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constructive monologue

エゴイストの言説遊戯

始まりの1968年

2006年06月30日 | knihovna
マーク・カーランスキー『1968――世界が揺れた年』(ソニーマガジンズ, 2006年)

20世紀史において「1968年」は、同時代に生きた人々はもちろんのこと、実体験を持たない人々にとって、重要な意義を持つ象徴的な年である。それから40年近くを経た現在「1968年」に関心が向けられる背景として、(日本でいえば全共闘世代にあたる)当時の時代状況に異議を申し立てしていた人々が自らの人生を省みる行為の一環が指摘できるだろう(たとえば、島泰三『安田講堂 1968-1969』中央公論新社, 2005年)。また冷戦後の「長い21世紀」の基調となっている(新自由主義的)グローバリゼーションに対する抗議運動の主張や形態が「1968年」の情景を想起させ、「1968年」と比較対照する契機となっていることもある(すが秀実編『思想読本(11)1968』作品社, 2005年)。

「1968年」を中心にその前後を含めた1960年代の世界の特徴は、菅英輝によれば、(1)国内政治と国際政治の共鳴現象、(2)国際政治の構造的変動による冷戦の変容、(3)ナショナリズムの高揚による冷戦の脱イデオロギー化、(4)リベラリズムの興隆およびその行き詰まりの4点にある(「冷戦の終焉と60年代性――国際政治史の文脈において 」『国際政治』126号, 2001年: 3-5頁)。それは、第二次大戦後に創られた冷戦秩序が大きな転機あるいは変容に直面していたことを意味している。石井修の表現を借りれば、冷戦の前線であったヨーロッパの現状維持・安定化がもたらした「冷戦の55年体制」が揺らぎ始め、その臨界点に達しようとしていた時期でもある(「冷戦の『55年体制』」『国際政治』100号, 1994年)。

こうして1960年代に冷戦秩序はひとつの転機を迎えることになった。その端緒は、冷戦において前哨を構成していた2つの地域、アジアとヨーロッパにおける危機に求められる。すなわち1958年のベルリン危機および第二次台湾海峡危機であり、その流れは、米ソ間の核戦争の一歩手前の状況までに至った1962年のキューバ・ミサイル危機に帰結していく。いわゆる「危機の時代」の経験が1960年代の世界、とくに米ソ関係の方向性を規定していった。つまりホットラインの開設や部分的核実験停止条約の締結に見られるように、米ソ両国は、緊張緩和の方向に舵を切ることで、「危機の時代」を収拾し、(米ソにとって)「安定の時代」への移行を模索した。

しかしながら、全面核戦争の回避を共通利益とする米ソ「協調」体制の確立は、同時に両ブロック内部の支配/統治関係の再編成をもたらした。西側世界では、ヴェトナム戦争が泥沼化の兆しを見せ始めたことでアメリカの覇権に対する懐疑が広まっていった。それに呼応するかのように、主要な同盟国であるフランスが北大西洋条約機構(NATO)と距離を置き、ソ連との関係改善を目指す独自の外交を展開する動きを開始し、後に展開される西ドイツの東方外交とともに、ヨーロッパ分断状況の「克服」が政策課題として提起された。他方、東側陣営でも同様に、ソ連の支配権力を揺るがす状況が生じていた。それは、ワルシャワ条約機構の改革を訴え、西ドイツとの国交樹立を果たしたルーマニアの独自路線や、第三世界の民族解放運動において影響力を持ち始めた中国の存在感に象徴される。米ソ関係の安定化の代償として、それぞれのブロックを秩序付けていた関係性の溶解/多元化が見られたのが1960年代であったということができる。

20世紀史において重大な転換期であった1960年代のなかでも、とりわけ象徴的意味を持ち、この時代の矛盾を集約的に示したのが「1968年」であった。「1968年」は、世界各地で既存の価値観、概念、枠組み、さらには社会体制の基盤や正統性に対して疑問が投げかけられ、それらを根本的に揺るがす事件や運動が相次いで起こった意味で、まさしく20世紀における転換点の一つといえる。イマニュエル・ウォーラーステインの言葉を借りるならば、「近代世界システムの歴史形成に関わる重大な事象の一つであり、分水界的事象とも呼ぶべき性格」を有していた年であった(『ポスト・アメリカ――世界システムにおける地政学と地政文化』藤原書店, 1991年: 114-5頁)。

そして「1968年」が今日的意味で重要と思われる点は、そのトランスナショナルあるいはグローバルな現象としての性格にある。キャロル・フィンクらの共同研究によれば(Carole Fink, Philipp Gassert, and Detlef Junker eds., 1968: the World Transformed, Cambridge University Press, 1998)、「1968年」は、第1に、冷戦史における分岐点としての意味を持っており、その終焉に向けた構造的条件の萌芽であった。米ソが支配する冷戦秩序は、現実面では多極化やケインズ主義経済の行詰りに直面する一方、その理念やイデオロギー面でも厳しい批判の眼に曝された。第2に、当時一般家庭にも普及し始めていたテレビをはじめとするメディアが担った役割が指摘できる。局所的に現出していた抗議運動の参加者たちは、各種メディアを通じて自分たちと同じように既存の秩序や価値観に反発し、変革を求める人々の存在を知ることになった。そしてそれら個別に展開していた抗議運動が東西間あるいは南北間の境界を越えてネットワーク化された点、つまり抗議運動のグローバリゼーションが生じたことに第3の意味がある。そして第4にネットワークで結びついた各地の抗議運動を支えていたのが「自由や正義」といった理念や価値観であり、それら価値観の伝播および共有を通じて一種の「世界革命という想像の共同体」が醸成された点も「1968年」を特徴付ける要素である。

このように「1968年」を提起する問題群はすぐれて現在的な意義を有している。「1968年」の現在性に注目するならば、次のような類推が成り立ちうるだろう。第1に、現代世界を主導する新自由主義的なグローバリゼーションの直接的な基点を求めるとき、とりわけアメリカの文脈において「1968年」の抗議運動(反戦・黒人・女性など)に対する対抗運動として、新自由主義が登場してきたことの意味は重要だろう。フォード主義からポストフォード主義に移行する過程で、「偉大な社会」構想を掲げた民主党政権と同一視されたケインズ型の福祉国家が批判に曝され、規制緩和と民営化を軸とする「小さな政府」論が今後の国家モデルとなった意味で、「1968年」(とそれへの対抗)が触媒となり、今日のグローバリゼーションの基盤が形成されたといえる。

第2に、メディアの役割がいっそう重要性を増している点が挙げられる。「1968年」当時は依然としてテレビの影響力は、西側世界に限定されていたが、IT革命が席巻した「長い21世紀」において世界各地の出来事は容易に伝達される。むしろメディアに流れる情報量の過多によって大半の情報がノイズとして見向きもされないままになっているのが現状だろう。またメディアの権力性に対する意識が高まったことによって、監視し批判するという従来持たれていたメディアの機能が変化している点も注目される。湾岸戦争に始まる一連の戦争報道は、まさしくスペクタクル社会の形成を意味し、重要な政治的判断において、メディアの流す映像や情報が大きな影響を及ぼすようになったことは、各国政治指導者の選出過程がテレポリティクスと称され、またボスニア紛争における「民族浄化」の流通過程で広告代理店の関与が明らかになったことに端的に現れている(星浩・逢坂巌『テレビ政治――国会報道からTVタックルまで』朝日新聞社, 2006年高木 徹『ドキュメント戦争広告代理店――情報操作とボスニア紛争 』講談社, 2002年)。それは、ジェームズ・ダーデリアンがMIME-NETと名づけた軍=産業=メディア=娯楽業界の協働によって展開する象徴政治の時代を示唆している(「脅迫――9.11の前と後」K・ブース&T・ダン編『衝突を超えて――9.11後の世界秩序』日本経済評論社, 2003年)。

