新年早々、アニメーターで監督の北久保弘之氏と美術家の村上隆氏による、twitter上での
激しいやり取りがありました。
Togetterまとめ「北久保弘之氏と村上隆氏、新年早々ガチバトル」
これについて、自分なりに感じたことをまとめてみます。
まず北久保さんのつぶやきですが、一部で指摘されている嫉妬というよりは、シンプルに
「村上作品が嫌い」で、かつ「アニメ・マンガ業界が体よく利用され、搾取されている」
という感覚の2点に整理できると思います。
アニメーターが職人なのに対して、村上さんの立場は、いわばコンセプトデザイナー兼現場の親方。
そして技術を偏重しがちなオタク的視点からは「職人が偉い」という捉え方が主流になるだろうし、
かたや昔から目利きの権威を重んじる美術業界的な視点では「親方の目のつけどころや采配がいい」
ということになるのでしょう。
では職人と親方の関係が不公平か否か、あるいは手柄の横取りになるのかという点については、
もう見方次第になるでしょうね。
美術的に例えるなら、乾山や魯山人の焼き物を「器形」で評価するか「絵付け」で評価するか
「ブランド」で評価するか、それともそれら全体をひっくるめて評価するか、という視点です。
ただし村上氏のオリジナリティや職人的製作力については、私も疑念を持っています。
例えば近作の「智・感・情」は私も好きですが、それはTONY先生の絵と黒田清輝の構図が
生み出すもの。村上氏によるアレンジは、いわば「編集」のレベルに留まるものだと思います。
そしてTONY先生に「智・感・情」を描くように仕向けた村上氏の功績を、作品そのものの
評価に含めるかは、「パトロンや絵画商の影響力も含めて絵の良し悪しを評価するべきか」
という問題に近いように思います。
(村上氏の発想では、そこを抜きにして美術としての評価は成り立たないということになります。)
美術業界、それも特に海外では、村上氏の名前で出したほうが絶対に取り上げられやすいでしょう。
しかし日本では逆に「シャイニングシリーズ」などであらかじめTONY先生を知っている人が多いだけに
「なんで村上の名前で出てるんだ、これはTONYの絵じゃないか」と思う人がいてもおかしくはありません。
この点は、国内と国外における村上氏の評価が異なる大きな要因でもあると思われます。
また自らの造型能力や独創性といった面に関しては、村上氏自身が一番よく承知しているはずです。
だからこそ職人としての一点突破を計るのではなく、有能な作り手のプロデュースとその売り込みに
全力を注いでいるのでしょう。
そして本人はそれも「芸術」として認められるために必要な行為であるとの信念を持っているはずです。
さらに言うと、村上氏の手法のキモは「アニメやマンガというジャンル内表現を美術的評価に変換する」
というプロセスにより、そこに新たな価値と経済が生まれるということにあります。
ただしそれが一種の錬金術的な胡散臭さに見えるのはやむを得ないでしょうし、アニメやマンガという
ジャンル性を大事にするファンからは、美術的価値など知ったこっちゃないという意見が出てきても
おかしくはありません。
これはそもそも村上氏が、既存の日本美術とアニメやマンガといった「未だ価値を認められないもの」を
統合するために「スーパーフラット」という概念を提示したときから、ジャンルの解体や書き換えという
要素が内包されていたものであり、いずれはオタク的な価値概念との対立は避けられなかったとも思えます。
このように美術という土俵とは別の部分に立脚するオタク的な価値観との対立を、
村上氏はどのように扱うつもりなのでしょうか。
オタク的なものとの対立を本気で乗り越え、あるいは和解する気があるのか。
それとも教化できない層は無価値な存在として切り捨てるのか。
あるいは美術的な価値観と経済的・文化的な名声で有無を言わさず捻じ伏せるのか、
あるいは単に黙殺するのか。
いずれにしろこの溝を埋めるのは容易ではないし、懸命な村上氏のことですから、
このような対立構造は最初から予想済みであったのかもしれません。
このように考えた結果、無難ではあるものの、やはり北久保氏と村上氏の意見は
どちらにも一理ある、との結論に至りました。
ただし前述したように、両者の主張は土台が同じように見えて実は全く異なるので、
互いの妥協がないかぎり、歩み寄りは困難でしょう。
ただし議論の発端となった「村上作品が好きか嫌いか」を個人的に言うなら、最も村上氏らしい作品である
ゲロタンやHIROPONについては、人の生理感覚を即物的に逆撫でする表現と、リスペクトしているはずの
アニメやマンガについて露悪的なカリカチュアを行っている点が、どうにも好きになれません。
そしてアニメやマンガのファンは、美術的な批評性など求めていません。
だからカリカチュアがいかに美術表現として的を射ていたとしても、それは原典を貶める行為にしか
見えないのです。(結局のところ、私もオタク的感性の持ち主なもので・・・。)
そういうわけで、最後に私個人としての結論を述べさせていただきます。
「村上氏の方法論は確かに正しい。でも村上氏をイメージさせる代表作は好きじゃない。
だから自分の好きな作家を村上ラベルつきで売られる事は、正直言って不本意である。」