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constructive monologue

エゴイストの言説遊戯

ハンプティ・ダンプティ

2005年12月08日 | nazor
イラク戦回避の可能性、ネオコン筆頭格が認める(『読売新聞』)
イラク侵攻「必要なかったかも」 米前国防副長官(『朝日新聞』)

ウォルフォウィッツ前国防副長官によれば、「イラクが大量破壊兵器を使わない絶対的確証」があれば、武力行使は回避できたかもしれないらしい。ただしイラク側がいくら不使用を確約したところで、アメリカ政府が不信感を抱いている限り、その確証は「絶対的」にはなりえない。つまりこの場合、説明責任を負っているのはイラクであり、またそれまでに蓄積した相互不信の渦の中にあって、アメリカとイラクの間に信頼が醸成される可能性は低いと言わざるをえないだろうし、また両者が不信を解消しようとする努力を示したともいえない。

その点で、ウォルフォウィッツの発言は、イラク攻撃反対派に格好の批判の言質を与えるものではなく、アメリカをして武力行使に踏み切らせたのフセイン政権の不誠実な態度にあるという従来からの主張をソフトに言い直したものに過ぎないと受け流しておくのが無難な態度だろう。

忘却の stateman

2005年12月07日 | nazor
『論座』1月号に掲載の細谷雄一「小泉首相は外交哲学を語れ」と櫻田淳「自民党の〈変貌〉と保守・右翼層の〈分裂〉」は、以前であれば『諸君』あたりに掲載されていてもおかしくない内容。

ほとんど情念のみに依拠した言説が保守論壇を闊歩する状況において、彼らのような理詰めの議論は受容されにくいのだろう。くしくも両論文とも現在の政治に顕著な視野狭窄性を憂い、「政治屋」ではなく、「政治家/外政家 stateman」の登場に期待を示している(細谷がいう politician は櫻田の political activist に該当する)。

ただし過去の歴史から含意を汲み取ろうとすることはそれこそ現実主義の真髄であり、学ぶべきものであるが、歴史に対する傾斜が得てして過去への拘泥あるいはノスタルジーにすぎないものに映ってしまう面もある。古典外交が繰り広げられた「長い19世紀」を規定していた諸条件が取り払われた「長い21世紀」にあって、安易な決断/武断主義に陥らず、慎慮を持った国政術が可能となるような空間は限りなく小さいのではないだろうか。

余談になるが、細谷の文体はどことなく高坂正堯のそれを感じさせる。

マジックワード

2005年11月26日 | nazor
皇室典範:神社本庁、有識者会議報告に反対(『毎日新聞』)
女性・女系天皇容認方針、学者や神社本庁が批判(『読売新聞』)
神社本庁、女性・女系天皇容認論議を批判(『朝日新聞』)

皇室典範に関する有識者会議の報告書を受けて、神社本庁が総長談話を発表し、反対を表明したのは特段驚くべきことでもない。

それが指摘するところによれば、報告書は「現今の少子化問題やいはゆる『ジェンダー・フリー』などで主張される特定の価値観が前提とされて」いるそうだ。いまや教条保守の「印籠」として機能している「ジェンダー・フリー」がここにも顔を出しているわけだ。「伝統と格式」を誇り、全国8万の神社を統括する神社本庁が、すぐれて今日的性格をもち、「歴史的な重み」を欠いたジェンフリ論争に依拠しなければ、自らの反対論に正当性を持たせられないというのは実に興味深い。

「機会の窓」と日露関係

2005年11月22日 | nazor
日露戦争100周年、戦後60年と区切りの年である今年、APEC首脳会談出席の帰路5年ぶりに来日したプーチン大統領。しかし来日前から懸案の「北方領土」問題をめぐって膠着状態を打開するほどの進展がないことが小泉首相の発言などからも明らかだったため、会談の結果通例となっていた共同声明が出されなかったとしても期待値が低かった分だけそれほどの反発もない。他方で好調なロシア経済を背景に実利追求に重点を置くロシア側に実りの多い会談であったといえるため、なし崩し的に領土問題が棚上げされる危惧が存在することも確かである。

いわゆる「北方領土」が問題化される歴史的背景やこれまでの交渉経過については、多くの研究がある。日本政府の見解に近い立場を代表するのが木村汎であり(『新版・日露国境交渉史――北方領土返還への道』角川書店, 2005年および『遠い隣国――ロシアと日本』世界思想社, 2002年)、それに対し批判的な立場から「二島+α」論を提起するのが和田春樹の研究である(『北方領土問題――歴史と未来』朝日新聞社, 1999年)。その中間に位置づけられるのが長谷川毅であり、木村と同様に北方四島が日本に帰属すると主張する一方で、日本政府の主張には歴史的に見ればかなりの無理があり、また返還の方法について和田が提唱する「二島+α」など柔軟に対処すべきだという立場をとる(『北方領土問題と日露関係』筑摩書房, 2000年)。

長谷川が指摘する日本政府の「問題」あるいは「詭弁」とは、クリル諸島(=千島列島)の範囲をめぐってであり、ウルップ以北をクリル諸島と定義し、サンフランシスコ平和条約で日本が放棄したとされる千島列島には南千島(択捉・国後)が含まれていないという公式見解である。しかし戦前の日本政府や外務省の認識や、日露間の国境を画定した下田条約の条文の言語学的検討から、南千島は千島列島を構成する一部であり、千島列島から除外するという論理はサンフランシスコ条約との整合性を図るため、後から持ち出されたものでしかない。つまり強引なこじつけに基づく見解を主張したところで正当性を見出すことは難しい話であり、ソ連(ロシア)の不法性に訴えることでこうした日本側のすり替えが免罪されるものではないし、むしろ正当な主張それ自体に対する信頼も損なうことになる。この苦しい論理に縛られた結果、対ソ(露)外交から柔軟性が失われ、「北方領土症候群」と言われる硬直した態度が支配するようになった。

また「北方領土」問題が日ソ二国間の問題であると同時に、冷戦構造に規定された問題、すなわち冷戦の産物でもあった。ソ連との対立が深まる状況で、日本との講和問題を検討していたアメリカ政府の戦略が介在することで、日ソ間で解釈が分かれる「北方領土」問題が形成された。それは、アメリカの勢力圏に日本を繋ぎとめておき、またその代替案となりえるソ連との関係改善の芽を摘み取っておく上で、日ソ間に横たわる障害として領土問題が機能することになり、さらにアメリカの戦略上欠かせない沖縄に対する返還要求を封じ込めておく目的も有していた。その結果、サンフランシスコ条約2条C項で千島列島の放棄を宣言する一方で、その帰属先に言及せず、また放棄したとされる千島列島の範囲も明らかにしないという状況が生じた。そのため平和条約の批准過程で外務省は放棄した千島列島に南千島も含まれるという後の公式見解とは矛盾する答弁を行うなど、当事者でも解釈が定かではなかった(サンフランシスコ条約の領土条項については、原貴美恵『サンフランシスコ平和条約の盲点――アジア太平洋地域の冷戦と「戦後未解決の諸問題」』溪水社, 2005年を参照)。

混乱する見解が後の公式見解へと収斂していったのは1956年の日ソ国交回復交渉においてであった。このときから択捉・国後・色丹・歯舞の四島を「北方領土」と呼ぶ名称が人口に膾炙していった。また日ソ国交回復をめぐる交渉過程で、色丹・歯舞の二島返還で合意する可能性が生じた際に、沖縄領有問題とリンクさせることで、ダレス国務長官が重光外相に釘を刺したことは知られている。その結果、交渉の主導権は、領土問題解決後に国交回復を目指す重光から、いわゆるアデナウワー方式により国交回復を優先させる鳩山首相および河野農相に移った(田中孝彦『日ソ国交回復の史的研究――戦後日ソ関係の起点 1945-1956』有斐閣, 1993年、および坂元一哉「日ソ国交回復交渉とアメリカ――ダレスはなぜ介入したか」『国際政治』105号, 1994年)。その結果、少なくともありえた二島返還はタブーとなり、あくまで四島一括返還を求める公式方針が確立した。ここに現在まで連綿と続く「北方領土」問題をめぐる構図が成立したのである。

