独りぐらしだが、誰もが最後は、ひとり

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 日記と自叙伝、そしてAI          公園ぢいさん

2019-01-04 22:05:08 | 日記
  日記がいちばん真実を表わす文章(表記)と思われているとしたら、どうだろう。なかには例外もあるかもしれない、がそれは違う。例外というのは、天候、またはそれに類した季節の事柄、桜の開花とか梅雨入りとかである。
 筆者は、自叙伝こそがそうだと思っているのだ。日記には書けない真実を書けるのは自分で書く伝記であると思っているのだ。今では死語(異論もあろうが)になってしまった私小説などは、ひと頃そう思われていたのである。
 日記は真実を知らせないために書く事も出来るからである。知能派は、悪さを隠蔽するとき日記を選ぶからである。小説では表わせない。自叙伝ではなおさら、そういうものには、不向きなように出来ている。対話がないこと、煩悶がないことである。頭脳の明晰なひとほど日記は秘密の隠し場所として悪用できるからである。
 日記には大前提として、己の心の奥をせきららに記述する表記法とされている。ただひたすら、己の心中をその清い水は通ってきていることが保証され、第三者は介入出来ないカギの掛けられた個室なのである。そこには悪魔が棲んでいるかもしれない。白を黒ともできるかもしれない。そう、真実を塗りつぶし自分に都合のよいように書き換えることが可能なのである。
 作家達は、作家というものは、そのことに疑いの目をもった異常な程猜疑心の塊のような人種なのである。フィクション作家もノンフィクションの人も本来はそうなのである。
 フィクション作家ほど本当は真実に対してアレルギーをもった人種かもしれない。ある女性が兄との間で幼児体験があったとする。いくらでもあることである。ただ此処が違った。両親は妹の訴えを信じなかったのである。でたらめを言うといって妹をきつく叱ったのである。彼女の言い分を両親は受けつけて呉れなかった。嘘をつく兄を信じ、神に誓えるほどの真実を彼女は述べたのに信じてくれなかった。(両親なりの考えはあったろうが、ここはあくまで妹の立場でかいている)こうして、“本当のこと”にアレルギーを持つ人間に育って行く。“本当の事”以外のことを真顔で言える子に成長し大人になる。フィクション作家の中にはそういう人がおってもおかしくはない。
 「お兄ちゃんが好きだった。本当は私の方からお兄ちゃんを誘った」「これからはもうしません。許して下さい」と両親の前で泣く振りをして謝ったらどうだろう。「本当はお兄ちゃんだけではない、お父さんも好きで、毎晩夢に見る、夢の中のお父さんはとても素敵なの」と言いチラッと母親の顔を見ると、母はあきらかに困った様子、嫉妬の妖しい光が目にでている。こうなると、もう本当の事も作り話も彼女にとっては境界線がなくなる。両親も事実を言い張った時にくらべ反応が面白い。事実を言えば不信顔になり、口からでまかせを言うと顔を輝かせて身を乗り出して来る。作家としてどちらを取るかは歴然としている。
 しからばノンフィクション作家はと云えば、日記は信用出来ないが、だからといって真実を語って全否定された経験もない人種である。自叙伝なら日記のウソっぽさを、せん滅できるのではないかとおもっている人種だ。つまりディベート(討論)に対するアレルギーの持ち主なのである。自己問答しかしない、出来ない。日記は自己対話がゼロの世界である。ディベートは自己対話のまったく要をなさない世界である。ある種狂気の世界である。
 自叙伝は狂気をきらう世界である。真実のためなら、平気で己を滅却することのできる世界である。日記に書けない事も易々と表すことが出来るのである。
