Biting Angle

アニメ・マンガ・ホビーのゆるい話題と、SFとか美術のすこしマジメな感想など。

『ここまで調べた「この世界の片隅に」』第1回レポート(2013年12月23日開催)

2014年03月19日 | この世界の片隅に
2014年3月23日、新宿ロフトプラスワンにおいて、片渕須直監督の新作アニメ映画「この世界の片隅に」の
製作過程について、監督自らが語る『ここまで調べた「この世界の片隅に」』の第2回が開催されます。

このイベントを目前に控えて、2013年12月23日に開催された第1回の内容を振り返るため、
遅ればせながら当日メモしてきた内容をまとめたレポートを掲載させていただきます。

なお、あくまで聞き書きによる個人的な記録なので、内容の不備等についてはご容赦ください。
また、記事についてなんらかの問題がありましたら、コメント欄にてお知らせ願います。

出演者は片渕須直監督、作画監督の松原秀典さん、イベント主催者でアニメスタイル編集長の
小黒祐一郎さん。
ただし話の大部分は片渕監督による講義スタイルだったので、まとめ文も講義のノートみたいな
箇条書き風になりました。(読みにくくてすいません)

それでは、ここからレポートです。

【前半】

イベント冒頭、壁一面を占める本棚とそれを埋め尽くす資料が映し出されました。
そのほとんどが、呉の郷土史や警察史、消防史を含む「この世界の片隅に」のための製作資料。

片渕:最近は頼まなくても地元の古本屋が資料を送ってきてくれる。
   はじめは郷土史家だと思われてたみたい。

   (資料に)ないものは作って出すのか、なければ出さないかの選択をしなければならない。
   でも資料の中で必要な情報は1冊にひとつくらいしかない(そのため自分で加工が必要)。
   港に泊ってる船の時刻と位置まで調べて、それをExcelでシート化するとか。

   原作そのままのレイアウトだと、映画にするとき左右が足りないので、元の資料にあたることになる。
   江波が描かれたコマについて調べると、背景の松は当時もあったが、出っ張りの部分は戦後のものと
   わかったので、現地を見に行った。

   江波山の気象台については柳田邦男が書いている。
   近くにある高射砲を撃つ時、街を撃たないようにするのに困ったとのこと。

   (イベントを開催したのが天皇誕生日なのにちなんで)今上天皇の生まれたのが、
   原作のプロローグの前の月にあたる昭和8年12月。
   
   すずさんの家があるあたりは、現在高速道路を建設中。
   すずさんが絵を描く場面は、江波山の上から見下ろしている。
   こうの史代先生は地図を見ながらマンガを描いたそうで、自分以外にも
   そういう人がいるんだと知って感激した。
   
   原作について調べれば調べるほど、腑に落ちる点がある。
   そして原作に描かれているのはけっして「片隅」ではなく、その裏に世界のすべてがあると気づいて、
   それに触れたいという思いが強くなる。
   (原作に描かれている情報について)知らないよりも知っていて描くほうが納得できる。
   こうのさんは地元なので、我々の知らない深いところまで知っている。
   もともと民俗学的な発想を持っている人。

   現地訪問4回目で松原さんに同行してもらった。
   広島のダマー映画祭で話す機会があったとき、作中に描かれた建物に手すりがあるどうかについて、
   1年前まではついていたことが判明した。
   すずさんが実家から海苔を売りに行った先は、中島本町にあった「ふたば」。
   どの橋を渡ったかを特定するため、江波から中島本町までのルートをたどってみたところ、
   相生橋ではないかと思う。
   この橋は上から見るとT字型をしていて、原爆投下時の目印にもなった。
   (ここで当時の写真が写される。確かにT字型。)

   中島本町の写真は見つかったが、平和記念公園になってしまって面影はない。
   1つだけ残っている当時の建物が大正屋呉服店で、今はレストハウスになっている。
   現地に行ったとき、作品と重なるものがあると、それを見た人が「この世界」と重ねられるのがいい。

   レストハウスはあまり寄ると原爆に耐えた姿が描ききれないので、いろいろと考えて今の(原画の)
   アングルに決めたが、そうなると(原作に出てこない)周りの建物も描かなければならない。
   でもよくわからないので、今度はそのための資料を探す。
   
