独りぐらしだが、誰もが最後は、ひとり

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放蕩息子の更なる告白 (百四十三話)  佐藤文郎

2019-10-25 00:02:39 | 日記
『梁山泊』いう、上野霄里先生を囲んでの懇親会が名古屋であり、私も八年ぶりに先生にお会いして来ました。ソクラテスが、又は「荘子の著者(荘周)」が、「町内会」の会合に出席したような様子と表現したら、さぞ皆さんに叱られるでしょうが、しかしどうみても、私にはそうとしか、思えないのでした。地上二メートルの世界を拒否して飛び出た先生が柔和なお顔でお話をされているのでした。私を含めた皆さんは町内会感覚の世界でしか生きてはいません。町内会の規約や、規則や習慣をまもって生活しているのです。それに対して「上野霄里」は超法規の世界に生きているのでした。私は、今とんでもないことを言っている様です。やっぱり頭がおかしいか、そんなヤジが飛んできそうです。
 いや皆さんこそ、冷静に考えればわかることです。『単細胞的思考』という上野霄里著の表紙カバーの帯に〖知性圏を戦慄させた『禁書』。著者は聖隠者か、極悪人か!〗とあります。これは、虚仮威しですか? そんなはずはありませんよね。もしそうであるなら、こんな茶番はめったにあるものではありません。
 上野霄里は、表面はどうであろうと「超法規」の人間なのです。そう再認識して帰って来ました。『単細胞的思考』はその証なのです。その時々の常識を誰よりも識っている人間です。目を瞑ってでもそれを生きられる人間です。私なら、そうはいきません。ほどほどの常識であり、目を大きく見開いていて気をつけていても、常識破りの常習犯になっています。私だけではないのではないでしょうか。否、ここでは上野霄里のことです。あの『単細胞的思考』を読めばそうなります。私が観つづけた上野霄里はそうでした。どんな規約も、規則も、法律も破れる人です。超えているということは、見上げているのではなく、見下ろしているのです。車の運転の名手が、いかに運転規則、法規に正確で忠実かということです。しかし、いったん事故や思いがけない災難に出くわした時、他の人、規則通りの運転者は決して避け得ぬところを、なんなく脱出できるのはスキルだけではなく、総てを超えた自由なカミ感性の持ち主だからです。私はそう思うのです。
 あの本を読んで、影響を受けて上野霄里の真似をしようとした人が何人もいたと思うし居ても不思議はありません。だから、恐ろしい本ではあるのです。しかし命がけで学ぼうとする者には本物の導きに出会える筈です。いまだ、答えの出ていない未知の著作であり、著者。評する人が未だ誰も出ていないというのは、作品がドウカではないと思います。知性圏で、かつてお目にかかった事のない哲学であり人間だからだと思うのです。
 もうお会いする事はないかもしれない。挨拶の順番が私に廻って来て、私は感涙していた。「何時も、上野先生が泣くのに、今回は泣かないと思っていたら、ブンロウが泣いたネ。」とだれかが笑った。

放蕩息子の更なる告白  (百四十二話) 佐藤文郎

2019-10-12 23:42:52 | 日記
 「文明人間」の避難場所
いつ停電になるか、心配しながらでしたが、何とか間に合いました。「緊急避難情報」。携帯のブザーが何度も着信する中。打ちながら、運命論者みたいに文明人間の片割れとして、背中から、土砂が押し寄せて来ても当然の報いに思えて来たのでした。さて、これから避難と言っても、何処へ行こうか。

 人間は宇宙の真心によって   上野霄里
  四章  遊び
 観照者としての生き方はゲーム
 に過ぎないが 自分の中に入って
 生きる行為は修行である
        23・4・14  うえの
 

  『松に習え』
 芭蕉はいった
 「松のことは 松に習え
 竹のことは竹に習え」と
 文明意識は 松の心を忘れ
 竹の主張を無視する
 人間は平和を生み出すことが出来ない
 高貴な生き方も生み出すことが出来ない
 平和を生み出すのは
 平和そのものである
 高貴さを生み出すのは
 高貴そのものである
 自分を一番良く豊かにしていくのは
 自分という名の自分自身である

  『死の舞踏』
 愚かな魂よ
 お前は流行の中で
 何かを創造したと錯覚している
 自分の脚で翔んだと自覚している
 お前はその実
 文明に騙されているのだ
 伝統と因習の方式に叶った
 既成の詰め合わせに従って

 跳ねただけではないか
 何一つ生み出すことのない
 不毛な結果しか見ることのない
 文明紳士達の
 ちんまりまとまった ソツのない
 死の舞踏よ!

  『その前に』
 君は人生が嬉しくなる前に
 友をすべて失わなければならない

 君は自信に満ちる前に
 両親や兄弟を忘れ去らなければならない
 
 君は真人として誇り得る己である前に
 文明社会から脱落しなければならない

 君は 自足の生き方に入る前に
 伝統の簒奪者にならなければならない
 偉大な一個の自己完結的人間となるために
 人間は 一度
 文明圏で
 伝統の前で
 権威の前で
 正義の前で
 富の前で
 死に果てなくてはならない

  『達人』
 自然と親しく対話の出来る
 原生の感情を
 文明社会の規則人間は憎む
 自然環境因子を
 己の内外に自由に出し入れの出来る
 原生の肉体を
 文明社会の公式人間は 恐れる

