Biting Angle

アニメ・マンガ・ホビーのゆるい話題と、SFとか美術のすこしマジメな感想など。

SFマガジン2014年12月号「R・A・ラファティ生誕100年記念特集」

2014年11月07日 | SF・FT


2014年は孤高の奇想作家R・A・ラファティの生誕百周年にあたる、記念すべき年。
なので2013年のうちからネットでお付き合いのあるすっごくディープなラファティ関連の人たちに向けて
「なんかすっごいこと企んでるんでしょー?ね?ね?」と無責任なアオリを繰り返してきましたが、
心の奥では「2012年の暮れから2013年の前半にかけて3冊も本が出ちゃったから、さすがに弾切れかな…。」
などと思ってました。

そしてSFセミナーでも京都SFフェスティバルでもラファティ企画は組まれず、このまま今年も暮れるのかと
半ばあきらめの境地でいたところに、SFマガジンでまさかの特集号が出るというサプライズイベント!
2014年を冠する最後のSFマガジンの、しかも生誕百周年を迎える直前の号にこの特集を実現させるとは・・・。
しかもこの号、ラファティ生誕百周年記念日である11月7日の時点では世界で唯一の記念誌となります。

そして執筆者はと見れば、現在のSF業界を担う立役者から知る人ぞ知る達人まで、いずれ劣らぬ強者ぞろい。
我が国におけるラファティアンの層の厚さと、監修を勤めた牧眞司氏の人脈の広さがよくわかります。

ラインナップは邦訳短編が3本、本人のエッセイが1本、インタビューが1本、そして我が国における
ラファティ紹介の草分けである浅倉久志氏が海外の雑誌に寄せた英文エッセイの訳しおろし。
さらには邦訳全長編の個別レビューに未訳全長編と邦訳全短編の総まくりガイド、未訳短編20選紹介に
世界のラファティアン総括、評論が4本、さらに若島正氏の連載も特別にラファティを取り上げるという
まさにいたれりつくせりの充実ぶり。実に誌面の1/3がラファティで埋まってます、すごいすごい。

それでは、感想にいってみましょーか。

まずは邦訳もある「アウストロと何でも知ってる男たち」シリーズより「聖ポリアンダー祭前夜」。
猿人少年アウストロと彼が仕える(?)天才奇人グループをめぐるドタバタ劇が、文字どおりの
ドタバタ芸術と化しててっぺんまで舞い上がり、やがて地の底までおっこちるというお話です。
もう巻頭から強烈な先制パンチを食らった感じで、この特集の本気度がビンビン伝わってきました。
怪しい人物のもっともらしいウンチクと暴力にあふれた祝祭描写はラファティならではの楽しさなので、
まずはその過剰なまでの破壊力を堪能してもらうのが一番でしょう。
一方、テクノロジーによる現実拡張やテレイグジステンスによって生じる意識の変容に目を向ければ、
サイバーパンク以後のSFとして読んでも十分通用する作品だとも思います。
(柳下毅一郎氏の訳文も、実はそのあたりを意識してるんじゃないかなーと思いました。)
つまり「十分に発達したSFは、ラファティと見分けがつかない」ということなのですねー!

山形浩生氏の評論に“ラファティは異様な女嫌い”と書かれてましたが、自分の受けた感じでは、
むしろ女性が大好きなんだけど、その反面ですごく苦手にしてたんじゃないかなーと。
ラファティの目には女性(特に若くてキレイな女性)はことごとく魔女かポルターガイストに見えて、
しかもそれを鎮める方法がわからなかったんじゃないですかね。
異性に興味津々だけどその扱い方がわからない姿には、思春期の少年のような初々しささえ感じます。

山形氏が訳した「その曲しか吹けない-あるいは、えーと欠けてる要素っていったい全体何だったわけ?」は、
まさにそんな思春期の少年が主人公なので、読み方によってはこの年頃の少年が抱えるもどかしさとか
やるせなさについて、SF仕立てで語りなおした作品にも思えてきます。
とはいえ、世界の謎について繰り返しほのめかしながら話を進めていき、最後にドカンとオチをつけて
種明かしをするところは、かの名短編集『九百人のお祖母さん』の収録作に通じるところがありますし、
読み終えた後に首尾一貫した論理性を感じるあたり、3作中で一番SFらしいとも思います。
ラファティになじみがなくて比較的ストレートなタイプのSFを好む人には、まずこれから読み始めるのを
お勧めしたいですね。

短編のトリを勤めるのはラファティ界隈には知らぬ者なき超人のひとり、その名も“らっぱ亭”こと
松崎健司氏が手がけた「カブリート」。
仔山羊の丸焼きと幽霊にまつわる奇譚ですが、安酒場でうさんくさい少女と老女からホラ話を聞かされ、
最後にはなんだかよくわからないけどヒドイ目にあうという展開は、実にラファティらしいと思います。
南米やアフリカの文学等で魔術的リアリズムの手法になじんでいる人なら、これが一番楽しめるかも。
逆にSFらしさからは一番距離がある作品なので、その手の話が好きな人にはかなりの難物かもしれない。

余談ですが、らっぱ亭さんはラファティだけでなくアヴラム・デイヴィッドスンやキット・リード、
マーガレット・セント・クレアにリサ・タトルにキャロル・エムシュウィラー等の“こじらせ度高め”な
奇譚系を大の得意にしてますので、まだご存じない方はtwitterで追いかけてみてください!

ラファティによるエッセイ「SFのかたち」は、作者自身がSFと小説の作法を語ったものですが、
語り口を小説風に改めればそのまま“SF小説について語るSF小説”にもなりそうですね。
ラファティの小説観もおもしろいのですが、一番興味をひかれたのは旧約聖書に出てくるカインについて
「キリストもアンチヒーローだとわかったとき、カインはある程度の復讐を果たしました。」と書いた部分。
ラファティはイエスをそう見ていたのか…やっぱり彼のカトリック信仰は、普通の信者とは違ってるのかも。

浅倉久志氏の「ラファティ・ラブ」は、ラファティ作品との出会いから、やがて翻訳者としてラファティ
(の作品)と相思相愛になるまでの道のりを簡潔にまとめたエッセイです。
短い文章の中に浅倉さんの人柄とラファティ愛を感じると共に、浅倉さんらしい語り口を見事に再現した
古沢嘉通氏の訳文に、先達への深い敬意を感じました。

ラファティへのインタビューは本人が68歳の時に行われたものですが、矛盾した世界にひとり立ち向かう
頑固じいさんというハードボイルドな一面を垣間見ることができます。
ラファティならではの歴史観や世界観も楽しいけど、特に注目したいのが「小説より先に詩を書いていた」
「詩の多くは小説の章題に使ったり、一節として小説の中に散りばめている。」と語っているところ。
ラファティの書く小説は、実のところ詩につけられた膨大な注釈なのかもしれません。

井上央氏が交わしたラファティとの書簡はラファティの思想と人物像に最も深く迫る貴重な資料であり、
さらにはインタビュー以上に彼の肉声を伝えているように思いました。
邦訳長編レビューからは各執筆者の思い入れを感じ、未訳長編ガイドにはまだ見ぬ作品への憧れを抱き、
邦訳短編全紹介がラファティ作品全体への評論になっていることに舌を巻き、未訳短編20選を見ながら
「らっぱ亭さん、次は何を訳すんだろう?」と期待してみたり。海外での動きにも要注目です。

評論では柳下氏と山形氏の書いた内容が、偶然にも互いを投影するかのような相互関係を見せながら、
笑いだけではないラファティ作品の奥深さについて言及しています。
それに対し、牧眞司氏は作品のうちに潜む終末観を見据えつつも、それを越えた先にあるものを信じて
“ラファティを全肯定する”という姿勢を明確に打ち出します。この迷いのなさはすごい。
若島氏はラファティ至上主義に冷や水を浴びせるような出だしですが、最後にはきっちりと誉めつつ
この作家の特徴をズバリと指摘してみせるのがすばらしい。これぞ名手による名エッセイです。

最後は山本雅浩氏の評論「ラファティのモノカタリ」について。
これはラファティ作品にもましてちゃんと読みこなせてない不安があるのだけれど、山本氏の指摘する
「イメージのとめどない増殖と飽和状態」「作者自らがアイデアやイメージを破綻させてまわる」には
全く同意する一方、自分が手塩にかけて作り上げた世界を無邪気に、あるいは執拗なまでに叩き壊して回る
作者の姿に、私はある種の解放と爽快感を覚えます。
あるいはこれがラファティの考える世界のカタチであり、彼が世界に対して示す意思表示なのかも…。

いびつで不完全なコラージュである故に、誰にも真似のできない奔放さと美しさを持つ芸術がある。
ヘンリー・ダーガーとラファティの作品は、そうした点でよく似ていると思います。
特にラファティの長編は必ずしもバランスがよくない分、ダーガー的な美しさを強く感じます。
世界がダーガーを見つけたように、いつかラファティも世界に見出されると信じているのですが、
今のところはスワンウィックが「絶望とダック・レディ」で書いたとおりの厳しさなんですよね…。

しかし絶望してばかりはいられないと、スワンウィックも牧さんも書いている(と思う)。
だからラファティのファンは何度ぺしゃんこにされても復活するし、ラファティの作品もまた復活して
新しい世代へと受け継がれていくものと確信しています。

来たるべきラファティ新世紀に向けて、我らの航海は始まったばかり。お楽しみはこれからだ!
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この世界の片隅に(このセカ)探検隊3 ~中島本町編~

2014年08月08日 | この世界の片隅に
7月27日に広島の中島本町で開催された「この世界の片隅に」探検隊3に参加してきました。

こうの史代先生のマンガ『この世界の片隅に』で幼少期のすずさんが海苔を届けに来て迷子になった場所、
そして周作さんと初めて会った場所であり、物語の最後に再び訪れる場所が、この中島本町です。
当時の広島では有数の繁華街であったこの町も、広島への原爆投下によって一瞬のうちに全てが失われました。
現在は広島平和記念公園として知られている場所に、かつては映画や喫茶店といった娯楽施設が軒を並べ、
夜はモダンなすずらん灯に明るく照らされた通りを多くの人が行き来していたのです。

今回はヒロシマ・フィールドワーク実行委員会とのコラボレーションにより、かつて中島本町に在住し、
原爆投下時は現地を離れていたため難を逃れた3名の方から当時のお話を聞いた後に、平和記念公園で
当時の町なみをたどりながら片渕須直監督に解説をしていただく…という2部形式で開催されました。

