独りぐらしだが、誰もが最後は、ひとり

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 放蕩息子の更なる告白 (百三十九話)  佐藤文郎

2019-09-30 18:15:05 | 日記
  再び,タマシイの宝庫ですぞ
“正直な人”とは難しい定義だが、自分のこころの醜さに悩みおののき、苦しむ人のこと。それいがいの人は、正直ものでもないしうそつきでもない。嘘をついて迷惑をかければ、法で裁かれるだけである。法で裁かれたからといって、みなが皆こころまで変わる訳ではない。なぜなら、変わるためには、当人が自分のこころの醜さに気づき、そしておののき、苦しむ事だからである。犯罪をおかしても裁かれる人裁かれない人、露見しなければ、とうぜん裁かれることもない。
 私が言いたいのは発覚しようがしまいが罪におののく人のことである。軽犯罪位では、道を歩いていて、小石に躓き転んだくらいにしか思っていなければ罪におののくこともない。車の運転にたとえると、運転技術に習熟している人とは、難事に当たり違法を侵してでも一瞬にブラインドで、それを避けることのできる人の事である。人生上の違法もケイケンソクで、そのリスクを背負ったときの煩わしさや屈辱を思えばどんなにばからしいかを人間はDNAの中にもっている。危険を一瞬で感知し、違法と知りつつ難を回避するのは本能であり、通力としか呼べない或る種の腕力のようなものである。路上を走行していて、スピードを出したり落としたり、違法すれすれに走っても、違反者として絶対に捕まりはしない。胸に手を当てれば思い当たり、反省したり心の中で詫びたりして生きて行く。何か重大事故にぶちあたるまでは、それで済んでいる。いや、何にも遭遇せず人生を終える人さえいる。
 毎日、自分の心の醜さに苦しむ人はこういう人達とはあきらかに違う。親鸞さんや良寛さんや、もっといらっしゃるはずである。
 私の知っている人で、分かりやすい人といえば、このお二人であるから、失礼にもこのお二人を引き合いに出すのである。人生の最初からさいごまで、何処を切ってもそうであるし、晩年になるほどその認識が強まったと私は見ているのです。親鸞さんの後年の京都時代の和讃を読んでそう思います。己の心の醜さに怖気を振るう様子が書かれている。
 良寛さんは、誰にも言っていないし、書いてもいないが、生き抜いた美しさの陰に、どんなに自分のこころの醜さに嫌気がさしていたか、人が見れば周りの人に比べても質素な佇まいで気品さえ漂わせていたであろう。手鞠で遊ぶ子等の眸のなかに仏の眼差しがかさなり、いっそう自分の姿の醜悪さが露になる、そんな毎日だったにちがいない。現代では,私の師と呼ばせて頂いている上野霄里先生の箴言の中から紹介させて頂く。恐ろしいほどの感動的な祈りの言葉である。【〘嘆き〙私は戦争を悔いてはいない/戦争故の悲惨さを決して嘆きはしない/それらを生み出す/己の中の文明の精神を/恐れ 恥 怒り 憎む!】 
 ところで、前回、私は『タマシイの宝庫』という言葉を発している。どこが宝庫なのか? と思われたであろう。以下に、その宝庫の一端を掲げる事にします。
   
   【人間は、宇宙の真心によって】1980年  上野霄里  編纂(名久井良明)
    一章 断言  己という孤独を見つめる時だけ人生が理解出来る!! 23・3・8  うえの
      ○人間は宇宙の真心によって
       賢者にならなければならない
       万有に潜む同位生命エネルギーによって
       創造的生活者にならなければならない
       隠微な宇宙リズムの拓きに呼応して
       己の道すじを決定する者でなければならい
  
  『狂態』
 社会の中でのまともな暮らしに
 欠かすことのできない
 ソツのない心くばりを
 プラトンは捨てよと言う

 文明の暮らしの中で
 必要な知恵を
 キリストは捨てよと言う
 
 真実に生きるということは
 命綱を持たぬアクロバット
 圧倒的な衝迫力をもって展開する
 聖なる狂態

  『凋落』
 仏教もキリスト教も
 最早や
 一つの対人間作用ではない
 宗教の伝統と権威に
 抗し得る力の体得を充分に自覚した虚無だけが
 文明人間の精神に
 生じはじめている