 見よ 仏像の背後に描かれている後光を!
 キリストや聖者の頭上に描かれている光の輪を!
 あれらは 一様に
 万有と己の生気を合致させた人間に
 みられる現象なのだ
 地上二メートルを 卓越している人間は
 ひと呼吸 ひと呼吸
 宇宙の全域を己の中に取り入れている

  『原生回帰の知』
 文明の知性は神の愚かさに敗れる
 とバイブルはいう
 事実
 文明の知性は
 全円的人間の真現象を捉えるには
 あまりにもその分離能が低過ぎる
 原生叡智は
 非文明の要素だ
 反文化の体質だ
 無客観の荒びた姿勢だ
 故に
 原生の叡智は
 至高の知となる
 極北の知
 無明の檻を打ち破り
 原罪の縛目を断ち切る
 激烈な原生回帰の知だ

  『処刑される』
 予言者の前に
 言葉を売り出してやろうという
 商人が現れると
 予言者の能力は精彩を失ってしまう
 芸術家の前に
 作品を売り出してやろうという
 商人が現れると
 芸術家の才能は翼を失ってしまう

 昔は
 仙人や予言者や
 ラスコーの洞窟に住む
 画家達に
 商人が群がらなかった
 今日
 美しい才能は商人の手で処刑される

  『人間を活かす』
 自らに正直な態度を
 キエルケゴールは
 実存的誠実さと形容した
 社会的誠実さばかりが
 気がかりで
 自己自身には 嘘のつき放題
 現代人間────

 社会的誠実さは人間を亡ぼす
 実存的誠実さは人間を活かす

  『試される』
 主義の下で
 人間の意地が試される────
 
 集団の中で
 人間の自我欠落の度合いが計られる────
 
 科学の前で
 人間の小知恵が測定される─────

 宗教の中で
 人間の率直さが見分けられる─────

 虚無の中で
 人間の偉大さが理解される─────
 
 自然の中で
 人間の叡智が確認される─────
 
  『開眼する迄』
 文明に抗し
 文化と闘い
 理性社会に背を向けて生きた
 果敢な誠実心は
 しばしば
 自己を称して
 大愚といい
 愚禿といい
 風来坊といい
 風狂といい
 風癲といった

 自らを無宿者に仕立て
 無住の乞食に追いやり
 狂態をまとってさすらうことにより
 永劫の安住にひたった
 無限の悟りに開眼した

  『失われたものに』
 かってプラトンが
 詩人に対して抱いた
 「聖なる恐怖」は
 一つの畏敬
 一つの正当な認識
 一つの開眼
 一つの明晰な理解────

 彼にとって詩が象徴している芸術は
 手に負えぬ感化力を伴っていた
 人々を一瞬にして質転換させる
 魔力を秘めていた

 真の芸術のこの危険性────
 プラトンの心に恐怖を与えた
 この壮絶な狂態としての
 芸術の生き様
 だが今日
 芸術は見事にプラトンの裏をかいた
 芸術はなんら恐怖の対象ではない
 作品を見ても
 人々は一向に驚きもせず
 心をふるわすこともしない

 文明人間は
 不幸な免疫性を身につけてしまっている
 ニーチエの思想に触れ
 シャカの言葉に接し
 キリストの生き様を知っても
 いささかも 動じない

 これは 憂うべき鈍麻
 絶望的エポケー
 悲しみに満ちた無知
 悲劇的なまでの無気力

  『道』
 「道」─────
 それは鮮烈な輪廓を持つ自我を崩して
 超微粒子と化し
 宇宙環境因子と冥合させる
 知恵の生き方

 西欧の精神山地に
 ひときわ群を抜いてそびえている
 強烈な自我の高峰は

 ルソー、キエルケゴール、ニーチエ
 だが 彼等には
 虚無への溺れがなかったか

 「道」は これらの巨峰を切り崩し
 全く平坦にしたうえで
 真実の霊峰を隆起させた
 文明の希望も虚無も呑み尽くしてしまう
 霊峰を そびえさせた

  『修行』
 芸術の修得を修行の場と混同している日本的心情
 仏教から発生した修行が
 行の分野にも入り込んできた
 技術の確かさと
 人間性の確かさが同一時空で問われる習慣の中で
 日本的生活は固有のものとなる
 だが
 その言葉の真実の意味における修行は
 技術の錬磨と何ら関わってはいない
 乾坤無住の
 ひたすら自由な魂と
 それにつきまとう生活だけが
 修行によって
 遊びの生き方を
 鮮烈にする
 明確にする
 余裕ある行とする

  『堕落芸術』
 強烈な色彩と造形で
 人々を圧倒する画家や彫刻家がいる
 だが それらの作品のすさまじさほど
 彼等自身は 激しく生きてはいない
 唯、作品に無反応な人々を
 ひきつける手段として しきりに奇抜さをてらう
 芸術家と作品の二面性は
 今日 常識のこととして誰一人気にとめないが
 私は これを悲しむ
 作品は人間の反映でなければならず
 人間は作品を裏切ってはならない

  『仲間入りが出来る』
 本当に自分を正しく表現したかったら
 心から自分らしい生き方をしたかったら
 骨の髄から誇り溢れる生き様をしたかったら
己の身心にこびりつている文明感覚を
 徹底的に打ち砕け─────

 己の言葉を
 この世の中で 無難に通っていた言葉を
 粉砕せよ─────
 己の意識を完全に錯乱状態に追い込め!
 この時 人間は
 神々と言う名でよばれている
 仲間入りが出来る

