一杯の水

動物であれ、人間であれ、生命あるものなら誰もが求める「一杯の水」。
この「一杯の水」から物語(人生)は始まります。

「知性」の本性とは?

2005年11月06日 11時58分39秒 | インド哲学&仏教
インドに先日注文した「バガヴァッド・ギーター」等の書籍が一週間で届いた。(当ブログ「私は病気になった。~」参照)
注文したページには、「届くまで20ビジネスデイはかかる」と、書いてあった上に、この時期のインドはお祭り続きでもあり(jagannathaさんのブログ「天竺迦羅倶利庵 御休息処」参照)、到着までに一月半はかかるだろうとふんでいたので、驚いた!

さて、今回届いた「ギーターのシャンカラ註」の英訳二書と、すでに手元にあった英訳本、合わせて三書を利用して翻訳を進めているのだが、楽になるどころか、三書とも訳語が違っていたりして、結局はサンスクリットの辞書を引き引き確認し、翻訳を進めることが多くなった^^;

しかしこれが中々良い!
いままでは(と、言ってもそれほど読んではいませんが)、「イーシャ・ウパニシャッド」(「Hinduism & Vedanta」に連載中!)を翻訳しているように、一語一語文法事項を単語帳に記入しながら、丁寧にサンスクリット原典を読んでいたのだが、英訳三本で、話の流れをいったん頭に入れてからサンスクリット原典にあたると、意外や意外、これが結構なスピードで読めていくのである。
日々、サンスクリットで苦労している自分にとって、まるでサンスクリットが読めるかのような錯覚を起こさせてくれるこの読み方は、とても楽しい!!

さて、昨日で、「バガヴァッド・ギーター シャンカラ註」全18章中の3章までの翻訳が終了した。これはいずれ訳文を整え、随時「Hinduism & Vedanta」の方にアップする予定である。(友人曰く、「これを読める人がいるの?」というほどの内容と訳文らしい。)

「バガヴァッド・ギーター」第3章42節には、以下のようなことが書かれている。

「彼ら(賢者)は、諸感官は優れていると語る。心は〔その〕諸感官より優れ、知性は心よりも優れている。しかし、知性よりも優れているものが、彼(アートマン)である。」
(当ブログ「限定的添性」および「」参照)

ここで「知性」と訳した単語は、サンスクリットで「buddhi」と呼ばれるもので、日本語訳では「思惟機能」(上村訳)、「理性」(辻訳)と訳されているが、英訳はいずれも「intellect」である。私は一応「知性」と訳すことにしたのだが、困ったのはシャンカラの註釈である。
シャンカラの註釈では、「決定を本性とする知性」と、「知性」が説明されているのである。「思惟機能」と訳すにせよ、「理性」と訳すにせよ、はたまた「知性」と訳すにせよ、「決定」という能力はその一部で、「知性」の本性足りうるか、と納得できないものが残った。「梵和辞典」を引いても、概ね「決定」と同様の訳語が挙げられている。ただ、漢訳仏典では「正思惟」という訳例があるらしいので、「決定」の代わりに、強引だがその訳語を使うことにした。

ところが、昨晩、立花隆最前線報告「サイボーグ技術が人類を変える」という興味深い番組に、重度の鬱の女性のインタヴューが採りあげられていた。
彼女は脳のある部位に、電気信号を送る手術によって、鬱から回復したという。彼女はその喜びを次のように語っていた。

「(前略)……、自分でいろいろ決めることも出来るようになったし、……(後略)」と。

な、なんと、「決定」能力は、人間の知性の根幹にかかわるものだったのです!

身近な存在ゆえに、なんとなく知っていると思っている「心」や「自分」を、本当には理解できていないのだ、と改めて思い知らされた一件でした。
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10 コメント

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まだウツ初心者だけど・・・ (吟遊詩人)
2005-11-06 12:25:47
ウツになって、まだ日が浅いけれど、PD(パニック障害)になってからは、もう2年半・・・。



今の自分は、自分じゃないような気が、どれだけしていることか。



「決定能力」も、たぶんかなり低下していると思うし、決定する時も、まず病気のことを考えて決定してしまう。

それって、「自分がこうしたい」とか、「こうありたい」とか、そういうのではないんだよ。

病気を中心に、決めざるを得ないって感じなんだもん。

本当はイヤだけど、病気だから仕方がないって感じで。



そういうことを強く感じる時は、やっぱり、自分が自分じゃないような気がするし、自分の心が自分のものではないような気がするし、知性っていうと、ちょっと難しいけれど、それでも自分の精神性や知性が、なくなってしまったような気になるよ。



ギーターからは、大きく外れてしまったけれど、「自分じゃないような感覚」って、けっこうツライものです。

だって、精神性や知性や想いや感覚が、自分を形作っているわけで、それが自分と乖離しているようなんだもの。

「私の心は、どこへ行ってしまったの?」

なんて、ほんと哀しいものがあるんですよ。
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実はギーターよりも、 (便造)
2005-11-07 13:49:55
「決定」能力は、人間の知性の根幹にかかわるものなのだろうか、ということを皆さんに尋ねてみたかったので、テーマからは外れていませんよ。