   古い地図で隣の店が大津屋であることは特定したが、今度は店の写真が欲しくなってしまって、
   手に入ったいろんな写真で検証することになる。
   商工会人名録で電話を調べたら、この写真は違うらしいと判明したこともある。
   
   レストハウスに手すりのあとがあるので、いつついたかを調べ、手すりのついている写真を発見。
   当時小学生だった人に聞いてみたら、金色の手すりがあったとの証言を得たが、大正屋呉服店にも
   手すりがあったとの話になり、手すりを追加した。
   
   中島本町は(戦前の広島でおなじみだった)スズラン灯が最初についた場所。
   写真を見てスズラン灯を数えていると、道路にマンホールらしきものを見つけた。
   調べてみると実際にマンホールがあったとわかったが、その過程でマンホールマニアの方と
   知り合いになり、下水道史の本まで購入してしまった。
   おかげで杉並区のマンホールのデザインまでわかるようになった(笑)。
   (原作中には)出てこないことまでやってしまっている。
   
   写真を調べていて、ガラスに映りこんだ文字を読むためにPhotoshopで反転させたところ、
   大売出しの垂れ幕だとわかった。
   写真は個人所有のものも多く、中国新聞の編集委員の方が当時についていろいろ調べているが、
   権利等もあるので教えてもらえない。
   レストハウスになった大正屋呉服店のハッピは、現物が見つかった。

   原作の始まった時期は、12月の皇太子誕生のお祝いムードがまだ続いていたはずだが、
   当時の街の様子が検証できないので、少し前の12月22日の写真を参考にしている。
   (街のショーウィンドウに並んでいるマネキンについて)当時のマネキンは全て西洋人がモデルで、
   金髪碧眼に作られているので、戦争が始まると黒く塗りつぶそうかという話もあった。

   世界があって、その片隅にすずさんがいる。その周囲のうすぼんやりしたものが
   (いろいろ調査することにによって)クリアになっていく。

   原作のあるコマに、当時のヨーヨーブームについて描いてあるが、写真で調べることによって
   原作に近づけた感じがする。小津安二郎の映画にもヨーヨーが出てきた。
   (当時の写真を写しながら)天秤棒をかついで行商をしながらヨーヨーをするほどのブームだった。
   すずさんが欲しいものを思い浮かべる場面でヨーヨーが出てくる謎が、ようやく解けた。
   
   すずさんが欲しいものの中にキャラメルも出てくるが、当時は20個入りと10個入りがあった。
   こうの先生からは「これは20個入り十銭が3箱ではなく、10個入り五銭が3箱」と教えてもらった。
   映画でキャラメルを出すなら森永製菓に協力してもらうしかないと思っていたら、たまたま背景に
   森永の看板がついた建物の写っている写真が見つかった。

   原作の中に、既に多くの世界(の情報)が入っていて、それを紐解くとさらに世界が広がっていく。
   こんなにおもしろいマンガはない。
   (すずさんのいた)この街が確実にあったという感じ、その上に歴史が流れている感じがする。
   (原爆投下後に撮影された中島本町の写真を見ながら)彼女たちの実在を信じないほうがおかしい、
   確かにここにいたんだと思えてくる。その人たちの見ていた世界を描く。
   内容がわかればわかるほど、世界が広がるマンガだと思う。

松原:戦争の大きな事とすずさんの個人的なことが、等価で描かれている。
   原爆投下後の荒れ地を見ながらの会話。当時は日本中の状況がわからない。
   これは3.11の状況と似ているのではないか。
   こうの史代さんのバランス感覚がすごい。原爆が落ちてからその音が聞こえるまでに、
   すずは自分の身の振り方を決めなければならない、その運び方がすごい。

片渕:江波は爆風が来ているが焼けてはいない。
   (気象台では)キノコ雲の気象観測をやっていたらしい。
   8月7日にはNHK広島放送局が放送を再開し、電気も復旧している。

