給源となっている。

中間決算

2005年09月05日 | nazor
自公、過半数超す勢い…読売調査(『読売新聞』)
衆院選世論調査:自民党、単独過半数の勢い 中盤情勢(『毎日新聞』)
自民優勢、過半数の勢い 与党安定多数も 本社情勢調査(『朝日新聞』)
自民、単独過半数の勢い 衆院選情勢全国調査(共同通信)

投票日まで1週間を切り、報道各社が相次いで世論調査の結果を発表。解散直後の小泉戦略が功を奏した形で、自民党の単独過半数という予想。ただ、世論調査がどれだけ信用できるものなのかに関して、疑問が提起されるところである。『週刊新潮』「『主婦と老人』だけが答えたので『自公圧勝』になった選挙調査」や五十嵐仁の転成仁語「小泉支持の高さはどのような『世論』を反映しているのか」(8月23日)で指摘されるように、テレポリティクスといわれるような劇場型選挙に日常的に接する可能性が高い層の選好が反映した結果であるともいえなくもない。

その一方で、政権選択を掲げる民主党も、自民党ほどの基礎体力に欠けている点で、戦略的に破綻している。つまり、挑戦する立場にある民主党こそが、争点を絞り、一点突破で政権与党を追い詰める戦略を採るべきであるにもかかわらず、小泉首相に先手を打たれ、これまでの支持基盤の防衛に徹しなくてはならない状況に陥ってしまった印象がある。

また、郵政民営化反対派にとっても、自民単独過半数という状況は予想外だといえる。自公で過半数に届かず、「郵政民営化原理主義」の小泉首相が退陣するシナリオが、国民新党や新党日本にとって最適であるはずだが、そうした目論見もまた崩壊しかけている。ただし反対派のシナリオは、いわばこれまでの政治構造を温存させてしまう意味で現状維持的であることを考えると、シナリオどおりの結果に終われば、後世の歴史家によって、今回の選挙は、いわれるほど重大な転換点ではなく、脚注扱いになる可能性もある。

カトリーナの報復

2005年09月03日 | nazor
『朝日』「天声人語」と『毎日』「余禄」が米国のハリケーン被害について述べるにあたり、話の枕として、奇しくもラフカディオ・ハーンを引用。人間の発想は案外に貧困だという証左かもしれない。

ハリケーン被害およびその余波が明らかになるにつれて、「収まらぬ略奪、「暴動怖い」恐怖増幅…米ルイジアナ」(『読売新聞』)、「ハリケーン ニューオーリンズで犯罪多発 無秩序、まるで戦場」(『産経新聞』)のように、あたかもアメリカの中に「破綻国家」が現出したかのような言説がメディアに乗って消費されている。それに呼応するように、ルイジアナ州のブランコ知事のように「戦時」的高揚感に酔いしれる非日常的環境が整えられつつある(「米ハリケーン:高まる弱者の死亡危機 武装集団には射殺も」『毎日新聞』)。

たしかにメディア報道が映し出す状況は、こうした印象を抱かせるものであり、またアメリカ社会を特徴付ける問題群に光を当てることにもなった。たとえば、保険で被害を補填できる富裕層が安全地帯にいち早く避難する一方で、自動車社会である米国においても、公共交通機関に頼るしかない貧困層は身動きの取れない状態に置かれるという、都市空間を貫く隔離線を図らずも浮き彫りにしたのが、今回のハリケーン被害だといえる。

社会的紐帯が弱まった都市秩序の微妙なバランスが自然現象によって寸断され、一種のアナーキー状態の到来に乗っかった形の略奪行為に対し、それを取り締まるはずの警察も、まずは自身のセキュリティ確保を優先してしまう心理状態も、公権力およびそれを背後で担保する暴力の正当性がきわめて脆弱な間主観性に基づいていることを示唆している。

そして機能不全に陥った警察に代わって投入された州兵にしても、イラク戦争に駆り出された結果、本来の任務である災害復興に十分な人員を割くことができないという皮肉な帰結をもたらしている。いわば「週末だけの素人」軍隊が「戦闘状況」のイラクへ送り出される一方で、熟練した正規兵が民間軍事会社に吸い寄せられる逆説的状況が、カトリーナの襲来によって顕在化した(イラク駐留の州兵部隊に関しては、NHKスペシャル「イラク最前線で何が起きていたか」を参照)。その意味で、イラクの内戦状況をニューオーリンズに重ね合わせる地理的想像力はグローバル化する世界を見つめる眼差しが作用した結果ともいえるだろう。

ソフトパワー外交の蹉跌

2005年08月25日 | nazor
PUFFY人気で日本PR 駐米大使公邸でパーティー(共同通信)

