一昨日金曜は、相方が午後4時から始まる加山雄三さんのラストコンサートを友人と観に出かけて、晩ごはんは私ひとりきり。
こういうときこそ、思いっきり手を抜き、かつ好きなものを食べようじゃないか、ということでアピタでパック詰めのお寿司を買ってきました。税抜666円のチープな夕餉。
洗い物だって出来る限り減らしたいので、お醤油をつける小皿と箸は使ったけれど、写真のとおりお寿司はパックにのせたまま。
こうした出来合いのものを食卓にのせるとき、パックのままでは味気ないから器に移し替えて食べる、という意見と、このお寿司のように手間を省きたいのだからパックのままでOK、
という両方の意見があると思います。
どっちも間違っていない、と私は思っていて、そのときどきに応じてやればいいのではないでしょうか。
私も畑とかバイトから帰って、慌ただしく料理の支度をすることがありますが、少しでもいいからラクがしたいと思いますもん。
ただ、今回みたいにお寿司が食べたい!と決まっているときはまだいいんですが、何が食べたいか決まっていないときに買いに出かけると、かえって時間の無駄になってしまうことも
あるんです。そんななら材料がありさえれば作ったほうがまし。
それに、体調が悪いときなんかは無理しないのが一番。そんなときは堂々と出来合いのお惣菜をパックのままでどーん!といってみよう。
一方で、パックのままだとさすがに味気なく感じるときもありますわ。特に何らかの理由でそんな食事が続くと、器に移し替えれば少しは気持ちが安らぐと言いますか。
それなりに理由があってもなくても、それほど重要な問題ではないです。個々のとらえようで、自分がよし、と思えればそれで。
仮に家族からクレームが出たりすると、対処の仕方には工夫がいるかもしれませんね。我が家の場合、相方は食事関係は何も手伝わない、かつ出来ない人なのでクレームはまず考えられません。
そんな些細なことでも、見方やとらえ方で意見が分かれて、時にはもめ事の種にも。どっちの言い分にもそれなりの理はあるのなら、それは認め合わないとね。
パック総菜ではありませんが、私が好きでよく見る日記や手帳についての本に出てくる人の中に、「いいことしか書かない」という人と「モヤモヤも全部吐き出す」タイプの人と両方
いますね。
前者は手帳や日記を楽しいことだけで埋め尽くしたいとか、嫌なこともほとんど自分に原因があるし、そこで反省して終わりなので、などというご意見。
片や後者は、嫌な気持ちを書き出してすっきりしたいとか、自分が行き詰ったときに、前も同じようなことがあったときどうしたか、どう立ち直ったかがわかって、過去の自分に
励まされるから、などとありました。
これなんかも、どっちもあり、だなと思います。私は後者ですけど。
特に昔は義父簿のことで腹が立つことなどあると書いていましたね。仮に誰かに見られても、悪筆なのでほぼ読めないと思います。きれいに書いたり描いたりする日記にもすごーく
憧れているけれど、気持ちを表す場合にはもしもの時のことも考えておかないと、読まれたら恥ずかしいもの。
こんなふうに、どっちでもいいじゃん、なこともあるけれど、ものの言いようで印象がよくなったり悪くなったりすることに関しては、悪くなるほうは避けたい。
例えば、うちの娘や孫娘がまだ1歳過ぎくらいのときまでは、髪も細くて少なくて、おまけに顔だちもなんだかBoyっぽかったものだから、よく「男の子?」と言われました。
親の側からしたらわかっちゃいるけれど、なんだかかわいくないと言われたような気がして、あまり愉快ではなかったものです。
なので今そういう小さいお子さんで、着ているものでも判断がつきにくいときには「女の子?」ときくようにしているんです。最近はコロナ禍であまりそういうこともないのですが、
仮に男の子だったとしても「あら~、あんまりかわいかったから女の子かと思っちゃった」と言えば角が立たない・・・と思うのは私だけかな?
そして、
「気難しそうな人だったけれど、話してみたら面白い人だった」
「面白い話をする人だったけれど、顔は気難しそうだった」
同じ人を説明するときに、前者のほうが印象がいいと思いません?英語で言えばbutの後に続く文章で、全体の印象が決まるような気がします。ものは言いよう、ですね。
そういえば先月、ヨシタケシンスケさんの「ものは言いよう」という本を買いました。もう面白くて・・・病院の待ち時間などで読むと、笑いをこらえるのが大変。マスクをしているので
なんとか胡麻化せますが、体が震えるほど笑えたときはどうしようかと思います。
ただ、大きな方なのに書き文字やイラストが小さくて!老眼泣かせなんですよ。なのでまだ100%読んだと言えないところがあります。次に読むときは拡大鏡必須です。