constructive monologue

エゴイストの言説遊戯

メディアスポーツの狂乱

2010年02月18日 | nazor
バンクーバー冬季オリンピック、そしてサッカーW杯南アフリカ大会と世界的なスポーツイベントが開催される2010年は、スポーツ関係の話題がトップニュースとして報じられる機会が増えることが当然のように予想される。その内容は、競技の成績にとどまらず、代表選手の身体性から彼らを取り巻く人々や制度との関わりなどあらゆる方向に拡散すると同時に、選手たちの所作が無媒介にナショナルな情念や感覚、物語と結びつけられて伝えられる点で、一定の心的共同性を創出し、あるいは再認識させる契機となる。

そしてそれは、森田浩之が指摘するように、メディアの「暗黙のコード」に沿った報道となって私たちの眼前に提供される。すなわち「運動能力をたたえることは基本だが、もちろんそれだけではない。たいていは人格や人柄のすばらしさが語られる。『困難を克服した意志の強い人』であるとか、『ずば抜けた選手なのに周囲への気張りを欠かさない』などと伝えられる。そのアスリートが戦うときには『地元』が応援する姿が映し出され、コミュニティーの期待に値する選手であることが示される。そのコミュニティーが国と重なるとき、『日本を担う』というナショナリズムと親和性の高い表象となる」(『メディアスポーツ解体――<見えない権力>をあぶり出す』日本放送出版協会, 2009年: 183頁)。

とりわけ2月に入ってから、「メディアスポーツ」の権力作用に関心を持つ者にとって、格好の研究素材が相次いで提供されている。まず2月第1週の話題は、横綱朝青龍の暴行問題と(半強制的な)引退表明であった。そこで問われたのは横綱の品格であったが、その内実について誰もが納得するような明確な定義は存在しない、むしろそれは、曖昧模糊とした、それこれ「日本人」なら何となく想像できるものでしかない。そこに「横綱の品格」を理解できる集団と理解できない集団との線引きが成されていると指摘することは難しくないだろう。おそらく「外国人」である朝青龍は、土俵上で圧倒的な強さを示すことを通じて自分なりの横綱像を提示してきたと考えていたのだろうが、内と外を区分する論理を超えた普遍性を持つ「強さ」という指標は、単なるスポーツ以上の、神事であり国技とみなされている相撲をめぐる表象において十分な説得力を持たず、さらにより「日本人らしさ」を醸し出す白鵬の存在によってヒール役としての役割が割り振られたこともそうした強さへの傾斜をもたらしたのではないだろうか。他方で同じ週に行われた相撲協会の理事選をめぐる報道においては、一門制度など角界内部で通用するルールや規範がその外側では異質なものであることが明るみになったわけであるが、そうした異質性に対する批判的眼差しが朝青龍問題で見出すことができないのは、自他を区分する境界性の中でも国(ネーション)のそれがいかに強靭であるかを示唆しているといえるだろう。

続いてスポーツ報道の焦点は、サッカー東アジア選手権での日本代表チームの不甲斐ない試合、そして岡田監督の進退問題に移っていく。この問題は、ちょうど森田が『メディアスポーツ解体』2章および5章で論じているオシムと岡田両監督の表象の違い、あるいはサッカー中継や報道における神話やステレオタイプといった問題圏に位置づけられる(当ブログ「身体能力という怪しい響き」2005年11月17日も参照)。「W杯ベスト4」を目標に「世界に挑む」はずの日本が「アジア」レベルで苦戦する事態は、ちょっとしたアイデンティティクライシスを引き起こす。このとき、「世界>日本≧アジア」という序列が暗黙のうちに想定されていると考えることができる。世界と互角に戦うために日本の組織的なサッカーが、「身体能力」的にそれほど違わないアジアのチーム相手に機能しなかったことは、「組織力が強み」が神話であると暴露したわけで、そうなると日本代表の特徴とは何なのかという根本問題に直面する。あるいはパスばかりでシュートを打たない状況についても、ときに個人よりも集団を優先する国民性に由来すると語られたり、あるいは「キャプテン翼」の影響でFWに優秀な人材が集まらないといったことが(ネタとして)囁かれる。しかしながら、後者の点について、「キャプテン翼」の影響を受けたことを公言する海外選手の中にはフェルナンド・トーレスなど世界的なFWもいることを考えれば、これもまた神話の一種といえる。

そしてバンクーバー冬季オリンピックである。すでに開催前からその服装と言動に非難が殺到し、国会の場で文部科学大臣が「遺憾」を表明するまでに至ったスノーボード国母選手が話題を集めるなど「メディアスポーツ」の特徴が遺憾なく発揮されている。国母問題はまさしく、森谷が引用するサイモン・クーパーの言葉を体現するものであった。つまり「代表チームは肉体をもった国家だ。人びとが代表チームのとるべきスタイルを議論するとき、彼らは往々にして国家が目指すべき姿を議論している」(126頁。原文は、Simon Kuper, "The World's Game Is Not Just A Game", NY Times Magazine, May 26, 2002.)。

開催してからもメディアスポーツの作用は至る所に現出している。ナショナルな表象の典型的な言説として「お家芸」という言葉が頻繁に使われ、スピードスケート500mのメダル獲得が「復活」と語られる一方で、不調の終わったスキージャンプ(NH)の成績は「復活ならず」としてコード化される。あるいはフィギュアスケートのペアでロシア代表として出場した川口悠子の扱いも国籍よりも血統が共感を誘うことを否応なく想起させ、それは外国人地方参政権をめぐる反対論として提起される「帰化条件の緩和」が実質を欠いた、レトリックにすぎないことにも通底する問題である。また国籍を変更してまでオリンピックに出場したのが女性ではなく男性であったならば、これほどの注目を浴びなかったのではないだろうか。この点はまさにジェンダー表象の位相に関係してくるわけだが、このことは、メダルが確実視されながら一歩及ばなかった上村愛子をめぐっても、その「涙」や彼女を見守る夫の存在と組み合わさって、視聴者に届けられる。

すくなくともW杯が終わるまでの2010年前半は、こうしたメディア状況に支配されることになる。そしてこの期間に得られた素材がどのように加工され、新たなメディアスポーツ論として提示されるのか興味深いところである。
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