また「1968年」を担った主要な勢力は、国家中枢にいるエリートではなく、既存秩序に違和感を覚えていた人々であり、前述したように彼らが組織した運動がメディアを通じて世界各地とネットワーク化されていった点は、1999年のシアトルのWTO会議に際して盛り上がった反グローバリズム運動と重なり合う。世界政治における非国家主体の重要性が指摘されて久しいが、国家間の厳しい対立状況にあった冷戦期においては、こうした社会運動の影響は過小評価されてきた。しかし冷戦終結過程、とくにゴルバチョフの新思考外交の知的源泉が、パグウォッシュ会議や核戦争防止国際医師会議のような東西間を越えた社会ネットワークの活動に求められることを考えると(入江昭『グローバル・コミュニティ――国際機関・NGOがつくる世界』早稲田大学出版部, 2006年)、社会運動の役割は漸進的に増していっていることがわかる。あるいは、「長い21世紀」の反システム運動のひとつとして位置づけることもできるかもしれず、それは、アントニオ・ネグリが希望を託すマルチチュードの連帯へとつながる可能性を含んでいるとみなすこともできる(『マルチチュード――<帝国>時代の戦争と民主主義』日本放送出版協会, 2005年)。

他方で「1968年」が体現した「自由・正義」といった普遍的理念に関していえば、G・アリギらによれば(『反システム運動』大村書店, 1998年)、「1968年」の後始末という意味合いを持つ「1989年」の東欧革命がちょうど200年前のフランス革命が提起した理念の再発見・再始動・再発明、つまり「再演」でもあったことは、いわゆる「退屈な時代」において普遍主義を標榜することに伴う困難性を示している。もはや「大きな物語」の成立が不可能な現状にあって、あえてそれを掲げることは、現在のブッシュ政権の政策が象徴するように、否応なく暴力性を発現せざるをえない。人々に希望をもたらす理念や価値同士の非通約性が常態化する「長い21世紀」は、「1968年」に出現した「世界革命の想像の共同体」を許容できる空間とはいえない。

「1968年」が(潜在的)世界革命であり、その後の1970年代の世界を特徴付けるデタントは革命に対する対抗革命の役割を担ったとすれば(Jeremi Suri, Power and Protest: Global Revolution and the Rise of Detente, Harvard University Press, 2003.)、冷戦の終焉に端を発する「長い21世紀」の最初の10年間も(潜在的な)革命の可能性を内包していた時期であったといえないだろうか。そして2001年の同時多発テロとそれに続く「テロとの戦争」は、ちょうど「1968年」に対するデタントの関係と同じように機能していると捉えることができるかもしれない。「1968年」に現在性を看取するこれまでの議論も「相似型の時代認識」のひとつであり、類推以上のものを示すものではない。しかし「1968年」が喚起する想像力がはるかに長い射程を持っていることも確かであろう。

絶対化を希求する心性

2006年05月06日 | knihovna
春江一也『ウィーンの冬』(集英社インターナショナル, 2005年)

先月NHK-FM「青春アドベンチャー」で、第1作『プラハの春』(集英社, 1997年)が放送されていた元外交官春江一也の最新刊。堀江三部作の完結編に当たる本書は、ベルリンの壁崩壊から湾岸戦争勃発にかけての世界を背景に、それまで厳然と聳えていたソ連の脅威が消えていく中、「ポスト冷戦」世界における新しい脅威の「典型」というべきイスラム過激派、イラク、北朝鮮、新興宗教団体を総動員して、それらが画策する陰謀が冬のウィーンを舞台に繰り広げられるストーリー展開となっている。

春江自身をモデルしている堀江が本書では中年オヤジの域に達していることもあり、派手なアクション・シーンよりも、魔都ウィーンの性格を補助線としながら、地下世界で蠢く「新たな脅威」が徐々にネットワークとして結びついていく過程を描くことに重点がおかれている。

先述したように、本書の世界観が依拠しているのは「ポスト冷戦」という時代状況である。世界を破滅に導く陰謀の進展とそれを阻止する諜報機関という構図は、スパイ小説の典型的なプロットであり、まさしく冷戦の産物でもあったわけであるが、冷戦の終焉は、それまでソ連および共産主義を「敵/他者」として設定すれば、大方のストーリーが出来上がり、あとは周辺的な描写にどのような修飾を施すかにその評価がかかっていたこの手の小説世界にアイデンティティ危機をもたらした。

おそらく本書の描くプロットも、冷戦終焉前後の同時代的文脈のなかでは、浮かび上がることはなかったであろう。それは、現代世界が「ポスト」ポスト冷戦に移行したことを意味している。つまり大文字の他者/脅威であるソ連の消滅した後、それに取って代わるような敵/適役を見出せない状況が10年あまりの時を経てようやく解消されたことを意味する。しかし1990年代の世界における対立軸あるいは脅威の源泉は、かつてのソ連のような圧倒的な、かつ目に見える脅威ではなく、小粒で不可視の脅威であり、複数の脅威がネットワーク化しなければ、小説の世界観を支えるだけの存在感を持ち得ない。

冷戦終結前後に小説の舞台を定めたとき、こうした脅威の移行あるいは変質を組み込む作業が必要となる点は理解できるが、その一方で、オウム真理教をモチーフにした宗教カルト集団、サダム・フセイン、ビンラディン、北朝鮮、旧ソ連の武器商人と、考えられる限りの「脅威」を並べ立て、それぞれが地下水脈で結びついているという構図は、事大主義的な雰囲気を感じさせる。「歴史の後知恵」と一蹴してしまえばそれまでだが、「脅威」の安売り状態とも形容できる状況は、小説の登場人物それぞれの個性を殺してしまい、彼らとは無関係な力学が作用しているかのような印象を与える。

しかも「脅威」の側にいる人物たちの描写は、きわめてステレオタイプに満ちており、彼らの人間性は限りなく剥奪されている。このことは、明確な「脅威」を失った時代状況に対する春江自身の認識を示唆している。すなわち、彼にとって、何らかの「脅威/他者」の存在は欠かせないものであり、あるいはそうした友敵関係がしっかりと見える世界を常態とみなす認識が反映されている。このような心性に囚われている限りにおいて、小説の構成は陳腐な勧善懲悪の物語になり、現実世界を構成する複雑性の位相がすっぽりと抜け落ちてしまう。その結果、人間性に溢れるはずの堀江も、冷戦思考から脱却できない「頭の固いオッサン」にすぎない平凡な人物にしか見えなくなる。

小説の端々で、堀江は日本人の「平和ボケ」を揶揄する言葉を発し、またカルト教団のテロ計画を「ヴァーチャルなシミュレーションで、安っぽいテレビゲーム」と批判しているが(357頁)、それと同じ程度に、堀江=春江の世界も、現実世界から遊離したヴァーチャルな関係性に支えられている。かつて笠井潔が福井晴敏『川の深さは』(講談社, 2000年)を評して述べたように(『徴候としての妄想的暴力――新世紀小説論』平凡社, 2003年)、明示的あるいは暗示的にかかわらず国家や国際政治を題材にした小説において、日本の不甲斐なさを「告発する」論理自体がすぐれて理念主義的であり、そこには現実感の欠如が看取される。坂本義和の議論に従えば(『相対化の時代』岩波書店, 1997年)、「相対化の時代」にあるポスト冷戦状況で「絶対化の時代」への郷愁あるいはそこに回帰しようとする欲望は、2005年に刊行された本書の「新しさ」を奪い、通俗的なスパイ小説の域に押し込めてしまっている。単純な二項対立の不毛さが指摘されて久しいにもかかわらず、それを再生産しようという衝動が依然として根強いことを、『ウィーンの冬』は垣間見せてくれる。

