独りぐらしだが、誰もが最後は、ひとり

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一粒のダイヤの言葉   —令和を前にした平成末の書簡—  上野霄里

2019-05-15 09:52:22 | 日記
名久井先生!
 色々な心の暖まる大小の贈物、大箱いっぱい、とても、とても嬉しく頂きました! 一つ一つ、私の心と体と精神を熱くし、強め、涙を流させ、人生そのものとなり、動きを深く、大きく、そこに歌がいっぱいに大自然のメロディを高め、深々とあらゆるものに色をつけてくれています! 色の無い人生は、幾ら金銭があっても、名誉や肩書きが有っても、何かが、どこか死んでいます! 氷っています。そこに、命そのものの呼吸が無いのです! こんなに沢山の贈り物を前にして、私と私の妻が、心の中に、外に、はっきりと大合唱の歌声のような熱さや光、パワーを受けました! これが生きているという力そのものです! 燃えているという熱さそのものです。果てしなく、どこまでも、力一杯動く力(生命)そのものを実感します! 妻は一日、一粒ずつ美味しいおいしいとチョコレートを頂いています! 失禁など常にしていますが、実にニコニコと人生時間を嬉しそうに見ている妻は、とても幸せそうです。それを見ている私も、涙を流しながら、大いに喜び、笑っています! 人生時間というものは、何歳になっても、生き生きとしていますね! 一つ一つ、頂いた物は、大自然の大きな燃え盛る熱い火の様なもので、私は、その前でゾロアスターの様に、深くふかく頭を下げ続けています! 
 荘子は、その著書の「外篇」の中編で云っています。Aという人物が道について尋ねられると、答えられず、Bという人間は、返事をしてしまう。変事出来ないAの方が、実は物が判っていたと荘子は書いている。このところを正しく書くと、
  「无始日、道不可聞、聞而非也、見而非也、道不可言、言而非也」
 荘子という人物が、一人本当に居たかどうか、これも疑問です。恐らく当時の長い長い時代の中で、十人、百人、千人の心ある一人、一句でも何かとてつもなく大きく、本当の言葉を遺していたのかもしれません! それが、積もり積もって、一人の荘子という架空の人間の名言として中国の山の中に遺されたのかも知れません! 西洋、東洋、あらゆる処の心豊かな、ときたま名言を遺す人間が、一生に一度の一言(ひとこと)名言を遺したのかも知れません! その中にシャカもキリストもマホメットやゾロアスターも、人間の集団に上った魔女達の一言一言が入っていたかも知れません! 老子も荘子も天照大神も、あちこちに沢山いたかも知れません! 気ちがいとして、馬鹿な人間として、エジソンやアインシュタインのような人物として、若くて自殺してしまった何人かの詩人、作家、俳優、乞食なども、その中に入っています。人間、生きて百年近く動いているということは、何かの、一つ二つ名言を何処かにヘドのように、糞のように、涙のように、鼻クソのように、何処かに遺している筈です。本になり、銭になり、社会の名誉になる言葉など、何の意味もありません! 一人の人間を生かし、力強くし、自然全体の前で輝かせられるのは、その人の一生の間に一つ、又は二つ、小粒のダイヤモンドのように輝く、その人間のドロダラケの、また傷だらけの人生そのものの力にみちた手の平の上にポツリと置かれた小粒のダイヤの言葉、これこそ、その人間を、その周りに集まる人間を輝かせ、生かす、力一杯の光の光そのもののような存在です。一つの命を生み、泥の中から命を育て、一つ一つの力に満ちた言葉を生み出し、その命の中に、一つ、二つ、卓越する設問、又は天来の雷鳴のように轟く、どの人にとっても、一生の間、一度位は聴くことが必要です! 残念なことに、世界のあらゆる時代の人間は、そういったダイヤの小粒一粒のような言葉にぶつかっていません! 人生の大興奮の中に本当の言葉又は本当の神霊の宝くじに当たった人は、まず皆無です。悲しいことです! 人間は、一人、一人、何時の時代にも、悲しいことに不的確で、不適当な言葉と愛と光の時代に生まれています。どんな大地に生まれ、住んでいようとも、そこで自分の生命を力一杯燃やし、自分の命を燃やし、荒れた大地を耕していかなければならなかった筈です。私達は、何とか一粒、二粒のダイヤのような言葉をみつけ、それによって大自然の荒れ地を耕し、愛と夢を大きく広げ、そこを何処までも、何処までも走り続けたいものです! 地球上は、言葉や愛、平和というものに群がる中で、大自然を壊し、かつて山の中や河の畔の野蛮な人間が伸び伸びと、平和そのままの中で、貧しく、慎ましく、持っていた、想像をはるかに越えた平和体感を、どうして今日のような人間社会の恐怖体感に変えてしまったのでしょう! 人間は、この社会の中の物事に心動かされることなく、もっともっと感性深く、心深く、魂の探索につとめて生きていきたいものです! 社会的な愛情を遥かに越えて、生き生きした、本来の森の中のそのままの人間———言葉もつかわなかった人間の頃の動画そのものだった時代の愛で、男女が、花と花が、魚と魚が、鳥と鳥が、星と星がつながっていきたい! 文化文明の社会の中で、 人間の情報量は大きく増えてきています。それによって愛も、力も優しさも、段々と増えていくどころか、小さくなってきました! 綿密な深さの愛も、綿密な物の考え方も少しずつ減ってきています! 人間も獣も、虫や草花でさえ、それぞれに持っている様々の、大なり小なりの感性、または心といったもの、それぞれの甘さ苦さ、愛や痛みを感じる思いには深化、広さ、リズムなどの度合がみられなくてはならない。人間の心と体の中の愛という感性の深化によって、これを計ってみたい。 僧衣を身にまとっている鬼もいれば、悪魔の姿でどこまでも優しく平和な者もいる。此の世の中は、様々な動画から出来ている。ありとあらゆる大小様々な強かったり弱かったりする生命は土壌と水分の力と云うか、そこに巻き込まれて、太陽の光の中で失って行く。本来の土の力や水の力を回復し、元の生命力(命)を回復すると元の、状態に戻る。生命力の元は土だ、水だ! 土や水を渇かしてしまう太陽からの光線も、それなりに、生命回復の馬力になってはいるが。人間は小利口なせいか、土と水の混じったドロドロな渦巻きの力の中で、それをそのまま神聖化しないで、いわゆる文明、文化の中に、じっと見続け、土や水のドロドロでグタグタの状態をそのまま文明の名の下で精査し、文化の仕組みの中で聖域化しようとしている。平成、そして令和のこの時代、それはどこまでもつづいている。私達は、時代というものを、もっと正しく、厳しく、愛深く精査してたちむかっていかねばならない!
  平成三十一年四月二十四日
                         上野霄里
 名久井良明先生