ソフトパワー外交の一環といえるが、外務省の人たちにとっては、サブカルチャー系の理解可能な最低ラインであり、招待したアメリカ政府関係者などには、軽蔑されない程度に興味を引く交叉点に浮上したのがパフィーだったようだ。

堀田純司『萌え萌えジャパン――2兆円市場の萌える構造』(講談社, 2005年)でも言及されているが、(とくに政府によって)海外に発信され、そしてその一次的受容者である海外のエリート層に伝達されるサブカルチャー的なるものが「日本」をどの程度表象しているのか怪しい。堀田が取り上げているジャンル(フィギュア、メイドなど)は、外交戦略という観点からサブカルチャーを見ている者にとっては、異質なものであり、先験的に抱いている「日本」イメージを貶めかねないものでしかないのだろう。

こうして、ポケモンや宮崎アニメなど「健全な」サブカルチャーと、それ以外の海外に向けて積極的に発信することが憚れるサブカルチャーとに分化していく過程が進んでいく。高級/伝統文化との対比において意味を持っていたサブカルチャー、あるいは閉じられた私的領域にあったサブカルチャーを公(的)化することは、いわば清濁混在したサブカルチャーの浄化でもあり、その過程を経たサブカルチャーは余所行きのベールを纏ったものでしかないだろう。そうであれば、無理してサブカルチャーに頼るのではなく、それこそヴァーチャル空間を通じた「民間外交」に委ね、政府外務省はその身の丈にあったソフトパワー外交を展開する方が「国益」に適うことだろう。

ミアシャイマーをめぐる知性/地政文化

2005年08月08日 | nazor
今月号の『諸君』に、ジョン・ミアシャイマーの論考「20XX年、中国はアメリカと激突する」が掲載。

日本では、鴨武彦『世界政治をどう見るか』(岩波新書, 1993年)で、冷戦の終焉(の意味)を直視できないリアリストの典型例として言及されたことで、一部の間では名の知れた学者である。

しかも「ドイツはいずれ核武装する/せざるをえない」という予測は、その後の展開からも明らかなように、外れてしまったこともあって、「常識的」研究者にとっては、真剣に論じるに値しない、あるいは批判対象にしかなりえない「キワ物」扱いされる傾向が強い。

そんな彼の著書からの抜粋が『諸君』に掲載されたわけだが、ミアシャイマーが日本の学界で見向きもされない理由は、訳者が指摘する「核アレルギー」や「平和主義的思考」よりもむしろ、ミアシャイマーのようなアメリカ知識人が前提とする理論観、すなわち変数をできるだけ少なくし、簡素であること(parsimonious)に重きを置くアメリカの知的傾向に対する違和感があるように思われる(平和主義的とされる日本の学界がどれを指すか不明だが、日本平和学会だとすれば、あまりにその影響力を過大視しているといわざるをえない)。

たしかに変数が少ないほど、概念の操作が容易になり、仮説から結論に至る論理が洗練されたものになるだろうが、このような「条件つきの」理論に基づいた分析や「予測」が、どれだけの意味があるのか、複雑な世界における国家の行動を、ミアシャイマーに典型的に見られるように、パワーの分布/大小という単一の変数だけで分析する行為や発想に知的傲慢さを嗅ぎ取っているからだろう。しかもそこから導かれる「予測」が当たらないとなると、ますます信用度の低下に拍車がかかる。

こうした理論観の背景には、アメリカ社会に根深い反知性主義、あるいは「予測」という発想に見られる「科学フェティシズム」などがあり、「知」をめぐるアメリカと日本の知性(地政)文化の違いと捉えることもできるだろう。さらに、ミアシャイマーなどリアリストが自説を支える根拠として引く歴史の事例にしても、その用い方や配置に関しては、いわゆる道具主義的(instrumental)歴史認識に基づくため、きわめて底の浅い歴史でしかない。そのため、歴史の循環性が強調され、偶発性の次元は捨象される。すなわち歴史に根ざした分析という触れ込みにもかかわらず、そこに見出せるのは非/反歴史的な現在中心主義(a-/anti-historical presentism)に過ぎないといえる。

いずれにせよ、ミアシャイマーの著作は、『諸君』がいうように、日本にとって「衝撃」だとすれば、それは、その分析力の高さではなく、あまりに「アメリカ的」な世界観を垣間見せてくれる点にある。こうした議論に対して懐疑的な目を向けることは、「平和ボケ」の証左というよりも、知的成熟度の高さを示唆するものだろう。

essentially contested book

2005年07月26日 | nazor
書評専門紙である『週刊読書人』および『図書新聞』がともに上半期の読書アンケートを掲載。

そこで一番多く取り上げられていたのが、高橋哲哉『靖国問題』(ちくま新書)。総じて高い評価が与えられていて、(両紙が依頼した)選者の思想傾向が反映した結果ともいえる。