この構図は当時の冷戦状況によって強く規定されていたため、容易に動かしがたいものであった。しかし、日本あるいはソ連の国内政治上の変化、あるいは二国を取り巻く国際環境の変化は、まさに冷戦によって凍結状態に置かれた領土問題を融解させる「機会の窓」を開かせる。理論的に整理すれば、構造とユニット間の相互作用からなるシステムが国家行動を規定するため、国家はその能力や資源を十全に利用できるわけではなく、国家の行動はそれを取り巻く国際環境に大きく左右される。と同時に、システムレベルの変化は常にユニットレベルの変化に基づくものでもある(三村洋史「ソ連・ロシアの国内政治変動と対日外交の強硬化――『交渉オプションの束』の検討を中心に」『ロシア研究』29号, 1999年を参照)。すなわち二国間関係の改善が可能になる上で、国際環境とユニット(=国内要因)の変化が作り出す「機会の窓」をうまく捉え、合意事項を規範化・制度化することが必要条件となる。このような観点から日本の対ソ(露)政策の流れを概観したとき、国際環境の変化によってもたらされた「機会の窓」を十分に捉えきれないまま、時機を逸した行動に終始している印象が強い。

その最初の機会は1956年の国交回復であり、ソ連ではスターリンの死後「平和共存」を掲げたフルシチョフ・ブルガーニン路線が権力を握り、一方日本では吉田茂の退場によって政権に就いた鳩山一郎がその独自色の象徴としてソ連との国交回復を取り上げたこと、すなわち両国における指導者の交代が対外政策の優先順位の見直しを促したわけである。しかし先に述べたように鳩山と重光の対立やダレスの介入などによって領土問題の解決は先送りされ、1960年の日米安保改定に反発したフルシチョフが日ソ共同宣言の一方的破棄を通告したことで、最初の「機会の窓」は中途半端なまま閉じていった。

その次に「機会の窓」が開きかけたのは、1973年のブレジネフと田中角栄の首脳会談であり、共同声明で「未解決の問題」という表現が使われ、少なくとも日本側はそこに領土問題が含まれると解釈した(会談の経緯に関しては、田中首相に同行した新井弘一『モスクワ・ベルリン・東京――外交官の証言』時事通信社, 2000年: 2章を参照)。領土問題の実質的な打開というには程遠いブレジネフ・田中会談であったが、没交渉状態にあった日ソ関係が1973年に動き始めた一因として、当然のことながら1970年代の国際環境の変動が指摘できる。とくに米中和解は、ソ連指導部にとって衝撃であり、アジアにおいて孤立する可能性を抱かせるものであった。西ドイツとの関係改善など西ヨーロッパ諸国とのデタントを促進する一方で、日本に接近することで対ソ包囲網の形成を阻止する意図があったことは明らかであった。つまりアジア冷戦構造の転換は、ソ連指導部に外交政策の再考を促し、その一環として対日関係の改善、田中首相との会談が位置づけられる。しかし周知のようにこの「機会の窓」はデタントの行き詰まりから新冷戦へと突入し、1980年代には北海道侵攻説が現実味を持って語られるほどソ連脅威論が高まったことで、急速に萎んでいった。

おそらくこれまでの日ソ(露)関係のなかで、システムレベル、つまり国際環境の最大の変化、換言すれば最大に開いた「機会の窓」はいうまでもなくゴルバチョフの登場に伴う新思考外交であろう。この時期が特に注目されるのは、戦後日本と比較されることが多い西ドイツの対ソ政策と鮮やかなまでの対照性を示しているからでもある。「ゴルビマニア」と揶揄されたようにやもすれば病的なまでにゴルバチョフのペレストロイカ路線を熱烈に支持した西ドイツは、まだ国内政治の圧力を凌駕するだけの権力基盤をゴルバチョフが有していた時期に、西ドイツが望む基本法23条による統一とNATO帰属を成し遂げた。目の前に開かれた「機会の窓」を見逃すことなく、しっかりと捉え、西ドイツの利害に合致する結果を引き出したといえる(ドイツ統一過程については、高橋進『歴史としてのドイツ統一――指導者たちはどう動いたか』岩波書店, 1999年を参照)。

西ドイツとは対照的に、日本、とくに外務省の姿勢は「冷戦」の呪縛から抜け出していなかった。ゴルバチョフの第一書記就任の機会を捉え、日ソ関係の改善の糸口を探ろうとしたのは中曽根首相であり、それは「機会の窓」の存在を嗅ぎ取った行動ともいえる。しかしこれまで対ソ外交を取り仕切っていた外務省にとって、中曽根の行為は個人パフォーマンスに走り、引いては公式見解に基づく四島返還論を断念するものと映った。平和条約締結の前に「北方領土」返還が優先されるべきであるという「入口論」に固執する外務省の立場は、中曽根の政治力が絶頂にあったときにも揺るがず、その低下とともに再び支配的地位を保持した。また領土問題に関して従来のソ連の立場を繰り返すゴルバチョフにとって、「入口論」に固執する日本との関係改善を進めることにそれほど利益があるとも思われなかった。その結果、1987年に予定されていた訪日はキャンセルされ、絶好の機会が失われることになった。

ゴルバチョフの登場による「機会の窓」の出現は、たしかに日ソ関係の転換をもたらす可能性を秘めていたことは間違いないが、日本とソ連の国内政治事情の時差が微妙に関係改善の道筋を歪めさせたともいえる。つまりシステムレベルである冷戦構造の変容過程を共通項としながらも、またゴルバチョフと中曽根という強力なリーダーシップを発揮する素質を持つ指導者がいながらも、この両者が交差した時点で、ゴルバチョフはソ連共産党内で十分な基盤を築く途上にあり、他方で中曽根は1986年の衆参同日選挙の圧勝を絶頂期として次第に政治の求心力を低下させていった。また中曽根の退場後は、竹下、宇野、海部と内政型か、党内基盤の弱い指導者が相次いだことも「機会の窓」を利用することを難しくさせた。換言すれば、システムレベルで生じた「機会の窓」をうまく捉えるには、ゴルバチョフの権力基盤はまだ万全ではなく、中曽根は党内および国内政治の柵に捕われ、思い切った行動に出ることができないまま退場せざるを得なかったのである。

結局、ゴルバチョフの訪日が実現したのは、東欧諸国で共産党体制が相次いで崩壊し、その勢いはソ連国内にも波及し、構成共和国の離脱の動きに拍車をかけ、また保守派の突き上げによって改革路線の停滞が誰の目にも明らかになった1991年4月であった。国内政治の基盤が著しく弱まり、エリツィンの台頭によって二重外交の危険性を抱えたゴルバチョフに、日本が求める「北方領土」の四島返還を決断するだけの選択肢は残されていなかった。いわば「機会の窓」がほとんど閉じかけている時期に来日したゴルバチョフから領土問題で譲歩を引き出すことは無いものねだりにしか過ぎなかった。したがってこのときゴルバチョフが四島一括返還を考えていたという先日の報道も(「『4島一括返還』提案あった=91年ゴルビー訪日秘話」時事通信)、ゴルバチョフの置かれた国内・国際環境に目を向ければ、実現可能性はかなり疑わしい提案である。

1991年12月ソ連が解体して、「北方領土」問題の交渉相手は、条約義務などを継承したロシア共和国に変わったが、基本的な構図はそのままであり、むしろ民主化と市場経済への移行過程にあるロシアを率いるエリツィンは、ポピュリスト的言動を駆使することで国民の支持を獲得してきたこともあり、内政の停滞・失敗や不満の捌け口として対外問題が利用された。民主化途上の国家が排外的なナショナリズムに走りがちである例に違わず、世論の動向がロシアの政策過程に影響を及ぼすようになってきた。またひとつ外交的妥結の可能性を拘束する国内要因が付け加わったのである。たしかに政治指導者の気紛れで合意事項が反故にされる独裁・権威主義国に比べれば、民主主義国との外交交渉は信頼性の面で高いものであるが、合意事項をめぐる裁量の余地が交渉過程の段階から制約されていることは、必然的に交渉を妥結させる上で大きな障害として立ちはだかる。成熟した民主主義国であれば、こうした交渉上の事情も考慮に入れた上で合意事項に対する賛否を表明することができるが、ロシアのような民主化途上の国の場合、いきおい綿密に練られた合意事項を「一方的譲歩」とみなし、国内政治の争点とする傾向がある。

