バンビの独り言

バンビことけーちんの、あくまでも「独り言」デス☆

「我が家の子育て日記」(2003.5月〜7月)

2003-05-23 13:35:10 | 子育て親育ち

「保育士断念」2003/05/23

娘の通うR幼稚園の園長先生は本当に素敵な方。
先生方は「うちの園長、すっごく良い人なの。子ども想いなの」と言い、園長先生は「うちはとっても良い先生ばかり。職員室ではみんな仲良しなんですよ」と言う。
女の職場でありながらR幼稚園は雰囲気がとてもとても良い。

園長先生は雨の日も風の日も真夏も真冬も幼稚園がある日は必ず門に立ち、「○○ちゃん、おはよう」と1人1人の名前を読んで挨拶をする。
優しいだけじゃなく、ユーモアタップリ。園長先生の周りではいつも笑い声が絶えない。

早期教育にも興味はなく、小学校に上がるまでに自分の名前が読めるようになれば良い…というお考えなのでとても話をしていて安心できるし、4人のお子さんを自然派育児で育て上げたそうなので共感する部分が非常に多い。

でも、幼稚園の全てにおいて園長先生の理想通りにできるわけではなく、木のおもちゃや絵本の重要性など当然ご存知でも、園にあるおもちゃはプラスチックやぬいぐるみ。
絵本の質もあまり良いとは言えないのが現状。
理想的な保育環境を整えたくとも限度があるのだと思う。

そう思い出してから私の保育士取得へ向けての熱意が徐々に薄らいできた。
自分が経営者にならない以上、自分の理想とする保育などできないのではないか?
万一、いづれ経営者となれたとしても、理想の環境をつくるべく予算など一体どこにあるというのだろう。

時を同じくして、友だちからも止められた。
「保育士に発言権なんてないよ。園長がすべて、経営者がすべてだから、きっと嫌になると思うな」
やっぱりそう思う?

自宅から通える距離にシュタイナー幼稚園があるわけでもなく、現実、保育士になっても「♪トントントントン、カレーパンマン」などと歌い、「ミニモニの靴買ってもらったのー」という子どもに「まぁ、良かったわねー」と笑顔で応えつつも、内心『何か違う』と思うところがオチではないか?

今、子どもと向き合う時間を削ってでも、保育士の勉強をする価値は本当にあるのだろうか?
それよりも、おもちゃや絵本の販売を通じて、素敵なママさんと出会い、共感し、一緒に悩み、一緒に子ども達を見守っていくやり方が自分に適していると考えを改めました。

おかげさまで、今のこの仕事に心底喜びを感じているの。
購入して下さったお客さまに「ありがとう」と感謝して頂ける、こんな良い仕事は他にあるだろうか?
みなさん、本当に有難うございます。そしてこれからも末永く宜しくお願いします(^-^)

…………………

 


「ノンちゃんの困った愛情表現」2003/06/01

ウサコはあまり妹に興味がない。

次女が生まれるまで誰しもが「ウサコは面倒見の良いお姉ちゃんになるだろう」と思っていた。
人形に対してはかなり世話好きだし、当時経営していたお店でお客さんに小さい子どもがいれば駆け寄ってあやしてくれた。
泣いている赤ちゃんに「もうすぐママ来るよ」なんて気のきいた一言でもかけられる気配り。

だが、実際に自分に妹が生まれたら、小さい子への興味はすっ飛んでしまったのだ。
イジワルすることもなく、ケンカにもならず、ただただ「眼中にない」感じ。

妹好きにするために、次女が生まれた直後から「ノンちゃんはお姉ちゃんが一番好きなんだよー」の言葉を繰り返し、家族全員努力はして来たつもりなのだが…。
「ねーねー」と愛らしい声で妹に呼ばれても、「なーにぃ?」一応返事をするだけで振り向きもしない。
「大きくなったら遊んであげるね」「早く大きくならないかなぁ?そしたら一緒に遊べるのに」…。
今はどうにも遊びの対象にはならないようだ。

周囲を見れば仲良し姉妹がとっても多く「あんな風になるのね」なんて『姉妹愛』をずっと夢に見てきただけに、そんなクールな態度に時折焦りを感じてしまう。
『隣の芝生は青く見える』ようによその姉妹がうんと仲良く見えてしまう。

