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constructive monologue

エゴイストの言説遊戯

灯台下暗し

2006年04月27日 | nazor
読者情報流出:「毎日フレンド」の6万5千人分 ネットに(『毎日新聞』)

ウィニー経由の情報流出問題を精力的に報道してきた『毎日新聞』が足元を掬われる形となり、滑稽さが漂う。

以前、ジャーナリストの佐々木俊尚が『産経新聞』(4月4日)のコラム「断」で、情報流出問題で突出していた『毎日』の報道姿勢に対して、疑問を投げかけていたが、他社/他者の情報流出を追求することに熱心なあまり、この問題圏には自分たちも含まれることを忘れてしまったようだ。別の言い方をすれば、アルキメデスの点よろしく、道義的高みから情報流出の問題点を報道することは、問題に対する反照的思考の機会を閉ざしてしまいかねないということだろうか。

wishful thinking の結末

2006年04月23日 | nazor
とりあえずの落とし所を探り当てて暫定的な決着を見た今回の竹島問題。軽い気持ちでちょっかいを出してみたら、予想外の反応が返ってきて、「一触即発」の危機にまでエスカレートする事態になったことは明らかに日本政府の判断の甘さに起因している。

韓国側の「過剰反応」は、先日『中央日報』がスクープした日本外務省内部文書の分析、すなわち「反日感情に政策手段としての利用価値を見出す韓国政府」という分析を図らずも証明した形になったわけである。しかしながら、今回の竹島「騒動」において根底に流れていたのは、韓国側の反応に対する過小評価であり、先の日本外務省内部文書がセクショナリズムに遮られ、首相官邸まで届かなかったことを意味する。危機管理に際しての大前提となるはずの情報および認識の共有が不十分だったことが看取できる。

他方で、そもそも外部流出したとされる外務省文書が「偽書」であるとすれば、それはそれで日本政府の情勢分析の貧困を示している。あるいはそれこそ国益のぶつかり合いとして観念される国際政治の本質を見ようとせず、「声に出さずとも理解してくれるだろう」という希望的観測に基づく対外的態度がどのような帰結をもたらしたのかは先の大戦が示しているはずにもかかわらず、この点に関する教訓は十分汲み取られていないようだ。

日ごろ危機管理の必要性を声高に主張する政府与党が「最悪事態」を常に想定して政策を策定し、行動するという「鉄則」を忘れてしまったかのような、それこそ彼らの視野狭窄性を露見させてくれる今回の騒動である。

人事異動

2006年03月01日 | nazor
今日の『産経新聞』で知ったのだが、「つくる会」で「人事異動」があり、八木体制は終焉を迎えた模様(つくる会ニュース)。

承認なき中国訪問が解任の直接的な理由のようだが、当然のことながらそれを額面どおり受け止めることはできないだろう。組織外に「敵」を定めることによって組織内部の対立を中和することが限界に達してきた結果であるとすれば、組織としては末期症状の兆候であり、「つくる会」が野辺送りになる日もそう遠くない。

同じく今日の『産経新聞』より。オピニオン欄の「正論」に筑波大学名誉教授・村上和雄が「再び接近し始めた『科学』と『宗教』」を寄稿。著者は、DNAの世界的権威でノーベル賞候補らしいが、内容はかなり眉唾ものである。いくら親ブッシュ路線を標榜するといっても、知的設計論を推そうとする『産経新聞』の方針は甚だ疑問のあるところ。

・追記(3月2日)
「FAX通信第165号」の全文取り消しについて

JALの内紛ほどのニュース性に欠ける「つくる会」の御家騒動。「解任」ではなく「辞任」だということだが、傍目から見ると「つくる会」内部の混乱だけがいっそう際立ってくる。

立証責任

2006年02月24日 | nazor
戦犯追及の雰囲気になりつつあるトリノ五輪でようやくメダル獲得に至ったことや、堀江メール問題をめぐる民主党の自壊現象が世間の耳目を集めている中、断続的に報道されているのが沖縄返還をめぐる「密約」である。今日も『朝日新聞』が「『河野氏から沖縄密約否定要請』元局長証言」と報じている。

これまでアメリカ側の公文書や、佐藤栄作の「密使」役を務めた若泉敬の著書『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文藝春秋, 1994年)、それらの史料に依拠した我部政明の研究(『沖縄返還とは何だったのか――日米戦後交渉史の中で』日本放送出版協会, 2000年)によって半ばその存在が当然視され、常識となっていた「密約」の一部について、吉野文六・元外務省アメリカ局長が認める証言をしたことは、1974年に『毎日新聞』記者のスクープと同じである点で内容的にそれほど新鮮味がない一方で、日本側の交渉当事者という立場にいた者の証言である点で重みがある。