講演前に、広島平和記念資料館の東館地下1階で「この世界の片隅に」アニメーション版複製原画展を見学。






会場には約40枚の複製レイアウトが2枚1組となって展示され、それぞれのパネルに日本語と英語で
どんな場所を描いた物であるかのキャプションが添えられていました。
緻密に描き込まれた町のレイアウトは見応え十分。添えられたキャプションも絵を理解する助けになります。

なお、展示会場の先を曲がった通路には、原爆投下前と投下後の中島本町を建物屋上から撮影した比較写真の
大きなパネルが置かれています。
これを見ると現地の徹底した破壊のありさまがよくわかるので、『この世界の片隅に』の舞台を知る上でも
レイアウト展とあわせて必見だと思います。

レイアウトの展示を見終わった後に、第1部の講演会場へ移動しました。
100人くらい入る部屋はほぼ満員で、全体的に年配の方が多い感じ。
特に探検隊に参加しない全体の半分は、60~70代以上の方が8割くらいを占めているようでした。

まずは中島本町出身の3名の方から、お話を伺いました。

最初に話されたのは丸二屋商店の緒方さん、昭和3年生まれ。
化粧品や石鹸を扱う丸二屋は大正2年に堀川町(現在の広島三越の裏あたり)で創業し、
昭和5年に中島本町に移ってから、昭和11年まで同地で営業したそうです。
当時は粉ハミガキが主流だったけれど、やがて練りハミガキが発売されたというように、
お店で販売していた商品にまつわるエピソードなども、写真つきで紹介されました。


緒方さんは後に陸軍士官学校に入り、8/6は朝霞駐屯地にいたそうです。
この時、広島の状況を見てきた上官には「広島には何もない。帰る家がないと思え」と言われたとのこと。
東京大空襲も経験された緒方さんは「戦争はいけない。アメリカの責任は大きい。」と語っておられました。

続いて濱井理髪店の濱井さん、高橋写真館の高橋さんからお話を聞かせていただきました。
今回の語り手では最年少の濱井さんは昭和9年生まれ。当時は11歳の遊び盛りだったそうで、
中島本町で過ごした幼少期を懐かしく語ってくれました。

緒方さんと同い年の高橋さんは、実家の店を含めて写真館が4つもあったこと、豆腐売りや花売りの行商、
映画館の壁に穴があいていて人が覗いていた事など、当時の盛り場の雰囲気を生き生きと伝えてくれました。
当時は中島本町を取り巻く川を帆掛け舟が行き来しており、橋をくぐる時は帆をたたんでいたなど、原作で
すずさんが船に乗るエピソードに通じる話も披露されました。

こうしたお話のバックでは、当時の写真や再現地図などの資料が次々と映し出されましたが、これらはすべて
片渕監督が収集したデータを、監督自身が操作して映写していたもの。
事前打ち合わせはあったと思いますが、パソコン内の膨大なフォルダやファイルの中から話者の語りに応じて
次々と関連資料を見せていく監督の手際のよさには驚きました。

イベントで片渕監督が集めた資料の本棚が映し出されると、あまりの分量に観客から驚きの声が上がりますが、
映像を出す前に見えるパソコンの中もほとんど同じか、それよりも分量が多い印象です。
その中のどこに何があるかを覚えている片渕監督は、きっと並外れた記憶力の持ち主なのでしょう。

地元のお三方のお話に続き、片渕監督からは現在製作中の『この世界の片隅に』についてのお話がありました。
書き漏らした部分も多いですが、以下にメモした内容を写しておきます。
(文中カッコ内は聞き手による補足です。その他にも聞き取った範囲で意味が通りやすくなるよう、
 細部で内容を整理しています。発言そのままの記録ではないことをご了承ください。)

 (監督のイメージとしては)「まず世界があって、その片隅に女の子がいる。」
 この女の子のいる片隅を描くには、この世界を知らなくてはならない。

 原作のマンガには(背景等の)全てが描いてあるわけではない。
 よく「人物があって世界がある」というが、実は「背景」というものはないのではないか。
 単に世界のすべてがクローズアップにならないというだけで、(物語の都合上背景となってしまう物事にも)
 すべてに意味がある。

 何年か前までは広島に来たこともなかったが、(この作品のために広島に来るようになって)もっと大きな
 世界の中で、広島がようやくわかってきた。
 (そうしているうちに)中島本町を描くためのレイアウトが、中島本町を囲む場所まで広げて描かざるを
 得なくなってしまった。
 どこまで自分たちが知った気になっても、(物語の舞台を取り巻く世界が)それを許してくれない。

 原作ではヨーヨーが描かれているが、こうの史代さんが当時のヨーヨーブームを知らずに描いたとは
 思えなかったので、ご本人に直接聞いたところ「私は歴史に詳しくないので、最初に年表を作ったら
 ヨーヨーブームが出てきたので描きました。」とさらっと答えが返ってきた。
 (こういう原作を手がけるからには、アニメ化にあたっても相当に調べなくてはいけないということ。)

 いま写している中島本町のレイアウトでは丸二屋が出てくるが、この看板は丸二屋さんに話を聞く前のもの。
 その後に何パターンも修正している。
 (ここで同一のレイアウトで看板を描き直したものが何枚も映し出される。)
 アニメーションを作るのにそこまでする必要はないが、想像しないとその世界がどんなふうなのかが
 わからない。
 世界の形を知るよすがが、建物の形などになる。

 濱井理髪店のレイアウトは、濱井さんに話を聞きながらレイアウト修正をした。
 高橋写真館の向かいの建物は後にカフェ・コンパルになり、これが焼け残ったあとに新しい建物が
 増築されたのではないか。(高橋さんから「そのとおり」との指摘あり。)

 新相生橋は洪水で流された後の修理によって大正と昭和では手すりが違うとわかって、あわてて描き直した。
 すずさんの実家が海苔を作っているので海苔漉きの体験もしてみたが、東京と広島では漉き方や道具が違うと
 わかったので、簀巻きの材料をヨシから竹に変更したこともある。

 マンガの場合、白い部分には無限の可能性があるが、アニメではなにかを描かなくてはいけない。
 では何を描くか。
 たとえば原作の1コマに出てくる奇妙な道具が、広島の西半分だけしか使わない盆燈籠であることは、
 東京の人間にはわからない。
 原作を読むことが知的冒険であり、(その中で世界が)たまたま見えてくると、どこまでも見えてくる。
 その世界は現在までつながっている。

 アニメーションが自分たちの描いた世界をどこまで拡張できるか、これも自分たちの冒険だと思っている。


最後に片渕監督から「11月の広島国際映画祭で機会を与えられたので、その時には中島本町の動く絵を
お見せしたいと思っている。」との最新情報が伝えられ、イベントの第1部が終了しました。

第2部では広島平和記念公園に移動し、公園内に設置された説明板等を巡りながら「原作で少女時代の
すずさんが歩いた道」を、中島本町の入口にあたる本川橋から終点の相生橋までたどりました。

当時の写真パネルを見せながら、原作ですずさんが歩いたと思われる場所について説明する片渕監督。










「ここからは商店とかが続くにぎやかな場所なので、たぶんすずさんはこっちへ入っていって道に迷ったのでは」
といった、原作に出てきたシチュエーションについての考察もありました。

しかし実際に回ってみると、防府や呉の探検隊に参加した時とは決定的な違いを感じてしまいます。
それは、当時を想像させる地形や建物がこの場所には一切残っていないこと。

『マイマイ新子と千年の魔法』の舞台となった防府では、映像に出てきたのと同じ形をした山を眺め、
新子たちが見たのと同じ国衙の石碑の前に立ち、千年前と昭和30年の時空を同時に感じられました。
呉ではすずさんが見下ろした海を同じ角度から見下ろし、すずさんが歩いた道ぞいに建つ蔵の前を歩き、
実在しない人物がいたはずの実在する場所を目の当たりにしてきました。

しかし、中島本町は爆心地から半径500m以内に位置していたため、原爆の投下によって
そこにあった町と人の全てが失われています。
そして戦後、この場所は住民が立ち退かされ、新たに盛られた土の上に平和記念公園が作られて、
かつての町の痕跡は公園内に設置された説明板だけとなりました。

だからここには当時の道もなく、建物もなく、人の生活の痕跡もない。
現地を回って説明を聞いても、その説明がいま見ている風景となかなか結びつかないのです。
すずさんがここを歩いたんだなという感覚が、自分の中に湧き上がってこないというか。

なんだか砂を掴むような、ここにあったはずの人の営みのすべてが拭い去られてしまったあとの
きれいになった場所に立っているような、ちょっと言いあらわせない無常感。
この身を切るようなつらさは、いままでの探検隊では感じたことがありませんでした。

平和記念公園の意義を否定するつもりはまったくありませんが、今回の探検隊で何よりも強く感じたのは、
公園化事業によって失われてしまったものの大きさかもしれません。
ああ、ここは本当に「戦前・戦中」を徹底して葬り去ってしまった場所なんだな…と実感することの痛み。

なお、この平和記念公園でデビューした建築家の丹下健三は、のちに東京オリンピック国立屋内総合競技場
(代々木体育館)や大阪万博会場、新東京都庁などを手がけていきます。
ある意味、この平和記念公園で始まった「戦前・戦中との訣別」が、後の丹下建築、そして高度成長期の
日本の姿を形づくっていったのではないか…そんな思いも浮かびました。

うろ覚えですが、かつて片渕監督は『この世界の片隅に』のアニメ化を手がけるにあたって、
「原作を読むと、戦中の暮らしが戦前とはガラリと変わったわけではないということがわかる。
 戦時中にも人々の変わらぬ営みがあり、変わらぬ喜びや悲しみがあったことを描きたい。」
 という趣旨のお話をされていたように思います。

戦前・戦中の人々の痕跡が失われた中島本町は、今回のアニメ化で最も描くのが困難であると共に、
この作品が挑もうとする「戦前から現在までを貫く人の営みを描く」というテーマを表現するうえで、
最もふさわしい場所でもあると思います。
片渕監督や浦谷さん、松原さんたちの今の苦労が、やがて作品として大きく結実することを信じながら、
こちらもじっくりと腰を据えてアニメの完成を待ちたいと思います。

探検隊の終了後は、完歩証がわりのアイスが配られました。

ちなみにアイスの下に置いてある扇子は、急ごしらえの手製です。
あの日から69年目の中島本町に、どうしてもすずさんを連れてきたかったものですから。

その後はコミケよろしく、急ごしらえの物販コーナーが開店。
片渕監督のサインもいただけるとあって、青葉のポスターやこのセカTシャツ、手ぬぐいなどが
次々と売れていきました。

ポスターが折れ曲がらないようにとバズーカのような図面ケースを背負ってきた猛者も多数。
ここにもファンの熱意を感じました。

次の販売は9/28に阿佐ヶ谷ロフトAで開催されるイベント「ここまで調べた『この世界の片隅に』」を
予定しているそうなので、欲しい方はぜひ同イベントへお越しください。
今回の探検隊についての報告や最新の成果について、片渕監督や松原さんから直接聞けるかもしれませんよ。
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「SFなんでも箱#7 ウルフ!ウルフ! ウルフ! 大事なことなので三回言ってみました。」に行ってきた!