P.S これを正しく書き改め、文郎さん、古賀先生、伊藤さん、津田君、西の
  二人、その他に送って下さい。
   私達は、人間そのものとしては、最近大分あちこちが壊れてきています!
   言葉、一つ一つが、錆び付き、折れ曲がり、匂いまでが変です!
   それでも愛や平和、怒りは、少しは生きています‼
 
 
         ❖勝ち組の人生の女
 鈴木晶子さん
  過日は、わざわざお出下さって有り難う! 是非是非又時間を作って訪ねて来て下さい! 云ってみれば、私達の住まいは、ただの森の中の寂しい一軒家であり、静かに水の流れる小川の畔です。どこまでも楽々と生ていける果てしない時間の広がりの中の、美しい荒れ地です。おおらかに、ゆっくりと、それでいて力一杯走りましょう! 自分の心に忠実に魂の道を歩きましょう! 
 こんな汚い所ですが、また訪ねて来て下さい!
 華やかな、私達の人生、バンザイ!
 貴女の女の人生 どこまでも美しく、更に優しく燃え、楽しく燃えて下さい!

 勝ち組の人生の女であれ!
      平成三十一年四月二十四日
                       上野霄里

         ❖シベリヤ鉄道の中で

 岩間けい子様
 この間は、わざわざ私達二人を訪ねて下さって本当にありがとう! 岩間先生にも、くれぐれも宜しく! 私達がまだ元気な頃、先生は遥かシベリヤ鉄道の中で読んでくれていた私の『単細胞的思考』のこと、長々と手紙に送って下さいました。それからも、まるで、古い辞書の様になるまで読んでいてくれたことを、嬉しく書いて送ってくれました。
 先生が、遥々、アルプスの村で手に入れてくれた太いバラの根で作られたパイプ、私に贈られましたが、今では、東京で長男が使っています。彼は今、法政大学で教えています。
 先生、益々元気で、長生きして下さい! 私も力一杯、自分の人生を楽しく、嬉しく、面白く、美味しく、明るく、それでいてどこか真面目で、慎ましく、本当の自分らしく生き果たしていきたいです! すべて、何でも、間違いなく揃い、それを使って生きられる人生の中心に於いて、負け組であるようで、実は勝ち組の人間として生き果たしたいものです! 人生万才! 限り無く万才!
       平成三十一年四月二十四日
                       上野霄里
※合わせて千通以上はあるとみられる、待望の米文豪ヘンリー・ミラ—(1891〜1980)「北回帰線」「南回帰線」「プレクサス」など、と上野霄里先生の往復書簡集の刊行ですが、その予定さえ聞こえては来ません。先生の固い意思と伝えられている、この世紀をまたぐ「文学的事件」を引き続き注視していきたいと思います。(編)