またロシアが、体制転換を経験した東欧(中欧)諸国のような(西欧型の)議会制民主主義体制ではなく、大統領に権限が集中した大統領民主主義を採用したことは、政策方針が大統領の個人的パフォーマンスに左右される可能性をもたらす。それは、クラスノヤルスクおよび川奈会談がエリツィンと橋本首相の個人的信頼関係の構築に寄与し、停滞状態にあった日露関係を打開する契機となる一方で、それが首脳同士の個人的関係から発展することなく、両国間で規範化・制度化されるまでには至らない状況を招いてしまう。そのため、政治指導者の交代とともに、一から関係構築を図るという非効率的な過程が繰り返されることになる。したがって断絶を伴いがちな首脳外交よりも、連続性を常とする外務省が対露外交の枠組みを規定することになる。しかも外務省の方針である政経不可分や拡大均衡政策も領土問題の解決を前提とし、「機会の窓」をすべて領土問題に結びつける「北方領土症候群」が対露外交の硬直化を引き起こしている。またそれゆえにバックチャンネル外交の魅力、すなわち首脳と外務省を媒介する回路の有用性を高め、ここに鈴木宗男が対露外交に深く関与する条件が作られたといえる。

プーチン政権になってから、ロシアの政治体制はいっそう中央集権化が進み、議会制度の形骸化と政党が大統領個人団体に変容することでいわゆる「政府党体制」に近い状況が出現している。また国民の間でも、プーチンにかつての帝政ロシアの面影を見出す心性が広まり、注目を集めているように(「現代の肖像:プーチン・ロシア大統領」『アエラ』2005年11月28日号)、民主化論が想定する民主主義とは異なる「帝政民主主義」(中村逸郎)と形容すべき政治体制でもある。このような政治文化的背景を持つプーチンのロシアは、「北方領土」問題にとっての「機会の窓」となりうるには矛盾する力学を内包しており、それはエリツィン時代から見られる趨勢がより強固な形で制度化されてきたと理解できる。プーチンの強権的なまでの政治力は、領土問題の解決を一気に推し進めるだけのものがあり、(議会内の)反対論を抑えつけることもそう難しいことではない一方で、国民からの畏敬の念に体制の正当性を求めていることは、ゼロサム関係で理解されがちな領土問題に対する理解を得るために、大きな代償を払わなくてはならないことを意味する。現在のプーチン政権の姿勢から判断すれば、自らの正当性基盤を揺るがせてまで領土問題で日本に譲歩するとは考えられないし、日本が中韓と尖閣諸島や竹島など領土問題を抱え、近年緊迫化していることは、ロシアにとって「北方領土」が貴重な外交カードとして利用価値があることを示唆している。それゆえ、プーチンの任期が切れるまでロシア側からの劇的な提案によって「機会の窓」が開く可能性は低いといえるだろう。

主権が不可分であるという通念は、領土問題をゼロサム関係と捉える見方を助長するだけで、解消するものではない。主権概念は、所有権概念に伴う形で登場してきた。それは主権の機能の一つに内政不干渉があることからも明らかで、主権(をもつ主体)は一定の領域空間を独占的に「所有」し、それに対する他者の権利を排除する。したがって誰にも属さない領土は存在せず、それは形式的に常に誰かの所有物であり、複数の主体で共有する主権という考えは観念的に存在しない。しかし、立憲主義的な理解に基づけば、主権は分割可能であり、分割されるべきものである(篠田英朗「国家主権概念の変容――立憲主義的思考の国際関係理論における意味」『国際政治』124号, 2000年)。また形式論的には領土所有は独占の論理が作用しているが、実効的な観点から見れば、アフリカの破綻国家に顕著なように主権の所在が確定できない状況が多々見られる。あるいは軍事的に去勢されている点に注目して戦後の西ドイツや日本を「半主権国家」と捉える見方もあるように、主権の在り様は錯綜している。

「北方領土」問題をめぐっても、領土の所在と主権の所在が一致しなくてはならないという主権観から一歩引いてみる必要があるだろう。すでに60年にわたってソ連/ロシアが実効的に支配している「北方領土」の主権と領土の全面返還は現実的に困難であり、また多くの日本国民にとって「北方領土」が実利的な意義よりも象徴的面が強いのであれば(漁業利権を除けば)、第一に要求すべきは主権の所在を確認することであり、領土返還は事実上放棄することも考慮に入れる必要がある。これはロシア側に主権を認め、日本は経済開発などの「実」をとるべきだという論と正反対のものである。しかしロシアにとっては、前者の方法が馴染み深いものである。すなわちアレキサンダー・クーリーが指摘する「交換主権 exchange sovereignty」の観点から、ロシアはウクライナやカザフスタンとの間で、黒海艦隊基地使用やバイコヌール宇宙基地に対する主権を認める代わりに、その使用権を確保してきた("Imperial wreckage: property rights, sovereignty, and security in the post-Soviet space," International Security, vol. 25, no. 3, 2000/2001.)。それは、国家の体裁など象徴的側面に注目すれば、ロシアの譲歩あるいは撤退とみなせるが、名を捨て実を取ることでロシアの実質的な利害は損なわれず、維持された。このように旧ソ連諸国との関係を通じて、すくなくともロシアは主権の分割可能性とその効用について学習しており、日本側もこうした利点にロシアの目を向けさせる取り組みを行うことを検討してみるべきだろう。

最後に「北方領土」問題が領域主権の原則を反映していることと関連して、そうした思考は「北方領土」を日本とロシアの「二国間」問題として捉える視座を自然化してしまうことを念頭におく必要がある。ポストコロニアル的観点から、二国間関係としての「北方領土」問題の把握には、先住民であるアイヌの存在は完全に忘却されており、その意味で「北方領土」の帰属を主張する日本とロシアは、帝国主義の遺産を争っているに過ぎない。たとえば「日本固有の領土」という言説は、ルナンがいう「歴史と伝統を忘却する」ことで近代国家を形成してきたナショナリズムの発露でもある点を想起しておくべきだろう(テッサ・モーリス=鈴木『辺境から眺める――アイヌが経験する近代』みすず書房, 2000年を参照)。

基地の時空間的意味論

2005年11月18日 | nazor
今回の日米首脳会談の議題のひとつが先に発表された「中間報告」の再確認、言い換えれば地元自治体の反発を抑え、アメリカ軍の再編計画に支障をきたさないような形で決着させることを日本政府に念押しすることであった。アメリカ政府にとって見れば、問題はほぼ片付いているわけで、今後の動向は日本政府と地元自治体の「交渉」に委ねられている。

しかし政府間レベルの合意を優先させたことで、その過程で地元自治体の意向が入り込む余地は残されていなかったため、地元自治体にとって取りえる選択の幅はかなり狭いものになった。したがってこの問題における基本的な構図は、国内政治の交渉空間が国際政治的な条件によって制約を課せられているとみなすことができる。あるいは伝統的な外交に忠実な交渉過程であったといえるだろう。しかもその際に意識的に使用される「国家安全保障」の言説は、日米の政府間レベルで達した合意を地方自治体の意向に対して優先されるべきものと規定し、地方の反発は理由が何であれ最終的には「地域エゴ」の発露として処理されるシナリオに一定の正当性を与える。言い方を変えると、基地を抱える地元の個別具体的な問題は、国家(安全保障)という集合的で一般的な問題を対置することによって、無力化されてしまう。

そうした最終手段が用意されているといっても、政府は地元からの同意を取り付けようとする。同意の調達過程において、すでに政府間合意という形で議論の枠組みを政府が設定しているため、実際の「交渉」はすぐれて非対称的なものとなり、合意内容自体を反故にするような修正の可能性は先験的に排除される。その結果、地元自治体にとって所与の枠組みの中で自らの取り分を大きくする「条件闘争」の政治へと戦略を移行させることが合理的に見えるようになる。すくなくとも国家安全保障あるいは国益が地元の利益よりも重要であるという規範構造は、それを反転させるだけの能力・論理に乏しい地元自治体の行動を規定することになり、「結論ありきの交渉」の色彩をいっそう強める。

しかし合意内容の迅速な実施、およびアメリカ政府の観点から見た場合、地元からの同意の調達をめぐる政治過程は煩わしく思われることも否定できない。たしかに表面的であっても面倒な手続きを踏むことが民主主義の制度的現れであり、そのような手続きを経ることが基地に対する正当性をより強固なものにすると考えることができる。この民主主義的手続きが基地の受け入れ・維持にもたらす意味合いについて、アレキサンダー・クーリーが指摘している(「米軍の基地再編計画と民主主義」『論座』2005年12月号)。彼の主張を整理すれば、アメリカの優位性を維持する方策として世界各地に米軍を展開させるために地政学的に重要な地域に基地を確保することは孤立主義から脱却した第二次世界戦後の外交軍事戦略の基軸であるが、米軍基地の立地環境にとって受入国の政治体制、つまり民主主義体制か、権威・独裁体制かが重要な指標となる。ウズベキスタンの事例を取り上げ、クーリーは、権威・独裁体制の国に基地を確保することは確かに容易で安上がりであるが、それは世界に自由と民主主義を広めるというアメリカの政策に対する信頼性を低下させることにもなる。米軍基地の存在は独裁的指導者に対する抑止効果を発揮するどころか、基地カードとして利用される可能性が高いと指摘する。したがって地政学的観点を優先させ、基地受入国の政治体制を不問に付すことは長期的にみればアメリカの利益を損なうものであり、こうした観点から現在進められている米軍の再編計画を考えるべきだと提起している。

