父の好きだった花を、私は知らない……
父はどんな花を好きだったのか聞いてみたい気がする。
母に訊ねても母も知らないという。今は亡き父にそれを訊く術もない。ただ父は絵を描くことが大変好きで、良く山水の水墨画を描いていたという。絵を描く人なら、まして山水画を描く人なら、先ず花に関心のない人はいないと私には思えてならないのです。
山水画の妙味は何と言っても繊細な感覚と力強い筆さばきで、山川草木の大自然の美しさを無色で、無限の生命の豊かさを表現する所にあるのだと思われ、絵筆を持つ人なら野の花の可憐なあの神秘な美しさを心ゆくまで描いてみたいと思わないひとは無いと思うのです。
特別に好きな花が無かったにしても、或は父が全(あら)ゆる花に、自然そのものに深い親しみを持ち、自然の成長に対し限りない愛情を注いでいた……
自然と一体になって生きた人に思えるのです。何故なら父は、母と共に育てる野菜や稲作の成長に対し、無類の愛情を注ぎトマトやスイカなどが大きくなっていくのをニコニコして頭をなでながら微笑みかけ語りかける様にして世話をし、収穫をすればその自然の恵みにたいする感謝と喜びの父の姿は見ていて微笑ましい程であったという。
トマト・ナス・キウリ・大根・ジャガイモ・サヤエンドウ・カボチャ・スイカ等々の次々に咲く可憐な花にやさしく手入れをし、温かく見守りながら育てていた父の姿が目に見える様です。
働き者で穏やかな人柄の父であった。そういう父と、心から満足し喜んで農作業に従事し、怒鳴られたおぼえもなければ打たれたことも勿論一度もなかったと、母は短かった父との生活を語ってくれた事がある。わずか七年間の生活であったが、母は本当に美しい思い出を胸に秘めて今も父と共に生き続けている幸せな人だと思えてくるのです。
長く苦楽を共に生きる幸せもあり、短く美しい結婚生活の思い出に生きられる幸せもある事に母を通して知ることが出来、女の生き方の根底にあるものが何であるかを教えられるのでした。
私が五歳の時、父は二十歳の若さで世を去った。父の死は戦病死ということであった。戦病死とは、戦争(戦地)で病気に罹り、それが原因で死亡したと聞かされている。父の場合、戦地での負傷ではなく、病に倒れたということでした。それは言い換えれば無残な戦争の犠牲になったのだと云えると思います。
第二次世界大戦の狭間に勃興した、日本と、アメリカを中心とした国連軍との太平洋戦争(昭和十六年十二月八日〜昭和二十年八月十五日)のあおりをもろに受けたのは、その時代に青春期を送っていた若者の男子として生を受けた者の宿命的犠牲であり、その犠牲の内実は、誉れというものを強制されたりした最も野蛮な時代であった。
限りなき物質的欲望と勝利欲の為に尊い人命を軽んじ幾多の悲劇を生んだ戦争の傷跡は戦後四十年を経た今日でも世界の隅々に残存している。
人間らしい温かい愛情が魂の根底にあり、人命の尊重と世界人類の相互の助け合いと平和精神が基本にあるなら二度と戦争の悲劇はおきないはずである。今なお核を持ってしか守る事の出来ない人間の魂の貧困さを文化人としての最大の恥と思うのである。
昭和十六年十二月父は甲種合格で支那の中支に配属されその任に就いた。出征する一年半程前に、飼馬に胸を蹴られそれが原因で入院し肋骨を四本もとった。そんな身にむち打って周囲への遠慮もあって無理をしながら農作業に従事している間に次第に肺を冒されていたかもしれない。その矢先の招集であり、お国の為になれないのは男子一生の恥として、身体の不調を覚悟での志願であったというのである。生きて還る事等思ってもみない出征であったに違いない。