放蕩息子の更なる告白(百三十一話)Ⅳ  佐藤文郎

2019-05-11 17:33:51 | 日記
 Hさんは二廻りほど私より年齢が若い。校正もそうだが、校閲にむしろ厳しい。私が以前書いた「『自然とカミ』序」という文章が有るが、それの“カミ”に食らいついたことがあった。これは「いけない」というのである。ゴットならいいが“カミ”はいけないと言って、めずらしく感情をたかぶらせたことがあった。
 私はどちらでも良いような気がしたが、いざとなったら、“ゴット”も“God”もだめで“神”はもっといけない。そんな気持ちになる自分に驚いたぐらいだった。深い考えもなく“カミ”としたように思いたいが、彼のクレーム(異議)で、あらためて“カミ”しかないと思った。
 私は、五つほどの宗教に出入りした不信心ものである。若いころは特に、誘われれば付いて行くのである。そうやって上野先生にも、あの「女上野」と私が命名した(この事に就いては『放蕩息子の告白・後編』に書くつもりである)宗教の女性にも付いていった。しかし、しばらく経つと、どうしても許容できない場面にぶつかるのである。いや、思うのではない、それ以前というか寸前に、本能的にかんぬきのようなものが掛かるのである。
 青森市内で、小さいがフランチャイズの呉服業を営んだ。博多の大株主にいわれるまま法人にし、代表になった。日々の訪問販売や、一年に一度、二度の展示会を開いた。厳しかったが、東北ではどこの店にも負けなかった。展示会の売り上げは二日で三千万を下らなかった。
 しかし三年目の暮れに、大株主と対立し身を引いた。家族を置き、一時大株主の経営する名古屋の会社で運転手をしていたが、「アルバイトニュース」の情報から、新聞販売店に入り、やがて,岩倉市の老舗の販売店に転職し、朝夕刊の配達、集金、営業をするようになった。
 ある朝である。いつものように日の出を迎えていた。私は立ちすくんでいた。涙がにじんでいたが,心では,もっと泣いていた。原因はわからない。感謝という言葉が、漢字が浮かんだ。そのあとは、有り難い、という気持ちがわき上がってきて身ぐるみその感情に包み込まれた。「太陽」という事は知っているが、その言葉の前は「原始太陽」である。それも言葉である。その言葉の以前にもこの存在を見ていた人達がいた。頭を下げたり、掌を合わせたりしただろう。
 1985年の事であった。何日間かしてあの文章ができた。この文章の最後の言葉が,最初に浮かんだ言葉だった。『太初(はじめ)に愛があった 愛はカミと偕(とも)にあった 愛はカミだった』。ヨハネ福音書では『太初に言葉があった 言葉は神と偕にあった 言葉は神だった』である。私は,持っている語彙も少ないので、舌ったらずなので、何でも利用してしまう。持ち合わせの言葉で、その時の感情を精一杯、表しただけなのだ。愛という感情は、何処の国も共通する物である。H氏のいうことは間違ってはいない。神と書いても、神道と、キリスト教と、またイスラム教は異なるのだ。私がカミと書いて,特別その意義を述べる訳でもない。「こんないい加減なものはない」と思ったとしても不思議は無い。
 あの文章を書いたその時受けた霊感のままの偽らざる気持ちなのである。それが、私の身体や精神を貫く心棒である。心棒はゆらぐことはない。心棒が出来ないうちは、ぐらぐらと、クラゲのように方向も定まらず波間を漂うだけの信念クラゲであったが、今は理念や雑念は必要なく、動じないという意思さえ無い心棒となった。
 子供のころから、祖父、父,母、姉、私と一列に並び、始めに、恵比寿様、神棚、そして仏壇と、順々に手を合わせる仕来りだった。正月二日は御恵比寿様に、鮒を上げる習わしだった。鮒と言えば、私が小学二年の頃、鮒を捕って来て、母に見せた。母を喜ばせたかった。「よく捕まえたね」とか、「ずい分大きい鮒だ」とかいって褒めてもらいたかった。しかし、いつまでたっても、唯見ているだけだった。鶏だって、見ている前で、「ここは心臓、これが肝臓、ここは食べられない」と言いながら,あっという間に下ろしてしまう人だった。今思うに、恵比寿様に鮒を用意するのは母の役目で有った。じっと眺めて,私が遊びに気が向いていなくなるのを待ったのかもしれない。
 エホバの証人の方でも、他の宗教のかたも、熱心に戸別訪問をされている。公園でお話した事も有るし、茶店でお話しする事もある。最後に心棒の話をする。勧めたりはしない。彼の人達の信念は、また心棒はゆらぐことはない。H氏に“カミ”はいけないと言われ、自分では何でもよいと思い、書き換えようと試みたが“神”ではない、“God”でも“ゴッド”でもない。“ない”と、自分の中で拒否するのである。文章は拙いが、どの一字も変更は出来ないと,あらためて気づいたのである。思っているだけではだめで、文に定着させて、ゆるぎないものとなっていた。
 お話かわって、上野霄里先生の一番弟子である名久井良明先生から、上野先生からのお便りが届いたと、そのコピーが送られて来ました。とくに、私のブログに掲載してほしいという依頼原稿ではないのですが、おそらく先日の、[万葉讃歌]の文章の中に、上野先生のお便りを引用したさせて頂きましたが、日付に年号を付さなかったので、それを明確にするようにとの意向をくみとることが出来ました。この一年以上全くお便りはなかったし、私はと言えば電話でばかりでしたから、横着をしてしまいました。私は手紙が苦手で、何を書こうかと信号を見落としたり標識を見誤ったりで、あとでもめ事の種になりかねません。電話ならまちがいがないという安心が有ります。直に向かい合っての会話ならもっと安心ですし、特に,上野先生とは、何にも代え難いひと時として待ち望んでいることなのです。私は先生の声が良いので、若い頃から、落ち着いたバリトンのその声に励まされて辛いときも乗り越えて来ました。鼻髭を指先で触れながら目を細めた笑顔になり、やがて大きな口を一杯に開け、喉の奥まで見せながら,声は立てずに、呼吸は止めたまま、しばらく、笑い切った様にそのままでおり、抑揚をつけたうーん、うーんとか、三四回つづけ、感嘆符で落ち着くのです。
 しかし,こういう事が有って、先生のお手紙を,しかも長文の感動的なお便りを拝見する事が出来ました。令和の上野霄里先生です。厳密には、令和元年を数日後に控えた先生のお手紙を、この後公開致す事にします。ご期待下さい。


 