  『プロクルステースに気をつけろ』
 芸術家よ────
 プロクルステースのベッドに気をつけろ
 自分達の好みや
 安っぽい金張りの美徳などを掲げて
 君の脚を断ち斬り
 君を無理矢理引き伸そうとする
 
 芸術家は
 自分自身の声で自分自身の歌しかうたえない
 
 それ故に
 芸術家よ
 他人に命じるな
 他人に命じられるな
 見よ─────
 プロクルステースは
 芸術の暁に
 ドルメンの陰で
 ラスコーの洞窟で
 処刑されてしまっている

  『遊び』
 ほとけやかみさまという
 外側の幽かな存在を度外視すれば
 人間現象は
 あらゆる意味において
 手段である正当性を失う
 方法である意義を失う

 手段でもないものを
 方法でもないものを
 まずはじめに
 手段と方法にすりかえ
 ついでに
 手段と方法を
 目的にすりかえてしまった文明────

 人生は それでもなお
 遊びそのものなのだ
 手段と目的を
 方法と達成を
 はるかに はるかに 凌駕した
 遊びそのものなのだ

  『無明』
 印度で高邁な思弁哲学であった仏教は
 中国で社会参加の知恵と化し
 日本で形式宗教と化している

 パレスチナで地下運動であったキリスト教は
 ローマ帝国の版図で権力と化し
 現代世界で道徳と化している
 だが
 シャカは一個の
 天上天下 唯我独尊
 キリストは一個の
 天駆ける自由な精神の受肉であった

 仏教寺院はシャカの言う無明を失い
 教会はキリストの言う白く塗った墓の中の
 腐り果てた骨になっている

  『呼びかけてくる』
 理性的人間は孤立している
 社会とべったり癒着していながら
 限りなく孤独だ
 
 感情豊かな熱い感性の人間は
 社会から断絶し 孤高の姿勢を保ちつつ
 いささかも孤独ではない
 社会的な孤独を誇りながら
 万有と見事に交わっている
 花も雲も
 山も川も
 人間も細菌も
 すべてかれにとって「あなた」であり
 対象は彼に呼びかけてくる
 石ころ一つについても
 これに愛着し
 まんが本の切れはしの一言半句に
 感動し
 枯れ木の造形に心打たれ
 虫の這うのに宇宙の言葉を聴く

  『人生万才の生き方』
 私がこれほど迄に
 熱中し 暴れ狂い歌い絶叫しているのに
 君達は ほんのわずかの関心を抱いて
 周囲に群がり
 これに共鳴し参加し生命を賭けてくれないと嘆く人々よ

 君は未だサーカス業から脱けきっていない
 本格的な生活者は
 他人を気にしない
 ひたすら 己自身のことで手一杯だ
 自己を眺め 自己の言葉に酔い痴れ
 自己の壮大さ 卓越した偉容に
 唯々 感動し 見惚れて
 一生を了る
 
 この時 他事多難な生涯が
 バラ色に輝き
 爽やかで 快適で
 人生万才を何度もつぶやき
 もったいない位に美しい人生を
 一瞬の間に失っていく
 私は一瞬一瞬を
 嬉しさを飲み干しつつ生きている

  『原生の技巧』
 野辺の花は 自然である故に
 時空のプログラムの中で
 芽生え 咲きほころび萎んでいて
 活け花は造花と自然
 花器の中で 剣山の上に立ち
 唯 咲くだけ
 芽生えと萎えの時間は
 切り取られて 忘れられる
 永遠に咲きほころぶ様を訴えようと
 一瞬の姿を剣山の上に晒す

 文明は造花の自然
 技巧と作意の天然
 原生の技巧は
 自然を天然のまま
 いささかも壊さぬ技巧のことだ
 
  『死せる赤児』
 じぶんが何を欲しているか
 忘れてしまった文明人間は
 あたかも
 泣き疲れて ぼんやりしている赤児のようだ
 もう二度と泣きじゃくって
 ねだることをしない幼児は
 天使の心を失ってしまった
 死せる赤児────

 もし
 終生 初々しい
 生気に溢れる赤児でいたかったら
 自分が何を欲しているか
 もう一度はっきりと想い起こすことだ
 そのためには
 理性は邪魔になる
 生の感情のみが 彼を救う

  『アメーバーを見る』
 極度に洗練されてきている
 文明人間の精神
 それは真実の光を目撃しても
 一向に衝撃を受けない
 鈍麻した無反応の精神
 
 反応を忘れた 精神風土は
 不毛の凍土
 常闇の世界

 底には奇蹟も神話も生まれず
 唯、黙々とうごめく
 食って糞を放り出す生物
 文明人間共が悪臭を放ち
 群がっている
 ────私はそこに顕微鏡下の
 アメーバーを見る

  『より高い生』
 死に追いつめられて死ぬのは
 存在の可能性を断ち切られた
 いわば処刑された死だ

 生きながら
 しかも逞しく生きながら
 自らの手と意志によって断つ死は
 枯凋でも滅亡でもない
 それはより高い次元への誕生なのだ

 豪快に生きたまま死に突入することにより
 人間は一層威厳に満ちた
 高邁な生活者として生きられる

 死に追いつめられるより
 死を追いつめよ
 生を追いかけるより
 生に迎えられよ

  『例えようもなく悲劇的な』
 どんなに人間が
 文明の快適な生活に酔いしれていても
 人間の生命の
 肝心な点では
 宇宙の素朴なリズムに結び付いている
 宇宙の素朴なリズムに結び付いている
 それが生命なのだ
 文明の便利さを楽しむ心は
 溺れ 妄想している心だ
 生命からずり落ちた
 酔い痴れる麻薬患者の痴態だ

