constructive monologue

エゴイストの言説遊戯

「環境問題」の非論争化するパワー

2005年06月10日 | nazor
年末恒例の新語・流行語大賞の候補になることが確定済みの感がある「クールビズ」に対して、当然のようにネクタイ業界から反発が出てきている(「クールビズ:ネクタイ業界が悲鳴 『ノーネクタイ』のキャッチフレーズ中止求め要望書」『毎日新聞』6月9日)。

「環境保護」・「温暖化防止」という言説を前にして、こうした業界団体の要望は、「エゴ」として一蹴されるのがオチだが、温暖化の進展度やその帰結をめぐっては、科学的見地からも疑問があるようだ(薬師院仁志「京都議定書――地球温暖化・危険論」『諸君!』2005年7月号)。そうであれば、「環境問題」も「政治的なるもの」から逃れられない事象の一つであると見るべきだろう。

いわゆる「環境問題」は、生態系、砂漠、気候、食料など自然科学的な様相が色濃い事象を対象としているため、人間の行為を対象とする学問分野(社会科学)と異なり、客観的なデータに基づく論証が可能な分野と一般に考えられている。つまり科学的知識に基づいた客観データに照らし合わせることで、どれくらい自然/環境が変化しているのかは、われわれ一人一人の主観的な判断に左右されることなく、データから一律の理解が導かれるような錯覚をもたらす。しかし、その性格上、非論争的であるはずのデータ自体が論争性を内在させている点、すなわちいかにデータを解釈するかという人間の判断に注意を向けるならば、「環境問題」がどのようにして問題化されてきたのか、われわれが「環境問題」を論じる「環境」(あるいは制度的条件と言い換えることもできよう)も視野に入れて論じていく必要があるのではないだろうか。

「環境問題」が否応なしに文化的・政治的性格を帯びることは、捕鯨やマグロ、さらには琵琶湖の生態系破壊の元凶として標的になっているブラックバスをめぐる問題を一瞥しただけでも明らかである。それは食文化や生活習慣といった領域を含むだけでなく、データを算出する「科学者」の社会的背景や思想信条をも「環境問題」が問題として認識される際に大きく影響していることを認識することが重要である。すなわち「環境問題」を論じる上で基礎となるデータを科学者たちのいわゆる「認識共同体」に依拠せざるをえないため、その高度に専門的な科学知識を一般民衆が逐一検証することができない、かつデータを先験的に信頼して行動せざるをえないのである。ギデンズの議論を借りれば、モダニティ社会は、こうした専門家集団によって提供されたデータに対して信頼するという構図によって支えられている(アンソニー・ギデンズ『近代とはいかなる時代か?――モダニティの帰結』而立書房, 1993年)。

しかし、信頼をよせる「専門家集団」がどのような認識をもっているのかを検討することは難しい。たとえば以下に挙げるような言辞が「科学者」たちによってなされるとき、そこには「専門家集団」内部におけるヘゲモニー闘争とも言うべき状況の存在を看取できよう。(金森修『サイエンス・ウォーズ』東京大学出版会, 2000年, 51頁および389頁より再引用)。

・「温室効果は常に存在したし、それがなければ地球は太陽系のほかの惑星同様不毛なものになってしまう」
・「オゾンホールの原因がフロンガスにあるという仮説は確かに興味深い。だがそれがあくまでも仮説のひとつなのだということを忘れるべきではない。それが間違っているということもありうるし、仮にそれが正しくても慌てふためいた処置はむしろ有害だ」
・「もし運命論者的な地球温暖化モデルが予測するような規模の地球温暖化が起こったとするなら、それは世界にはとてもいい効果をもたらすだろう。[中略]。科学は次のことを示唆している。つまり地球温暖化シナリオにおける温度、湿度、二酸化炭素濃度の上昇は、地球のことを、われわれがそう思い込まされているような死の密室ではなく、エデンの園に変える」

このヘゲモニー闘争が「環境外交」という場裡において国家間あるいは諸アクター間のバーゲニングと絡み合い、「環境問題」をよりいっそう複雑化し、解決の方向性があいまいなまま「出口なし」の隘路に導いている。