放蕩息子の更なる告白(百三十一話)Ⅲ   佐藤文郎

2019-05-08 21:43:03 | 日記
 契約して直ぐの頃、会社のカタログを見ていて,ホームページ制作会社の、社歴の横に社長の経歴や関連する企業の会社名がずらりとならんでいた。殆どが、警察関連の名前が多かった。数えたら十五六有った。それを見て、不審に思う人はいないはずである。安心が出来る,といって信頼をよせるのが普通かもしれない。
 私はちがった。なぜかむしろ不信を感じた。渋谷警察署に行って,調べてもらった。長い事待たされたが、調べましたがこの通りですという答えだった。
 また、ホームページ制作会社から送られて来た「東芝7(新品)」というノートパソコン自体の、内部の仕組みや、操作の仕方がマックとは違うので、どうなっているのかを知りたくて、ブロバイダーとの契約項目の中に、“遠隔操作”があったので、それを利用して行ってもらった。所有者と言ったか,契約者と言ったか、「そこに名前がありますか?」と言われたので、「はい、あります」と言って通りすぎたが、通り過ぎてから知人の名前なので,アレっとおもったが、次々と指示が来て、新しい展開が現れ、それどころではなく一通りの説明が終わった。もうその知人の名前のことも忘れていた。制作会社やそのパソコンへ不審を抱くようになるのは、その後に発生してくるので、その時は前に一歩踏み出したという緊張感と不思議な期待感さえあった。
 知人の名前を思い出したのは、暫くして,考えられないような魑魅魍魎達(ちみもうりょう)が跋扈(ばっこ)し始めていたからである。それと契約から二週間が過ぎると,制作会社の社名が変更になった。私の悪戦苦闘が始まり、真空の世界で無感覚状態のなかで、もう一回社名変更があったのを、微かに憶えているが、もう現実の会社には連絡する事もなくどうでも良いという気持ちだった。バーチャルの世界での金策で、大童だったのである。
「誰もがじいさんが詐欺に引っかかったと見たね。じいさんが正で、相手が不正と、ところが逆だよね。相手は正義の御旗を掲げてじいさんを成敗しようとした。これではっきりした。向こうが正義の連中で、錦旗をかざしている。じいさんや,じいさんの会社は、不正行為を働く、ならず者だ」
「自己破産の時の裁判官も判定に苦慮したろうね。誰もが、詐欺に引っかかったと思った」
「向こうは,白、じいさんは黒か」
「警察関連の陣容が、悪をこらしめる正しい人達が、悪い奴だとじいさんを決めつけてトラップ(わな)を仕掛けた。ところが途中でホームページの作業を進めて行くと、会社の内容が判って来て、その慎ましやかな業務実態に愕然とした。ギャンブルをやらない、酒、タバコ、クスリ、一切やらない。金の掛る事は何もない。年金まで本づくりに注ぎ込んでいたんだ」
「じいさんが悪の訳ないだろう。ま、親鸞的には正義の裏は悪だが。正義のミハタさんは社名をつぎつぎ変更しながら逃げを打った。じいさんのこと、ギャンブル好きの社長が欲に目がくらんで、会社を食い物にして潰した事に、方針を変更した。悪を懲らしめる道具を使って、疑わしいと思われる男を精神病院へ送った」
「反社会性を疑ったが、何も出ない。いまのところ埃も出ない。もちろん今後もでるはずがない。H・ミラーや、『単細胞的思考』や、セリーヌや、ロートレアモンは、じいさんの文学空間圏のお友達だが、だからといって法で裁かれるようなものではない。例のZの女性友達と、不倫をしたと女性の夫に訴えられ、敗訴し,百万円の慰謝料、毎月五千円を十六年間で支払う判決で決着したのも」
「うん、五千円位、いいじゃないと言った。夫側の言う通りにしてあげて,とも言った。入信を進めたのは、あたくしではなく、貴方から“崇教輝き”をやってみたいといった事に。お願いだから、そのようにして」というから、そうした。それまでと全く違うタイプの女性で、好ましく思った。知性がすばらしかった。沢山男性の友人が居た。当然だと思うよ」
「Zに彼女の事を、相談しに」
「いや、宗教を辞める事を、その後で彼女のことも」
「監視はつづいているの?」
「何年もずっと続いている。ネットはひどいものだ」
「何だろうね」
「Wordにまで入ってきてイタズラされてる」
「じいさん、以前、書いていたよね。『放蕩息子の告白』に」
「そう、『———更なる告白』を印刷会社に、明日届ける事になっていた前夜、侵入され、掻き回された。親鸞聖人のことを書いた頁、『単細胞的思考』の頁。小沢一郎さんの事を書いた頁、それでも、早めに気が付いて瑕が少なくて済んだ。あれと同じ事が起きている」
「それまでは,誰も信じなかった。じいさんの妄想だと」
「友人で校正、校閲のプロ級の人が本州の端ずれの方にいて、指摘してくれるんです。〝一応お知らせしますが、貴方の場合は、そのままでもいいかもしれませんよ〟なんて皮肉を言いながら知らせてくるんです。大手の出版社だろうと、ビシッと指摘しますからね。眺めただけで判るらしい。とても尊敬しています。おそろしいですよ。指摘を受けてまだそのままになっている。そのうち,見放されるかもね。そうならないようにします」