興味のないものに「興味を示せ」と言ったって仕方がないとは分かっているけれど、ついつい「見て、あの子たち仲良しね」「うーちゃんとノンちゃんが仲良しだったらいいなぁ」などとさりげなく嫌みを言ってしまう私。
ある時、「○○ちゃんが、ノンちゃん欲しいんだって」と言ったら「ダーメー!うーちゃんのたった1人の妹なんだから!」と血相を変えて怒って来たから、一応、大切には思っているらしいが…。

でも、実は次女にも問題があるのだ。
ノンちゃんは、人形をそれはそれは愛おしそうに可愛がったり、動物が出てくる絵本には1ページ1ページにチュウするほどの愛情過多(?)な1才児で、これを私は喜ばしく思っているのだけれど、この「愛情表現が」が時に度を超すと、どうにも力が入ってしまうのか歯ぎしりをしてつねる。
人形のほっぺをつねりながら押し倒してチューの嵐を浴びさせる。
この超面白い「めちゃめちゃな可愛がり」ぶりが人形ではなく人間に向けられると問題が生じてしまう。
 

ウサコにのんちゃんの世話を頼むと、そこら中で「いーたーい!やめてよ」という声がする。
あ、またノンちゃん、つねってる…。
ウサコのこと大好きなんだろうけど、それがいつも裏目に出てしまう。
「いたーい。うわぁぁぁん」と泣かされることもしばしば。

時には顔に引っ掻き傷を作ることもあった。
「もう、のんちゃんと遊ぶのイヤだ!」
「痛いよね。嫌だよね。ゴメンね。もう少し大きくなったら分かるようになるから」と言ったら「大きくなって痛いことしなくなったら遊んであげる」…。
うん、だからなのかもしれない…。
まずはノンちゃんのこの愛情表現を修正することが最近の課題です。


「姉妹」2003/06/08

ノンちゃんは1才5ヶ月だというのにまだ大して歩けない。
気が向けば5歩くらいは歩く程度。しかも71cm、8キロというチビの痩せ。「和風中心の食事だし、高カロリーのおやつを食べてないからこんなもんじゃない?」なんてタカを括っていたら、この度「成長ホルモン不足の疑い」となってしまったのだ。
へへへ(泣)。
アレルギーがないから「申し分ないっす!」と思っていたが、子どもの数だけ悩みは出てくるものかな。

ウサコは二重の濃い顔だちなのに、ノンちゃんは一重で淡白。
同じ親から生まれた姉妹だというのに、容姿を見ても、2人はまるで正反対。

だんなが2週間もかけて作ったベビーフェンスの開閉術をウサコは2日で解読したのに、ノンちゃんは6ヶ月もの間、フェンスの前で立ち塞がれていたのだ(笑)。
繊細で頭脳系(?)な長女とのんびり屋の次女。
アレルギーの有無。
「姉妹にしてこうも違うものか」と日々驚くことばかりである。
 

ウサコのアトピーはレベルにしたら「中」だけど、早い時期から「要所見」だったから、赤ん坊の時から不快指数は高かったんだと思う。
よく泣くし寝ない。
機嫌が悪く、一旦グズり出したらなかなか気分転換しない。
人見知りもすごくて、特定の家族にしかなつかない、本当に手のかかる赤ん坊だった。
そして今現在も、一晩に5回は夜泣きをするので、親はその度に起きて体を掻いている。
(一番辛いのはウサコなんだろうけど、夜中の号泣には毎回イラついてしまう…)

「のんちゃんもママも痒いのなくていいなぁ」
「わたしだけ何でアトピーなの?」

最近は素朴な疑問を投げかけられて、返答に困る。
「可哀想に」と言ってしまえばウサコは自分が不幸だと思ってしまうだろうから「人の苦しみが分かる優しい女の子になる為に、神様がそうして下さったのよ。
今は辛いけど、いつか絶対治るから」と言っている。
この先も、どんどんアレルギーの子どもって増えていくのかなぁ?