 文明という名の
 人間汚染
 原生性破壊─────
 人間は今
 例えようもなく 悲劇的な
 文明歴史の中の犠牲者なのだ

  『ハレの人間』
 川に泳いで
 流れを意識するのは
 鈍麻した意識による
 日常性(ケ)との接触にすぎない

 川に泳いで
 流水の中に宣託と意志を感じるのは
 めざめている意識による
 祭り(ハレ)の体験である

 ハレの体験の中で
 キリストは変貌し
 山伏は山入りして行をおこない
 木食上人は生きながら地下に埋められ
 フランシスは乞食と衣服を交換し
 老子は函谷関の彼方に姿を消し
 モーゼはニボ山に登り
 ノアは箱舟に入り
 ヨハネはパトモス島の岩窟に入り
 エノクは天に向かって歩きはじめた
 見よ!
 エノクは今も
 神と共に天上を歩いているのだ!
 彼は常にハレの人間なのだ


 放蕩息子の更なる告白  (百四十一話)   佐藤文郎

2019-10-12 10:15:38 | 日記
 年月は、めぐる  
 貴方の前置きはどうだろうと電話をかけてきた方があった。「それから、さあ、いつでも、何処からでも来い! というのは、なんのことですか?」と、尋ねるので、たぶん、最近よく,頭をよぎる死のことではないか、と応えた。「名久井先生という人の作った手作りの本だから私は、愛着がある。造本も世界に一冊しかないオリジナルものですね。何故文郎さんがブログに打ち込む必要があるんですか」遠慮気味だったが、はっきり言えば、止めなさい! ということだった。最近東北に越した若い人で、人間的にも仕事面でも評価に足りると日頃思うひとりであり、ほんとうに、彼の言い分はもっともであると思ったが、しかし一方で、そういう次元でいまの私は生きてはいないと、彼には言わなかったが、心の奥でつぶやいていた。けっして、驕慢からではなく、名久井良明先生にはつねに敬意を抱いている。目の前にあるもの、が活きたもので、現実だった。手に取らなければ、どんな貴重な本であろうと、私にとって、有って無きに等しいものである。長年棚にあることも忘れており、今回どうして、と思った時、五十年も昔、鈴木幸三氏の家で、当時表紙や扉などに使う紙、レザックについて話をしたことを思い出したのだ。「これこれ! こういう、丈夫な紙がいいですね。言葉を印刷して、飛行機でバラまきたいですね」と上野先生は怪気炎をあげていた。何も、まだ始まってはいなかった。それから間もなくして、先生の著書が出版されるなど誰が予想したろう。少なくとも、鈴木幸三さんにも私にも、その時はまだ、夢にさえ現れた事も無かった筈だ。今私は,「レザック」に印字して、世界中の空に、力をこめてバラまいている気分だった。

  人間は宇宙の真心によって  上野霄里
    三章  昇華
  古人の格言には知識が
  含まれていない。その侭の
  自分を語る素朴さだけが
  そこにある。
          23・4・14   うえの

  『物質』
 「思考は物質である」と
 クリシュナムルティはいみじくもいった
 俗世間でいわれている物質とは
 従って
 錯乱した映像にすぎない
 文明社会の物質は一沫の夢だ

  『一切放下』
 一切放下
 物の心を自然に返す叡智
 一切を無に帰す時
 万有を掌中に実感する

 裸の暮らしが爽やかだ
 無宿の暮らしが軽やかだ
 宇宙に遍在する
 同位生命エネルギーと合体した
 放下の生き方は
 喜びに 溢れている
 乞食を 三日やったら やめられない
 というのは
 たしかに箴言だ

  『確認』
 創造への狂気────
 これだけが 常に
 私をめざめさせている

 そうでないと
 脳が腐っていく
 心のリズムが 消えていく

  『危機・侮辱』
 真実の宗教は 形式を持たない
 インドに生まれた原始仏教は
 全く組織も権威も持たなかった
 それが やがて
 ヒンズー教に吸収される原因でもあった
 真実の芸術には 流行性がない
 天才として生まれた芸術家は
 弟子も権威も持たない
 
 形式は宗教に取って危機の要素だ
 権威は芸術にとって侮辱そのものだ

  『唯 在るのみ』
 幸福といい
 不幸といい
 これらは苦悩に満ちた人間の
 妄想の所産
 真実に安息し
 人生を楽しんでいる人間には
 幸福も不孝もありはしない
 唯 激しく逞しく
 在るのみ

  『「汝」に出会う』
 賢者は山と向って
 山のかたちを讃じる代わりに
 山のリズムに感動する
 大自然の生命(アトモスフェリック)に酔う
 山霊に畏敬の思念を抱く

 人が山を仰いで
 山霊を感じる時
 彼は山を山としてでなく
 自分と深く関わらせ対話の対象となる
 [汝]に出会っている

 『看ること』
 見えていても
 視たとは いえない
 視ていても
 看たとは いえない
 見える機能が
 己の全領域につながる時
 看ることが 出来る
 視る機能が
 全身心と呼応する時
 看ることが可能となる