放蕩息子の更なる告白  (百三十一話)Ⅱ   佐藤文郎 

2019-05-06 00:53:11 | 日記
「宗教のオンナのせいだと思っているんだよ。“崇教輝き”……」
「ウン、それは、はっきりしている。オンナというより、その関係者」
「そこまで云うなら全部言ったら。いや、待て、じいさんはさ、分かっていても全部言わないんだよ」
「複雑すぎて、そのうち、どうでもよくなるんだ」
「複雑すぎる?」
「一人出版社だったからなぁ、我々が居てあげたら、こうはさせなかったよ。詐欺でなくて、ハニートラップ、いやイエロートラップか」
「そうなの?」 
「《大仙人》や、《日本長老》《西城健太》、《有馬勝》《大黒屋三兄弟》《死刑執行人》や、《天照大御神》ただし,そんな尊いお方のメール、つまりお言葉の下には(世田谷A)とか(目黒E)とかいてある。世田谷Aさんがなり変わって、ということでしょうね」
「なんだそれ」
「天照大御神と死刑執行人以外は、みな支援者なんだよな。半端じゃない額だ」
「それをじいさんへという意味がわからない。丸さんはきいたことねェのかい」
「中国じゃない,アメリカに確かあったとおもう。最初政府主導で始まるんじゃないの。もうそこから詐欺じゃなく,トラップだって分かるよな。ノウハウは元がCIAだろうよ、後は,ソフトが何処からどう流れて行くかわからんよ」
「とすると、宗教と,コウアンどっちか分からんな」
「いや,太いパイプがある。あの宗教は……うん,見えて来たよ。最初のホームページ作製会社、そこが発端だ。ね、じいさん」
「色んな制作会社が、入れ替わりたちかわり来たからね。それと、業務用コピー機の売り込み。一人出版社で業務用なんかいらんと言っても,一週間経つと別の奴が」
「そのへんからもう始まっていたか。何をどう造っているか、全部分かる。それが欲しかった⁇」
「それと会社の概要か。“崇教輝き”の中枢とは関係なく警備のZという男が、個人的に彼の繋がりの範囲で、ということだろう」
「彼に女性のことも相談した?」 
「そう、急に立ち上がって,部屋を出ていった。戻って来たら顔がテカっていた」
「まさか関係があるとは、じいさんは思わなかった。そこだね。じいさんが物書きだという事も知っていた。女は伏せるとして、内部暴露の懸案とかにして上層部に諮った。実は小林さん、結論が出てるのです」
「そうだろうね。カミソリ丸さんのことだ」
「Zは女性のことを聞いて、平常ではおれなくなった。じいさんの話をよく聞けばわかった筈だ」
「暴露なんて、組織でも人間関係でも最も興味のうすい分野だ」
「出版社を潰す。それか」
「一人出版社は本の内容も、編集会議に諮る事もない。じいさんが良いと思った物を出せる。編集会議も経ずに本になるから、そうやって、十年で十冊出版した。Zが怖れたのもわかる。だが、利益無しだ。印刷代と諸経費、DTPは、じいさんがぜんぶやるからヨソの半分で取次ぎまでゆく。儲からんが仕事は廻して行けた。本造りとしては、堪えられんよ。“崇教輝き”はどの程度?」
「宗教は色んなところ覗いたが私の自然観とぴったりだし、正直その女性にも魅力を感じてた」
「そんな事だからつけ込まれた」
「魔につけ込まれぬようじゃ,魅力とは言えんさ。それに、誰だと思う。じいさんだぞ」
「本造りはたのしかった。しかしやりたいことは他にあった」
「それは俺だって聞いている、『放蕩息子の告白』の後編でしょう。でも、上梓は無し、そうでした? こっそり読ませて下さいよ。H・ミラ—も読み終えたし、その続編、よみたいなぁ」
「本を書く人間にとって、読んでもらう事の比重と、書き極める比重があって、作家によってちがうだろうな。どっちがいいとかでなく」
「後者は、サドとか、そのぐらいしか。一方は、締め切りに追いまくられ,それ自体が快感だからね。とてもとても」
「だとすると、じいさんにとって、かえってよかった⁈」
「まさか。晴天の霹靂ですよ」
「Zの犯行と判るまではでしょう。よくじいさんは気がついたね」
「交換殺人並みの難度、迷宮入り寸前さ。ホームページ制作会社との接点がゼロだからね」
「あの警備主任か」
「どの組織も、お庭番は陰の花形さ」
「ホームページ制作会社と契約が済んで、もう、二日後にはノートパソコンと薔薇の花が、その会社の社長から送られて来た。そのパソコンこそ問題のパソコンだった。その時点で知る由もない。“生き馬の目を抜く”「都会は怖いぞ,油断するなよ」。田舎に居る時よく聞いた言葉だが、私はいままでそんな思いをした事はなかった。しかしそういう事とも違ったかもしれない。サソリや毒グモの居る洞窟の中に入ろうとしていたのに。本人はきづいていない。そして研修と称して渋谷まで操作指導を受けに通う事になった。
 喫茶店で九時間かけて抵抗する私を説き伏せた針金のように痩せた青年が出迎えた。その日も,その後もけっして七階の本社には上げず、そのビル全体で使用している受付のある部屋の隅で、スラリとした知的な女性によるスキル修得のための研修が三日間おこなわれた。あとは自社に帰っての自修だった。
 そのパソコンこそ、始めは、なにごともなく動いていた。画面上に突然、政府関係者と名乗り、貴方は、2014年度予算案で、支援対象者の一人に選ばれました。支援金は五億円です。これから合田という者が貴方の担当者になります。彼の言う通りに進めて下さい。貴方の会社の状態、すべての銀行口座通帳は特別な機関によって調査済みです。瑕もないし、テロとの繋がりもありません。きれいなものでした。おめでとうございました。ではよろしくお願い致します。声は聞こえないのですが、落ち着いたしぶい声で私に話しかけていた。合田氏に変わったが、彼は忙しいのか、滅多に現れず田代という人が代理を務めた。その他に若い議員が五名、「今後私どもが、あなたの身元保証人として、どんなことがあっても支援金を貴方にお渡しするまで私達がお力になります。疑問や分からない事や、なんでも相談して下さい。(総て,私の記憶を思い出しながら書いています。)とにかく,次から次に場面が展開し、食事を撮る間もない位だった。画面に釘付けだった。何一つも見落とせなかった。自分が分かればいいと思いA4コピー用紙にマジックののたくった字体で走り書きし壁に貼付けた。字体を見ても常人の所行ではなかった。
