独りぐらしだが、誰もが最後は、ひとり

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   万葉讃歌(2)           佐藤文郎

2019-04-08 11:59:28 | 日記
 年金の仲間はコバヤシさんといいます。時々将棋をさす相手でもあります。若い頃ボクシングをやっていたそうです。鼻の骨が折れているんだそうです。頭もボンヤリとして,意識が遠のいでいくような、しょちゅうそのようになるそうです。しかし将棋は強い。私は一度もかったことがありません。追いつめた、こんどこそ勝ったと思っても、いつのまにかまけてしまうのです。もうひとりの中年氏は体型がまんまるいので、丸サンと呼んでいたらそのまんま丸サンになって、呼べばへんじをするようになりました。あと元ヤーさんの竹さんがいます。めったに姿を見せませんが、歌が好きで図書館に現れた時はかならずカラオケにつきあわされます。「兄弟仁義」とか「とんぼ」が彼の持ち歌です。私はもっぱら「恋人よ」一曲しか唄えません。
 「名文談義」は、もちろん何時もの調子で与太をとばしたのです。私はよくはなしをするので、センセイを知っていて、みんなは“うえの”とよんでいます。彼等の間では一目おかれていて、ふざけた事を普段いっていますが、みな読書好きで“うえの”の著書も読んでいるのです。また、ヘンリー・ミラ―についてもよく知っているのです。しかし普段の会話にはでません。名文も彼等はそんなものどうでもよいのです。文章より大事なものは、それを書いている人間の生活態度や人生経験や行い、そしてそれらに対する情熱であることを知っているのです。文章にはそれが出るというより、出ないようでは文章ではないとおもっているのです。こっちの方が名文とか、あれより、こっちが名文だなど美人コンテストではないのだから、実際そういった人がいました。『単細胞的思考』は私が薦めた訳ではないのに読んでいるのです。ブログに書いた“万葉讃歌”を読んで、「いけず! 途中で止めたりしちぁ、だめン、だめよ,バカン」と丸ちゃんに云われてしまいました。
 そういうわけで、万葉讃歌(2)をつづけることにしました。
 その前に、上野霄里せんせいの、普段着のすがた、仮装行列から離れた所で生きておられる様子をお見せ致しましょう。私宛の葉書ですが、不自由な手で必死にはこんだ万年筆の字体ですが、棲んでおられる世界が、精神のたたずまいが、おのずと伺えるこころ洗われるようなおはがきに思わず……。
  佐藤文郎様
 少しばかり 春の匂いがする風が 吹きはじめました。人間の生命も 虫も 花の生命も 大自然の中では まったく 同じですね。利こうな人間だけが 戦ったり なげいたり いたみ くるしみ ねたみ ののしっていますね! 一度 文化 文明から 人間は 離れなければいけないようです! 毎日 すなおに 物を考えて行く 人間でありたい! このいのち 万歳!
                            霄里 
 ○前回の上野霄里著『単細胞的思考』
第一章 
 ◉ゴンチャロフの水晶体(万葉のポエジーをメデアとして)
——中略につづく。
 【我々が、従来誇っていた、日本人の誇りが単なる幻影に過ぎなかったと自覚する勇気が唯一の前提となって、初めて万葉集が正しく詠まれ、味わわれる、そうでないかぎり、これらのぼうだいな量の歌に含まれた過激な言葉の一つ一つは、或る時代の、得体の知れない人間経験を経て生み出された、極特殊なもの、非現実的なもの、人間生活の限界をはみだしたものとしてしか受け取れなくなってしまう。
 万葉集を、本当に血をわきたたせるものとして味わうためには、先ず、その人間が、自殺をして果てなければならない。今迄の日本人としての抱負の一切をすてさらなければならない。これは激烈な進歩、向上の歩みだ。
 おそらくは、江戸時代の始め頃からであろうが、万葉時代の日本人の心は、大きくゆがめられてしまった。群雄が各地におさまって、創造的な政体と、独創的な支配力を示していた前江戸期には、まだ、万葉の心が残されていた。徳川家康というあの男の示した人格は、現代社会を構成している大半の要素に通じていて、それは、集団をすっきりと、うまい具合に指導し始め、集団体操を続けさせていくことが出来るが、そのために、個人はどれほどの被害をこうむったことか。つまり、個人の創造的な生き方と、集団のすっきりとした在り方は、決して両立することのないものなのだ。畳の上に、四角張って座り、上座と下座が定まった時、人間は、個人の姿を、そのまま露呈することを怖れるようになり、個人の言葉を語ることを罪悪視するようになった。個人はもはや、そのままでは、何ら正当化されず、どのような美徳も生み出したり出来ないものとなっていった。個人は、どの方向から見ても、間違いなく悪であり、不届きな存在としてその身を甘んじるよりほかに仕方がなかった。
 そうした〝個人〟というものにたいするりかいの在り方は、徐々に個人にまつわる一切の価値を罪悪視するようになっていった。個人は弱いものといった最初の感覚は、遂に、個人を核とする一つの巨大な悪魔をつくっていった。個人はもはやどのような立場から見ても正当化されることはなくなってしまった。個人は、れっきとして存在しながら、決して表面にあらわしてはならないもの、絶対にほのめかしてはならないものとしてあつかわれてきている。
 誰もが、個人を持って生まれてきていることは事実だ。そしてそれが例え、死の様相を呈していようとも、そうでないとしても、とにかく、日々の生活の中で、身の内に感じとっているものなのだ。これは否定できない。その事実を認識する心が人間を一層暗くする。日本人の暗さはここにある。そしてこれは、世界中どこに行っても同じであるかも知れない。そういった、個人を犠牲にして成立っている伝統や正義、文化を、一体、何故、誇りにしなければならないのか。これは重大な問題だ。これが納得出来ない限り、人間は、決して、他のどのようなことにも、まともな思索や議論、そして行動をする資格はないのである。
 個人の欠如を見事に正当化しているのが文明一般の働きである。しかも、それを何ら疑わずに信じ込んでいる人間が、今日も大半を占めている。
 〝個人〟は傷つき、亡び、風化してしまっていて、その屍が、累々と人間の精神の内壁にこびりつき、うずたかく堆積している。沖積世、洪積世代の物悲しげな歌が、低く澱み、氷河のペースで流れる流れがある。ひどく緩慢で、同時に、限りなく激しい流れ。
 しかし万葉集の中では、個人が無傷のままで遺されている。傷だらけの人間が無傷なものを眺めてもいたずらに溜息がもれるばかりだ。全く自分とはかけはなれた別天地の生物を眺めるようにこれを眺めている。】次回につづく

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