独りぐらしだが、誰もが最後は、ひとり

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  放蕩息子の更なる告白 (百三十七話)  佐藤文郎

2019-08-23 13:39:59 | 日記
 ⦅21世紀のポエジー⦆
  ———ひとりの老いし、日本国民として———

 韓国文在寅(ムンジェイン)大統領にとって、北朝鮮という国土は、恋人なのです。ずうっと心にしまっておいた“初恋の人”なのです。それに対して日本は、彼にとっては広く承認されている女友達なのです。友情としても経済やその他の面でも、このJ嬢とは深い関係をつづけてきたのだし、このまま行けばよいのですが、なにせ長年の奇蹟の様な夢、誰にも言わずこころの奥底の初恋のひとと一緒になれるというウソのような事が実現するかも知れない。そういう時に、へんな噂や、よけいな誤解をまねくようことは、さけなければならないのです。女友達には、これまた女ボスのA嬢がいます。怒らせたら、すべてをご破算にしかねないこのA嬢に対して、J嬢共々服従を誓い合ってきた仲なのだが、ある日、このA嬢がどうやら“心の恋人”に気が付き、理解さえ示している様だということが分かったのだ。ボスが理解をしてくれたのなら、あとは、深情けのJ嬢を、正面からはとうてい説得できそうもないから、J嬢の方から離れて行くようにする。軽蔑して見限ってくれるような、心理的にも混乱するような材料を効果的に打ち込んでいくしかなかった。
 韓国文在寅(ムンジェイン)大統領としても、長年の友情で結ばれた女友達を、こんな悲しい目に遇わせるのは忍びなかったが、背に腹は代えられなかったのだ。それほどに、幼い頃からの一途な真実の想いなのである。何ものにも、何事にも代えられぬことなのである。毎夜、毎夜枕を涙で濡らし、思いをめぐらし、人が知ったら不審に思うだろう、人が見たら軽蔑するだろう、しかし気持ちはそれとは反対に、恋人の面影はますます膨らみ、心の鐘は鳴りやまないようになっていった。
 心を鬼にして、チョウヨウコウとか、キョクジツキのこととか、ショウカイキレーダーショウシャの問題とか、最後にこれでもかと、ジーソミアをどかんとぶっ放した。貴女が悪いからと言い張り、しつこすぎるからとうそぶいて、怒る様に仕向けたのだった。それもこれも、幼い頃に出逢った恋人のためだった。はじめは小さな灯火だったが、今では火山ほどに、爆発寸前になっているのだった。
 J嬢には、何度もこころのなかで謝っている。A嬢には、むしろ聞こえる様に感謝の言葉を叫んで来た。初恋の人と結婚ができる、もう夢ではないと!
 韓国文在寅(ムンジェイン)大統領が、初めは、たったひとりで育んでいた、命がけの恋でしたから、たった一人で育んで来て、最初の頃は見果てぬ夢でしたが、思っても見なかった好事がつぎつぎに起きて、条件的にも、自分の想いが通じたのか! あとのこるは、隣国のJ嬢だけであった。“悪女の深情”と、そんなイメージを固着観念にして、目をつぶって思い出深いJ嬢と縁を切る事にしたのだった。後は野となれ山となれ———この一途な恋の路!

