小説の「書き出し」

明治~昭和・平成の作家別書き出し
古典を追加致しました

「落城」 田宮虎彦

2010-03-21 14:10:25 | 作家タ、チ
 慶応四年十月十六日、仙台にあった奥羽追討の西国勢主力について北上の動きがみえた。前日幕府方軍艦捜査を名として石巻より北上した土佐、肥後、津和野三藩連合二枝隊七百の兵と呼応するように、この日辰(たつ)の刻薩摩安芸(あき)二藩連合三百五十、薩摩佐上原二藩連合五百六十の二枝隊が仙台を発ったのである。  黒菅(くろすげ)藩首席藩老山中陸奥(むつ)は、その報(しら)せを黒菅城本丸西溜りの藩老番所で聞いたが . . . 本文を読む

「刺青)」 谷崎潤一郎

2010-03-21 14:01:11 | 作家タ、チ
【「刺青(しせい)」 谷崎潤一郎】 其れはまだ人々が「愚(おろか)」と云う貴い徳を持って居て、世の中が今のように激しく軋(きし)み合わない時分であった。殿様や若旦那の長閑な顔が曇らぬように、御殿女中や華(おい)魁(らん)の笑いの種が尽きぬようにと、饒舌を売るお茶坊主だの幇間(ほうかん)だのと云う職業が、立派に存在して行けた程、世間がのんびりして居た時分であった。女定九朗、女自雷也(じらいや)、女鳴 . . . 本文を読む

「晩年」 太宰治

2010-03-21 13:57:26 | 作家タ、チ
【「晩年」 太宰治】   撰ばれたあることの恍惚と不安と二つわれにあり ヴェルレエス  死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこまれていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていこうと思った。  ノラもまた考えた。廊下へ出てうしろの扉をぱたんとしめたときに考えた。帰ろうかしら。  私がわるいことをしない . . . 本文を読む

「ひかりごけ」 武田泰淳

2010-03-21 13:55:53 | 作家タ、チ
 私が羅臼(らうす)を訪れたのは、散り残ったはま(、、)なし(、、)の紅い花弁と、つやつやと輝く紅いその実の一緒にながめられる、九月なかばのことでした。今まで、はまなし(はまなすと呼ぶのは誤りだそうです)の花も実も見知らなかった私にとり、まことに恵まれた季節でありました。  はまなしの花は五弁であり、花のかたちも、茎のとげも、羽状の複葉も薔薇に似ています。風の荒い北辺の砂地にふさわしい、強靭な枝葉 . . . 本文を読む

「愛と知と悲しみと」 芹沢光治良

2010-03-21 13:52:54 | 作家ス-ソ
 ジャック・ルクリュの家が、郊外の並木路にそった古い二階家であったことは、兄(けい)も知っていられる。二階家といっても、木造のようで四家族住んでいたから、現在の東京の場末のアパートのように粗末なものだ が、ジャック一家はその二階の右側の四部屋を占領していた。  家の前の並木路には、あの頃(1930年前後)、東京の都電そっくりな、古風な郊外電車が走っていた。パリのオルレアン門から四、五十分、停留所か . . . 本文を読む

「深夜の酒宴」 椎名麟三

2010-03-21 13:38:29 | 作家サ、シ
 朝、僕は雨でも降っているような音で眼が覚めるのだ。雨はたしかに大降りなのである。それはスレートの屋根から、朝の鈍い光線を含みながら素早く樋(とい)へすべり落ち、そして樋の破れた端から滝となって大地の石の上に音高く跳ねかえって沫(しぶき)をあげているように感じられる。しかもその水の単調な連続音はいつ果てるともなく続いているのだ。ただこの雨だれの音には どこか空虚なところがある。僕が三十年間経験し親 . . . 本文を読む

「西班牙犬(スペインけん)の家」 佐藤春夫

2010-03-21 13:34:38 | 作家サ、シ
 フラテ(犬の名)は急に駆け出して、蹄鍛冶屋の横に折れて岐路のところで、私を待っている。この犬は非常に賢い犬で、私の年来の友達であるが、私の妻などは勿論大多数の人間などよりよほど賢い、と私は信じて居る。で、いつでも散歩に出る時には、きっとフラテを連れて出る。奴は時々、思いもかけぬようなところへ自分をつれてゆく。で近頃では私は散歩といえば、自分でどこかへ行こうなどと考えずに、この犬の行く方へだまって . . . 本文を読む

