マーク・カーランスキー『1968――世界が揺れた年』(ソニーマガジンズ, 2006年)
20世紀史において「1968年」は、同時代に生きた人々はもちろんのこと、実体験を持たない人々にとって、重要な意義を持つ象徴的な年である。それから40年近くを経た現在「1968年」に関心が向けられる背景として、(日本でいえば全共闘世代にあたる)当時の時代状況に異議を申し立てしていた人々が自らの人生を省みる行為の一環が指摘できるだろう(たとえば、島泰三『安田講堂 1968-1969』中央公論新社, 2005年)。また冷戦後の「長い21世紀」の基調となっている(新自由主義的)グローバリゼーションに対する抗議運動の主張や形態が「1968年」の情景を想起させ、「1968年」と比較対照する契機となっていることもある(すが秀実編『思想読本(11)1968』作品社, 2005年)。
「1968年」を中心にその前後を含めた1960年代の世界の特徴は、菅英輝によれば、(1)国内政治と国際政治の共鳴現象、(2)国際政治の構造的変動による冷戦の変容、(3)ナショナリズムの高揚による冷戦の脱イデオロギー化、(4)リベラリズムの興隆およびその行き詰まりの4点にある(「冷戦の終焉と60年代性――国際政治史の文脈において 」『国際政治』126号, 2001年: 3-5頁)。それは、第二次大戦後に創られた冷戦秩序が大きな転機あるいは変容に直面していたことを意味している。石井修の表現を借りれば、冷戦の前線であったヨーロッパの現状維持・安定化がもたらした「冷戦の55年体制」が揺らぎ始め、その臨界点に達しようとしていた時期でもある(「冷戦の『55年体制』」『国際政治』100号, 1994年)。
こうして1960年代に冷戦秩序はひとつの転機を迎えることになった。その端緒は、冷戦において前哨を構成していた2つの地域、アジアとヨーロッパにおける危機に求められる。すなわち1958年のベルリン危機および第二次台湾海峡危機であり、その流れは、米ソ間の核戦争の一歩手前の状況までに至った1962年のキューバ・ミサイル危機に帰結していく。いわゆる「危機の時代」の経験が1960年代の世界、とくに米ソ関係の方向性を規定していった。つまりホットラインの開設や部分的核実験停止条約の締結に見られるように、米ソ両国は、緊張緩和の方向に舵を切ることで、「危機の時代」を収拾し、(米ソにとって)「安定の時代」への移行を模索した。
しかしながら、全面核戦争の回避を共通利益とする米ソ「協調」体制の確立は、同時に両ブロック内部の支配/統治関係の再編成をもたらした。西側世界では、ヴェトナム戦争が泥沼化の兆しを見せ始めたことでアメリカの覇権に対する懐疑が広まっていった。それに呼応するかのように、主要な同盟国であるフランスが北大西洋条約機構(NATO)と距離を置き、ソ連との関係改善を目指す独自の外交を展開する動きを開始し、後に展開される西ドイツの東方外交とともに、ヨーロッパ分断状況の「克服」が政策課題として提起された。他方、東側陣営でも同様に、ソ連の支配権力を揺るがす状況が生じていた。それは、ワルシャワ条約機構の改革を訴え、西ドイツとの国交樹立を果たしたルーマニアの独自路線や、第三世界の民族解放運動において影響力を持ち始めた中国の存在感に象徴される。米ソ関係の安定化の代償として、それぞれのブロックを秩序付けていた関係性の溶解/多元化が見られたのが1960年代であったということができる。
20世紀史において重大な転換期であった1960年代のなかでも、とりわけ象徴的意味を持ち、この時代の矛盾を集約的に示したのが「1968年」であった。「1968年」は、世界各地で既存の価値観、概念、枠組み、さらには社会体制の基盤や正統性に対して疑問が投げかけられ、それらを根本的に揺るがす事件や運動が相次いで起こった意味で、まさしく20世紀における転換点の一つといえる。イマニュエル・ウォーラーステインの言葉を借りるならば、「近代世界システムの歴史形成に関わる重大な事象の一つであり、分水界的事象とも呼ぶべき性格」を有していた年であった(『ポスト・アメリカ――世界システムにおける地政学と地政文化』藤原書店, 1991年: 114-5頁)。