 即ち
 看ることは
 生きていることの 総合体験なのだ

  『虚無の姿勢』
 対外的な虚無の心は甘えの姿勢
 対目的な虚無の心は
 一つの責任ある姿勢だ

  『騙されている』
 しきたりの嗜好品の詰め合わせに従って踊る
 文明社交人間よ
 お前はそれを発明とでもおもっているのか
 それを発見とでも かんがえているのか

 お前が自分の脚で跳んだと自負しているものは
 その実
 文明の装置によって
 巧みに仕掛けられた わなにすぎない
 
 お前のやっていることは
 すべて
 予定通り文明が整えていたものだ
 お前は生真面目になって
 文明の注文する通りに踊らされている

  『忘れる』
 けものは 山に分け入り
 餌物を意識して
 山を忘れる

 魚は川に泳ぎ
 水を気にして
 川を忘れる

人は宇宙に生き
 社会を気遣い
 宇宙を忘れる

  『古碑のように埋もれて』─────
 宗教や芸術が
 俗界の人間に肝をつぶすほどの
 驚きを与え得た時代は
 今となってはもう神話になってしまっている
 人々は 宗教をみくびっている
 芸術は心を惑わされるほど 純真ではない
 宗教も 芸術も
 今となってはもう
 古碑のように埋れてしまっている

  『感情復活』
 理性の横暴な行為を
 捨てる勇気は
 原生の美徳である
 その瞬間から感情が復活する

  『最後の可能性』
 人間には常に
 二種の虚無の深淵が
 奈落の口を開けて待ちかまえている
 一つは宗教的に 解消可能なもの
 もう一つは宗教の次元で現れるもの

 後者の虚無を解消出来る
 宗教も 哲学も 存在しない
 これから 救われるためには
 自己確立のみが
 辛うじて最後に残された可能性だ

  『無の境地』
 宇宙同位生命との合体による
 真実の 無の 境地は
 自我意識の強烈な体験なしには
 達し得ない

  『理解』
 理解するとは
 真の意味で理解するとは

 驚嘆することだ
 
 確実に納得するとは
 
 自分の中に 奇跡を見ることだ

  『昇華』
 軍人が詩を書き
 政治家が宗教を説き
 実業家が哲学を口にし
 権力者が侘びに就いて書いても
 それは空漠とした
 ディレッタンティズム
 詭弁の空しさ

 何事であっても
 それに徹するにふさわしいのは
 その道に殉じる姿勢だ
 のめり込んで二度と浮上しない
 突き進んで飛散する
 燃焼の極みで昇華する
 浮かない泥舟こそ昇華する

  『感情のみそぎ』
 疲れ果てた感情よ
 お前は理性と呼ばれている
 冷え固まって身動きならない感情よ
 お前は理性と呼ばれている
 臆病風に吹かれて言葉(ヴィジョン)を失っている感情よ
 お前は理性と呼ばれている

 今こそ 理性という名の恥多い感情よ
 お前には若返りが必要だ
 公式や法則や通念を踏み外した
 大胆にして果敢な感情のみそぎが
 文明の時間を踏みにじり
 ユークリッドの空間を打ち破る
 原生の猛々しさによる感情の悪魔払いが

  『確かな水晶体』
 意志は理性に閉じ込められ
 氷漬けになっていると
 信念と芸術を騙す

 熱く燃え立っている心だけが
 確かな認識の水晶体だ

  『知識の正体』
 「知識とは存在の変化に従って変わる」
 といったのはウスペンスキー
 知識は
 結局 幻影に過ぎない
 人間の非原生的な
 屈折した精神に映じる妄想である
 妄想も
 それに伝統と権威がまつわりつく時
 知識としてもてはやされる

  『自由への勇気』
 人間の実存を
 果てしなく見てしまった─────

 この限りない 深淵の思念を
 この永劫の 虚無感を
 この侘び果てた 無常感を
 この寂び枯れた 無力感を
 この冷え凍えた 絶望感を
 この死臭漂う 無明感を

 失心の誘いの中で
 自我はとめどなく 嘔吐する

 巨大な幻影でしかない
 この社会で
 私は何一つ具体的には
 束縛されなくなっている
 何一つ声をかけてくるものがない
 何一つ行動がみえない

 私の願いは 唯一つ
 自由への勇気が持続することだ

  『笑える』
 野蛮は不幸なことだ
 だが
 文明と比べるなら
 野蛮のほうがはるかに
 不幸の度合は低い
 野蛮とは老化していない文明のことだ
 文明といい 野蛮といい
 いずれも 自然を忘れた
 不幸な人間存在の図式
 生命を投げ出して
 もっとも危険な処に進む勇気なしに
 人間は笑えない
 生命を賭けることを回避しながら
 無難に遊泳している人間共の
 なんという 自己卑下の心!
 なんという ひ弱さ故の卑屈さ!

 死をくぐり抜け その痛みと苦しさ故に
 何度も 何度も発狂し 錯乱し
 その果てに 自己を放棄し
 天空に 全宇宙のふところに
 身を委ねて 涙した人間だけが
 この地上に在ってなお
 一切を 凌駕し
 静謐な笑いのうちに
 不動の心をもって生きられる
 これは野蛮も 文明も 超越した
 原生の叡智 輝く生き様だ

