独りぐらしだが、誰もが最後は、ひとり

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自分の日常や、四十五年来の先生や友人達の作品を写真や文で紹介します。

放蕩息子の更なる告白   (百三十四話)  佐藤文郎

2019-07-29 13:43:07 | 日記
“本が読まれない”という感想を書いたのが、ちょうど一年前になる。私にすれば、文学書が読まれないという意味で書いたのである。しかし、書店がいつの間にか模様替えをしたり、店じまいをしたりという光景も目にする様になった。文学部に学ぶ女子大生が、森鴎外という作家を知らない、という逸話は有名であり、何十年も前から言われていたことだ。楽しい遊びや話題や、それだけでなく、専門外でも、情報量の多さにてんてこ舞いと言う所なのかも知れない。
 話は全く変わるが、我が家では、子供達にたいする教育は徹底していた。「お父さんの様になるから本を読んではいけませんよ」というのである。それに対してお父さんは、一言もなかった。仕事にかまけ、家庭を顧みない、しかし、本だけは増えていく。引っ越し話がとつぜんもちあがり、しかも必ず遠方であったので、ささやかな妻の蓄えもその度に消えてしまい、大袈裟だが、その元凶こそ、役立たずの“ゾウショ”だったからだ。本人は全国を放浪したと言っているが、本人を追いかけてごっそりと、ダンボールの小山が送り届けられるのである。送る身になればたまったものではない。そうして、結局、仕舞いはちりぢりばらばらである。
 「世をすてて知られることがなくても悔いのないのが学問である。」という言葉を遺している李贄(りし)という儒者が中国にいる。放浪したあとこんどこそは、老妻の下に帰るだろうと誰もが思った。だが、反対に遠く離れた所にいき一生を終えた。こういう男の書いたものを読んで、何を得たかと問われても何もないし、迷いが深くなったと言えないこともない。女子大生の逸話も、彼女の言い分はあるだろう。あって当然である。
 数日前「愛菜の本棚」という本が紹介されていた。うむッ、と私はたちどまった。芥川龍之介と太宰治とどちらが好きですか、と問われた十四歳の作者は、一拍半おいた後、「芥川龍之介です」と答えた。知性的な顔がすてきだった。すてき、という言い方は平凡過ぎるが、知性美をどんな栄養分が育んだのだろうと本を読んでみたくなり、書店に出向き注文した。二週間はかかると云う。「この分では、出版社も品切れ状態ではないか」と受け答えする女店員の声も弾んでいた。

其処に降り注ぐ     上野霄里 (令和を前にした平成末の書簡、その2)