 神は寺院や教会から
 人間の内側に
 引きずり込まれてしまった
 あとに残された
 倫理も宗教的敬虔さえも
 すべて処刑されて あとかたもない
  

  『叡知に近い』
 本当の学問は
 自分自身の失敗を経て得る
 独学の類いだ
 中国の賢者が
 「失敗せず、師から教えられ
  他人の失敗を手本として
  学ぶ人間は賢い」
 というが
 こうして出来上がる賢人は
 その本質がひ弱だ
 自分の身に負った傷の痛みで
 賢くなった人間に備わっている
 逞しさ 心のやさしさ あつさは
 限り無く叡知に近い

  『EK—sistenz』
 自我にめざめている人間は
 実存(Existenz)する
 めざめている─それだけでは
 封塞された自我だ

 ハイデッカーの言うように
 解放されている自我は
 実存を突き破って
 その彼方に
 超脱存(EK─sistenz)する


  『一気の飛翔だ!』
 地上二メートルの現実が
 制限し 幽閉している
 この魂に
 私は 脱獄の機会と
 そのための綿密な計画案を与えよう
 単なる 憧れではない
 単なる 理想論ではない
 単なる 夢物語ではない
 これは 一つの確かな実践
 一つの明確な脱獄の意志 
 高い世界 広い世界への
 一気の飛翔だ!

  『1980年6月9日の心』
 知るとは 出会うことである
 理解するとは傍観にすぎない

 見るとは 対象と合体すること
 眺めるとは 対岸からの見物

 私は88年の祝福の時間としての
 ヘンリー・ミラーを知った
 ヘンリー・ミラーを見た

  『自覚』
 世の中が絶望的なのではない
 世の中が愚かなのでもない
 世の中が暗いのでもない
 ────────────
 ────────────
 ────────────
 自分自身の心が絶望的なのだと知れ!
 自分自身の脳味噌が愚かなのだ!
 自分自身の心が暗いのだ!

 人生は誰にとっても
 自覚からしか始まらない

  『反省』
 整った思想
 洗練された文体
 俗心を説得するポーズ──
 これらは真心にとって
 侮辱以外のものではない
 
  『円環』
 哲学的に明快な内容は
 芸術にとって死を意味する

 芸術的に美しい内容は
 宗教にとって死を意味する

 宗教的に俗受けする内容は
 哲学にとって死を意味する

  『技巧』
 技巧は
 あらゆる真心を失墜させるのに
 大いに力を貸している
 技巧を身につけるのに
 努力や苦労がなければ
 それも多少は無邪気なものでいられたのだが

  『金銭と権力』
 青春は無謀で残酷だという
 だが 青春には
 生命が燃えていて
 人生の重さを全く感じさせないのだ

 商業主義と政治といわゆる良識は
 青春をつぶしてしまう
 本当に無謀で残酷なのは
 金銭と権力だ

  『内と外からの囁き』
 じっと座っている
 いつ迄も 座っている
 そこには自分以外 しか
 人間が存在しないかの如く
 じっと 座っている
 その時 ───────
 少しずつ
 内と外からの囁きが
 きこえてくる

  『Pathography』
 文明の経験は
 失原生人間の 病跡歴(パソグラフィー)
 哲学も宗教も芸術もスポーツも
 華麗にして 副う是凄絶な膿だ

  『自発的』
 捉らわれている文明人間よ
 強制されて苦しむ文化生活は
 何らの実りも もたらさない
 唯 自発的な苦しみだけが
 人間を 崇高にする
 唯 自発的な悩みだけが
 人間を 深奥にする
 唯 自発的に受ける痛みだけが
 人間を 強くする

  『不安』
 蒼空が屋根だと実感出来る迄
 人間の心から
 不安は消え去ることがない


  『説得力』
 説得力の籠められている思想は
 疑いなく創造的である
 独創性を帯び
 独学したものに固有な
 新鮮なひらめきと鋭さに裏打ちされている

  『知らなくてはならない』
 失敗や落胆を恐れて
 ソツなく生きている人間がいる
 だが彼は知らなくてはならない
 ひたむきな熱い心を抱いて
 絶望と不可能の海に船出する
 無謀な人間より
 彼がいささかでも安全だという保証は
 どこにもないということを ────
  