 半世紀前だが、まさにそういう本が誕生した。ウソというウソを靴底にねじ伏せた真実のみが書かれた自叙伝だった。ある有名な歌舞伎役者の言葉に「観客が伊勢屋! とか成田屋! とか声をかけたり、拍手喝采しているうちはまだまだである。本当に感動したときは、観客全員が黙ってしまう。」それと同じ事が起きたのである。驚きのあまり黙ったままである。芸術の歴史を見ても、五十年などはざらで、三百年、五百年が普通である。出版界は妬みのつよい世界だがそれとは関係がないようである。関係者が全員居なくならないうちは姿を顕わさない模様である。筆者が生きている間にそういう事があったということである。それだけである。
 歴史といえば、次々に覆されて、歴史家は満足そうだが、本来はそんなことが出来る筈はないのである。覆い隠したかった人がいて、そこが周囲に比べ不自然なため、その部分をはがしてみたら真実が現れたというだけである。
 日記も、始めから信じたりしないで不自然な所に目をとめることのできる天才(たとえばAIのようなもの)が現れればどうということも無いかもしれない。
 ところが、もっとも正直な、信頼のおける証言をしてくれると思われていたことが覆った時、こんな恐ろしいことはないということになる。AI自身の自叙伝を著して貰わなければならなくなる。
 なんと、今日も、公園は長閑であった。

偉才       公園ぢいさん

2019-01-02 20:58:30 | 日記
 公園を歩きながら、頭をはなれないのは、狩野亨吉(かのうこうきち)と夏目金之助(漱石)だ。二人は互いに惹かれ合っていたと結論づけたいじぶんがいるのである。『狩野亨吉の生涯』(青江舜二郎著)という文庫を読んでいて、二人は、互いに尊敬しあう間柄に間違いないが、青江は、どうしても郷里秋田の先輩である狩野亨吉にくらべ、漱石の方を下に見たいと云う所が気になる。そのことはひとまず置くとして、府立一中で、二年下の金之助を一目見てその面差しを心に焼きつけてしまう。その時は知らなかったと後年言っているが、開校以来の秀才と評判の高い十四歳の金之助少年に注目しなかった筈はないと思うからだ。亨吉自身も又秋田での小学時代に、匿名教師から手紙をもらうほど他に類をみない俊才だったのである。「———自分は今まで多くの子弟を教育して来たが、きみのようなのは見たことがない。書、数、習の三科目のすべてにすぐれていてしかも平生沈黙、人と争わず、その器量はまことに大きい。きみは今度中学に及第し、自分は別れなければならないが、識量抜群のきみはいつか必ず天下の大器になると思うから、別れに臨んで訓戒する。常に勉励の二字を守っておこたってはいけない。大いに自愛せよ」。『匿名教師の手紙』
 青江は書いている「原文は硬くぎくしゃくとしていて名はない。だがこれを書いて亨吉に送った教師が、どれほど亨吉の人柄に惹かれたかがわかる。一種の〝愛の告白〟と云っていいだろう」。
 「日本で最初に中学校令の発布によって出来た東京府第一中学に、明治十二年に自分は入学したのであるが、その折、夏目君も又同じ学校に入っていた。しかし、その頃は無論お互いに知らずに過ごして何の記憶もない。この学校には、正則科と、変則科というのがあって、自分は変則科で夏目君や幸田露伴氏などは正則科であった。変則科という方は一切を英語でやることになって居り、正則科はそうではない(漱石と自分)。狩野亨吉は東京大学に進みトップの成績ながら、数学だけは振るわなかった。すると、もう一度同大学の数学科に入り、卒業すると、今度は同大学哲学科二年に編入され卒業して大学院に入る。明治二十四年、二十七歳であった。
 二年先輩の狩野は、とにかく夏目金之助から視線を逸らす事無く、四高や五高、そして一高、漱石も松山中学、五高、一高、やがて京大教授にも一旦は亨吉に就任の内諾を伝えながら朝日新聞社入社のためことわった。何処にいても狩野亨吉は夏目金之助から目を逸らす事はしなかったみたいである。