  『弧城から』
 真に真面目なものは
 この社会で 狂死する
 限りないエクセントリズム
 不安を周囲に与えずにはおかない
 ラデカリズム

 常に生真面目な精神は
 河西回廊の果て
 万里の長城の最果てに連なる
 嘉峪関の孤城だ

 孤城から
 全く新しい原生文明がはじまる
 その先の砂漠の中に
 その先の死滅した城塞の跡に
 その先の花嫁のミイラの胸の中に

  『単細胞的思考』
 理性を信じない以上
 私の思考は
 最早や単なる思考ではない
 それは 原型質の思考
 思考以前の思考
 単細胞的思考だ

 生の感情のゆれ動く中で
 培われるこの思考は
 文明を掬わず 透過し
 文明社会を無とみなし
 すべてのその中の権威と原理を
 虚妄と断定して はばからない

 生命エネルギーの
 原生的躍動の中で
 単細胞的思考は
 自らの拠り処として
 一つの聖なる狂気に立つ

  『美しい余計者』
 自然のリズムと親しく語り合う
 高貴にして聖なる精神の未開人よ
 その故に お前は 変人扱いされ
 エクセントリックな性格だと白眼視され
 孤独をかこつ

 本当に生きようとする
 解放されている自己が
 何処に行ってしまった?
 芸術も 宗教も
 技巧や権威に捉らわれ 堕ち
 人間の素朴な感情中心の
 熱いエネルギーの歌唱は
 何処にもみられなくなっている
 
 ああ
 
 原初の芸術!
 生の宗教!
 それらは何ものにも捉われず
 常に素晴らしく 美しい余計者であった!

  『そこから始まる』
 君は全宇宙を実感出来ない
 君は君自身の内蔵に触れてはいない
 君は大腸菌を顕微鏡なしで見てはいない
 君は糞尿を味わったことがない

 人間は殆んど何一つ知りはしない
 自己を取り巻く宇宙も
 自己自身さえも────

 私は自分のことさえ皆目分からないと
 正直になれ
 充分に知り 体験し尽くしていると
 思っていた社会は幻影にすぎないと
 率直になれ

 そこからを
 人間の確かな生き方が始まる

  『無私者』
 日本的精神風土の
 絶望的な閉塞性や
 世界的文明風土の混沌を
 突き破って確立した
 誇り高い自我も
 それが逞しく宇宙環境因子を
 呼吸する時
 期せずして 無私の次元に立つ
 強烈な自我であって
 はじめて 永劫の無私者となれる

  『出家・出世』
 出家するとは
 そして 出世するとは
 本来 この世間と決別して旅立つ
 神聖な行為なのだ
 それなのに
 一体どうしてしまったのだ
 出家した人間共も
 出世した人間共も
 一様に
 ますます 世間の深みにはまって
 うつつをぬかしている
 ますます 御世話がうまくなり
 人の顔色をうかがうのに機敏となり
 世間の風潮を察知するのに敏捷である

 人間の歴史の中で
 本当に出家したり出世した者は
 極くわずかしかいない
 それが余りにも激しいものであるばっかりに
 歴史の頁は
 いつ迄も 刻銘にそのエピソードを
 記している

  『メルトダウンするダイナミック・ロゴス』
 刺をもった思想が欲しい
 どこの巷にも
 気の利いた言葉を語る人々が一人や二人はいる
 小才豊かな人気取り哲学や
 流行歌なみの思想を振りかざす人々に
 類は類を呼び
 魚心に水心の定石通り
 気の利いた軽々しい通人共が群がる

 一言で天下をゆさぶるような
 岩石の思想は何処にかくれてしまったのか?
 一言で死地回生の奇蹟を促すに足る
 ダイナミックなエネルギーを放射する
 芸術は何処に行ってしまったのか?

 脳髄をゆさぶり
 内蔵をかきまわし
 伝統と通念の鋳型の中におさまって
 固まっている人間の魂に
 火をつけ白熱化させて溶解させ
 四方に花火のように飛散させる
 生命の宣言をする
 メルトダウンするダイナミック・ロゴスが欲しい!
 メルトするとき 生命はゆさぶられる!

  『感動するために』
 私の言葉に感動するためには
 君の心に熱い文明への怒りが
 なければならない

 私の思想に共鳴するためには
 君の心に限りない痛み心が
 なければならない

 私の生き様を理解するためには
 君の心に深い懐疑が
 なければならない

 私の生活感に接するためには
 君の心に鋭い恐怖心が
 なければならない

 私の存在に快い共感を抱くためには
 君の心に原生人間の飢えた胃袋の実感が
 なければならない

  『批判』
 伝統と権威と組織の宗教は
 すべて真理への指向性を欠落させた
 形骸の主義である
 熱い魂の神酔いと仏惚れの要素を忘れた
 狡猾な教理である
 教理と寺院が壮大になっていく時
 魂はますます凍ごえ
 凋落していく

 儀式 礼典 修行は
 魂を脱落させた
 空虚な形骸である

 蝉の脱け殻は鳴くか?
 蛇の脱け殻はとぐろを巻くか?

 心の脱け殻は 天に舞う!

   放蕩息子の更なる告白  (百四十話)佐藤文郎

2019-10-04 16:07:28 | 日記
  心の芯のエゴの問題
 もう大丈夫だから,先生と離れても生きて行けますよ。そういう気持ちで田舎を出発したと致しましょう。もう何十年も前だから確かな事は忘れていますが、町の中央を流れている磐井川の堤防を着流し姿の先生と歩きながら、その事をつまり家を、町を出て行く事を伝えると、奥さん達はどうするの? と鋭い口調で問い返されたのです。はい、置いて行きます。
 どうしようもない男でしたね。普通それで、先生との間も、意味のある人生も終わっている筈です。「放蕩息子」というのは、聖書のルカ伝にある、イエスは喩えを交えて弟子達に聴かせた逸話でした。“放蕩息子の告白”はそんなだいそれたことで、自分をたとえ話の例えに重ねたタイトルではなかったが、私だけは兄弟達に較べ道からそれたり転げたりがはげしかった。しかしその解釈が違っていた。“酒色に溺れたりする道楽息子”のつもりだったが、そんなおめでたくてなま温いものではなかった。心の芯のエゴの問題だったのだ。それはどういうことか。残り少ない日々の中で探っていくしかないが、しわの多い手でタマシイの宝庫のページを一枚一枚繰るのもこれ又愉しいではないか。さあいつでも,何処からでも来い!
 
