バンビの独り言

バンビことけーちんの、あくまでも「独り言」デス☆

プレーリーダー ガクちゃんの「気仙沼☆遊び場あそびーばー」報告会

2011-10-16 23:10:49 | プレーパーク
震災後、「日本冒険遊び場づくり協会http://www.ipa-japan.org/asobiba/」が、SVA(シャンティー国際ボランティア会)と共に、気仙沼に「遊び場あそびーばー」をつくりました。



ここに、我がプレーリーダーのガクちゃんも、4月、7月、8月…合計1ヶ月間、気仙沼に行ってきました。

その報告会が、「とよたプレーパークの会」世話人対象でありました~。
とっても素晴らしい報告会だったので共有しませう。

ガクちゃん。


3.11の津波でグチャグチャに。
今でも、現地にいくと、道路にスプレーで「人がいる」「水がない」と書いてある。
歩道にはガレキが山積み。
自衛隊がお風呂に入れるように準備してくれたけど、そこまでたどり着けない状況だった。

震災後、子どもの遊び、心のケアはどうしても後回しになってしまう。
でも、だからこそ、冒険遊び場づくり協会は動いた!

しかし、
「一体どこに造るの?」
「一カ所作っても意味ないんじゃないか?」
「『遊びキャラバン』で各地に慰問方式にした方がいいのか?」
試行錯誤は続いた。

「気仙沼あそびーばー」の場所は、「ここを使ってくれ」と地域の人が言ってくれ、山切り開いてできたところ。

子どもたちは、震災後、どこでも遊べなかった。
普段は「大暴れ」してるようなやんちゃな子も1~2ヶ月はとても良い子だった。

兄弟が異常に仲が良い。
ある姉弟の例。
小5の女の子と、3歳の男の子。
弟はお姉ちゃんとずっと手を繋いでいないと不安だから、
一日中、片時も手を離さない。
3月からの極限状況で、お姉ちゃんは弟の面倒を1日中みている。
(他の兄弟も大なり小なりそう)
お姉ちゃんにもストレスが溜まっていたと思う。
3~5月は兄弟にも影響があった。
が、次に行ったときは、少しだけ、弟は手を離れても平気になっていた。

「あそびーばー」には小さい子も大きい子もいろんな子が来てる。
子どもたちの発案で、いろんな色にしよう、と滑り台を作った。
「ただ友達と喋るだけ」だって楽しい。
火遊び、滑り台、工作、ざりがに取り、鬼ごっこ、かけっこ。
どこにでもある風景。

遊び場ができてから、子どもが「悪ガキ」になってきた。
(徐々に、「本来の姿」になっていった)

「10時オープン」なのに「9時」から子どもが来る。
(ガクちゃんは)子どもに「どれだけ暇だったか分かる?」と言われた。
子どもたちは「そんな生活」を強いられていたのだ。

「あそびーばー」のような場所が必要なところは200~300くらいある。
ここに来る子は良いけれど、他の地域の子たちは何をやっているのだろう?

気仙沼はリアス式海岸で、ギザギザの地形だから、「無傷な家」と「流されてしまった家」…すぐに隣でも差がある。
「隣の家は流された、でも我が家は無傷」
といった状況。
でも、無傷な家でも、水や電気が通ってないのは同じだから、救援物資をもらいに避難所に行く。
そうすると「あそこの家は無傷なのに…」と言われてしまい、無傷の人は避難所に行けない

家がある子は、避難所の子を遊びに呼べない。
「あそこの家は家があってどうだったこうだった」とか
「家があるのに避難物資をもらってたところを見た」とか
今まで友達だったのに、「家がある」とか「ない」とか、
「避難所で暮らしてる」とか「そうでない」とか
大人の事情で遊びにくくなっている。

少なくとも「あそびーばー」は
「家があるとかないとか、親が生きてるかどうかは関係ない」場所にしたかった。

ガクちゃん、最初、気仙沼に行ったとき、大量の支援物資を積んで行った。
行くまでは勘違いしてたが、2~3日で分かって来た。
被災地の人たちは、毎日、支援のおにぎりを食べている。
みんなで作って食べるのはやってもいいけど、ここで菓子パンや服を配りたくない、と思った。
ここの場所は何かをもらえる場所、支援物資がある場所と思われたくない。
配って、「なんで、お前がもらってるんだ」という話になるのもいやだ。