その父の心身の傷の痛みを思う時、戦地での悪戦苦闘の日々がどんなものであったか察するに余あるのである。鉄砲の弾をのがれて走る苦しみよりも胸の痛みをこらえて部隊の人々に迷惑をかけまいとして行動を共にする苦しみの方がどんなに大きかったかと推察されるのである。その父が十ヶ月余の末、廃人同様で日本国内に送還され、仙台にある国立陸軍病院に入院し、ベットの上で看護をうけわずか九日間でその短い命を終えた。
もし、骨すらも帰れない無惨な死に様であったらとおもうとき、激戦下にあった当時として不幸中の幸いと感謝し、お国のために雄々しく若き命を捧げた父の死を心から讃えたいと思うのである。
昭和十七年十月に二十一日、父二十七歳の往生であった。
父が入院した翌日、叔父と母、私と妹(母の背)の四人でお見舞いに行った。当時五歳の私の脳裏にこの情景が不思議な程鮮明に焼き付いて今もはっきりといるのである。私がこの世で生きた父を意識の中に記憶できたのはこの時の情景だけであり、それ以外の父の姿を思い出す事は何一つ私にはない。その日、父を見舞うべく乗った汽車の中で、生まれて初めてアイスクリームを食べたのも忘れられない。
車内は、何か潤いのないざわめいた様子であった事を子供なりに感じた、その時の叔父や母の心情はどんなであったかなど幼い私には知る由もない。その日の空は青く澄んだ秋空であったことは憶えている。
陸軍病院の入口から病舎まで子供の感覚でかなり距離があった。母に手を引かれその病舎まで、真っ青な空に五、六機の飛行機が悠々と飛んでいるのを見ながら歩いた。広い庭はボウボウの芝草であった。
病室を見舞った時の父の姿が今も鮮明に映像の一コマの様に思い出される。
その時の父の姿は私にとって生きた父を生まれて初めてはっきりと記憶に止める事の出来た最初で最後の思い出である。それ以外の父との直接の思い出を私は持つことが出来なかった。まして母の背中にいた妹は知るよしもなかった。
父に幾度も抱かれて成長している筈なのに、その父の膝の温もりも私は全く覚えがなかった。
久しぶりに会う私に、父はベットの中から、ふとんをそっと上げては「ここへおいで」と何度も手招きした。私は初めて会うような父への恥ずかしさ(或はその時私は思い出していたかもしれない)に、母にぴったり寄り添って父の望みに応えることができなかった。母もきっとしばらくぶりに対面する父に「ご苦労様でした、大変だったことでしょう」と涙ぐむだけで父の手をとってあげることも出来なかったのではないかと思えるのです。
父はリンゴをおろし金ですったのを食べていたらしく、それを食べないかと私に二三度声をかけてくれた。それしか我が子の為にして上げる事の出来ない胸中をさとるには私はあまりに幼かったのである。
「ほら、お父さんだよ、そばに行きなさい」
母が私をうながすのだが、とうとう私は傍に行けなかった。この時父は、或はもうこの世で母や私たちと会う事も最後かも知れないことを分かっていたであろうか。今生の別れに、どんなにか我が子の手をしっかりとにぎりしめておきたかったか知れないのに、……そばに寄って「お父さん」と甘えるには、一年半という歳月は、五歳の幼子にとって距離が、そして時間が空き過ぎたのであった。その時の母は痛々しい父の若き命をどうか今一度元気になって共に楽しく働ける日々をお許し頂ける様に願ったことであったろう。
その夜、 仙台の旅館(たまづくり旅館)に一泊し翌日も父を見舞って四人は本吉に帰った。
入院して九日目に一人淋しくベットの上で帰らぬ人となった。
國であずかっている父の身柄は火葬され、市役所の職員から叔父(であろうとおもわれる)の手に引渡され、その父を母は新田まで迎えに行ったとの事であった。そばについて看護してあげることも、最後を看取ってやることも出来なかった母である。
父に通夜には親戚や近隣の人達が集まって白い着物を縫ったり、祭壇を飾ったりした。祭壇の花瓶に差された造花を見ている私に縫い物をしていた親戚の叔母さんが「その青い実がお父さんだよ、お父さんって呼んでごらん」と言った。「お父さん、お父さん」と私は呼んだ。あのお父さんが死んだのだ、あの時そばに行って「お父さん」と呼んであげたらよかった……。子供なりにきっとそう思って一生懸命呼んだに違いない。「可哀そうに」背後で叔母さん達が涙をふいていた。