いずれにしても、「靖国」が、通時的および共時的に国政と外交の双方を貫く、戦後60年にあたる今年を象徴し、規定する争点であるため、この本は、幅広く読まれているそうだ(と伝聞推定なのは未読で、個人的には関心外のテーマだからである)。

ただ宮崎哲弥は、いたく立腹で、『諸君!』2005年7月号連載の「今月の新書完全読破」でワーストに指定し、それでも飽き足らなかったようで、『産経新聞』6月11日のコラム「断」で「高橋哲哉氏『靖国問題』の奇怪」と題して、高橋哲哉を「原理主義者」と批判している。

著者が高橋哲哉なので、「産経・正論」文化人やその取り巻きが予断を持って読み、嫌悪感を抱くことは「想定の範囲」であるが、普段の宮崎の筆致とは異なり、いくぶん感情的な表現に満ちているのは、よほど腹に据えかねたためだろうか。一方、『現代思想』2005年8月号掲載の田中伸尚との対談で、高橋は、(直接言及することなく)宮崎の批判に対し、その読みの浅さをやんわりと指摘する形で応答している。

しかし、そこには通約可能性を切り開こうとする道筋は皆無であり、互いの陣地/安全圏に閉じこもっていては、意味のある論争は遠い先の話でしかなく、顕在化し始めた文化戦争の終戦を告げる「聖断」が待たれる。

・追記(7月28日)
『週刊文春』(2005年8月4日号)の「ミヤザキ学習帳」でも、高橋『靖国問題』を取り上げ、酷評していた。

可視化された国境

2005年07月16日 | nazor
月曜が休日のため、今日発売の『アエラ』2005年7月25日号に、「民兵警備 緊迫の国境:メキシコから米国への非合法移民が過去最多となり、国境問題が再燃」が掲載。ほぼ同じ内容の記事が『朝日新聞』国際面にもあり、ネタの使いまわしとも邪推できる(『朝日新聞』では「民兵」ではなく「自警団」となっている)。

グローバル化によって、「国境なき世界 borderless world」(by 大前研一)の時代が到来すると言われることが多いが、出現しつつある「国境なき世界」は、実際にはかなり歪んだ形をしている。「時空の圧縮」と定義されるグローバル化に伴い、移動が容易になった面があるものの、それによって好ましくない人・モノも国境を通過してしまう。テロリストあるいは感染症をいかにして国境で発見し、食い止めるかが「安全保障問題 securitizaion」として観念化されるようになっている。

換言すれば、国境の意味/存在は、ある人々にとっては無きに等しいが、ある人々にとって依然として絶対的に聳え立ち、以前にも増して高く強固になっているのが、現代の国境だといえる。グローバル化は確かに従来の国境をめぐる見方に変更を突きつけるものであるが、それは、反対に、国家による国境の強化を促すように作用している点で、グローバル化のもつ二面性を浮き彫りにする格好の場を国境地帯に看取できる。

その一方で、『アエラ』や『朝日』の記事が注目しているように、国境警備という国家安全保障に関わる任務を、民兵/自警団という「民間団体」が遂行していることは、国境地帯においても新自由主義的グローバル化が確実に浸透している証左であると見ることもできるだろう。

しかしアメリカという国家、とくにメキシコと国境を接するアメリカ南部の歴史性を考えたとき、民兵/自警団という形態によって、安全を確保する方法は、昨今のグローバル化とは別様の水脈から導かれたものだとも言える。つまり民兵/自警団による国境警備は、グローバル化がもたらす帰結のひとつであるとともに、すぐれて特殊アメリカ的な現象でもある。

こうして、「国境なき世界」という輝かしい理念に反して、「境界線(国境)の政治 border politics」が意味を持ち続ける状況が存在している。しかもその線は、かつてのように「排除か包摂か」という二者択一ではなく、生体認証などのテクノロジーの発展を最大限に活用し、排除対象を効率的に特定する一方で、グローバル市場とのつながりを維持するため、経済的には「開かれた」障壁のない空間を作り出すように、引かれている。「国境なき世界」ではなく、「洗練された/抜け目のない国境(smart border)の世界」が的確な表象だろう。

terrorism lite

2005年07月08日 | nazor
反グローバル化を叫ぶNGOの抗議活動と、それを押さえ込む警官隊の攻防戦で脚光を浴びることが多かったサミットの情景も、警備しやすい、隔離された場所が選定されるようになって、後景に追いやられていきつつあるのがここ数年の流れであった。