そして「1968年」が今日的意味で重要と思われる点は、そのトランスナショナルあるいはグローバルな現象としての性格にある。キャロル・フィンクらの共同研究によれば(Carole Fink, Philipp Gassert, and Detlef Junker eds., 1968: the World Transformed, Cambridge University Press, 1998)、「1968年」は、第1に、冷戦史における分岐点としての意味を持っており、その終焉に向けた構造的条件の萌芽であった。米ソが支配する冷戦秩序は、現実面では多極化やケインズ主義経済の行詰りに直面する一方、その理念やイデオロギー面でも厳しい批判の眼に曝された。第2に、当時一般家庭にも普及し始めていたテレビをはじめとするメディアが担った役割が指摘できる。局所的に現出していた抗議運動の参加者たちは、各種メディアを通じて自分たちと同じように既存の秩序や価値観に反発し、変革を求める人々の存在を知ることになった。そしてそれら個別に展開していた抗議運動が東西間あるいは南北間の境界を越えてネットワーク化された点、つまり抗議運動のグローバリゼーションが生じたことに第3の意味がある。そして第4にネットワークで結びついた各地の抗議運動を支えていたのが「自由や正義」といった理念や価値観であり、それら価値観の伝播および共有を通じて一種の「世界革命という想像の共同体」が醸成された点も「1968年」を特徴付ける要素である。
このように「1968年」を提起する問題群はすぐれて現在的な意義を有している。「1968年」の現在性に注目するならば、次のような類推が成り立ちうるだろう。第1に、現代世界を主導する新自由主義的なグローバリゼーションの直接的な基点を求めるとき、とりわけアメリカの文脈において「1968年」の抗議運動(反戦・黒人・女性など)に対する対抗運動として、新自由主義が登場してきたことの意味は重要だろう。フォード主義からポストフォード主義に移行する過程で、「偉大な社会」構想を掲げた民主党政権と同一視されたケインズ型の福祉国家が批判に曝され、規制緩和と民営化を軸とする「小さな政府」論が今後の国家モデルとなった意味で、「1968年」(とそれへの対抗)が触媒となり、今日のグローバリゼーションの基盤が形成されたといえる。
第2に、メディアの役割がいっそう重要性を増している点が挙げられる。「1968年」当時は依然としてテレビの影響力は、西側世界に限定されていたが、IT革命が席巻した「長い21世紀」において世界各地の出来事は容易に伝達される。むしろメディアに流れる情報量の過多によって大半の情報がノイズとして見向きもされないままになっているのが現状だろう。またメディアの権力性に対する意識が高まったことによって、監視し批判するという従来持たれていたメディアの機能が変化している点も注目される。湾岸戦争に始まる一連の戦争報道は、まさしくスペクタクル社会の形成を意味し、重要な政治的判断において、メディアの流す映像や情報が大きな影響を及ぼすようになったことは、各国政治指導者の選出過程がテレポリティクスと称され、またボスニア紛争における「民族浄化」の流通過程で広告代理店の関与が明らかになったことに端的に現れている(星浩・逢坂巌『テレビ政治――国会報道からTVタックルまで』朝日新聞社, 2006年や高木 徹『ドキュメント戦争広告代理店――情報操作とボスニア紛争 』講談社, 2002年)。それは、ジェームズ・ダーデリアンがMIME-NETと名づけた軍=産業=メディア=娯楽業界の協働によって展開する象徴政治の時代を示唆している(「脅迫――9.11の前と後」K・ブース&T・ダン編『衝突を超えて――9.11後の世界秩序』日本経済評論社, 2003年)。
また「1968年」を担った主要な勢力は、国家中枢にいるエリートではなく、既存秩序に違和感を覚えていた人々であり、前述したように彼らが組織した運動がメディアを通じて世界各地とネットワーク化されていった点は、1999年のシアトルのWTO会議に際して盛り上がった反グローバリズム運動と重なり合う。世界政治における非国家主体の重要性が指摘されて久しいが、国家間の厳しい対立状況にあった冷戦期においては、こうした社会運動の影響は過小評価されてきた。しかし冷戦終結過程、とくにゴルバチョフの新思考外交の知的源泉が、パグウォッシュ会議や核戦争防止国際医師会議のような東西間を越えた社会ネットワークの活動に求められることを考えると(入江昭『グローバル・コミュニティ――国際機関・NGOがつくる世界』早稲田大学出版部, 2006年)、社会運動の役割は漸進的に増していっていることがわかる。あるいは、「長い21世紀」の反システム運動のひとつとして位置づけることもできるかもしれず、それは、アントニオ・ネグリが希望を託すマルチチュードの連帯へとつながる可能性を含んでいるとみなすこともできる(『マルチチュード――<帝国>時代の戦争と民主主義』日本放送出版協会, 2005年)。