 人間は宇宙の真心によって 上野霄里  
    二章  神  「心の陶酔する道こそ本当の修行である」
                     23・4・14  うえの
  『神』
 神は不在だ
 神を感じる人間のみがいる
 神が在るのではない
 生きた人間が在る
 その時、人間は問題の「人」になれる

  『原生の知覚』
 日常性の中で深く埋没している
 もはや氷河の底から
 這い上がることが出来ない
 文明の知覚は
 埋没し捉らわれている習慣だ
 天然のリズムは熱い
 その熱い息吹で
 文明氷河は解けていく─────
 非日常と呼ばなくてはならない
 もっとも自然で明晰な原生の知覚こそ
 天然のリズムそのもの

  『把握』
 近世の西欧に芽生えて
 文化精神は
 人間性の自己を
 やすやすと肯定し是認した
 原生人間の心情に育てられた
 創造精神は
 宇宙同位生命性の自我を
 把握し実感した

  『回復すると』────
 眼は力を回復すると
 対象をがっしりと掴み取る

 口は力を盛り返してくると
 黄金の弾丸を発射する

 耳は生気を復活すると
 四次元,五次元の光景を目撃する

  『応えてはこない』
 芸術や思想がその力強さをもってしても
 人間の核心部をゆさぶる
 契機が与えられていない現代
 人間の核心に宿る生命エネルギーは
 ねむりこけていて
 聖なる呼びかけに
 何ら応えてはこないのは
 そのためだ

  『讃歌』
 原始(むかし)人間は全宇宙に抱かれた
 みどり児であった
 すべてが喜ばしく 解放されていた
 すべてが在りの儘でよかった
 あゝ、歪み 傷つき 悩む
 牢獄の中の文明人間は
 この喜びを知らない

  『淋しい祭り』
 日本的心情と心性
 それは粘着さと湿潤さを基調とした
 身内意識────

 そこに恥の感覚と義理の意識の
 モンスーンが通過する

 あとに残るのは
 幾多の 祭りだ
 日本の 淋しくも 個人の失せた祭りだ
 やはり 日本の祭りは 淋しい

  『社会参加』
 宗教も芸術も
 社会参加を口にするようになったら
 おしまいだ
 そこには狂態の聖譚がない
 そこにあるのは翼を失った鷲
 羽根を失った蝶の哀れな死骸────
 社会参加の 一面小ざかしい
 宗教や芸術のエネルギーは
 一様に 俗物の舞踏に
 収斂されていく

  『真面目さをすてる』
 人間は真実に自己に正直に
 自己に忠実になる時
 低俗な 幻想社会の中では
 真面目さを捨てる

 真面目さとは
 自己を 偽わり
 自己を 裏切る
 反人道主義の最たるもの

  『やめよ、ふざけた真似を!』
 君達よ!
 もうその ふざけを やめたまえ
 一人の人間が死を賭けて得た宗教に
 気軽に近づき 軽々しく語る
 そのふざけた真似を────

 一人の人間が生涯かけて血みどろになって得た
 一つの作品に本気になって共鳴することなく
 ふざけ半分で 小ざかしいことを云う
 そのふざけた真似を────

 ふざけた真似を やめよ!

  『欠落』
 人々は言う─────
 「芸術は表現を技倆に転化させるプロセス
 宗教は信念を感化力に転化するダイナミズム」
 だと。
 だが、それはともかく
 お前自身の問題はどこに行ってしまったのか?

  『ディフィニッションⅠ』
 洗練とは退化を意味している
 ソツのなさとは冷酷さに他ならない
 理性とは 愛の欠如の証左
 スローガンとは信念の不足を示している
 イデオロギーとは自己の責任回避の姿勢

  『デフィニッションⅡ』
 知識は 発見する目をつぶす
 技巧は 個性を失くす
 修練は 創造力を弱める
 準備は 真意をはぐらかす
 計画は 直感を鈍くする

 知識にまさるものは 内奥の声
 技巧にまさるものは 熱い心
 修練にまさるものは したたかなヴィジョン
 準備にまさるものは 安息した不動心
 計画にまさるものは 生命賭けの意欲

  『万有波動』
 万物は波動である
 肉も 機械も
 山も 川も
 風も 精神も
 等しく宇宙のリズムに呼応する
 健康な 波動でしかない

  『非妥協』
 サミュエル・バトラーは
 いみじくも 云った
 「私は嘘をつくことは気にならないが
 不正確なことは許せない」と
 正確さ────
 それは即ち 純粋であること
 一切のあいまいさの拒否
 理想と現実の恐ろしいまでの一致
 天才は常にバトラーの心で生きる
 天才とは 妥協しない人間のことだ
 天才は それ故に長く生きられない
 天才に友はすくない
 天才には仲々会えない

