独りぐらしだが、誰もが最後は、ひとり

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   放蕩息子の更なる告白  (百四十話)佐藤文郎

2019-10-04 16:07:28 | 日記
  心の芯のエゴの問題
 もう大丈夫だから,先生と離れても生きて行けますよ。そういう気持ちで田舎を出発したと致しましょう。もう何十年も前だから確かな事は忘れていますが、町の中央を流れている磐井川の堤防を着流し姿の先生と歩きながら、その事をつまり家を、町を出て行く事を伝えると、奥さん達はどうするの? と鋭い口調で問い返されたのです。はい、置いて行きます。
 どうしようもない男でしたね。普通それで、先生との間も、意味のある人生も終わっている筈です。「放蕩息子」というのは、聖書のルカ伝にある、イエスは喩えを交えて弟子達に聴かせた逸話でした。“放蕩息子の告白”はそんなだいそれたことで、自分をたとえ話の例えに重ねたタイトルではなかったが、私だけは兄弟達に較べ道からそれたり転げたりがはげしかった。しかしその解釈が違っていた。“酒色に溺れたりする道楽息子”のつもりだったが、そんなおめでたくてなま温いものではなかった。心の芯のエゴの問題だったのだ。それはどういうことか。残り少ない日々の中で探っていくしかないが、しわの多い手でタマシイの宝庫のページを一枚一枚繰るのもこれ又愉しいではないか。さあいつでも,何処からでも来い!
 
 人間は宇宙の真心によって 上野霄里  
    二章  神  「心の陶酔する道こそ本当の修行である」
                     23・4・14  うえの
  『神』
 神は不在だ
 神を感じる人間のみがいる
 神が在るのではない
 生きた人間が在る
 その時、人間は問題の「人」になれる

  『原生の知覚』
 日常性の中で深く埋没している
 もはや氷河の底から
 這い上がることが出来ない
 文明の知覚は
 埋没し捉らわれている習慣だ
 天然のリズムは熱い
 その熱い息吹で
 文明氷河は解けていく─────
 非日常と呼ばなくてはならない
 もっとも自然で明晰な原生の知覚こそ
 天然のリズムそのもの

  『把握』
 近世の西欧に芽生えて
 文化精神は
 人間性の自己を
 やすやすと肯定し是認した
 原生人間の心情に育てられた
 創造精神は
 宇宙同位生命性の自我を
 把握し実感した

  『回復すると』────
 眼は力を回復すると
 対象をがっしりと掴み取る

 口は力を盛り返してくると
 黄金の弾丸を発射する

 耳は生気を復活すると
 四次元,五次元の光景を目撃する

  『応えてはこない』
 芸術や思想がその力強さをもってしても
 人間の核心部をゆさぶる
 契機が与えられていない現代
 人間の核心に宿る生命エネルギーは
 ねむりこけていて
 聖なる呼びかけに
 何ら応えてはこないのは
 そのためだ

  『讃歌』
 原始(むかし)人間は全宇宙に抱かれた
 みどり児であった
 すべてが喜ばしく 解放されていた
 すべてが在りの儘でよかった
 あゝ、歪み 傷つき 悩む
 牢獄の中の文明人間は
 この喜びを知らない

  『淋しい祭り』
 日本的心情と心性
 それは粘着さと湿潤さを基調とした
 身内意識────

 そこに恥の感覚と義理の意識の
 モンスーンが通過する

 あとに残るのは
 幾多の 祭りだ
 日本の 淋しくも 個人の失せた祭りだ
 やはり 日本の祭りは 淋しい

  『社会参加』
 宗教も芸術も
 社会参加を口にするようになったら
 おしまいだ
 そこには狂態の聖譚がない
 そこにあるのは翼を失った鷲
 羽根を失った蝶の哀れな死骸────
 社会参加の 一面小ざかしい
 宗教や芸術のエネルギーは
 一様に 俗物の舞踏に
 収斂されていく