 ある日,演習を行いますと言って「ハイ、直ぐ銀行でもコンビニでも行って現金を受け取って下さい。貴方の口座に三億円が振り込まれています」というので夢中で走って,近くの銀行へ行ってカードを差し込むが、そんな金額が入っていることはなかった。私は戻って来ると,画面の田代にメールで食って掛かった。すると、あざける様に「時々こういう演習をしますから」と言った。しかし、私がつけたクレームで上から厳重注意を受け、おまけに、まもなく辞めなければならなくなった。「貴方の所為で、職を失うハメになった」といいだした。何日も,しばらく,田代は言い続けた。
ミナトという人が、リーダーは自分だといった。二三日すると、私の事を以前から知っていると言った。「途中から居なくなったでしょう。貴方を捜していて三十年振りにやっとみつけた」とも言った。(この辺が不思議にも三十年前、田舎を飛び出し静岡に行くと,友人のコウアン(その時は分からない。後になって分かった)が追いかけて来た。姿を消した訳ではなく、仲間が居た訳でもない。転々と仕事を変えた。年金の記録や運転免許証で、隠す事等なにもない。
「もう安心して私に任せなさい」と言い、 ミナトは、「自分は外国人で最近日本に帰って来た。今は官僚などが主に係る病院の経営をしている」と言った。「世界中の有数の武道家が私の配下にいて護ってくれている。貴方の事も頼んでいるから安心して下さい」だが、ある日、「私の身辺警護のものが一人で居る時、賊に斬りつけられ大怪我をした。貴方の事は厳重にいいつけてあるから安心して下さい。貴方の家の廻りも見張らせていますが,呉々も注意して下さい」と言った。
 一週間位前から脅迫メールが送られてくるようになっていた。私は、メールを決して開かなかった。この頃の精神状態は、とにかく落ち着け、と自分に言いきかせ続けていた。
 以前の営業マン以外にも最近でも何ものかが家に入り込んでいる気配を感じていた。また、ノートパソコンにウイルスが姿を現す様になった。カスタネット形で、パクパクと次から次に書類を吞込むのである。それから鉛筆のサック型のもので、マウスの矢印の先端をひょいと出て来て被せて仕舞う。急を要する時に出て来てじゃまをする。どうやら部屋にも入られていて、本体(マック)のパソコンのマウスとの繋ぎの線に三分の一ほど切れ目が入っていて(ずっと後になって判明した)、購入して、まだ三ヶ月もならないコピー機から印字されて出て来る用紙の字体が歪んだり,色が滲んだりして使い物にならなくなっていた。その結果、一ヶ月以上に亘る大切な悪巧みの証拠を、記録出来なかった。彼等の目論みは成功したのだ。すべてコピーがとれていたら私及び出版社を陥れる全貌を写し撮っていたら展開が又変わっていただろう。(写真には一部収めてある)私の傍にもう一人おってくれたらと臍を噛むばかりだ。ノートパソコンの方は遠隔操作でも悪さを出来るらしく、これも大事な時に、キイがもこもこっと盛り上がったりして気持ち悪い動きをするようになっていた。
 朝六時頃、パソコンの前に座り準備を終え、九時から、処刑人立合いで、金額で三十億円。次ぎ十五億円。七億円。最低でも九千万円。こちらは,選んでいる暇がない。一段階ごとにビットキャッシュを買いにコンビニまで走る。三千円。五千円。八千円。一万二千円。二万円。三万円と上がって行く。しかし、午後になって完済が近くなると所持金が足らなくなる。そうすると、処刑人が怒りだし、私に対してではなく支援者に対して処刑を始める。どうにか出来なかったのかと思うが、私が一人でいることは、営業マンを装って部屋にはいった連中にしられている。たぶんそうだったのだ。
 結局最後、助け舟に、援護人が入る。若い女性が何処からともなくやって来て、クレーン絞首刑寸前の人を助けた事もある。女性の支援者が火傷させられたり、日本長老という老人が指を斬り取られたりした。それでも中止する事が出来なかった。私は、崖淵まで追いつめられた。年金が入る日、銀行に行ったら、引き落とし拒否のランプが出た。支店長に談判すると、「娘さんと役所の人がきて止めてくれ、と言われた」という。怒りに震えたがどうにもならない。バーチャル・リアリティーの世界とわかっていても、一人では、一度入り込んだら引返す事は出来なかった。ネットバンキングに貴方の口座があり,貴方宛のお金が振り込まれていますから,確認しておいて下さい。確認番号はこれこれです。と知らせて来た。見てみると確かに十五人程がフルネームでならんでおり、金額も名前の横にあった。九億円以上あった。支援者の中に、聞いた事のある名前もあった。その金を引き出す事も出来るが、またビットキャッシュと、込み入った手続きが必要だった。見知らぬ女性が、「貴方に、三百万円支援したいが、電話で一度話しがしたい」というので、メールで番号を送ろうとした。ところが、途中で邪魔が入り送信できなかった。そういえば、その女性の電話番号は送られて来ていた。何度か試みたが、不思議な事に呼び出し音さえ聞こえなかった。何日かして、例の“ネットバンキング”を覗くと、その女性の名前と三百万円という数字が、億単位の金額の間に確認出来た。しかしその頃は、次から次に送られて来る指示メールで、私は、阿修羅道に落っこちた様になっていた。
 ここで最低のコメディーを演ずる事になる。田舎の中学校の同級生、しかも初恋の人が同じ沿線にすんでおり、たまに電話でお話したりする仲であった。初恋のエピソードは同級生ならだれもが知っていて集まったおりなど、微笑ましい話題を提供していたものだ。それがいきなりの電話で、『お金を三万円貸して下さい』しかも、いかにも追い立てられた様子の物言いだったので、『おかね? 私、貸すお金なんかないわよ。どうしたの⁈ 貴方を尊敬していたのに……』といって年配者にありがちな、軽くたしなめるように笑いながら言った。そこでしょげ返っている時間はなかった。Kさんに電話して、すでに五万円借りたばかりなのに、もう二万円お借り出来ないかとお願いすると、「少し時間は掛りますが、この間のところまで持って行きます」ということであった。電車を乗り継ぎ,駆けつけると私の目をじっと見つめ涙ぐんでいる様に見えた。