ノンちゃんはかなり育てやすい。
グズって泣くとすれば、お腹がすいた時、眠たい時、自我が通らない時くらいで、今の所、夜泣きらしい夜泣きもしない。
気分転換させることも容易だし、家族には誰にでもなつくから手こずることもない。
可愛がられるツボが分かっているのか、顔を傾けて「パ~パ」「マ~マ」とニッコリしながら呼んでくれ、抱っこすればほっぺにチュウの大サービス。
私たち家族は目尻垂れっぱなしである。
育児ってこんなに楽しいものだっけ?
…というよりも、第2子にして初めて「人並みの育児」ができているような気がする。

そうそう、アトピーをお持ちの方々に朗報です!「ステロイドくらい効果があって副作用なし」の薬がようやく日本でも認可され、病院でもうすぐ入手できるようになるそうです。
私もかなり期待しております。

……………


「シュタイナーの異色母」2003/06/15

マザーハウスの手仕事に参加していると、その場の柔らかい雰囲気にうっとりしてしまう。
時間がゆっくり流れ、フワフワした居心地の良い空気。
「ずーっとここに居たいなぁ…」と毎回思う。

シュタイナー教育に興味を持たれる方々は、何か秀でるものをお持ちで、例えば自然食を実践しているとか、東洋医学に詳しいとか、昔教師をしていたetc…話していて新鮮!感動!共感の連続。
そうでなかったとしても、皆さん、ただそこに居るだけで癒してくれるようなムードメーカーには違いない。
こんな素敵な方々との出会いがあっただけでもシュタイナーを知った甲斐があったというものだ。

そこでたった1人、その場の柔らかい雰囲気をかき乱す存在がいたとしたら、それは間違いなく私なのだった。
(調子に乗ってくるとついつい本性が…。)
友達には「ケーコだけ、異色だよね」と指摘されているのじゃ。
ははは。

前にも書いたように、子どもを持つまでの私はかなりの遊び人で、今の生活とは対極の人種だった。
ヒステリックグラマーのハレンチなド派手Tシャツにラバーソールを履くようなバンド狂の高校生時代(15年程前)を送り、趣味はライブをすること、お洒落すること、深夜番組を見て長電話することだった。
地べたに座り込んでは爆笑していた。
当時「今時の若者はなっとらんっ!」と憤っていた方々がいらっしゃったら、私がその「今時」の張本人です。
更には「うちの子にはこんな風に育ってもらいたくないわ」と悪い見本のような若者だったかもしれない。
(父ちゃん、母ちゃんゴメンよ)

短大時代もロカビリーナイトで夜な夜な踊って、始発までをデニーズで過ごすような生活が何よりの楽しみだった。
(親には内緒でね!)
 

…となると、どうやら妊娠した辺りから大きく生活スタイルが変わったということらしい。
幼稚園ママさんに「中根さん、雰囲気良いですよね」と言われることもあるが、それは、園の子どもたちが可愛すぎるのと、友達と一緒にいる幸せ絶頂なウサコに怒ることがないだけであって、「いえいえ、鬼ババだし、毒舌ですよ」とボロが出ないうちに暴露して回っている。

今こうして自分だけの楽しみを排除して子どもと向き合えるのは、10代に十分遊びを楽しんだからだと思っているの。
お洒落も音楽も夜遊びも恋愛もすっかりやり尽くしてしまった感じ。

だから今はただ、子どもとの生活を有意義にしたい。
子どもに良いと思うことがあれば優先してやりたいし、少なくとも7才までは、有害なものをできる限り排除してあげたいと思っている。

で、この先、我が娘たちに恋人ができて、バンドを組んで、夜遊びの魅力に取りつかれ、ジャンクフードやスナック菓子にのめり込む時代が来ても、基盤さえしっかりしていればきっとそれは一時期のことだから、どしどし応援して、いろんな経験をさせてやりたいと思う。
(周囲はニコチン大魔王だったのに、私が一度もタバコを手にしたことがないのは健康オタクだった母のおかげだと思ってる。)

結婚後や出産後に「遊びデビュー」してしまわないように、独身時代には少々ハメを外すことは必要だと思っている。
少々の毒も人生のスパイスとして大いに役立つことだろう。

その時が来たら…子ども一緒に私も楽しも~っと。

………………


「正義感の落とし穴?」2003/06/26

私たち夫婦のまるで違う気質の中で、取り立てて正反対なことの一つに「ストレス発散法」がある。
私の場合、信頼できる友達やだんなにとにかく愚痴ってうっぷんをはらす。
「もう、聞いてよ~」とまくしたてて「よしよし」してもらうとスッキリし「あぁ、私には味方がいっぱいだわ。」なんて安心感をもらう。