炊き出し、おにぎりを「もらう」の反動なのか
「あそびーばー」で食べ物を作ってる時は、お母さんも子どももイキイキする。
作ると僕らに「食べてくれ」と持って来る。

避難所では「待ってるだけ」の生活。
お母さんたちも「作る」ということがない1ヶ月だった。
「何かを作りたい」のだ。

「工作コーナー」もただ釘を打つだけでも満足してずーっと作ってる子もいる。
「椅子にするんだ」と椅子を作ってる子もいる。
「椅子が流されちゃってないからね」と日常会話の中で、突然「厳しい現実」を知る。

「どこから来たんですか?」の日常会話で
「あの辺に家があったけど今はないんだよね」という会話になる。

信頼関係ができたからこそ「誰かに喋りたい」のだ。
僕らは聞き役でしかない。
仲良くなって子どもが「喋りたい」と思った時に地震の話をポソポソ言い始める。

さすが気仙沼!
「家にあわびがあった」「ふかひれがあった」と持ち寄り、
「海鮮ラーメン作ろうか~」となる!
べっこう飴用に「砂糖持って来てやったぞ」と近所の方がちょくちょく顔を出してくれる。

ただ、水がない。
水がないのは(よその遊び場でも)まぁ、あることだけど
家に帰っても水がない。
ペンキが服につく。
服も支援物資に頼ってるのに、毎日泥だらけで帰る。
「どうしたらいい?」と毎日会議した。

僕らから「泥を投げよう」ということはしなかったけど
「絵の具を使うのはやめよう」という話にはしなかった。
近くの井戸から水を汲んで、洗えるものは洗ってた。

木工コーナーではのこぎりも使う。
学生ボランティアですらのこぎり使ったことない。
学生ボランティアにレクチャーする暇もなく、子どもたちに小さな怪我もけっこうあった。
「両親がいなくて避難所で誰かが世話をしてる」状況な場合もあるだろうに、
「怪我をさせてもいいのか?」と悩んだ。

子どもたちの「作りたい」欲求もあって、(被災地だからこそ)悩む。
いつものプレーパークより、気を使うことは多い。
世田谷や横浜(や他の地)と「被災地」では「止め方」もちょっと変わってくる。

子どもたちは
「冒険遊び場プレーパーク」が欲しかったわけじゃなく
とにかく「遊び場」が欲しかった。
最初から工作とか水がなくても集ってきたとは思う。
(でも、プレパの楽しさ、知っちゃったけどね)

子どもによっては、同じ小学校なのに「2ヶ月ぶりだね」と遊び場で再会することも。
「親戚のうちに引っ越した」とか「親がなくなった」とか、
いろんな状況がある。

「あそびーばーがお母さんたちの居場所にもなって欲しい」という思いはあるけれど
家でやることがたくさんある。
ハローワークに行かなきゃいけなかったり、
祖父母が避難所にいたり…。
「子どもをここに置いて、夕方迎えにくる」といった感じで
お母さんが一緒に来るということは難しかった。

「あそびーばー」には、いろんなところからスタッフが来るから
人はどんどん変わっていく。
「それは子どもたちにとって、どうなんだろう?」
いろんなところから、いろんな人が慰問に来るから
「どうせすぐ帰るんだろう?」と言われたこともある。

校庭にプールはない。
小学生の高学年の男子女子が泥だらけのプールで遊ぶ。
「汚ね~」っていう状況なのに、こんなことでしか楽しめないから、
6年生でも泥プールで遊んでいく。
(洗濯問題もあったので、拾ってきた「漬け物樽」で洗ったりした)

(ガクちゃんたちは)みんなでご飯を作り、お寺で泊まっていた
近所のおじちゃんおばちゃんたちも「ゆっくりくつろげる場所が欲しい」、
「支援物資が足りないんだよ」という話が出る。
5時半に避難所に行き、炊き出しボランティアに行くと
「あんた、遊び場の人かん」と言われたり
遊び場では話さないことを、避難所で聞くことができて良かった。

地域と繋がれて良かった。

支援やお金も必要だけど、被災地でのことを「いろんな人に伝えて欲しい」と言っていた。

あるTシャツを来ている方に、「趣味、一緒ですね」と言ったら
「これは支援物資で…」という返事だった。
3.11までは、この子たちも、お母さんたちも、僕らと同じ文化圏で生きていた。
今はTシャツにジャージ姿のお母さんも、こだわりの服を来てた人もいたんだろう。
手作りが好きだった人もいただろう。
そんな、僕らと変わらない文化圏の人たちが、極限状態になってる。
ニュースではあまり言われていないが、
10月の時点で「完全に復活してない」状況。