  『独学──眞学』
 その核心において
 独学でない学問はすべて
 ペダンティックなものの脆さがあり
 スノビッシュな軽薄さが拭いきれない
 独学でない学問は
 どこかで 学を忘れ
 門をくぐっただけ

 多くの学問をくぐらずして
 独学には行きつかないことも事実だ

  『ダンサーになる』
 科学は一つの迷信だ
 限りない迷宮の中にさまよい
 果てるともない仮説、実験、証明の
 繰り返しの中で
 タンタロスになる
 永遠を一瞬の中で体現するためには
 自己を解放し
 自己を取り巻く一切のものから
 解放することによって
 宇宙のリズムに合わせて踊る
 ダンサーにならなければならない

  『心裏=純粋感情』
 理性は敗北せる感情
 生の感情は無分別の心
 原生心
 野生の視野
 始源の視座
 これを昔の人は「心裏」といった

  『誘惑者』
 宗教も 芸術も 誘惑者である
 それ迄 充足していた生活に
 突然失望して 暴れ出す者をつくる
 日常的習慣や常識を打ち破る
 行動に 誘っていく
 本当の宗教は
 それ故に俗衆の憎悪の対象となった
 真実の芸術は
 それ故に秩序社会の非難の対象となった

  『無指向性』
 客観は常に他者目的的である
 指向性を孕んでいる
 主観は 自己目的的である
 自己目的的は無指向の要素を抱えている
 無指向 の はらわたは
 遊びの心
 冷え枯れている魂
 深く宇宙の真心(リズム)と交わる肉体のこと
 である

  『心のシルク・ロード』
 私の心の中の シルク・ロード
 多くのものが
 長い間 砂の中に埋もれている
 私の時間も 言葉も 失われ
 私の道は 砂嵐の中で 迷宮となる
 あゝ
 私の心の中の 黒水域(カラホト)よ
 大馬札(ダイマサツ)よ
 私は それらに生気を与えるのだ

  『老子は』
 中世は 反文化的精神に支えられた
 宗教を 呼吸していた
 近世は 反宗教的精神に支えられた
 文化を 呼吸していた

 老子は
 反文化と反宗教の精神に支えられた
 原生性を呼吸していた

  『窮極』
 宗教の窮極は
 ひたすら
 一切の人為的なくびきからの解脱
 唯々 ひたすら
 遊びの境地での安心立命

  『二足のわらじ』
 日本人の心情は
 超絶的な宗教性を知らない
 反世俗的な芸術を楽しむ術を知らない
 社会の外の哲学の誇りを知らない

 俗の中で
 それらを生きようとする
 二足のわらじ的習慣が
 決して 解消しない
 
 キリストは 苦い泉から甘い水が出ないと言い
 日本的心情は 清濁併せ呑むとうそぶく
 妥協によって成立つ 日本の心は
 呪われた精神だ

  『総合理解』
 合理性に支えられるものは
 抽象でしかない
 客観性によって捉えられるものは
 全体の部分にすぎない
 科学によるものは
 全現象の一過性に限られている

 直観が 全域を看通す 
 直観が 全課程を把握する
 自我のみが
 全円的人間の総合理解に到達する


  『凍ごえる領域』
 自我の未だ充全的に発達していない
 日本的精神風土は
 西欧的な歴史観に立脚した
 視座から捉えるならば
 前近代的過程をさまよっている

 もし 日本的心情に今後
 決して 自我のめざめがないとすれば
 この風土は 永久に
 近代未到来のままの
 凍ごえる領域なのだ

  『断罪』
 文明の調和と平和という美名に
 本性をかくしている
 文化の粗暴さは
 今
 原生の素朴な精神の光に晒されて
 断罪される

  『禁じるな』
 何ものも 禁じてはいけない
 禁欲の行為も 愚行だ
 どんなに 頑張っても
 人間は 百パーセント解放されることは
 ない

  『不安』
 ありのままの状態が
 それほど不安でたまらないのか?
 それが何であれ
 ありのままの状態である時
 文明人間は
 文明症候群の患者であるなによりの
 証拠に
 一様に怖れ 不安がる

  『惰眠する』
 本来
 宗教も 哲学も 芸術も
 文明の趨勢に対して
 対立する 絶対否定の
 厳しい 反定立であった

 今
 これらの誇りある巨大なムーヴメントは
 その鋭い牙を失い
 厳しい言葉を失い
 腐敗した日常性の中に惰眠する

※ 私が上野霄里先生を紹介するとすべてが誇大に聞こえ信用する気持ちにならぬらしい。もっとふさわしい、社会的にも名と地位そしてなにより、学殖の裏づけのしっかりしている人でないといけないらしい。私もそう思うのだが、むかしから、肝心の上野師は、平気の平左なのである。語彙不足の私にとっては、紹介しやすいのである。どんな形容でも大袈裟すぎる事がないからである。話しを盛っている様に聞こえるかも知れないが、これでも控え目に書いているのだ。その存在感は、既に二十代で、大海にちょこんと頭のさきを出している氷河に例えるのがよいと思っていた。その海底の部分を多少とも知っているので、私はそのように云えるのである。そのかくれている面を隠す様な人ではないが、奥様以外は私も含めその全容を知らない、それが真相だ。普通は周知を希い、知らせたい、取り上げてもらいと思うだろうがその意思が皆無なのだ。というのは、若くして既に栄光を手に入れた御仁であり、それはフロックではなく、権力をかりてのカラクリもない、誰に知られる事もないが、宇宙の尊者であることは歴たるものだし、総てが自身の確たる自覚があってのことだ。