こうした延長線上に今年のグレンイーグルズ・サミットがあったわけだが、「内憂抱え低調サミット? エリザベス女王晩餐会で開幕」(『産経新聞』7月7日夕刊)という報道に見られる話題性に乏しい様相は、昨日のテロ事件によって一変した。

アフリカの債務問題や地球温暖化対策に比べると、暴力と恐怖を一瞬にして広めるテロリズムと、それを「文明への挑戦」という大時代的な図式で非難する応答は、前日のロンドン・オリンピック開催決定で歓喜に沸く光景との対照性も合わさって、スペクタクル社会化した現代世界に格好の話題を提供してくれるものであるといえるだろう。

ただし、今回のテロの「重み」はそれほどでもないように思える。サミット開催中に起こった点で、それなりの注目を浴びる可能性はあるものの、高層ビルに旅客機が突っ込むという想定外の方法論による9・11に比べれば、地下鉄と路線バスの爆破は、テレビ映えしない、スペクタクル性に欠ける面は否めない、さらに戦後IRAのテロの脅威にさらされてきたイギリス社会にとってみれば、テロとは「経験済み」の出来事であり、テロリズムに対する免疫耐性がそれなりに備わっていることを考えると、今回のテロの帰結は、実行者が期待するほどではないように感じられる。それは、ある種の無菌状態にあり、そのため外敵に対し過剰反応を引き起こすアメリカ社会との違いに起因するものであり、異なる安全保障文化に対しては、テロの衝撃は当然のことながら、異なる意味と含意をもたらす。

別言すれば、9・11の衝撃を体験した現在では、あらゆるテロリズムは、常に9・11と参照比較されることによって、既視感をもって受け止められる。そのため、ポスト9・11的テロは、それが与える恐怖の「唯一性」や「鮮明度」という点で、迫力に欠ける。また、テロの常態化は、テロとの共存/棲み分けをすんなり受け入れてしまう、すなわち「日常」の一部となる逆説的状況を生み出してしまう。そうであれば、その実行が手軽になったテロは、行為のインフレ化を通して、その帰結や衝撃においても「軽い」ものになりつつあるのではないだろうか。

剽窃の弁明

2005年07月05日 | nazor
昨夜の「デーモン小暮・ニッポン全国ラジベガス」で、ドラえもんに酷似したキャラがアメリカ政府機関のマスコットになっていることで、ひとしきり話題になっていた(元ネタは「トリビアの泉」だそうで、さらにいえば昨年末に共同通信がすでに報じていたらしい)。

アメリカ連邦通信委員会(FCC)キッズゾーンのマスコット、その名は「ブロードバンド」という。たいていの日本人からすれば、どう考えてもドラえもんの(出来の悪い)パクリにしか見えないわけだが…。

ドラえもんの浸透度が、アジアに比べて北米では低いこともあって、アメリカ人には、すぐにドラえもんを連想させないかもしれないこと、色は違うし、耳もあるということで、パクリ批判に対して、オリジナリティを主張することも可能だろう。「ジャングル大帝」のパクリ疑惑のあった「ライオンキング」という前例もある。

ともかくも、普段、中国に対しあれほど著作権保護を口煩く要求しているにもかかわらず、公的機関のマスコットにパクリ疑惑を招きかねないキャラを使う発想は、アメリカが得意とするダブルスタンダードの一端を垣間見せてくれる事例だろう。

アニメなどのコンテンツ産業の保護・育成・発信を外交の柱にしている以上(文化外交の推進に関する懇談会)、こういうときこそ日本政府には「毅然とした」対応が求められるところだが、「たかがアニメキャラぐらいで」と、稀に見るほど「安定している」日米関係を揺るがせるような行動に出る可能性はほとんどないだろう。

曖昧で、不透明なソフトパワー

2005年06月28日 | nazor
再度「ソフト・パワー」について。

ソフト・パワーをめぐる議論の多くが、その出自の関係から、国際政治に関わるものであり、国家がソフト・パワーを持つ意味、その行使の仕方などに焦点が当てられる傾向があった。別言するならば、ソフト・パワーの理論的位相よりも、その実践的位相に関心が向けられ、そもそもソフト・パワーとはいかなるパワー(権力)であり、それは、これまでさまざまな論者が議論し、提示してきた権力概念/論に対して、どのように位置づけられるのか、という点が十分に検討されていないのではないだろうか。

権力をめぐる区分として、権力を人間の所有物とみて、一定不変の権力の存在を考える実体概念と、人間同士の相互作用の中に権力が発現するという見方に立つ関係概念がまず思い浮かぶ(たとえば、丸山真男『増補版・現代政治の思想と行動』未来社, 1964年: 3部6章)。その後、権力論の関心は、関係概念としての権力に移り、多くの研究成果を生み出した。こうした権力論の見取り図を整理した社会学者ルークスによれば、すくなくとも3つの権力観が見出せる(スティーヴン・ルークス『現代権力論批判』未来社, 1995年)。