2014年05月15日 | イベント・観覧レポート
今年はSFセミナーに行かなかったのでナマのSF話に飢えていた私ですが、5/10という絶好のタイミングで
<池澤春菜&堺三保のSFなんでも箱 #7>が開催されるとの情報をキャッチ。
しかも今回のサブタイトルは「ウルフ!ウルフ! ウルフ! 大事なことなので三回言ってみました。」
私がラファティと並んで偏愛するジーン・ウルフを取り上げるとくれば、これは参加するしかない!

会場のLive Wire Biri-Biri酒場に到着してみたら、なんと真裏の建物が教会でした。
これはますますウルフめいてきましたよーと勝手に盛り上がってたら、入場待ちの放克軒博士
(Formerly Known As さあのうず氏)と遭遇、さらに入場後は去年のSFセミナーでお会いした
グリーンフロウさんとも再会、さらに若きウルフ読みの隼瀬茅渟さんとも感動の初対面を果たし、
スタート前からテンション上がりまくり。
やっぱりこういうイベントで知り合いがいるってのは心強いもんです。

会場に入ると、店の奥でギターを爪弾くダンディな男性とその向かいで静かに本を読む男性の姿が。
ギターを弾いているのはミュージシャンにして作家・翻訳家・歌人であり、1月にウルフの『ピース』を
共訳された西崎憲さん、その向かいで『ピース』を読んでいたのは、『ケルベロス第五の首』などを訳された、
映画評論家にして特殊翻訳家の柳下毅一郎さんでした。
こっち側だけ見るとまるで文壇バーっぽい感じですが、部屋の反対側では野球帽をかぶった堺三保さんが、
パソコンとにらめっこしながらアメリカ滞在中の池澤春菜さんとの通信を確立しようと苦心する姿があって、
こっちは秋葉原のネットカフェを思わせる雰囲気。
さすがはウルフイベント(?)、なんだかひとつの室内で時空のねじれが起きているみたいで面白かったです。

今回はアメリカ短期留学中の池澤さんに代わって、ゲストの二人が進行役の堺さんをサポートしつつ、
ジーン・ウルフの謎と魅力に迫ろうという企画です。
20人くらいのお客さんの中にはSF関係の編集者も見受けられ、さらには前回のゲストだった宮内悠介さんも
来場されるなど、来場者側も相当に濃い感じでした。

なお、池澤さんは滞在先からのネット中継による参加ですが、その滞在先がワシントンDC…。
そこって「アメリカの七夜」の舞台じゃないですか!
せっかくなので誰かそのことについて池澤さんに振らないかなーと思ってたのですが、
最後まで話題に出なかったのが残念でした。

さて、前半は西崎憲さんの経歴をたどる形で、ミュージシャンから翻訳家へ、さらに小説家へと
歩みを進めてきたことについてのお話を伺いました。
ミュージシャンを目指して上京し、やがてアイドルに曲を提供するまでに至ったものの、
思い通りにいかない部分もあって挫折感を感じたこともあったそうで、そんな時期にもともと好きだった
怪奇小説やミステリを訳す機会を得て、翻訳家の道へと進むことになったそうです。
それ以前にコッパードの翻訳ファンジンを出そうとして果たせなかった事はあったものの、
本格的に英語を勉強したのは20代半ばを過ぎてからということで、西崎さんいわく
「がんばれば誰でもウルフを訳せるようになります!(にっこり)」
これを聞いた語学留学中の池澤さんと、観客一同の動揺っぷりたるや・・・。

ちなみに西崎さんは声優の野中藍さんのファーストアルバムにも編曲で参加されてますが、
その野中さんの初主演アニメ『宇宙のステルヴィア』でSF設定と脚本を担当されたのが、
本日の進行役である堺三保さんなのです。遠いようで近いのが人の縁ですねー。

そしてアメリカからネット経由で曲のオファーをする池澤さんに、西崎さんから
「曲も作りますし、バックでギターも弾きますよ」との力強い答えが。
もしこの組み合わせが実現したら、ぜひSF大会でライブをやってもらわなくては!

音楽と翻訳が楽しくて小説を書くことは考えていなかった西崎さんですが、ある日夢に出てきた女性から
「賞に応募しなさい」とお告げがあり、ちょうど募集していたファンタジーノベル大賞に応募するべく
1ヶ月で300枚を書き上げたのが『世界の果ての庭』。
これが受賞作となって小説家としてもデビューし、今に至るということです。
最初は体力的な要因等で長編が書けないと思い、デビュー作は連作短編という形になりましたが、
受賞後に担当編集者の勧めで長編も書くようになったとのこと。

堺さんからの「怪奇小説が好きなわりに、小説ではそういう作品を書かないですね」との質問には
「怪奇を単なる道具にしたくないという気持ちがある。自分としては雰囲気、atmosphereを大事にしたい。
(読者が)忘れないようなものを訳したい、書きたいと思ってます。」と回答されてました。
1作目はダンセイニ風の異世界、2作目は架空の日本という風に作風を変えたのは意識してのもので、さらに
「ファンタジーの楽しみを単なる素材にしたくない、(物語世界が)現実と強力につながっているほうがいい。」
とのお話も。
『蕃東国物語』のラストについては「現実でも予想外のことが起きるものですから」と語り、
『ゆみに町ガイドブック』に見られるアンチクライマックスについては「クライマックスという概念はなくて、
例えばラヴェルのボレロのように“曲の始まる前から音楽が演奏され、曲が終わった後も演奏が続いている”
というような、始まりも終わりもないものが好き」とのお話がありました。

今後のお仕事では、入手難で古書価がうなぎのぼりのコッパード『郵便局の蛇』が待望の文庫化、さらに
ウェブ連載で高校生を主人公にしたジュブナイル(三鷹に渓谷があったり、民間信仰が色濃く残っている
パラレルワールドの東京で、物語の解析をする資格が存在するという設定)が始まるそうです。
他には『蕃東国物語』の続編や、55人の海外作家を集めた怪奇小説アンソロジーの企画も進行中とのこと。

後半は西崎さんが訳した『ピース』を中心に、「ジーン・ウルフはこう読め(るかも)」という内容のお話。
西崎さんが『ピース』を訳したのは、国書刊行会の樽本さんからの依頼によるものだそうで、会場に来ていた
御本人によると「ウルフを頼める人は少なくて、宮脇孝夫さんや西崎憲さんくらいに限られる。宮脇さんには
『ジーン・ウルフの記念日の本』を頼んであるので、『ピース』は西崎さんにお願いした。」
という事情だそうです。
(そういえば2012年11月にファン交で樽本さんに聞いた『記念日の本』の話を
「宮脇さんの担当作品待ち」とツイートした記憶が・・・あれからもう1年半が経ちました。)
このとき『ピース』以外に候補として挙がったのが「Castleview」「Free Live Free」「There Are Doors」で、
西崎さんが4作を読み比べたときに「一番地味だけど、深そうに見えた」のが『ピース』だそうです。

堺さんからは「ウルフを読んでると、常に裏を読まなければいけない気がしてしんどい。『新しい太陽の書』は
長いのでさすがにほとんどの謎が説明されるけど、『アメリカの七夜』なんてさっぱりわからない。『ピース』も
4回挑戦したけど90ページくらいで挫折した。解説を読んでから最後の30ページくらいを読んでみたけど、
ますますわからなくなった。」と告白があり、これには柳下さんと西崎さんから「100ページまでがつらい。
第三章の「錬金術師」はすごくおもしろいから。」とアドバイスがあり、それをネット経由で聞いた池澤さんが
「帰国したら三章から読みます!」と冗談交じりに答えてました。
さらに柳下さんが「デス博士の島その他の物語」のラスト一節を朗読、私の隣ではデス博士ならぬ放克軒博士が
感極まってすすり泣く(ちょっと誇張)という一幕も。

柳下さんからは「好きな本は読み終えたくない、いつまでも読んでいたい。」、西崎さんからは
「本なんて人生で数冊読めばいい程度なのに、チェーンスモーキングのように何冊も読み続けてしまう。
それは1冊の本を切れ目なく読み続けているようなもので、つまりは終わらない本を読みたいのではないか。」
という言葉で、ウルフの作風に魅了される心理が語られました。
これに堺さんが「切れ目のない話は苦手」と返し、柳下さんは「語りの層が何層もあって、主人公の回想が
そのときその場面で読んでいた本の中の物語として語られている。こうして物語の中の物語を読み続けることが
できる。『ピース』は謎解きではない。ジーン・ウルフに謎はないんですよ。」と答えます。
ここで池澤さんがエンデの『はてしない物語』を引き合いに出して「はてしない物語なんだーと思って読んだら、
果てがあってガッカリした!」と絶妙な例えを放り込み、これには聴衆みんなが「なるほどー」と納得の表情。
西崎さんは再びボレロの例を引いて「(冒頭の)木が倒れる前から、物語は存在する」という視点を提示。
柳下さんの「回想は回想だけど、死者の回想にも見える」という指摘については、どちらでもいいのではとの
読み方を示しました。
柳下さんがウィアの家を「記憶の館」であると説明した際には、横に座っていた隼瀬さんが『ハンニバル』の
記憶の宮殿だ!と反応。
これを聞きながら私は「主人公の回想が、読んでいた本と紐付けられている」という点とも共通性がありそうだ…
なんてことを考えてました。