やっぱり決定能力というのは大事なんだね。

色々な場面で「自分で決定している」と思っても、本当に自分で決定できているかどうかは定かではない部分が多いよね。



自分の場合は、正しく決定しているというよりは、様々な欲に振り回されているような気もする。
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正しいかどうかは・・・ (吟遊詩人)
2005-11-07 20:42:18
決定と言うものに、正しい正しくないがあるのか、私にはギモンです。

それって、誰が決められるんだろう・・・。

ある決定に、後悔がつきまとうことはあるかも知れない・・・でも、それが正しくないのかどうかは、また別のことのように思えます。



本当に欲のない自己決定が、どれだけあるんでしょうねぇ。

それこそ、解脱した人とか、無私の人じゃないと、無理なのではないかなぁ。

欲っていうのも、色々あるしねぇ。



うむぅ・・・難しいものだなぁ
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サンスクリット (mugi)
2005-11-07 21:48:28
こんばんは、便造さん。



インドに注文された「バガヴァッド・ギーター」等の書籍が、予定よりもずっと早く届いてよかったですね。

それにしても、サンスクリットが分かる方はうらやましい。やはり梵語は難しいのでしょうね。「ギーター」もサンスクリットで読めば、かなり印象が違う事でしょう。

サンスクリットが出来れば、墓地の塔婆に書いてある文字も読めるようになるのでしょうか?
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RE:正しいかどうかは・・・ (便造)
2005-11-08 00:18:33
こうしてみると、「決定」ということ一つから、「では人間には自由意志というものがあるのか」、ということまで絡んできますね。なんか一歩踏み込んで考えてみると、結構深いところまで導かれそうですね。



それから、解脱した人や無私の人の場合は、「決定」とは違うのかもしれないね。決定する本人がいないのだろうから。

こればっかりは、解脱してみないと分からないね。



それからちょっと訂正があります。

>自分の場合は、様々な欲に振り回されているような気もする。



ではなくて、「肩こりに振りまわされている」に訂正します(^.^)
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RE:サンスクリット (便造)
2005-11-08 00:48:16
mugiさんコメントありがとうございます。



サンスクリットは「辞書が引ければ一人前!」と言っている人もいたぐらいです(^.^)

ということで、文字も含めて、学び始めは苦労するかもしれませんね。

でも、ちょと慣れてくると、勘も働いたりするので、多少の時間短縮にはなります。

ま、私の場合は趣味のレヴェルなので、結構気楽です(笑)



塔婆は「悉曇(シッタン)」という書体で、現在ヒンディー語表記等で用いられるデーヴァ・ナーガリー文字よりは、数世紀古い書体になります。

「悉曇」(あるいは「梵字」)の解説書は、結構出ていますので、図書館などでもご覧になれると思います。当然、塔婆の意味も解説されていると思います。



塔婆の表には、上から「空・風・火・水・地」を表す文字が書かれていることが多いかもしれません。

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経験則 (Mars)
2005-11-29 20:35:41
こんばんは、便造さん。



本題から逸れるかもしれませんが、よろしいでしょうか?



人は「決定」をする場合、「知性(理性)」と「心(欲望)」を秤にかけて行うこともあります。

しかし、それだけではんく、経験上から「決定」後の「結果」がある程度、推測できるものであれば、あまり秤にかけず、流れ的に「決定」してしまうことも、あるとは思います。

(例えば、買い物をする場合、初めて食べるものであれば、味や値段を検討しますが、消耗品などは、所持金に余裕があれば流れで買ってしまう場合もあると思います)

人の「決定」には、「知性(理性)」と「心(欲望)」だけではなく、経験則等からも影響を受けているように思われます。

(経験則からの「決定」には、「油断」という落とし穴がある場合もありますね)



お馬鹿なコメントで、申し分けないです。

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RE:経験則 (便造)
2005-11-30 13:11:47
Marsさん、書き込みありがとうございます。



なるほど、Marsさんが仰るように、

>人の「決定」には、「知性(理性)」と「心(欲望)」だけではなく、

>経験則等からも影響を受けている



ということならば、人間が何かを「決定する」ということは、経験則を含めた正しい判断が求められということになりますね。これはやはり大変な精神活動である、といわなければなりませんね。

「決定する」ということが、自分の中で、ますます大きくなっていきます。
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五蘊の識のことでは (ナムトック)
2009-09-08 12:58:18
受想行を経て識を行なうという五蘊の考え方から言っても「判断」は高度な精神活動だと思います。

注:行:記憶をつかさどるところ、エピソード記憶もここに入ると仮定した場合です。
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ナムトックさんはじめまして。 (便造)
2009-09-11 12:56:17
書き込みありがとうございます。
仏教の五蘊も中々難しい問題をはらんでいますね。
自分では「行」が分かりにくいです。
例えば「識」で「分別・判断」したとして、それをもとにして決定する意志作用は「行」にあたるのでしょうか? それとも「識」にあたるのでしょうか?
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