放蕩息子の更なる告白 (百三十六話)     佐藤文郎

2019-08-21 13:52:50 | 日記
   因果関係 

 水難事故が多い。私も川や海ではなかったが溺れ死ぬ寸前だった 
 “ボウフラ”の浮いているドラム缶、(戦時中,消火用に水の入ったドラム缶が、そこは仙台市で、レンガ造りの高裁が目の前に見える、道端に埋めてあった)。四歳の私は伸び上がる様にして、ボウフラがウヨウヨ泳ぎ廻っているのを近所の子供達と見ていた。そして私は、もっと良く見ようとジャンプして水面に顔を近づけようとするとバランスを失い落ちてしまい、夢中でもがき苦しんだのを憶えている。あと数秒で溺れ死んでいたろう。水も一杯吞み込んだ。
 それと、腸チフスに罹り九死に一生を得たこと、この二つの事象の因果関係を知っているのは、私一人だけであるということ。しかも、気が付いたのは半世紀もたった頃、偶然気がついたのである。
 にょっきりとドラム缶から出ている子供の足を、通りかかった牛乳屋の小母さんが見つけて引き上げた。そして、ずぶ濡れになって泣いている私を家に連れて行き、ドラム缶に落ちた事、もがいている二本の足を持ち上げた事を、ばあさんと母に説明した。すると、何事にも動じないばあさんは、母に「はい、すぐ砂糖湯をつくって飲ませなさい」と言った。この断片的な記憶は鮮明である。とくにばあさんが、砂糖湯を、と言っている姿は脳裏に焼き付いている。ドラム缶の汚水の中に、ボウフラが浮いていた事など牛乳屋の小母さんも、ばあさんも,母も、知らない。それどころか、私自身忘れていたのである。母の話だと黒い幌付きの車に、母と私が載って病院にゆき隔離されたと。一つ上の姉の話では、病院には入れず、ばあさんと二人で外から手を振ったと言った。おそらく姉も検査を受け、家も消毒された筈である。なにせ、私の中で鮮明になったのは、ばあさんは勿論,母も他界してからである。それにしても近所の目もあったろうに、腸チフス患者が出たこと。その原因も判明しないまま、どういう結論に至ったのだろう。現代では考えられない。戦後の食糧難の頃でもあるまいし、戦地から父が帰還して、この腸チフスのことが、話題にのぼった事も一度もないなんて。入院してからの事はよく憶えている。四十度の熱が十日間続いたそうである。熱にウナされ、看護婦さんや白衣の先生が、心配そうに何度も覗きに来たのを憶えている。「何号室の人が亡くなった」と噂しているのを聞いたこともある。深夜に、母が廊下のむこうで氷を砕いているのも耳をすまして聴いていた。快方にむかい、二日後に退院という日が来た。
 親切な看護婦さんが居た。私を抱っこして看護婦室に連れて行った、お菓子を、一個ではなかったが、三分の一ほど食べさせてくれた。その後のことも良く憶えているが、その午後だったろうか、トイレに連れて行かれて出たうんこが真っ黒だった。イカの墨のようだった。大騒ぎになった。その後の事は母に聴いたのだったと思う。婦長さんの指示で医師には言わない事にして、うんこの黒いなかにマッチ棒の先ぐらいの黄色い部分が有り、そこを最終検査に出した。そうして、退院許可が下りたそうである。
 看護婦さんは、どれほど嬉しかったろう。抱っこして何度も頬を押しあてた。
 ボウフラの浮くドラム缶に落ちた事故と、腸チフスで隔離入院したことが私の中で、その因果関係に疑いが芽吹き、確信に変わったのは六十歳の後半になった頃である。姉はまだ健在だが、あとは誰もいなくなっていた。
 別の話だが、つい最近、「伊達家の黒箱」が仙台の伊達家資料館に展示されていることを知らせてくれた人がいた。直接私に関係はないのだが、私は、何となくそういう事を予想したように、以前「放蕩息子の更なる告白」(六十五話)として、母方の刈谷半右衛門伯父の「我が家の記録」の一部をとりあげさせてもらった。東京帝国大学に調査研究の依頼を受けて貸し出している最中、大震災の難に遭ったという。大槻文彦博士の鑑定を乞うたわけではないのに、聞きつけて博士の方からの訪問だった。博士には、伊達騒動の事を書いた著書があり、黒箱の資料には新たな事実があったからだ。
 また、〘大正天皇、東北ご巡幸のみぎり、盛岡にて天覧を、仰ぎ後大正七年文献の資料にと、東京帝国大学〙へとなり、大正天皇への天覧は、建前であり、刈谷家からまず宝物をひっぱり出す事であり、後は何とでもなると暗躍組は分かっていた。五年間も返さなかったのだから、震災があっても無くても、返すつもりはなかったと思う。地位も名誉もある人品骨柄申し分無い人達が、中間に何人もの古物商や骨董屋をかいして、最後に現在の伊達家当主に連絡したはずである。東京帝国大学になど最初から行っていないのではないか。公序良俗を掲げ、表を柔和で装いながら悪を行い、自分にも、ひとにも、そのことを気づかせないですまして終えるのである。【伊達家の黒箱】は旧伊達藩、現在、岩手県内に在住する刈谷家のものである。大正天皇に天覧を仰いだあと、その同じ人達が再訪問すると、うやうやしく、当家の名誉とやらをちらつかせながら、東京帝国大学への調査研究を依頼した。