辺境から眺める韓国

2006年04月08日 | knihovna
文京洙『韓国現代史』(岩波書店, 2005年)

「他国民に対する好悪の感情にいつも囚われる国民は、ある意味で奴隷になる。そうした国民は憎悪または愛情の奴隷なのである」とはアメリカ初代大統領ジョージ・ワシントンの言葉であるが(トクヴィル『アメリカのデモクラシー第1巻(下)』岩波書店, 2005年: 106頁)、このところの日韓関係をめぐる言説状況を支配するのはまさしく好悪の感情だといえる。先日、韓国紙『中央日報』が「スクープ」した日本外務省の内部報告書において「反日政策の有用性」が韓国政府の対日政策を規定していると分析されているのも同一線上に位置付けることができる(「韓国:日本外務省の内部報告書、中央日報が入手し掲載――半島情勢分析」『毎日新聞』4月6日)。

この点を敷衍すれば、日本と韓国双方におけるナショナル・アイデンティティ形成と維持過程は、自らの否定形イメージを投射するものであり、その基盤を強化するうえで、好悪の感情に訴えかけることはいわば「安上がり」の方法であろう。しかし、「安上がり」であるがゆえに、そして移ろいやすい「感情」に依拠しているため、それはつねに不安定性を内在しているともいえる。したがって振幅を抑えるために、国内の異質性、すなわち他者の存在をできる限り排除し、内的な一体性を高めることが要求される。内的な差異が外的な差異へと転化する力学がここで作動するわけだが、それは「媚韓」といった表象に端的に見られる現象である。国内において存在しないはずの「他者」、しかしどうしてもその存在が視界に入らざるをえない状況にあって、外的「他者」と結びつけることによって、内的「他者」に居場所が与えられる。もちろん彼らは、国民の一体性を脅かす存在であり、あくまでも「他者」でしかない。

韓国が「戦後」歩んできた道程を追う本書は、こうしたナショナル・アイデンティティ形成のメカニズムに寄り添う形で叙述される傾向が強い歴史(いわゆる国民史)としてではなく、そうした歴史の語り口によっては捉え切れない、あるいは不可視化されがちな「周縁」から、韓国の戦後史を逆照射する試みである。たしかに岩波書店+在日コリアンという組み合わせのため、先験的に一定の読者層を選んでしまう可能性を排除できない。しかし、単なる日本批判・告発とその裏返しである韓国の被害者像(の一体性)を再生産するような通俗的な歴史叙述自体を相対化することにこそ、著者の意図がある。すなわち日本以上に国民国家の典型ともいえる韓国の現代史を「周縁」から照射することで浮かび上がってくる韓国像は、同質的な国民からなる時空間によって支えられているのではなく、その実態は国民形成・維持の過程を通じて生み出される「内なる他者」を抱えた流動的な韓国の歴史であり、まさにそれゆえに強力な国民化、そして日本人の多くにとって奇異に感じられるほどのナショナリズムが表出してくる。その意味で、韓国社会に流れる強固な同質化作用は、日本のそれと安易に並列して論じることのできない、特有の文脈を抱えているといえるだろう。

さて朝鮮半島史において「他者」の位置を占めるのが湖南地方であり、それに対する偏見が国民形成と共同歩調をとる形で構築されてきた過程が劇的な形で表出したのが、済州島4・3事件であり、それは反共国家かつポスト植民地国家としての韓国の存在論的基盤を成すものである。韓国(史)における済州島の位置づけは、日本における沖縄のそれを容易に想起させる。そして国民化に沿った歴史叙述の射程から抜け落ちた地域であり、したがって国家/国民の一体性を希求する力学とは反対のベクトルを示し、単一ではなく複数の韓国(あるいは日本)を現前化させる。

いわゆる大戦争(major war)の終結は、新たな秩序構築の絶好の機会であり、多種多様な未来構想が語られる空間が出現する「稀有な」時期である(藤原帰一「世界戦争と世界秩序――20世紀国際政治への接近」『20世紀システム(1)構想と形成』東京大学出版会, 1998年)。日本の植民地支配から脱し、自前の国家を形成する可能性が開かれていた1945年から1950年は、まさしくいくつもの選択肢が眼前に提起された潜勢力に満ちた時期だった。著者の枠組みに従えば(『済州島現代史――公共圏の死滅と再生』新幹社, 2005年)、そこに公共圏の萌芽が看取できたわけだが、もちろんこうした公共圏の行末は、朝鮮半島をめぐる政治状況の進展に大きく左右されることになる。時間的な流れに沿って整理すれば、各地に出現した公共圏は、ソウルなど中心から徐々に解体され、次第に浸透していった冷戦の論理に絡めとられていくことになる。そしてこの過程が完了するのが済州島4・3事件である。周縁のなかの周縁という地政学的位置によって、済州島に成立した公共圏は比較的長期にわたって存続するが、このことは、周縁としての位置と、中心の政治潮流とは独自の空間を形成していた公共圏の存在によっていっそうその異質性が凝縮されて、済州島に注ぎ込み、凄惨な悲劇をもたらすことにもなる。

植民地支配からの解放が内戦状態へ転化し、それが国際化した朝鮮戦争を経て、韓国は、「分断国家」、そして冷戦の前哨国家として、戦後世界に登場してくる。米ソの代理戦争という側面以上に、国内の権力闘争の色彩が濃い朝鮮戦争は、「兄弟殺し」の様相に注目すれば、ポスト冷戦時代の特徴である民族紛争、あるいはメアリー・カルドーのいう「新しい戦争」と多くの類似点を持っている(『新戦争論――グローバル時代の組織的暴力』岩波書店, 2003年)。この点からも明らかなように、朝鮮半島、あるいは広く東アジアにおける冷戦の展開は、「平和でも戦争でもない」という一般的な冷戦理解と一線を画している。それは、しばしば同じ「分断国家」としてドイツと比較され、南北統一に向けた教訓をドイツ統一から汲み取ろうとする試みが物事の一面でしかないことを示している。別の言い方をすれば、戦後ドイツに課せられた分断と戦争責任という二重の「罪と罰」は、アジアにおいて、日本と韓国(朝鮮半島)が分担したため、南北統一が達成されたとしても、それがすぐに戦後の清算につながらない入り組んだ構造となっている。

戦後空間と冷戦空間の連続性を考慮に入れたとき、日韓による分業を背後から支えていたのがアメリカ政府であることは明らかで、この点は李鍾元の研究によって論証されている(『東アジア冷戦と韓米日関係』東京大学出版会, 1996年)。すなわち対立の最前線に位置する韓国に軍事的役割を任せる一方、その後衛に位置する日本をアジアの経済成長の拠点ならびに牽引役と位置付けることがアメリカの東アジア政策の主旋律をなしていた。この構造に依拠して、冷戦の前哨に立つ反共主義意識を鼓舞しながら、開発主義に基づく国家建設を進めたのが朴正熙だった。この体制は、アジアにおける冷戦体制、およびアメリカ政府の政策が根底から変わらない限り、受益者の立場を享受できた。もちろんその受益が一部特権層にしか行き渡らない歪んだものであったことは確かであるが、いわゆる「原始的蓄積」として、その後の経済発展をもたらす基盤となった点で両義的な性格を持っていた。

