日記がいちばん真実を表わす文章(表記)と思われているとしたら、どうだろう。なかには例外もあるかもしれない、がそれは違う。例外というのは、天候、またはそれに類した季節の事柄、桜の開花とか梅雨入りとかである。
筆者は、自叙伝こそがそうだと思っているのだ。日記には書けない真実を書けるのは自分で書く伝記であると思っているのだ。今では死語(異論もあろうが)になってしまった私小説などは、ひと頃そう思われていたのである。
日記は真実を知らせないために書く事も出来るからである。知能派は、悪さを隠蔽するとき日記を選ぶからである。小説では表わせない。自叙伝ではなおさら、そういうものには、不向きなように出来ている。対話がないこと、煩悶がないことである。頭脳の明晰なひとほど日記は秘密の隠し場所として悪用できるからである。
日記には大前提として、己の心の奥をせきららに記述する表記法とされている。ただひたすら、己の心中をその清い水は通ってきていることが保証され、第三者は介入出来ないカギの掛けられた個室なのである。そこには悪魔が棲んでいるかもしれない。白を黒ともできるかもしれない。そう、真実を塗りつぶし自分に都合のよいように書き換えることが可能なのである。
作家達は、作家というものは、そのことに疑いの目をもった異常な程猜疑心の塊のような人種なのである。フィクション作家もノンフィクションの人も本来はそうなのである。
フィクション作家ほど本当は真実に対してアレルギーをもった人種かもしれない。ある女性が兄との間で幼児体験があったとする。いくらでもあることである。ただ此処が違った。両親は妹の訴えを信じなかったのである。でたらめを言うといって妹をきつく叱ったのである。彼女の言い分を両親は受けつけて呉れなかった。嘘をつく兄を信じ、神に誓えるほどの真実を彼女は述べたのに信じてくれなかった。(両親なりの考えはあったろうが、ここはあくまで妹の立場でかいている)こうして、“本当のこと”にアレルギーを持つ人間に育って行く。“本当の事”以外のことを真顔で言える子に成長し大人になる。フィクション作家の中にはそういう人がおってもおかしくはない。
「お兄ちゃんが好きだった。本当は私の方からお兄ちゃんを誘った」「これからはもうしません。許して下さい」と両親の前で泣く振りをして謝ったらどうだろう。「本当はお兄ちゃんだけではない、お父さんも好きで、毎晩夢に見る、夢の中のお父さんはとても素敵なの」と言いチラッと母親の顔を見ると、母はあきらかに困った様子、嫉妬の妖しい光が目にでている。こうなると、もう本当の事も作り話も彼女にとっては境界線がなくなる。両親も事実を言い張った時にくらべ反応が面白い。事実を言えば不信顔になり、口からでまかせを言うと顔を輝かせて身を乗り出して来る。作家としてどちらを取るかは歴然としている。
しからばノンフィクション作家はと云えば、日記は信用出来ないが、だからといって真実を語って全否定された経験もない人種である。自叙伝なら日記のウソっぽさを、せん滅できるのではないかとおもっている人種だ。つまりディベート(討論)に対するアレルギーの持ち主なのである。自己問答しかしない、出来ない。日記は自己対話がゼロの世界である。ディベートは自己対話のまったく要をなさない世界である。ある種狂気の世界である。
自叙伝は狂気をきらう世界である。真実のためなら、平気で己を滅却することのできる世界である。日記に書けない事も易々と表すことが出来るのである。
半世紀前だが、まさにそういう本が誕生した。ウソというウソを靴底にねじ伏せた真実のみが書かれた自叙伝だった。ある有名な歌舞伎役者の言葉に「観客が伊勢屋! とか成田屋! とか声をかけたり、拍手喝采しているうちはまだまだである。本当に感動したときは、観客全員が黙ってしまう。」それと同じ事が起きたのである。驚きのあまり黙ったままである。芸術の歴史を見ても、五十年などはざらで、三百年、五百年が普通である。出版界は妬みのつよい世界だがそれとは関係がないようである。関係者が全員居なくならないうちは姿を顕わさない模様である。筆者が生きている間にそういう事があったということである。それだけである。
歴史といえば、次々に覆されて、歴史家は満足そうだが、本来はそんなことが出来る筈はないのである。覆い隠したかった人がいて、そこが周囲に比べ不自然なため、その部分をはがしてみたら真実が現れたというだけである。
日記も、始めから信じたりしないで不自然な所に目をとめることのできる天才(たとえばAIのようなもの)が現れればどうということも無いかもしれない。
ところが、もっとも正直な、信頼のおける証言をしてくれると思われていたことが覆った時、こんな恐ろしいことはないということになる。AI自身の自叙伝を著して貰わなければならなくなる。