ただ日本政府・外務省としても、これまで頑なに否定してきた経緯を考えると、そう簡単に「密約」を認めるわけにもいかないのは当然だろう。依然としてアメリカ側の史料については日本が関知するものではないと言い、若泉の件については「私的行為」という枠に押し込め、今回の吉野元局長の証言も「日本側の」文書による裏付けのない「個人的回想」にすぎないとして処理されてしまうだろうし、その方向で日本政府も動いている(鈴木宗男議員の質問趣意書に対する政府答弁)。決定的な証拠ともいうべき日本側公文書の存在を政府自らが認めない限り、この問題に関する顕教と密教の二重構造は維持されつづける。

最近、政治史研究において「オーラルヒストリー」が注目を浴びているが、日本政府にしてみれば、文書史料が証言よりも証拠としての価値が高いということだろう。あくまでも証言は文書を保管する役回りに過ぎず、それのみで証拠たりえないという序列が保たれている。

また公文書の取り扱いに関して、しばしばアメリカの公開性が引き合いに出して、日本の「遅れた」状況が批判されるが、「本場」アメリカにおいてもこの原則は揺らぎつつあるようだ(「CIAなど、機密指定解除の公文書を機密再指定…米紙」『読売新聞』2月21日)。

空虚な中心

2006年02月02日 | nazor
寛仁さま 発言はもう控えては(『朝日新聞』)

おそらく『産経新聞』が社説か産経抄あたりで、「皇族に向かって命令するとは何事か!」と反論してくることが大いに予想される『朝日新聞』の社説である。いつぞやと同じように「言論の封殺」だと応酬するのだろうか。

3点セットとも5点セットも言われる問題を抱え、小泉首相の求心力に陰りが見えつつある中、皇室典範改正問題をめぐっても、反小泉ムードが形成される雰囲気である(「皇室典範改正案、慎重審議求め与野党173人が署名」『読売新聞』)。「皇室を政治的に利用するな」と叫びながら、慎重派の活動が公になればなるほど、この問題の政治化は避けられない。典型的なマッチポンプの構造である。

一番の当事者である天皇や皇太子が発言を控えている中、「陛下の気持ちを理解している」と自負して、外野席が議論しあうことほど無意味なものはないだろう。もし天皇や皇太子が「女系OK」という見解を示したならば、反対論者はどう応答するのだろうか。何よりも崇め奉る天皇の見解であるから、素直に受け入れるのか、それとも天皇や皇太子はいわゆる「戦後民主主義」に毒されている、宮内庁の誰某に操られている、などといろいろな根拠を持ち出して、自分たちが偶像化している「正しい」見解を持つように「教諭」するのだろうか。

いずれにしても、問題の中心に位置する天皇や皇太子が不在あるいは曖昧だからこそ成り立ちうる構図である。

・追記(2月3日)
朝日社説 「言論封じ」こそ控えては(『産経新聞』)

関係各所の期待に違わず『産経新聞』が応答。こうも予定通りに行動してくれる『産経』の単純さが改めて思い知らされる。

平成の闘う皇族?

2006年02月01日 | nazor
皇位継承 旧宮家復帰、強く支持 寛仁さま、女帝の問題点ご指摘(『産経新聞』)

『正論』3月号のインタビュー記事「いま申し上げて置きたいこと」の要約。皇族の中で一人気を吐き、孤軍奮闘の寛仁親王の発言を「皇室」の声とみなし、反対論を盛り上げたいという意図が見え隠れする。しかしどうしてもそこに「皇室」という神聖さの影にした寛仁親王の個人的利害があるのではないかと邪推したくなる。女系天皇が承認されれば、当然のことながら皇位継承順位に影響が及び、それこそ三笠宮の存在意義、つまり廃止論にもつながってくる。皇族だから、そんな個人的事情で発言しているなどと考えられないという予断が働くかもしれないが、戦前の久邇宮家の例もあり(浅見雅男『闘う皇族――ある宮家の三代』角川書店, 2005年)、そう簡単に排除できるものではない。

一方で同じ保守論壇誌である『諸君!』には、田中卓「寛仁親王殿下へ――歴史学の泰斗からの諌言・女系天皇で問題ありません」が掲載。『産経』とは一線を画す論調。

ネタの精度

2006年01月28日 | nazor
高性能無人ヘリ、中国軍傘下企業にも輸出 ヤマハ発動機(『産経新聞』)
問題のヘリ 軍事的脅威はゼロ? 専門家指摘 市場狙う米圧力説も(『西日本新聞』)

