五 「比丘達よ、沙門や婆羅門の中には、死後に関する非有想非無想論を抱く者がいる。彼らは、八種の根拠により、死後に我が有想でもなく無想でもないと説くのである。それでは、彼ら尊敬すべき沙門や婆羅門は、何により何に基づいて、死後に関する非有想非無想論として、八種の根拠により、死後に我が有想でもなく無想でもないと説くのであろうか。
六 彼らは、我に関して、次のように説くのである。
『我は病むということがなく、死後は非有想非無想であって、有色である。』
『…無色である。』
『…有色であり、かつまた無色である。』
『…有色でもなく、かつまた無色でもない。』
『…有辺である。』
『…無辺である。』
『…有辺であり、かつまた無辺である。』
『…有辺でもなく、かつまた無辺でもない。』
七 これがすなわち、比丘達よ、彼ら沙門や婆羅門が、死後に関する非有想非無想論として、八種の根拠により、死後に我が非有想非無想であると説くものなのである。比丘達よ、どのような沙門もしくは婆羅門であっても、死後に関する非有想非無想論として、死後に我が非有想非無想であると説くものは、すべてこの八種の根拠によるものであるか、もしくは、これらのいずれかの根拠によるものであって、この他に別の根拠があるということは決してないのである。
八 比丘達よ、これに関して、仏陀は次のことを知るのである。
『このようにとらわれ、このように執着している状態は、これこれの趣に生まれ変わらせ、これこれの来世を作り上げるであろう。』
また、仏陀は単にこれを知るだけではなく、さらに、これよりも優れたことをも知るのである。しかも、その知に執着するということはない。執着していないがために、内心において、寂滅を知り尽くしている。すなわち、比丘達よ、仏陀は受の集と滅と味著と過患と出離とを如実に知り、執着なく解脱しているのである。
これがすなわち、比丘達よ、仏陀自らが証知し現証して説く、甚だ深遠で見難く覚え難く、しかも寂静で美妙であり、尋思の境を超えることができ、極めて微細で、賢者だけが理解することができる諸法なのであり、これによってのみ、諸々の人は仏陀を如実に賛嘆して、正しく語ることができるのである。」
九 「比丘達よ、沙門や婆羅門の中には、断滅論を抱く者がいる。彼らは、七種の根拠により、現に生存し続けている有情の断滅と消失と死滅を説くのである。それでは、彼ら尊敬すべき沙門や婆羅門は、何により何に基づいて、断滅論として、七種の根拠により、現に生存し続けている有情の断滅と消失と死滅を説くのであろうか。
一〇 さて、比丘達よ、沙門もしくは婆羅門の中には、次のような説と次のような見解を持つ者がいる。
『本当に、この我は有色であって、四大種【しだいしゅ】からなり、父母から生まれ、そしてその身が壊れるときには、断滅し消失して、死後に存在することはないのだ。したがって、この我は完全に断滅するものなのである。』
このように、ある者は現に生存し続けている有情の断滅と消失と死滅を説くのである。
一一 これに対して、別の者は次のように言うのである。
『確かに、あなたが説いている、そのような我は存在する。私は決して、そのような我が存在しないとは説かない。しかし、この我はまだ完全に断滅してはいないのである。なぜなら、さらに他の天には、有色であって、欲界に属し、段食【だんじき】によって養われる我があるからである。あなたはこれを知らないで、これを見ていないが、私はこれを知り、これを見ているのである。この我は、その身が壊れるときには、断滅し消失して、死後に存在することはないのだ。したがって、この我は完全に断滅するものなのである。』
このように、ある者は現に生存し続けている有情の断滅と消失と死滅を説くのである。
一二 これに対して、また別の者は次のように言うのである。
『確かに、あなたが説いている、そのような我は存在する。私は決して、そのような我が存在しないとは説かない。しかし、この我はまだ完全に断滅してはいないのである。なぜなら、さらに他の天には、有色であって、心によって作られた身体を持ち、一切の手足を具【そな】え、一つの根【こん】をも欠くことがない我があるからである。あなたはこれを知らないで、これを見ていないが、私はこれを知り、これを見ているのである。この我は、その身が壊れるときには、断滅し消失して、死後に存在することはないのだ。したがって、この我は完全に断滅するものなのである。』
このように、ある者は現に生存し続けている有情の断滅と消失と死滅を説くのである。
一三 これに対して、また別の者は次のように言うのである。
『確かに、あなたが説いている、そのような我は存在する。私は決して、そのような我が存在しないとは説かない。しかし、この我はまだ完全に断滅してはいないのである。なぜなら、さらに他のすべての方面においては、色想を超え出て、有対【うたい】の想を滅して、異想を憶念しないために、「虚空は無辺である」という空無辺処【くうむへんしょ】に達する我があるからである。あなたはこれを知らないで、これを見ていないが、私はこれを知り、これを見ているのである。この我は、その身が壊れるときには、断滅し消失して、死後に存在することはないのだ。したがって、この我は完全に断滅するものなのである。』
このように、ある者は現に生存し続けている有情の断滅と消失と死滅を説くのである。
一四 これに対して、また別の者は次のように言うのである。