ウルフを訳すことについて、西崎さんからは「翻訳には英文の解釈と小説の解釈の二つがあって、まず文法上で
正しく訳してから、小説としての翻訳にする。『ピース』は時制が厄介な上に話の中の話が出てきて小説として
訳すことが難しいので、英文として正しく訳すよう心掛けた。」と説明があり、さらに「いくら難解といっても、
出てくる風景や道具立ては普通のもの。例えば三人で陶器の卵を買いに行く場面など、ビジュアル的に見れば
映画を観るように読める。」とアドバイス。
これを受けて柳下さんは『新しい太陽の書』で「剣舞の塔」が実は宇宙船だったとわかる場面について、
「アポロ宇宙船の写真が飾られている場面でそれがはっきりするけれど、それまでに飛び飛びに置かれたシーンが
ぱっとつながるおもしろさがある。ひとつ見つかると次から次へと見つかっていく。」と、ウルフ作品における
読みどころを説明してくれました。
お茶のポットに持ち主の顔が浮かぶエピソードもいいねーという話題になったので、お茶とくればやっぱり
池澤さんからひとこと・・・と思ったのですが、この期待は叶いませんでした。

最後に両ウルフ訳者よりジーン・ウルフのマイベスト作品を紹介してもらったところ、順当に
『ケルベロス第五の首』と『ピース』が挙がりましたが、柳下さんは未訳のヤングアダルト作品
『The Devil in a Forest』がわかりやすくていいとも話してました。
柳下さんはウールス・サイクルからのスピンアウト作品"The Book of the Long Sun"と
"The Book of the Short Sun"も好きで、特に前者は訳してみたいとのこと。
(実はこのシリーズ、別のウルフ作品とも関係がありそうなんですよね・・・。)

今後のお仕事告知では、柳下さんが手がけたアラン・ムーアのスーパーヒロイン物『プロメテア』の1巻が
5月末に発売。
巻を追うごとに異常さが増して行き、最終巻は本の構成そのものがとんでもないことになるそうなので、
みなさん買いましょう!(私はもちろん予約済みです~。)
西崎さんはSF寄りの作品として、魔術的なマイクロフォンをめぐる物語(シナトラがレコーディングに使い、
それが南米に渡って革命の演説に使われ、やがて争奪戦が繰り広げられる)を構想しているそうで、これも
相当おもしろい作品になりそうです。

そして国書の樽本さんからは、2年前のSFセミナーで話が出た2部作『ウィザード』と『ナイト』が今年中に
(分冊で)刊行予定との話が・・・これが実現すれば、ジーン・ウルフの本が1年で3冊出るという快挙!
しかも全部が国書の本!これは樽本さんに(『記念日の本』も含めて)がんばっていただきたいものです。

イベント終了後は来場者の半分くらいが残って、西崎・柳下両氏を囲んでの懇親会に突入しましたが、
卓の両端と真ん中で別々の話題を話していたので、全体を聞き取ることはできませんでした。
自分が聴いて記憶に残っている話題を箇条書きにすると、次のとおりです。

・(名称は変えてあるけど)『屍食教典儀』や『ネクロノミコン』が登場するあたりは、ウルフというより
 クトゥルフ物。さすが『ラヴクラフトの遺産』に短編を寄稿しただけのことはある。

・セヴェリアンの仮面と黒マントという姿は、アニメ『DARKER THAN BLACK 黒の契約者』に引き継がれたのでは?
 との意見から、続編『流星の双子』のラストはケルベロスのオマージュだろうという話にまで発展。

・キャロル・エムシュウィラーの「順応性」が早い時期にSFMに載ってるのはすごい。
 せっかくだから700号記念で取り上げて欲しかった。

・小畑健の描くセヴェリアンは優男すぎる、ウルフのイメージはもっとマッチョなはずという声に対し、
 2巻のセクラと3巻のテルミヌス・エストはカッコいいという擁護の声もあり。
 (どんないきさつで小畑さんに頼んだのか、会場内にいた早川の方に聞けばよかった・・・。)

・ディッシュの評論集『On SF』(邦題『SFの気恥ずかしさ』)も今年中に国書から出る予定。

・プリーストの『夢幻諸島から』は単体で読むより、他のシリーズ作品とあわせて読みたい。
 あと『逆転世界』はやっぱり面白い。

・ディックとラファティとウルフを読むとモテる説。

・『ピース』は他のウルフ作品に比べると読みやすい。ひとつの理由として、西崎さんの
 柔らかい語り口のおかげではないか。

いろんな人の話が入り混じっているので、個々の発言者については勘弁してください~。

さて、次回の「SFなんでも箱」のゲストは、幻想小説研究家・翻訳家の中野善夫氏です。
お題はダンセイニか、はたまたヴァーノン・リーか?乞うご期待!
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ノイタミナ10周年企画、『PSYCHO-PASS』続編概要と伊藤計劃作品のアニメ化が発表されました!

2014年03月21日 | アニメ
フジテレビの深夜枠で斬新かつ意欲的な作品を提供し続けてきた「ノイタミナ」が、
2014年に放送開始10周年を迎えます。

その10周年を飾る企画を発表する「ノイタミナラインナップ発表会2014」が3月21日に開催され、
その中で『PSYCHO-PASS』のTVシリーズ続編及び劇場版製作と並んで、伊藤計劃氏の長篇SF小説
『虐殺器官』と『ハーモニー』の劇場アニメ化プロジェクト「Project Itoh」が発表されました。

個人的に『PSYCHO‐PASS』という作品は「ノイタミナ」枠に留まらず、ここ数年のTVアニメでは
屈指の傑作だと思っています。
ProductionI.G.が手がけてきた『攻殻機動隊SAC』を思わせるテクノロジー管理社会を描きつつ、
潜在的な犯罪傾向を色相の濁りによって判定するという設定には、脚本担当の虚淵玄氏の代表作
『魔法少女まどか☆マギカ』との共通性も感じられます。
このように、現在最も注目される2本の傑作アニメの正当なる後継作品と見なせることだけでも、
『PSYCHO‐PASS』というアニメの重要性がわかると思います。

それに加えて、厚生労働省が国民統制機関と化して実力行使を行い、福祉と精神保健に基づいて
犯罪捜査から人権の制限及び身柄拘束、そして矯正措置を行うという設定には、既に触れた
『攻殻機動隊SAC』の世界設定をされに推し進めた「清潔なディストピア」の姿を描いています。
私はここで描かれた「清潔なディストピア」こそ、伊藤計劃氏が『ハーモニー』で示した
絶望的な管理社会の姿を、アニメとして見事に具現化したものだと受け止めました。

また、『PSYCHO-PASS』における日本は、作中のセリフや関連ムックの資料などから検証すると

「世界的な経済恐慌が引き起こした混乱と紛争によって各国の国力と治安が大きく衰退する中で、
 いち早い鎖国と精神衛生管理に基づく治安維持が効果を挙げ、恐慌後の世界情勢においても
 先進国的な地位と安定した社会を維持し続けている、唯一の国家」

という位置づけであることがわかります。

こうした設定は明らかに『虐殺器官』から『ハーモニー』へとつながる設定と二重写しになっており、
その意味で『PSYCHO-PASS』は、伊藤計劃以後というSF界のムーブメントを体現するアニメとも言えます。

そんな理由で『PSYCHO-PASS』という作品の動向については、放送終了後もずっと注目してきたのですが、
まさか本家本元の伊藤計劃作品までがアニメ化されることになるとは思わなかった…。

しかしここまでの経緯を考えれば、ノイタミナレーベルで「Project Itoh」がアニメ化されるのは
ある種の必然だったと思うし、これ以上に理想的な製作状況は他に望めないかもしれません。
あとは誰が手がけ、どのような作品として完成するかだけが気になるところ。

劇場版アニメの公開時期は『虐殺器官』『ハーモニー』ともに2015年になる予定。
期待を裏切らない傑作として、ノイタミナと日本アニメの歴史に新たな1ページを刻んで欲しいものです。

なお、『PSYCHO-PASS』については、S-Fマガジン誌上にて2014年秋のノベライズの連載等も行われます。
「Project Itoh」とあわせて『PSYCHO‐PASS』プロジェクトの進行にもご注目ください!
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『ここまで調べた「この世界の片隅に」』第1回レポート(2013年12月23日開催)

2014年03月19日 | この世界の片隅に
2014年3月23日、新宿ロフトプラスワンにおいて、片渕須直監督の新作アニメ映画「この世界の片隅に」の
製作過程について、監督自らが語る『ここまで調べた「この世界の片隅に」』の第2回が開催されます。

このイベントを目前に控えて、2013年12月23日に開催された第1回の内容を振り返るため、
遅ればせながら当日メモしてきた内容をまとめたレポートを掲載させていただきます。

なお、あくまで聞き書きによる個人的な記録なので、内容の不備等についてはご容赦ください。
また、記事についてなんらかの問題がありましたら、コメント欄にてお知らせ願います。

出演者は片渕須直監督、作画監督の松原秀典さん、イベント主催者でアニメスタイル編集長の
小黒祐一郎さん。
ただし話の大部分は片渕監督による講義スタイルだったので、まとめ文も講義のノートみたいな
箇条書き風になりました。(読みにくくてすいません)

それでは、ここからレポートです。

【前半】

イベント冒頭、壁一面を占める本棚とそれを埋め尽くす資料が映し出されました。
そのほとんどが、呉の郷土史や警察史、消防史を含む「この世界の片隅に」のための製作資料。

片渕:最近は頼まなくても地元の古本屋が資料を送ってきてくれる。
   はじめは郷土史家だと思われてたみたい。

   (資料に)ないものは作って出すのか、なければ出さないかの選択をしなければならない。
   でも資料の中で必要な情報は1冊にひとつくらいしかない(そのため自分で加工が必要)。
   港に泊ってる船の時刻と位置まで調べて、それをExcelでシート化するとか。

   原作そのままのレイアウトだと、映画にするとき左右が足りないので、元の資料にあたることになる。
   江波が描かれたコマについて調べると、背景の松は当時もあったが、出っ張りの部分は戦後のものと
   わかったので、現地を見に行った。

   江波山の気象台については柳田邦男が書いている。
   近くにある高射砲を撃つ時、街を撃たないようにするのに困ったとのこと。

   (イベントを開催したのが天皇誕生日なのにちなんで)今上天皇の生まれたのが、
   原作のプロローグの前の月にあたる昭和8年12月。
   
   すずさんの家があるあたりは、現在高速道路を建設中。
   すずさんが絵を描く場面は、江波山の上から見下ろしている。
   こうの史代先生は地図を見ながらマンガを描いたそうで、自分以外にも
   そういう人がいるんだと知って感激した。
   
   原作について調べれば調べるほど、腑に落ちる点がある。
   そして原作に描かれているのはけっして「片隅」ではなく、その裏に世界のすべてがあると気づいて、
   それに触れたいという思いが強くなる。
   (原作に描かれている情報について)知らないよりも知っていて描くほうが納得できる。
   こうのさんは地元なので、我々の知らない深いところまで知っている。
   もともと民俗学的な発想を持っている人。