クーリーの議論に従えば、(制度的にみれば明らかに)民主主義国家である日本における米軍基地の価値は今後も減じることはないだろう。むしろその地政学的位置と相まって、在日米軍基地の重要性はますます高まっていくものと思われる。そうであれば、地元自治体に対する説得・懐柔も支払われるべきコストとして許容され、その意味で猥雑で緩慢な同意調達過程は長期的にはアメリカの世界戦略にとっても利するところが大きいものと理解されるという正当化の論理が働く。

たとえば米軍基地撤収が可能となる要因として指摘されるのが近年急速に進んでいるいわゆる軍事革命(RMA)であり、ネットワーク化によって海外基地の存在意義が解消されることが考えられる。この可能性には距離および地理の終焉が叫ばれるグローバリゼーションの流れがあることは当然ながら明らかだろう。しかしこの些かテクノオプティミズムの強い議論は両義的な面を有しており、基地の撤収がアメリカの孤立主義的誘惑を高め、いっそう単独主義へと走らせる危険も孕んでいる。また抑止力の効能が実態よりも認識に大きく依存するため、あえて海外に基地を置かず、アメリカ本土に引き上げたとしても、前方展開能力が確保されている限り、アメリカの地位が揺らぐことはありえない。いわば基地の存在という実態的意味は時空の圧縮によって失われていき、究極的には基地の現実性を伴わない形での抑止力の維持も論理的にありえるだろう。

だがそうした認識論とは異なる実態論的な位相は厳然と存在しているし、アメリカの抑止力は、現に存在する基地によって再帰的に保障されていると考えることができる。すなわち海外に米軍基地を維持する誘因は、今後いっそうグローバリゼーションが進んだとしても依然として残り続ける。したがって技術発展がアメリカの外交軍事戦略を方向付ける変数とはいえず、もしアメリカの戦略に転換が生じるならば、関係当事者間の「交渉」という政治過程にかかっているといえる。そのため「交渉」の枠組みを限定する日米両政府の戦略が「転換」の芽をあらかじめ摘み取っておくことを意味し、また「国家安全保障」の言説を動員することで正当性を高め、異論の説得力を低下させる。そしてアメリカ政府が「自由と民主主義」を国是として掲げる限り、「民主国家」日本に米軍基地を確保することはアメリカの大義を担保する重要な資産となり、その存在価値を突き崩すだけの論理を持たない地元自治体にとって「基地との共存」しか道が残されていない。普遍主義のレトリックに潜む暴力性を垣間見せてくれる事例である。

身体能力という妖しい響き

2005年11月17日 | nazor
昨日のアンゴラ戦をめぐる報道(とくに一般記事)において、相変わらずステレオタイプな言説が流布した。いわゆる「アフリカ選手は身体能力が高い」という定型句である。前回の日韓ワールドカップにおいても幅広く流通し、いまや当然視されている言説の地位を獲得するに至っている(山本敦久「サッカー解説『高い身体能力』って何」『朝日新聞』2002年6月30日を参照)。

とりわけアンゴラ代表は、ワールドカップ初出場であり、イタリアやスペインリーグで活躍するビッグネームもいないため、日本のメディアが圧倒的な情報不足にあったことは明らかだった。そのためか、アフリカとは言えば、個々の「身体能力の高さ」だという論法が幅を利かす余地が生まれることになった。個々の選手の特徴に触れることなく、アンゴラ代表という集合的イメージを見出すシンボルも見当たらないため、さらに集合単位の枠を広げ、アフリカをめぐる固定観念に依拠する無難な選択に落ち着いたというところだろう。いわばメディアの取材不足を補う形で「身体能力の高い」アフリカという言説が繰り返され、さらにこうしたアフリカのサッカーに対する固定観念は、個々の能力を組織力で補う日本サッカーという鏡像を対置することによって、いっそう増幅・強化されていくことも明らかだろう。

「身体能力の高さ」という言説には、動物から人間を区分する道具や技術の使用以前の「未開状態」の人間観が潜んでいることは容易に察せられる。換言すれば、身体能力は生まれつきの先天的/本質的特徴であり、それに頼るアフリカサッカーには、ヨーロッパ近代を特徴付ける「進歩」とは無縁の「純朴な」ものとして表象される。アフリカのサッカーは、ヨーロッパと比べて、組織性や集団性などの近代的な行動規範によって規律されている度合いが低く、個々人の体力に頼る傾向があり、ともすれば集団としての一体性に欠けているため、試合によって大勝と大敗の両極端の結果になりがちで、ヨーロッパの代表チームのように、安定した成績を残すことができない。そしてまとまりに欠けるチームに規律と統率を与える監督を務めるのがヨーロッパ人である。あるいはヨーロッパ人が率いることによってアフリカのサッカーは近代サッカーの体裁を備えると言い換えることができる(日韓W杯のセネガル代表をめぐる言説が典型)。その結果、アフリカ勢はつねにダークホース的な位置というサッカー界の勢力地図に相応しい居場所を与えられる。そのような分析に確証を与えるのもまた「身体能力」をめぐる言説である。

身体能力の高いアフリカのチームが集団性や組織力を身に付けることはヨーロッパにとって、その優位的な地位を脅かす可能性を切り開く。理性に基づく近代サッカーにとって、本能の赴くままのアフリカのプレイスタイルはある意味で扱いにくく、それだけに規律(文明化)する必要性が生じてくる。一種の「畏怖」の感情とそれを覆い隠そうとする心性がアフリカのチームを「身体能力」という言説で規定し、既存のイメージから外れるような言説は事前に封じ込められ、あるいは近代サッカーの標準規格に合うように矯正/強制される(その点で、組織力に重点を置く日本サッカーは、理詰めで対抗できるため、アフリカサッカーほど脅威感を与えない)。

そこに現在サッカー世界をめぐる政治的関係を読み込むことができるし、社会学的に興味深い事例を提供してくれる。「高い身体能力」というアフリカのサッカーの表象は暗黙裡に日本あるいは西洋が抱くアフリカ観を反映し、再生産するひとつの事例といえる(日本のアフリカ観一般については、藤田みどり『アフリカ「発見」――日本におけるアフリカ像の変遷』岩波書店, 2005年を参照)。

反転する国際と国内

2005年11月14日 | nazor
国内の政治と国家間の政治は質的に異なる原理および時間が支配しているという境界線の設定は、国際政治学を独自の学問領域として確立する上での大前提であった。しかし、現在において、アナーキーとされる国際政治において環境や人権に関する国際レジームや国際規範の浸透が進み、一定のガヴァナンスが成立されつつあるという認識が形成される一方、内戦などによって秩序が崩壊した破綻国家が途上国を中心に出現し、国内社会のアナーキー化が進んでいる。つまり国際社会の秩序化と国内社会のアナーキー化という相反する力学が作用しているのが現在の世界であり、こうした現実を前にしたとき、従来の国際政治学が想定する世界像は変更を余儀なくされる。

そして国際政治学、とくにリベラリズムや英国学派などは、戦争状態にある国家間関係を秩序づける規範の在り方に関心を寄せてきた。典型的には国内類推と呼ばれる発想に見られるように、国内社会の法や規範、制度を国際場裡に移植する形でそれは表明されてきた。しかし現実の歴史を見れば明らかなように、理想主義が描いたような世界政府や地球連邦というグローバルな政府機構の成立ではなく、国家間の相互作用を通じて醸成された共通規範や価値、またそれらに基づく共通制度が次第に受容され、英国学派の用語に倣えば主権国家からなる社会、いわゆる「国際社会」が成立した。あるいは「政府なき統治」を模索するグローバル・ガヴァナンス論の世界像にも反映されるまでに至っている。つまり弱肉強食のホッブズ的自然状態が克服・馴致され、国内社会との質的差異が解消されつつある動きが冷戦構造の解体によって一気に促進した。