  『真面目さをすてる』
 人間は真実に自己に正直に
 自己に忠実になる時
 低俗な 幻想社会の中では
 真面目さを捨てる

 真面目さとは
 自己を 偽わり
 自己を 裏切る
 反人道主義の最たるもの

  『やめよ、ふざけた真似を!』
 君達よ!
 もうその ふざけを やめたまえ
 一人の人間が死を賭けて得た宗教に
 気軽に近づき 軽々しく語る
 そのふざけた真似を────

 一人の人間が生涯かけて血みどろになって得た
 一つの作品に本気になって共鳴することなく
 ふざけ半分で 小ざかしいことを云う
 そのふざけた真似を────

 ふざけた真似を やめよ!

  『欠落』
 人々は言う─────
 「芸術は表現を技倆に転化させるプロセス
 宗教は信念を感化力に転化するダイナミズム」
 だと。
 だが、それはともかく
 お前自身の問題はどこに行ってしまったのか?

  『ディフィニッションⅠ』
 洗練とは退化を意味している
 ソツのなさとは冷酷さに他ならない
 理性とは 愛の欠如の証左
 スローガンとは信念の不足を示している
 イデオロギーとは自己の責任回避の姿勢

  『デフィニッションⅡ』
 知識は 発見する目をつぶす
 技巧は 個性を失くす
 修練は 創造力を弱める
 準備は 真意をはぐらかす
 計画は 直感を鈍くする

 知識にまさるものは 内奥の声
 技巧にまさるものは 熱い心
 修練にまさるものは したたかなヴィジョン
 準備にまさるものは 安息した不動心
 計画にまさるものは 生命賭けの意欲

  『万有波動』
 万物は波動である
 肉も 機械も
 山も 川も
 風も 精神も
 等しく宇宙のリズムに呼応する
 健康な 波動でしかない

  『非妥協』
 サミュエル・バトラーは
 いみじくも 云った
 「私は嘘をつくことは気にならないが
 不正確なことは許せない」と
 正確さ────
 それは即ち 純粋であること
 一切のあいまいさの拒否
 理想と現実の恐ろしいまでの一致
 天才は常にバトラーの心で生きる
 天才とは 妥協しない人間のことだ
 天才は それ故に長く生きられない
 天才に友はすくない
 天才には仲々会えない

  『独学──眞学』
 その核心において
 独学でない学問はすべて
 ペダンティックなものの脆さがあり
 スノビッシュな軽薄さが拭いきれない
 独学でない学問は
 どこかで 学を忘れ
 門をくぐっただけ

 多くの学問をくぐらずして
 独学には行きつかないことも事実だ

  『ダンサーになる』
 科学は一つの迷信だ
 限りない迷宮の中にさまよい
 果てるともない仮説、実験、証明の
 繰り返しの中で
 タンタロスになる
 永遠を一瞬の中で体現するためには
 自己を解放し
 自己を取り巻く一切のものから
 解放することによって
 宇宙のリズムに合わせて踊る
 ダンサーにならなければならない

  『心裏=純粋感情』
 理性は敗北せる感情
 生の感情は無分別の心
 原生心
 野生の視野
 始源の視座
 これを昔の人は「心裏」といった

  『誘惑者』
 宗教も 芸術も 誘惑者である
 それ迄 充足していた生活に
 突然失望して 暴れ出す者をつくる
 日常的習慣や常識を打ち破る
 行動に 誘っていく
 本当の宗教は
 それ故に俗衆の憎悪の対象となった
 真実の芸術は
 それ故に秩序社会の非難の対象となった

  『無指向性』
 客観は常に他者目的的である
 指向性を孕んでいる
 主観は 自己目的的である
 自己目的的は無指向の要素を抱えている
 無指向 の はらわたは
 遊びの心
 冷え枯れている魂
 深く宇宙の真心(リズム)と交わる肉体のこと
 である