アジアの冷戦構造は、1970年代初めに大きな転換点を迎えた。いうまでもなくニクソンの訪中とそれがもたらした米中和解である。国家行動の変化を促す要因として、内的要因と外的要因があるとすれば、この時期、韓国政府が前提としていた国際環境の激変という国際要因が国内政治体制の変化に大きな影響を与えたといえる。反共主義が国家アイデンティティーの要として機能し、左派政党の不在によって、きわめて狭い思考空間が成立していた韓国にあっても、それが拠るべき前提の変貌を目の当たりにして、当然ながら既存の体制を支えていたイデオロギーからの離反が生じてくる。そして既存の理念に代わるイデオロギーや思想は、その歴史性に関係なく、共時的に流入・並存する形で1980年代の韓国公論を形作ることになった。こうした公論界におけるコミュニケーションの活性化は社会運動と連動していった過程に、1980年の光州事件を位置付けることができるだろう。

いわゆる冷戦の終結と体制転換の関係という視座から見た場合、両者がほぼ共時的に起こった東欧地域とは異なり、アジアでは、冷戦の(部分的)終結によって引き起こされた国内体制の動揺への対処策の一つとして体制転換、すなわち民主化があったと考えることができる。このことは、冷戦終結にもかかわらず、中国や北朝鮮において体制転換が起こらなかった理由の一端、そしてアジアの冷戦構造の特異性を示唆していると思われる。

民主化を成し遂げた韓国社会における課題の二大潮流が過去の復権とネット社会である。この2つは、相互補完的な関係にあり、ネット基盤の整備が従来とは異なる社会関係を作り出し、民主主義の深化/進化を促し、その民主主義に対するコミットメントの証左として過去の清算が提起される。そして、過去に向き合うことで、韓国(史)における民主主義あるいは公共圏が「再発見」されるとともに、政権の正当性にも寄与する。落選運動に象徴される、インターネットの普及によって政治のあり方が劇的に変貌し、従来の地域的感情に囚われないコミュニケーションのあり方が可能となりつつあると見ることもできるだろう。その一方で、著者が注意を促しているように(228-229頁)、ネット空間にアクセスできるための(物質的・言説)資源が等しく配分されていない状況がある。またネット社会の浸透によって、いっそう地域的な「差異」が強調され、別の形で抑圧・偏見の構造を再生産しているとも言われる(「人間データベース化するSNS」『アエラ』1月30日号: 40-45頁)。公共性と共同体に関する齋藤純一の議論に従えば(『公共性』岩波書店, 2000年)、ようやく定着しつつある韓国(史)における公共圏の行く末にとって重要なのは、閉じた同一性の論理に依拠した共同体の論理に対抗した、公共圏の創設および持続ということになるだろう。

二番煎じ

2006年04月05日 | knihovna
朝刊に目を通していると、広告欄に本山美彦『売られ続ける日本、買い漁るアメリカ――米国の対日改造プログラムと消える未来』(ビジネス社, 2006年)を見つける。タイトルからして、そして目次を一瞥しただけでも、関岡英之『拒否できない日本――アメリカの日本改造が進んでいる』(文春新書, 2004年)に便乗した本としか思えない。

京都大学教授という肩書きから、関岡本に比べて、実証性や科学性に裏付けられた考察が行われていることが当然のごとく期待されるわけだが、メディアに溢れる通俗的な言説や陰謀史観と変わりない見方に基づき、戦争の民営化とはほとんど無関係の既発論考を並列しただけの体系性に欠けた『民営化される戦争――21世紀の民族紛争と企業』(ナカニシヤ出版, 2004年)のような「前科」があるだけに、ほとんど読む誘因を喚起しない。

ある意味で、本山は、時流を嗅ぎ分ける感覚に秀でているといえるかもしれないが、そこから得た情報や知見を昇華させる能力には疑問を持たざるをえない。言い換えれば、あえて時流に棹差して事象の根底、あるいは丸山真男の表現を使えば「古層」に目を向けることが研究者とジャーナリズムを分かつ線だとすれば、本山は研究者としての職務を放棄しているに等しいのではないだろうか。そしてより不幸なことは、戦争の民営化や「ソフトな国家改造」といったすぐれて現代的な意義を持つグローバリゼーションに関わる事象に対する表層的な見解を提示され、反照的に検証する時間的余裕を持たない一般読者に一面的な知識が共有されてしまう可能性が排除できない点である。

エンドゲーム

2006年03月27日 | knihovna
600頁あまりの大部にもかかわらず、長谷川毅『暗闘――スターリン、トルーマンと日本降伏』(中央公論新社)の評判がいいようで、『朝日新聞』(3月5日:中西寛評)『毎日新聞』(3月26日:五百旗頭真評)などで取り上げられている。昨年刊行されたRacing the Enemy: Stalin, Truman, and the Surrender of Japan, Belknap Press, 2005. の日本語版になるわけだが、(客観的な)記述を意識した英語版に比べて、著者の仮説や主張を明確に打ち出すなど、いくつかの点で修正が加えられている。

これまで日本かアメリカの視点に立つ研究が大半を占めいていた終戦過程に、ソ連というアクターを介在させることで、日米に限定されていた(認識)空間の拡大と多次元化をもたらすとともに、時間的には、第二次大戦と冷戦の連続性あるいは一体性の位相を浮かび上がらせる点で、いわゆる「新しい冷戦史」の潮流に位置付けられる研究だといえる。また「聖断」を導いた要因として、原爆投下よりもソ連の参戦の衝撃を重視する見解を打ち出した点は、良くも悪くも「核兵器」に対する嫌悪感あるいは畏怖を無意識的に抱え、その存在を絶対化する傾向のある日本人の思考を中和する役割にも果たしている。

その終戦過程において、日本政府は最後までソ連による和平仲介に期待をかけていたことは周知の事実であるが(たとえば、進藤榮一『戦後の原像――ヒロシマからオキナワへ』岩波書店, 1999年など)、その端緒ともいうべき広田弘毅とマリク・ソ連大使の会談が行われた箱根のホテルを舞台にしたのが、井上ひさしの戯曲『箱根強羅ホテル』(集英社)である。

ふぉーすかみんぐ

2006年02月28日 | knihovna
当初は今月中に刊行予定だった福井晴敏の小説『Op.ローズダスト』(文藝春秋)は、3月15日に延びたわけだが、新作も上下巻あわせて1200頁あまりに及ぶようだ。図書館に所蔵されるか、ブックオフあたりの新古書店に並ぶのをまつか、それとも文庫版になった時点で購入するかになるだろう。

ついでながら、このところの体感治安の悪化を受けて、見直されつつある共同体/コミュニティをめぐるイギリス(在住)の社会学者による翻訳本が相次いで刊行される。理論的な内容のディランティの本は別として、少なくともバウマンの本については、副題からも明らかなように、巷に溢れる安易な共同体礼賛論ではないことは確かだろう。

ジェラード・デランティ『コミュニティ――グローバル化と社会理論の変容』(NTT出版)
・ジグムント・バウマン『コミュニティ――安全と自由の戦場』(筑摩書房)

trans-historicality

2006年02月16日 | knihovna
ヘンリー・R・ナウ『アメリカの対外関与――アイデンティティとパワー』(有斐閣, 2005年)を読了。訳者の一人である村田晃嗣の『アメリカ外交――苦悩と希望』(講談社, 2004年)のタネ本といってよい内容。アイデンティティとパワーの双方に目配りした「優等生」的アプローチからアメリカの外交政策を考察しているわけだが、あくまでもその基準となるのはアメリカの自由民主主義であり、それからどの程度の距離があるかによって、関与の度合いが違ってくると指摘する。当然のことながら、西ヨーロッパや日本などアメリカと同質性の高い諸国が優先されることになり、中国やロシアに対する評価は低い。しかしながら、この視点に立つ限り、異質な他者との関係は、他者を自らのアイデンティティに改宗するか、それとも放置するかの、かつて新大陸「発見」時のインディオに対するスペイン人の態度と変わるところがない。その意味でアメリカの知識人の世界観が無意識に反映されているといえる。