他方で「1968年」が体現した「自由・正義」といった普遍的理念に関していえば、G・アリギらによれば(『反システム運動』大村書店, 1998年)、「1968年」の後始末という意味合いを持つ「1989年」の東欧革命がちょうど200年前のフランス革命が提起した理念の再発見・再始動・再発明、つまり「再演」でもあったことは、いわゆる「退屈な時代」において普遍主義を標榜することに伴う困難性を示している。もはや「大きな物語」の成立が不可能な現状にあって、あえてそれを掲げることは、現在のブッシュ政権の政策が象徴するように、否応なく暴力性を発現せざるをえない。人々に希望をもたらす理念や価値同士の非通約性が常態化する「長い21世紀」は、「1968年」に出現した「世界革命の想像の共同体」を許容できる空間とはいえない。
「1968年」が(潜在的)世界革命であり、その後の1970年代の世界を特徴付けるデタントは革命に対する対抗革命の役割を担ったとすれば(Jeremi Suri, Power and Protest: Global Revolution and the Rise of Detente, Harvard University Press, 2003.)、冷戦の終焉に端を発する「長い21世紀」の最初の10年間も(潜在的な)革命の可能性を内包していた時期であったといえないだろうか。そして2001年の同時多発テロとそれに続く「テロとの戦争」は、ちょうど「1968年」に対するデタントの関係と同じように機能していると捉えることができるかもしれない。「1968年」に現在性を看取するこれまでの議論も「相似型の時代認識」のひとつであり、類推以上のものを示すものではない。しかし「1968年」が喚起する想像力がはるかに長い射程を持っていることも確かであろう。
20世紀史において「1968年」は、同時代に生きた人々はもちろんのこと、実体験を持たない人々にとって、重要な意義を持つ象徴的な年である。それから40年近くを経た現在「1968年」に関心が向けられる背景として、(日本でいえば全共闘世代にあたる)当時の時代状況に異議を申し立てしていた人々が自らの人生を省みる行為の一環が指摘できるだろう(たとえば、島泰三『安田講堂 1968-1969』中央公論新社, 2005年)。また冷戦後の「長い21世紀」の基調となっている(新自由主義的)グローバリゼーションに対する抗議運動の主張や形態が「1968年」の情景を想起させ、「1968年」と比較対照する契機となっていることもある(すが秀実編『思想読本(11)1968』作品社, 2005年)。
「1968年」を中心にその前後を含めた1960年代の世界の特徴は、菅英輝によれば、(1)国内政治と国際政治の共鳴現象、(2)国際政治の構造的変動による冷戦の変容、(3)ナショナリズムの高揚による冷戦の脱イデオロギー化、(4)リベラリズムの興隆およびその行き詰まりの4点にある(「冷戦の終焉と60年代性――国際政治史の文脈において 」『国際政治』126号, 2001年: 3-5頁)。それは、第二次大戦後に創られた冷戦秩序が大きな転機あるいは変容に直面していたことを意味している。石井修の表現を借りれば、冷戦の前線であったヨーロッパの現状維持・安定化がもたらした「冷戦の55年体制」が揺らぎ始め、その臨界点に達しようとしていた時期でもある(「冷戦の『55年体制』」『国際政治』100号, 1994年)。
こうして1960年代に冷戦秩序はひとつの転機を迎えることになった。その端緒は、冷戦において前哨を構成していた2つの地域、アジアとヨーロッパにおける危機に求められる。すなわち1958年のベルリン危機および第二次台湾海峡危機であり、その流れは、米ソ間の核戦争の一歩手前の状況までに至った1962年のキューバ・ミサイル危機に帰結していく。いわゆる「危機の時代」の経験が1960年代の世界、とくに米ソ関係の方向性を規定していった。つまりホットラインの開設や部分的核実験停止条約の締結に見られるように、米ソ両国は、緊張緩和の方向に舵を切ることで、「危機の時代」を収拾し、(米ソにとって)「安定の時代」への移行を模索した。