松原:そういうのは今も変わらない。インフラに携わる人がすごくがんばっているのに感動する。

片渕:『火垂るの墓』では火災時に消防車のSEがないが、本来ならガンガン走っていたはず。
   原爆で燃えた火事を消し止めた碑があると知り、つい広島県消防史を買ってしまった。
   当時の消防車は赤くない。
   原爆投下の一方で、警官が市民に罹災証明を発行している様子の写真もある。
   こういうことが、世の中の片隅、反対側にある。ここ2年くらい前に見た光景に近い。
   昭和20年の光景と(現在は)縁遠いものではない。いつこうなるかわからない。

ここで前半が終了。
休憩中には会場のロフトプラスワンが用意した、本日の特別メニュー「すいとん」の説明がありました。
これは片渕監督のオーダーで、原作に出てくる食事をアレンジしたもの。
(白玉もちが入っていたりと、当時よりは格段に豪華でおいしいものでした。)

片渕:本来は米を炒ってふやかした楠公飯を出したかった。
   (原作では)あまりおいしくなさそうなものを出すのもどうかと考えてやめにしたけれど、
   実際に作ってみるとなかなかおいしいので、話がちょっと違う。

   (すいとんの材料について)戦時中の小麦粉は今と違って、ビタミン補給のため「ぬか」を混ぜたり、
   イワシを粉末にした魚粉を混ぜたりしていた。
   でも味つけの醤油がなかったので、あまりおいしくなかった。
   ここで食べられるすいとんが、いかにしあわせなことか。

   白米も七分つきや五分つきとなり、やがて米が減って押し麦と大豆が主食になる。
   呉は海軍のおひざもとなので、これでも食糧事情は恵まれている。
   砂糖の配給タイミングを調べたところ、原作と事実が一致していた。
   昭和19年の正月には服、着物、酒などが配給されていて、まだ国民への気配りがあったとわかる。
   スイカは昭和16年から24年まで禁止作物だったので、原作でもヤミで売られている。
   マンガを読み始めて知的冒険になるとは思わなかった。

【後半】

片渕:原作に出てくるのり作りについて、松原さんと一緒に広島へ体験しに行った。
   広島の作り方は紙すきに似ているが、松原さんは改良の余地があると言っている(笑)。

   (ここで会場に戦前のおしろいを回し、当時の香りを体験)
   大正時代には既にサンタがいた。

   戦時中といえばモンペと防空頭巾のイメージがあるが、その服に切り替わった時期や、
   胸に名札を縫いつけるようになった時期を特定する必要があった。
   そこで当時の服装が映っている写真を集めて年代順に並べてみると、モンペを着ていない人が
   多いことがわかった。
   調べてみると、昭和13年頃には洋装化が進んだらしい。すずさんも登場時は着物だったが、
   やがて洋装に変わっている。
   でも洋装になったときも、妹は完全に洋服なのにすずさんは洋装の上から半纏を着ている。
   ここからすずさんのすぐには変われない性格、周囲より少し遅れて変わっていく性格がわかる。
   
   女性の服装はモンペよりもズボンやスラックスが着用されていて、当時は男性用のズボンを改造した
   サロペットを履く人が多かった。ズボンの裾を絞って履くと、モンペのように見える。

   すずさんが持ち歩くバッグの取っ手は木製だが、このバッグは当時の写真にもよく出てくる。
   こうの先生はこういう点も調べて描いている。

   昭和18年に、文部省が女子生徒の服装をモンペに統一するよう決定し、
   19年までにモンペへの移行が進んだ。
   昭和18年の秋にはモンペ流行のきざしが見えるが、原作でもその頃からモンペを着るようになっている。

   昭和19年の4月から、胸に身元票(名札)を縫い付けるようになった。
   これは政府が敗戦と本土攻撃を意識するようになったから。(国民に被害が出ると想定しての措置)

   昭和19年9月には、女児の服装がモンペ化される。
   女性の服装もモンペやズボン姿となる。
   この頃に日本はマリアナ諸島を失い、本土空襲が現実的になった。

   昭和20年1月に大阪府警察局から、市民が正月にモンペを着ていないことについての
   注意喚起が出されている。
   こうした様子を見ると、人間はギリギリになるまで変われないのではないか。
   これは危機感が無いのではなく、そもそも人間とはそういうものだと思うし、そんな部分に共感する。