『確かに、あなたが説いている、そのような我は存在する。私は決して、そのような我が存在しないとは説かない。しかし、この我はまだ完全に断滅してはいないのである。なぜなら、さらに他のすべての方面においては、空無辺処を超え出て、「識【しき】は無辺である」という識無辺処に達する我があるからである。あなたはこれを知らないで、これを見ていないが、私はこれを知り、これを見ているのである。この我は、その身が壊れるときには、断滅し消失して、死後に存在することはないのだ。したがって、この我は完全に断滅するものなのである。』
このように、ある者は現に生存し続けている有情の断滅と消失と死滅を説くのである。
一五 これに対して、また別の者は次のように言うのである。
『確かに、あなたが説いている、そのような我は存在する。私は決して、そのような我が存在しないとは説かない。しかし、この我はまだ完全に断滅してはいないのである。なぜなら、さらに他のすべての方面においては、識無辺処を超え出て、「何物もあることはない」という無所有処【むしょうしょ】に達する我があるからである。あなたはこれを知らないで、これを見ていないが、私はこれを知り、これを見ているのである。この我は、その身が壊れるときには、断滅し消失して、死後に存在することはないのだ。したがって、この我は完全に断滅するものなのである。』
このように、ある者は現に生存し続けている有情の断滅と消失と死滅を説くのである。
一六 これに対して、また別の者は次のように言うのである。
『確かに、あなたが説いている、そのような我は存在する。私は決して、そのような我が存在しないとは説かない。しかし、この我はまだ完全に断滅してはいないのである。なぜなら、さらに他のすべての方面においては、無所有処を超え出て、「これは寂静であり、これは美妙である」という非想非非想処【ひそうひひそうしょ】に達する我があるからである。あなたはこれを知らないで、これを見ていないが、私はこれを知り、これを見ているのである。この我は、その身が壊れるときには、断滅し消失して、死後に存在することはないのだ。したがって、この我は完全に断滅するものなのである。』
このように、ある者は現に生存し続けている有情の断滅と消失と死滅を説くのである。
一七 これがすなわち、比丘達よ、彼ら沙門や婆羅門が、断滅論として、七種の根拠により、現に生存し続けている有情の断滅と消失と死滅を説くものなのである。比丘達よ、どのような沙門もしくは婆羅門であっても、断滅論として、現に生存し続けている有情の断滅と消失と死滅を説くものは、すべてこの七種の根拠によるものであるか、もしくは、これらのいずれかの根拠によるものであって、この他に別の根拠があるということは決してないのである。
一八 比丘達よ、これに関して、仏陀は次のことを知るのである。
『このようにとらわれ、このように執着している状態は、これこれの趣に生まれ変わらせ、これこれの来世を作り上げるであろう。』
また、仏陀は単にこれを知るだけではなく、さらに、これよりも優れたことをも知るのである。しかも、その知に執着するということはない。執着していないがために、内心において、寂滅を知り尽くしている。すなわち、比丘達よ、仏陀は受の集と滅と味著と過患と出離とを如実に知り、執着なく解脱しているのである。
これがすなわち、比丘達よ、仏陀自らが証知し現証して説く、甚だ深遠で見難く覚え難く、しかも寂静で美妙であり、尋思の境を超えることができ、極めて微細で、賢者だけが理解することができる諸法なのであり、これによってのみ、諸々の人は仏陀を如実に賛嘆して、正しく語ることができるのである。」
【解説】
◎断滅論――瞑想体験による七つのステージ
これが断滅論である。ここで、それぞれの断滅論者が何を言っているのかというと、ニルヴァーナの定義について言っているわけだ。で、ここでいう定義というものは、瞑想のステージに応じた霊的体験によって裏付けられているということが言えるのだが、第一のステージの人が、
「本当に、この我は有色であって、四大種からなり、父母から生まれ、そしてその身が壊れるときには、断滅し消失して、死後に存在することはないのだ。したがって、この我は完全に断滅するものなのである。」
と言うと、既に次のステージである第二のステージを経験している人が、
「第一のステージで終わりではないんだ。第二のステージが正しいんだ。」
ということを言うという形で、第七のステージに至るまで論が展開している。
だが、この第七のステージである非想非非想処でも、結局はまだニルヴァーナではないということを、仏陀釈迦牟尼はおっしゃっているわけだ。そして、そういう論にとらわれていることも、結局は再生の因となってしまうということをも。
また、そのとらわれは、慢が出てきてそのステージで止まってしまうということでもある。だから、慢というのはカルマの限界とも言い換えることができよう。
仏陀釈迦牟尼の教えにしろ、断滅論者の考えにしろ、どれもこの世だけではなくて、異次元の世界を体験していないと、こういう瞑想論に口出しできないということは確かだ。つまり、この経の内容というものは、瞑想を実践していない学者では手出しできない範囲なのである。そういう意味で、この経も素晴らしいものの一つであると言えよう。
なお、空無辺処辺りから徐々に三昧になってくるのだ。そして、非想非非想処というステージの上に、マハー・ニルヴァーナがあるのだ。