独りぐらしだが、誰もが最後は、ひとり

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 私の花物語    幻の花(2)     三浦由里好(みうらゆりこ)

2017-03-31 19:34:13 | 日記

 幼い日の私の心に鮮明に刻み込まれて忘れられない花に、かたくり草がある。
 それは私が生まれて初めて見る〝幻の花〟であった。
 生家から更に、西に五、六㌔程山深く入った山林の中にかたくり草という幻の花が咲き、その葉は食用としてもおいしいので摘みに行ってみようと兄(義姉の夫)が言い出し、柴刈りを兼ねて叔母と母と兄と私の四人で出かけた。柴刈りが本分だったのかも知れない。
 こ寒い日でスカーフや手ぬぐいでほおかむりして出かけた。生まれて初めて見るかたくり草という花は一体どんな花なのか、期待に胸おどらせて皆に遅れないように、小走りでついていった。杉の大木が数十本、いや数百本あっただろうか。その杉木立の間から真っ青な空がのぞいていた。
 その杉木立の根本にそよそよと風にふかれて、〝幻の花〟かたくり草は咲いていた。淡い赤紫色の可憐に神秘的に咲くかたくり草を見た時、何か胸いっぱいになった。
 誰も知らないこんなさびしい所で妖しく人知れず咲くかたくり草の花が、言葉では表現し難い程に愛おしく胸にしみた。兄達と一緒に、夢中になって群咲くかたくり草を私も摘んだ。どの位経った頃であろうか。ふと辺りを見回すと私の他に誰もいない。私はそこら中をかけめぐって母達を捜した。とうとう私は泣き出した。このまま置いていかれたらどうしよう。もう皆は行ってしまったのだろうか。そんな筈はない。
「母ちゃん! 叔母ちゃん! 叔母ちゃん!」と私はワンワン声をありったけ出して泣き、同じ所を登ったり下ったりした。
「おおい! ここだよ!」すぐ側から声がする。何の事はない。道を一本隔ててすぐ隣りの杉木立の中で大人達は柴を丸めるのに懸命の作業であった。子供の私にとってそれははてしもなく不安な思いの出来事であった。
 私が自生のかたくり草を見たのは後にも先にもこの時だけであったが、早春の空の下にそよそよと風に吹かれて、淡い赤紫色に咲く神秘的なかたくり草の花は、幼い日の私の心の奥深く咲いた永遠に幻の花なのである。
 その花の葉をゆでて家族で食べたが私はあまりおいしいと思った記憶はないし、実際に食べたかどうか定かではない。

 似たような思い出がもう一つある。確か私が小学二年の五月頃であった。
 一年生と二年生が一緒になって自然観察に出かける事になった。学校へと左手の山道を、列を作って登って行った。妙子先生はほっそりとして物静かなやさしい先生で私は好きであった。長い列に付いて登っていくうちに、私は遊び仲間の鉄生ちゃんが皆からどんどん遅れて最後になり皆に追いつこうとして懸命に走っているのを見つけた。鉄生ちゃんは生まれた時小児麻痺にかかり確か左足が悪かった。
 私は可哀想になり鉄生ちゃんをおんぶして細い山道を登って列を追った。とても重くて二人ともすっかり列から遅れた。近所の遊び友達の夏ちゃんと春ちゃん(一年生)が気づいて私の所に寄って来て、交替でおぶったりしながら大きな川の所まで来た。皆の列が川を渡って行くのがちらりと見えた。細い丸太橋をゆっくり渡って皆の後を追ったが、行けども行けども妙子先生の率いる生徒の列はみえない。川を渡り切った所で道が二方か三方に別れていたが真直ぐに進んだ。そしてついにすっかり山の中に入り込み右も左も分からない迷い子になってしまった。四人は不安におびえ大声で泣き歩いた。「どうしよう」もうどうにも帰れない。方向も道もわからず一歩も進めない。真昼の太陽が照りつけ汗と涙でびっしょりであった。どのくらい泣き歩いたであろうか。目の前を一人の小父さんが馬をひいて下りて来た。地獄で仏とはこの事を言うのでしょうか、私はすかさず、
「小父さん! 山田の方へ行くのに、どう行ったらいいんだか、教えて下さい」
「あゝ そんだら、そごどこずっと登ってがら、下って行ったら着ぐよ」
「そごんどごずっとって、一体、どう行けばいゝが、小父さん、もっとちゃんと教えでくれなっきゃ、分からねえ」私は泣きながら、なんて不親切なと腹立たしい思いで真剣にたずねた。どう動いたらよいか、すっかり迷い、疲れ果て、わらをも掴みたい子供達にとって、小父さんにしてみればさも簡単なその道だが、わかるように手をとって教えて欲しかったのである。
 馬の脚をとめ、小父さんは丁寧に教えてくれた。教えられた道を四人で下って来たところが国道に出た。大通りを目にした時、天にも昇る思いであった。ほっとして四人はうれし涙が出て、泣いた。
 それは、とても自然観察どころではない、幼い日の忘れられない思い出であった。