   アニメの絵コンテについては、平成24年に全部上がっている。
   その後、現地のロケハンに持ち込んで修正したりしているが、むしろレイアウトで
   修正したほうがいいだろうということになり、今はそうした作業を進めている。

松原:自分もマンガの絵を頭に入れたり、現地に行くと古い建物がちょいちょいあったりで、まだ勉強中。

片渕:当時の広島駅の様子も割り出してある。

松原:これが長い話で、これだけでイベント1回分ができるというもの。

片渕:大河ドラマなみ(笑)。(それだけ)ちゃんと作りたいと考えている。

松原:1日1回は(片渕監督の奥様でアニメーターの)浦谷さんに描き直しを頼んでいるけど、
   いつか大変なことになるのでは(笑)。

片渕:今は戦艦大和が見える位置を割り出しているところ。
   いっぺん手をつけると、浦谷さんがそれに沿って作業をしてくれる。
   11月に呉で開催された「艦隊これくしょん」のオンリーイベントにあわせて、
   (哲さんが乗っていた)巡洋艦青葉のイラストを描いてもらった。
   開催まで2週間しかなかったのに、浦谷さんはちゃんと描けてしまう。

小黒:普通ならメカ専門の作画担当が描くもの。

松原:自分がここにいるのは(NHKが製作したアニメPVの)「花は咲く」に、
   MAPPAの丸山正雄プロデューサーの声かけで関わったから。
   この仕事がおもしろかったので、「この世界の片隅に」でも何かできないかと頼んでおいたら、
   丸山さんからお呼びがかかった。でもまさか作画監督とは思わなかった。

片渕:「花は咲く」で担当してもらった原画パートでの芝居が、絵コンテを上回るほどよかったので、
   今度はぜひすずさんを描いてもらいたいと思った。

松原:監督から話を聞いて(いろいろ)わかってくると、思い入れが強くなる。
   実在しない人なのに、頭の中がすずさんでいっぱいになってしまう。このおかしな感覚。
   (代表作である)『ああっ女神さまっ』や『エヴァンゲリオン劇場版』とは絵柄が違うので、
   自分で描いてみたら(原作と違和感があって)ヘンな感じ。
   
   ひとつの絵柄をモノにするのに、早くても半年はかかる。
   頭の中で(絵柄が)できあがらないと、手から出てこないので、ちょこちょこと描いてみている。

片渕:広島から帰ってくる車中で松原さんと話したときに。
   (註:この時の経緯は『1300日の記録 第59回』に記載があります。)

松原:見ていてひっかかった事を片渕監督に聞くと、全部答えが返ってくる。
   実在しない人の話をまるで実在したかのように真剣に話しているのが、おかしな感覚。

片渕:空襲の写真を見ていると、このへんにずずさんがいたんだと思えてしまう。
   原作者のこうの史代さんも、同じように考えている。
   すずさんが実在していたらいまは80歳代。まだここで生きているのでは。
   こうした話をする機会をシリーズ化したいという思いがあったところに、
   小黒さんが場所を見つけてくれた。

松原:できればこうの史代さんをお呼びして、話を聞いてみたい。
   あと、浦谷さんの絵がうまくて(自分のほうが)困っちゃう。

片渕:戦時食を作る体験会を以前にやったが、またやってみたい。
   twitterで@kuroburueをフォローしてもらえば、今後もいろいろ情報を発信していく。

以上、ざっくりとしたまとめでした。

今回の話を聞いて、片渕監督や松原さんが進める作業の中身がよくわかりました。
それは「こうの史代先生によるマンガを一読者として読み解き、取材と資料によって現実と結びつけ、
そこからアニメによる表現として『この世界の片隅に』という作品を丹念に組み立てていく」という
気の遠くなるような取り組みです。

アニメ製作者すべてがこうした作り方をするわけではないし、これがベストだというつもりもありませんが、
この製作スタイルが原作と現地で起きた出来事に対する、最も誠実かつ真摯な姿勢であるということだけは
間違いないと思います。

こうした姿勢で作られる、アニメ版「この世界の片隅に」を、ぜひ原作のファンに見て欲しい。
そして可能なら、先行イベントである第2回『ここまで調べた「この世界の片隅に」』にも足を運んでもらって、
自らの目と耳でその製作過程を確認してもらえたらと思います。
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