こうして国際と国内の境界線が曖昧になる状況で、国際社会がアナーキー化した国内社会の再建に乗り出すという逆方向のベクトルが働き始めている。冷戦終焉後の世界を象徴する地域紛争とその後の平和構築活動は、(文明化した)国際社会による(野蛮な)国内社会の再建という側面をもつ。そこには再び紛争状況に陥らないような制度的基盤を確立することは、当該社会にとってだけでなく、周辺諸国や先進諸国の安全保障の観点からも要請される。つまり内戦による秩序の崩壊から生じる難民・国内避難民の処遇や、国内権威の欠如した状況がテロリスト・ネットワークにとって格好の拠点を提供するというような点は、破綻国家の再建・復興が「国際」的な関心事項であることを物語っている。

そしてこのような破綻国家において再建目標として設定される秩序像にはポスト冷戦世界の規範構造が如実に反映している。すなわち民主主義と市場経済が平和で安定した秩序の要素を構成するという規範である。いみじくもフランシス・フクヤマの「歴史の終焉論」を実践するかのように、経済発展モデルをめぐる対立という側面も孕んでいた米ソ冷戦構造の瓦解、そして社会主義という対抗イデオロギーの退出によって、市場経済と民主主義は表層的であっても国家の正当性を強化する規範として受け入れられている。別言すれば、国家の再建および復興に当たって、民主主義と市場経済の規範セットを根付かせることが紛争の再発を抑制し、平和の文化を醸成するという立場が当該社会および関与する国際社会の双方において共通のものとなっている。市場経済と民主主義の規範構造が浸透した国際社会が、社会契約以前の自然状態にある国内社会を立て直すという従来の国際政治の見方にとってアイロニカルな事態が現出している。

このような国際と国内の境界の曖昧化あるいは反転現象がもたらす帰結に目を向けるならば、国際社会に流れる規範構造の内実、とりわけ市場経済と民主主義の組み合わせが内在的に孕んでいる競合関係が実際の平和構築活動においていかなる影響を持っているのかという点が浮かび上がってくる。現在の復興支援活動の特徴として外部アクターの関与が単なる社会基盤の建設や整備だけでなく、国家制度そのものにまで及んでいる点が指摘できる。その際、市場経済活動が円滑に進むような経済制度や法制度が優先される傾向が強い。国家の再建という大事業にとって巨額の資金が必要であることは当然であるが、それを賄うだけの基礎体力が当該社会に残っているはずもなく、否応なく国際機関や主要先進国からの援助に頼ることになる。その結果、国外からの融資や投資を受け入れるのに相応しい環境の整備が急務となり、必然的にそうした国外主体の求める制度が構築される。それは、外国からの投資優遇措置および法制度の確立に真先に着手したイラクの事例に端的に見られる。

しかしワシントン・コンセンサスと称される現在の新自由主義に基づく市場経済の規範構造は、民主主義の観点から見た場合、問題の多いものである。市場という私的領域の拡充を通して、政治的なるものの領域が狭められ、経済の論理によって囲い込まれつつある。こうした規範構造が1970年代以降、アメリカやイギリスの政策転換を皮切りに先進諸国間で確立され、また世界銀行やIMFの構造調整政策によって債務不履行に陥った途上国にも浸透していった。その結果、新自由主義に基づく市場経済がグローバル化し、規範から逸脱した国家に対して投資の引き上げなどの形をとって権力を行使するまでになっている。それとともに国家側も先を争ってこうした行動規範に沿う形で福祉国家からの転換を図っていった。いわゆるスティーヴン・ギルがいう「懲罰的新自由主義」であり、またこうした動きは、自由な企業活動を保証するような法体系が国際的に整備されていく状況と絡み合って、国際社会の新たな政体/構成(constitution)の基盤として根を下ろし、グローバルレベルでの(経済の論理に傾注した)立憲主義の出現とみなすこともできる(『地球政治の再構築――日米欧関係と世界秩序』朝日新聞社, 1996年、および「変容する地球政治のパラダイムに向けて――21世紀への転換点に立って」小林誠・遠藤誠治編『グローバル・ポリティクス――世界の再構造化と新しい政治学』有信堂高文社, 2000年)。

国際社会の規範構造の基調がこのような経済の論理に依拠した立憲主義であるとすれば、国家再建の骨格においても民主主義制度の確立よりも市場経済のそれが反映されていく。それは、本来であれば平和で安定した社会の再建を意味する平和構築活動が多国籍資本の有望な投資先として生まれ変わることを意味し、時々刻々と進展する経済状況に照らしたとき議論や対話を掲げる民主主義の原理は障害でしかない。しかし、経済の論理が支配的となる平和構築には一義的に考慮されるべき当該社会の視点が明らかに欠けており、根本的なところで平和構築の目的や理念と相反するものである。それゆえ現在の平和構築活動にかつての植民地支配の論理である「文明化の使命」あるいはウィルソン主義の亡霊を見出すこともあながち的外れではないだろう(Roland Paris, At War's End: Building Peace after Civil Conflict, Cambridge UP, 2004.)。

他方で民主主義規範を優先することで平和構築の目的が達成されるのかといえば、その答えも明確ではない。一般に市場の論理に比べて民主主義のそれは肯定的な印象を与えるが、民主化を主要な任務としていた1990年代の平和構築活動の多くが十分な成果を挙げているとはいいがたい現状を考えたとき、民主主義規範を根付かせる過程に対する慎重な戦略が必要であることも明らかである。民主主義の指標ともいえる選挙を例にとって見ても、紛争当事者間で十分な信頼関係が築かれていないまま、選挙を実施することは対立構造の固定化を促進するだけであり、また穏健派よりも扇情的なスローガンを掲げる集団に票が流れがちである。その結果、不信の芽が取り除かれないままでは国内避難民の帰還もままならない状態が続く。他方で、平和構築に関与する外部アクターにとって、長期にわたる関与は、国内政治上の考慮や財政的な負担のため、停戦および和平合意から早い段階での選挙の実施、その結果に基づく政府の樹立が求める傾向が強まる。

こうして拙速な民主化は、平和の文化を創造するどころか、対立構造を激化させることにもつながりかねない。かといって外部アクターが継続的にポスト紛争社会に関与する制度的な枠組みが現在の国際社会には欠けているというジレンマも存在する。このジレンマを解消するひとつの方策として、近年、こうしたポスト紛争社会の管理に当たって、かつての信託統治制度に注目する議論が見られる。事実、ボスニアやコソヴォの暫定行政機構などは、その機能を見れば、事実上の(de facto)信託統治とも言えなくもない。しかしこれもかつての植民地主義の遺制を引きずっている点で、机上の議論として流通しているものの、実際の政策日程に上る可能性は低いとも指摘されている。

こうした平和構築をめぐる状況に対して、民主主義原理の定着の可能性を視野に入れながら、市場経済の論理とは異なる立憲主義的方向性として注目されるのが篠田英朗の議論である(『平和構築と法の支配――国際平和活動の理論的・機能的分析』創文社, 2003年、および「平和構築の法の支配アプローチ――戦略的視点からの検討」『広島平和科学』25号, 2003年)。恣意的な権力行使を抑制する思想である「法の支配」は、ポスト紛争社会の再建にとって有望な指針となりえる。また「人の支配」という点では民主主義も多数者の支配を意味するため、前述したように十分な民主主義規範が浸透していない段階での選挙の実施は、不正の横行や、敗者が結果を受け入れるよりも力によって覆すことに利得を見出す状況を作り出す。したがって法の支配アプローチに基づく国家制度の構築は、アクター同士が準拠するルールを設定し、それに則った行動を求めるものである。法の支配という観念を受容することによって、実力に基づく関係から対話や交渉を重視する行動規範が定着し、紛争の再発防止にもつながっていく。換言すれば、民主主義原理に先立つものとして法の支配が位置づけられる。

たしかに法の支配の底流には西洋、とくにアングロサクソンの自由民主主義思想が存在し、その意味で先述した「文明化の使命」という側面を内在している。また篠田が提起する法の支配アプローチは、すでに現代国際社会の規範構造として埋め込まれている市場の論理に基づく立憲主義といかなる関係にあるのかという点に踏み込んでいないため、ギルのいう懲罰的新自由主義を補完する役割を担う可能性も否定できない。とくにこの点は、思想史的に資本主義の発展と法の支配が相補関係にあるため、慎重な議論が求められるところであり、そして土佐弘之が指摘するように、法の支配アプローチは、かつてカール・シュミットが論じた帝国主義批判と重なり合う論理、つまり政治的なるものを法の外に留めおこうと厳格に境界線を設定することで法秩序自体を破壊する決断主義が入り込む余地を与えてしまう論理であり、それはここで論じてきた平和構築の領野にも看取できる(『安全保障という逆説』青土社, 2003年: 5章)。市場の論理にしろ、法の支配にしろ、対決のイメージを喚起する「政治的なるもの」を忌避する傾向がある。それは無意味な暴力を飼いならすひとつの方法であるが、既存の秩序を前提としてその枠組みの中で主体間の行動を規定する点でどちらも現状を変革する潜勢力に対する懐疑主義を含んでもいる。