一次元的権力観とは、典型的にはロバート・ダールの定義「AがBに対して、そうしなければBが行わなかったことをさせたとき、AはBに対して権力を行使した」とするものである。この権力観の特徴は、明確な意図を持った二者(主体)と、二者間に争点が存在することを前提としている点にある。

こうした権力観に対する批判として提起されたのが二次元的権力観である。この見方が注目するのは、二者間に顕在化した争点をめぐる権力関係ではなく、二者が争う紛争が現出される以前、あるいは問題化する前に、無力化してしまうような、一般に「非決定権力」あるいは「決定回避権力」と呼ばれる権力である。

ルークスは、この2種類の権力観に対し、三次元的権力観を提起する。一次元的権力観に対する批判である二次元的権力観も、明確な意図を持った2つの主体という前提を共有している、つまり二者間の紛争が顕在化しているか、潜在化されているかという違いに過ぎず、そこに紛争それ自体の存在は当然視されている点で、批判される。一方ルークスが言う三次元的権力観は、「Aにとって好ましくない行動をBがしないようにする権力」であり、そこではAとBが争うべき紛争自体が欠落している。杉田敦の言葉を借りれば、三次元的権力観は「AがBを洗脳させてしまう権力」(杉田敦『権力』岩波書店, 2000年: 4頁)であり、2つの主体間の権力作用という前提からはみ出し、非人称的(impersonal)な、主体なき権力観へとつながる見方ともいえる。

以上の権力論の系譜をまとめれば、まずどのような権力資源を持っているのかという実体概念から、それら権力資源を他者に対し行使することで生じる関係性の変化に焦点が移っていった。そしてその関係性についても、2つの主体による可視的な関係における権力作用から、主体を包摂するような、不可視化され、非人称的な構造における権力作用を視野に入れる権力観が生まれてきたといえるだろう(杉田敦は、この流れを関係的権力観から空間的権力観へと整理している)。

さて、このような権力論の流れにソフト・パワーを位置づけてみたとき、どのようなことが明らかになるだろうか。おそらく第一に指摘できるのが、権力論の分類それぞれにソフト・パワー的な要素を見出すことができることだろう。そのことは、言い換えれば、ソフト・パワーが概念として十分に成熟していない、曖昧模糊としたものであることを示唆している。

たとえば、ソフト・パワーをハード・パワーと対比する際に、軍事力や経済力ではなく文化や理念の重要性を説くのがソフト・パワーであるとされるが、この言明は実体概念としての権力論である。一方、「相手を取り込む力」としてソフト・パワーが提示されるとき、言うまでもなく関係概念の側面が強調されている。また「課題設定する力」であるともいわれるが、この理解は、主体の存在を必ずしも想定していない点で、三次元的ないしは空間的権力観として捉えられる。

であるとすれば、このように複数の異なる意味内容を含んだ扱いにくい概念であるソフト・パワーを使う際にはかなりの慎重さが求められる。概念的側面に関しては、権力観の混同/混乱が付き纏う。ソフト・パワーが語られる場合、「アメリカの・・・」、「日本の・・・」というように、主体(ここでは国家)が暗黙裡に措定されていることが多い。しかしソフト・パワーには「課題設定力」という単なる主体間の関係に還元できない権力観が内包されていることを考慮したとき、主体を超えた/によって統御されていない権力作用を十分に捉えることを困難にさせてしまう可能性が排除できない。

また同じソフト・パワーを使っていても、論者によって意味するところが違っている状況が生じてくることもある。たとえば、対人地雷禁止条約締結に向けたオタワ・プロセスの推進者であったカナダ外相ロイド・アクスワージーは、頻繁にソフト・パワーを喧伝した。しかし、ソフト・パワーとハード・パワーを対抗関係に位置づけ、ソフト・パワーの優位を謳うアクスワージーに対し、提唱者であるナイ自身を含め、多くの論者から批判が出されたことは、ソフト・パワーの多義性を物語る事例だろう。

国際政治学において、ソフト・パワーとほぼ同様の意味内容を持つ概念は、スーザン・ストレンジの構造的権力(『国際政治経済学入門――国家と市場』東洋経済新報社, 1994年)、グラムシ学派のヘゲモニー概念(スティーヴン・ギル『地球政治の再構築――日米欧関係と世界秩序』朝日新聞社, 1996年)に見られるように、ソフト・パワーに先行する形でほかにも提起されているが、アカデミズムの世界を超えて、人口に膾炙するまでにはいたっていない。その意味で、概念的な不透明性を持つソフト・パワーであればこそ、そこにさまざまな意味を持たせることが可能となり、単なる学術用語としてだけでなく、政策用語として流通していく潜在力を有しているともいえるだろう。