  公園で法然と親鸞を想う         公園小父さん

2017-03-30 15:44:19 | 日記

『親鸞 教科書記述に変化』(朝日新聞3/17朝刊)を読みました。これは、このことに異を唱える文章ではないことを最初に言っておきます。教科書に関心があるわけでもない、最近たまたま散歩途中、公園で読んだ文庫が、親鸞と法然だったので多少興味を覚え思うことを記してみたのです。私はこのような様々なものをもっと掲載して貰えればと思っています。
 高校の倫理の教科書に今まで、親鸞について、師の法然の教えを「徹底」「発展」させた弟子とあったそうです。これではどちらかと云えば法然のほうが親鸞より劣ると誤解を与えかねないので、教科書の表記を見直す動きができたと書いてあります。
 そして改められた記述の変化をみると、親鸞は「独自に」「新たな教説を生み出した」また別の教科書も、親鸞は「法然の教えを継承しつつも、独自の道をあゆむことになった」「法然の教えを独自に展開して」と修正されたそうです。
 二人の宗祖は師弟の間柄であるが、私は、二人の違いはむしろ明瞭だと思いました。だから、独自の道をあゆんだし、独自に展開した、で間違いではないと思います。はじめにあった優劣という解釈や見方はおかしいと思います。生徒達は教科書での出会いの後に認識や体験を経て、興味が深まれば自分達で探求、考究を深めていくのだと思います。
 親鸞が叡山を下りて法然のもとを訪れたのは29歳の頃でした。69歳の法然に弟子入りしています。40の違いです。一大決心の末のことでした。師弟には、やがて流罪(直接関わった事件ではなかった)が待っていました。法然は75歳、讃岐へ、高弟はじめ弟子のほとんどが死罪または流罪になりました。親鸞はこの時35歳でした。やはり越後に流罪になっているので京都で師弟共に過ごしたのは六年弱です。その後再会する事はありませんでした。
 親鸞がいかに法然に傾倒し帰依してたかは、親鸞の『歎異抄』(弟子、唯円が師の言葉を聞き書きしたもの)の二段に、
 《たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、地獄におちたりとも、さらに後悔
 すべからずさうらふ》とあり、覚如著『執持鈔』は親鸞の語録だが、そこに
 も 《故聖人(黒谷源空聖人御ことなり)のおほせに、源空があらんところ
 へゆかんとおもはるべしと、たしかにうけたまはりしうえは、たとい地獄な
 りとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり》
 
 法然聖人は『選択本願念仏集』という〝仏教の全骨格〟を記したと云われる著書を書きました。その書写(書写を許されたのは、三百八十余人の門弟のうち、直弟子十人足らず)を許された中でも新参者で末席の親鸞が許されたということを、親鸞は後年涙にくれながら内容を讃嘆し、感謝とともに語ったと云われています。その書について法然は「源空(法然)存生の間は、秘して他見に及ぶべからず」というぐらい、この書について誤解を恐れていたらしいのです。「庶幾(ねがわ)くば、一たび高覧を経たる後、壁底に埋め、窓前に遺(わす)るる莫(なか)れ。恐らく破法の人を悪道に堕(おと)しむるなり」と。
 
 法然は当時、仏教改革者としてヒーロー的存在だったと云われている。
 『青年法然は気を負うたる求道者、修学者であって、書を読むにも自分の批
 評眼をもって読み、叡空*(比叡山で師事)と議論の際のごときも──』一歩
 も引かなかったという。『──また三百五十年間偶像視されて何人も一指を加
 えなかった弘法大師の十住心論(じゅうじゅうしんろん)さえ非難している。
 これは当時一青年僧の態度としては恐るべきものであった。彼は常に「学問
 は、はじめて見立つる時はきはめて大事なり、師の説の伝習はやすきなり」
 と言った。いわゆる要求を持って書を読むので、鵜呑みにするのではなかっ
 た。故に叡山の書庫を漁り尽くしても、彼の要求を充たすに足るものが見つ
 からなかった。』
                  (法然と親鸞の信仰─倉田百三)
 