2019-07-21 14:22:39 | 日記
  名久井様
 勝った試合や受かった試験からは、その人間の心や魂に響いたり、体の中の愛のメロディに、さほど本物の力を与えてくれないものだ———とたいていの心豊かな人物は云うものだ! 何か、ほんとうのもの、つまり、熱い愛や真白な心の言葉、赤く流れるような魂の歌がきこえてくる自分の体の中で、はっきりと何か大切なものを身に付けるはずだ! 勝ったり、会ったり、誉められたり、唯々喜ばれるだけの時、その人間は、今持っている僅かな大切な物さえ、むしろ無くすか、何処かに忘れてしまい、残念ながら、自分から手離してしまう結果となる。大切なのは、生きている自分の人生時間のまっただなかの、真実の生きた時間の中で、負け、失い、笑われ、悲し過ぎて一人泣きする時、何かしら自分にだけ必要な本物に出会う! 本当の愛、歌、力、生命の熱い力にぶつかるものだ! 老境とは、若い頃と違って、それが特別はっきりと現れることがある。私は考えている。人生ばんざい! 老境ばんざい! とにかく、人間、大万歳です! 生命よ! 負け犬の命よ! 糞だらけの馬鹿犬よ! 天の力は、其処に降り注ぐ! 人間誰しも、何時でも、何処でも、どんなに貧乏していても、負けていても、不合格でも、其処にこそ天来の魂の光が注ぎ込むのだ! 人生は、何かが弱い時、何かが弱っている時、苦しくて、悲しくて、泣いている時、雨の中でびしょびしょになりながら一人、親なし子のように佇んでいる時、天来の一発の雷鳴として、その小物の上に落ちて来る! 雨よ! 降れ! 雷鳴よ、鳴れ! 人間よ、一人、一人、大物になれ! 人間よ! 正しく生きている人間よ! どんな時にも、しっかりした自分に自信を持ち、全人類の見本となれている自分を誇れ! 人間の代表として誇れる自分自身であるために、自信を持って一番搾りの空気を吸い、一番搾りの水を飲み、一番搾りの陽の光を浴びよう! 自分の魂と骨と肉の中に、しっかりとした新軟骨成分をタップリと蓄えて毎日を生きていこう! 自分の言葉の中でロコモテーとなって働く命の力に、しっかりと頼って一分一秒を生きていこう! 文明の言葉から与えられている自分の知恵は、よく考えてみれば、もはや、自分自身ではとてもとても追跡不可能なほど、老いた自身から遠ざかっていることに気付いている。老いた私の手には、とてもとても近寄せないありとあらゆる文明の言葉よ! 老いの心が近寄れない程に、何かが違っている小知恵の文化よ! 余りにも微小で、老いた人間には、触ることも不可能な文化のあらゆる大きな、そして細かい力は、もう一度、一つ一つの微生物以下の小さい物として、まるで炭素が、土の中に完全に分解していくように溶けていき、温暖化の地球の全域を、元々の命の氷河期に戻さないと、人間は、生きていけない。文化の中で、文明の競争の中で、勝った勝ったと騒いでいる文明、文化は、その騒音の中から離れて、一人の静かな自分に戻らない限り、新しい頭と心を取り戻すことは出来ないだろう! 
 初めに、人間はじめ、けものや花が生まれ、そこから『声』が響いて来た! 声はけものから、人から、花や木から大きく響き出し、形となった。静かな木が響き出してきたのを初めて知った人間の一人が、あの老子だった。そこから声は形をつくり出して文字となった。亀甲文字などが、その中の一つだ。そこからフェニキア文字、漢字などが現れた。文字の源は、そうしてみると、もともと、漢字やその前の亀甲文字ではない。杉の木の匂いであったり、花の色とりどりの匂いであったようだ! 一人函谷関の彼方に旅立った老子は、やがて植物と会話が出来るようになった。ゾロアスターは火の中の炎と会話ができただろうし、天照大神は光の光りと話せたかも知れない。セックスなどについてもはやくに、こういう人達は大自然の中の何かと、会話が可能だったかも知れない。そのことについて、もっと詳しく、老子、荘子、ゾロアスター、天照大神などについても考えてみたい! 
 光の光りが声になるまでの長い時間が知りたい! 声が言葉になるまでの、更に長い長い時間の中で遊んでみたい! 語の源も、更には文字のそれも、それが少しでも分かれば、コダマの形や勢いも分かってくるでしょう! 野菜はたんに農家の限定品だけと云い切ってしまうのではいけないだろう! 世界中の、全人間の言葉に関する生命の研究の大切な研究材料であり、人間の生命の研究材料なのだ。漠然とした人間だけではなく、あらゆる生物の輪郭がはっきりし出したのは荘子、老子の生き方をとおしてからだろうか? 最近、写真俳句なるものを始める人が多くいるそうです! それなら、植物学的福祉とか、電気学的詩集、言葉の昆虫学などあっても良いのではないか?
 