換言すれば、その流通度の高さに比して、概念的内実は限りなく空虚に近いのがソフト・パワーであるとみなすこともできるだろう。

encounter no.1

2005年06月22日 | nazor
「ポストコロニアリズム」が注目するのが「他者との出会い損ね」によって生じるズレが遡及的かつ遂行的に関係性を固定化させ、対等な関係性の構築およびその中におけるコミュニケーションの確立を阻害してしまう作用であるといわれる(本橋哲也『ポストコロニアリズム』岩波書店, 2005年)。

そうした「他者との出会い損ね」の顕著な事例が、本橋も取り上げている「新大陸の発見」に伴う「インディオ」との邂逅である。そしてこの「出会い損ね」、あるいは「インディオ」という他者の認識/とのコミュニケーションを考察したのがツヴェタン・トドロフ『他者の記号学――アメリカ大陸の征服』(法政大学出版局, 1986年)である。

コロン(ブス)に典型的に見られるように、一方で「インディオ」を完全な権利を持つ、すなわち「ヨーロッパ人/キリスト教徒」と同等の権利をもつ対等な関係に位置づけようとする姿勢は自己の価値観の他者への投影という形で同一主義へと転化していく。他方で「インディオ」に差異を見出すとき、差異は優劣関係に翻訳されてしまう。この「差異の原理は優越感を、平等の原理は無=差異[無関心]を容易に生みだす」(86頁)態度は、トドロフによれば対他関係の二大形象である(202頁)。

ここに浮かび上がってくる「平等の要請は結果として同一性の断定をともなう」(232頁)、換言すれば、他者(性)の存在を認識することと、他者(性)と対等な関係を築くことがゼロサム関係にあるというアポリアに対して、「差異のなかの平等」が解決の糸口としてありえるが、トドロフ自身が述べているように、こうした態度を実践していくことにはかなりの困難を伴うことは容易に推察できる。

見知らぬ者、つまり他者との邂逅は、否応なく既存の解釈コードに対する揺さぶりをもたらす一方で、そうした既存のコードの中に他者を位置づけて、理解しようとする点で、いったん破綻しかけたアイデンティティーの修復過程とみなすこともできる。そしてこの過程において他者との関係性を決定付けるのが、物質的な権力資源とともに、世界観や価値観などの言説にかかわる権力資源の非対称性であることは明らかであろう。

この非対称性によって、偶発的であった他者との邂逅は、必然的な、あるいは運命付けられたかのような関係性へと書き換えられていく。また劣位に位置づけられた他者は、自身の来歴を自身の解釈コードによって表象する可能性を奪われ、優位に立つ者の解釈コードを使用せざるをえない状況に直面する。

いわば、最初の邂逅という偶発性によって作り出された関係性が重く圧し掛かっている状況にあって、ポストコロニアリズムという視座は、この状況を反転させる試みとして提起される。自らを表象する「自前の」言語/解釈コードを持たない者が、支配的地位にある言語を利用することを通して、両者の関係性を作り出した歴史性や権力関係を暴き出そうとする。その際、相手のコードに準拠しながらも、そこから意味や解釈をずらしていく戦略をとることによって、固定化された関係性の基盤自体を問題化していく。

こうしたポストコロニアリズム、あるいは他者(性)との邂逅という視座は、沼正三『家畜人ヤプー』(幻冬舎)における、ポーリーンがクララおよび麟太郎と邂逅する冒頭場面の描写にも看取できる。日本人(ヤプー)を家畜と認識する世界に生きるポーリーンが、露骨な人種主義を忌避し、人種平等を標榜する1960年代に不時着したという第1の偶発性に続いて、ポーリーンが意識を取り戻し、クララと麟太郎に邂逅したとき、乗馬服を身に着けたクララと素裸の麟太郎という光景から、クララと麟太郎の関係を、ポーリーン自身の解釈コードである主人と家畜のそれとみなす第2の偶発性が生じる。

その後の会話から、ポーリーンがいる世界が1960年代の地球であることはわかるが、それがポーリーンの認識に変更を迫ることはない。むしろ、ポーリーンは、トドロフがいうところの対他関係の二大形象に充当する態度をとっていく。つまり白人女性であるクララに対等な関係を見出し、ポーリーンが生きるイース帝国の世界および解釈コードへ同化させようとする。他方で、麟太郎を「人間」の範疇に入れることに嫌悪感・違和感を隠し切れない、換言すればどうしても麟太郎の姿形にヤプーという他者(性)を見出してしまう。