「キャラメル工場」 佐多稲子

2010-03-21 13:33:18 | 作家サ、シ
 ひろ子はいつものように弟の寝ている布団の裾をまくり上げた隙間で、朝飯を食べ始めた。あお黒い小さな顔がまだ眠そうに腫れていた。台所では祖母がお釜を前に、明かりにすかすようにして弁当を詰めていた。明けがたの寒さが手を動かしても身体中にしみ た。どこかで朝の支度をする音が時たま聞えた。  ひろ子は眉の間を吊りあげてやけに御飯をふうふう吹いていたが、やがて一膳終るとそそくさと立ち上がった。 「おや御飯は . . . 本文を読む

「五重塔」 幸田露伴

2010-03-21 13:24:11 | 作家ク-コ
 木理(もくめ)美(うるわ)しき槻胴(けやきどう)、縁にはわざと赤樫(あかがし)の用いたる岩畳(がんじょう)作りの長火鉢に対(むか)いて話し敵もなく唯一人、少しは淋しそうに座り居る三十前後の女、男のように立派な眉を何日(いつ)掃(はら)いしか剃ったる痕の青ゝと、見る眼も覚(さ)むべき雨後の山の色をとどめて翠(みどり)の匂い一トしお床(ゆか)しく、鼻筋つんと通り眼尻キリリと上り、洗い髪をぐるぐると酷 . . . 本文を読む

「雪国」 川端康成

2010-03-21 07:15:18 | 作家カ、キ
【「雪国」 川端康成】  国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。  向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。雪の冷気が流れこんだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ呼ぶように、 「駅長さあん、駅長さあん」  明りをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。  もうそんな寒さかと島村は外を眺め . . . 本文を読む

「勲章」 幸田文

2010-03-21 07:07:43 | 作家ク-コ
 身にはまっくろなしきせ縞を纏(まと)っていた。帯は更紗(さらさ)の唐草が薄切れしていた。その帯の腰へ、その着物 の膝へ、楯の如くギブスの如く遮断扉の如く、ぎりっと帆(ほ)前掛(まえかけ)がかかっている。三十四歳、私は新川(しんかわ)の酒問屋の御新(ごしん)様(さま)から、どしんとずり落ちるやとたんにしがない小売問屋の、それも会員組織といえば聞えがいいが謂わばもぐりでしている、常規の店構えさえない . . . 本文を読む

「武蔵野」 国木田独歩

2010-03-21 07:05:39 | 作家ク-コ
「武蔵野の俤(おもかげ)は今纔(わずか)に入間郡に残れり」と自分は文政年間に出来た地図で見た事がある。そして其地図に入間郡「小手指原(こてさしはら)久米川は古戦上なり太平記元弘三年五月十一日源平小手指原にて戦ふ事一日か内に三十余度日暮れは平家三里退て久米川に陣を取る明(あく)れば源氏久米川の陣へ押寄ると載(の)せたるは此辺なるべし」と書込んであるのを読んだ事がある。自分は武蔵野の跡の纔(わずか)に . . . 本文を読む

「地霊」 大佛次郎

2010-03-21 06:58:31 | 作家オ
 平常はそう親しくない間柄でいて、汽車の長旅が、思いがけずうちとけた談話の機会とも成るようなことは我々の経験でも時々起り得る。これは巴里(ぱり)行の急行列車の中のことであった。コロオニュの駅で乗り込んで指定されたコンパートメントに先客と成っておさまっていた人物と顔を会わせるとウラジィミル・エル・ブルツェフは思わず、 「これは」 と叫んだ。  肥満した躯を退屈そうにしていた先方の顔にも緩慢な微笑が . . . 本文を読む

「野火」 大岡昇平

2010-03-21 06:50:40 | 作家オ
                たといわれ死のかげの谷を歩むとも ダビデ  私は頬を打たれた。分隊長は早口に、ほぼ次のようにいった。 「馬鹿やろ。帰れっていわれて黙って帰って来る奴があるか。…病院へ帰れ、座り込むんだよ…略」  私は喋(しゃべ)るにつれ濡れて来る相手の唇を見続けた。致命的な宣告を受けたのは私であるのに、何故彼がこれほど激昂しなければならないかは不明であるが、多分声を高めると共に、感 . . . 本文を読む

「飼育」 大江健三郎

2010-03-21 06:49:30 | 作家オ
 僕と弟は、谷底の仮設葬儀場、灌木の茂みを伐り開いて浅く土を掘りおこしただけの簡潔な火葬場の、脂と灰の臭う柔らかい表面を木片でかきまわしていた。谷底はすでに、夕暮と霧、林に湧く地下水のように冷たい霧におおいつくされていたが、僕たちの住む、谷間へかたむいた山腹の、石を敷きつめた道を囲む小さい村には、葡萄色の光がなだれていた。僕は屈(かが)めていた腰を伸ばし、力のない欠伸が口腔いっぱいにふくらませた。 . . . 本文を読む