 これも清書したら、皆さんに配ってください。   霄里  

放蕩息子の更なる告白  (百三十三話) 佐藤文郎

2019-07-20 10:13:35 | 日記
  闇と光
 光と闇でもよいのですが、光と闇は、いたる所で、勢力争いを演じていると思います。それも昔から、歴史的にもずっと以前から、地球規模で演じられて来たのです。そしてこれからも、決して無くならないでしょう。そのように一貫して自分の意見として云ってきた。自分の心の中も同じで、組んず解れつやりあっているのです。最近判った事は、その勢力がどちらかに偏らずにいるときはよいが、一方的に片寄ると、どうも調子が悪くなることがわかった。
 誰だって、光の当たる方がいいと思うに決まっている。しかし、文学を六十年もやってきて解った事は、文学は、闇を研究し、体験し、その奥にある光を発見する事だったのです、部屋一杯に光で溢れているだけだったら、不安でいたたまれなくなるだろう。
 それはともかくとして、その両陣営の争いは、個人の心の中はもちろん、家族の間でも、学校でも、町内や,会社でも国でも世界規模でも、表面はともかく、内部では闇と光が争っているのです。しかし、個人の心の中から判断する限りだが、どちら側か一方になるということはないのではないか、このアンバランスこそが、究極の結論ではないか。そう思ってみたくなる。でもそれはないだろう。どんなに、アンバランスで居心地がわるかろうと、心地よさを求めて勉強し、汗をかき、努力することが大切なのだろう。
 彼等は、バランスを突き崩し、落ちて行こうとするのはなぜだろう。とりあえず幸せでいようという気持ち、それがもっとも不安定な場所なのだが、みんなが、喜んでくれるから、不安な姿をみなくてすむから。
 だが、運命としか呼べない出来事に遭遇することがあるのです。私もそのクチでした。幼年期に、少年期に、思春期に、いずれも天地がひっくり返る様な目に合ったのです。そして人生の後半に、ぎゃふんとさせられる様なことを招いてしまった。普通はそこで息を引き取り、誰もが、こんどこそ、こいつは、これで終わりだったかと思われる。しかし私は、蘇生し、不思議にバランスが甦った気持ちがしているのです。そんな中、上野霄里先生のメッセージが、あの、「令和を前にした書簡(2)」が名久井先生によてもたらされました。この次に、掲載させて頂くことに、予定しています。

放蕩息子の更なる告白  (百三十二話)   佐藤文郎 

2019-07-14 13:24:31 | 日記
 「反社会勢力」ニュースで、思ったこと                                                                                                 

 「反社会性」という文章を書いたことがある。今問題になっているのは、「反社会勢力」という塊のことである。単体では勢力にはならないから、そういう称び方はされないだろう。不思議と若い頃から、自宅の近くにそういう人達がいたので、知っているが、ごく普通の姿をしており、頭もよく、人格者ではないかと思ったときも有ったが、ある時思っても見ない変わり様を見て驚いたことがある。しかしそういう時には必ず後ろ盾がいるのである。ひとりでは何もできない。頭が良いだけに自分が不利益をこうむる状況には聡いのである。
 「アウトロー」と「アウトサイダー」は違う。簡単に云うとアウトローは「法」を無視した行動をとる。アウトサイダーの方は、常識に反抗する。若い頃からなじんだ芸術や文学は、アウトサイダーものが多かった。映画だけは、だんぜん無法者や、ならず者が出て来るアウトローものが好きだった。やはり芸術や文学は個人である。私の好きな詩人や、作家、画家は反常識人ばかりである。
 常識というものはとても大事だということが判ってはきたが、反面、行き過ぎると黴が生えたり,錆び付いたり、人間が生きる上で大切にしなければならないものを、ダメにしてしまう。大切なものを気づかせてくれる心を失うようになってしまう。だから、わたしが怖れるのは、「アウトロー問題」で、大騒ぎしている時に、アウトサイダーの人達の大切な使命まで、一緒に扱われ、陰に隠れた良い人達ぶった本当に悪い連中の事が問われずに、うやむやにされてしまうことなのである。常識の陰で悪いことが行われていても、「私は、常識人ですよ、法は侵してませんよ」と地位や権力を利用して隠されてしまうことである。そういう人達も、以前なら少しは悪びれた様子をしたものだが、最近は、ふてきな笑みを浮かべ堂々としたものだ。黴がはえ、錆び付いているからでなければよいが。
 太極拳のほかに、書道教室にも通いだした。坂道を急いでいるつもりはない。「顔真卿」(唐時代の政治家)の書を見に、本州の端からやって来た友が云うには王羲之より素晴らしいという。そういわれても、その基本さえ小学程度である私には判別の能力は無い。ひょんな切掛けから始める事になった。どこかに、友の話しがあったからだろう。いまのところ、ただ夢中である。教室のみんなは、「枕草子」をやっているようだが、こちらは、基本のキからである。