  『心のシルク・ロード』
 私の心の中の シルク・ロード
 多くのものが
 長い間 砂の中に埋もれている
 私の時間も 言葉も 失われ
 私の道は 砂嵐の中で 迷宮となる
 あゝ
 私の心の中の 黒水域(カラホト)よ
 大馬札(ダイマサツ)よ
 私は それらに生気を与えるのだ

  『老子は』
 中世は 反文化的精神に支えられた
 宗教を 呼吸していた
 近世は 反宗教的精神に支えられた
 文化を 呼吸していた

 老子は
 反文化と反宗教の精神に支えられた
 原生性を呼吸していた

  『窮極』
 宗教の窮極は
 ひたすら
 一切の人為的なくびきからの解脱
 唯々 ひたすら
 遊びの境地での安心立命

  『二足のわらじ』
 日本人の心情は
 超絶的な宗教性を知らない
 反世俗的な芸術を楽しむ術を知らない
 社会の外の哲学の誇りを知らない

 俗の中で
 それらを生きようとする
 二足のわらじ的習慣が
 決して 解消しない
 
 キリストは 苦い泉から甘い水が出ないと言い
 日本的心情は 清濁併せ呑むとうそぶく
 妥協によって成立つ 日本の心は
 呪われた精神だ

  『総合理解』
 合理性に支えられるものは
 抽象でしかない
 客観性によって捉えられるものは
 全体の部分にすぎない
 科学によるものは
 全現象の一過性に限られている

 直観が 全域を看通す 
 直観が 全課程を把握する
 自我のみが
 全円的人間の総合理解に到達する


  『凍ごえる領域』
 自我の未だ充全的に発達していない
 日本的精神風土は
 西欧的な歴史観に立脚した
 視座から捉えるならば
 前近代的過程をさまよっている

 もし 日本的心情に今後
 決して 自我のめざめがないとすれば
 この風土は 永久に
 近代未到来のままの
 凍ごえる領域なのだ

  『断罪』
 文明の調和と平和という美名に
 本性をかくしている
 文化の粗暴さは
 今
 原生の素朴な精神の光に晒されて
 断罪される

  『禁じるな』
 何ものも 禁じてはいけない
 禁欲の行為も 愚行だ
 どんなに 頑張っても
 人間は 百パーセント解放されることは
 ない

  『不安』
 ありのままの状態が
 それほど不安でたまらないのか?
 それが何であれ
 ありのままの状態である時
 文明人間は
 文明症候群の患者であるなによりの
 証拠に
 一様に怖れ 不安がる

  『惰眠する』
 本来
 宗教も 哲学も 芸術も
 文明の趨勢に対して
 対立する 絶対否定の
 厳しい 反定立であった

 今
 これらの誇りある巨大なムーヴメントは
 その鋭い牙を失い
 厳しい言葉を失い
 腐敗した日常性の中に惰眠する

※ 私が上野霄里先生を紹介するとすべてが誇大に聞こえ信用する気持ちにならぬらしい。もっとふさわしい、社会的にも名と地位そしてなにより、学殖の裏づけのしっかりしている人でないといけないらしい。私もそう思うのだが、むかしから、肝心の上野師は、平気の平左なのである。語彙不足の私にとっては、紹介しやすいのである。どんな形容でも大袈裟すぎる事がないからである。話しを盛っている様に聞こえるかも知れないが、これでも控え目に書いているのだ。その存在感は、既に二十代で、大海にちょこんと頭のさきを出している氷河に例えるのがよいと思っていた。その海底の部分を多少とも知っているので、私はそのように云えるのである。そのかくれている面を隠す様な人ではないが、奥様以外は私も含めその全容を知らない、それが真相だ。普通は周知を希い、知らせたい、取り上げてもらいと思うだろうがその意思が皆無なのだ。というのは、若くして既に栄光を手に入れた御仁であり、それはフロックではなく、権力をかりてのカラクリもない、誰に知られる事もないが、宇宙の尊者であることは歴たるものだし、総てが自身の確たる自覚があってのことだ。

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