白洲正子さんと郡上八幡・・・・・と雀の庵.1

2011年05月23日 | 新着情報



いきなりですが

白洲正子といえば
白洲次郎の妻として、あまりに有名です。


あらためてその経歴をご紹介すると



薩摩志士で伯爵樺山家に生まれた自らの性質や、その出自を生涯を通じ強く意識(その事で夫次郎と口論となり張り手をしたこともあった)した。

幼少期より梅若流の能の舞台にあがり、能に造詣が深く、青山二郎や小林秀雄の薫陶を受け骨董を愛し、日本の美についての随筆を多く著す。梅原龍三郎や、晩年は護立の孫で元首相の細川護熙、河合隼雄や多田富雄などの理系学者との交友もあった。また名人といわれた能楽師・友枝喜久夫の仕舞の会を自宅で開き、演芸研究者渡辺保も参加していた。

1980年代から90年代にかけ、古典美に興味を持つ女性たちを中心に、カリスマ的存在となり文庫再刊も含め多くの著作が刊行され、没後も人気は高く再編集・新版で著作が出され続けている。





すでに広く知られていますが
郡上八幡と白洲正子さんは 郡上紬を通じて縁のある関係でした。


そのきっかけとなったのが

人間国宝の 宗廣力三氏。


岐阜県郡上郡八幡町初音に生まれ、故郷の紬を「郡上紬」として広く世に知らしめた工芸家です。


その出会いのきっかけは
白洲正子の 随筆「かくれ里」の中で語られています。

その一部を引用させていただきます。



※ちょっとながくなりますので
 興味のある方は、コーヒーまたはワインのご用意を。



郡上紬 宗廣 力三 むねひろりきぞう

私は銀座で染職工芸の店をやっているが、ある時そこへ
一人の男がたずねてきた。疲れはてた様子で、大きな荷
物をしょっており、美濃の山奥で紬を織っているが、見
てくれないかという。店を開いていると。そういう人が
毎日のように来る。面倒くさいと思ったが、実直そうな
人間で、遠い所から出てきたのに気の毒と思い、見てあ
げることにした。ところが、思いのほかにいいのである。
文は人なりというが、染織にしてもそれはまったく同じ
ことで、少し馴れるとその中に作者の顔が見えてくる。
この人は信用できる。ひと目で私はそう思った。

宗廣力三さんとお付き合いがはじまったのは、その時か
らである。もう十五、六年はたつであろうか、何しろ熱
心な人で、それからしじゅう訪ねてこられるようになっ
た。寡黙な人なので、多くを語らなかったが、二、三度
会っている中に私はほぼ次のようなことを聞き得た。

宗廣さんは岐阜県郡上郡八幡の出で、戦前は凌霜(りょ
うそう)塾という青少年の修練場をひらいていた。「凌
霜」というのは、戊辰の役に、郡上の若い藩士たちが脱
藩して。会津の白虎隊を救援し、けなげな最期をとげた
「凌霜隊」の名にちなんだものである。

その塾が中心となって、昭和十三年に満蒙開拓団が組織
され、宗廣さんは村の若者たちを率いて吉林省へわたっ
た。彼らはおそらく凌霜隊の戦士のような意気に燃えた
ことだろう。まだ若かった彼は副団長といった格で、日
本と満州の間をたえず往復し、連絡がかりをつとめてい
たが、たまたま郡上へ帰っている時、終戦になった。
満州の開拓民がどのような目にあったか、今さらここに
記すまでもない。彼が連れて行った人たちも、殺された
り病死したりして、多くは帰ってこなかった。
残った人々の引きあげにも、二年以上かかり、帰国した
からといって、住む家も土地もない。その責任を感じて
宗廣さんは、一生を彼らと遺族のために捧げることを誓
った(そうははっきりとはいわなかったが、私にはよく
わかった)。

やがて郡上北部の白鳥(現白鳥町)と蛭ケ野(現高鷲村)
に土地を借り、引き揚げ民を収容して農地を開拓するか
たわら、養蚕に力をいれた。織物はその副産物だったの
である。

さいわいこの地方には古くから織物の伝統があった。
「延喜式」にも、美濃は「上糸国」とされており、特に耕
地の少ない北部では、曾代糸といって、伊勢神宮におさめ
る上質の糸を作っていた。そういう土地柄だから、一般の
農家でも織物は盛んだった。宗廣さんはそこへ眼をつけた
のだが、満州帰りの若い人たちは、蚕を飼うことも、物を
織るすべも知らない。彼自身もその点同じことだったが、
村の老人にたずねたり、京都から先生を呼んだりして、
まったくの一年生からはじめて行った。
それはかつての開拓精神とも相通ずるもので、その間の苦
労は並大抵ではなかったと思う。が、なんといっても伝統
のある土地であり、見よう見まねで格好はついたものの、
今度は製品をさばくのに困ってしまった。
私の所へみえたのは、ちょうどその苦しい時期で、宗廣さ
んは当てもなく行商して歩いていたのである。

私はその人物と作品に興味をもった。織物はまだ充分に形を
なしていなかったが、とかくごまかすことしか知らない商人、
ということよりごまかすことが技術であり、美徳であるよう
な工芸の世界に、これだけは一風変わった新鮮な味を持って
いた。
近頃の手織りの欠点は、地方の特色をなくしたことである。
有名な産地ほど、その傾向が強い。素人っぽさとか、うぶさ
といってもいいが、土地にしみついた土の香り、そういうも
のが彼の織物にはあった。えてしてそうしたものは消えやす
い。その人柄から見て、心配はなさそうだが、将来のことは
わからない。いったいどんな所でどんな人が織っているのだ
ろう、半ば好奇心と商売気から、白鳥村をおとずれたのは、
その翌年の春のことである。

やはり織物の仕事で、信州から諏訪をまわり、中央線で美濃
へ出て、何度も乗りかえた後、白鳥へついた。今は岐阜から
いい道がついているが、当時は信州からでも一日がかりの旅
であった。

開拓は、聞きしにまさる貧しさで、辛うじて生活してい
るといった状態、よくもこんな所に住んでいられると思うよ
うな、荒涼とした原っぱにすぎない。その夜は宗廣さんのお
宅に御厄介になったが、家といっても掘っ立て小屋みたいな
もので、その中に藍瓶を置き、手を真っ黒に染めて働いてい
る姿に、私は心を打たれた。まわりの畑には、紅花や刈安な
ど、植物染料のたぐいも育てていられる。糸から染めに至る
まで、一貫した作業が行われており、織るのは村の人たちも
手伝った。それにしても無一物の人間が、千人近くの大世帯
を支えているのは大変な重荷であろう。泥まみれの後ろ姿を
見て、私は好奇心からこんな所へ来てしまったことを恥ずか
しく思った。

ところが、






・・・・・・・・・・文字数の関係により 後半へつづく