   現地訪問4回目で松原さんに同行してもらった。
   広島のダマー映画祭で話す機会があったとき、作中に描かれた建物に手すりがあるどうかについて、
   1年前まではついていたことが判明した。
   すずさんが実家から海苔を売りに行った先は、中島本町にあった「ふたば」。
   どの橋を渡ったかを特定するため、江波から中島本町までのルートをたどってみたところ、
   相生橋ではないかと思う。
   この橋は上から見るとT字型をしていて、原爆投下時の目印にもなった。
   (ここで当時の写真が写される。確かにT字型。)

   中島本町の写真は見つかったが、平和記念公園になってしまって面影はない。
   1つだけ残っている当時の建物が大正屋呉服店で、今はレストハウスになっている。
   現地に行ったとき、作品と重なるものがあると、それを見た人が「この世界」と重ねられるのがいい。

   レストハウスはあまり寄ると原爆に耐えた姿が描ききれないので、いろいろと考えて今の(原画の)
   アングルに決めたが、そうなると(原作に出てこない)周りの建物も描かなければならない。
   でもよくわからないので、今度はそのための資料を探す。
   
   古い地図で隣の店が大津屋であることは特定したが、今度は店の写真が欲しくなってしまって、
   手に入ったいろんな写真で検証することになる。
   商工会人名録で電話を調べたら、この写真は違うらしいと判明したこともある。
   
   レストハウスに手すりのあとがあるので、いつついたかを調べ、手すりのついている写真を発見。
   当時小学生だった人に聞いてみたら、金色の手すりがあったとの証言を得たが、大正屋呉服店にも
   手すりがあったとの話になり、手すりを追加した。
   
   中島本町は(戦前の広島でおなじみだった)スズラン灯が最初についた場所。
   写真を見てスズラン灯を数えていると、道路にマンホールらしきものを見つけた。
   調べてみると実際にマンホールがあったとわかったが、その過程でマンホールマニアの方と
   知り合いになり、下水道史の本まで購入してしまった。
   おかげで杉並区のマンホールのデザインまでわかるようになった(笑)。
   (原作中には)出てこないことまでやってしまっている。
   
   写真を調べていて、ガラスに映りこんだ文字を読むためにPhotoshopで反転させたところ、
   大売出しの垂れ幕だとわかった。
   写真は個人所有のものも多く、中国新聞の編集委員の方が当時についていろいろ調べているが、
   権利等もあるので教えてもらえない。
   レストハウスになった大正屋呉服店のハッピは、現物が見つかった。

   原作の始まった時期は、12月の皇太子誕生のお祝いムードがまだ続いていたはずだが、
   当時の街の様子が検証できないので、少し前の12月22日の写真を参考にしている。
   (街のショーウィンドウに並んでいるマネキンについて)当時のマネキンは全て西洋人がモデルで、
   金髪碧眼に作られているので、戦争が始まると黒く塗りつぶそうかという話もあった。

   世界があって、その片隅にすずさんがいる。その周囲のうすぼんやりしたものが
   (いろいろ調査することにによって)クリアになっていく。

   原作のあるコマに、当時のヨーヨーブームについて描いてあるが、写真で調べることによって
   原作に近づけた感じがする。小津安二郎の映画にもヨーヨーが出てきた。
   (当時の写真を写しながら)天秤棒をかついで行商をしながらヨーヨーをするほどのブームだった。
   すずさんが欲しいものを思い浮かべる場面でヨーヨーが出てくる謎が、ようやく解けた。
   
   すずさんが欲しいものの中にキャラメルも出てくるが、当時は20個入りと10個入りがあった。
   こうの先生からは「これは20個入り十銭が3箱ではなく、10個入り五銭が3箱」と教えてもらった。
   映画でキャラメルを出すなら森永製菓に協力してもらうしかないと思っていたら、たまたま背景に
   森永の看板がついた建物の写っている写真が見つかった。

   原作の中に、既に多くの世界(の情報)が入っていて、それを紐解くとさらに世界が広がっていく。
   こんなにおもしろいマンガはない。
   (すずさんのいた)この街が確実にあったという感じ、その上に歴史が流れている感じがする。
   (原爆投下後に撮影された中島本町の写真を見ながら)彼女たちの実在を信じないほうがおかしい、
   確かにここにいたんだと思えてくる。その人たちの見ていた世界を描く。
   内容がわかればわかるほど、世界が広がるマンガだと思う。

松原:戦争の大きな事とすずさんの個人的なことが、等価で描かれている。
   原爆投下後の荒れ地を見ながらの会話。当時は日本中の状況がわからない。
   これは3.11の状況と似ているのではないか。
   こうの史代さんのバランス感覚がすごい。原爆が落ちてからその音が聞こえるまでに、
   すずは自分の身の振り方を決めなければならない、その運び方がすごい。

片渕:江波は爆風が来ているが焼けてはいない。
   (気象台では)キノコ雲の気象観測をやっていたらしい。
   8月7日にはNHK広島放送局が放送を再開し、電気も復旧している。

松原:そういうのは今も変わらない。インフラに携わる人がすごくがんばっているのに感動する。

片渕:『火垂るの墓』では火災時に消防車のSEがないが、本来ならガンガン走っていたはず。
   原爆で燃えた火事を消し止めた碑があると知り、つい広島県消防史を買ってしまった。
   当時の消防車は赤くない。
   原爆投下の一方で、警官が市民に罹災証明を発行している様子の写真もある。
   こういうことが、世の中の片隅、反対側にある。ここ2年くらい前に見た光景に近い。
   昭和20年の光景と(現在は)縁遠いものではない。いつこうなるかわからない。

ここで前半が終了。
休憩中には会場のロフトプラスワンが用意した、本日の特別メニュー「すいとん」の説明がありました。
これは片渕監督のオーダーで、原作に出てくる食事をアレンジしたもの。
(白玉もちが入っていたりと、当時よりは格段に豪華でおいしいものでした。)

片渕:本来は米を炒ってふやかした楠公飯を出したかった。
   (原作では)あまりおいしくなさそうなものを出すのもどうかと考えてやめにしたけれど、
   実際に作ってみるとなかなかおいしいので、話がちょっと違う。

   (すいとんの材料について)戦時中の小麦粉は今と違って、ビタミン補給のため「ぬか」を混ぜたり、
   イワシを粉末にした魚粉を混ぜたりしていた。
   でも味つけの醤油がなかったので、あまりおいしくなかった。
   ここで食べられるすいとんが、いかにしあわせなことか。

   白米も七分つきや五分つきとなり、やがて米が減って押し麦と大豆が主食になる。
   呉は海軍のおひざもとなので、これでも食糧事情は恵まれている。
   砂糖の配給タイミングを調べたところ、原作と事実が一致していた。
   昭和19年の正月には服、着物、酒などが配給されていて、まだ国民への気配りがあったとわかる。
   スイカは昭和16年から24年まで禁止作物だったので、原作でもヤミで売られている。
   マンガを読み始めて知的冒険になるとは思わなかった。

【後半】

片渕:原作に出てくるのり作りについて、松原さんと一緒に広島へ体験しに行った。
   広島の作り方は紙すきに似ているが、松原さんは改良の余地があると言っている(笑)。

   (ここで会場に戦前のおしろいを回し、当時の香りを体験)
   大正時代には既にサンタがいた。

   戦時中といえばモンペと防空頭巾のイメージがあるが、その服に切り替わった時期や、
   胸に名札を縫いつけるようになった時期を特定する必要があった。
   そこで当時の服装が映っている写真を集めて年代順に並べてみると、モンペを着ていない人が
   多いことがわかった。
   調べてみると、昭和13年頃には洋装化が進んだらしい。すずさんも登場時は着物だったが、
   やがて洋装に変わっている。
   でも洋装になったときも、妹は完全に洋服なのにすずさんは洋装の上から半纏を着ている。
   ここからすずさんのすぐには変われない性格、周囲より少し遅れて変わっていく性格がわかる。
   
   女性の服装はモンペよりもズボンやスラックスが着用されていて、当時は男性用のズボンを改造した
   サロペットを履く人が多かった。ズボンの裾を絞って履くと、モンペのように見える。

   すずさんが持ち歩くバッグの取っ手は木製だが、このバッグは当時の写真にもよく出てくる。
   こうの先生はこういう点も調べて描いている。

   昭和18年に、文部省が女子生徒の服装をモンペに統一するよう決定し、
   19年までにモンペへの移行が進んだ。
   昭和18年の秋にはモンペ流行のきざしが見えるが、原作でもその頃からモンペを着るようになっている。

   昭和19年の4月から、胸に身元票(名札)を縫い付けるようになった。
   これは政府が敗戦と本土攻撃を意識するようになったから。(国民に被害が出ると想定しての措置)

   昭和19年9月には、女児の服装がモンペ化される。
   女性の服装もモンペやズボン姿となる。
   この頃に日本はマリアナ諸島を失い、本土空襲が現実的になった。

   昭和20年1月に大阪府警察局から、市民が正月にモンペを着ていないことについての
   注意喚起が出されている。
   こうした様子を見ると、人間はギリギリになるまで変われないのではないか。
   これは危機感が無いのではなく、そもそも人間とはそういうものだと思うし、そんな部分に共感する。

   アニメの絵コンテについては、平成24年に全部上がっている。
   その後、現地のロケハンに持ち込んで修正したりしているが、むしろレイアウトで
   修正したほうがいいだろうということになり、今はそうした作業を進めている。

松原:自分もマンガの絵を頭に入れたり、現地に行くと古い建物がちょいちょいあったりで、まだ勉強中。

片渕:当時の広島駅の様子も割り出してある。

松原:これが長い話で、これだけでイベント1回分ができるというもの。

片渕:大河ドラマなみ(笑)。(それだけ)ちゃんと作りたいと考えている。

松原:1日1回は(片渕監督の奥様でアニメーターの)浦谷さんに描き直しを頼んでいるけど、
   いつか大変なことになるのでは(笑)。

片渕:今は戦艦大和が見える位置を割り出しているところ。
   いっぺん手をつけると、浦谷さんがそれに沿って作業をしてくれる。
   11月に呉で開催された「艦隊これくしょん」のオンリーイベントにあわせて、
   (哲さんが乗っていた)巡洋艦青葉のイラストを描いてもらった。
   開催まで2週間しかなかったのに、浦谷さんはちゃんと描けてしまう。