しかしながら、全面核戦争の回避を共通利益とする米ソ「協調」体制の確立は、同時に両ブロック内部の支配/統治関係の再編成をもたらした。西側世界では、ヴェトナム戦争が泥沼化の兆しを見せ始めたことでアメリカの覇権に対する懐疑が広まっていった。それに呼応するかのように、主要な同盟国であるフランスが北大西洋条約機構(NATO)と距離を置き、ソ連との関係改善を目指す独自の外交を展開する動きを開始し、後に展開される西ドイツの東方外交とともに、ヨーロッパ分断状況の「克服」が政策課題として提起された。他方、東側陣営でも同様に、ソ連の支配権力を揺るがす状況が生じていた。それは、ワルシャワ条約機構の改革を訴え、西ドイツとの国交樹立を果たしたルーマニアの独自路線や、第三世界の民族解放運動において影響力を持ち始めた中国の存在感に象徴される。米ソ関係の安定化の代償として、それぞれのブロックを秩序付けていた関係性の溶解/多元化が見られたのが1960年代であったということができる。
20世紀史において重大な転換期であった1960年代のなかでも、とりわけ象徴的意味を持ち、この時代の矛盾を集約的に示したのが「1968年」であった。「1968年」は、世界各地で既存の価値観、概念、枠組み、さらには社会体制の基盤や正統性に対して疑問が投げかけられ、それらを根本的に揺るがす事件や運動が相次いで起こった意味で、まさしく20世紀における転換点の一つといえる。イマニュエル・ウォーラーステインの言葉を借りるならば、「近代世界システムの歴史形成に関わる重大な事象の一つであり、分水界的事象とも呼ぶべき性格」を有していた年であった(『ポスト・アメリカ――世界システムにおける地政学と地政文化』藤原書店, 1991年: 114-5頁)。
そして「1968年」が今日的意味で重要と思われる点は、そのトランスナショナルあるいはグローバルな現象としての性格にある。キャロル・フィンクらの共同研究によれば(Carole Fink, Philipp Gassert, and Detlef Junker eds., 1968: the World Transformed, Cambridge University Press, 1998)、「1968年」は、第1に、冷戦史における分岐点としての意味を持っており、その終焉に向けた構造的条件の萌芽であった。米ソが支配する冷戦秩序は、現実面では多極化やケインズ主義経済の行詰りに直面する一方、その理念やイデオロギー面でも厳しい批判の眼に曝された。第2に、当時一般家庭にも普及し始めていたテレビをはじめとするメディアが担った役割が指摘できる。局所的に現出していた抗議運動の参加者たちは、各種メディアを通じて自分たちと同じように既存の秩序や価値観に反発し、変革を求める人々の存在を知ることになった。そしてそれら個別に展開していた抗議運動が東西間あるいは南北間の境界を越えてネットワーク化された点、つまり抗議運動のグローバリゼーションが生じたことに第3の意味がある。そして第4にネットワークで結びついた各地の抗議運動を支えていたのが「自由や正義」といった理念や価値観であり、それら価値観の伝播および共有を通じて一種の「世界革命という想像の共同体」が醸成された点も「1968年」を特徴付ける要素である。
このように「1968年」を提起する問題群はすぐれて現在的な意義を有している。「1968年」の現在性に注目するならば、次のような類推が成り立ちうるだろう。第1に、現代世界を主導する新自由主義的なグローバリゼーションの直接的な基点を求めるとき、とりわけアメリカの文脈において「1968年」の抗議運動(反戦・黒人・女性など)に対する対抗運動として、新自由主義が登場してきたことの意味は重要だろう。フォード主義からポストフォード主義に移行する過程で、「偉大な社会」構想を掲げた民主党政権と同一視されたケインズ型の福祉国家が批判に曝され、規制緩和と民営化を軸とする「小さな政府」論が今後の国家モデルとなった意味で、「1968年」(とそれへの対抗)が触媒となり、今日のグローバリゼーションの基盤が形成されたといえる。