それでも冷戦終焉後、世界各地で展開されてきた平和構築活動を概観すれば、単に市場経済と民主主義を移植するだけでは問題の解決にならないことは明らかであり、すくなくとも法の支配という概念を介入させることで、平和構築のあり方に新たな地平が切り開かれるだろう。そしてその場合構想される法の支配とは、調和的なものではなく厳しい競合関係を組み込んだ闘技/討議的な性格を有する「政治的なるもの」と接木されたアプローチとして提起されるべきであろう。

利の同盟/情の同盟

2005年11月08日 | nazor
「冷戦」終焉の結果生じた一種のアイデンティティ危機によって「漂流」しかけていた日米同盟関係の新たな再編・強化プロセスの一貫として提起された普天間基地移転問題が紆余曲折を経て少なくとも政府間レベルで着地点を見出したことで、同盟関係はいっそう強固なものになり、その先にある安全保障共同体(security community)へと進化・変容する基盤となる可能性が確かなものになったといえる(以下の日米関係の推移については、田中明彦『安全保障――戦後50年の模索』読売新聞社, 1997年および船橋洋一『同盟漂流』岩波書店, 1997年に基づく)。

そもそも日米関係にはその起点において戦争の勝者と敗者という厳然とした非対称性が埋め込まれていた。講和条約と同時に締結された(旧)日米安全保障条約にそれは如実に反映され、「従属的独立」あるいは「半主権」状態に対する鬱積した(左右両派に共通する)不満が安保改定の主要な動力となった。国内に亀裂を生じさせる傷跡を残した1960年の安保改定によって、旧条約の非対称的性格は緩和され、「人と物の協力」と言われる相互性に基づく関係が構築された。

それでも日米関係を「同盟関係」と明言することに対する抵抗は依然として強かったことは、1981年の日米共同声明において鈴木善行首相が「同盟関係」と形容したことが伊東正義外相の辞任を引き起こす閣内不一致に至った「事件」に象徴される。その後、レーガン大統領と中曽根首相の個人的な信頼関係を基盤として日米関係は深化し、国民の間でも同盟と形容することが自然なものとして受容されていった。すなわち問題の争点は、同盟関係の是非ではなく、同盟関係の内実に移行していったといえる。

アジア地域における冷戦が米中冷戦を主軸にしており、その意味で1970年代の米中和解がこの地域の冷戦構造を変容させ、日米関係にも見直しを迫るほどの衝撃的な出来事であることは明らかであるが、同盟関係のより根本的な変革のための「機会の窓」になった点で米ソ冷戦の終焉はひとつの転換点であった。ソ連を仮想敵として締結された日米安保にとって、敵の消滅はまさしく同盟のアイデンティティ危機であり、ミアシャイマーなど一部の現実主義者が説くように、敵を失った同盟は消滅する運命にあるという予測が現実味を帯びて顕在化してきた。

こうした状況を背景として、1994年、細川首相の下で発足した「防衛問題懇談会」が提出した報告書(通称「樋口レポート」)は、日米安保の維持を謳う一方で、多角的安全保障体制の構築や平和維持活動への積極的関与にも言及し、日本の対外関係において対米関係の位置づけを相対化させるものであった。いわば日本側の積極的なイニシアチブに対して危機感を抱いたアメリカ政府は「東アジア戦略報告」(通称ナイ・イニシアチブ)を策定し、東アジア地域に米軍10万人を維持し、引き続き関与していく意思を明らかにし、その要として日米安保を強化する方向を打ち出した。1996年の日米安保共同宣言は、いわばアメリカ政府が日本をその戦略目的に沿う形で組み込むものであったといえる。その後の展開、特に2001年の同時多発テロ以降、レーガン・中曽根以上の個人的信頼関係を育むブッシュ・小泉路線によって、日米同盟はより緊密化し、日本の外交政策も日米安保の存在を前提として組み立てられ、単なる同盟以上の一体性を帯びつつあるようになった。

「その[=同盟の]設立のためには利益の共有を必然的に要求する」(ハンス・J・モーゲンソー『国際政治』福村出版, 1986年: 195頁)、あるいは「友情ではなく、厳密に計算された自己の利益に基づく効用の関係」(ランドル・L・シュウェラー「同盟の概念」船橋洋一編『同盟の比較研究――冷戦後秩序を求めて』日本評論社, 2001年: 250頁)という同盟の定義に照らしてみたとき、日米関係、とくに現在の関係はどのように捉えることができるだろうか。そもそも同盟形成における国家行動として、バランシングとバンドワゴニングの2つのパターンが指摘され、日本は総じて後者、つまりそのときのヘゲモニー国家と同盟関係を結ぶ傾向がある。戦後の日米関係もその延長線上にあるとともに、ドイツとの同盟が破滅的な戦争に至ったことから、それ以前の日英同盟があるべき同盟の範例として浮かび上がり、それが歴史の教訓としてアメリカとの協調が日本の利益でもあると説く際の理由にもなった。

その成立時において、アメリカの一方的な利害の反映だけでなく、深まる冷戦状況において生き残る術としてアメリカと同盟関係に入ることに一定の利益があるという計算が日本側にもあったことは明らかである。しかし時代を経るにしたがって、当初のしたたかな利益計算よりも、それまでに醸成された友好関係に同盟存続の根拠が求められるようになっていった。すなわちこのことは「利/理」から「情念」に基づく関係に変容したことを意味し、その結果、対米協調は何よりも優先されるべきものになり、そこに国際環境の変化に応じた共通利益の再確認、あるいは同盟関係の見直しという当然の考えは居場所を与えられなくなる。換言すれば、安直な歴史の教訓を引き合いに出して、アングロサクソンとの同盟を維持することが外交の最優先事項であり、ほかの対外政策は日米関係の従属変数に過ぎないという狭量な外交観が幅を利かすようになった。それは、日本の置かれた地政学を反映した現実主義的な政策が教条的な日米関係原理主義に変質し、日本の外交上の選択肢を放棄することにもつながる。

このような日米関係第一主義にとって同盟関係の強化は、いわゆる「同盟のジレンマ」論がいうところの「見捨てられる恐怖」を緩和することを意味する。しかし、そうした関与は、同じく「同盟のジレンマ」論が説くもうひとつの恐怖、すなわち「巻き込まれる恐怖」の可能性を高めると同時に、同盟が仮想敵を常に念頭に置くものであるとすれば、同盟の強化は仮想敵との間に「安全保障のジレンマ」を引き起こすことにもなる(この点については、土山實男『安全保障の国際政治学――焦りと傲り』有斐閣, 2004年: 9-10章を参照)。

他方で、こうした現実主義的装いをした日米同盟第一主義に対し、同盟関係に付きまとう軍事性を脱色した不戦共同体あるいは安全保障共同体に日米関係を変えていこうとする方向性もある。いわゆるリベラル制度論の主張と重なり合う立場であり、国家間関係をホッブズ的な戦争状態の永続と見るのではなく、国家同士の相互作用を通じて、共通の理念・価値が醸成され、それを制度化していくことで、「国際社会」の成立を見るイギリス学派や構成主義のそれとも共鳴する。つまり国際社会の成熟、あるいはアナーキー性の超克という尺度から見た場合、同盟関係から安全保障共同体に変わることは、アレクサンダー・ウェントが言うアナーキー文化がロック的からカント的なそれに移行したといえる(Social Theory of International Politics, Cambridge UP, 1999: ch. 6.)。そこでは国家間の関係は、競争/対抗関係から友好関係へと変わり、それを支える行動規範は、利害よりもむしろ正当性によって判断される。

安全保障共同体は共通価値の形成を通じて「われわれ感情」が醸成され、また紛争解決に当たって軍事力ではなく平和的な手段によって対立する利害を調整することを基盤とする。その意味で政治単位の自律を掲げる「多元的」安全保障共同体にしても、その構成主体間の関係は国際政治というより国内政治過程に似たものになる。しかし、シュウェラーによれば、安全保障共同体は集団的取極の一形態であり、その点で既知の敵/対抗者に対して組織される同盟と共通性を持っている。すなわち先述したように安全保障共同体への変貌によってもいわゆる敵対者との「安全保障ジレンマ」が解消されるわけではない。