一方、だんなは悪口も仕事の愚痴も全く言わない人。
「仕事や人間関係で辛いことがあったら何でも話してね」と私の方はいつも受け入れ体制万全なのだが、なんせ当のご本人が何も話さない。
ある時ふいに寂しくなって「私じゃ、頼りにならない?」と聞いたら、なんと彼の場合は不満を口に出さずに「忘れる」ことが一番なんだそうだ。
(確かに、口に出さなければぼんやりと感じていただけの不満が、口に出した途端に確定してしまうこともあるよね…)

こういうストレス消去法があるということを私はだんなに出会うまで知らなかった。
今までの人生でもいたであろう、こういう人の「本当は言いたくない」ことを聞き出しては慰めるというお節介を、きっと私は今までいっぱいしてきたんだろうなぁ(反省)。

子どもがこれから悩みを抱える年頃になっても、せんさくしては助言することだけが愛の形ではないことを、今のうちから肝に命じておこう。
(時にはそっとしておくことも必要よね)

私は3人姉妹の末っ子だけど、小学生の頃から学級委員や児童会、生徒会などの任務を歴任してきただけに、どこか長女チックな責任感と正義感の固まりのようなところがあって、悩みのある子がいればすっ飛んでいっては話を聞き、転校生でも来た日にゃ「私が世話しないで誰がする」といった具合にあれこれ面倒をみていた。(地元人間の私は今でも懲りずに、公園に「新顔」が現われれば『お子さんはおいくつなの?』と飛んで行っては話し掛けてます)

「独りぼっちだった時、話し掛けてきてくれて嬉しかった」と忘れた頃に言われたこともあるので全てが間違いだったとは思っていないが、この「お節介」な性格が裏目に出て散々な目にあった経験も、親切心があだになって傷付くこともたまにはあって、母に「損な性格だね」と苦笑されています。

一番の大きな事件は、小学校6年生の頃、私は中学生のお姉ちゃんたち(不良)に可愛がられていて「中学生になったらケーコのこと守ってあげるから安心しな」と言われていたのだが、いつしか「○○を呼び出して来て。気に食わんから」と使われるようになった。
まさか友達を裏切るわけにはいかず「来いと言われても行ったらダメだよ。いじめられるから。」と同級生をかばっていたら、今度は私に火の粉が降り注いでしまった。
私の行為は裏切りと見なされ、次は私がターゲットとなってしまったのだ。
結局、私は地元の中学校には行けれなくなり、おばあちゃんの家から田舎の中学校に通うことになった。

当の本人(私)はしばしその過去を忘れているし、「中学校時代、楽しかったなぁ」なんて良い思い出しか残っていないけど、この時は小中学校、教育委員会を巻き込む大問題となり、たかだか12才にして下宿するハメになったのだから、家族としては笑い話では済まされない程の大事件だったらしい。
(今、自分が親の立場になって初めて、その気苦労が分かるわ)
だから母はこんな経験からウサコがあまりにも真面目であることに危機感を感じている。

公園に遊びに行けばゴミを拾って「こんな所にゴミ捨てたらダメだよね。お家に持って帰って捨てよう」と言う。友達が遊びに来れば「おやつの前には手洗いとうがいをしなきゃダメだよ」と言い、友達がご飯を残せば「食べ物を粗末にすると神さまが悲しむよ」と言う。
マナーやルールを守れない子がいたら注意する。
先日は「AちゃんがMちゃんにいじわるしてたから『そんなことしたら可哀想でしょ。お友達には優しくしてあげなきゃ』って言ったら、うーちゃんが叩かれて泣いちゃったの」と言っていた。
「これこそが努力の賜物だわ」と嬉しくて「まぁ、優しかったんだね。お友達喜んだでしょ」と私は言ったが、母は私に「あんたを見てるみたいで将来が心配。」と嘆く。
 

この先、いじめ問題が出てきたときに、加担することはもちろん、「黙認することも罪」だと私は思っているのだけど、いとも簡単に鉾先が自分に向いてしまうと言われる現代の「いじめ」にどう対処させたらいいのか悩むところである。

………………


「どこまでシュタイナー教育?」2003/06/30

ヴァルドルフ人形にチャレンジしたいと思い始めて、最近、人形づくりの講座がないか捜している。
この人形を与えるにはウサコはまだ幼いのだが(小学校入学頃が理想だそうです)お気に入りのくまさんにベビー服を着せたり布おむつをあてて楽しそうに世話をしている姿を見て、少し早いけど着せ替えができる大きめの人形をそろそろ与えてあげたいと思いはじめた。