第2に、メディアの役割がいっそう重要性を増している点が挙げられる。「1968年」当時は依然としてテレビの影響力は、西側世界に限定されていたが、IT革命が席巻した「長い21世紀」において世界各地の出来事は容易に伝達される。むしろメディアに流れる情報量の過多によって大半の情報がノイズとして見向きもされないままになっているのが現状だろう。またメディアの権力性に対する意識が高まったことによって、監視し批判するという従来持たれていたメディアの機能が変化している点も注目される。湾岸戦争に始まる一連の戦争報道は、まさしくスペクタクル社会の形成を意味し、重要な政治的判断において、メディアの流す映像や情報が大きな影響を及ぼすようになったことは、各国政治指導者の選出過程がテレポリティクスと称され、またボスニア紛争における「民族浄化」の流通過程で広告代理店の関与が明らかになったことに端的に現れている(星浩・逢坂巌『テレビ政治――国会報道からTVタックルまで』朝日新聞社, 2006年や高木 徹『ドキュメント戦争広告代理店――情報操作とボスニア紛争 』講談社, 2002年)。それは、ジェームズ・ダーデリアンがMIME-NETと名づけた軍=産業=メディア=娯楽業界の協働によって展開する象徴政治の時代を示唆している(「脅迫――9.11の前と後」K・ブース&T・ダン編『衝突を超えて――9.11後の世界秩序』日本経済評論社, 2003年)。
また「1968年」を担った主要な勢力は、国家中枢にいるエリートではなく、既存秩序に違和感を覚えていた人々であり、前述したように彼らが組織した運動がメディアを通じて世界各地とネットワーク化されていった点は、1999年のシアトルのWTO会議に際して盛り上がった反グローバリズム運動と重なり合う。世界政治における非国家主体の重要性が指摘されて久しいが、国家間の厳しい対立状況にあった冷戦期においては、こうした社会運動の影響は過小評価されてきた。しかし冷戦終結過程、とくにゴルバチョフの新思考外交の知的源泉が、パグウォッシュ会議や核戦争防止国際医師会議のような東西間を越えた社会ネットワークの活動に求められることを考えると(入江昭『グローバル・コミュニティ――国際機関・NGOがつくる世界』早稲田大学出版部, 2006年)、社会運動の役割は漸進的に増していっていることがわかる。あるいは、「長い21世紀」の反システム運動のひとつとして位置づけることもできるかもしれず、それは、アントニオ・ネグリが希望を託すマルチチュードの連帯へとつながる可能性を含んでいるとみなすこともできる(『マルチチュード――<帝国>時代の戦争と民主主義』日本放送出版協会, 2005年)。
他方で「1968年」が体現した「自由・正義」といった普遍的理念に関していえば、G・アリギらによれば(『反システム運動』大村書店, 1998年)、「1968年」の後始末という意味合いを持つ「1989年」の東欧革命がちょうど200年前のフランス革命が提起した理念の再発見・再始動・再発明、つまり「再演」でもあったことは、いわゆる「退屈な時代」において普遍主義を標榜することに伴う困難性を示している。もはや「大きな物語」の成立が不可能な現状にあって、あえてそれを掲げることは、現在のブッシュ政権の政策が象徴するように、否応なく暴力性を発現せざるをえない。人々に希望をもたらす理念や価値同士の非通約性が常態化する「長い21世紀」は、「1968年」に出現した「世界革命の想像の共同体」を許容できる空間とはいえない。
「1968年」が(潜在的)世界革命であり、その後の1970年代の世界を特徴付けるデタントは革命に対する対抗革命の役割を担ったとすれば(Jeremi Suri, Power and Protest: Global Revolution and the Rise of Detente, Harvard University Press, 2003.)、冷戦の終焉に端を発する「長い21世紀」の最初の10年間も(潜在的な)革命の可能性を内包していた時期であったといえないだろうか。そして2001年の同時多発テロとそれに続く「テロとの戦争」は、ちょうど「1968年」に対するデタントの関係と同じように機能していると捉えることができるかもしれない。「1968年」に現在性を看取するこれまでの議論も「相似型の時代認識」のひとつであり、類推以上のものを示すものではない。しかし「1968年」が喚起する想像力がはるかに長い射程を持っていることも確かであろう。