 夏目金之助がロンドン留学からもどる頃、狩野亨吉は一高の校長になっていた。そこで、英語教師として生徒に評判のよい、後にあの『怪談』を書いた小泉八雲(ラフカディオハーン)を辞めさせてまでも夏目金之助をその後釜に召致するのである。研究者ではないので、これ以上踏み入ることはしないが、二人の間の書簡もかなり多いが、晩年、窮死した狩野の資料の、散逸したというより、遺ってはいるが、意図的に整理がなされたらしい。「明治44年頃から、大正4年頃までの日記その他が、ごっそり遺品の中には見当たらない」(青江舜ニ郎)。都合の悪い事でも書いてあったのかどうか、それは、誰にとって都合が悪かったのか等、公園ぢいさんとして、今は関心外のことである。
 狩野亨吉は、一高校長から、明治三十九年京都帝国大学初代文科大学長に任じられる。そして、二年後の明治四十一年には退官してしまうのである。その時も、前述したように、京大の教授に推薦して決まりかけたが、漱石がことわっている。
 狩野は、四十四歳にして一切の職から退き、小石川区雑司ヶ谷に後に小石川区音羽町に引き篭り、江戸時代の思想家安藤昌益(1703〜1762?)の事跡調査、研究、紹介に専念する。安藤昌益を最初に発見したのは狩野亨吉だった。安藤昌益の『自然真営道全百巻九十二冊の筆写本』を手に入れたのは明治三十二年、第一高等学校校長に就任した翌年、三十五歳の時である。
 そんな狩野亨吉が、〝書画鑑定並に著述業〟の看板を掲げての生活、誰もが予想もしなかった転換であった。逼塞(ひっそく)である。再度陽の当たる世界に出ることはなかった。そうなった理由として、安藤昌益への傾倒というより没頭が隠せなくなったことがあげられている。始めは安藤昌益なる人物など知るものはいなかった。叙々に研究者が現れ彼等が、第一発見者の狩野亨吉を論壇に紹介することで知れ渡る様になるのである。
 岩波新書『忘れられた思想家』という安藤昌益のこと、彼に関する事が詳しく書かれたものがあるが、これなども狩野亨吉がいなかったら当然ながら生まれていなかったはずである。
 著者のE・ハーバート・ノーマンは1949年8月、本書を著したことで、当時はレッドパージの最中でアメリカ政府機関から睨まれ、やがて追いつめられ自殺したとある。その半世紀程前、狩野亨吉も不穏なものを感じ取り下野し逼塞したと考えられぬこともない。「安藤昌益」この人物は謎に満ちている。
 筆者の見解としては、「徳川封建制度に対する本格的な批判者としての安藤昌益を発見した著者」とカバーのソデには書いてあるが、この本のことではなく、安藤昌益だが、その後明治維新の立役者、志士達にさほど影響をおよぼしたとも思われていないが、はたしてどうであろうか。筆者の個人的なことで、あとで触れてみたい事が有る。
 彼の著書は、「哲学書」に分類されるもので、過激な思想行動に結びつくものではないと思われているからだろうか。
 狩野亨吉も不穏に対して忖度があっただけで、関心は、博識にまかせての古書や古美術品の蒐集だが実際は自由な心境での思索にあったとみるのが順当であろう。「その頃、ちまたの商人でひげなどたくわえている者などいなかった。だが亨吉は〝小商人〟になってもひげはそのままで、しかも鳥打帽でいつも大きな風呂敷包みをかかえているからおよそ珍妙なものであった。
 亨吉のむかしの教え子だった歌人、山下清に次のような歌がある。
 『嘗て一高校長と仰ぎし狩野亨吉先生をしばしば路上に見る。
   着流しに帽子かぶらで物もちて 車道横切る君老いませり』
 夏目漱石は、享年四十九歳(大正5年)、狩野亨吉は享年七十八歳(昭和17年)であった。どちらも日本を代表する知的怪物であったことは間違いない。