そこで人に相談をしていると、いろいろなご意見がある。
例えば、日本に出回っているものは日本風に可愛くアレンジされてしまい本質とは少し異なるからあまり適切ではない…とか、A社のものは少し違うのでB社のものが良い…etc。
長年勉強されている方や、本場ドイツで修行されて来た方の中には、こだわりのある方もいらっしゃるようだ。
(そりゃ、そうか)

そして、私はというと、かなり不真面目な「シュタイナー好きママ」だと思う。
勉強会にもほとんど参加していないし、難しい書籍類は読まない(←読めない…が正解)。
子どもの相手もせずに読書にふけらなくても、松井るり子さんととしくらえみさんの本を読むだけで十分理解できるんだもーん。


それに、ヴァルドルフ人形が本場のものと少し違ったとしても、抱きやすい形と重みをしていて、全てが自然素材でできていて、着せ替えができて、その子が想像力をかき立てるような表情をしていて、それを母親が愛情を込めて作る。これだけで十分じゃない?と思ってしまう。

例えば、一般的にはシュタイナー教育ではテレビを見せることを禁止しているが、ルドルフシュタイナー(1861-1925)が生きていた時代にはテレビはなく、彼の残した言葉から察するに「テレビは好ましくない」と解釈される、というだけのこと。
(彼が「キャラクターやテレビ、ビデオ、プラスチックのおもちゃはタブー!」と言っている訳ではないの)

そして彼は教育者には厳しくても、「シュタイナー教の信者になってはいけない」というようなことを言っていたくらいなので実践者には柔軟に対応していたらしい。
だから 「一時、興味があって本を1~2冊借りたんだけど、難しすぎて読めなかった」とか「テレビをやめれなくて諦めた」ような人に出会うと、もったいないなーと思う。

シュタイナー幼稚園の先生がそうであるように、本当は母親は優しい色合いのフワフワのフレアースカートを身につけるのが好ましいそうだ。
子どもの気持ちが不安な時にスカートの裾に巻き付いて甘えられたら、さぞ心が落ち着くだろうと私でも思うけど、何せ私はフレアースカートなど全く似合わないので履いていない。
(体型をカバーするためにいつもブーツカットジーンズのみ)

動物を擬人化している絵本は子どもにふさわしくないそうだが、私は「ぐりとぐら」が大好き。

○×式で「いくつ以上○がないとシュタイナー教育とは言えません」なんていう物差しがある訳ではないし、理想の生活とは程遠くても、テレビが大好きだとしても、「シュタイナー教育って良いよね」と思えることだけでも私は素晴らしいと思ってしまう。
休みの日には家族揃って自然で思いきり遊んでいるような家族がいたら、シュタイナーなんて知らなくてもそれだけで十分という気がする。

「うちは無理」と思わずに、子どもに良いと思うことを少しずつ実践してみるだけでも、少し子どもの目線になって考えてみるだけでも、何かが良い方向に変わるのよね、きっと。


「子どもの健康について」2003/07/05

先日、知り合ったママさんはかなりの節約家で、4歳の子どもにサイズよりも2cmも大きいビニール靴を履かせていた。おやつはベビースターラーメンのような安価のスナック菓子。それなのに、「体にはカルシウムが必要なんだよ」と言ってカルシウム入りジュースを買っているそうで、私にも勧めてくれた。
スナック菓子には大量の「リン」が含まれており多量の「リン」は体内のカルシウムを体外に放出してしまうそうだ。カルシウムの大切さが分かっているならば「カルシウム入りジュース」にお金を使わずに、その分をおやつ代に投じてあげればいいのに…と私は思う。

我が家のエンゲル係数は異常に高い。
大人4人+子ども2人で月の食費は8万円(+酒、だんなの昼食代で2万くらい)。
旬の野菜は母の畑で収穫できるし、調味料から肉、魚介類、おやつに至るまでほとんどの食材を共同購入しており、買い物にはあまり行かない。
家族に安全な食べ物を提供したいことがまず第一だけど、真面目に仕事をしてる日本の農家、酪農家(第一産業)や企業を応援したいことも、私が食費を削れない理由の一つだ。(毎月、苦しいでしゅ…)