小黒:普通ならメカ専門の作画担当が描くもの。

松原:自分がここにいるのは(NHKが製作したアニメPVの)「花は咲く」に、
   MAPPAの丸山正雄プロデューサーの声かけで関わったから。
   この仕事がおもしろかったので、「この世界の片隅に」でも何かできないかと頼んでおいたら、
   丸山さんからお呼びがかかった。でもまさか作画監督とは思わなかった。

片渕:「花は咲く」で担当してもらった原画パートでの芝居が、絵コンテを上回るほどよかったので、
   今度はぜひすずさんを描いてもらいたいと思った。

松原:監督から話を聞いて(いろいろ)わかってくると、思い入れが強くなる。
   実在しない人なのに、頭の中がすずさんでいっぱいになってしまう。このおかしな感覚。
   (代表作である)『ああっ女神さまっ』や『エヴァンゲリオン劇場版』とは絵柄が違うので、
   自分で描いてみたら(原作と違和感があって)ヘンな感じ。
   
   ひとつの絵柄をモノにするのに、早くても半年はかかる。
   頭の中で(絵柄が)できあがらないと、手から出てこないので、ちょこちょこと描いてみている。

片渕:広島から帰ってくる車中で松原さんと話したときに。
   (註:この時の経緯は『1300日の記録 第59回』に記載があります。)

松原:見ていてひっかかった事を片渕監督に聞くと、全部答えが返ってくる。
   実在しない人の話をまるで実在したかのように真剣に話しているのが、おかしな感覚。

片渕:空襲の写真を見ていると、このへんにずずさんがいたんだと思えてしまう。
   原作者のこうの史代さんも、同じように考えている。
   すずさんが実在していたらいまは80歳代。まだここで生きているのでは。
   こうした話をする機会をシリーズ化したいという思いがあったところに、
   小黒さんが場所を見つけてくれた。

松原:できればこうの史代さんをお呼びして、話を聞いてみたい。
   あと、浦谷さんの絵がうまくて(自分のほうが)困っちゃう。

片渕:戦時食を作る体験会を以前にやったが、またやってみたい。
   twitterで@kuroburueをフォローしてもらえば、今後もいろいろ情報を発信していく。

以上、ざっくりとしたまとめでした。

今回の話を聞いて、片渕監督や松原さんが進める作業の中身がよくわかりました。
それは「こうの史代先生によるマンガを一読者として読み解き、取材と資料によって現実と結びつけ、
そこからアニメによる表現として『この世界の片隅に』という作品を丹念に組み立てていく」という
気の遠くなるような取り組みです。

アニメ製作者すべてがこうした作り方をするわけではないし、これがベストだというつもりもありませんが、
この製作スタイルが原作と現地で起きた出来事に対する、最も誠実かつ真摯な姿勢であるということだけは
間違いないと思います。

こうした姿勢で作られる、アニメ版「この世界の片隅に」を、ぜひ原作のファンに見て欲しい。
そして可能なら、先行イベントである第2回『ここまで調べた「この世界の片隅に」』にも足を運んでもらって、
自らの目と耳でその製作過程を確認してもらえたらと思います。
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クリストファー・プリースト『限りなき夏』感想

2014年03月11日 | SF・FT
2013年に邦訳が刊行された『夢幻諸島から』が高く評価されたクリストファー・プリーストの、
同じシリーズに属する短編4編を含む日本オリジナルの傑作選が、2008に刊行済みの本書です。

収録作8篇のうち、前半は非シリーズ物の短編が4つ。そのうちひとつは雑誌掲載されたデビュー作、
他3編は初期のプリーストを代表する作品が揃っています。

「限りなき夏」
テムズ川の流れを背に、かつてと変わらぬ姿で立ち続ける美しき女性。
それを眺め続ける男の周囲では、戦争と不気味な存在の影が跳梁していた。

河出文庫の『20世紀SF 70年代編』にも収録され、本書の表題にもなった作品。
ある理由で恋人と引き裂かれてしまったひとりの男の目を通して、ヴィクトリア時代の余韻を残す
1904年の風景と、ロンドン空襲の真っ只中である1940年の風景を交互に描いていきます。

謎の存在や時間凍結機といった魅力あるギミックはあくまで道具立てに留まっていて、そのへんが
SFならではの理屈を読みたがるファンにとって食い足りないところ。
でもプリーストが一番書きたかったのは「変わりゆく時代と、変わらぬヒロイン」の対比であり、
それを「時間からはみ出した者」として見つめ続ける主人公の心情なのでしょう。
そんなミスマッチに、プリーストが日本で「SF作家」として評価されにくかった理由がありそうです。

むしろ「ロマンス要素を軸にした風変わりな歴史小説」として読んだほうが、生き生きと描かれた
古き英国の姿を楽しめるような気もします。
プリーストの作品ってSFというより、H・G・ウェルズ以来の「科学ロマンス」に近いのかも。

実は『20世紀SF』で読んだとき、ラストに違和感を感じて好きになれなかったのですが、
この傑作集で他の作品と比べながら読み直した結果、ようやく自分なりに納得ができました。
読者の眼から見れば、問題の要因が取り除かれて事態が正常に復することが「幸せな結末」なのですが、
主観視点に徹するなら、あれが最も美しい「終わりなき幸福」になるのでしょう。
しかも永遠に色褪せない、最高の一瞬として。

「青ざめた逍遥」
時間の流れに影響を与えるフラックスが流れる公園に、時を渡る橋が架かっている。
これを渡った少年は、後に生涯を通じて追い求める少女の姿を初めて見た…。

プリーストの邦訳短編では「限りなき夏」と並ぶ知名度を誇る作品です。
個人的には、こちらを作品集のタイトルに使って欲しかったですね。

初めて読んだ時は、ロマンチックだけどいまひとつモヤっとした感じの残る作品だと思ったのですが、
何度か読み直すうちに印象がガラッと変わりました。
最後の1節はほのぼのとした終わり方を狙ったものだと考えていたのですが、あれは別の読み方をすると、
それまでの話を全部ひっくり返す可能性をほのめかしているのかもしれない…という事に気づいたのです。

もしかすると、自分はこれまでプリーストにまんまと騙されていたのかも!
さすがは英国SF作家協会賞受賞作、一筋縄ではいきません。

騙りの魔術師・プリーストの本領が発揮された逸品。個人的には収録作中のベストです。

「リアルタイム・ワールド」
異星に設置された施設で研究を続ける人々に、地球からのニュースを届ける役目の男が隠し持つ秘密とは。

「静かな緊張が続く閉鎖環境」「時間線を異動し続ける研究所」「極秘実験と未来予測」「謎のファイル」と、
壮大なハードSFに展開しそうな要素を詰め込みながら、物語はまったく想像外の方向へと転がっていきます。
初めてラストを読んだときには「えー、そうなっちゃうの?!」と開いた口がふさがりませんでした。

それでも「リアルタイム・ワールド」というタイトルにこめられた意味や、作中で語られた様々な事柄のうち
どれが真実なのか、そして主観が現実にどう影響を及ぼしたのかを考えていくと、ひとつの解釈に留まらない
多様な「可能性」を持つ世界の姿が見えてきます。
いわば「プリースト流SF」の特徴が最もコンパクトにまとまっているのが、この作品の持ち味ですね。

そしてこの短編、いろんな部分で長編の代表作『逆転世界』を思わせるところがあって、
ラストで明かされるちゃぶ台返しもよく似ています。
むしろプリーストの場合、このオチのために延々とそれまでの話を書いてきたっぽい。

ついでに『逆転世界』について触れると、あの話でプリーストが本当にやりたかったのは
「それでも世界は逆転してるんだ!」という二段オチなのだと思います。
でも普通のSFファンにとっては、最初のオチのほうが大仕掛けに見えるので、二つ目のほうは
あんまり印象に残らないんですよねー。
ガチガチのSFファンが理屈を重視する傾向と、理屈と主観では後者を優先させるプリーストの流儀が、
ここでも微妙にズレているように感じます。

まあプリーストのちゃぶ台返し的な発想に慣れてしまえば、あとはすんなりと騙りのおもしろさに
身を委ねられるわけで、そのためのガイドブックでありトレーニングキットとして最適な1冊が
『夢幻諸島から』なのだと思います。
でもこの本、ヘタをするとプリーストとの相性をはかるリトマス試験紙にもなりかねませんが(笑)。

「逃走」
敵国へのミサイル発射に立ち会っていたタカ派議員に、突然の緊急警報が伝えられる。
車で議事堂へと駆けつける議員の前に、若者の集団が現れた。

原題の「The Run」を「逃走」と訳したのは、「闘争」と読みを重ねたものでしょう。
作品自体はニューウェーブの影響を受けたストレートなSFですが、タイトルに複数の意味をこめる点や、
その後も繰り返し取り上げる戦争が主題という点で、プリーストの個性が既にはっきりと現れています。
そして「戦争という主題」にこだわり続ける姿勢は、夢幻諸島におけるプリーストの分身(の一人)である、
モイリータ・ケインとも共通するものがあります。

「赤道の時」
惑星の赤道上空を通過していく巨大な時間の渦の中を、凍りついたように舞い上がっていく飛行機たち。
眼下には夢幻の島々、そして目的地は戦争が続く南の大陸。

ここからはいよいよ「夢幻諸島」ものが続きます。(本書での表記は「夢幻群島」。)
「赤道の時」の原題は「The Equatorial Moment」ですが、これはバラードの代表作『結晶世界』の
第一部タイトル「春分(昼夜平分時)」の原題「Equinox」を思い出させます。

夢幻諸島とそこに起きる奇妙な現象の原因と思われる「時間の渦」を直接取り上げた作品として、
シリーズの基礎を成す作品ですが、それ以上に「凍りついた航空機の渦」の美しさが印象的です。
これぞプリースト流のテクノロジカル・ランドスケープ。

「火葬」
夢幻諸島でも珍しい火葬の風習が残る島にやって来た男が体験する、美と恐怖の物語。

男女の駆け引きと因習めいた土地の儀式をメインに据えた退廃的ホラーであり、作中人物のうち
誰が真実を語っているかがわからないという「信用できない語り手」モノでもあります。
官能的な快感が一転しておぞましさへと変わる感覚を、男女の機微と絡ませて書いたところに
作者のうまさを感じますが、それ以上に強烈なのが殺人昆虫スライムの気持ち悪さ。
恐怖というより、むしろ「厭な物語」の筆頭格というほうがしっくりくる話です。