父のお葬式の日、大勢の人達が父の死を惜しみ焼香に来て下さった。父を本吉の町に程近いお寺(浄勝寺)におくる道中を白いお骨を胸に悲しみを涙で精一杯こらえて歩く母の黒い喪服姿が、子供心に痛々しく可哀想に思えてならなかった。
二十五歳の若さで独り身となった母の思いは、どんなだったであろうか。
私は金紗の着物にワラジをはき、家からお寺までの往き帰りを泣き通して歩いた。唯々悲しく涙が止め処なく流れた。生家の辺りを流れる小川の清らかさが何故か心にしみた。
父の思い出の貴重な一コマとして私の心にいつまでも生きている、それは五歳の私の魂に鮮明に刻まれた感動なのである。
農作業に励むかたわら絵を描き、襖に山水画を試み、自然と共に生きた父の人生は短い母との結婚生活を思い出に残して雄々しく美しく終わった。
母は清らかな父との愛に支えられ、力強く明るく着実な人生を歩んで来た。二人の娘達の成長をしっかりと見守り父の無い淋しさを感じさせない温かい家庭を築いてきた。それは背後に父の温かい見守りがあったからであり、ひたすら父を愛し続けて生きた清らかな一人の女の生き様である。
写真で見る若き日の父(軍服姿)は面長な顔立ちに切れ長の一重瞼、濃い眉のなかなかの好青年で見るからに誠実で温厚な人柄がしのばれ、やさしさが伝わってくるようである。
父の好きだった花を私はしらない……。その父を花に例えるなら私は白梅を父に捧げたいと思う。若い青春の命を高潔に捧げて散った父に白梅を贈りたい。
父に白梅を、母に紅梅を贈り短かった二人の愛の思い出をつつむ様に永遠に豊かな香りをただよわせてほしいと思うものである。
父はどんな花を好きだったのか聞いてみたい気がする。
母に訊ねても母も知らないという。今は亡き父にそれを訊く術もない。ただ父は絵を描くことが大変好きで、良く山水の水墨画を描いていたという。絵を描く人なら、まして山水画を描く人なら、先ず花に関心のない人はいないと私には思えてならないのです。
山水画の妙味は何と言っても繊細な感覚と力強い筆さばきで、山川草木の大自然の美しさを無色で、無限の生命の豊かさを表現する所にあるのだと思われ、絵筆を持つ人なら野の花の可憐なあの神秘な美しさを心ゆくまで描いてみたいと思わないひとは無いと思うのです。
特別に好きな花が無かったにしても、或は父が全(あら)ゆる花に、自然そのものに深い親しみを持ち、自然の成長に対し限りない愛情を注いでいた……
自然と一体になって生きた人に思えるのです。何故なら父は、母と共に育てる野菜や稲作の成長に対し、無類の愛情を注ぎトマトやスイカなどが大きくなっていくのをニコニコして頭をなでながら微笑みかけ語りかける様にして世話をし、収穫をすればその自然の恵みにたいする感謝と喜びの父の姿は見ていて微笑ましい程であったという。
トマト・ナス・キウリ・大根・ジャガイモ・サヤエンドウ・カボチャ・スイカ等々の次々に咲く可憐な花にやさしく手入れをし、温かく見守りながら育てていた父の姿が目に見える様です。
働き者で穏やかな人柄の父であった。そういう父と、心から満足し喜んで農作業に従事し、怒鳴られたおぼえもなければ打たれたことも勿論一度もなかったと、母は短かった父との生活を語ってくれた事がある。わずか七年間の生活であったが、母は本当に美しい思い出を胸に秘めて今も父と共に生き続けている幸せな人だと思えてくるのです。
長く苦楽を共に生きる幸せもあり、短く美しい結婚生活の思い出に生きられる幸せもある事に母を通して知ることが出来、女の生き方の根底にあるものが何であるかを教えられるのでした。