内容にかかわらない点を2つ。第1に、7章307および309頁で「イスラムの兄弟」という言葉が出てくる。おそらく「Muslim Brotherhood/Muslim Brothers」が原語だろうが、一般的にメディアなどでは「ムスリム同胞団」と訳されているはずだが、なぜ「イスラムの兄弟」を選択したのだろうか。第2に、終章346頁で「陥穽」に「かんせい」ではなく「かんへい」とルビが振られているが、「かんへい」と入力しても「陥穽」とは変換されない。単なる校正ミスだと思われるが、訳者も編集者も見逃すのはいただけない。

短評連作

2006年01月11日 | knihovna
『論座』2月号は興味深い論考が並んでいる。

・「靖国を語る 外交を語る:渡辺恒雄(読売新聞主筆)×若宮啓文(朝日新聞論説主幹)」

いつものことながら『朝日』と『産経』が靖国参拝をめぐって非生産的な独話を続けているが(産経抄1月11日)、『産経』の教条的な主張に、保守を自認する『読売』もさすがについていけなくなっているのだろう。

・芹沢一也「『子どもを守れ』という快楽――不安にとりつかれた社会で」

ここでも『産経』の社説が「安全神話の崩壊」を喧伝する代表的言説として取り上げられているが、「子どもの安全」をめぐっては、『朝日新聞』が継続的に報道している「子どもを守る」特集も同じ思考パターンであり、さらに公共広告機構のキャンペーン「子どもを守ろう」も著者が指摘する「恐怖と治安のスパイラル」に拍車をかけているといえるだろう。

・今井隆志「日本発の性・暴力表現は通用しない――『ソフトパワー』が抱えるリスク」

『論座』1月号のコラム「潮流05」で東浩紀が、アニメやマンガに代表される最近のコンテンツ産業をめぐる言説や陶酔感を痛烈に批判した大塚英志の著作(『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』角川書店, 2005年)を取り上げ、「苛立ち」を真摯に受け止める必要性を説いたことなど無にするかのような論調。しかもいっそうの普及のために内容の「無害化」を求める「純潔主義」の発想はそれこそ「オタク文化」の潜勢力を奪い、馴致するものであり、大塚がもっとも忌み嫌うところだろう。

・篠田英朗「平和構築の限界と無限――ジョン・レノンのメッセージは消えていない」
・ブルース・ブエノ・デ・メスキータ、ジョージ・W・ダウンズ「経済成長は本当に民主化を促すのか――中国の民主化はなぜ進展しない」
・ジョン・M・オーウェン「民主化途上にある国の危うさ――イラク民主化構想の落とし穴」

内戦後の国家再建が現代の重要課題となっていることを受けて、年末に「平和構築委員会」の創設が決まった(「国連:平和構築委員会創設の決議案採択 安保理でも」『毎日新聞』、「『平和構築委』創設決議を採択…国連が内戦荒廃国支援」『読売新聞』)。しかし、国家再建に関する制度が作られたとき、すでにそれが担うはずの「平和構築」の内実は大きく変わっている。篠田が指摘するように、その担い手は国連から有志連合や地域機構に移り、またポスト内戦社会のありうべき国家制度としての民主主義、そしてそれを達成する方法としての民主化や市場経済化に関して、現実との齟齬が指摘されている。和平合意、武装解除、選挙の実施といった一連の平和構築戦略が機能しない事例が1990年代を通じて見られたこともその背景にある。こうした平和構築をめぐる状況が流動的になっているところに、「平和構築委員会」が設置されるわけである。

soft state-building

2005年12月24日 | knihovna
関岡英之『拒否できない日本――アメリカの日本改造が進んでいる』(文藝春秋, 2004年)

『文藝春秋』12月号に掲載の「奪われる日本――『年次改革要望書』米国の日本改造計画」は、本書の続編にあたるわけだが、その論旨は一貫しており、むしろ「日本改造計画」はさらに奥深くまで及んでいることを物語っている。

「国のかたち」の転換が「横からの入力」によって進行している状況は、新自由主義に基づくグローバル化をどう理解するかという点と密接に関わっている。現在世界を席巻しているグローバル化の直接的な基点は、1970年前後、とりわけニクソン政権の金融通貨政策の変更に求められる。これによって自由貿易を基調とする世界経済と福祉国家の共犯関係(いわゆる「埋め込まれた自由主義」)が崩壊し、無限に肥大化する世界経済の動向に各国政府が翻弄されるパターンが定着していった。しかもサッチャーおよびレーガン政権が打ち出した「小さな政府」路線がこうした世界経済の基調と親和性を持っていた結果、国家および社会関係の自由化が不可欠の政策課題として浮上してきた。その趨勢は先進諸国を越えて広がり、直接的な影響の点では先進諸国以上の変革を経験したのが途上国であった。そこでは曲がりなりにも機能していた社会共通資本が「ワシントンコンセンサス」に基づく「外圧」によって引き裂かれ、いわば強制的にグローバル化に適合した国家-社会関係へと再編されていった。かつて「文明化の使命」を掲げて欧米諸国が植民地化を正当化したが、現在では「市場文明(化)の使命」に衣替えした形で再び登場してきているといえよう。

そしてその最終的な仕上げとも言うべきなのが2003年のイラク戦争とそれに続く「復興」という名の民主化・自由化である。フセイン政権下のイラクとは、まさしくグローバル化、そしてアメリカ政府が標榜する自由と民主主義という規範構造から逸脱した存在であり、アメリカ政府は、その矯正/強制手段として、武力行使に訴えて、グローバル化に順応した国家へと転換させたわけである。イラクの事例が露骨なまでの「国家改造計画」であり、戦争による体制転換という些か時代錯誤的な手法に基づくものだとすれば、関岡が注目する『年次改革要望書』を通じた「日本改造計画」は、主要国間の戦争が考えられなくなった「退屈な」現代世界に合致した政策であるといえるだろう。イラクの事例からも明らかなように、武力行使に伴うコストを考えた場合、『要望書』を通じた体制転換という方針はきわめてコストパフォーマンスに優れた、まさに新自由主義の理念を反映したものである。

現代世界を規定する規範構造が新自由主義であり、それから逸脱する行為に対して、貸付や援助の削減など何らかの制裁が課せられる状況を捉えて、スティーヴン・ギルはそれを「懲罰的新自由主義」と呼んだが(『地球政治の再構築――日米欧関係と世界秩序』朝日新聞社, 1996年および遠藤誠治「国際政治における規範の機能と構造変動――自由主義の隘路」藤原帰一ほか編『国際政治講座(4)国際秩序の変動』東京大学出版会, 2004年)、イラクの事例が剥き出しの暴力による制裁だった点で前近代的な権力行使に近かった一方で、日本の場合、アメリカの「要望」が日本の国内制度を通して政策に反映されるため、つまり外部からの規範を自らが内面化している点で「懲罰的/規律的」側面がいっそう強い。軍事力などのパワーに頼らなくとも、自由主義や市場経済といった理念あるいは規範のもつ影響力によって、国家の行動を変更させることが可能になっている。またサスキア・サッセンが言うように、単にグローバル化の圧力に政府が無条件に屈しているのではなく、国内の法制度を整備することで、グローバル資本の活動が容易になる環境を提供する役割を積極的に果たしているのである(『グローバリゼーションの時代――国家主権のゆくえ』平凡社, 1999年)。それゆえ、世界標準となっているアメリカの法令に合わせた形で法改正が進み、それがますますアメリカ資本の力を高める相乗効果をもたらしていく。