『産経新聞』の記事は共同通信が配信したものだが、ここでいう「高性能」に関して、実のところ旧式にすぎないという指摘が軍事評論家たちから出てきていて、さらに輸出規制の背景にアメリカの圧力が見えるそうだ。

『産経新聞』は1月25日の社説で「無人ヘリ不正輸出 安全保障意識が鈍すぎる」と怒り心頭の様子だが、冷静さに欠けた短絡的な主張だといえる。中国脅威論を唱える側にとれば、主張を補強する材料となるはずのところだが、脅威とみなすにはあまり役立ちそうにないというのが実情だろう。

民主主義の外延

2006年01月28日 | nazor
米、ハマス政権なら対パレスチナ援助見直しへ(『読売新聞』)
パレスチナへ援助:ハマスが新政権樹立なら見直し 米国(『毎日新聞』)

民主主義拡大を外交政策の柱に据えるブッシュ政権にとって、民主化の指標のひとつである選挙の実施を否定することはできないが、しかしテロ組織と非難してきたハマスが過半数を制する結果も看過できないというジレンマに陥っている。非公式の帝国アメリカ特有のジレンマであり、その構図は冷戦期のラテンアメリカ諸国(チリ、グアテマラなど)、あるいはヴェトナムやフィリピンとの関係と同じである。

往々にして、民主化過程で実施される選挙結果で、穏健派が支持を得ることは稀であり、パレスチナもその例に倣ったといえる。テロ組織には選挙に参加する資格はないと最初から排除することもできるが、それは有権者の意思表示あるいは選択肢を制限することでもあり、その結果成立した政権の正当性の根拠はきわめて弱いものになる。結局のところ、民主主義よりも地域の安定や安全保障を優先する従来の方針に落ち着いてしまうのだろうか。

杉田敦の議論に従えば(『境界線の政治学』岩波書店, 2005年)、アメリカ政府、およびアメリカ政治学が前提としている合意論的な政治観念は、合意すべき人々の範囲を先験的に確定していることが前提となっている。既存の枠組みの中での競合/競争を通じて合意を得る民主主義が機能するには、枠組み自体を根本的に否定する勢力は厄介な存在である。そうなると、こうした勢力を「まったき他者」とみなすか、それとも既存の規範構造に従うよう教え諭すことになる。おそらく当面の間、援助停止というムチを背景に後者を追求するようだが、テロリストと認定したハマスと関係を築くことに倫理的負い目を感じるとすれば、転覆活動の誘惑に囚われるだろう。

バラとチューリップとオレンジと…

2006年01月26日 | nazor
ロシア:英国大使館員4人をスパイ活動で摘発(『毎日新聞』1月23日)
露、英スパイ摘発 敵対的NGOに警告?(『産経新聞』1月25日)

ライブドア関連のニュースも食傷気味になりつつあるこの頃。凄まじい寒波に見舞われているロシアでは、スパイゲームが繰り広げられているらしい。年末メディアを騒がせたウクライナへの天然ガス供給停止と同じく、いわゆる「民主化ドミノ」に対するプーチン政権の警戒感が如実に現れている事件である。

この件に関連して、来月2日にBSドキュメンタリーで「ロシア周辺諸国民主化とアメリカの戦略」が放送。セルビアのミロシェヴィッチ体制崩壊のノウハウがマニュアル化され、米国民主主義基金(NED)などのQUA-NGOを介在して、旧ソ連諸国の反体制派に伝わっていったことが知られている。ただ「民主化」したものの、その定着あるいは行動規範の内面化に関して、オレンジ革命後のウクライナ情勢を一瞥しただけでも、明確な戦略に欠けている。この辺が「軽い帝国」と形容される理由でもある。

・追記(1月27日)
「ニセの石ころでスパイ活動」ロシア、英大使館を非難(『朝日新聞』)

類比的構図

2006年01月21日 | nazor
一昨日の『毎日新聞』の記事「ライブドア:強制捜査の背景に政治的意図と分析 米紙報道」で、『産経新聞』が日頃から目の敵にしている『ニューヨーク・タイムズ』が「多くの日本人が強制捜査の背景に政治的意図があるのではないかとみている」と指摘している。『産経』にとっては面白くないことだろう。ぜひとも古森義久の熱のこもった応答に期待したいところである。

ところで、東浩紀の「渦状言論」では、(「思いつき」と留保しつつ)今回のライブドア強制捜査が1995年オウム真理教事件を連想させると綴っている(「ライブドアとオウム?」)。2つの強制捜査にまつわる構図を比較参照させるだけの共通性はたしかに多い。