またアメリカ一極体制の現在にあって、どこまで「多元的」安全保障共同体の多元性、言い換えれば構成主体の自律性が維持できるかという点も考慮されるべきだろう。そこに「融合的」安全保障共同体の道筋が垣間見え、それは主権国家にとって自殺行為に等しい帰結である。あるいはそれは、「アメリカの51番目の州になったほうが利点が大きいのではないか」という反実仮想的な議論に現実味を帯びさせ、極論が極論でなくなる可能性を生じさせるかもしれない(日米問題研究会『日本がもしアメリカ51番目の州になったら――属国以下から抜け出すための新日米論』現代書林, 2005年)。

前述したように、近代日本の同盟政策の基本は、同時代のヘゲモニー国家にバンドワゴンすることにある。戦後60年の歴史は、すくなくともアメリカとの同盟関係が賢明な選択であったことを証明している。そのため、国際環境が一変した21世紀に入っても対米関係を重視することに変更は見られない。むしろいっそう緊密な関係を築き上げることに多くの資源を費やす方向に動いていると見るべきだろう。その一方でその選択は対米追従との批判を常に招く可能性を含んでいる。日米関係の重要性をめぐって、それが日本の利害の効用にどれだけ基づいているものであるのかを論じることが求められるが、今日の議論の多くは感情論に終始している感が否めない面が強い。反米を表明し、アメリカに対抗するバランシングに動くことは、一極体制において現実的な選択肢になりえないが、ソフト・バランシングと呼ばれる間接的な対抗行動を採る余地は残されており、実際にフランスやロシア、ドイツなどは自己の利害を勘案した上で対米政策を行っている。一極体制の国政術としてのソフト・バランシングの効用を真剣に考慮することも今後の日本にとって必要となってくるのではないだろうか(ソフト・バランシングをめぐる賛否については、International Security, vol. 30, no. 1, 2005.が特集を組んでいる)。

同盟の強化を進めるにせよ、あるいは安全保障共同体への発展的解消を目指すにしても、同盟が主権国家同士が切り結ぶ関係であるならば、主権国家としての自律性を担保するために同盟の内実をどの程度まで高めるのかという線引きをしっかり行う必要があるだろう。自己の利益を勘案した上での同盟関係は、言い換えれば利益にそぐわない場合は解消できるという選択肢を常に手元に残しておくことでもある。友情や慣行といった「利/理」を逸した同盟論はその意味で危険な兆候であり、それこそ日米関係の基礎を整備した吉田茂が嫌う「外交感覚の欠如」の端的な例であろう。

phony alliance

2005年10月28日 | nazor
女性天皇:有識者会議の結論を尊重したい(『読売新聞』)

「日本」の根幹とされる天皇家の「御家断絶」がそう遠くない将来起こりうる状況が現実味を増している中、男系のみの継承条件を緩和する方向で決着が図られようとしている。

当然、『産経新聞』などに代表される(自称)真正保守派から反発の声があがっているわけだが(「皇室典範会議 女系天皇はさらに議論を」『産経新聞』10月27日)、このような男系のみの継承に固執する立場は、真正保守派と対極に位置するはずの天皇制廃止論者にとっても、魅力ある見解である。廃止論者にしてみれば、せっかく天皇家の血筋が絶える可能性が生じてきたにもかかわらず、女性天皇を認めることは天皇制の「延命」でしかない。

その意味で真正保守派の言い分は長期的に見た場合、廃止論者の目的に資するものである。伝統や格式といった「かたち」に囚われ、事の本質を見失ってしまうのは、第二次大戦末期「国体護持」を叫ぶあまり、終戦を長引かせ、結果的に彼らが嘆くような戦後民主主義体制が作り上げられたという点で、どうも真正保守派の性向のように思えてならない。換言すれば、戦略的に言えば、正しく善い意図が反対の望ましくない帰結をもたらすような行為は回避されなくてはならないはずだが、そこに「美学」を見出し、そして酔いしれ、長期的視野に欠けた行動に出るパターンに変化が見られない限り、常に足元を掬われる余地を残すことになる。

亡国や憂国を叫ぶ真正保守派の論理自体にそうした契機が内包されていることを皮肉にも暴露してくれる天皇制をめぐる議論は、まさに「日本」の根幹といえるだろう。

面と線

2005年10月21日 | nazor
数日前、小泉首相の靖国参拝に関して『ニューヨークタイムズ』が「挑発行為」と論評したことが報じられ(米NYタイムズ紙、靖国参拝は「無意味な挑発」『朝日新聞』10月19日)、期待に違わずパブロフの犬のごとく産経抄(10月20日)がしっかり反応してくれたわけだが、後見人たるアメリカにたしなめられたので、過剰に粋がってみせるという反抗期の「12歳の子ども」と変わらない。

完全にデッドロック状況に嵌っている中で、「日本文化だ」や「国内問題だ」という理由を持ち出しても、価値観の並列が続くだけで、そこに異なる価値観を調整し、内面化するという外交の居場所は残されていない。換言すれば「自信を持った外交」とは「外交放棄」と同義であり、それこそ国際政治に対するナイーブさを証明するものである。

国際関係を「線」で捉える傾向にある日本(の一部論調)もそろそろ、「面」の視座から眺める技を身につけるべきだろう。国益追求という御旗で進めた政策が実は域外国の利益に資する結果を招く事態に直面して、慌てふためくようでは視野狭窄だという批判を免れない(「日中不和と欧米」『毎日新聞』10月20日)

後知恵

2005年10月19日 | nazor
ロッテ優勝 「背番号26」の勝利だ(『朝日新聞』)
ロッテ優勝 プレーオフは工夫加えさらなる熱パを(『毎日新聞』)

今日の社説で『朝日』と『毎日』がロッテの31年ぶりリーグ制覇を取り上げている。そして両紙とも言及しているのが、3戦まで全国中継しなかったテレビ局について。たしかにあれだけ中身の濃い試合内容からすれば、視聴率的にも十分にコストを上回ることは当然だろうし、実際に巨人戦よりもいい結果だった(「野球人気もまだまだ…ロッテVは高視聴率!」『サンケイスポーツ』)。

しかし、テレビ局の対応をあげつらうのは、結果論に基づくものであり、企業活動の観点から見れば、一方的な試合展開もありうるため、全国中継することはある意味博打に近い。しかもプロ野球中継の視聴率の全般的な低下傾向を勘案すれば、通常の番組を放送することに合理性を見出すのも当然だろう。また4戦と5戦を中継したテレビ東京にしても、すくなくとも優勝決定の瞬間というコンテンツ的に「おいしい」場面を中継できることを踏まえたものであり、それは戦略的な計算に依拠するものだろう。

その意味で、両紙の見解は、ロッテ優勝という「感動」に突き動かされた情緒的なものでしかない。

偽りの改革

2005年10月12日 | nazor
一種の球界ナショナリズムに目覚めさせられたかのような村上ファンドの阪神電鉄株買占め問題。今年初めのニッポン放送問題の再演、というかメディアが映し出す構図が何でもありの市場の論理に食い物にされる「公共領域」という域を出ていない感じ。とくに『産経新聞』などはさすがに他人事とは思えないで、あれだけ小泉自民党支持を鮮明に打ち出していた新聞とは別人格の議論を展開し、ダブルスタンダードという批判を免れない(たとえば、10月5日の産経抄「阪神騒動 成熟したモノいう株主に」『産経新聞』10月9日社説など)。

無機質がゆえに特殊事情など考慮することなく適用される市場ルールに対して、「公共性」といった「情」の論理を掲げたり、あるいはナベツネのように人格攻撃に訴えていても(渡辺会長 村上氏は「インチキ野郎」『スポーツニッポン』)、所詮それは「守りの対応」でしかない。先の総選挙が民意を反映したものであれば、「球界」という特殊利益を擁護しようとすることは、時代の流れに抗うはずであるが、こうも反発が強いということは、日本国民は小泉政権が掲げる改革路線の本質をほとんど理解していないと証明しているようなものだろう。その意味で上場反対という空虚なスローガンを掲げるよりも、経団連会長のように球界という特殊利益構造にメスを入れる絶好の機会として捉えるべきだろう(阪神上場問題:経団連会長「野球協約を見直しては?」『毎日新聞』)。

楽天獲る!清原も野口も石井貴もフェルも 新庄もノリも高津も石井一も(『スポーツ報知』)

昨年「空手形」に終わった三木谷オーナーのポケットマネーを惜しみなく注ぎ込み、後は「野村再生工場」で復活させるという算段が透けて見える。しかしあまりに計画性のない補強案であることだけは確かだ。

黄昏の生権力

2005年10月08日 | nazor
国勢調査:650億円投入も、拒否続出 時代にそぐわず(『毎日新聞』)