本書は、こうした新自由主義的なグローバル化の権力性の一端を垣間見せてくれる。しかし、そうした実態分析に比べると、著者の主張を支える認識は、国家間の問題に還元してしまう旧態依然のままにとどまっている。たとえば、アングロサクソンの個人主義に、日本の集団主義を対置させる手法は、使い古し、かつ批判され尽くされている「日本人論」の亜種に過ぎず、内部にあるはずの差異を外部に投影することによって、別言すれば、外部との差異を強調することで内部のそれを不可視にしてしまい(difference within to difference between)、今日のグローバル化に特徴的な脱領域的性格が見逃されている。アメリカや日本といったナショナルな記号が業界団体や企業の内実とどこまで一致するのか容易に同定できない。むしろナショナルな記号が空虚であることにグローバル資本が乗じていると理解したほうがよいだろう。企業文化や法文化にある程度ナショナルな位相が反映していることは当然であるが、そこに一貫した論理が働いているとみなすことは、安易なアメリカ批判に議論を矮小化してしまうことになる。

総じて論調は用意周到に日本社会の慣行や法体系を検討し、さまざまな手段を通じてその見直しを迫っているアメリカ政府や業界とは対照的に、ほとんど何も知らされていないまま、むしろ政官癒着構造に対する不信感を背景に、アメリカからの「外圧」を好意的に見る日本社会という構図に基づいている。あまりの日本の無自覚さに対する著者の「警告」を際立たせるため、あえてこうした構図を採ったともいえるが、攻勢のアメリカと守勢の/無自覚な日本という二元論は、著者が「あとがき」で述べるように「陰謀論」的読みを誘発する危険性を孕んでいることも確かである。あるいはアングロサクソン的自由が掲げる普遍性に潜むエゴを告発することに傾注するあまり、対抗策として提示されるのが日本固有の法の再興など「日本的なるもの」の再評価という、手垢に塗れた「普遍主義に対する特殊主義」の対置に落ち着いてしまっている。

アングロサクソン流の普遍主義に対する苛立ちは、近代日本が常に抱いているものである。第一次世界大戦後のパリ講和会議において、日本政府が提起した人種平等案が、普遍主義の体現者たるウィルソン自身によって葬り去られた事実は、近衛文麿の「英米本位の平和主義を排す」論文に見られる憤りをより強める方向に作用した。しかし、そうした日本の主張はアングロサクソンの普遍主義に対する批判として機能したとしても、それに取って代わる新たな普遍主義へと昇華することはなかった。中西寛が指摘するように、「英米の偽善を暴くことには急でありながら、その批判が自己の立場への反省ではなく、むしろ自らの立場を正当化する論拠」へと転化する可能性を排除できない。つまり中西が言うところの「偽善」と「独善」の決定的な違いに注意を向ける必要があるだろう(『国際政治とは何か――地球社会における人間と秩序』中央公論新社, 2003年: 7-14頁)。すくなくともアメリカには自国の利害を普遍主義に包めて標榜するだけの戦略がある。それに対して日本の「固有性」を掲げることは、日本の「内」において十分に機能するとしても、「外」において説得力をもつとは限らない(それは昨今の靖国問題を見ても明らかである)。

最後に、耐震強度偽装問題がメディアを賑わしている2005年末という状況において、本書を読んだとき、その冒頭で建築士資格の国際標準化や日本の建築基準法改正を取り上げていることは刊行当時に読んだ場合とは別の意味で興味深い問題を提起している。建築基準が仕様規定から性能規定に変更された背景にある論理は、安全性の強化ではなく、国際標準に適応する点にあったという。それによって「ツーバイフォー」などのアメリカ流の建築法が日本でも普及するようになった。おそらく今日の耐震強度偽装問題と直接的な因果関係を見出すことは難しいだろうが、性能規定への変更がコストパフォーマンスを重視する工法に対する需要を高める機会を提供したのではないかと思われる。また日本と海外の建築士に求められる素養の違いを述べた個所も興味深い点であり、偽装問題によって建築士内に一種のヒエラルキーが存在することが明らかになったが、そこにはアーティストとエンジニアの異なる素養が同居している「建築士」像が看取できる。

応用命題

2005年11月29日 | knihovna
中央公論新社の近刊案内によると、中公新書の1冊として、来月20日に岩下明裕『北方領土問題――4でも0でも、2でもなく』が刊行されるそうだ。先のプーチン来日で、領土問題の解決は当分見込めないことが明らかになる状況で、過去に武力衝突まで引き起こした中国との国境問題をロシアが決着させた点に着目して、「北方領土」問題への応用を試みる内容。

おそらく今年2月19日付けの『朝日新聞』掲載の「私の視点:北方領土・教訓与えた中ロ国境決着」の内容を膨らましたと思われるが、故秋野豊の意思を受け継ぐ行動派学者が、単なる思考実験に終わらない解決の糸口をどんな形で示すのか期待を持たせる。

ひとまず予備作業として、同じ著者の『中・ロ国境4000キロ』(角川書店, 2003年)を再読する価値がありそうだ。

illiberal but democratic Japan

2005年11月06日 | knihovna
坂野潤治『昭和史の決定的瞬間』(筑摩書房, 2004年)

歴史研究の醍醐味のひとつは、一般通念として自明視されてきた見方に対する修正を提起する点にある。その意味で論争の喚起を促す上で(学術的な)修正主義の存在は欠かせないものといえる。

坂野潤治の最近の研究は、まさにこうした通説に対するアンチテーゼを提示する最良の例である。たとえば近著『明治デモクラシー』(岩波新書)では、「上からの民主化」として描写されがちだった明治期の政治において、それに呼応する形の「下からの民主化」の動きがあったことを論じ、日本における民主主義の水脈が明治期にまで遡れることを明らかにしている。

ここで取り上げる『昭和史の決定的瞬間』の論点は、戦前の日本を「転落の歴史」(教条的右翼以外でも日露戦争から第二次世界大戦まで)として描く一般的歴史観に対する異議申し立てとなっている。その中で坂野が対象として注目するのが1936年から1937年にかけて、つまり二・二六事件から盧溝橋事件というまさに戦時体制が常態化していく時期である。大正デモクラシーの政党政治体制が崩壊し、軍の政治介入が進んでいった時期においても、テロを始点とし戦争を終点とする1年半の期間は、戦前昭和における転換点のひとつとされる。その過程が軍の伸張に政党勢力が為す術なく退潮していき、戦争へと一直線に突き進んでいったわけではないこと、反対に軍やファシズムの台頭への対抗運動が一定の基盤を持っていた状況下にあるにもかかわらず、戦争という結末に至った逆説がある。

すなわちこの時期、世界恐慌の影響を受け、資本主義経済が苦境に陥る中で支持を拡大していたのが無産階級を基盤とする社会大衆党であり、対外進出による軍拡を通じた生活改善という主張(広義国防論)は、経済的困窮に対し有効な政策を打ち出せない既存政党に対する批判であり、容易に陸軍の主張と同調していった。ここにおいて、大正デモクラシーを担った民政党などの既成政党は現状維持派とみなされたため、彼らが戦争やファシズムの危険を叫び、平和を訴えたところで「既得権益」の擁護という印象を払拭するまでには至らなかった。いわば現状打破という「改革」を表明することで、国民の間に鬱積していたルサンチマンを取り除く機能を果たしたのである。

いわば大衆社会の到来において、大正デモクラシーの政治とは一部のエリートたちが行う限定された政治に過ぎなかったといえる。したがって普選法の施行がそれまで政治の世界に届くことがなかった大衆の声を反映させる経路を整備したことによって、均衡状態にあった政治体制に変化が求められることになった。つまりこうした民主化の進展は曲がりなりにも機能していた大正デモクラシー体制を突き崩す条件にもなったわけであり、大衆社会における民主主義の健全な発展を促す仕組みが十分に整っていなかった戦前日本において、それは容易に大衆迎合主義への道につながっていった。第5章のタイトルが示唆するように「戦争は民主勢力の躍進の中で起こった」ことは、必ずしも民主主義が平和を保障するものではなく、むしろ戦争との親和性が高いことを示している。