照準設定

2006年01月19日 | nazor
女系天皇容認がじわりと浸透しつつあることに危機感を抱いて、Y染色体説で「科学的」な裏づけを得ようとする試みが、「珍説」扱いされ、支持拡大につながらないことに気がついたのか、それならなおのこと男子誕生に期待をかけざるをえない。しかし現在の皇太子夫妻にその気配が一向に見られないことは、いっそう焦燥感を強めてしまう。

そんな雰囲気を汲んだかのように、このところ雅子妃の「皇族」としての適格性に疑問を投げかける報道が相次いでいる。先週の『週刊文春』が「雅子さま『2時間47分中座』。天皇ご一家が夕食会で待ちぼうけ」と報じたのに乗り遅れまいと、今週は、『週刊新潮』が「激震走る『雅子妃と皇室』」と特集を組んで競い合っている。保守論者は離婚説を一様に否定するが(「雅子妃『離婚説』の策謀」『アエラ』)、結局のところ、こうした噂の根底にあるのは、女性の価値、とくに血統が重視される皇族にあって、皇太子妃の存在価値は「(男)子を産む」ことだという性認識であることは疑いない。女系反対論とジェンフリ反対論が同じ穴の狢であることの証左であるのは言わずもがなだろう。

いうなれば「男子を産まない/産めない」雅子妃は用済みにしたいが、さすがに皇族に対して面と向かって直言するだけの気概がないようで、小さなミスをあげつらうことで、伝統から逸脱した存在と印象付けようとしている。着実にその包囲網を狭め、できることなら雅子妃から「自発的に」離婚を切り出してもらいたいというのが本音だろう。

身辺整理

2006年01月18日 | nazor
小島社長、安倍長官の秘書に国交省への働きかけ依頼(『読売新聞』)
耐震計算偽造:衆院委証人喚問 ヒューザー社長「安倍氏秘書に相談」 大半の証言拒否(『毎日新聞』)

昨日の証人喚問の唯一の成果といっていいのが、安倍官房長官ルートが明るみに出たことだろう。定石どおり安倍長官は否定しているが(「安倍氏側『小嶋氏とは面識ない』 報道機関に文書」『朝日新聞』)、所属する森派と小嶋社長の緊密ぶりから(「ヒューザー、森派パーティー券『まとめて購入』」『読売新聞』)、派閥のスターである安倍長官とのつながりを疑う声が上がったとしても不思議ではない。NHK番組改変問題と同様に、総裁候補と持ち上げられる割には、政治家という地位が持つ権威や権力に対してあまりに無自覚すぎるといえる。いわば「世襲議員」の限界が露呈した感もある。

自民党内には、安倍長官に矛先が向けられることを警戒して、伊藤元国土長官の首を差し出すという着地点を探る動きもあるようだ。あとはこのところ精彩を欠いている民主党がどれだけ追求ネタを用意しているかによっては、無風状態と思われていた通常国会が俄かに面白みを増すことだろう。

一年後の復仇

2006年01月17日 | nazor
昨夜からメディアの注目を一気に集めているライブドア強制捜査。今日の朝刊各紙も一面トップ扱いで報じているが、ちょうど1年前ニッポン放送株取得問題で対決路線に立った『産経新聞』は、一面のほとんどを使い、さらに、「錬金術師の虚実(上)策に溺れたIT企業 ルール無視 マネーゲーム演出」と題する特集記事まで掲載する力の入れようで、期待に違わぬ、そして「用意周到」な扱い。これから数日「鬼の首を捕った」かのような、それこそ虚実ない交ぜの報道が続くことだろう。

しかし、堀江社長と自民党の蜜月関係に言及している『毎日新聞』(「ライブドア:強制捜査 自民党幹部、堀江氏に早くも予防線」)とは対照的に、さすがに小泉改革路線を全面支持する『産経』は、論理的破綻をきたす危険性を避けたのか、この話題には触れないことにしたようだ。

ちょうど国会ではヒューザーの小嶋社長の証人喚問が行われ、自民党の伊藤議員の公設秘書がヒューザー物件の管理会社の役員を兼務していた事実が明るみに出る状況(「伊藤元長官の公設秘書2人、無届けで役員兼職」『朝日新聞』)と並べてみたとき、より大きな罪から目を逸らす「国策捜査」との声も一部で聞かれそうな雰囲気でもある。