このままだと忘れられてしまう…
「それが悲しい」
と被災地の方は言っている。

「11日」の日、「あそびーばー」では黙祷をしなかった。
でも、黙祷をしなくて良かった
この日、遊び場に来た人(子ども10人+大人3人)
他のところに行くのが嫌でここに来た。
「思い出したくない」ことがあるから、遊び場に来た。

「黙祷」をせずに、いつも通りの風景。
「ここに来れば誰かがいる」から遊びにいきたいと思う場所。
こういう場所がとても必要だと感じた。
ニーズがなくなるまで続けていくべきだと思う。
一時だけで「はい、終わり」は避けたい。
ずっと残したい。
そのためには現地で世話人さんが生まれるといい。
けれど…みんな、自分たちの生活でもいっぱいいっぱい。

「子どもには自分で癒す力がある」

津波ごっこ…
地震ごっこ…。
阪神大震災の時、「地震ごっこ」は子どもたちの間でよく見られた。

余震があっても、子どもたちは「大したことねー」と言っている。
津波の方がショックだったから、「津波ごっこ」は気軽に出て来たわけではなく
徐々に遊び出した。
大きな滑り台で
滑り台の上から流れる水役の子がいて、波で流される人の役がある。
率先してやることもしなかったけど
「不謹慎だからやめなさい」とは言わなかった。

大人はお酒の場で「おまえには分からんだろう」と話して発散することができるけれど
子どもは「遊びで発散」する。
もちろん、こういう遊びで「すっきりする子」と「そうでない子」もいる。
「津波みたいで怖い」という子が存在することもある。
怖がってる子の方にも目を向けないといけない。
その場合、怖がる子は同じ空間に居ないようにした。

8月の終わり、
子どもたちが「また明日ね~」と帰っていく中で
誰かがポロッと「絶対死ぬなよ」と言った。
「明日は生きてるか分からない」感覚。
愛知の大人にも、子どもにもない感覚。
「3.11」の前と後では、全く変わってしまった感覚。
「今日の続きが明日とは限らない」
「今日出来たことが明日できるとは限らない」

それ事態は悪いことではないけど、
東北の小学生が「そういう意識を持った」ということは大きい。

避難所のおじちゃんに
「今度、津波が来たらどこに逃げればいいですか?」
と聞いたら
「また来るかもしれないぞ。もう一回来たら終わりだ。怖ければ帰った方がいいぞ」と言われた。

7月、七夕の短冊飾りで「お父さんに会えますように」と書いた男の子。
父親が亡くなったことを隠していたのに、短冊に書いたことがバレてしまった。
友達に知られたら、破って捨てた。

避難所で3~4ヶ月も経てばケンカにもなる。
ただ、気仙沼は田舎だから「コミュニティ」が残ってる。
だからこそ、避難所生活での「問題」が少しで済んだのだろう。

子どもを中心とした「遊び場」が大人のコミュニティになる。
親子から近所の人へと繋がって行くことが、有事の際には助けになる。


…………………………

がくちゃんのお話を聴いて思ったこと。

私たちはつい「◯◯してあげたい」と思ってしまうけど、この「してあげる」という行為が本当の支援に繋がらない場合があること。

子どもの「遊び」は後回しになってしまって、今でも多くの子どもたちが「我慢」や「おりこう」を強いられていること。

被災地でなくても、子どもの足で行けるところに「遊び場」が必要なこと。


「日本冒険遊び場づくり協会」と「SVA」、そこに関わっている多くの人と、義援金を贈ってくれた方たちに感謝します。

「被災地復興支援活動継続延長のお知らせ」
http://www.ipa-japan.org/asobiba/modules/news/

【東日本大震災の被災地における子どもの遊び場づくり支援のための募金のお願い】
http://www.ipa-japan.org/asobiba/modules/news/article.php?storyid=284

ご賛同くださったらご支援お願いします!

<口座名義:特定非営利活動法人 日本冒険遊び場づくり協会>
・郵便振替口座 00130-9-149441
・ゆうちょ銀行 世田谷支店(〇一九店)当座0149441(銀行やインターネットからの振込も可能です)
※【震災支援募金】と通信欄に明記のこと。

「日本冒険遊び場づくり協会」の復興支援活動のブログはこちら
http://www.playpark.jp/asobibasien/

…………

そして、ガクちゃんの報告会が、1/28(土)にあります!

「遊びが子どもをいやす•被災地から見えてきた本当に大切なこと」

2012.1/28(土)10時半~15時半
①気仙沼で遊び場づくりに携わっているプレーリーダーの講演会
②座談会

とよた市民活動センター(直接会場に)

参加費300円

主催・とよたプレーパークの会090-6075-9590

ぜひ♡

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