子どもの靴についても一言。
「足は第2の心臓」とは良く聞く話だが、特に子ども時代の足づくりには慎重になった方が良いそうだ。
先進国の中には(ドイツだったかな?)服よりも何よりも靴にお金をかけて必ず革でオーダーメイドする国もあるそうだが、それに比べて日本は子どもの靴にまだまだ重点を置いていないという印象を受ける。

子どもにとっての0.5cmは、大人にとって1cm違うのと同じことなのに、今市販されている15cm以上の子ども靴や室内シューズは1cm刻みでしか売られていない。
それは消費者である親のほとんどが「子どもの足はすぐに大きくなるから」という理由で大きめを購入するので、ミリ単位で作る意味はないのだそう。
(靴にうるさい親が増えればメーカーも考えると思うから、今後も訴えていくぞー)


さて、私が少しでも安全な食材をと思うには、一生のうちに体内に入れる毒素の量をできる限り減らしたいという訳がある。
毎日のだんなの昼食(仕事先での外食)や子どもの給食などに入っている添加物は避けられないので、せめて朝晩の家庭の食事だけでも安全性の高いものにしたい。
そして摂取した合成添加物を体外に排出させるための食品を多く取りたい。


食に関して無頓着な人はよく「少しは免疫をつけた方が良い」と言うが、 大人なら平気な量である有害物質も幼い子どもにとっては毒性が強く、子どもこそ添加物は避けるべきなのに「免疫をつくる」という解釈はどうやって生まれたのだろうか?謎である。

まぁ、それは良いとしても、こういう「食にアバウト」な人ほど健康食品やらサプリメントを飲んでいたりするのだ。
安全性の不明な安価なものを食べそれによって不調が生じた体を、栄養補助食品で補うって少し違うんじゃないかな?と思ってしまう。
病気の原因は食べ物だけではないけれど、生きる上で一番大事なことはやっぱり毎日の食事だと思う。


農家の方の中には、市場に出す農薬たっぷりの野菜と家庭で食べる野菜は別々に作っている方もいるらしいが、市場に出す野菜を「農薬たっぷり」にさせているのは私たち消費者なのよね。
曲がったきゅうりや虫食い野菜を嫌う結果、農家の方たちは「見た目に美しい」食べ物を作らざるを得なくなり、必要以上の農薬や化学肥料、遺伝子組換に頼る。
消費者のわがままや食に関する無知と無関心が生態系のバランスを崩す。
だから私は、地球に優しい農業をしている方たちを応援したい。

政治家を選ぶのと同じように、1つのトマトをとっても、それが輸入なのか、ハウス栽培なのか、露地栽培なのか、無農薬なのか、あなたはどれに投票しますか?と問われている気がする。
物を選びお金を支払うということは、農家や企業に対する投資でもあり、エールを送るという意味もあると思う。

少々高価であろうと、私たちがきちんと考えて商品選びをしていかないと地球が大変なことになってしまいそう。

小さい子どもを持つ親御さんにどうしても伝えたいことを2つ。
1つ目は紫外線対策。大きな帽子をかぶりUVケアをバッチリしている母の傍らで、炎天下にかかわらず帽子をかぶっていない子どもをよく見かけるが、子どもこそ万全なUVケアが必要なのだ。
新陳代謝が激しい子ども時代は、細胞が新しく生まれ変わるサイクルが早く、その時に有害な紫外線を大量に浴びると遺伝子に傷が付き、皮膚ガンなどになりやすくなるそうだ。
本当は、夏場でも長袖&長ズボンを身につけさせ、最も紫外線の強い午前10時から午後2時までは外出しないことが望ましいそうだがこれは少し難しいので、せめてUVクリームを塗り(←うちの長女はアトピーなので無理)、きちんと帽子をかぶせることが必要なのだ。


2つ目は電磁波対策。
2002年4月25日の日記で、電子レンジのことを載せたが(結果報告しなくてゴメンなさい)、これを期に我が家では電子レンジの出番はほとんど無くなった。
例えば「蒸し器」は食品に熱と水分を与えることによって温める方法だが、「電子レンジ」は食品内の酸素を放出して温める。で、その食品は極度の酸欠状態となるので、その食品を食べると体内にあるべき酸素が奪われてしまうそうだ。
その結果、体内の細胞バランスが崩れて、病気やガンなどにかかりやすくなるらしい。
(あ~、こわっ)