「奇跡の石塚(ケルン)」
親戚の訃報を受けた主人公は、同行する警官と共にシーヴルへと渡航する。

プリーストが時間や戦争と共によく取り上げる「記憶」についての物語。
「わたし」という定義が大きく揺らぐ作中の仕掛けに評価が集まっていますが、自分はむしろ
「石塚(塔)」の立つ荒涼とした風景や、その中での体験に強くひかれました。
ああいう遺跡が立つ辺境の地を舞台にできるのは、ストーンヘンジなどの巨石文化になじんだ
英国の出身ならではの感覚なんですかね。

それにしても、あの塔は何のために作られたんだろう…と考えてしまうのがSF者の性分なのですが、
当然ながらプリーストはそれを説明してくれません(笑)。

なお、『夢幻諸島から』に登場したトームとアルヴァスンドがシーヴルで垣間見た未来は、
この作品へと続いているのですが、逆に「奇跡の石塚」で語られなかったトームの最期は
「シーヴル」にさりげなく書いてある…という、なんとも複雑な構成になっています。

「ディスチャージ」
徴兵によって過去を失った若者が、芸術作品にまつわるかすかな記憶を頼りに自己を取り戻していく。

発砲、脱走、消耗、解放など、タイトルに両義性を含む複数の意味を持たせた、訳者泣かせの作品。
芸術と戦争の関係を扱った点では「否定」と対を成す物語ともいえるでしょう。
また、「火葬」では死を導く先触れだった官能性は、ここでは再生のためのきっかけとして機能しています。

なお、作中で登場する「触発主義絵画」を描いたラスカル・アシゾーンについては、『夢幻諸島から』の
「ムリセイ」や「リーヴァー」に、主人公を助ける娼婦たちのネットワークについては「ウインホー」に、
関連するエピソードが書かれています。
これらもあわせて読むと、物語の背景や説明されなかった謎についての手がかりになるかもしれません。


書かれた順番としては『限りなき夏』に収録された作品のほうが先になるので、こうした短編群から
『夢幻諸島から』の各章が生まれてきたと想像するのも、また楽しいものです。
しかしここまで来ると、やっぱりシリーズの長編が読みたくなりますね。


古沢嘉通氏による訳者あとがきは、プリーストの経歴について簡潔にまとめた秀逸な内容です。
そしてこれを読むと、「否定」の結末がある英国SF作家の短編を思わせる理由もわかるはず。
プリーストがいまだにSF小説を書き続けてるのは、結局のところ「SFファンだから」という一言に
尽きるのかもしれません。
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クリストファー・プリースト「否定」感想(SFマガジン2014年4月号所収)

2014年03月06日 | SF・FT
「SFが読みたい!2014年版」で『夢幻諸島から』が海外篇第1位を獲得した記念として、
かつてサンリオSF文庫のアンソロジーに収録されていた夢幻諸島ものの短編「拒絶」が、
「否定」と改題され、SFマガジン2014年4月号に掲載されました。
今回は第1稿から数えて4度目の改稿を経たバージョンを『夢幻諸島から』も手がけた古沢嘉通氏が
新たに訳しおこしたものなので、実質的にはほとんど新作と言ってよいかも。

舞台は夢幻諸島より北に広がる大陸に位置し、隣国と戦争状態にあるファイアンドランド。
国境沿いの寒い街で警備にあたる志願兵の青年は、戦地視察に訪れる作家の到着を待っていた。
その作家の名はモイリータ・ケイン。千ページを越える大部の作品『肯定』でデビューしたものの、
名声を得るにはほど遠いケインだったが、青年兵士は彼女の作品と才能に絶対的な敬意を抱き、
従軍前は自分も作家を目指すほどの多大な影響を受けていた。
首尾よくケインとの面会にこぎつけた青年は、彼女と『肯定』に隠された象徴について語り合い、
作品への理解と作家への思慕をさらに募らせていく。
しかし彼女には、軍部協力のための戯曲を書くという裏に隠された目的があった…。

第1稿の発表された1978年は、東西冷戦が真っただ中のころ。
その当時に読んでいれば、作中で繰り返し出てくる「壁」や、凍りつくようなファイアンドランドの土地柄、
そして特権市民という存在から、特定の場所や国家の姿を連想するのはたやすかったでしょう。
むしろ鉄のカーテンやベルリンの壁といった言葉が風化しつつある2014年にはじめて読む読者のほうが、
具体的なイメージが浮かびにくいかもしれません。
しかし見方を変えれば、世界各地に宗教対立と民族紛争が蔓延した現在のほうが、ケインの言う「壁」が
より身近な存在として、あらゆる土地のあらゆる人々の心の中に立ちはだかっているようにも感じます。

しかし「否定」という作品の魅力は、現実の投影という狭い視野に限られるものではありません。
むしろそれ以外の部分、特に「物語について語る物語」であるという構造、さらには物語で現実を語り、
語られた物語がいつしか現実になっていくという相互作用こそ、現実感覚のあいまいさを書き続けてきた
プリーストならではの個性と筆力が、最も発揮されている部分だと思います。

作中人物が架空の物語について架空の会話を繰り広げることで世界が内側に畳まれていき、
最後には架空の物語が現実とひとつに溶け合って、静かなクライマックスへと到達する。
その畳み方も見事ですが、畳むまでの過程に仕掛けられたいくつもの伏線の配置が見えてくると
この作品全体の巧妙な組み立て方に、改めて驚かされます。

さらっと読むと難解だったり意味が読み取れなかったりするかもしれませんが、何度か再読して
細部をしっかりと拾っていくと、やがて何が書かれているかがすっきり見通せると思います。
そうした再読の中で前に読み飛ばした部分を見つけたとき、はめそこなっていたパズルのピースが
ピタリとはまったような気持ちよさが感じられるのも、この作品を読む楽しみのひとつですね。

このように短編としての完成度も高い作品ですが、『夢幻諸島から』に収録された関連エピソードと
あわせて読めば、さらに大きな満足と感動が得られると思います。
そのうちひとつはモイリータ・ケインが作家になるまでの過程を書簡形式で綴った「フェレディ環礁」。
これについては、訳者の古沢嘉通氏がSFマガジンに寄せた解説にも書かれています。

もうひとつの重要な章については、古沢氏もタイトルを伏せていますので、あえてここにも書きません。
既に『夢幻諸島から』を読んだ人ならば、どの話なのかはもう知っているはずですし(笑)。

もしも「否定」を読んだ後に『夢幻諸島から』へと進むなら、どれがその話なのかを探してみてください。
きっと「ああ、そうだったのか!」と改めて驚き、そしてなんともやるせない気持ちになると思います。
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クリストファー・プリースト『夢幻諸島から』感想

2014年02月15日 | SF・FT
『奇術師』『双生児』といった傑作で、個人的には「プラチナ・ファンタジイ作家」という
勝手なイメージを持っていたクリストファー・プリーストの新作『夢幻諸島から』が、
新銀背こと新☆ハヤカワSFシリーズから登場しました。
そういえばプラチナ・ファンタジイってシリーズ名、いつのまにか使われなくなってたような・・・。

余談はさておき、かつて創元推理文庫やらサンリオSF文庫などで英国SF界期待の新人と紹介されていた
われらがプリーストも、いまや巨匠と目される一人になりました。
かたや同じころに宿命のライバルと言われていたイアン・ワトスンのほうは、なんだかマニア好みの
奇想SF作家というレッテルが貼られてしまったようで、かつてワトスンびいきだった私としては
なんだか寂しいような悔しいような、複雑な気分です。
今でもワトスンは好きですけど、文庫で入手できる作品が全然ないってのはあまりに不憫な扱い・・・。
おっと、今はワトスンじゃなくてプリーストの話をしなくては。

プリーストのSFといえば、『ドリーム・マシン』の多重世界が思い浮かぶ人も多いはずですが、
個人的には『逆転世界』みたいな“特殊な環境下で形成される社会と、そこに生きる人々”についての
粘っこい描写が好きでして、その両方の要素を適度に混ぜ合わせた世界こそ、時間と空間に歪みを持つ
“夢幻諸島”ではないかと思ってます。
そんな設定に、プリーストお得意の“身代わり”や“分身”といった要素が加わった『夢幻諸島から』は、
いわば全プリースト作品の見取り図であり、それらにアクセスするための格好のガイドブックでもあります。

さて、本作は連作短編集の形をとっているので、そのうちいくつかの感想を紹介してみます。

「大オーブラック」
未開の島に上陸した昆虫学者オーブラックのチームを襲う、未知の生物による脅威。
無名の土地や生物がそれにゆかりのある人物の名をつけられることは、彼らを襲った運命を考えると
なんとも複雑な気持ちになってしまいます。
しかしそれ以上に複雑な気持ちにさせられるのが、悲劇の後にオーブラック諸島に起こった後日談。
最初は人類絶滅の危機かと思われた殺人昆虫も、資源目当てに進められた開発によって駆逐され、
その毒は相変わらず危険視されながらも、管理できないリスクとは見なされなくなっていきます。
一方、リゾートとハイテク企業で繁栄するオーブラック諸島では若年労働者の死が著しく高く、
昆虫という言葉を使うことは極めて厳格に規制され、さらにこの島でゴルフに興じる人々は、
決して明らかにされない理由により、自らゴルフボールを拾うことが禁じられています。

人間が管理できる危機に対して徐々に失われていく恐怖心と、本当は管理などできていないことを隠し、
その危機について語ることさえ憚られる社会の不気味さ。
このシチュエーションには、わが国の抱えるある大きな問題との類似を感じてしまいます。
まあこの作品の原書が2011年に刊行されたことは、単なる偶然の一致なのですが…。

「ミークァ/トレム」
夢幻諸島の地図を作ろうとするヒロインと彼女の失踪した恋人、そして島々を撮影する無人機の物語。
ヒロインの心象に夢幻諸島の定まらない地形が重ねあわされた作品ですが、その背景には
サイバーパンクに通じる変容譚が隠されているようにも感じました。
失踪した恋人は無人機と一体化し、常に彼女を見つめ続けているのかもしれません。
それにしても、自律飛行する無人機たちが夢幻諸島の自然に組み込まれていくイメージが美しい。

「シーヴル」
謎の意思を発する遺跡を調査するためにやって来た男女が遭遇する、奇妙な現象。
読み方によってはホラーにもSFにも受け取れそうな作品です。
SF的なガジェットとしては、副題にもなっている“ガラス”が活躍するのですが、
あまり掘り下げた説明がないので見逃されやすい気もしますね。
なお、他の収録作にも“ガラス”は繰り返し登場しており、『夢幻諸島から』全体における
最重要キーワードのひとつと考えて良さそうです。