 法然に関するものも、親鸞に関するものも幾らでもこの公園内の図書館で目にする事ができる。これは法然の青年期の挿話だった、そして法然にとって恵心(源信)僧都の『往生要集』との出会いこそ決定的だったといわれている。
  
  『法然が往生要集を読んだのはもちろんこれが初めてではない。叡空とも
  往生要集について議論しているし、二十六歳の時、関白忠通の前でこの書
  を説いて知者第一の称を得た。しかしその時にはまだ法然の心境が逼迫し
  ていない。余裕がある。充分貧しくなっていない。ホコリがある。まだ「智」
  をたのんでいて、それに絶望していない。まだどうにかなるだろうと思っ
  ている。しかしいったん心機が熟するや、全く新しい、神来的な光明をも
  って、新天地、新世界をひらいて見せたのである。その文字は散善義の、《一
  心に専ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥に時節の久近を問わず、念々に捨て
  ざる者、これを正定の業と名ずく、かの仏の願に順ふが故に》
                   (法然と親鸞の信仰)                  
 読んでいるといくらでも孫引きしたくなるところが出て来る。最後に配所に向う法然の有名な誰でも知っている遊女とのエピソードがある。
 一行は室津に着くと、当時港には廓(くるわ)があって、船が入ると、屋形船で遊女達が来て客の疲れを慰めるのが常だった。
  
  『法然上人様のお舟だという事は知っている。妾たちは引き出物を貰いに
  来たのではない。卑しい稼業をしている身ながら、尊い上人様の御勧化(ご
  かんげ)にあずかりたいのだ」と言って、なかなか退こうとせず、御座舟
  のまわりを廻っていた。
   法然はあわれに思って、船にあげてやって、女人往生の話しを聞かして
  やった。
  『あなた方は運拙(つた)なくしてそういう稼業に身を沈めているのだ。
  人間は宿業(しゅくごう)次第で誰がどんな境遇に陥(おちい)らないと
  も限らない。念仏というものは、そういう運の拙いもの、宿業の深いもの
  のために設けてある法門なのだから、心配する事はない。あなた方は出来
  るなら、今の稼業をやめてしまって堅気になって、念仏するに越した事は
  ない。しかしどうしても、止められぬ事情があるなら、今の稼業のままで
  よろしい、ただこんな卑しい稼業をしている罪深いものでも、お救い下さ
  ると信じて、念仏を唱えれば、必ず往生疑いない』
   遊女達は法然から目のあたり、自分たちの境遇をちゃんと承知の上で、
  掌の上に受け容れてくれる弥陀(みだ)の救済の話を聴いて涙をこぼして
  喜んだ。
                   (法然と親鸞の信仰)ヨリ

 文庫から目を転ずると、公園の桜もおおかた見頃を迎えていることに気が付く。先日認知症予防のためには同じ散歩でも早足のほうが効果的だと言っていたが、精神衛生のためにはゆっくりと歩を進めながら草花や昆虫や風や匂いや人達の立ち居振る舞いなどに、こころを向けるでもなくむけながらそぞろ歩く方が私は好きだ。つまり何にも目的のないあゆみである。それでなくとも、ひたすら、目的にむかってただ歩きに歩き続けてきた反動であろうか。
 だが、公園内ならいいだろうが、街の通りを散策する時に気をつけなくてはいけないのは、立ち止まって家の軒先や二階の窓や花壇の花に見蕩れたりジロジロ見たりするのは、見とれていると間違われるのは気をつけなくてはいけない。
 早足で通りすぎるにかぎる。
 
 法然は、“目から鼻にぬける”秀才タイプだったが、親鸞は、一時期法然だけには見所があると思われたふしもあるが、総じてその生涯を通じて挫折と絶望の連続だったらしい。法然と出合う直前のようすを紀野一義著「名僧列伝(三)念仏者と唱題者」は書いている。「この頃の親鸞は、抑えても抑えても湧き上がって来る烈しく身を焼く愛欲の情念に苦しめられていたに相違ない。その頃の僧には妻帯している者も多かった。表向きは清僧でも、ひそかに女との愛欲に耽(ふけ)る者が多かった。親鸞はそれができなかった。精神的に深いものを求める者は、反面において甚だしい性欲に苦しめられる。抑圧されているだけにその性欲は毒気となって親鸞を苦しめるのである。
 思うに、際立っていいこともせぬ代わり際立って悪いこともしない男は、生命力が弱いのであろう。生命力が弱いから性的欲望も淡く、いわゆる、やさしいいい人で世間を通り抜けて行くのである。そして、いてもいなくてもよかったような人生を哀れにも細々と送って果てるのである。
 親鸞はそうは行かぬ。後に「愛欲の広海に沈没し」と告白したのは、比喩的な言い方でもなんでもない。性欲そのものに苦しめられ通したのである」。