放蕩息子の更なる告白  (百三十五話)  佐藤文郎

2019-08-08 17:18:36 | 日記
  この胸苦しさを、科学は

 盛夏にふさわしい話をと思いますが、さてどうでしょうか。涼風が何処からともなく吹いて来て、背筋がゾクっとしていただく、そうなればと思います。“思います”という日本語を嫌いな方がおられます。元NHKアナウンサーの方で世界情勢や国際問題をお話させたら、先ずこの先生が一番でしょう。この先生がご自分で仰っているのを私はTVで観たのでした。どうして嫌いかを最近になって分かって来たのですが、それは、お話の性格上客観性を重視するからでしょう。“私は思う”は主観ですからね。番組が成立しなくなりますからね。ごもっともです。
 反対に、黒板に大書した“思う”という日本語がいかに素晴らしいかを、玉川大学の夏期スクーリングでの「宗教哲学」の講座で、当時の小原国芳学長が一時間に亘ってのお話を聴講したことがあります。なんとも、天衣無縫といった感じのする貴重な授業でした。
 同じ頃、昭和四十一年の事です。岩手県にある僻地三級の分校で助教諭をしていた時のことです。又話が横道にそれますが、教師を辞めて職を転々とかえたわけですが、ある所で私は履歴書に、“代用教員”と書いて面接官に注意を受けました。信憑性さえ疑われる所でした。代用教員の方が私にとっては実感のもてる呼称だったのです。その分校での出来事です。私は深夜に、エも言われぬ胸苦しさに目覚めました。気が付くと、開け放たれた窓辺に妻が居て、「お祖父さんの夢をみた…」と言って、ぼんやりと、真っ暗な外を見ているのでした。そうしているところに、電話が鳴ったのです。電話は教員住宅には無く、職員室にあるのでした。
 妻は、息急き切ってもどってきて、祖父の急死を告げたのです。私達の結婚に最後まで反対していた祖父の死も然る事ながら、今さっき目の前に起きた不可思議さを思い、しばらく呆然と立ち尽くしていました。
 先祖の墓参りは、この二十年で一度だけ行きました。その時やはり不可思議な事がありました。墓地に近づくと鼻水が出始め、それが止まらなくなったのです。手持ちのテッシュを使い果たし、兄弟達からももらい、それでも足りず付近に自生しているふきの葉や、笹の葉でぬぐったりしました。それが墓地から離れるまでつづいたのです。離れると、ぴたりと出なくなりました。他の兄弟姉妹達は何事も起こらないということは、今日の私が置かれている情況を物語っていると考えていいでしょう。
 ところで、冗談ではありませんよ。今,これを書いている時、急に鼻水が出て来たでは有りませんか! 風邪も引いていないし、お盆が近いので、お迎えにきたのでしょうか。今、三度目擤みおえました。
 トマス・ウルフという米の作家に「汝再び故郷に帰れず」そして、「天使よ、故郷を見よ」という作品があったことを思い出した。このタイトルが好きなだけであるが。こんなことを思い出させたのも鼻水と関係があるのだろうか。
 まともに幽霊というものに出遭った事がある。実際にあった話である。一度話をした事のある実話である。
 呉服の商売で、浜松の出張所に、販売の応援に行ったときの事である。その日は、かなり売上げの成果があったので、所長も「面白い場所がありますよ、行きませんか」と上機嫌だった。私は疲れたからと断ると、「では、いいフィルムがあるので、今夜出直して来ます」というのだ。私は「風呂に入って、早く横になりたいから」と言ってそれもことわると残念そうに帰って行った。
 私が風呂から出て二階に行き豆電球にして、枕に頭を着けた直後に、階下の店舗のシャッターがギィー、と開き始めた。「なんだよォ、」と不満を口にした。階段をトントントンと昇る足音と同時に、シャッターは開けっ放しなのか、風がピューと吹き上げて来ていた。「なんだよォ、あれ程言っておいたのに……」と、半身を起こして大声で言おうとしたが声にならないのだ。起こしたつもりの体も、金縛りにあったように動かなかった。目だけ大きく見開き昇って来ている者を見ていた。ふわりっと現れたものは、茶色の男物の羽織を着ていた。羽織の紐の垂れた胸元しか見えなかった。顔も、下半身も見えなかったが、気配だけは感じられた。その気配が、すうーっと部屋に入り込んだのは判った。その時の恐ろしさといったらなかった。私は、亀の子の様に首をちぢめて、布団の中でじっとしていた。そのまま朝を迎えていた。所長も出勤して来た。「佐藤さんが、すぐ御休みになるとおっしゃるから、わたしも一杯引っ掛けて寝ちゃいましたよ」と言った。
 私は部屋の隅々まで何か痕跡はないかと調べた。近所の商店が開くのを待って、どういう人があの二階に住んでいたのかを聞いてまわった。ヤクザ者がかなり前に居たことがあったという。しかしそれがどう拘わりがあるのかは全く解らなかった