坂野の考察から得られる含意として、第1に「民主主義国同士が戦争になることは稀である」という「民主主義の平和 democratic peace」(軽蔑的に「でもぴー」とも略される)をめぐる論争への介入事例を提示している点である(DP論の代表的な文献としてブルース・ラセット『パクス・デモクラティア――冷戦後世界への原理』東京大学出版会, 1996年)。それまで勢力均衡論ぐらいしか検証に耐えうるような理論らしきものが皆無だった国際政治学において、有望な仮説として脚光を浴びたDP論であるが、それゆえにこの仮説をめぐって、多くの批判が投げかけられている。とりわけ本来はすでに民主主義が定着した国家間の関係を念頭においた静態的な仮説が、非民主主義諸国に対する民主化支援というまったく別次元の動態的な方策に転用されたことによって、論争の構図が複雑化するとともに、否応なく政治性を帯びるようになった。

すでにE・マンスフィールドとJ・スナイダーの研究によって明らかにされているように、体制転換途上にある国家は、国内の矛盾を解決するためにしばしば対外戦争に打って出る傾向が強い(「民主化は本当に世界を平和にするか」『中央公論』1995年7月号)。この知見から見ると、戦前の日本が戦争を行ったのは単に軍部の暴走やファシズムに起因するだけでなく、民主化の途上にあったことも政策手段としての戦争が指導者にとって魅力的に映る環境を形成したといえる。

第2の含意として、戦前の日本像は、完全な軍ファシズム体制であるよりも、F・ザカリアがいうところの「リベラリズムなき民主主義 illiberal democracy」と見るほうが適切ではないだろうか(「市民的自由なき民主主義の台頭」『中央公論』1998年1月号、および『民主主義の未来――リベラリズムか独裁か拝金主義か』阪急コミュニケーションズ, 2004年)。ザカリアの議論によれば、法の支配や人権尊重といった自由主義的要素があってはじめて民主主義が十全に機能する。言い換えれば、自由主義規範がしっかり根付いていないところに民主化を進めた場合、それは人の支配を導き、ポピュリズムと何ら変わらないものとなる。この見地から戦前の日本を概観したとき、自由主義規範を限定的に摂取することで、いわば上辺だけの自由主義化となり、天皇制に典型的に見られるような伝統社会の上に民主化が進められたといえる。その結果、大正デモクラシーのような政治規範は一過性のものにとどまり、定着するまでに至らなかった。不可逆的な趨勢としての民主化の域まで達することがなかったのは自由主義規範の不徹底に求められると解釈することができるだろう。

その点に関連してDP論の代表的論者であるラセットが、数多くの批判を受けて戦争が起きにくい条件として民主主義に加えて、経済的要因と国際制度への関与を付け加えて、「自由主義の平和(liberal peace)」と再定式化したことは、戦争の防止において民主主義の果たす役割が当初の主張に比べて低く、ほかの規範とのセットによって平和が達成されることを示している(Triangulating Peace: Democracy, Interdependence, and International Organizations, with John R. Oneal, W. W. Norton, 2001.)。ラセットの修正仮説が民主主義だけでは政治的な安定は不可能であるというザカリアの主張と親和性を持ち、また坂野の考察からも裏付けられるものだといえる。

そして第3に現代的な含意を引き出すとすれば、戦後60年を迎えた現在の日本社会は果たしてどのように見えるだろうか。小泉首相の政治手法に戦前の大政翼賛会的雰囲気を看取する見解が9月の総選挙前後に見られ、また自民党の圧勝を受けてそうした認識が強化されると解することもできる。それに対する左派を中心とする対抗勢力の主張は総じて「民主主義」の視座から展開されているように思われる。しかし「戦争ができる国家」を阻止する側の論拠が民主主義と戦争の共犯関係に盲目的である限り、主導権をとることは難しいことだろう。その意味で、近代日本、とくに戦後日本において欠けていたのは民主主義ではなく自由主義ではなかったかという印象を深める含意がある。

chronopolitics 1979

2005年11月04日 | knihovna
古本屋にて入手した永井陽之助『時間の政治学』(中央公論社, 1979年)を読む。

グローバリゼーションの特徴として指摘される時空の圧縮、なかでも時間/速度の重要性については、その嚆矢といえるポール・ヴィリリオ『速度と政治――地政学から時政学へ』(平凡社)とほぼ同時期に(ヴィリリオの原著は1977年刊行)、国際政治における時間の意味合いを考察。

惜しむらくは、幾重にも展開可能なアイデアが原石状態で提示されている点だろう。本の性格も時事評論を集めて1冊にした域を脱せず、本格的な研究への試論としてのレベルに留まっている。邦語で正面から時間/速度の政治学を扱ったのが『現代思想』2002年1月号の特集「ヴィリリオ――戦争の変容と政治」まで待たなければならなかったわけだが、そもそも時政学に先立つ地政学、あるいは空間の政治学という視座さえも十分に研究し尽くされていないことを鑑みれば、永井の先見の明がいっそう際立つ。

時間の政治学というテーマとは直接的な関連性はないが、『中央公論』連載の「巻頭言」をまとめた一文で、「正しい見方と誤った見方ではなく、外からの見方と内からの見方がある」というケインズの言葉に触発される形で、「一般に、われわれは外に対しては、普遍的な原則論で立ち向かい、外からの攻撃に対しては、内部の特殊事情を強調して防戦する」(206頁)と指摘している点は、ライブドアとフジテレビの攻防、あるいは中韓の靖国参拝批判に対する典型的な反論など最近メディアを賑わす事件に象徴的に見られる言説構造を想起させる。

亡国のポリフォニー

2005年10月29日 | knihovna
『諸君』や『正論』などと比べて、同人誌的ノリが否めない左翼系雑誌『インパクション』『前夜』に、相次いで『亡国のイージス』の書評が掲載されている。両者とも「亡国のイージス」に同時代的な雰囲気、すなわち国家的なるものを希求する情緒的な心性を看取している。

今年の邦画界において福井晴敏の小説を原作とする「ローレライ」、「戦国自衛隊1549」、そして「亡国のイージス」が立て続けに公開され、それなりの話題を呼んだ。とりわけ「これが戦争だ!」というキャッチコピーで、戦後60年を迎えた日本社会に対してある種の「現実」を突きつける「亡国のイージス」は、まさに現代日本を容易に想起できる時代設定のため、小説および映画という作品の内的世界だけにとどままらず、否応なくそれを取り巻くコンテクストと関連付けて読まれ、観賞され、論じられることになる。

製作において、石破茂の「鶴の一声」で実現した自衛隊の全面協力を受け、産経新聞社が後援し、公開までに毎週紙上で特集を組むなど積極的なプロモーションを行ったことは、一定の予断を与える余地を残すことにもなった。たとえば韓国では「反動右翼の宣伝映画」という見方が現れ、ジョンヒ役のチェ・ミンソに対して非難が向けられたのも、公開前で、原作を知らない者による謂れのない非難であったとしても、「亡国のイージス」のコンテクストがそうした予断を醸成する役割を果たしてことも否定できない。

いわばこうした作品自体とは異なる部分に注意が集まることは、作品世界に対する理解、あるいは作品が持つ潜在性を縮小させてしまうことにつながる。たしかに福井の長大な原作を2時間ほどの尺に収めた映画は、アクション重視になり、人間関係、あるいは福井が作品を通して伝えようとした「国のかたち」を十分に具現化できていなかった面もある。その意味で、映画と原作を別個の作品としてみるべきだろうし、同一視して論じることはあまり意味のあることではない。

