独りぐらしだが、誰もが最後は、ひとり

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自分の日常や、四十五年来の先生や友人達の作品を写真や文で紹介します。

  貴乃花に降り注ぐ、圧力の正体       公園小父さん

2018-03-30 00:09:00 | 日記
 それは,男の証明ですよ。あれ程活躍したのですから、妬みや嫉妬を生みますよね。ここは、ゼロからの出直しは、正解ですね。それは,負けたのではなく、真性を保つためですね。白鵬が、荒技を止めた事、良かったと思いますね。心を入れ替えましたね。張り手や、エルボーは、横綱の使う技ではありませんものね。協会や、横審が、気がつかないはずが無い。見て見ぬ振りですね。気が付いたのは、最近ですものね。最も、目を光らせなければいけないのは、君達でしょう。
 貴乃花は体制派にとって、要注意人物になっていましたね。体制は、改革を嫌いますからね。しかし,常に改革をして行かなければ、見るも無惨な、ショー・ビジネスになりますからね。大概の観客は、慰安で見に来ていますよね。私も行った事がありますが、楽しいですもの。日頃の憂さを忘れますね。しかし、相撲を支えている根底のものは、血を吐くような心身の“鍛え”ですよね。
 どちらかと云うと、貴乃花はそちらに重心を傾けていますね。正しい事だとは思います。でも,力士にも色んな相撲取りがいますよね。三役に昇れる人は僅かですよね。そういう、十両で終える人も、やはり、人生には、背景があり、家族や、学校の友達や恋人も居るかもしれない。みんな、エリート力士と同じ様に、取り組みを見て、一喜一憂して居る筈です。さっき挙げた大横綱、白鵬は、第一人者ですから、別格です。黙過する事など、とんでもないことです。
 それから、公園を散歩していて、話題になったのは、終わったばかりの,三月場所の横綱、鶴竜と貴景勝の一番に、“物言い”が付かなかった事です。あれは、大入りに阿(おも)ねって、行事の〝指し違い〟を質(ただ)さなかったことです。相手は、横紙破りの親方「貴乃花部屋」。テレビ画面では。蛇の目の砂が鶴竜の足の親指によって舞うのが分かった。さいわい、行事の位置では見定めが利かなかった。それを、いい事に、面倒はごめん、と“知らぬ振り”を決め込んだ。
 解説S理事は、アナウンサーが、蛇の目の「砂が舞うのが見えましたよね」と、言っているのに、「うん、まあ、」ばかりで、言葉がでてこない。色んな、協会へのソンタクや、思惑が頭の中を渦巻いていたんでしょうね。スロービデオで検証する筈の、カメラまでが、この日は、知らぬ、存ぜぬ、では、やはり、力士会新会長の鶴竜と、落ち目の貴乃花部屋を天秤にかけて、今日の、“貴乃花部屋暴力事件”の結論と同じ様に、総てにおいて、悪いのは,貴乃花親方、そして、貴乃花部屋という流れで、シナリオを作り、親方も,弟子をも、全員で《しかと》し、孤立へと追い込み、若い弟子は、その圧迫に爆発して、見境がつかなくなった。にんまり、している人の様々な姿が目に見えますね。
 公園での話題が、もう一つあります。栃の心の〘マワシ〙です。栃の心は、横綱、朝青龍が八年前に、最も将来、期待する力士として上げた相撲取りでした。私も、ファンです。しかし、親方から頂いたマワシなので、特別なのは分かりますが、余りにも布地が弱って、ぐだぐだですよね。相手力士が、マワシを掴むと、ずるっ、と背中まで伸びて、土俵に追いつめても詰め切ることができず、そのうち態勢を立て直した栃の心の逆転勝ちとなる。優勝したのだから、マワシ位は、新調しなさいよ。親方が悪いし、もっと悪いのは、気が付いていても、物言いのときの、審判や、解説者、そして、協会と、その後ろ盾の方々の見ぬ振りでしょう。
 冒頭に戻りますが、貴乃花さん、これで、いいのですよ。政治家がデタラメだから、この、小体制も、右へ倣(なら)えの精神です。貴方の精神は、筋金入りですよね。自分に負けない様にね。土俵と違って、土俵の外は、人に幾ら負けようと内面は傷付かない様に出来るのですよ。そのうち、向こうが勝手に転んでしまいますから。そのうち判ります。
                 