5年に一度の生権力(bio-power)行使ともいえる国勢調査の問題点がこのところ報じられている。個人情報保護法の施行を受けて、調査票の配布・回収のハードルが高くなったことによって、国勢調査の意義やあり方に対する懐疑主義が以前よりも意識されるようになっている。

今回の国勢調査をめぐる騒動で浮き彫りになったひとつに、「国勢調査員悲鳴 マンション急増、高まるプライバシー意識」(『河北新報』)と報じられる居住空間の変容が指摘できる。近年注目されている要塞都市(gated community)をめぐる議論の盲点として竹井隆人が批判するように(『集合住宅デモクラシー――新たなコミュニティ・ガバナンスのかたち』世界思想社, 2005年)、要塞都市の論理が今後の問題ではなく、すでに日本において高層マンションという形で受容されている。いわば一般的に想起される要塞都市が水平的であるのに対して、国土の狭い日本特有の規定条件もあって高層マンションは垂直的位相に特化することで、閉鎖性やセキュリティの高さの点でより完全態に近い空間の創造に成功しているといえる。

こうした住環境の変化に伴って、調査員には、セキュリティ完備の高層マンションは一種の難攻不落の要塞であるかのような印象を与えることだろう。国勢調査という統治術(govermentality)の臨界点を象徴する事例でもある。

マッチポンプの誤算

2005年09月30日 | nazor
今週号の『週刊新潮』掲載の記事「『自民党は北朝鮮並み』ひどすぎるぞNYタイムズ『嫌日報道』」は、『産経新聞』(9月23日)の記事「自民党『支配』中朝と同一視 米紙NYタイムズ報道 外務省、不公正と“抗議”」の焼き直し。しかもこの記事を書いた古森義久にコメントを求めるという自家撞着の極みともいえる内容。

その古森のコメントもまた興味深い素材を提供してくれている。先のカトリーナ被害報道で、無邪気なまでのレイシズムを吐露した古森が、NYタイムズの記事を「レイシズム」と非難する倒錯的な世界認識を曝け出している。NYタイムズが民主党寄りであることもまた、ブッシュ政権に心酔する古森の癪に障り、事象に対する適度な距離感を保つジャーナリストの眼を放棄したようなコメントになったようだ。

「われわれ=白人」の側に属していることを疑わない「名誉白人」の古森にとって、「君はわれわれの側ではなく、彼ら(=アジア)と一緒だ」という事実を突きつけられて、その否定に躍起になった帰結が、NYタイムズの記事を「レイシズム」と糾弾する発想となったのだろう。しかし、白人からどう認識されているかという眼差しに過剰反応する一方で、「彼ら(アジア)と一緒にするな」という反発自体も「レイシズム」の発露形態のひとつであることにはまったく無自覚である点を図らずも示唆しているのが古森のコメントであり、それは物事を多面的に認識できないジャーナリストとしての致命的な欠陥を進んで暴露する稀有な事例でもある。

いずれにせよ、「親日/反日」という軸でしか事象を判断できないような人物がジャーナリストを堂々と名乗ることができるのは、現代日本の保守主義の貧困さを象徴しているのだろう。

参議院問題の深み

2005年09月23日 | nazor
小選挙区制を基盤とした二大政党による政権交代という政治のあり方(いわゆるウェストミンスターモデル)は、福沢諭吉に代表されるように、近代日本の政治家や知識人にとって、明治維新からの悲願であり、課題でもあったわけだが(坂野潤治『明治デモクラシー』岩波書店, 2005年を参照)、アレンド・レイプハルトの研究によれば、経済政策や統治など民主主義のパフォーマンス度で見れば、比例代表制を基盤とした多党制による連立政権(コンセンサスモデル)のほうが優れているとされる(『民主主義対民主主義――多数決型とコンセンサス型の36ヶ国比較研究』勁草書房, 2005年)。

そのレイプハルトが「日本版への序文」で言及しているのが、連邦制でもなく、民族誌的にもきわめて同質性の高い日本にとって二院制を採用するメリットが乏しいという点である。今回の郵政民営化をめぐる政治過程およびその選挙結果によって、参議院不要論を含めた二院制の存在意義を問われている(「参院問題:きちんとした総括が必要だ」『読売新聞』9月23日社説)。

二院制を採用する積極的意義は、本来、多様な民意を国政に反映させることに求められるが、現在の日本において、参議院の政党化が進展し、議席数に違いがありながらも、議会における政治行動のパターンは画一化している。そのため、衆議院に対するチェック機能を担うというよりも、その議論を追認する方向に作用する傾向にある。たしかに郵政民営化法案を参議院を否決したことは、ある意味で二院制の価値を示したといえるかもしれないが、否決の要因が自民党内部の路線対立にあるとすれば、いわゆる大所高所から国政を議論するという点は省みられなかったといえるだろう(選挙結果を受けて中曽根元文科相が態度を一変させたことに象徴される)。

それゆえに参議院の価値を疑問視して、『読売』が社説でこの問題を提起する意図は理解できることである。ただしその論理展開には些か近視眼的な側面がある。民意に背を向けて「既得権益」の擁護に走る参議院という、ここ20年間に定着した「改革勢力対既得権益層」の対立軸を当てはめて、「参議院問題」を提起しているわけだが、その前提として次のような認識があるといえる。すなわち民意の反映という民主主義の根本原則に照らしたとき、参議院に比して衆議院の方が十分に民意を汲み取っているという認識である。しかし、小選挙区を主とした現在の選挙制度で選出された衆議院がどれだけ民意を反映しているかという点は大いに疑問が残る。比例による復活当然という例外規定があるとしても、単純多数の獲得で当選できるため、実際には選挙区の5割以下で選出されることを考えたとき、多数の民意が反映しているとは言い難いだろう。

また先の総選挙で話題となった「刺客」戦術に対し、「落下傘候補」に地元の事情が理解できるのかと批判する見方は、国民の代表であるはずの国会議員を地元代表とみなし、国家利益よりも地元利益の獲得/誘導に勤しむ利益政治を意図せず肯定するものだろう。こうした利益政治の苗床になる可能性を持つ現在の代表制のあり方は、小泉政権が金科玉条のように唱える「小さな政府」を機能させる上で大きな障害ともなる。本来であれば地方自治体レベルで解決されるべき問題が、地元選出議員を通じて、国政レベルに提起され、地元益が「国益」に転換される。こうして地方政治に中央省庁が恒常的に介在することとなり、その権限や仕事は肥大化していく。つまり現在の代表制においては、選出議員は地元選挙区の動向に注意を払わなくてはならず、国会議員として期待される「国益」に沿った行動を阻害する構造がある。つまり逆説的ではあるが、中央政府(立法・行政)の機能強化を進めるためには、究極的には連邦制の導入を視野に入れた地方分権の徹底が要請される。

さらに脱領域的性格の強いグローバル化に対応することが重要な政策課題になっている現在、地域代表という民主主義/選出方法の領域的性格は再考の必要に迫られている。衆議院と参議院の比重を前者に移行させることで、政策決定の停滞を回避することが期待されるが、そのためには、地元選挙区の動向に煩わされることのない議員の存在が不可欠だろう。たとえば、比例代表のみの全国区にすることで地元の脱領域化を図る一方で、それを国政レベルに再領域化することで、すくなくとも地域代表の集まりという性格は薄まるだろう。あるいは現在の区割りを残したとしても、地盤を築く余地を残さないように選挙毎に選挙区の変更を義務付けることも考えられる。いわば中央官庁におけるキャリア組の昇進経路、あるいはベネディクト・アンダーソンの国民形成の議論に準えた形で(『想像の共同体――ナショナリズムの起源と流行』NTT出版, 1997年)、国家議員としてのアイデンティティーおよび地元利益とは別次元に確立した「想像の共同体」の醸成を目的とする「巡礼」の制度化である。

したがって問題は、単に参議院にとどまるものではなく、衆議院における代表性の問題や国と地方の関係も同時に射程に入れる必要がある。衆議院に反映されている民意とは、量的には過大代表であり、質的には地域エゴと言われても仕方のない声の寄せ集めという面を持っているならば、一院制に移行したところで、政策決定の停滞という問題は解消されず、既得権益の擁護という批判の矛先が衆議院に向けられるだけである。そしてこの状況を打破する方法として、ますます首相を始めとする行政府の権限が強まり、議会は行政府の追認機関に成り下がることも考えられる。またしても「改革のせり上がり現象」によって、参議院の改革が目的化し、その先にあるはずの政治のあり方が置き去りにされることになりかねない。