それでも「自然/環境」保護が差し迫った問題として認識されるとするならば、何らかの対策なり処置を講じる行動をとるべきであろう。しかし、「自然/環境保護」の立場あるいは言説が孕む問題系について考えて見るべきではないだろうか。「自然/環境保護」といってもその内実は多様であり、社会的布置によって「自然/環境」に対する認識も違ってくることは明らかである。しかし「自然/環境は保護すべし。自然/環境を大切に」といった一見中立的な言辞が内包する欺瞞に目を向けたとき、そう簡単に「自然/環境保護」を口にすることはできないのではないか。

この点に関して、たとえば西川長夫は、近年和歌山で問題となっているニホンザルとタイワンザルの混血を取り上げ、「生物の多様性」という言葉で何の異論もなく進められる「民族浄化」について次のように述べている。すなわち「エコロジーという名のファシズム。優生学の恐怖からいまだ解放されていない間に、生態学やエコロジムの名の下で、何か恐ろしい事態が発生しているのではないか」(西川長夫「国民と非国民のあいだ、あるいは『民族浄化』について」『思想』927号, 2001年, 2頁)。保護される対象と保護するわれわれという明確な二分法は、人間が「自然/環境」を管理できるという人間中心主義的な思考法に根ざしているといえる。「環境問題」を論じるにあたって、われわれは「人間」という範疇それ自体を根源的に再審する視角を持たなくてはならない。たとえば「アースファースト」という環境NGOのリーダー、D・フォアマンの次の言葉をどのように考えることができるだろうか。

「われわれがエチオピアのために行いうる最悪のことは彼らを助けてやることだ。そして最良のことは自然がそれ自身のバランスを求めるがままに放任すること、人々がそこでただ飢えるに任せることだ。[中略]。あなたがそこに駆けつけて、もはや半ば死んだようになっており、この先十分な人生を送るとはとても思えないそれらの子供たちを助けてやるというわけだ。彼らが正常に発達する道はすでに塞がれているのだ。それにそんなことをすれば、後十年もすれば、今度はいまの二倍もの人々が再び飢えて死んでいく」(金森修『サイエンス・ウォーズ』東京大学出版会, 2000年, 429頁より再引用)。

この言辞を非人間的だと感じたとするならば、それは何故だろうか。フォアマンの言辞から汲み取るべきは「人間的」という言葉が意味している内容ではないだろうか。つまり人間の生や死を最重要な価値とみなす認識をもち、そうした観点から「自然/環境」に働きかける限り、「人間」と「自然/環境」の共生関係は築きえないこと、両者の間には克服しがたい溝が存在する事実を回避する態度こそが問題とされるべきであろう。「人間」とそれ以外という境界を設定する作業がいかに反「自然/環境」的であるかを認識せずして「自然/環境」を論じること、別言すれば「人間の顔」を浮かび上がらせる行為自体に寄り添うように潜む暴力性に鈍感であることは、「自然/環境」汚染に鈍感である人々と同一地平にいること、むしろそのヒューマニズム的装いゆえに、それらの人々以上に性質が悪いとさえ思われる。真の意味で「自然/環境問題」を考えるためには、「人間」特有/固有とされている事象/理念の独占的所有の恣意性/歴史性を再検討することが不可欠であろう(「アニマルライト」運動がその例として指摘できる。例えば「ゴリラやオランウータンなど類人猿にも生存権を!」と訴えるパオラ・カヴァリエリ&ピーター・シンガー編『大型類人猿の権利宣言』昭和堂, 2001年を参照)。

以上の点を別の角度からまとめると、D・ハラウェイの書名が象徴するように「人間」が「猿・女性・サイボーグ」といった「自然」を発明することで、「人間」という移ろいやすい同一性は、確かな基盤を持ち、強化されていった(ダナ・ハラウェイ『猿と女とサイボーグ――自然の再発明』青土社, 2000年)。そうであるならば、この「人間」存在の形成過程を逆手にとって、その基盤を侵食していく戦略を紡ぎだすことも可能であろう。絶対的と思われてきた「人間」とそれ以外の動植物を含めた「自然/環境」の境界を相対化し、「人間」の特権性を放棄する方向で「自然/環境」にアプローチすることがポスト/ハイ・モダニティの今日において要請される姿勢、換言すればヒューマニズムという「専制主義」に対する戦略的橋頭堡を築くこと、それなくしては「自然/環境問題」の根源的な解は導き出されない。
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