私が五歳の時、父は二十歳の若さで世を去った。父の死は戦病死ということであった。戦病死とは、戦争(戦地)で病気に罹り、それが原因で死亡したと聞かされている。父の場合、戦地での負傷ではなく、病に倒れたということでした。それは言い換えれば無残な戦争の犠牲になったのだと云えると思います。
第二次世界大戦の狭間に勃興した、日本と、アメリカを中心とした国連軍との太平洋戦争(昭和十六年十二月八日〜昭和二十年八月十五日)のあおりをもろに受けたのは、その時代に青春期を送っていた若者の男子として生を受けた者の宿命的犠牲であり、その犠牲の内実は、誉れというものを強制されたりした最も野蛮な時代であった。
限りなき物質的欲望と勝利欲の為に尊い人命を軽んじ幾多の悲劇を生んだ戦争の傷跡は戦後四十年を経た今日でも世界の隅々に残存している。
人間らしい温かい愛情が魂の根底にあり、人命の尊重と世界人類の相互の助け合いと平和精神が基本にあるなら二度と戦争の悲劇はおきないはずである。今なお核を持ってしか守る事の出来ない人間の魂の貧困さを文化人としての最大の恥と思うのである。
昭和十六年十二月父は甲種合格で支那の中支に配属されその任に就いた。出征する一年半程前に、飼馬に胸を蹴られそれが原因で入院し肋骨を四本もとった。そんな身にむち打って周囲への遠慮もあって無理をしながら農作業に従事している間に次第に肺を冒されていたかもしれない。その矢先の招集であり、お国の為になれないのは男子一生の恥として、身体の不調を覚悟での志願であったというのである。生きて還る事等思ってもみない出征であったに違いない。
その父の心身の傷の痛みを思う時、戦地での悪戦苦闘の日々がどんなものであったか察するに余あるのである。鉄砲の弾をのがれて走る苦しみよりも胸の痛みをこらえて部隊の人々に迷惑をかけまいとして行動を共にする苦しみの方がどんなに大きかったかと推察されるのである。その父が十ヶ月余の末、廃人同様で日本国内に送還され、仙台にある国立陸軍病院に入院し、ベットの上で看護をうけわずか九日間でその短い命を終えた。
もし、骨すらも帰れない無惨な死に様であったらとおもうとき、激戦下にあった当時として不幸中の幸いと感謝し、お国のために雄々しく若き命を捧げた父の死を心から讃えたいと思うのである。
昭和十七年十月に二十一日、父二十七歳の往生であった。
父が入院した翌日、叔父と母、私と妹(母の背)の四人でお見舞いに行った。当時五歳の私の脳裏にこの情景が不思議な程鮮明に焼き付いて今もはっきりといるのである。私がこの世で生きた父を意識の中に記憶できたのはこの時の情景だけであり、それ以外の父の姿を思い出す事は何一つ私にはない。その日、父を見舞うべく乗った汽車の中で、生まれて初めてアイスクリームを食べたのも忘れられない。
車内は、何か潤いのないざわめいた様子であった事を子供なりに感じた、その時の叔父や母の心情はどんなであったかなど幼い私には知る由もない。その日の空は青く澄んだ秋空であったことは憶えている。
陸軍病院の入口から病舎まで子供の感覚でかなり距離があった。母に手を引かれその病舎まで、真っ青な空に五、六機の飛行機が悠々と飛んでいるのを見ながら歩いた。広い庭はボウボウの芝草であった。
病室を見舞った時の父の姿が今も鮮明に映像の一コマの様に思い出される。
その時の父の姿は私にとって生きた父を生まれて初めてはっきりと記憶に止める事の出来た最初で最後の思い出である。それ以外の父との直接の思い出を私は持つことが出来なかった。まして母の背中にいた妹は知るよしもなかった。
父に幾度も抱かれて成長している筈なのに、その父の膝の温もりも私は全く覚えがなかった。