  『断言』
 文明の時代よ
 お前は結局失望するだろう
 どんなに人間を従わせようとしても
 あの鋭く敏感な人間の心と肉体は
 己の感情にしか従わないのだから

 文明の思うように
 人は完全な
 ロボットにはならないのだから

  『裸の猿』
 猿は毛むくじゃら
 人間は文明の雑多な属性をまとっている
 原生人間のみが
 誇りある裸の猿のままだ

 裸の猿のままの
 自身に気付く時
 人は素朴になれ 単純になれる

  『自由へ』
 一切の人為的なものの否定は
 人間の小知恵に捉らわれ
 幽閉されている人間の
 ひたむきな自由への憧憬にかられる
 その時 生きる力が生じる
 自由は はじめからあるのに

  『濃霧』
 文明は濃霧にちがいない
 個人を韜晦し
 自我の輪廓を崩し
 詩情の尊厳を堕す
 凶暴さと横暴さの爪をかくし持つ
 濃霧なのだ

  『愛』
 「愛しています」
 という言葉をしばしば耳にする
 一体 愛するとは何だ
 一体 そんなに簡単に愛したり
 愛さなかったり 出来るものか?
 愛するという言辞の背に
 私は強烈な虚偽の悪臭を嗅ぎとる
 愛は行為によってしか計れない
 愛は言葉のない感情によってしか
 表現 出来ない
 
  『鼻糞ほどの価値もない』
 何事でも広範囲に普及していくと
 説得力が 微弱化していく
 ダイヤモンドを庭にまくようになったら
 一カラットのダイヤに金を払う間抜けはいない
 思想が 芸術が
 余りにも 田吾作やミーハーに
 普及しすぎてしまった
 今日それらが鼻糞ほどの価値もないのは
 至極 当然のことなのだ

  『逆の態度』
 その人間の宗教心に気を付けろ
 その人間のやさしい姿勢に警戒しろ
 その人間の誠実さに惑わされるな

 人間はしばしば
 己の物欲、権力欲、自己顕示欲を
 満足させたあと
 そのあとあじの悪さ故に
 殊更に逆の態度をとり度がる

  『超感覚』
 文明の雑要素と雑責任と雑条件から
 離れて
 人間は一つの超感覚に達する
 超感覚が
 宇宙の鼓動を聴き取る 
 宇宙環境因子の体温を感じ取る
 同位生命エネルギーの歌を聴き分ける
 天然の周りはつねに
 同位生命エネルギーと
 豊かな生命放射性物質で
 埋めつくされている

※ 「フェイクニュース」をかたる番組で、「ネットに載っている文章ね、アレみんな広告料貰っているんだよね。」と興奮気味に語っていたそうですが、よく調べなさいよ。本ブログにも、たくさん張り付いているようですが、只で、勝手な事書く文章に、何処のだれが広告料など出すもんですか。PCのバージョンの関係で、何時しまいになるか、「ダイヤモンドを庭に」と、先生の箴言にあるように、どうかね。先生と来月、七年ぶりにお会い出来る事になりました。たのしみです。広告は、いくらでも、どなたでも自由にやってください。
 