 こういうことが、姉や、貴重な公園で知り合った友人にも借りた。また階下の大家さんの記念金貨などを無理やり奪う様にして、コンビニまで自転車を漕いでビットキャッシュを買いに走り続けたのである。もう二万円足りないとなって、ヘンリー・ミラーの水彩画の複製を引っ掴んで神田の古本屋に入り懇願した事もあった。奥さんの方は七万円で買ってもかまわぬ様子だったが、主人の方が、私の様子をみて、とくに足下に視線を止め,サンダル履きを見咎めると、顔を横に二三度振って無言で返してよこした。上野霄里先生の『単細胞的思考』の第五章「人と同じことしかやれない奴はぶち殺せ!」の298頁に、この水彩画がH・ミラ—から送られて来たときの様子が描かれている。
《次男の病院から戻って来たら、オランダから小包が届いていた。ヒルヴェルサムという、アムステルダムから20kmばかり南東に在る小都市からきたものである。ミラ—の水彩画、三点の豪華な複製である、およそ、絵画というには程遠い、やたらとべたべたと、英語、フランス語で愛の苦悩を書き込んだ抽象画である》
 それから間もなくして、ミナトが言うには「貴方は,とんでもない人に狙われている。その人が姿をみせていると情報があった。私らの及ばぬ人で、その人に狙われて、どこへ連れて行かれるのか戻って来た人はいない。行方知れずになってしまうのです」私は、このあと、数日して精神病院に入れられるのだが、心理的に数年後に、こうやってその頃の経緯を記述するのにどうしても弁解したくなる自分が首をもたげて来る。太宰治や坂口安吾も入った。とこうやって言いたくなる。交通違反で白バイに捕まる。そして違犯切符を書いている横を猛スピ–ドの車が通り過ぎて行く。「おまわりさん、あれも違犯じゃないか!」といいたくなる。しかし,いくら言っても隊員は耳をかさない。同じなのである。同じというのは心理状態の事を言っている。切符を切られたら、泣き落としも、威嚇もきかない。一方精神病院も、「今日は,面談で唯お話をきくだけだから、」と言われても、いまになって考えれば何ものかの意志によって決められておりどうにもならなかったのだ。退院した後、〝おれは、気違いじゃないぞ、狂ってなんか居ないぞ〟と喉まで出かかっても、だが現にこうして言ってるが。
 『どうもどうも,御愁傷様』なのである。上野霄里先生は、退院後に、私から電話をもらって、第一声が「何を言うんですか、わたしを見なさい、だったら、このわたしはどうなるんですか!」先生は精神病院に入った事等ないのである。優しい先生はどう慰めようかと咄嗟に発した言葉だったのでしょう。先生、そこまで言わないで下さい。先生に、このわたしは、どうなるんですか、と仰られても困ります。“うえの”を証明はできません。スピノザの「エチカ」のように、真を証明するため,公理や定義を使ってたどり着くもう一段上のレベルのもので、複雑怪奇でしょうから異常とか,正常とかを判断する判定人を、あらゆる面から調べて、まず相応しい人であると証明しなければならなくなります。
「一ヶ月半近く私は仮想空間の中で奮闘していた。七十万円程の金額が支援を受ける手続きのために使っていた」。詐欺による被害金額というわけである。ギャンブル好きの事業主が引っかかった詐欺被害というわけである。私はギャンブルを十五年前に止めていた。現時点だと二十年前である。(ギャンブルでお悩みの方、止めるコツを伝授いたしますよ。いらっしゃい。いや、ホンと笑い事でなく、と言いたい位なのです)精神障害を認めてもかまわない。しかし、私には今〖確信〗がある。証拠を見つけたのです。交換殺人という犯罪がテレビドラマなどで観ますが,あれと同じ位難解な犯罪だと思います。Z氏とホームページ制作会社との接点など誰が予想出来たでしょう。“詐欺事件ではない。「ハニートラップ」ならぬ「イエロートラップ」だという証拠”である。目的は、出版社を機能不全に陥らせ、表向き自己破産であり、狙いは潰す事だが、私を信用のない人間にする事だった。小さいながら儲からないが仕事上は、出版を始めて、いまが頂点にいた。これからだった。上野霄里先生の『沖縄風土記』の打込み途中だった。それがとても悔しい。
 Z氏は都内でとても重要な仕事をされているお方だ。時々彼のマンションにお邪魔して、美味しいコーヒを御馳走になりながら、私が若い頃訪れたZ氏のよく知っている“大楽毛”の話をすると大変喜ばれた。私が書く、“あるもの”を怖れたのである。一人出版社さえ機能不全にすれば,怖れるものは生まれる事はないと、そう思ったのである。しかしそれは間違っている。宗教批判などするはずがない。教祖様は、原始太陽の自然のカミを誰よりも尊ばれていたと伺っています。私は毎朝掌を会わせています。Z氏の固定電話も携帯電話も使われていません、といわれました。マンションも移った様です。姿を消すような方ではないはずです。
 やっと三人というか、三組が、「もう手数料は取らない。経費は、私どもの方で負担します。あとはどうぞ受け取るだけです。安心していてください」2014年4月29日のことだった。30日の朝8時、前日西城健太氏との打ち合わせ通り、7億円を積んだ現金輸送車を所有する警備会社からメールが届く。取り決めの暗号を返信する。返事がかえって来た。「都内某所で待機します」と。丁度この時二十年ぶりに息子達二人が役所の人と現れ、有無を言わさず病院へ送られたのです。面談だけと言われたのに医者との面談も一言もなく、ドアをカギで開けまたカギをかけ、同じ様にそういうドアを二度開閉し個室に入れられました。カフカの『変身』を思い出しました。