 ここからは余談として、大きく話も逸れるが、公園の宙(そら)を眺めながら、すきなファンタスチックな音楽に浸る事になる。筆者の伯父が残した「覚え書き」に、先祖達の編年史があり、盛岡藩の家老に仕え(二百五十石)、大凶作と米価高騰で各所に米騒動が発生、軍用米貯蔵係だった筆者の先祖でもある脇右衛門という人が、餓死や疫病のなかにいる窮民達の憐憫をみるに忍びズ、お預かりの倉庫を解放した。その行為は、とうぜん主君の逆鱗に触れるものとなった。その時、親類預かりの座敷牢から救い出したのが“白狐”だったという。(おもわず嵐寛寿郎演ずる、鞍馬天狗を想像してしまった)。追っ手に何度もみつかりそうになりながら南部藩領から伊達藩の領地まで逃れ、現岩手県南の汽仙地方に隠れ住んだといわれている。やがてその子孫が、漁師となり、網元になったのだが、何を言いたいかというと、米倉の解放という大罪をなぜ犯したのかであるが、手記には、村人達の憐憫云々以外は何も書かれていない。しかしまちがいなく、筆者の血の中に祖先の脇右衛門の血が流れていることは妄想ではなく事実である。
 古書店でみつけ『幻の老人、切牛の万六』(早坂基著)を読んだ。214点もの参考資料を渉猟して書かれているものである。万六は別の名を弥五兵衛といった。筆者は公園の空を見あげて思いをはせる。
 1、万六と昌益の関係、2、脇右衛門と万六の関係、3、脇右衛門と昌益との関係。
いくらなんでも飛躍し過ぎでしょうと思わぬでもないが、読み進めているうちに、そうでもなさそうな気になってきた。岩手大名誉教授だった森喜兵衛氏が「三閉伊一揆の指導者弥五兵衛」は「安藤昌益の理論を実践するかの如く、その改革をあげるためには全領一揆を起こす必要があるとし、全領を遊説して歩いた」弥五兵衛こと万六は、十七の頃から塩業に携わっていた事が分かっているという。八戸藩はふるくから塩業(塩の生産、搬送、販売)がさかんだった。昌益が去った後、残った彼の弟子達による「転眞敬会」なる組織—秘密結社といわれる—があったことがわかっているそうである。
 脇右衛門の実家は、現在も宮古に同じAという姓で存在しており、万六はその村に塩業で行っている。「万六は、ロクデナシの放浪者で、現在のヒッピ―みたいな者だった。危険人物として牢に入れられていたこともあった」(佐々木京一氏が岩泉高校に勤める先生からの話)として伝えられている。
  次は昌益と脇右衛門であるが、脇右衛門が座敷牢から助け出されたときの白狐は秘密結社の一味ではなかったろうか。凶作飢饉に苦しむ人たちの姿をみて心が揺れたろう。私塾で教わった教師は、安藤昌益の理論を受け継ぐ崇拝者であったかもしれない。その時の教師の言葉が耳元で「解放しなさい」「解放しなさい」とささやいたのかもわからない。つい貯蔵米を解放してしまった。そんな事ではなかったろうか。年経て後、「南部藩家老楢山五左衛門が、脇右衛門子孫が伊達藩領内に在ることを知ると、善意をもって罪を許し復帰をもとめてきたが、どんなにか感に堪えないお言葉であった事か。しかし従う事は出来ず、そのまま伊達藩の民戸に列した。しばらくして家老の奥方だろうか「お藤の方という人から打ち掛けやコウガイが贈られて来た」とある。
 また手記をめくると、*金持ちの秘訣、という言葉があり、
 「或る時誰かが、曾祖父(三代目半左衛門善紀)に金持ちになるにはときいたら、金というものも、丁寧にキチンと大切にしてくれる人が好きで、ゾンザイに取り扱う人がきらいだ。だから、もうけたお金は貯まり難いものだが、静かにためた金は残るものだ。引き出しの隅の塵みたいなもので、心がけしだいで、しらずしらずのうちにたまると同じ事だよ。」
 当家の全盛時は、〝違い山形〟の下に叶印の鰤の入った化粧箱が、江戸の魚河岸では仙台の花魁印ともてはやされたそうである。
 狩野亨吉と夏目漱石で始まり筆者の先祖に行き着いた。公園を散歩しながらのつぶやき、何時もの事ながら尻切れ蜻蛉。静閑な正月の公園でした。先祖の声など聴けるとは思わなかった。ぞんざいに扱うほど金はないが、それにしても、この金銭感覚のちがい、同じ血が流れているという実感は打ち消されました。金の話しになっていますが、総てに通じる話でした。