曇った朝、勤め先の某商事会社へ行くつもりで、交差路に立っていた檜(ひ)井(い)二郎は、にわかに気持ちが変わった。
丁度来た逆方向のバスに乗り、いい加減のところで降りて、出鱈目の路をあちこち曲って歩いていると、不意に眺望が拓(ひら)けた。眼下には石膏(せっこう)色(いろ)の市街が拡がって、そのなかを昆虫の触角のようにポールを斜めにつき出して、古風な電車がのろのろ動いていた。
彼はぶらぶら歩いて . . . 本文を読む
初めの間は私は私の家の主人公が狂人ではないのかとときどき思った。観察しているとまだ三つにもならない彼の子供が彼を嫌がるからと云って、親父を嫌がる法があるかと云って怒っている。畳の上をよちよち歩いているその子供がばったり倒れると、いきなり自分の細君を殴りつけながらお前が番をしていて子供を倒すと云うことがあるかと云う。見ているとなるで喜劇だが本人がそれで正気だから、反対にこれは狂人ではないのかと思うの . . . 本文を読む
行介(コースケ)はいつもの停留所でおりた。おりるとき、帽子に手をやらなくてはならないほど、風が強かった。
彼は赤っ茶けた風に押されて、歩いて行った。ときどき、紙くずや、こっぱなぞが、トンボがえりをしながら、彼のズボンのあいだをすりぬけて、ころがって行った。
行介はオーバーのえりを立てていたけれども、それでも、カラーの下まで、つめたい空気が流れこんできた。そのうえ、どうかすると、クギでも投げつ . . . 本文を読む
【「雁」 森鴎外】
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。どうして年をはっきり覚えているかと云うと、其頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった。上条(かみじょう)と云う下宿屋に、此話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人であった。その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えている . . . 本文を読む
赤座は年中裸で磧(かわら)で暮らした。
人夫頭である関係から冬でも川場に出張っていて、小屋掛けの中で秩父の山が見えなくなるまで仕事をした。まん中に石でへり取った炉をこしらえ、焚火で、寒の内は旨い鮒の味噌汁をつくった。春になると、からだに朱の線をひいた石班魚(うぐい)をひと網打って、それを蛇籠じゃ(かご)の残り竹の串に刺してじいじい炙った。お腹は子を持って揆ちきれそうな奴を、赤座は骨ごと舐(しゃ . . . 本文を読む
彼は大学を卒業する少し前に、親友からある女を妻に持たないかと勧められた。
彼は始めそう乗気になれなかった。しかし好奇心は動いた。写真だけ見てもいゝと思った。友は次ぎの日写真を持って来た。面長で背がすらっとして中肉中背の品のいい何処か淋しい顔をした女だった。彼はわるくないと思った。彼はその晩いろいろの空想をした。
彼はまだ女を知らなかった。女に憧れている方だった。彼は若い時に両親を失っていた。 . . . 本文を読む
伸子は両手を後にまわし、半分開け放した窓枠によりかかりながら室内の光景を眺めていた。
部屋の中央に長方形の大テーブルがあった。シャンデリアの明りが、そのテーブルの上に散らかっている書類――タイプライタアの紫インクがぼやけた乱暴な厚い綴込、隅を止めたピンがキラキラ光る何かの覚え書――の雑然とした堆積と、それらを挟んで相対し熱心に読み合せをしている二人の男とをくっきり照して、鼠色の絨毯(じゅうたん . . . 本文を読む
【「潮騒」 三島由紀夫】
歌島は人口千四百、周囲一里に充たない小島である。
歌島に眺めのもっとも美しい場所が二つある。一つは島の頂きちかく、北西にむかって建てられた八代神社である。
ここからは、島がその湾口(わんこう)に位いしている伊勢海の周辺が隈なく見える。北には知多半島が迫り、東から北へ渥美半島が延びている。西には宇治山田から津の四日市にいたる海岸線が隠見している。
二百段の石段を昇っ . . . 本文を読む
死があたかも一つの季節を開いたかのようだった。
死人の家への道には、自動車の混雑が次第に増加して行った。そしてそれは、その道幅が狭いために、各各の車は動いている間よりも、停止している間の方が長いくらいにまでなっていた。
それは三月だった。空気はまだ冷たかったが、もうそんなに呼吸しにくくはなかった。いつのまにか、もの好きに群衆がそれらの自動車を取り囲んで、そのなかの人達をよく見ようとしながら、 . . . 本文を読む
電文は二分おきぐらいに長短いりまじってどしどし流れ込んで来た。
「え――と、と。土井君、タスク・フォースってのは何と訳するのだ」
「前の戦争中はアメリカの海軍用語で、たしか機動部隊と訳したと思いますが……」
「そうか。それじゃ、戦車五台を含むタスク……いや敵機動部隊は、と」
副部長の原口と土井がそんな会話をかわしていた。木垣は『敵』と聞いてびくっとした。敵? 敵とは何か、北朝軍は日本の敵か?
. . . 本文を読む
【「ダイヴィング」 舟橋聖一】
碓氷(うすい)はこの頃めっきり肥えて、女性的に見える肘を立て、のみさしのアイス・ラスベリィのコップの氷 を、ガリガリと匙でつついた。何か言いそうにして、なかなか言い出さない。すると窓を通して、切り込むように光る稲妻が、白いテーブル・クロースの縁をピカリと青く掠めていった。夏の夜の銀座の街には、西の方から雷雨が近づいて来ていた。
「よろしい。それで仕事の内容はまずわ . . . 本文を読む
温度表の上では「奔馬性(はんばせい)」という言葉そのままに、狂った馬が恐しい勢いで地を蹴って奔(はし)って行くような熱の高低が不揃に毎日繰返された。低い谷では三十六度を割っていることもあり、高い峰では三十九度の線をさえ跨(また)いでしまっていることもあった。
小さい病院の一室に、平で安固(あんこ)な一畳の寝場所をやっと得ることができた私は、さきのことはともあれ、今はただ真っしぐらにしばしの忙し . . . 本文を読む
廻れば大門(おおもん)の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝(どぶ)に燈火うつる三階の騒ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行来にはかり知られぬ全盛をうらないて、大音寺前と名は仏くさけれど、さりとは陽気の町と住みたる人の申き、三島神社の角をまがりてより是れぞと見ゆる大厦(いえ)もなく、かたぶく軒端(のきば)の十軒長屋二十軒長 や、商いはかつふつ((まるでの意))利かぬ処とて半(なかば)さしたる雨戸の . . . 本文を読む
十月×日
一尺四方の四角な天窓を眺めて、始めて紫色に澄んだ空を見た。
秋が来たんだ。コック部屋で御飯を食べながら私は遠い田舎の秋をどんなにか恋しく懐しく思った。
秋はいゝな……。
今日も一人の女が来た。マシマロのように白っぽい一寸面白そうな女。厭になってしまう、なぜか人が恋いしい。
そのくせ、どの客の顔も一つの商品に見えて、どの客の顔も疲れている。なんでもいゝ私は雑誌を読む真 . . . 本文を読む
草もなく木もなく実りもなく吹きすさぶ雪風が荒涼として吹き過ぎる。はるか高い丘のあたりは雲にか くれた黒い日に焦げ、暗く輝く地平線をつけた大地のところどころに黒い漏斗(ろうと)形の穴がぽつりぽつりと開いている。その穴の口のあたりは生命の過度に充ちた唇のような光沢を放ちうずたかい土饅頭(どまんじゅう)の真中に開いているその穴が、繰り返される、鈍重で淫らな触感を待ち受けて、まるで軟体動物に属する生きも . . . 本文を読む