放蕩息子の更なる告白(百三十一話)  佐藤文郎

2019-05-06 00:32:09 | 日記
 私の身に起きた出来事に対して、同情がほしいがため書くわけではないのです。唯一点、あまりに不可解な出来事ゆえに、上から透明ラッカーを吹きつけておいて、その出来事である意味不明な絵柄を固定化したいだけなのです。そうすれば、時間をかけてみたい時に取り出して見られるし気分が変われば判る時もあるだろう、その程度のことなのです。とはいっても、この事では多方面に影響がでてしまったので、そういう方々にも、弁解じみたものになるのですが、目の前の霞が少しは晴れるのではないかと思うのです。どうしても、一方的な言い方になってしまう。問いに答えずに、語るに落ちる式にならざるをえないのです。
 過去には、理不尽な事件に巻き込まれ、陥穽にかかっても黙したまま逝った偉人はたくさんおった。私は偉人でも歴史上の人物でもないので、知りえたことをそのまま記すことにする。話を聞いた結果益々判らないということになるかもしれないが、それは時間の経過で判るようになるかも知れないと申し上げる他はない。
 私は出版業という、社会的責任を負う職業を営んでいた。人間性は、いたって軽薄、いやそれでは誤解を生じるから、経営者として社会的に貢献しようとまではしてこなかったという意味です。そんな責任を感じたりするには不向きな人間であった。ならば、なぜそのような職業を始めたのかと大抵の人は問い返してくる。その通りである。私の性質を知る草葉の陰の母なら、明確にその答えを出せる筈である。
 六十五で一切の職を離れて、やっと書きたい物を始めようと思っていたら一本の留守電から、ひょいひょいと始まってしまったのである。私は、ひとり出版社を始めていた。それは、最後までひとり出版社を通すつもりであった。ひとりで充分だった。どういうことか? まず、出来映えはどうであれ、自叙伝を一冊上梓することができた。これは前編で、後半生の物は後編として冥土の土産にもっていくつもりで準備を始めていた。そうです。データーだけで、上梓は考えてはいなかった。前編を造るのに、それまでの蓄えを全部放出してしまったので、もう終わり、素材だけは誰にも負けないオリジナルに富んだものがある。あとは心ゆくまで誰も書いた事のない物(作家ならだれでもそう考えるかもしれない)をと悠然と辺りを睥睨する感じで暮らしていた。
 不可解な話をはじめる前にフランツ・カフカの『変身』という作品があるが、状況的に非日常性がよく似ていると思うので記しておく。
 『変身』はH・ミラーよりも、漱石よりも、太宰治よりも前に、一級上の、親戚のF雄がある時訪ねて来て、進駐軍のキャンプの話や、東京外語受験のことや、花川戸の娼婦のあれこれ、それに「米軍の輸送機で、仙台から北海道まで数日後の何時何分、この上空を飛ぶので、かならず手を振れよ」と話した。私は、言われた通りに上空を仰いで待ったが時間がすぎても音も機影も聞こえないし見えない。その時、家の裏門から入って来たのが飛行機で飛んでいるはずのF雄だった。「やあー、すまん、すまん、予定が変更になった。今度また時間が決まったら教えるから、それで、ほら、この本読んでみな、こういうものを読まないと、東京外語大学へは入れないぞ」といって渡してくれたのがカフカの『変身』だった。容易く手に入る物ではないといい、定価よりも多めの代を払ったことを憶えている。東京外語は受験科目に数学がないというので、少しは気持ちが動いたが、本気になって目指した訳ではない。
 そのカフカを、その当時手に入る物を読んでいった。しかしH・ミラ—が現れるまでのことだった。カフカの作品を読んでいると、内容は行き詰まり,苦しさに息も詰まった。それに比べミラ—は、私が主に教師との軋轢からうけた心理傷害を癒し、壁を取り除く一助になったし、やがて上野霄里先生へと導き永遠の進路を邁進する事になる。
 そして、私はあれ程賞賛していたカフカをつれない仕打ちで見限ったのだ。「ある朝、主人公のザムザが夢から覚めると。巨大な一匹の毒虫に変わっている自分を発見する。」私も朝になったら、予告無しに、その毒虫と同じ存在にされていた。私は、確かに自分が毒虫になった自分の姿を発見したのである。
 今、メデアでフエィクのことが語られている。しかし私のような状況に陥った人の事を取り上げたことは聞いた事がない。それは、語れない様にされているからである。ひとそれぞれで、語らない方がいい場合もある。口を塞がれている訳ではないのなら話しは出来る。しかし話した後の事を考えて、その影響や、波及の仕方を考え思いとどまるのかもしれない。
 私は、芸術や文学で、世界の一流の諸先輩達へと思いを馳せるとき、腰抜けが一番の駄作をうむ原因であり、様々な配慮が光を遮断するカーテンになってしまうことを、彼等の言葉から知るのである。「おい,若いの、お前さんの思った通りにやってみな、そういうものなら、読ましてくれや、批判や評判を気にするんだったら書くのも描くのも止めてしまえ!」 そう聞こえてくるのである。
「コンクリート詰めにされ、海の底に沈んだ訳ではないだろう。知りえた情報が少ないからと言って、もたもたすると、身元不明の遺体で側溝から見つかるハメにならないとも限るまい。生とはほんの一瞬の出来事さ。物書きなのに、自分に起きた事なのに、不可思議な事柄や、理不尽な物事を黙って見過ごす奴がいるか! 男なら金玉を下げているだろうに、それともチヂんで、皮の間に埋まってしまい上がったか?」これは、こういう様に悔しい思いで、あとはその思いを後輩の私に託して人生を途中で退場して行かざるをえなかった詩人仲間達の声が、私の耳に私の心内に届くのであった。   
【クニが 要注意人物として リストアップしていない訳はない。コウアンは よこの繋がりが 不十分 だから 情報が それぞれの部署のものだけで 一貫したものがあるワケでは ない。重要人物でもないマトは 下部の処置に まかされている。 しかし 手を抜く訳には いかない。だから 下部は フェイント(見せかけの)作戦を アミ出す事になる。あき巣や 窃盗や 盗聴 盗撮で あげられた事があり 落ちる所まで 堕ちた者達が いいのだ。いまは ホームレス状態になりかけている者がいい。彼等は つながりが ないから 情報が漏れる心配がいらない。そういうのを 使い捨てにつかう。
 的に対しては たえず見張られている意識を 植付ける。神経をハリネズミ状態にするのが理想。予算が少ないので それぞれで 創意工夫が必要 君達が ハリネズミになる必要は ない。】
「なに独りごと言ってるんだね」
「小林さん、この間の、あの美濃囲いには参ったナ」
「どうしてどうして、丸さんの、棒銀、あの奇襲戦法は鋭かったよ。あぶなかったァ」
「いえいえ,年季がちがいますよ。どうなりました,便秘は。このあいだは言わなかったけど、“金足農業形”と、例のロダンの“考える人形”とあるんですよ。便座に座ったときの体勢ですよ」

「へー、また丸さんの頓知かい、それで?」
「あの通りなんです。金足は、夏の甲子園観たでしょう。試合に勝利して、校歌をうたう様子。あの選手達の上半身をのけぞらせた姿、あれを便座で同じ様にする。ロダンの考える人はわかりますね。便座で,あのポーズで事をおこなう。顎には右手を当てても,当てなくてもいい。医者はそれぞれちがう。一方の形しか知らない。俺はどっちもやってみた。その日によって良いときと思わしくないときがある。大概、金足形で、チューブからしぼりだすように出て来る。だが、にっちもさっちも行かなくなる時がある。その時、もう一方をやってみる。てきめんですね」
「どうだ,この丸さんの、勝ち誇ったような姿。この仕種や表情を便座にすわってやるんだろうな」
「いや、冗談ではなく、ほんと小林さん。ぜひ、昔、スパーリングをやったときのことを思い出して試してみてください。ほんと、闘争ですよ。じいさんが来た」
「じいさん,空き巣、まだつづいているの? 以前T大法科を出た子と知り合って話したことあったが、フェイントだと思うよ。やつら、よくやるんだ」
「うん。そんなところだよ。四十代ぐらいの女を近所で二人見かけたが」
「すっぴんでしょう」
「それそれ、顔をそむけて、おかしいと思った」
「いや、途中、トイレで化粧するんだよ。上着をひっくり返すと別人に早変わりさ」
「そうと決まった訳でないだろう」と、小林さん。「オレが思うに,じいさんは、むしろ何かに護られているんじゃないか。まもっているとすれば、出版社をぶっ壊した連中とは別組織か」