突然の来客時などにやむを得ず使う以外は、安易に子どもの食事に電子レンジを使うことは避けた方が良さそうですぞ。


「ゲームという代物」2003/07/15

私は昔からゲームに興味がない。
家でゲームをすることは「時間がもったいない」と思っていたし、個々(または少人数)の世界に没頭してしまうゲームをわざわざ友達と集まった時にするなんてつまらないと思っていた。
そう、私の人生において、ゲームは「必要無いもの」。
(だんなも同意見)
だから時折ウサコに「ゲーム買ってよ」と言われても、「買わないよ。欲しいなら大きくなってから自分で買いなね」と言っている。

さて、タレントの「ちはる」好きな友達が、「ちはるの本を読んでると、ケーコとどうしてもダブるんだよね。お願い、読んでみて」とあまりにも言うので、最近、「love home」と「loving children」(主婦と生活社)を図書館で借りて読んでみた。
お洒落な写真で構成されている「love home」は、インテリアのヒントがいっぱい詰まっていて、家を建てる前に出会っておきたかった1冊だ。そのセンスは 私なんかは到底およばないから、友達の言うところの「似てる」は、きっと『こだわり』さ加減なのかも。

確かに、私たちが新居の準備をしていた頃(約10年前)はネットでのお買い物も定着していなかったし、通販の質も良くなかったから、スプーンを捜すためだけに1日費やしたり、納得いく「お玉」を求めてはるばる東京まで出向いたりと「そこまでこだわるか?」という買い物の仕方をしていた。
家を建てる時に主張しすぎて施行主を困らせたのも、ちはるとの共通点かもしれない(笑)。

「loving children」も、誰もが「子どもが欲しい~」と唸ってしまうだろう、お洒落な子ども達がいっぱい載っている。こんな子どもを連れていたらそれだけで注目を浴びるような完璧なファッション。
(一方、うちのウサコはと言うと、私の好みの服は全く着てくれず、後ろ姿に『これは母の好みではありません』とお札をつけておきたいくらい格好がチグハグ。「ウサコの『ウ』はうんちの『ウ』!ギャハハハ~~~」といつも下ネタでウケているようなお洒落の欠片もない4歳児だす)

ちはるって、ちゃんと考えてる人だったのね。シュタイナー的ではないけれど、子どもときちんと向き合ってる、育児を楽しんでる人だった。
たまにはちょっと違う視点から見て、おススメ本のコーナーにでも入れてみようかな?と思った矢先、ふに落ちないページを発見。

「いいゲームはいい映画を観たりいい音楽を聴いたりした時と変わらぬ感動があります」と子どもに対してもゲームを推進している。
ちはる本人も徹夜で新作に挑むほどのゲーマーらしい。
「いいゲーム」とやらを知らない私がこのページを批判するのは不条理かもしれないけど、そういう問題じゃなくて、子どもが瞬きもおろそかに画面に長時間釘付けになることがゲームの最も有害な理由だと思うんだけどなぁ。
(詳しくは「ゲーム脳の恐怖(森昭雄 著)」をお読み下さい。
参照にできるページを発見→http://www.nhk-book.co.jp/seikatujin/02_07/intrview.html) 
しかもゲームを禁止にする親に否定的な文面では、なんだか自分が言われているような気がして憤りすら感じてしまった。

そこで、尊敬する育児の大先輩(3人)にゲームについて聞いてみた。
この人たちなら「ゲームなんて必要無い」と言ってくれるに違いない。

ところが…

Aさん「うちは年長の時に買ったよ。これからも普通の公立の学校で生活していくんだから、少しは悪の世界も知っておいた方が良いと思って。一通りやらせる予定」

Bさん「本当は買いたくなかったけど、友達の家に頻繁にゲームをしに行くようになって、3年生の時にやむを得ず買った」

Cさん「友達にゲームボーイを借りてばかり来るから、買わざるを得なくなった感じ。3年になってから」

ショック…。
購入率100%じゃないの…。

今の所、「うちは買わない!」と断固決めているけど、小学生にでもなればそうもいかなくなるのかなぁ、とだんだん自信が揺らいできた。
この先もずっと「こだわり」と「妥協」の線引きに頭を抱えていくことになりそうである。




「地域で子育て」2003/07/31

私とシュタイナーとの出会いは、当時、私が経営していた子ども服屋にKさんがお客さんとして訪れたことがきっかけだった。
彼女はその頃、まだ開園してまもない「マザーハウス」を広める為に自分の足で各地域をまわりパンフレットを配っていた。
話に共感できてもKさんがマザーハウスのスタッフではなく「ただの一父兄」でありながら大変な労力を使っていること、「マザーハウス」は先生以外、全てボランティアで構成されていることが私の最初の疑問だった。


