constructive monologue

エゴイストの言説遊戯

「戦間期」の再来・追補

2007年06月15日 | nazor
ほぼ一年前に、米ソのグローバルな冷戦構造が解体した1990年代以降の時代認識として、「戦間期」という把握の有意性についてごく簡単な素描を行った(「『戦間期』の再来」2006年6月20日)。現代世界を「戦間期」と類比する(直接的な)着想は、そこで引用した土佐弘之「アナーキカル・ガバナンス――倫理の跛行的グローバリゼーション」(『現代思想』33巻13号, 2005年)、さらに遡及した形でカール・シュミットの議論から得たものであるが、今年に入って「戦間期」とのアナロジーに言及する論考を目にする機会があったので、それらに依拠しながら、改めて「戦間期」という時代認識について考えてみたい。

大賀哲「ポスト〈帝国〉時代における理想主義の隘路――ウォルツァー・カルドー・ネグリ」(『情況』2007年1・2月号)によれば、現在進行している事態は「理想主義的言説群を苗床とした『帝国主義』それ自体の再編成」(164頁)であり、それぞれウォルツァー、カルドー、ネグリに代表される再領域的権力、超領域的権力、脱領域的権力という3つの権力体系のせめぎ合いに共通して内在する「光の暴力」あるいは「暴力のエコノミー」の位相に注意を促す。そして「理想主義の再演」状況を「戦間期」のアナロジーを通して捉え返してみるならば、それらが暴力の克服ではなく隠蔽に寄与し、政治言説の道徳言説化、すなわち「政治的なるもの」の性質を捉え損ねている誤謬を犯している点で、戦間期理想主義と同一地平にあると指摘する。

一方、中西寛「グローバル・ガヴァナンスと米欧関係――『言力政治』から『権力政治』へ」(『国際問題』2007年6月号)は、冷戦後を表象する概念として登場してきたグローバル・ガヴァナンス(論)の根底に2つの自由主義の並立状況を看取し、その構図の中にイラク戦争前後の米欧間の対立を位置づける(米国=急進的自由主義/欧州=啓蒙的自由主義)。そして「今われわれが辿りつつある道は、かなりの程度戦間期の知的経験に重なっているのではないだろうか」(12頁)と問いかけ、ハロルド・ラスキ、E・H・カー、ヘドリー・ブルの研究を参照しながら、「秩序における価値と権力の問題」に取り組むことが「戦間期」への逆行に対する歯止めとなる可能性を指摘する。

デリダやムフなどの「現代思想」を補助線に議論を展開する大賀と、高坂正堯の後継者と目され、現実主義/保守主義を志向する中西とでは、その問題意識や方向性に相違点があることは明らかであるが、どちらの議論も実際の国際政治の動向の背景にある思想/イデオロギー的基盤に着目し、また国際政治の思想的次元を解明することの意義を認識している点で、重なり合う。この点は、大賀が別の論考で述べている国際関係論と政治思想史の架橋に向けた素地がそれなりに存在することを示唆するものであるといえるだろう(「国際関係思想研究にむけて――国際政治学からの視座」『創文』491号, 2006年)。そしてこの点を敷衍していくならば、思想的契機を限りなく脱色したアメリカ製国際関係論との差異、あるいは思想的契機を保持しながら更新されつつある英国学派との親和性を通じて、知識社会学的な意味での日本製国際関係論の立ち位置を探る道筋を見出すこともできる。

さらに付け加えるならば、大賀と中西の議論があくまでも現代世界を理解するひとつの視角として「戦間期」のアナロジーを用いている一方、「戦間期」の(日本を取り巻く)国際関係の動向、そして同時代の学者や政策決定者の言説に議論の中心的な力点を据えながらも、含意的に現代世界と「戦間期」との類比的構図を浮かび上がらせているのが、酒井哲哉の研究である(その多くが7月刊行の『近代日本の国際秩序論』岩波書店に収められる予定:「国際秩序論と近代日本研究」『レヴァイアサン』40号, 2007年参照)。グローバル化と国家の関係をめぐって展開される現在の論争点は暗黙のうちに主権国家からなる社会、すなわち「国際社会」の存在を所与としているが、そのとき基準となる「国際社会」の強度あるいは定着度には時代的そして地域的な偏差があることを考慮に入れると、「国際社会」イメージに本質的な不安定性を抱えている近代日本で表出した国際秩序論は、グローバル化の影響や「国際社会」の変容といった主題を先鋭的な形で表象し、それに先取的に取り組んだ作業でもあった。戦間期(日本)の国際秩序論を丁寧に読み解いていくことによって、国際秩序と帝国秩序の重層的ないし貫層的な構図が明らかとなる。言い換えれば、ヨーロッパ「国際社会」を支える水平的なアナーキー原理と近代東アジアの中華秩序に起因する垂直的なハイラーキー原理の混交状態が戦間期の国際秩序を特徴付けていたといえる。それゆえ、「主権国家像の本質的不安定さ」(52-53頁)の経験およびそれとの対峙を介して育まれた近代日本の国際秩序論が現代世界を理解するうえで貴重な知的土壌を提供してくれると考えることは明らかであろう。

こうしてみるならば、「戦間期」という時代認識は、日本の文脈においてとりわけ意義のあるものだといえる。中西が論じるように、米欧関係における「言力政治」に代わって「権力政治」が前景化している状況が「戦間期」の再来を招く兆候だとすれば、この変化は、「権力政治」を基調とする「近代圏」とされる東アジア地域にいかなる影響を及ぼし、そして「近代圏」の只中に浮かぶ「新中世圏」の日本にとっての意味合いを考えてみる必要があるだろう。そして北朝鮮や中国を対話不可能な他者として措定する一方で、超領域的権力主体であるアメリカとの関係強化を進める日本の選択が「戦間期」的な特徴を構成していく可能性についても留意しなくてはならない。「戦間期」という時代認識が先験的に「戦後」と「戦前」の位相を含んでいることを念頭に置くならば、現代を「戦間期」と類比的に捉える思考は危機の到来を告げる警報としての役割を担っているのではないだろうか。
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