 紀野先生は、立場があるので書けなかったでしょうが、親鸞の弟子唯円の「書き止めの書」『歎異抄』(明治の末年までは教団の一部のものにしか知られていなかった)や、最晩年の『和讃』を読めば解るでしょうが、他の僧は女遊びをした、親鸞は性欲が他僧より烈しかった云々、一体偽善者はどちらなのだろう。
 親鸞がなぜ苦しんだのか。ひと密れず、誰にも気付かれずに女を抱いていたからであろう。破戒僧であるから苦しんだのである。私はそう確信している。でなくば前述した二著の中の語りや言葉はありえない。
 







 

言論の自由

2017-03-10 23:28:21 | 日記
                                                公園小父さん

 言論の自由,表現の自由、というものを私たちは憲法で保証されている。日本国憲法21条にそのことが書いてある。自分の考えや自分の気持ちを、公表する場合のことである。公園を散歩しながら、独りでつぶやいている分には検閲を受けるという事はあり得ない。
 公表する場合、プロのライターと此の種の文章とでは、プロセスや内容の違いがあるしプロフェッショナルにはランクによる対価が支払われる。ライター達は出版社の校正でまずチエックが入り、最終的には厳しい校閲の検視にさらされる。誤字だけではない,表現が適切かどうか、あらゆる角度から検討され修正される。あらゆる角度というのがミソである。
 公園の小父さんにはそんなものは無い。しかしそう云って高を括っていると、そうでもないということがあるから要注意。気を付けることだ。
 公園の小父さん達にとっては、自由に公園内の空間でイリュ―ジョンと遊びたいのである。ベンチで文庫本を閉じた後、過去の思い出とたわむれる。両親が亡くなった年齢にあと数年である。この歳になると、死がやって来るのではなく、こちらが急ぎ足になっていることに気がつく。若い頃はあんなに父に反抗していたのに、父のあの実直さは、どれほど得がたいものか、決して軍隊仕込みとばかりは云えないと此処まで来て分って来た。写真を撮っても独り暮らしなので見せ合うこともない、と思わず笑ってしまう。
 高齢者たちのBランクのホームに入っていたことがあるが、恋は盛んであった。職員さんは「子が出来るわけでなし、ほっておきなよ」と云っていた。人間恋ばかりは2歳から90歳が過ぎても、ほんのり頬を染めはにかむのである。嫉妬もするのである。むしろ若い頃より直線的で烈しいのである。

炎のように常にあるもの

2017-03-08 15:11:14 | 日記
   
                      公園小父さん
 K氏の事業活動が政治をも巻き込んで大変な騒ぎになっている。しかし私なりに我が身を振り返った時に、おなじようなエレメントが私の内にもたえずあったことを知るのである。そして、結果としてたくさんの周囲のひとに奇異な感情を抱かたこともあるのだが、ぐずぐずとマグマの様に底にくすぶっていて思うように状況が進まない青年期において吸収したイデーが、岩盤を突きうごかすほどのエネルギーを爆発させることがあるのである。
 イデーでとしてとどまって居る分には、つまりマグマとして堅い岩盤の内でどんなに暴れようが外に顔を覗かす事はありえず社会を騒がすことはない。外に顔を覗かせて良い場合は又別の要件がひつようなのである。ともかく、岩盤を破らないかぎりは顔や姿が見えないのであるから、いずれも同じなのである。
 岩盤は、社会常識の場合もあれば、政治体制の場合や、何かの理由で岩盤が極度に軟弱になっている時、岩盤崩壊は起きる。一番分りやすい例は、自然現象である。地震も火山噴火も、氷河期も旱魃期も、安寧無事を願うものにとって、社会常識や安定した政治体制のもとで平和に毎日を送りたい私たちにとって起きては欲しくない現象である。
 アスリートが新記録をめざすのも堅い岩盤を粉砕する程の努力の結果のエネルギーがなければ敵わないことであり、生前,冷笑や、無視にさらされて死後何十年、何百年後に賛辞と共に度外れの高値で取引されたりする。ゴッホの絵画がそのいい例であるが、文学作品にも数え切れない。現在陽が当たっている、また当たっていない芸術家や彼や彼女の作品も時が経てば、いったいあの現象は何だったと思ったりするのだろう。
 今世界のリーダ達は、そっちでもこっちでも、その堅い岩盤を突き破ろう、突き崩そうとして目立った動きをしている様子は、誰の目にも、見たくないと思っても飛び込んで来る。氷河期などの天変地異にくらべれば小さな現象だが地球に生息するものにとっていずれも深憂の種である。
 目を転ずればきょうも清らかな霊峰富士が遠望できる。この山の醜い姿、恐ろしい姿をして周辺の生息するもの達を脅かし続けていた時期があったことをあらためて思う。しかし、眼前の優美で麗しい姿を見るかぎり、これが変わってしまうなどありえないと信じて生きつづけるしかない。私にはなんの魂胆も野心も無い。いつまでも、ただ愚かでしかない人間の願いである。


