独りぐらしだが、誰もが最後は、ひとり

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放蕩息子の更なる告白  (百三十五話)  佐藤文郎

2019-08-08 17:18:36 | 日記
  この胸苦しさを、科学は

 盛夏にふさわしい話をと思いますが、さてどうでしょうか。涼風が何処からともなく吹いて来て、背筋がゾクっとしていただく、そうなればと思います。“思います”という日本語を嫌いな方がおられます。元NHKアナウンサーの方で世界情勢や国際問題をお話させたら、先ずこの先生が一番でしょう。この先生がご自分で仰っているのを私はTVで観たのでした。どうして嫌いかを最近になって分かって来たのですが、それは、お話の性格上客観性を重視するからでしょう。“私は思う”は主観ですからね。番組が成立しなくなりますからね。ごもっともです。
 反対に、黒板に大書した“思う”という日本語がいかに素晴らしいかを、玉川大学の夏期スクーリングでの「宗教哲学」の講座で、当時の小原国芳学長が一時間に亘ってのお話を聴講したことがあります。なんとも、天衣無縫といった感じのする貴重な授業でした。
 同じ頃、昭和四十一年の事です。岩手県にある僻地三級の分校で助教諭をしていた時のことです。又話が横道にそれますが、教師を辞めて職を転々とかえたわけですが、ある所で私は履歴書に、“代用教員”と書いて面接官に注意を受けました。信憑性さえ疑われる所でした。代用教員の方が私にとっては実感のもてる呼称だったのです。その分校での出来事です。私は深夜に、エも言われぬ胸苦しさに目覚めました。気が付くと、開け放たれた窓辺に妻が居て、「お祖父さんの夢をみた…」と言って、ぼんやりと、真っ暗な外を見ているのでした。そうしているところに、電話が鳴ったのです。電話は教員住宅には無く、職員室にあるのでした。
 妻は、息急き切ってもどってきて、祖父の急死を告げたのです。私達の結婚に最後まで反対していた祖父の死も然る事ながら、今さっき目の前に起きた不可思議さを思い、しばらく呆然と立ち尽くしていました。
 先祖の墓参りは、この二十年で一度だけ行きました。その時やはり不可思議な事がありました。墓地に近づくと鼻水が出始め、それが止まらなくなったのです。手持ちのテッシュを使い果たし、兄弟達からももらい、それでも足りず付近に自生しているふきの葉や、笹の葉でぬぐったりしました。それが墓地から離れるまでつづいたのです。離れると、ぴたりと出なくなりました。他の兄弟姉妹達は何事も起こらないということは、今日の私が置かれている情況を物語っていると考えていいでしょう。
 ところで、冗談ではありませんよ。今,これを書いている時、急に鼻水が出て来たでは有りませんか! 風邪も引いていないし、お盆が近いので、お迎えにきたのでしょうか。今、三度目擤みおえました。
 トマス・ウルフという米の作家に「汝再び故郷に帰れず」そして、「天使よ、故郷を見よ」という作品があったことを思い出した。このタイトルが好きなだけであるが。こんなことを思い出させたのも鼻水と関係があるのだろうか。
 まともに幽霊というものに出遭った事がある。実際にあった話である。一度話をした事のある実話である。
 呉服の商売で、浜松の出張所に、販売の応援に行ったときの事である。その日は、かなり売上げの成果があったので、所長も「面白い場所がありますよ、行きませんか」と上機嫌だった。私は疲れたからと断ると、「では、いいフィルムがあるので、今夜出直して来ます」というのだ。私は「風呂に入って、早く横になりたいから」と言ってそれもことわると残念そうに帰って行った。
 私が風呂から出て二階に行き豆電球にして、枕に頭を着けた直後に、階下の店舗のシャッターがギィー、と開き始めた。「なんだよォ、」と不満を口にした。階段をトントントンと昇る足音と同時に、シャッターは開けっ放しなのか、風がピューと吹き上げて来ていた。「なんだよォ、あれ程言っておいたのに……」と、半身を起こして大声で言おうとしたが声にならないのだ。起こしたつもりの体も、金縛りにあったように動かなかった。目だけ大きく見開き昇って来ている者を見ていた。ふわりっと現れたものは、茶色の男物の羽織を着ていた。羽織の紐の垂れた胸元しか見えなかった。顔も、下半身も見えなかったが、気配だけは感じられた。その気配が、すうーっと部屋に入り込んだのは判った。その時の恐ろしさといったらなかった。私は、亀の子の様に首をちぢめて、布団の中でじっとしていた。そのまま朝を迎えていた。所長も出勤して来た。「佐藤さんが、すぐ御休みになるとおっしゃるから、わたしも一杯引っ掛けて寝ちゃいましたよ」と言った。
 私は部屋の隅々まで何か痕跡はないかと調べた。近所の商店が開くのを待って、どういう人があの二階に住んでいたのかを聞いてまわった。ヤクザ者がかなり前に居たことがあったという。しかしそれがどう拘わりがあるのかは全く解らなかった


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