不肖の弟子

2005年12月15日 | nazor
代表就任以来、現職および前職の所属議員の逮捕が相次ぎ、「前原カラー」をアピールできないままだったことの反動なのか、アメリカと中国を歴訪した前原代表は持論を積極的にアピールして、その存在感を内外に示そうと目論んだようだが、アメリカ政府の方針に同調し、中国の脅威を明言したその姿勢は、現実主義に立脚した野党として保守系メディアから賞賛を受けている一方(「前原米中訪問:責任政党としての自覚を示した」『読売新聞』12月14日社説、「前原民主党 国益貫く路線支持したい」『産経新聞』12月13日社説)、自民党以上に寄り合い所帯の民主党内から早速異論が噴出している(「前原講演:シーレーン防衛発言などが党内の波乱要因 民主」『毎日新聞』12月13日)。

前原代表の「売り」は、現実的な防衛・安全保障政策であり、それは大学時代の恩師である高坂正堯の影響を強く受けているといわれる。しかし、先の中国脅威発言を見る限り、小泉首相以上にアメリカ政府の歓心を買うことに傾注することによって、国際政治を学んだ者、とりわけ現実主義者を標榜するならば常識である「安全保障ジレンマ」状況を中国との間に率先して作り出してしまう結果をもたらしている。日本の置かれている地政学的立場を考えず、アメリカ政府の繰り返す「中国脅威論」の拡声器役を買って出ることが日本の利益だと考えているのだとすれば、それは、高坂が持っていた豊穣な現実主義からかけ離れた、あるいは高坂が忌み嫌う外交感覚でしかない。

高坂が前原に対し「学者には向かない」と言ったことが前原を政治家の道に進むきっかけとなったとされるが、もしかすると高坂の真意は、複雑な事象をありのままに見れず、二元論的に思考する傾向を前原に看取していたからではないだろうか。以下の高坂の洞察と比較したとき、前原の安全保障観はいかに貧困であるかが明らかとなる。

「アメリカと提携をつづけながら、中共との関係を改善し、友好関係とはいかなくても、敵には回さないこと、この困難な問題を解決しない限り、極東の緊張を緩和する手がかりもつかめず、したがって日本の真の安全保障もありえないことは、現実主義者こそ認識しうるものだと私は思う」(「現実主義者の平和論」『高坂正堯著作集(1)海洋国家日本の構想』都市出版, 1998年, 23頁/初出は『中央公論』1963年1月号)。

共同幻想

2005年12月13日 | nazor
立て続けに起きている児童殺害事件は、子供を守る手段として、防犯カメラ、GPSやICチップといった最新テクノロジーに対する盲目的な期待を高めている(関連企業の株価は上昇し、今後の成長分野ともなっている)。隣近所という(私的空間への過剰介入傾向のある)コミュニティが機能していたかつての社会に逆戻りできない以上、人が担っていた機能をテクノロジーによって補う発想は当然ともいえるが、こうした傾向に抗しがたい違和感を抱いてしまうのもまた当然の反応だろう(「通学路のカメラ設置を批判 田中康夫長野県知事」共同通信12月12日)。

しかし「道草もできず、子供の人格形成に悪影響があるのではないか」といった安易な郷愁に基づく反発は、近代的な自由を所与とし、それを内面化してきた現代社会にとって、ほとんど「反動」でしかない。機械よりも人間による「防犯/監視」のほうが「人間らしさ」があるはずという考えは、すでに近代人が喪失し、体験することもない幻想の「人間らしさ」への偏愛であり、テクノロジーに対する盲目性と表裏一体の関係にある。

それは、京都府宇治市の事件が、いわば「安全圏」といわれた学習塾で起きたことに対する反応とも共通する。学校教育のあり方と学校空間のセキュリティの低下と反比例する形で、学習塾に対する信頼が上昇している状況が、塾という空間およびシステムに対する信頼を実態以上に高めていったといえる。それは、現代日本を貫く規範構造の変容、つまり官/公に対する不信が浸透するに伴って、民間に任せることが万能薬のように喧伝され、本来であれば民間に求められることのない公共性が民間に委任しても等しく機能するという考えである。

しかし大半の学習塾がアルバイト講師という名の非正規社員なくしては機能しないことからも明らかなように、競争の激化、効率性重視、人件費抑制、生徒=消費者による評価システムといったネオリベラリズムの諸原則を忠実に具現化している運営形態において、学校教育における教師と生徒の関係を投影するだけの「公共性」が醸成される土壌はほとんどないに等しい空間/システムである。保護者の一人が事件の説明会での学習塾社長の態度を「経営者のようだ」と述べたが、所詮営利追求を基本とする民間企業にすぎない学習塾に対する根拠のない信頼の大きさを物語るものであり、そうした空間/システムに子供の身を預けるリスクが十分に考慮されていないまま、「安全圏」としての学習塾の存在意義が一人歩きしていった帰結が宇治市の事件の背後にある「構造的条件」ではないだろうか。