久しぶりに会う私に、父はベットの中から、ふとんをそっと上げては「ここへおいで」と何度も手招きした。私は初めて会うような父への恥ずかしさ(或はその時私は思い出していたかもしれない)に、母にぴったり寄り添って父の望みに応えることができなかった。母もきっとしばらくぶりに対面する父に「ご苦労様でした、大変だったことでしょう」と涙ぐむだけで父の手をとってあげることも出来なかったのではないかと思えるのです。
父はリンゴをおろし金ですったのを食べていたらしく、それを食べないかと私に二三度声をかけてくれた。それしか我が子の為にして上げる事の出来ない胸中をさとるには私はあまりに幼かったのである。
「ほら、お父さんだよ、そばに行きなさい」
母が私をうながすのだが、とうとう私は傍に行けなかった。この時父は、或はもうこの世で母や私たちと会う事も最後かも知れないことを分かっていたであろうか。今生の別れに、どんなにか我が子の手をしっかりとにぎりしめておきたかったか知れないのに、……そばに寄って「お父さん」と甘えるには、一年半という歳月は、五歳の幼子にとって距離が、そして時間が空き過ぎたのであった。その時の母は痛々しい父の若き命をどうか今一度元気になって共に楽しく働ける日々をお許し頂ける様に願ったことであったろう。
その夜、 仙台の旅館(たまづくり旅館)に一泊し翌日も父を見舞って四人は本吉に帰った。
入院して九日目に一人淋しくベットの上で帰らぬ人となった。
國であずかっている父の身柄は火葬され、市役所の職員から叔父(であろうとおもわれる)の手に引渡され、その父を母は新田まで迎えに行ったとの事であった。そばについて看護してあげることも、最後を看取ってやることも出来なかった母である。
父に通夜には親戚や近隣の人達が集まって白い着物を縫ったり、祭壇を飾ったりした。祭壇の花瓶に差された造花を見ている私に縫い物をしていた親戚の叔母さんが「その青い実がお父さんだよ、お父さんって呼んでごらん」と言った。「お父さん、お父さん」と私は呼んだ。あのお父さんが死んだのだ、あの時そばに行って「お父さん」と呼んであげたらよかった……。子供なりにきっとそう思って一生懸命呼んだに違いない。「可哀そうに」背後で叔母さん達が涙をふいていた。
父のお葬式の日、大勢の人達が父の死を惜しみ焼香に来て下さった。父を本吉の町に程近いお寺(浄勝寺)におくる道中を白いお骨を胸に悲しみを涙で精一杯こらえて歩く母の黒い喪服姿が、子供心に痛々しく可哀想に思えてならなかった。
二十五歳の若さで独り身となった母の思いは、どんなだったであろうか。
私は金紗の着物にワラジをはき、家からお寺までの往き帰りを泣き通して歩いた。唯々悲しく涙が止め処なく流れた。生家の辺りを流れる小川の清らかさが何故か心にしみた。
父の思い出の貴重な一コマとして私の心にいつまでも生きている、それは五歳の私の魂に鮮明に刻まれた感動なのである。
農作業に励むかたわら絵を描き、襖に山水画を試み、自然と共に生きた父の人生は短い母との結婚生活を思い出に残して雄々しく美しく終わった。
母は清らかな父との愛に支えられ、力強く明るく着実な人生を歩んで来た。二人の娘達の成長をしっかりと見守り父の無い淋しさを感じさせない温かい家庭を築いてきた。それは背後に父の温かい見守りがあったからであり、ひたすら父を愛し続けて生きた清らかな一人の女の生き様である。
写真で見る若き日の父(軍服姿)は面長な顔立ちに切れ長の一重瞼、濃い眉のなかなかの好青年で見るからに誠実で温厚な人柄がしのばれ、やさしさが伝わってくるようである。
父の好きだった花を私はしらない……。その父を花に例えるなら私は白梅を父に捧げたいと思う。若い青春の命を高潔に捧げて散った父に白梅を贈りたい。
父に白梅を、母に紅梅を贈り短かった二人の愛の思い出をつつむ様に永遠に豊かな香りをただよわせてほしいと思うものである。
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