そして、こうしたポーリーンの態度に対し、反発していたクララが徐々にイース帝国の解釈コードを受容していき、麟太郎も生体改造を経てヤプー的意識に順応していく形で、一方の解釈コードによる他方の表象が成立する。この過程で、西暦3000年代の宇宙帝国イースと1960年代の地球の間に横たわる時間が作り出した物質的・技術的な非対称性が作用していることは明らかであろう。

「他者との出会い損ね」の生成過程の一例を示唆している点で、『家畜人ヤプー』をポストコロニアリズム的視座から読むことが可能である。ただポストコロニアリズムが提起するもうひとつの位相、すなわち既存の支配コードに対する反転・転覆の契機を見出すことは難しい。支配されていることを苦痛ではなく、快楽と捉えるヤプー的意識に対して、ポストコロニアリズムはどこまで有効な戦略を提示できるのだろうか。

「環境問題」の非論争化するパワー

2005年06月10日 | nazor
年末恒例の新語・流行語大賞の候補になることが確定済みの感がある「クールビズ」に対して、当然のようにネクタイ業界から反発が出てきている(「クールビズ:ネクタイ業界が悲鳴 『ノーネクタイ』のキャッチフレーズ中止求め要望書」『毎日新聞』6月9日)。

「環境保護」・「温暖化防止」という言説を前にして、こうした業界団体の要望は、「エゴ」として一蹴されるのがオチだが、温暖化の進展度やその帰結をめぐっては、科学的見地からも疑問があるようだ(薬師院仁志「京都議定書――地球温暖化・危険論」『諸君!』2005年7月号)。そうであれば、「環境問題」も「政治的なるもの」から逃れられない事象の一つであると見るべきだろう。

いわゆる「環境問題」は、生態系、砂漠、気候、食料など自然科学的な様相が色濃い事象を対象としているため、人間の行為を対象とする学問分野(社会科学)と異なり、客観的なデータに基づく論証が可能な分野と一般に考えられている。つまり科学的知識に基づいた客観データに照らし合わせることで、どれくらい自然/環境が変化しているのかは、われわれ一人一人の主観的な判断に左右されることなく、データから一律の理解が導かれるような錯覚をもたらす。しかし、その性格上、非論争的であるはずのデータ自体が論争性を内在させている点、すなわちいかにデータを解釈するかという人間の判断に注意を向けるならば、「環境問題」がどのようにして問題化されてきたのか、われわれが「環境問題」を論じる「環境」(あるいは制度的条件と言い換えることもできよう)も視野に入れて論じていく必要があるのではないだろうか。

「環境問題」が否応なしに文化的・政治的性格を帯びることは、捕鯨やマグロ、さらには琵琶湖の生態系破壊の元凶として標的になっているブラックバスをめぐる問題を一瞥しただけでも明らかである。それは食文化や生活習慣といった領域を含むだけでなく、データを算出する「科学者」の社会的背景や思想信条をも「環境問題」が問題として認識される際に大きく影響していることを認識することが重要である。すなわち「環境問題」を論じる上で基礎となるデータを科学者たちのいわゆる「認識共同体」に依拠せざるをえないため、その高度に専門的な科学知識を一般民衆が逐一検証することができない、かつデータを先験的に信頼して行動せざるをえないのである。ギデンズの議論を借りれば、モダニティ社会は、こうした専門家集団によって提供されたデータに対して信頼するという構図によって支えられている(アンソニー・ギデンズ『近代とはいかなる時代か?――モダニティの帰結』而立書房, 1993年)。

しかし、信頼をよせる「専門家集団」がどのような認識をもっているのかを検討することは難しい。たとえば以下に挙げるような言辞が「科学者」たちによってなされるとき、そこには「専門家集団」内部におけるヘゲモニー闘争とも言うべき状況の存在を看取できよう。(金森修『サイエンス・ウォーズ』東京大学出版会, 2000年, 51頁および389頁より再引用)。

・「温室効果は常に存在したし、それがなければ地球は太陽系のほかの惑星同様不毛なものになってしまう」
・「オゾンホールの原因がフロンガスにあるという仮説は確かに興味深い。だがそれがあくまでも仮説のひとつなのだということを忘れるべきではない。それが間違っているということもありうるし、仮にそれが正しくても慌てふためいた処置はむしろ有害だ」
・「もし運命論者的な地球温暖化モデルが予測するような規模の地球温暖化が起こったとするなら、それは世界にはとてもいい効果をもたらすだろう。[中略]。科学は次のことを示唆している。つまり地球温暖化シナリオにおける温度、湿度、二酸化炭素濃度の上昇は、地球のことを、われわれがそう思い込まされているような死の密室ではなく、エデンの園に変える」