街角の得体の知れない募金団体に不信感をもっていたし(子どもが疑いを持たずにお小遣いを募金している姿を見ると心が傷むの)、「お庭のお花、きれいですね」「素敵なお家ですね、輸入住宅ですか?」から導入してくる類いの宗教の勧誘にうんざりしている矢先だったので、今回も宗教の一種なんじゃないか?と当初は疑っていた。

そうでもない限り、自分に利益のないことにここまで時間と労力とお金を費やすだろうか?
私は、家族や親類、友達といった身近な人以外の為に無償の奉仕などできない人間だったのかもしれない。
家族と友達が幸せならばそれでいい、ボランティアは経済的に裕福な人がするものと心のどこかで思っていた。


そんな私も、Kさんとの出会い、マザーハウス、シュタイナー教育を知ることによって考えが変わっていった。
「労働は他者のためになされる」という「友愛の精神」こそがシュタイナーの基本理念であると解釈している
が、 そうであれば、Kさんがマザーハウスのためにしていたことも、ボランティアさんがマザーハウスに携わることも、全ては自分の喜びのためなのだと気付いた。
他の人のために奉仕することの喜びを知リ、利益を最優先させることを望まなくなった時、私の心も豊かになっていった気がする。


悪阻がひどく、家事も育児もできる状態ではない時に、遠路はるばる食材を持って家事と育児をしにやって来てくれた友達。
人手が足りない時に二つ返事で飛んできてくれる友達。
遠くに住んでいてもいつも気にかけてくれている友達。
年に2回だけの互いの誕生日にだけ連絡を取る友達。

人のつながりって大切だと度々再確認する。
お金ではどうにも解決できないこと(愛情、知恵、労力、励ましetc)もたくさんあるものね。


今までは、何かしてもらったら「すぐにお礼をしなきゃ」と考えてしまっていたけれど、最近は「プレゼントしたいものに出会ったらお礼をしよう」とか「今度、手助けできる時があれば言ってね」とずいぶん甘え上手になったのだ。
(図々しくなったとも言う?)


この4月から所属しているサークル「手作り絵本 あおむしの会」を立ち上げた方にNさんという方がいたそうだ。
残念なことに2年ほど前に若くして病気で亡くなられているのだが、このNさんはたくさんの趣味を持ち、子ども図書室やラジオでの読み語りなど、ボランティアとしても大活躍されたバイタリティ溢れる人だったそうで、本当に多くの方に惜しまれた死だった。
家族はもちろん、友達、地域の人の為に尽くして来られたNさんは、亡くなった今でも人々の心に住み続けている。

「いまだに亡くなったことが信じられなくて。今でも傍にいて、笑顔で話しかけてくれる気がするの」
「明るくて、気さくで、適切な言葉で叱咤激励してくれた」
と誰もが口々に言う。

こんなNさんにお会いしたかった…。
「後悔しないように人生を充実させ、愛する人に多くのものを残したい」
「Nさんのような生き方がしたい」
私の人生設計を決定してしまうほど影響を受けた。


子どもが赤ん坊のうちは、他の家庭との関わりもそうはないから「うちの子がイチバン!」で済んでいるけれど、子どもが友達を必要としてくる頃には、もはや家庭だけで子どもは育たない。
友達に影響されやすくなる小学生にもなればそれを痛感するだろう。
他の多くの家庭に存在するものを「うちだけ買わない」が酷ならば、他の家庭からそれをなくす働きかけをすれば良い。
絵本の好きな子どもを増やしたいのなら、読み語りボランティアをしたり絵本の良さを広めることでそういう風潮を作りたい。
1人で憤っていても仕方がないので、最近は少しづつ行動に移すことにしている。

子どもを育てることに「うちはもう遅い」「ま、いいや」といとも簡単に諦めてしまう親は少なくないけれど、子どもの可能性の芽を摘んでしまうことはとてももったいないよね。

生まれてからたくさんの大人に愛情をもらって育ってきた私たちは親になった今、その恩返しをする時なのかもしれない。
愛するわが子が安心して生活できるように、全ての子どもがいじめや虐待で苦しまないように、地域ぐるみでの育児が必要じゃないかな。


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