山陰地方の鳥取・島根両県は、存在感のない県である。二つの県の位置関係をしっかりと認識している人は、大学人のなかにおいてさえ稀であろう。ぼくは高名な社会学者から、「君は鳥取の出身か。じゃあ高校は松江北だな」といわれたことがある。しかし、こうした混同が生じるのも故なきことではない。明治の初年の鳥取県は、島根県に併呑されていたのだから。
鳥取藩は32万5000石の大藩。他方、松江藩は名君、松平不昧(ふまい)公の名で知られている。松江は江戸期を代表する文化的先進地ではあった。しかし石高は、鳥取藩よりはるかに小さい。しかも親藩だ。松江藩を母体とする島根県が鳥取県を併呑することなど理論的にはありえない。だが鳥取藩の石高は、みせかけだけのものだった。実際には14万石ほどしか収入はなかった。文化だけではなく財政規模の点でも松江藩に劣っていたのだ。
参勤交代や幕府の公共事業(?)への労役の供出は石高を基準に求められる。鳥取藩の収入は少なく支出は異様に多い。かくして「鳥取と貧乏は双生児」という状況が生まれた。鳥取には「豆腐ちくわ」という名産品がある。鳥取の地酒と実によくあう。しかしあれは代用食だった。魚のすりみは高価で手に入らなかったから、豆腐でちくわを作っていたのである。
鳥取には「煮えたら食わあ」ということばがある。優柔不断で自分で決断ができない。周囲の様子をうかがい、多数派に従おうとする鳥取人の習性をいいあてたことばだ。明治維新の時の鳥取藩の行動は、まさに「煮えたら食わあ」。最初は長州征伐に軍勢を送る。ところが薩長同盟が強いとみるや、そちらに寝返ってしまった。定見がまったくないのだ。
これでは薩長藩閥政府に馬鹿にされるのも道理である。だから鳥取は島根に飲み込まれてしまった。明治9年のことである。悲惨だったのは、鳥取の士族である。県庁を松江にとられたために官吏になっていた士族がみな失業してしまった。士族は何もできないし、そもそも城下町鳥取には何の産業もない。もともと貧乏な鳥取士族のなかには、餓死するものさえ出たというから凄まじい。食いつめた士族たちのなかから、激烈な「鳥取県独立運動」が生じるのだが、それは後日、稿を改めて。
鳥取藩は32万5000石の大藩。他方、松江藩は名君、松平不昧(ふまい)公の名で知られている。松江は江戸期を代表する文化的先進地ではあった。しかし石高は、鳥取藩よりはるかに小さい。しかも親藩だ。松江藩を母体とする島根県が鳥取県を併呑することなど理論的にはありえない。だが鳥取藩の石高は、みせかけだけのものだった。実際には14万石ほどしか収入はなかった。文化だけではなく財政規模の点でも松江藩に劣っていたのだ。
参勤交代や幕府の公共事業(?)への労役の供出は石高を基準に求められる。鳥取藩の収入は少なく支出は異様に多い。かくして「鳥取と貧乏は双生児」という状況が生まれた。鳥取には「豆腐ちくわ」という名産品がある。鳥取の地酒と実によくあう。しかしあれは代用食だった。魚のすりみは高価で手に入らなかったから、豆腐でちくわを作っていたのである。
鳥取には「煮えたら食わあ」ということばがある。優柔不断で自分で決断ができない。周囲の様子をうかがい、多数派に従おうとする鳥取人の習性をいいあてたことばだ。明治維新の時の鳥取藩の行動は、まさに「煮えたら食わあ」。最初は長州征伐に軍勢を送る。ところが薩長同盟が強いとみるや、そちらに寝返ってしまった。定見がまったくないのだ。
これでは薩長藩閥政府に馬鹿にされるのも道理である。だから鳥取は島根に飲み込まれてしまった。明治9年のことである。悲惨だったのは、鳥取の士族である。県庁を松江にとられたために官吏になっていた士族がみな失業してしまった。士族は何もできないし、そもそも城下町鳥取には何の産業もない。もともと貧乏な鳥取士族のなかには、餓死するものさえ出たというから凄まじい。食いつめた士族たちのなかから、激烈な「鳥取県独立運動」が生じるのだが、それは後日、稿を改めて。