その一方、映画と原作を切り離すことは、換言すれば、原作の中に何らかの「真理」や「真実」があるとみなす姿勢にもつながる。映画では捨象された数々のエピソードに触れることによって作品世界の深みを垣間見ることができる。しかし、原作と映画を別物と区別することによって原作の真正さを救い出そうとすることは、原作の構成や世界観に対する批評/批判をあらかじめ封じ込める役割を果たす。いうなれば、批評の只中に生贄として映画を差し出すことによって、原作に向けられる眼差しの鋭さを緩和しようとする作用である。

しかし映画が福井の小説を原作とし、福井自身も映画化に積極的に関わっている事情からすれば、作品とその外部世界の境界線は容易に取り払われるものにすぎない存在であろう。あるいはより多くの耳目に触れることになる映画という媒体手段によって広まった「亡国のイージス」のイメージは、作品自体が潜在的に持っている読みの多様性を選別し、一定の解釈コードへと収斂させる機能を果たす。ここに「亡国のイージス」が単なる娯楽作品として受容されず、政治性を帯びざるを得ない要因が潜んでいるといえる。

臣茂の生き様

2005年10月10日 | knihovna
今日の天声人語で、20日刊行予定の原彬久『吉田茂――尊皇の政治家』が紹介されている。今月出版の新書では、入江昭『歴史を学ぶということ』(講談社現代新書)とともに「買い」である。

『戦後日本と国際政治――安保改定の政治力学』(中央公論社)『岸信介――権勢の政治家』(岩波新書)など岸信介の評伝や彼の政治手法に関する堅実な研究で知られる原が、時代を遡って戦後日本の「国のかたち」に大きな影響を持った吉田茂を取り上げている。副題の「尊皇の政治家」や「天声人語」から判断すれば、どちらかというとスタンス的には戦後の「吉田路線」に対する修正主義アプローチに属す内容だと推察される。

ただ皇室関係の文書がほぼ非公開の現状で、どの程度まで吉田の「尊皇」的態度に迫っているのか、また豊下楢彦『安保条約の成立』(岩波新書)のように、状況証拠の積み重ねによる「推理」以上の説得力ある議論が展開できるのか、という点も読み進めるにあたって興味深いところである。

外交へのオマージュ

2005年09月11日 | knihovna
信田智人『官邸外交――政治リーダーシップの行方』(朝日新聞社, 2004年)

「社説:外交 もっと語ってほしかった」(『毎日新聞』9月10日)と評されるように、「郵政民営化の是非を問う」選挙において、すでに「外相」気分に浸っている猪口邦子や、神奈川11区に立候補した元レバノン大使の天木直人などの例外を除けば、「外交は票にならない」という格言が依然として通用することを示している。

「旧外交から新外交へ」という外交理念の展開は、それまで一部の政治指導者や外交官の専権事項であった外交問題に、民衆/世論が発言し始め、影響をもつようになった結果であった。それは、「外交の民主化」といわれるように、政治家の利益や外務省の省益に囚われない、まさに国民利益の達成にとって望ましい流れとみなされるが、その一方で、日露戦争終結のポーツマス講和条約をめぐる日比谷焼き討ち事件が典型的に物語るように、世論の動向に過度に反応することによって、近視眼的な政策を行う危険も伴っている(「日露講和百年:大衆迎合では国の道を誤る」『読売新聞』9月5日)。

開かれた外交への移行期を実際に外交官として目の当たりにしたハロルド・ニコルソンのように、すくなくとも外交政策の執行的側面と立法的側面を区別し、前者を外交官の領分に留める一方で、後者への世論の関与を認めることで、前述したような危険性を回避することもありえるだろう(『外交』東京大学出版会, 1968年、また細谷雄一『大英帝国の外交官』筑摩書房, 2005年を参照)。

その後の展開、とくに地政学に対する時政学(あるいは速度の政治)の優位を特徴とするグローバル化の現代世界を概観した場合、外交をめぐって、ニコルソン流の分業とは別様の状況が生じているといえる。それが、信田の指摘する「官邸外交」の登場である。対外的な危機が生じた際に、即時的な「結果」を求める世論に対して、迅速な決断と行動力を示すことが政治資質の条件となりつつある政治指導者にとって、従来の外務省を軸とした政策決定には、その官僚主義も相まって、利点よりも弊害のほうが見出されるようになり、その見直しの結果、次第に外交における比重は外務省から官邸へと移行しつつある。

この背景には、橋本行革とともに、機密費問題、田中真紀子と事務次官の対立、ムネオ疑惑など一連の不祥事によって外務省が機能不全状態に陥っていたことも指摘できる。しかし、こうした構造的な条件が整っていたとしても、それを活用するエージェントの意思が働かない限り、官邸が外交の主導権を握ることは難しい。その点で、派閥の柵とは無縁の政治生活を送っていた小泉の首相就任は、与党自民党の関連部会と外務省で政策を立案するそれまでの政策過程を反転させてしまう効果を伴った。信田が事例として分析するテロ対策特措法、有事関連法、イラク特措法の成立には、こうした構造上の変化に小泉という個性が加味されたことで可能となった官邸の力が大きく作用した。

それでは、「官邸外交」の登場にどのような含意を汲み取るべきだろうか。信田が終章で考察するように官邸が主導することに対しては賛否がある。外務省との対立の発生、外交政策の政治化などがデメリットとして指摘される一方、省益などに束縛されない国益の追求が可能になること、首相の指導力が充分に発揮されることがメリットとされる。また官邸外交のほうが、政治的な正当性と説明責任において明確である点も挙げられる。

とはいえ、外務省と対比したとき、首相をはじめとする官邸がどれだけ国益の観点に立った外交を展開できるのかという問題があるだろう。つまり、官邸という「私益」が国益と称して提起される可能性は常に付き纏う。信田の議論には「与党や外務官僚に比べて、首相が常に国民の意見を把握し、私益に囚われることはない」という前提が流れているが、それは質的な差異というよりも程度問題であり、ひいては首相や官邸の個性次第といえる。

と同時に、アメリカのような大統領制ではなく、議院内閣制を採用している日本では、官邸主導は、議会政治の迂回を意味するともいえないだろうか。換言すれば、官邸外交が十全に機能するためには、首相公選制に見られるような「大統領型」政治制度への変容が求められる。すくなくともそうした機運は、近年高まってきているが、それがポピュリズムに転換する可能性も孕んでいることを考えた場合、官邸外交のメリットであるはずの長期的視野に立った国益の追求が損なわれてしまうだろう。

官邸外交が世論の動向に左右されるという「外交の民主化」の危険性とは反対に、官邸外交の秘密性、つまり旧外交に巣食う問題もある。信田が取り上げた事例からも明らかなように、政策立案が官邸によってなされることは、民衆/世論に開かれているはずの「立法的側面」を見えにくくさせてしまう。すなわち、議会政治の形骸化を助長するとともに、世論の機能も政策を評価し、作り上げていくものから、単なる支持の表明や調達に限定される。「官邸のほうが世論の選好をしっかりと把握できるはずだ」という暗黙の前提は、世論に迎合する姿勢を見せつつも、世論との距離を官邸の好みに応じて操作する余地を看過してしまう。

総選挙の結果にかかわらず、今後も政治指導者の要件として強い指導力が期待されることは明らかであり、それを十分に発揮する制度として官邸主導外交がより重要性を増してくるこだろう。とすれば、猪口邦子が外相に就任したとしても、彼女にはほとんどやるべき仕事は残されていない、あるいはそうすることを期待されておらず、小泉自民党のイメージ戦略の単なる駒にすぎない事実だけが歴史に刻まれることだろう。