このヘゲモニー闘争が「環境外交」という場裡において国家間あるいは諸アクター間のバーゲニングと絡み合い、「環境問題」をよりいっそう複雑化し、解決の方向性があいまいなまま「出口なし」の隘路に導いている。

それでも「自然/環境」保護が差し迫った問題として認識されるとするならば、何らかの対策なり処置を講じる行動をとるべきであろう。しかし、「自然/環境保護」の立場あるいは言説が孕む問題系について考えて見るべきではないだろうか。「自然/環境保護」といってもその内実は多様であり、社会的布置によって「自然/環境」に対する認識も違ってくることは明らかである。しかし「自然/環境は保護すべし。自然/環境を大切に」といった一見中立的な言辞が内包する欺瞞に目を向けたとき、そう簡単に「自然/環境保護」を口にすることはできないのではないか。

この点に関して、たとえば西川長夫は、近年和歌山で問題となっているニホンザルとタイワンザルの混血を取り上げ、「生物の多様性」という言葉で何の異論もなく進められる「民族浄化」について次のように述べている。すなわち「エコロジーという名のファシズム。優生学の恐怖からいまだ解放されていない間に、生態学やエコロジムの名の下で、何か恐ろしい事態が発生しているのではないか」(西川長夫「国民と非国民のあいだ、あるいは『民族浄化』について」『思想』927号, 2001年, 2頁)。保護される対象と保護するわれわれという明確な二分法は、人間が「自然/環境」を管理できるという人間中心主義的な思考法に根ざしているといえる。「環境問題」を論じるにあたって、われわれは「人間」という範疇それ自体を根源的に再審する視角を持たなくてはならない。たとえば「アースファースト」という環境NGOのリーダー、D・フォアマンの次の言葉をどのように考えることができるだろうか。

「われわれがエチオピアのために行いうる最悪のことは彼らを助けてやることだ。そして最良のことは自然がそれ自身のバランスを求めるがままに放任すること、人々がそこでただ飢えるに任せることだ。[中略]。あなたがそこに駆けつけて、もはや半ば死んだようになっており、この先十分な人生を送るとはとても思えないそれらの子供たちを助けてやるというわけだ。彼らが正常に発達する道はすでに塞がれているのだ。それにそんなことをすれば、後十年もすれば、今度はいまの二倍もの人々が再び飢えて死んでいく」(金森修『サイエンス・ウォーズ』東京大学出版会, 2000年, 429頁より再引用)。

この言辞を非人間的だと感じたとするならば、それは何故だろうか。フォアマンの言辞から汲み取るべきは「人間的」という言葉が意味している内容ではないだろうか。つまり人間の生や死を最重要な価値とみなす認識をもち、そうした観点から「自然/環境」に働きかける限り、「人間」と「自然/環境」の共生関係は築きえないこと、両者の間には克服しがたい溝が存在する事実を回避する態度こそが問題とされるべきであろう。「人間」とそれ以外という境界を設定する作業がいかに反「自然/環境」的であるかを認識せずして「自然/環境」を論じること、別言すれば「人間の顔」を浮かび上がらせる行為自体に寄り添うように潜む暴力性に鈍感であることは、「自然/環境」汚染に鈍感である人々と同一地平にいること、むしろそのヒューマニズム的装いゆえに、それらの人々以上に性質が悪いとさえ思われる。真の意味で「自然/環境問題」を考えるためには、「人間」特有/固有とされている事象/理念の独占的所有の恣意性/歴史性を再検討することが不可欠であろう(「アニマルライト」運動がその例として指摘できる。例えば「ゴリラやオランウータンなど類人猿にも生存権を!」と訴えるパオラ・カヴァリエリ&ピーター・シンガー編『大型類人猿の権利宣言』昭和堂, 2001年を参照)。

以上の点を別の角度からまとめると、D・ハラウェイの書名が象徴するように「人間」が「猿・女性・サイボーグ」といった「自然」を発明することで、「人間」という移ろいやすい同一性は、確かな基盤を持ち、強化されていった(ダナ・ハラウェイ『猿と女とサイボーグ――自然の再発明』青土社, 2000年)。そうであるならば、この「人間」存在の形成過程を逆手にとって、その基盤を侵食していく戦略を紡ぎだすことも可能であろう。絶対的と思われてきた「人間」とそれ以外の動植物を含めた「自然/環境」の境界を相対化し、「人間」の特権性を放棄する方向で「自然/環境」にアプローチすることがポスト/ハイ・モダニティの今日において要請される姿勢、換言すればヒューマニズムという「専制主義」に対する戦略的橋頭堡を築くこと、それなくしては「自然/環境問題」の根源的な解は導き出されない。