独りぐらしだが、誰もが最後は、ひとり

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本が読まれない        公園小父さん

2018-07-27 21:09:29 | 日記
 本が読まれないといいますが、分かるような気がしますね。とくに現代作家の小説が読まれない。「事実には著作権がありません」というある作家の意見を新聞で読みましたが、これでは読みたいとおもう作品は当分期待できないでしょう。事実を換骨奪胎して、どうするのでしょう。本物の刀身の代わりに擬(まが)いを入れてごまかしても、「フィクションの中に昇華する努力」があればそれでいいという訳ですね。事実(本物)にかなうような驚懼(きょうく)するような思いを、文飾でつくれるでしょうか。事実に対する圧倒されるおもい無くして、換骨奪胎などという小細工が成立つものでしょうか。
 たしかに、現代の作家は新しい意匠をこらして文章も自由自在ですが、事実が内部に持っている強烈なくさみや、ゴツゴツした生々しさが消し去られていると思いますね。消し去り方に何やら、誰に対してかそれとなく、忖度を示唆しているように感じます。
 「私小説」といった日本の小説形態を、作家も批評家も、読者も、見向きもしなくなったかに見えます。かわりに、ノンフィクションというジャンルに姿を変えて、名目(めいもく)を保っていると言えなくもないでしょう。そのノンフィクションでさえ、「言葉で別世界を構築するフィクションの醍醐味(だいごみ)がある」と、どうしても事実よりも、まがい作品の方に価値を見ている様です。
 まがい作品と決めつけてはいけませんね。写真と絵画に置き換えれば分かりやすいかも知れません。しかし、どちらも、芸術作品に代わりは有りません。そこには、それぞれの好みによって価値が別れるだけです。 
 ノーベル賞作家の大江健三郎さんに対して私は、私小説作家の匂いを感じて、そのことを言うと、「それは失礼だよ」と公園仲間にたしなめられます。しかし、私は引き下がりません。大江さんの「読書」は、一作一作、日本の物も、外国作品も同じ愛情を持って読み込んでいることが、こちらに伝わってくるのです。他の作家の様に、私小説作家だからといって、こそこそ読んだり、一段低く扱ったりはしないのです。大江さんが書かれている作品の外観からは、私小説形式の気振りも見てとれませんが、その心情の、醸(かも)し出しているものから感じ取れます。世界の作家たちと並び立っても、ひときわ大きく輝いて私には見えます。