 独りぐらしの、ある光景から        公園小父さん

2018-03-12 13:14:44 | 日記
 めったに、ひとが訪ねてくる事はないが、一人の若者が訪ねて来た。宗教の話をした。何処の町にも、地域にもある光景である。他所の町に住んでいた時も同じ場面に出合っている。洗礼を受けた事もある。四十も半ばであった。だが、二ヶ月も経たないうちに足が遠のいていた。その後も、ある夫婦に誘われるまま、関東の何処にでもある田園から横に入った窪地に建つ教会に行った。五十人ほどの信者さん達が和やかな雰囲気で集っていた。午前の部の牧師のお話が始まり、まもなくして、そっと、布袋が膝下の方から延べられたが、とっさの事で、献金とわかるまで、間を要した。慌ててポケットを探り、小銭の種別(札はなかった。一円、五円、五十円、百円、五百円)もかまわず、握って押し込んだ。自分で、自分の慌てぶりが可笑しかったので笑った。チラッと次の人の様子が見えた。中年の男性が、長財布を、広げているところだった。
 午後の部が始まり、牧師は人が変わった様に不機嫌だった。
 「日々の講話のために、自分は、夜遅く迄、準備に、どれ程の時間をつぎ込んでいるか……」という事を話した。牧師の怒りをにじませた視線は、私に注がれていた。やっと、私は気が付いた。
 信者さんは、みんな、牧師にとっては家族も一緒の長年のお付き合いをしている人達だった。一円等、間違ってもありえない。〝初めて来た、あの男にちがいない〟と、すぐ推測が出来たと思う。帰り際、牧師の著書が売られていたので、一冊所望した。本心を明かせば、いまだに読んでいない。
 訪ねて来た、青年にも言ったが、『イザヤ書』の五十三章は、誰に勧められた訳ではなく、自分で発見したと思って、時々読んでいる。読む度に新鮮である。嗚咽の涙で、文字がかすみ、反対に、こころの視界は、果てしなく広がるのだった。
 青年にも、その事をはなした。すると,青年は自分達の聖書を見ていたが、どうも、反応が、いま一つなので、見てみると、詩的な部分が散文的表現になっているのだった。それはそれなりの考えがあるのだから、仕方がないことである。私に感動を及ぼした物『新改訳・聖書』「日本聖書刊行会」とは違うということである。しかし、好青年である。両親も同教会の信者で、彼は、小学前から、教会に通っているという。
 『イザヤ書』はイエスの愛読書だった、という事を,青年も知っていた。私は、だいぶ前になるが、池袋の古本市で見つけた、賀川豊彦著『聖書の話』〔現代教養文庫〕で知ったのである。今ではこの本は、犬養道子さんの本と共に、私の心の扉を開ける時の鍵の一つにしている著書になっている。

『私の花物語について』      三浦由里好

2018-03-05 19:34:30 | 日記
  限りなく愛しき、宇宙のどこかで「私の花物語」をお読みくださっておられます方々に、心より感謝と御礼を申し上げます。
 この世に命を賜り、私にとって何ものにも代え難い大切な命の愛しき〔花物語〕を、幼なごころに咲いた数知れぬ、忘れ得ぬ野山の美しき私の花物語をいつか書き残し、生まれて来た感動の贈り物を捧げて行く事が出来たらと願っておりました。
 今、まさか、日本のどこかで、もしかして世界の片隅でふと、見つけた細やかな私の「愛の贈り物」を見つけて下さり、その続きを待っていて下さるなんて、素敵な夢を叶えて頂けるなんて本当に嬉しゅうございます。
 おごる事なく、最後迄感謝を込めて書き続けさせて頂きたいと思います。
 そして、この先、「私の○○物語」等を書いて人生の楽しい思い出と花との出会いの中で咲いた大切な感謝の贈り物を、父や母やそして、花物語をお読み下さいました方々や、美しい思い出を賜りました御深縁の深い方々へ、夢物語りをお贈り申し上げる事ができたらどんなに嬉しいことかと思います。
 その中で、この世に命を賜り、大自然を、そして、私達をどれ程楽しませ、喜ばせ、豊かに生きる幸せを贈って下さったか量り知れない花の一輪一輪の持つ尊さ、優しさ、美しさ、等々を、自分の手でいけ、自分の魂、心の目で見、感じ、花の持つ偉大な力、生きとし生けるものヽ全てを慈しみ、命を生かし続ける愛の深さに気づき合う時、この世の全てが愛おしく、永遠の愛の天使と共に、幸せな宇宙に、共に永遠の苑に生き続けられる、その種を蒔き続けて行けるよう、皆様と語り続けて参りたいとおもいます。
      

※ ご本人の希望で、今後は、自分の〘gooブログ〙を新設し『私の花物語』を連載致すこととなりました。どうぞ宜しくお願い致します。