なんと、今日も、公園は長閑であった。
筆者は、自叙伝こそがそうだと思っているのだ。日記には書けない真実を書けるのは自分で書く伝記であると思っているのだ。今では死語(異論もあろうが)になってしまった私小説などは、ひと頃そう思われていたのである。
日記は真実を知らせないために書く事も出来るからである。知能派は、悪さを隠蔽するとき日記を選ぶからである。小説では表わせない。自叙伝ではなおさら、そういうものには、不向きなように出来ている。対話がないこと、煩悶がないことである。頭脳の明晰なひとほど日記は秘密の隠し場所として悪用できるからである。
日記には大前提として、己の心の奥をせきららに記述する表記法とされている。ただひたすら、己の心中をその清い水は通ってきていることが保証され、第三者は介入出来ないカギの掛けられた個室なのである。そこには悪魔が棲んでいるかもしれない。白を黒ともできるかもしれない。そう、真実を塗りつぶし自分に都合のよいように書き換えることが可能なのである。
作家達は、作家というものは、そのことに疑いの目をもった異常な程猜疑心の塊のような人種なのである。フィクション作家もノンフィクションの人も本来はそうなのである。
フィクション作家ほど本当は真実に対してアレルギーをもった人種かもしれない。ある女性が兄との間で幼児体験があったとする。いくらでもあることである。ただ此処が違った。両親は妹の訴えを信じなかったのである。でたらめを言うといって妹をきつく叱ったのである。彼女の言い分を両親は受けつけて呉れなかった。嘘をつく兄を信じ、神に誓えるほどの真実を彼女は述べたのに信じてくれなかった。(両親なりの考えはあったろうが、ここはあくまで妹の立場でかいている)こうして、“本当のこと”にアレルギーを持つ人間に育って行く。“本当の事”以外のことを真顔で言える子に成長し大人になる。フィクション作家の中にはそういう人がおってもおかしくはない。
「お兄ちゃんが好きだった。本当は私の方からお兄ちゃんを誘った」「これからはもうしません。許して下さい」と両親の前で泣く振りをして謝ったらどうだろう。「本当はお兄ちゃんだけではない、お父さんも好きで、毎晩夢に見る、夢の中のお父さんはとても素敵なの」と言いチラッと母親の顔を見ると、母はあきらかに困った様子、嫉妬の妖しい光が目にでている。こうなると、もう本当の事も作り話も彼女にとっては境界線がなくなる。両親も事実を言い張った時にくらべ反応が面白い。事実を言えば不信顔になり、口からでまかせを言うと顔を輝かせて身を乗り出して来る。作家としてどちらを取るかは歴然としている。
しからばノンフィクション作家はと云えば、日記は信用出来ないが、だからといって真実を語って全否定された経験もない人種である。自叙伝なら日記のウソっぽさを、せん滅できるのではないかとおもっている人種だ。つまりディベート(討論)に対するアレルギーの持ち主なのである。自己問答しかしない、出来ない。日記は自己対話がゼロの世界である。ディベートは自己対話のまったく要をなさない世界である。ある種狂気の世界である。
自叙伝は狂気をきらう世界である。真実のためなら、平気で己を滅却することのできる世界である。日記に書けない事も易々と表すことが出来るのである。
半世紀前だが、まさにそういう本が誕生した。ウソというウソを靴底にねじ伏せた真実のみが書かれた自叙伝だった。ある有名な歌舞伎役者の言葉に「観客が伊勢屋! とか成田屋! とか声をかけたり、拍手喝采しているうちはまだまだである。本当に感動したときは、観客全員が黙ってしまう。」それと同じ事が起きたのである。驚きのあまり黙ったままである。芸術の歴史を見ても、五十年などはざらで、三百年、五百年が普通である。出版界は妬みのつよい世界だがそれとは関係がないようである。関係者が全員居なくならないうちは姿を顕わさない模様である。筆者が生きている間にそういう事があったということである。それだけである。
歴史といえば、次々に覆されて、歴史家は満足そうだが、本来はそんなことが出来る筈はないのである。覆い隠したかった人がいて、そこが周囲に比べ不自然なため、その部分をはがしてみたら真実が現れたというだけである。
日記も、始めから信じたりしないで不自然な所に目をとめることのできる天才(たとえばAIのようなもの)が現れればどうということも無いかもしれない。
ところが、もっとも正直な、信頼のおける証言をしてくれると思われていたことが覆った時、こんな恐ろしいことはないということになる。AI自身の自叙伝を著して貰わなければならなくなる。
なんと、今日も、公園は長閑であった。