 私の花物語     幻の花       三浦由里好(みうらゆりこ)

2017-03-07 22:59:25 | 日記
 少しずつ色濃くなって行く若葉の緑がぬけるように青い五月の空に、ひときわ美しく映える頃、花の季節は、足早に青葉の季節へと移っていく。青葉をそよがせる心地よい風が髪にサヤサヤとあたる五月のあの感触が私はとても好きであった。
 三月から五月にかけて、梅・福寿草・椿・水仙・桃・雪ノ下・オダマキ草・桜・ツツジ・山吹草……等々、華やかに色とりどりの装いで楽しませてくれた花の妖精達は、ほのかな余韻を残して、空の青さの中に吸い込まれるように溶け去って行った。やがて淡い水色の羽根をつけた天使が季節を運んでくる。
 
  雨が降ります雨が降る
  遊びに行きたし傘はなし

  雨降りお月さん雲のかげ
  お嫁に行く時ャ誰とゆく
 
 母や叔母が雨の歌を教えてくれ、雨の戸外を眺めながら歌った。雨の季節は家にこもり、オハジキやビー玉、アヤ取り、お手玉遊び、シャボン玉遊びをした。
 ガラスの夢の様な彩りの美しいオハジキやビー玉、虹色の夢を乗せて吹き飛ぶシャボン玉遊び、美しい小布を集めて作るお手玉遊びは結構憂うつな雨を忘れさせてくれる不思議な世界を持っていた。

 生家の庭を登った所に竹林があった。五、六月頃竹の子があっちにもこっちにも頭をもたげてくるのを、よく祖母の後に付いて弟妹達と掘りに行った。皮むきは子供達の仕事の一つで、ごほうびに梅干しをもらい、内側の柔らかい皮に梅とシソの葉をはさんで皮が赤く染まるのを楽しみにしゃぶったりした。また、すかんぽ(イタドリ科の野草)をよくつんできて塩漬けにし、赤みのさしたのをしゃぶったりもした。
 梅雨にぬれた、紫色の妖しい美しさをもつ桐の花や白い袋をたくさんつけた可憐な蛍袋(雨ふり花と呼んでいた)の花が咲いた。蛍袋も又、好きな花の一つである。素朴で可憐なこの花が、何故か郷愁を感じさせるのは、子供の頃、故里の野辺に楚々と咲いていた風情がなつかしく叙情をかきたてるからなのであろうか。
 生家の辺りは、見渡す限り田畑と山野と樹林にかこまれ、目に映るものは緑一色であった。家の前には小高い山があり、そこを前山と呼び、後ろには裏山があり、竹林をはさんでそれらは連なる山だった。春夏秋冬この山は私にかけがいのない思い出を作ってくれた。
 私の歩き、遊びまわるいたる所に数知れぬ草木や、山野草が生繁り、名前も知らない無数の植物を私は感覚の中で、肌や目に感じながら覚え成長していった。彼ら彼女らとの様々な出会いと思い出は数知れず、めぐり来る季節の中で得たひとつひとつの感動は今も昨日の事のように私の中で生きている。
 この緑の季節に咲く蛍袋や山ユリや、キキョ・オミナエシ・河原ナデシコの花達も又私にとって幼い日の魂の中に刻み込まれた美しくも尊い私の心の宝でありノスタルジアなのである。