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放蕩息子の更なる告白 (百四十三話)  佐藤文郎

2019-10-25 00:02:39 | 日記
『梁山泊』いう、上野霄里先生を囲んでの懇親会が名古屋であり、私も八年ぶりに先生にお会いして来ました。ソクラテスが、又は「荘子の著者(荘周)」が、「町内会」の会合に出席したような様子と表現したら、さぞ皆さんに叱られるでしょうが、しかしどうみても、私にはそうとしか、思えないのでした。地上二メートルの世界を拒否して飛び出た先生が柔和なお顔でお話をされているのでした。私を含めた皆さんは町内会感覚の世界でしか生きてはいません。町内会の規約や、規則や習慣をまもって生活しているのです。それに対して「上野霄里」は超法規の世界に生きているのでした。私は、今とんでもないことを言っている様です。やっぱり頭がおかしいか、そんなヤジが飛んできそうです。
 いや皆さんこそ、冷静に考えればわかることです。『単細胞的思考』という上野霄里著の表紙カバーの帯に〖知性圏を戦慄させた『禁書』。著者は聖隠者か、極悪人か!〗とあります。これは、虚仮威しですか? そんなはずはありませんよね。もしそうであるなら、こんな茶番はめったにあるものではありません。
 上野霄里は、表面はどうであろうと「超法規」の人間なのです。そう再認識して帰って来ました。『単細胞的思考』はその証なのです。その時々の常識を誰よりも識っている人間です。目を瞑ってでもそれを生きられる人間です。私なら、そうはいきません。ほどほどの常識であり、目を大きく見開いていて気をつけていても、常識破りの常習犯になっています。私だけではないのではないでしょうか。否、ここでは上野霄里のことです。あの『単細胞的思考』を読めばそうなります。私が観つづけた上野霄里はそうでした。どんな規約も、規則も、法律も破れる人です。超えているということは、見上げているのではなく、見下ろしているのです。車の運転の名手が、いかに運転規則、法規に正確で忠実かということです。しかし、いったん事故や思いがけない災難に出くわした時、他の人、規則通りの運転者は決して避け得ぬところを、なんなく脱出できるのはスキルだけではなく、総てを超えた自由なカミ感性の持ち主だからです。私はそう思うのです。
 あの本を読んで、影響を受けて上野霄里の真似をしようとした人が何人もいたと思うし居ても不思議はありません。だから、恐ろしい本ではあるのです。しかし命がけで学ぼうとする者には本物の導きに出会える筈です。いまだ、答えの出ていない未知の著作であり、著者。評する人が未だ誰も出ていないというのは、作品がドウカではないと思います。知性圏で、かつてお目にかかった事のない哲学であり人間だからだと思うのです。
 もうお会いする事はないかもしれない。挨拶の順番が私に廻って来て、私は感涙していた。「何時も、上野先生が泣くのに、今回は泣かないと思っていたら、ブンロウが泣いたネ。」とだれかが笑った。

1 コメント

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梁山泊 (大平泰男)
2019-11-08 14:25:34
いまだ、答えの出ていない未知の著作であり、著者。町内会でのソクラテス。言い得て妙ですね! 深く温かい文章をありがとうございます。

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