収録順では「シーヴル」より先に置かれている「グールン」とは、舞台となる島や事件の発生時期なども
共通しており、同じ物語の別バージョンのようにも読めますね。
主人公の“トーム”という名も、「グールン」の主人公であるハイキ・トーマスの省略みたいに聞こえますし、
どちらもガラスをめぐる物語ですし。

あるいは同一人物の辿った異なる人生を描いた物語なのかもしれないし、ある人物に起きた出来事を題材に、
別の人物が二つの物語を書いたのかもしれない。
そもそも島名以外に副題がついてる章については、作中に創作が含まれている可能性を示唆しているとも
考えられますからね。

余談ですが、ガラスと時間を扱ったSFといえば、やはり英国作家であるボブ・ショウの代表作
『去りにし日々、いまひとたびの幻』を思い出しますが、『夢幻諸島から』はこの名作に対する
ある種のオマージュではないのかな…とも考えました。

「ヤネット」
二人のインスタレーションアーティストが出会い、共同制作によって島に声を与えようとする。
『夢幻諸島から』という作品全体を通して、表現と芸術は繰り返し語られるテーマのひとつです。
ヨーとオイ、どちらの作る芸術作品もユニークですが、それ以上にゲリラ的な製作スタイルが面白いです。
島を改造して声を与え、風によって叫ばせるというヨーの発想は、いわば「島自体を人にする」ようなもので、
人工物が島の一部になっていく「ミークァ/トレム」と対になっているようにも感じました。

これらの作品の他にも、相互の作品同士で登場人物や事件に相関性や相似性があったり、
登場人物同士の役回りが共通してたり対照的だったりと、実に入り組んだ構成になっています。
かといって、それをつなぎ合わせても物語の確実な全容が現れるわけではない…というのが、
『夢幻諸島から』の困ったところであり、また大きな魅力でもあるところ。
こういうお話は、ああだこうだと頭の中でこねくり回している時が一番楽しいですからね。

時間の歪みというSF的な設定が下地にあるものの、科学と人間の力が大きな世界をどうにかする物語とは
ちょっと毛色が違います。
むしろ大小さまざまな島の風土やそこに暮らす人々の暮らしぶり、そして外部からの来訪者たちが引き起こす
様々な事件を連作形式で書くことにより、個々の短編では見えなかった“夢幻諸島”全体を取り巻く物語が、
いわば海流や季節風のように浮かび上がってくる感じです。

海洋によって分割された島々が風によって季節ごとに姿を変えるように、空間によって隔てられた舞台が
時間の歪みによって様々な様相を見せ、ひとつの事件に無数の解答が示される。
それが“夢幻諸島”という世界に存在する、唯一の真実なのかもしれません。
大きな世界をひと括りに語るのではなく、小さな世界の集合体として多面的に組み上げ、そこに結ばれる
あいまいな像を楽しむこと。
それが『夢幻諸島から』との理想的な向き合い方ではないかなー、と思ったりして。

そして全編を読み終えた後に改めて序文を読むと、初読時は何を書いてるのかさっぱりわからなかった内容が、
実は極めて要領よくまとめられた本編の要約だったことに気づきます。
この序文こそ、『夢幻諸島から』の最終章にして、再び島々へ旅立つためのスタート地点となる場所なのです。

また、読者はこの序文を読むことで、書き手であるチェスター・カムストンの視点を引き受けることになり、
いわばチェスターの分身めいた立場におかれます。
つまり本編中でチェスターが偽名を用い、あるいは双子の兄を身代わりにしたのと同じことが、読者自身にも
起こっているわけですね。
こうした入れ替えトリックはプリーストのお家芸ですが、他ならぬ読者を巻き込んで共犯者に仕立て上げるのが
ミステリとしても楽しめる趣向ではないかと思います。

なお、「シフ」の章で書かれている内容に従えば、『夢幻諸島から』の刊行とチェスター・カムストンを含む
作中の登場人物が生きていた時代には、およそ200年の隔たりがあります。
それにもかかわらず、(さらには作中ですでに死んでいるはずの)チェスターが序文を書いているのは
大きな謎ですが、これはやはり夢幻諸島の特徴である“時間勾配”のせいなのでしょう。
時間勾配についてはプリーストの短編集『限りなき夏』に収録された「青ざめた逍遥」でも語られていますが、
あの作品では違う時代の主人公がいくつものバージョンとして同じ場所に存在しているくらいなので、
『夢幻諸島から』で別バージョンのカムストンが何人出てこようと、別に驚くことではないのかも(笑)。

その一方、この序文を書いたのは“チェスター・カムストン”を騙る別人だという可能性もありますが、
その場合は“誰がチェスターを名乗っているのか”というのが問題になります。
ここで手がかりになるのが、序文の前に置かれている「エズラに」という献辞です。

夢幻諸島で最も影響力のある社会運動家・カウラーをファーストネームの“エズラ”と呼べるのは、
カウラー自身が「ただ一人その名で呼ぶことを許した人」というチェスター本人のみ。
しかし、チェスターとカウラーの双方に傾倒した人物であれば、チェスター・カムストンになり切って
“エズラに”という献辞を書く可能性もあるんじゃないでしょうか。
そうだとすれば、一番の容疑者となるのはチェスターの熱烈なファンであり、処女作でカウラーをモデルに
『The Affirmation(肯定)』という作品を書いた作家、モイリータ・ケインとなるでしょう。

そして『夢幻諸島から』の著者でもあるクリストファー・プリーストが、ケインの書いた作品と同名の
『The Affirmation』という作品を書いている…とくれば、もはやどちらの書き手が分身なのやら。
そもそも夢幻諸島のある惑星についても、海の割合が70%だったり、テクノロジーや言語が我々の世界と
全く同じものだったりと、わざわざ地球との“双生児”に設定したようにも見えますしね…。

『The Affirmation』という作品を介して、作家自身を夢幻諸島という仕掛けに組み込んでしまうことで
夢幻諸島と我々の世界が合わせ鏡となり、さらには置き換え可能な別の現実、見え方の違うもうひとつの
世界として、読者の前に立ち上がってくる…これがプリーストの狙った最大のイリュージョンなのかも。

なお、この作品集で語られなかった夢幻諸島の物語の一部は『限りなき夏』で読むことができます。
さらにS-Fマガジン2014年4月号「ベストSF2013」上位作家競作では、長らく入手困難だった
モイリータの登場する短編「The Negation(拒絶)」の新訳(しかも改訂版)が掲載されるとのこと。
この勢いで、2013年に出たばかりの夢幻諸島もの最新作『The Adjacent』、そしてコラゴによる
不死研究を取り上げた『The Affirmation』といった長編も、ぜひ訳されて欲しいものです。
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2014年もよろしくお願いします

2014年01月01日 | その他の雑記・メモなど
あけましておめでとうございます!

2013年はシネパトスの看板で締めましたが、2014年の幕開けは同じ東銀座にある
新歌舞伎座の写真から。

無くなるものがある一方で、伝統を保ちながら再生していくものもちゃんとあるのですね。
そういうものを大切にしつつ、新しいものにもちゃんと目を向けていきたいと思います。

2014年もいろいろなものを見て、いろいろな体験をし、いろいろな人と気持ちを分かち合いたいです。

そして2014年は、奇想SFの頂点に立つ「ぶつかりおじさん」こと、故R・A・ラファティの
生誕100周年記念の年でもあるわけでして・・・。
さて、そっち方面ではどんな催しがあるのかな…などと、今からワクワクしております(笑)。

それでは、2014年もよろしくお願いいたします!
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2013年もありがとうございました

2013年12月31日 | その他の雑記・メモなど
2013年も残すところあとわずかとなりました。
今年もいろいろな本を読み、いろいろな映画や展覧会を見て、いろいろなイベントなに行ってきたけど
なかなかブログに書けませんでした。
Twitterに比重が移ってるせいもあるけど、なにより本人の頑張りが足りないことを反省しております。

SF小説では昨年から引き続いてのラファティ刊行ラッシュに加え、『たんぽぽ娘』の刊行によって
奇想コレクションが無事完結した事、『パラークシの記憶』の邦訳といったうれしい話題続きでしたが、
個人的に一番楽しみ、かつ戸惑わされたのは『夢幻諸島から』ですかね。
いまだに感想が書けないほど考え込む点の多い作品ですが、年明けにはなんとかまとめてみたいものです。

アニメでは劇場公開された『風立ちぬ』や『かぐや姫の物語』に注目が集まりましたが、個人的には
『言の葉の庭』や『劇場版 魔法少女まどかマギカ [新編]叛逆の物語』『空の境界 未来福音』等の
ジブリではない作品の活躍に眼を見張る思いでした。
そうした中でも特に心に残ったのが、NHKで放送されたアニメ版『花は咲く』の映像です。
短編アニメとしての凝縮感の中にありったけの情報を集約して、人生の中にあるつながりやふれあい、
そして人々の生きる場所への思いといったものを描き切った作品であり、原曲を震災ソングという枠から
みんなが口ずさむ普遍的な歌へと解き放った点においても、大きな意義のある作品ではないでしょうか。
この短編のキャラクターデザインを手がけたこうの史代先生のマンガを片渕須直監督が劇場アニメ化する
『この世界の片隅に』の出来ばえについても、期待されるところです。

展覧会で一番よかったのは、五島美術館の光悦展かな。図録が変えなかったのはいまだに悔やまれます。
また、細田守監督を迎えて限定開催された「京都展」観覧企画も、印象に残るものでした。
特に『時をかける少女』に東博が出てきた裏話を、細田監督本人から聞けたのがうれしかったなぁ。

そしてイベントですが、これはなんといっても呉で行われた「このセカ探検隊」に尽きます。
このレポートを書けただけでも、ブログやってた意味があったというもの。
他にも防府でのマイマイ探検隊や広島での片渕監督仕事展、そしてロフトプラスワンでのトークなど
振り返ってみれば今年も片渕監督関連で心に残る出来事がたくさんありました。
ファン仲間にお約束もしたことだし、ロフトでのトークもなんとかまとめなくては…。

それでは最後に、2013年3月をもって閉館してしまったシネパトスの看板写真を挙げておきます。


このシネパトスのように、無くなったもの、消えてしまったものもたくさんあるけれど、
それらが伝えてくれた思い出とか感動といったものは、きっと次の何かに伝わるはず。
そうした気持ちを少しでも伝えられれば…という思いを持って、来年もブログを続けていきます。

それではみなさま、よいお年をお迎えください!
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