放蕩息子の更なる告白 (百三十八話)   佐藤文郎

2019-09-19 23:53:47 | 日記
 タマシイの宝庫ですぞ

〘梁山泊〙主宰の、名久井良明先生からのお便りの中に、まぎれ込むように上野霄里先生宛ての、H・ミラ—について書かれたアメリカ人の手紙がありました。これは貴重なものだと思いました。『H・ミラー、上野霄里往復書簡集』の上梓が今は望めないと分かっている。完全に諦めては居ないが先生の御意志はそうとう固そうなのだ。上野霄里著『単細胞的思考』は丁度五十年前に発刊を見、全国の書店で発売された。いまも、ネット販売されているし、都内中野区にある『明窓出版株式会社』から平成十四年に復刻出版さている。著者の上野霄里先生には勿論、著書そのものに惚れ込んだ社長増本氏自らが懇願して実現したものだった。知性圏を戦慄させた【禁書】、著者は隠者か、極悪人か! と帯に謳っている。しかし現代ではそのハードさも、かなり普通さに変わって来ているかも知れない。ただそのH・ミラーとの書簡であるが、ハードとかソフトとかいう観点からではなく、上野霄里先生自身の自己革命の真直中での出来事だった。牧師という上着だけではない,内部の“カミシモ”をかなぐり捨て、毎日を家族と共に生きていく元牧師先生となって、山の中に入っていった訳ではなかった。昨日と同じ暮らしを、人の目や耳や、日常の地続きの中での今まで以上に厳しい暮らしである。奥さんが用意する新聞に挟まってくる広告紙をB5の大きさに切って急いで用意しなければならない。先生は猛烈なスピードで書きまくるからである。まるで編集者が先生のものは売れに売れて、上司からどやされて、大勢が顔を上気させて詰めかけて来ているみたいだ。実情は、その逆である。誰も来ないし、誰も知らない。売るとか、出版とかは今子奥様は一度も耳にした事はない。毎日二十枚の広告紙に書いた原稿を読んで聞かせてくれるだけである。これが、いつしか『単細胞的思考』と呼ぶ様になった日記。
 ある日、アメリカの文豪であるヘンリー・ミラーから手紙が舞い込んだ。先生がミラーの著作を読んで、その感想を送った返事がきたのである。「君は私の本を読んでセックス描写が多いが何故かと訊ねて来たが、私の全著作を読んだのか。君の云う描写の部分は十パーセントもないだろうよ」と。(これは,上野先生からの聞き書きである)。上野先生は原書もふくめて、手に入るものことごとく読破し、それを機にミラーとの文通が始まったという。
 このように「単細胞的思考」という手記と併記されるかたちで数十年にわたって行われた“文通というドキュメンタリー”を誰もが、ましてや『単細胞的思考』を通読された方はなおさら読みたいと思う筈です。
 「佐藤さん、私が管理しているので大丈夫ですよ」と仰っていた今子奥様。しばらくして、ある日、先生と電話で話している時、その件に及ぶと、厳しい口調になり、「私が死んでからにしましょう」と言われた。増本社長もいっしょでしたが、二人で頷く他はなかった。「よきにはからえ」と、たいがいの事に対してOKを出す先生でしたから、一度拒絶反応を示されるとどうにもならないと思うのでした。
 次に、冒頭に記した、アメリカの方の、H・ミラーと上野霄里先生に関して書かれたお手紙を紹介致します。第三者によって二人の文通が証明された初めての物です。1966年〜1980年の間、一千通以上と言われるお互いに交わされた信書の存在。タマシイの宝庫と言わないで何と言いましょう。その中の一通について書かれているのです。
                  1997.1.31(平成9年)
 上野霄里様
 突然、貴方の許可を頂こうと、このような手紙をさしあげること、お許し下さい。
 巨大なピアニストであった亡父、ヤコブ ギンペルは、ヘンリー ミラーと深い交友関係にありました。そういった二人の文通の合間に、ミラーは父に、彼が貴方に宛て書かれた手紙のコピーを渡したことがあります。その手紙の日付は1966年5月23日となっており、その中でミラーは、音楽に対する熱い思いと、音楽に対して抱いていた彼自身の認識論に関して述べているのです。亡父の持っていた書類の中から、このコピーをみつけ、これを『ミラー・キンベル書簡集』に入れたいと思ったのですが勿論、貴方の許可を頂くことなく、これを出すような事はしたくありません。是非頂きたいのです勿論、この本の出版の暁には一冊、そちらに送らせて頂きます。カルフォルニヤ大学のロスアンゼルス分校にある、ミラー文学コーナーでミラーファイルを探して貴方の住所を知りました。例のミラーの手紙を貴方に送りたいと思っていましたが、貴方とミラーとの文通の時代が余りにも前のことでもあるので、一度、貴方にお伺いを立ててからの方が良いとも考えたのです。
 ミラーは亡父に宛てた手紙の中で、貴方のことをひどく尊敬し、暖かい念いで書いています。
 貴方と貴方のご家族の健康を願いつつ……
   心を込めて
               ピーター ギンペル