残照日記

晩節を孤芳に生きる。

民は気まぐれ

2010-11-09 09:53:57 | 日記
日の下(もと)では、
すべてに時期があり、すべての出来事に時がある。
生むに時があり、死ぬに時がある。
植えるに時があり、抜くに時がある。……
崩すに時があり、建てるに時がある。……
裂くに時があり、縫うに時がある。
黙るに時があり、語るに時がある。……
  (「旧約聖書」・コーヘレト書 第3章)

∇TVワイドショーや週刊誌、国会審議の場で、相変わらず「尖閣ビデオ流出犯の正体──菅外交が日本を滅ぼす」(週刊朝日)とか、「ビデオの全面公開で国益を失するデメリットは何か」(石破氏)などと、さも国民の代弁者気取りの批判・追求が花盛りである。だがもう「政治ショー」は十分見た。流出してしまったビデオからほゞ全容が推測できた。もういい。<語るに時がある>役目は終わり、<黙るに時>へ移行する時である。たゞ、機密情報漏洩問題については、今後の対策上からも「犯人探し」は不可欠だ。検察の徹底的捜査を望む。又、北方領土問題では、日ロ首脳会談が横浜市で開かれるAPEC首脳会議に合わせて行われる見通しだ。関係者に善処を望むのみ。

∇昨日の中国・広州市でのアジア大会・サッカー会場の様子をテレビでみた。警備はピリピリ、試合中時折ブーイングは起きたものゝ、危惧された大きな問題は発生しなかった。現在、中国の若者たちから、尖閣諸島沖事件への関心は薄れはじめている。又、多くのロシア国民にとって北方領土問題はもともと関心薄の事件であった。“民は気まぐれ”なもの。我々日本人などもその典型だ。日常生活が第一で、直接自分たちの生活を脅かす危険のない事件は、一度は関心を寄せるが、鮮度が落ちてしまえば興味が失せてしまう。今更ビデオが全面公開されたからといって、新奇な事実が「見られる」わけではない。そろそろ<黙るに時があり>のタイミングだ。韓非子曰く、<事は世に従い、備えは事に適応させよ>と。彼は、君主の寵愛の気まぐれなことの譬えに、「余桃(よとう)の罪」という故事を引いた。現代の「民」こそ当時の君主以上に気まぐれであることを銘記すべし。

▼昔、衛の国の霊公に彌子瑕(びしか)という寵臣がいた。彌子瑕は母親が病気になると、君主の許しを得たと偽って、夜中に君主の車に乗って母親のもとに見舞いに行った。君主の許可なくしてその車に乗った者は、本来なら足斬りの刑に処されるのだが、霊公は「親孝行なものだ」と感心して、その罪を不問に付した。また彌子瑕がある日、果樹園で桃を食べると美味かったので、自分が半分食べた桃を霊公にすすめた。霊公は「なんと可愛いやつよ」と感動した。やがて彌子瑕の容色に衰えが見えてくると、霊公の寵愛も日に日に薄れた。そしてついには罪を着せられ、「かつて彌子瑕は、偽ってわしの車に乗り、食いかけの桃をわしに食わせたのだ」と罪状非難される始末になってしまった。(「韓非子」説難篇)